艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

「400回目の山」 坪山から大寺山をへて尾名手尾根下降 (2018.4.5)

2018年4月5日 曇りのち晴れ 同行:K

        2.5万図/猪丸・七保 最大標高差:676m 

 

 何回かの延期をへて、前回から二週間以上たった。期が熟したというのか、ようやく山に行く気になった。3月29日、5時起床。朝食を食べ、準備を終り、さあ靴を履こうかという時になって、女房が起き出してきた。ここ最近血圧が上がり、前日に病院に行き、前夜も薬を飲むなどしていたのだが、一睡もできず、頭が痛いという。血圧を測ると205/125。尋常ではない。

 かつて社会人山岳会に在籍していた頃は、パーティー山行である以上、共同装備・食料等の関係もあり、まだケータイ電話もない時代で、ドタキャンということはできなかった。たぶん具合の悪かった家族をおいて山に行ったことも、自分の風邪や体調不良をおして山に行ったことも何度かはあっただろう。しかし、今は情況が違う。この情況ではさすがに山に行くわけにはいかない。中止である。

 午後になって、女房は再度病院に行き、点滴を打ったりして、ようやく落ち着いた。その後数日様子を見ると、根本的な解決はともかく、とりあえずは大丈夫なようだ。やれやれ、一安心である。

 

 しかし、今度はこちらの「気」が上がらない。山に行きたいのだが、行く気になれない。何となく煮詰まって鬱々とした日々。そんな時、かねてから話をしていたKから連絡があった。

 山口県在住の高校山岳部同期の、あいかわらずのマグロ男(マグロは泳ぎ続けていないと死んでしまう―らしい?)Kは、今回は首都圏在住の娘から車をもらいに来て、ついでの旅三昧らしい。こちらの情況を知って遠慮するが、むしろ来て欲しいのは私の方。むろん一緒に山に登るためである。日々何かしら活動し行動し続けるKは、山も今年に入ってすでに8回も登っているとのこと。こうなるとあらためて知るのは、Kが私にとって、強力な外部性、縁、きっかけとして機能するということだ。

 

 前日4月4日夕方、車でやってきた。さっそく一杯飲みつつ、翌日の計画を立てる。坪山に登るのに電車で行く場合、鶴川側からでも葛野川側からでも上野原駅から午前中1本しかないバスを使わなくてはならないのだが、車利用だとその点がどうにでもなる。さらに南秋川の甲武トンネルを使えば、自宅から鶴川沿いは案外と近いのである。せっかく珍しく車を利用するのだからと、かねてから登りたかった坪山を軸に、うまい周回ルート案をひねり出した。

 ふだんから早寝早起きのKに引きずられて、睡眠時間もしっかり確保し、いつもよりゆっくりと自宅をでる。桜、ムラサキツツジその他、百花繚乱、花ざかりの秋川沿いから檜原村南秋川に入り、甲武トンネルを抜ける。

 

 入山地点近くの駐在所に寄って、車を止められる場所を聞いていたら、いつの間にか登山届を出せということになって、その場で書かせられる羽目になった。昨年末の3人が死亡した遭難の影響があるようだ。その現場となった飯尾からの東コースには入るなと言われた。そこは、元々われわれの予定ルートには含まれていないが、あれはあれでちょっと不思議な遭難であった。私は当初、頂上前後の東西に延びる痩せ尾根のどこかでの転落だと思っていたのだが、実際は飯尾登山口からダイレクトに頂上に突きあげる二本ある尾根の、(より険しい)東コースでのことらしい。新聞報道以上に詳しいことはわからないが、滑落が原因にしても三人同時にというのが解せない。全員が70歳以上という年齢のことは確かにあると思う。

 ともあれ、おとなしく登山届を提出し、すぐ先の「びりゅう館」という施設の駐車場に車をデポすし、その脇の道標にしたがって登り始める。

 

 ↓ 「びりゅう館」 この左が登山口

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 ↓ 登り口

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 南に延びる尾根につけられた路はよく踏まれ、歩きやすい。しばらくは植林帯が続き、やがて広葉樹林帯も出てくる。芽吹き始めてはいるが、新緑と言うにはまだ早い。振返れば木の間越しに鶴川沿いの集落が見える。ほどなく896m地点に着いた(10:15)。

 

 ↓ こんな感じ

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 ↓ こんな巨木もありました

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 ↓ 振り返って見降ろす鶴川沿いの集落

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 そこから東西に延びる気持の良い尾根の縦走となる。自然林の割合が増え、ところどころに痩せた部分も出てくる。ミツバツツジ(註.1)の花が出てくる。

(註.1)私はムラサキ(ヤシオ)ツツジではないかと思うのだが、地元のパンフにはミツバツツジとあったのでここではそれにしたがっておく。ちなみにムラサキツツジミツバツツジの違いは、雄蕊の数や葉の数の付きかたなどでわかるそうだが、葉はまだ出ておらず、雄蕊の数のことも帰宅後に知ったことなので、正確なことは保留としておく。写真を載せればよいのだが、お馬鹿なことに写真を撮っていない。より絵になる構図を求めているうちに、ミツバツツジの咲く高度を越えてしまったようだ。上部にはあまりなかった。

 

 ↓ 芽吹きはじめだが新緑にはまだ遠い渋い配色

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 芽吹き前、新緑以前の地味な色彩の樹林帯の中にあって、その鮮やかな淡い紅紫色の花は上品でありながら華やかで、一瞬息を飲むほど美しい。

 毎週のような山歩きで絶好調だというKに遅れ気味ではあるが、自分なりに快適に登っていると、今度は淡黄色の花。私は初めて見る花で、ツツジとも思えるが、葉を見ると「キバナシャクナゲ」という言葉が思い浮かぶ。後ほどやはり地元のパンフを見ればヒカゲツツジとあった(註.2)。

 

 ↓ ヒカゲツツジ 葉を見るとシャクナゲのようだ

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(註.2)帰宅後調べてみると、「シャクナゲに近い形態をしており、ツツジの名が付くが実際は有鱗片シャクナゲに分類されるべきものである(ウィキペディア)」とあった。石楠花と見たのはまんざら見当違いでもなかったのだ。ただしキバナシャクナゲは「日本では北海道から中部地方までの高山帯から亜高山帯上部にかけて自生する高山植物である(同上)」とあるから、やはりヒカゲツツジが正しい。

 

 高度が上がるにしたがってミツバツツジは減り、ヒカゲツツジアセビの花が増えてくる。例によって事前にあまり調べてこなかったのだが、坪山はこのヒカゲツツジカタクリの花の群落によって近年急に人気の出てきた山であるらしい。

 確かに坪山自体は主稜線から外れた支脈上にある目立たないピークである。5万図上の位置としては「五日市」図副の端っこにあり、山名も記されていない。つまり文字通り知られざる不遇の山といった印象だった。確かに2,30年前にはあまり聞かなかったように思う。それがこれらの花のおかげで人気が出て、登山者も増え、結果として前述の遭難という不幸な結果に至ったのは皮肉というか、残念なことである。

 

 ↓ ところどころに痩せ尾根が出てくるが、木々のせいで不安感はない。

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 しっかりした樹々に守られてはいるが、左右ともに深く切れ落ちた痩せ尾根を登り切れば、すぐ先が狭い坪山1102.7mの山頂(11:35)。平日にもかかわらず7,8名の登山者が休んでいる。吾々と同様のリタイヤ組だろうか。ほとんどが飯尾から登って来たのだろう。狭い頂上は展望が良く、目の前には三頭山が大きく鎮座している。

 

 ↓ 一坪の狭さしかないと名付けられた(?)坪山山頂 後ろは三頭山

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 ↓ 右の三頭山から左奥の鶴峠に連なる北側の景観。手前の右はミツバツツジ、その左はアセビ

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 ちなみにこの三頭山でも、写真には写っていない反対側奥多摩湖側のヌカザス尾根で13人の遭難(6人がヘリで搬送)があったのは、つい先日3月21日から22日にかけてのこと。これはあきらかにお粗末な遭難である。三頭山からほど近いわが家でも21日は午前中水分の多いベタ雪。午後から霙、そして雨にかわっていったから、山では最もタチの悪い質の雪であったろうと思われる。その中を登るのは、悪天を承知であえて行くこともありえないことではないが、種々の情報からするとどうもそういうことではないらしい。

 私自身は基本的に新聞・テレビ以外の情報をもたないのであるが、ネット上ではその内の何人かの中国の人について、「一時『中国人観光客』のグループと報道されていましたが、そうではなくて日本人もいるものの、日本在住の中国人の方?同士がネットを通じて集まったグループという事が判明しました。(-奥多摩 三頭山遭難事故の深読み-)」というのがあった(「山旅天空俱楽部 http://blog.livedoor.jp/yamatabi_tenkuclub/archives/22981131.html」)。「㈳日本山岳ガイド協会所属登山ガイドのブログです。」と記しているぐらいだから少し信用したいのだが、典拠は示されていない。したがって、それが本当なのかどうか検証・確認のしようがない。ネット上で知り合った人どうしが当日始めて会って一緒に山に登るという、いわゆる「ネット登山」に関しては、ここでは私自身は信じられないとしか言いようがないのであるが、「日本在住の中国人の方?同士」という狭いネットワークの中ではありうる話かもしれない。そもそも、そういう言説の根拠が示されないまま論を進めていくというのは、限りなくフェイクニュースに近いのではないか。

 坪山の遭難にしても三頭山にしても、いろいろな意見がネット上に出ていたが、それらの多くはほぼ素人の、憶測に基づいた怪しげなものであった。いくつかには悪意に近いものもあった。困ったものである。それにしても13人のパーティー構成はどうなっていたのであろうか。

 

 話を戻す。

 坪山山頂は気持は良いし、ゆっくりしたいところではあるが、人の多い頂上にはなじめない吾々は早々に移動することにした。正直、タバコを吸うのも憚られるのである。これ以降、誰とも会うことはなかった。

 

 ↓ 坪山~佐野峠の間

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 西に向かう尾根は踏み跡もしっかりしており、問題ない。カタクリの群落は時期が早いのか、見つけられなかった。二つ三つの登降をくりかえし、佐野峠に着いた(12:50)。ここからまっすぐ主稜線に向かって尾根上を辿る手もあるが、左には西原峠に至る巻道もあり、そちらに入る。

 

 ↓ 佐野峠

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 大菩薩連嶺の大きな支脈である奈良倉山から権現山に至るこの主稜線上には、いくつかの古い峠路や佐野山、西原山、小寺山、大寺山などがある。しかしそれらの上を、あるいはそれらを縫って古い林道が走っており、山歩きのルートとしては魅力を欠くものであると思っていた。それで主脈を忠実に辿ることに執着しなかったのである。

 

 ↓ 佐野峠に至る林道(跡?) 

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 ↓ キブシ 花はよく見かけるが、そういえばどんな葉っぱだったか?

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 西原峠着13:03。尾根の反対側に姿の良い山が見える。泣キ坂ノ頭または大峰(この二つの山名は文献によって位置が錯綜している)だ。ちょっと登ってみたくなる姿形である。ここで軽く昼食をとる。

 

 ↓ 右の円錐形が大峰 その左が西沢ノ頭 奥は雁ヶ腹摺山(たぶん)

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 峠から尾根上を辿る踏み跡も見えるが、そのまま林道を辿る。林道は現在は使われておらず、一部崩壊していたり、藪になっていたりして、再び自然に還りつつあるが、歩く分には問題はない。今回のルートは阿寺沢の両岸の尾根を周回するものなので、左手に登って来た坪山の尾根が垣間見える。

 

 ↓ 登ってきた坪山の山稜

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 ↓ マメザクラ(フジザクラ)たぶん・・・

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 ほどなく林道は二つに分岐するが、そのまま直進すると、少しずつ下り気味になっていくように思われる。そのまま沢沿いに下るつもりはないので、頃合いを見計らって、右側の斜面をかき登って主稜線上に出る。主稜線上にも、おそらく先ほど右に分岐した林道がそのまま走っている。幅広い登山道という感じだ。

 

 ↓ 小寺山山頂 赤テープに山名表示

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 すぐ先の、道から外れた右のわずかな高まりが小寺山1165m。楢の木立の、案外気持の良い山頂だ。そのまま気持の良い尾根をゆき、再び左に二つに分岐した林道の右わきに本来の登山道というか、踏み跡がある。それを辿れば一投足で大寺山山頂1226m(14:36)。ここも何ということもないが、明るく気持の良い頂上である。このあたりまだ芽吹きには遠く、景観としては晩秋の風情に近いが、空気には春の気配が満ちている。

 

 ↓ 大寺山へ 幅広い登山道のような林道跡

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 ↓ 大寺山直下

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 ↓ 大寺山

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 さてこの先である。予定ではというか、あわよくばということになろうが、直進してミツモリ北峰(1290m圏)往復というのも選択肢としてはあった。そうすれば権現山稜の赤線とつながる。しかし時間は1時間以上かかる。下に下りる頃には暗くなりそうだ。下降する尾名手尾根も一般ルートではない。ここはまあ安全第一でそのまま下ることにした。もし私一人だったら突っ込んだ可能性が高いが・・・。

 

 ↓ 大寺山からミツモリ北峰を見る

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 その結果、また赤線の未接続区間が生じたわけだが、それもまあ山の味わいの一つ。未完成の美学、「花はさかりに、月は隈なきをのみ見るものかわ」である。

 

 下りの尾名手尾根にはやや薄いが踏み跡はある。道標はないが、ところどころに古い赤テープがある。感じは良い。15分ほどで1207m。お椀を伏せたような丸いピークである。赤テープに小さくチョウナ沢ノ頭と記されていた。チョウナとは釿と書きチョンナとも発音される、斧の一種。左右いずれかの沢にあてられた名前だろう。

 

 ↓ 尾名手尾根はこんな感じ

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 さてそこからKは左手に下り始めた。こちらにしか路はないと言う。確かにかすかな踏み跡はあるようだが、薄すぎる。5分足らずで再度、地図とコンパスで確認する。東に向かうはずが北に向かっている。間違いである。登り直して、あらためて東に向かえば、踏み跡は続いている。

 路のかたわらに、少し古いが熊の糞を見つけた。これまでにも1,2ヶ所あったが、その後も含めてこの尾名手尾根だけで4ヶ所あった。爪とぎの痕もあった。猪の糞や掘り返し痕、鹿の糞や樹皮剥ぎ痕も多く、尾根全体には獣の痕跡気配が濃厚である。万が一のために笛を吹いたり、木を叩いて音を出しながら下る。

 

 ↓ 尾籠な写真ですみません。だいぶ古い熊の糞。もう少し新しめのもあったけど、写真には撮らなかった。

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 ↓ 再び尾籠で済みません。こちらは猪の糞で、いわゆる溜グソ。やはり少し古めですが、次々に積み重ねていきます。

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 ↓ 熊の爪痕 古いもの

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 ↓ 立ち枯た木の中の虫を求めて熊が齧りまくったものだと思います。

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 尾根自体は見通しも良く快適に進む。1時間ほどでちょっとした祠に至る。傍らの赤テープに尾名手山ノ神と記されていた。そのあたりから左側の支尾根に乗れば、ほどなく阿寺沢の民家の脇の車道に降り立った。

 

 ↓ だいぶ下に降りてから見上げた坪山の稜線

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 居合わせた地元の人と話をすると、やはり猪や熊は多く、家の裏庭の柿を食べに来るとのこと。そのせいか近所には猟友会の建物や猟犬のアパート(?)もあった。「鳥獣 名犬供養塔 水楢大物俱楽部」というのもあった。そこから25分ほど歩いて車デポに到着。

 

 ↓ 供養塔 同様のものは宮崎県の山の中でも見たことがある

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 ミツモリ北峰を往復できなかったのは若干心残りではあるが、まあ充分楽しめた。予想よりも良いルートであった。新緑にはもう一週間か10日ほど先だろうが、その頃にはまた別の山を歩けば良いのだ。最近はもっぱら山口県内の山を歩いているKも楽しめたようだ。

 帰途に秋川沿いの瀬音の湯に立ち寄って一浴。最近の煮詰まっていた細胞が活性化したのがよくわかる。これでまた10日や2週間は元気にやっていけるだろう。

 ちなみに前回の山行からしばらくの間悩まされ続けた股関節通は、今回全く問題がなかった。そのように、身体のあちこちが気まぐれに痛みだし、いつの間にか治り、その頻度が次第に増えていくというのが、老化の一つの現れということなのだろう。そして、いかにそれらとうまく折り合いをつけていくかが、これから続く課題なのだろう。

 

 ↓ 今回歩いたルート 上の黄色いマーキングが坪山 下のマーキングが大寺山

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 余談になるが、この稿を書き出してから気がついた。

 私はこれまでの山行をすべてリストにして、通し番号を振っているのだが、それが今回の山行でちょうど400回になったのである。

 そのリストには小学生のころの家族旅行での阿蘇山(火口は一周したが最高点には登っていない)や中学生の頃のボーイスカウトの頃のものも若干は含んでいるが、実質的には高校山岳部以降である。社会人山岳会の頃は、現地まで行ってから雨天で中止した場合は、山行回数としてカウントしたので、それらも数に含んでいる。

 実質的には50年弱で400回だから、もとより大した数ではない。一回も登らなかった年もある。せいぜい塵も積もれば、といった程度のものでしかない。しかしそれはそれとして、400回という記念すべき(?)節目の山行として、もう少し気合いを入れてというか、祝祭的に取り組んでも悪くはなかったとのではとも思うが、後になってから気づくというのも、いかにも私らしいかなと思わざるをえない。

 さて、そのリストに、今後何回の山行を加えていけるだろうか・・・。

                              (記:2018.4.8)

 

【コースタイム】2018.4.5 

 郷原びりゅう館9:28~P896m10:15~坪山1102.7m11:35~佐野峠12:50~西原峠13:03~小寺山1165m14:00~大寺山1226m14:36~チョウナ沢ノ頭1207m14:52~尾名手山ノ神~阿寺沢16:20~郷原びりゅう館16:45

 

 

 

股関節痛とともに 高尾山から小仏峠へ (2018.3.12)

 

 前回の山行からまた中一ヶ月以上空いた。不老山からの帰途自覚したとおり、B型インフルエンザに罹っていたのである。合わせて、これまで経験したことのない、やや重めの花粉症の症状を呈してきた。以前は無縁だったが、ここ2,3年はごく軽い症状が出るようになってはいたのだが。B型インフルのせいで、免疫力が落ちてきたせいなのだろうか。さらに遅ればせながらといった感じで案の定、気管支炎を発症した。例年、一度ぐらいは風邪をひく。三日ほど寝込んで、気管支炎までいって、治るまで2週間というのがお決まりのパターンなのだが、今回は上記三つの症状がもつれあって、ほぼ一ヶ月間、ダメダメの状態。ついでながらというわけでもないが、やはり前回の山行後も左の股関節の具合が芳しくない。変形性股関節症?という疑いが頭をかすめる。

 

 そんな時に若いアーティストのA君から連絡があった。良い作品を描いている、将来を期待したい作家である。都内で開かれるあるアートフェアの出品作家に選出されて東京に出てくるので、その最終日に搬出が終わってから泊めて欲しい、ついでに翌日一緒に高尾山に登りませんかと言う。

 彼とは歳は25歳も違うが、彼の大学時代の師が私の友人だったことから、3、4年前から付き合いが始まった。現在、奈良県天川村在住で、実家のご両親が経営している稲村ヶ岳の山小屋と麓の民宿の跡継ぎである。昨年春には彼のところに行き、八経ヶ岳稲村ヶ岳を目指したのだが、悪天と例年にない残雪の多さで観音峯山に転進という、不本意な結果に終わった。そんな環境だから自然と修験道あたりに興味を持ち、その関係で研究(?)と取材を兼ねて、高尾山に登りたいということだ。

 高尾陣馬山周辺では北高尾山稜、南高尾山稜、矢ノ音~陣馬山などには登ったがメインの高尾山~景信山には行ったことがない。というか、高尾山には一生行かないつもりでいた。有名な観光地で、登山の領域ではないと思うからである。いうまでもなく、人の多いところは嫌いなのだ。

 しかしまあ、縁というか、思いもかけぬ外部からの誘いに乗るというのも悪くはない、と思うぐらいの智恵は、最近ついてきた。話に乗ることにした。体調の方は、一応は回復気味。あとは、まあ、出たとこ勝負である。

 

 前夜遅く作品を積んだ車でA君、わが家に到着。だいぶ疲れているようだが、まずは一献。飲みつつ明日のルートなどを検討。ゆっくりと出発し、京王高尾山口駅からケーブルカーなどを使わず登り、尾根上はなるべくメインルートを行き、寺社等を見て、修験道の名残りを観察する。最低でも小仏峠まで、できれば景信山までと、ざっくり決める。

 明日があるから自重しようと言いつつ、話が美術芸術の方面になるといつしか杯が重なる。本当に明日行くの?などと言う会話になり始めると、雲行きが怪しくなる。前回もそうして結局登らず終いだったのだ。未明3時頃、就寝。

 

 調子にのって飲みすぎた報い(私だけだろうが)で、武蔵五日市発10:36の電車に乗った時には明らかに軽めの二日酔いというか、酒が抜けていない。息が酒臭い。

 初めて下りた京王線高尾山口駅前には大きな案内板がある。案内図を見て、2.5万図を確認して、いきなり逆方向に歩き始めるていたらく。本当は、私は方向音痴なのだ。われわれもそうなのだが、こんな時間なのに、これから登り始める人も多い。

 ケーブルカー駅を右に見て沢沿いの道を行き、大きな病院の敷地を抜けた先に道標がある。そこからがいわゆる登山道となる。

 

 ↓ 登り始め

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 ↓ こんな感じ 岩混じり木の根交じりだが歩きやすい

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 すぐに峠状のところから右に尾根上を行くようになる。このあたり、岩混じり木の根交じりだが、道幅は広く、多くの人が歩いているようで、快適である。周囲も案に相違して自然林であり、気分は良い。案外これは期待できるかと思った。上から下りてくる人も多い。明らかに観光客風の人の割合も多い。

 

 ↓ 振り返り見る。この時、カメラのどこかのボタンを知らないうちに押してしまったらしく、いろんな画質の写真が何枚か映っていた。ちょっとおもしろかったので、そのうちの二点を載せてみる。

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 ↓ その2 モノクロハイトーン

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 ↓ その3 絵画調

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 しかしこの気持の良い尾根も30分ほどで主尾根に上がると、そこはもう世俗まみれの観光地。外人さんも多い。予想通りだからしかたがない。いろんな楽しみ方があるのだから。「絶景」の看板のある展望台に行ってみるが、春霞に煙る都心方面にも気は惹かれない。

 

 ↓ 十一丁目茶屋(?) 奥が展望台

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 ↓ 参道杉並木の「たこ杉」 見えにくいが右下の根のコブが「たこ」? 立派なものだ

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 戻って主尾根上の1号路というメインルートを辿る。高尾山全体に1~6号路と他にいくつか○○コースというのが設定されており、整備されているようだ。1号路の前半は舗装道路。多くの観光客に交じっていくつもの寺社、御堂をのぞきながらゆく。

 

 ↓ 戦没者慰霊碑かと思ったら「林野庁 殉職慰霊碑」だった。ちょっと珍しい存在?

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 ↓ 高尾核心部の入口の山門

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 ↓ 烏天狗飯縄大権現大日如来(?)

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 ↓ これは不動だろうか、烏天狗だろうか。よく見ていない。

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 寺社に興味がないわけではないが、仏像を直接に見れないところには、学術的要素以外にさほど興味を持てない。私は、美術という観点をのぞけば、仏教であれ神道であれ、宗教に対しては、否定するものではないが、基本的にその一部に根源的なウサン臭さを感じるのである。ましてや、こうした古くからの観光地としての性格もある場、修験道という土俗信仰との習合的宗教に対してはなおさら。とはいえ、そうした冷めた目で見ても、それなりに面白いものも、なくはない。

 

 ↓ 不動とくれば竜王 周囲の千羽鶴のようなものは鈴

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 ↓ 薬王院本堂(だったと思う?)

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 それはそれとして、行基が開山した薬王院の当初の本尊が薬師如来であり、現在は真言宗の寺院である、というのはわかる。しかし、開山後100余年ほどで、神仏習合修験道化の果てに本尊が現在の飯縄大権現(白狐に乗った烏天狗:本地は大日如来 なぜ大日が烏天狗?)に変更されたというあたりになるとよくわからなくなる。いや、権現(かりに現れる)だから、それもありなのか。

 しかしそれにしても、飯縄(イイヅナ、イズナ)とはイタチの一種のイメージを借りた管狐(クダギツネ)という妖怪(漫画『うしおととら』:藤田和日郎 にもイズナとして出ていた)に変化してゆくものであり、そのあたりも理由の一つなのだろうが、その教義はかつては邪法外法とされたものである。つまり神としては、相当に地方的、土俗的な、もっと言えば下等な位置づけの存在と言わねばならない。さらにそれがオサキ・ミサキ信仰へと変化転化していくあたりも、「真言宗智山派大本山」にふさわしいのかどうか、もう理解できない。密教の怪しさと言うしかない。その辺が、修験道とは本質的に、中国の道教にも似た、あらゆる要素を併吞してゆく土俗的民俗信仰ということなのであろうかと、不勉強ながら憶測するのである。

 

 ↓ こちらは飯縄大権現堂(だったと思う)

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 ともあれ、薬王院からその上の飯縄大権現、不動堂へとめぐっていく。いずれにも、そうした渾然とした諸神を平気で楽しく(?)信仰した市井の人々の支援のあかし、講というスポンサーの存在があちこちにはっきりと記されているのが、面白いといえば面白い。

 

 ↓ 講とは言えないだろうが、スポンサー。しかしさすがにやりすぎではないか。奉納というより宣伝。

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 ↓ 寺社群が終わると高尾山頂に向かって途中まで板敷の道

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 それら寺社群が終わった少し先が、三角点の設置された頂上広場。ここまでがまあ、観光地エリアであろう。多くの人はここから引き返すようだ。昼食を食べ、一休憩後、先に進む。

 

 ↓ 高尾山頂の三角点に立つ大峰からきた赤天狗その1

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 ↓ 同じく赤天狗その2

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 「ここから先 奥高尾」の表示があり、やっと少し自然の山の雰囲気となる。ちょっと感じの良い茶屋のかたわらを過ぎ、木の階段が設置された幅広いなだらかな山道を歩く。さすがに行き交う人も、観光客ではなく山歩きの人ばかりとなる。ところどころに展望台などがある。悪くもないが、さほど面白みはないルートである。

 A君は快適に歩む。私の方は一応歩くにさほど支障はないが、左股関節にはずっと鈍い痛みがある。A君はそれなりに気遣ってくれているようだ。

 

 ↓ 「奥高尾」に入る。ほっとする茶屋の風情

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 ↓ 一丁平の東屋の横 白樺数本

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 何本かの白樺も生えている一丁平で15時近い。展望台からは春霞のせいか、富士は見えない。出発が遅かったせいもあり、そろそろ下山のことも考えなければならない。とりあえず小仏城山まで行く。アンテナ、茶屋、多くのベンチがある城山頂上に着いたのが15:23。

 

 ↓ 小仏城山山頂 左の造形物は何? 必要なのか?

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 ここは何年か前に小仏峠から南高尾山稜を歩いた時に通過したところだが、ほとんど憶えていない。日は長くなってきたが、夕暮れの気配がし始めてきた。景信山まで行くとちょっと遅くなりそうだ。股関節お試しハイキングとしては充分だ。ということで、この先の小仏峠から下りることにした。

 

 ↓ 広い小仏峠 

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 前回、小仏峠には逆方向相模湖方面から登って来たのだが、古くから知られた甲州街道の要衝ということで興味があったせいか、多少の記憶がある。右に良い道を下ればほどなく舗装道路に出た。そこからバス停まではすぐだった。10分ほどの待ち合わせで来たバスに乗ってJR高尾駅へ到着。

 

 ↓ 峠の石仏 少し肉厚な彫りが素朴。手前の造花との対照が面白い。

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 自分からは一生行くことはないと思っていた高尾山に、とうとう登ったわけである。A君の修験道研究の一環に付き合ったわけだが、山登りとしては、最初の登り始めの尾根をのぞいては、あまり面白いものではなかった。しかしまあ、それは予想通りだからよい。

 山とは関係ないが、この日は私の誕生日だった。63歳になった。変形性股関節症を疑いながらの体調不完全な中の、慣らし運転、お試しハイキング。帰宅して数日後、思い立って整形外科にいってみた。レントゲン撮影しての診断は「変形性股関節症ではありません。ヘルニアによるものでも、内臓疾患に因るものでもありません。しかし痛いと言うからには軟骨の損傷が少しあるのでしょう。対症療法(痛み止めを飲む)をしながら太股の筋肉や腹筋を強化して下さい。」という予想どおりのもの。最悪ではないが、事態は何も変わらない。これが歳をとるということ、老化ということだろうと自覚するのみ。

 

 帰宅後、たまたま別の興味から、畦地梅太郎の本を読んだ。『山のでべそ』(1966.1.25一刷1971.5.10二刷 創文社)。20年ほど前に買ったまま未読だったもの。文中、自分の事を何度も「老体」と称している。書かれた内容の山行が著者何歳の時のものか調べてはいないが、他の人に遅れ、一人バテたり、頂上に登れなかったりという記述が多い。次いでもう一冊『山の眼玉』(1999.12.15 平凡社ライブラリー)も再読してみたが、こちらにも同様のペーソスがある。『山の眼玉』は20年近く前に一度読んでおり、その時は内容的にも、そうした爺くさい雰囲気も、面白くは読めなかった。しかし今回二冊読んでみて、その自ら「老体」と称するくだりなど、人ごととも思えず、一種の「老人文学」的共感を覚えたのである。

 ともあれ、今後この股関節痛などをはじめとする様々な老化現象と、どのように付き合ってゆくことになるのであろうか。それはそれで、淡い興味をおぼえるのである。

  

 【コースタイム】2018.3.12 晴れ 同行A君

高尾山口駅12:00~尾根(1号路)展望台12:40~薬王院13:50~一丁平14:55~小仏城山15:23~小仏峠15:50~バス停16:23

 

 

[追記]

 翌3月13日。もう一泊することになったA君、都内の美術館にも行く気がしないというので、私のふだんの裏山歩きのコースを共にした。

 自宅から歩きはじめ、まず秋川丘陵の御岳神社に登る。御岳神社奥多摩の御岳山のそれの末社であるが、そこの狛犬御岳神社のそれとして、一般的な獅子/ライオン由来の形象ではなく、ヤマイヌ/狼由来のもの。その写真を見せたら興味をひかれたらしい。御岳神社は当然修験道とかかわりが深いが、修験道狛犬=狼とのかかわりがあるのかどうかは聞き洩らした。ちなみに写真のそれは本殿とそのわきに合祀された小さな二つの祠の二カ所二組あるのだが、いずれもかわいらしいと言ってもよい素朴土俗的造形である。共に阿吽の相はとっていない。

 

 ↓ あきる野市小和田の御岳神社、左の狛犬。以下、写真は今回のものではなく、数ヶ月前に撮ったもの。

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 ↓ 同右 阿吽はありません。耳は立っていません。

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 ↓ 本殿わきの併社と狛犬

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 ↓ 耳はさらに垂れています。コンクリート造りでだいぶ補修を重ねています。

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 次いで、金剛の滝に行く。A君の住む天川村は滝の王国と言うべき大峰山系にあるのだから、こんなショボい小滝なんぞ見せてもと思っていたが、案に相違して結構感動している。大峰はあまりに王国すぎて、こんなこじんまりとした滝を間近に見る機会がないようだ。ちなみに、いつもは下段の滝の右の階段状に穿たれたトンネル内を通過するのだが、この日はそこから滔々と水を吹き出している。靴と靴下を脱ぎ、ズボンをまくりあげ、冷たい水流の中を裸足で登った。上の滝(金剛の滝)の釜の縁に堆積した土砂のせいで地形が少し変化して、溢れた水流の一部がそのトンネルの方に流れ込んでいたのだった。

 金剛の滝を充分堪能して、下山は広徳寺に下る。ここは私も好きなところなのだが、茅葺の山門、本堂前の二本の大銀杏、本堂のたたずまいなど、気にいってもらえたようだ。特にいくつもの気根が垂れ下がった二本の大銀杏はA君の作品世界と通ずるものがあり、画家の旅嚢を肥やしたということになるのだろう。本堂の裏手にまわり、東京都の天然記念物に指定されているタラヨウと榧の巨木にも満足したらしい。良かった、良かった。A君いわく「昨日の高尾山より今日の方が面白かったです。」

                          (記2018.3.20)

 

2018年の山始め―玄房尾根から雨降山越え不老山へ

 また、中一ヶ月空いた。理由というほどのものはなく、要はモチベーションの低さということだろう。ともあれ、2018年の山始めである。

 今年の冬は寒い。北陸や東北日本は大雪で大変そうだ。わが家の方でも二度ばかり降雪があり、多少の雪かきもした。しかし、それ以外は、例年のことながら、雪害で悩む地方に比べれば申し訳ないほど晴天続きである。とはいえ、その一週間ほど前の雪はまだ山間に残っており、ちょっとルートの選択に迷う。それでなくとも、手近で面白そうなところは、ほぼ行き尽くしたとは言わないが、それに近い感がある。

 

 決めかねて、何となく『山梨県東部の山(東編) 登山詳細図 権現山・扇山・倉岳山・高柄山 全130コース』(作成・解説・踏査 守屋二郎 2017年 吉備人出版)を眺める。

 この『登山詳細図』シリーズは、何年か前になんとなくといった感じで『奥多摩東部』『奥多摩(西編)』を買い、その後、『丹沢(東・西)』、『奥武蔵』と買った。当初はその物好きなというか、ユニークさは認めたものの、国土地理院の地形図に長年慣れてきた身としては、正直言って見づらく感じ、あまり利用することもなく、見ることも少なかった。しかし最近は先に述べたように、一般的なところをだいぶ登り尽くした結果、必然的にマイナーなバリエーション的なルートを探し出さざるをえなくなってくると、俄然その有効性に気づいたのである。当初感じた見づらさも、自宅での事前研究用と割り切ってしまえば、あまり気にならなくなる。やはり、縮尺で言えば『山と高原地図』が5万分の1であるのに比べて16.500分の1という大きな縮尺であることと、国土地理院の路記号の不正確さに比べて脱帽せざるをえないその正確さは、貴重である。

 調べてみると、関東以外でも『六甲山系(東・西)』や『吉備路の山』はともかく、『和気アルプス』『沙美アルプス』とか、正直言ってどこにあるのかも知らないような山域の詳細図が出されている。岡山県の出版社であるという地方性を強みにしているのだろうが、たいしたものだと感嘆する。

 次いでその流れで、ネットで調べてみると「登山詳細図世話人の日記http://mordred1114.blog.fc2.com/ 」というブログを見つけた。その副題に「全国に登山詳細図を広める活動をスタートさせた世話人の日記」とあり、そういう発想なのかと知った。伊能忠敬ばりの手押しの測量車(というのだろうか?)を押しながらの実地踏査というのには驚いた。正確なはずである。一般的なガイドブックにあきたりなくなった人や、国土地理院地図に記載された路の不正確さに不満を持つ人には、この「登山詳細図」は確かに有効だろう。

 

 ↓ 実測用の手押し車(?)正式な名称はわかりません。上記ブログより転載

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 ↓ 同上 平成の伊能忠敬たち

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 しかし、本当に良いことばかりだろうかと考えてみると、やはりマイナス面もなくはないと思われる。それはまず第一に、経験が浅く、読図力がない人がそこに記されている一般的でないルートに安易に行く際の危険性である(むろん難易度別の表記分けがされてはいるが)。

 東京の山でも、平成28年で、長野、北海道に次いで全国第三位の151件(全国では2495件)の遭難事故があり、死者・行方不明者10名(全国では319名)、その理由の1位が「道迷い」である(38.1%)。ちなみに年齢別では60~69歳が25.5%と最も多い(以上「平成28年における山岳遭難の概況」警察庁生活安全局地域課 による)。

 長く東京都の警察の山岳救助隊をやっておられた方の話では、いわゆるバリエーションルート的なところでの事故が多いとのことである。その元救助隊副隊長Kさんいわく「一般ルート以外、行かなければよいのだ」とのこと。それは一理ではあるが、山屋としてはそうはいかない。

 最近は(紙の)地図やコンパスを持たず、スマホGPS搭載のなにやらだけで山に登る人も多いと聞く。実際、国土地理院の地形図は売れなくなっているらしい。ある登山のブログで、「IT機器、デジタル機器を使いこなせる人向きルート」などというグレード分けがされているのも見かけた。地図やコンパスを持っていても、それが使いこなせなければ同じことであるが。

 IT機器、デジタル機器との併用は良いとしても、地図を読み、地形を読むという登山の基本的な作法は今後とも必須であろう。その上で、この「登山詳細図」が広まり、一定以上の経験のある人に有意義に使われるのであれば、それはそれでかまわない。登山人口の多い東京や大阪、名古屋といった大都市近辺ではこの「登山詳細図」は一定の需要があるだろうが、それ以外の全国となるとどうであろうか。

 第二として、パイオニアワークとまで大げさには言わぬまでも、登山の楽しみ・醍醐味の一つとして、地図を見てルートを探す、自分でルートを創るということがある。「登山詳細図」は結局のところ「新たな既成ルート」を提示することになるわけで、そこからただ選ぶというだけでは、従来のガイドブックや登山地図となんらかわりはない。それは、登山者自身がルートをみつけ、ルートを創るという楽しみを放棄するということでもあるのだ。結局のところ、それらをどう両立させるかは、ひとえに登山者自身のセンスや思想にかかっているのである。

 

 例によって、だいぶ話がずれた。山行に話を戻す。

 五日市駅6:52発。上野原駅8:06。上野原駅のバス発着場は狭い北口にしかない(四月から南口の方に移動するとのこと)。8:30発のバスを待っていると、妙に愛想の良い山梨交通のおっさんが話しかけてくる。見ればそこの切符売り場の壁には、手作りのハイキングマップがいくつも置かれて、ずいぶんと熱心かつ丁寧に情報提供してくれている。むろん私が目指す玄房尾根に関するものはない。玄房尾根は、地理院地図には破線が、山と高原地図には実赤線が記されているにもかかわらず、ガイドブック等ではあまり紹介されておらず、人気はなさそうな尾根である。つまりバリエーションというほどではないが、マイナーなルートだということは確かだということだ。しかしまあ、行ってみなければわからない。

 

 初戸バス停着9:05。導標にしたがって、鶴川の橋を渡り、左に進み尾根に上がる。最初から雪はあるが、せいぜいくるぶし程度。だいぶ前の踏み跡がかすかに残っている。その上に獣の足跡が点けられている。

 

 ↓ 登り始め

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 ↓ 玄房尾根の下部 尾根沿いにケーブルが少し先のアンテナまで登っている。

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 橋から雨降山まで標高差は800m弱。前半はそれなりの傾斜があるが、路が九十九折りのおかげで、キツさはない。周囲は植林と広葉樹林が半々といったところだが、登るにしたがって植林の割合が増え、単調な登りが続く。振返ると笹尾根の丸山あたりが意外に高く見える。

 

 ↓ 振り返り見る奥多摩の笹尾根 中央は丸山だろうか

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 ↓ 植林帯の登り 風で雪のシャワー 寒い

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 多少雪が深くなっても、くるぶしぐらいなので、ラッセルというほどではない。それほど登りにくくはないはずなのだが、踏み跡や道形が不明瞭になり、本来の路からはずれると急に消耗度が増す。道形を外さないためには、足裏の感覚だけが頼り。

 それより何より、寒い。風が冷たい。天気予報では今日の上野原の最高気温が6℃とのこと。おそらく観測地点であると思われる役場の標高が258mで、今回の最高地点の雨降山が1177mだから、標高差は919m。標高差100mで0.6℃下がる計算だから、雨降山頂上では0℃近いということになる。風があれば体感温度はもっと低くなるから、つまり氷点下ということになるわけだ。指先も足裏も鼻先も痛いほど冷たい。

 

 ↓ 主稜線近く 少し雪が深くなってきた 妙に疲れる

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 傾斜が弱まったあたりから少し雪が深くなるが、それでもせいぜいスネ程度。そのあたりから少しペースが落ちてきたのか、だいぶ登ってきたように思うのだが、なかなか主稜線が近づいてこない。妙に疲れる。雪は時おりひざ近いところも出てくる。やはり深くないとはいっても雪の影響が大きいのか、予定では休憩を入れてせいぜい3時間程度とみていたこの尾根の登りに、何と4時間近くもかかってしまった。

 

 ↓ 主稜線に出たところ 前方権現山へ

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 この東西に延びる主稜線は、昨年6月に用竹から権現山をへて三ツ森北峰までを縦走した。今回のラインはそれを南北に横断することになる。主稜線と合流したところは、ほぼ雨降山山頂と言えるところ。ただし、そこに三角点はなく、いくつかの無機質な測候所の施設があるだけ。山名表示板もない(たしか権現山方向に少し進んだ、ピークでも何でもない路のかたわらに立てられていたような記憶があるが・・・)。雨降山という山名からすれば、雨乞い信仰と関係するのではと想像されるが、それらしき祠なども見当たらない。足を止めることもなく、そのまま南に下る。

 

 ↓ 雨降山頂上の測候所

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 ↓ 雨降山山頂からの下り 前方に富士山が見える

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 南面に入れば雪も少なくなるかと思っていたが、そうでもない。急な樹林帯の下降は、ほぼ立ちセード(ピッケルなしで立ったままグリセードの要領で滑り下りる)で快適に下る。先ほどまでのスローペースが嘘のように早い。右からの巻き道を合わせると新しい踏み跡が続いている。和見峠を過ぎると尾根はゆるやかになり、ほどなく林道に出た。

 

 ↓ 立ちセードで下ってきた植林の尾根を振り返る 

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 ↓ 林道 右から降りてきて左へ進む

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 林道を越えたすぐ先の889mがゴド山ということなので、ちょっと立ち寄ってみた。何の変哲もないところに古い手書きの山名表示板があり、わずかに「ゴウド山」と読みとれる。ゴド山というちょっと珍しい山名に、淡い興味があったのだが、ゴウド山ならわかる。方角は違うが、来る途中のバス停の一つにも神戸(ごうど)とあり、「かのと」などと読まれることもあるが、多くは大きな岩場などに由来する地名であり、それは山地ではわりとよくある地名なのである。おそらく近くにその元になった岩場があるのではなかろうかと想像される。

 

 ↓ 「ゴウド山」の山名板

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 なだらかな尾根を進むと、高指山911mの山頂。笹尾根方面が木の間越しに見える。高指山からの下りになると自然林が増え、尾根は細くなり、少し良い感じになる。

 

 ↓ 高指山山頂 奥は東西に延びる権現山稜

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 ↓ 少し尾根が細くなってくる

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 ↓ 不老山頂上の手前 左右は切れている

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 不老山839.4m着15:30。不老山とは、なにかいわれや伝説でもありそうな山名だが、私は知らない。こちらは日々、老いを感ずる今日この頃である。

 山頂からは南側が開け、展望が良い。桂川を挟んで、倉岳山から高柄山の山稜、その奥に道志の赤鞍ヶ岳山稜、さらに一番奥に北丹沢の加入道山、大室山が大きい。重層的な大景観である。気がつけば西奥に富士山が大きく座している。

 

 ↓ 不老山頂上

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 ↓ 山頂より南を見る 手前桂川 一番奥が丹沢の加入道山と大室山

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 ↓ 富士

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 ふと気づけば、もう15:40。帰りのバスは16:20。あと40分しかない。その次となると17:41。間に合うかどうかわからないが、とりあえず下りを急ぐ。まだ残る雪を利して九十九折りの路をショートカットして急いだおかげで、下山口の墓地の所に30分少々で着いた。間に合ったと思ったが、バス停がなかなか現れない。下り始めて以来微妙に痛み始めた左の股関節をだましだまし、ようやくバス停に着いたのは、ちょうど出発する寸前の16:20だった。

 

 今回はわざわざ雨降山という大きな峠越えをして、小さな839mの不老山の頂上に立ったようなものだ。特に登りたかったというルートでもなく、「登山詳細図」を見てふと思いついたルート。あまり取り上げられないルートはやはりそれだけのものでしかないというのが、今回の結論のようだ。むろん、実際に行ってみなければわからないのであるが、今回は正直言って、あまり面白みのない、印象の薄いルートであった。

 

 なお、今回は前半の登りで、ふだんとは違った妙な疲れを覚えたのだが、それは中一ヶ月空いたのと、多少の積雪のせいだと思っていた。それにしても、下山後もなかなか疲労がとれない。珍しく筋肉痛がある。その時になってようやく思い当たったのだが、実は出発する数日前に、女房が隣家の人からB型インフルエンザを移されていたのだ。そして、出発時点で私もそれを移されていたようなのである。登りの際の妙な疲れも、帰宅後の疲労感も筋肉痛も、そのB型インフルエンザのせいだったようだ。この稿を記している今日現在、明らかに私はインフルエンザ患者である。

 

 ↓ ルートの前半

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 ↓ 同後半

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【コースタイム】2018.2.7(水)晴れ 単独

上野原駅8:06/バス発8:30~初戸バス停9:05~玄房尾根~雨降山13:00~林道13:40~ゴド山13:53~高指山4:47~不老山15:30~墓地16:05~不老下バス停16:20~上野原駅                      (記:2018.2.10)

雪の裏山散歩 桜尾根から金剛の滝へ(なぜ金剛の滝は凍らないのか?)

 11:30起床。朝昼兼用の食事を終え、食器洗いや洗濯物干しなどの家事や雑事を済ませ、アトリエに入る。とりあえずPCを立ち上げる。しばし、ぼんやり。なかなか制作に向かう気にならない。いつものことだ。

 外は何年ぶりかの寒波襲来とかで、寒い。ここのところ引き籠って、ほんの少しばかりの制作と、あとはひたすらブログ書きの日々だった。

 二日前の雪がまだ残っている。運動不足であるのは自覚しているが、外に出る気にもならない。そのせいか、ここ数日、左股関節の調子が微妙におかしい。ここは一つ、重い腰を上げてでも、少しウォーキングか裏山歩きでもしなければいけないだろうと思う。

 何年か前の大雪の翌日、ラッセルで裏山歩きを楽しんだことがあったのを思い出した。今日の裏山にはまだ少し雪が残っているだろう。久しぶりに雪の上を歩く感覚を楽しみたくなってきた。そう言えば、檜原の佛沢の滝の下段が氷結したというニュースを聞いた。金剛の滝は凍らないのだろうか。これまで聞いたことはないが、規模も小さいことだし、この寒波ではひょっとしたら凍っているかもしれない。ちょっと見にいきたくなった。

 

 14:45、家を出る。10分ほど歩いて都立小峰公園。八坂神社から登り始める。当然雪はある。すぐに、念のため持ってきたスパッツをつける。このスパッツも30年近く前に買ったもの。とっくに耐用年数は過ぎている。最近はジッパーの具合が悪く、毎回履くのに苦労する。いいかげん、買い換えるべきだろう。

 

  ↓ 小峰公園 桜尾根

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 八坂神社からの桜尾根は、秋川丘陵経由の、八王子の川口川や恩方方面への古くからの生活道。馬頭観音もある。ここは五日市に来て以来、何十回となく歩いた裏山散歩のフィールドの一つ。

 

 ↓ 336mピーク直下の階段

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  雪はあったりなかったりで、深いところでもせいぜいくるぶしの上、吹き溜まりでスネ程度。物好きな人もいるらしく、踏み跡はそれなりにある。ほどなく336mの三角点のあるピークに立つ。わが家の標高が200m弱だから、標高差は130mといったところ。名前は特にないようだ。「かたらいの路 秋川丘陵コース」の看板がある。

 

 ↓ 336mピーク頂上 左下が三角点の保護石

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 ↓ こんな感じ

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 その先もなだらかな登り降りを繰りかえす。石灰岩の露頭の先、左には大きな変電所がある。そこをすぎれば分岐点に金剛の滝への標識。

 滝への路は木の階段、鉄鎖の手すりなど、最近整備され直されたようだ。いつもは人工的整備のしすぎ、などと毒づくところであるが、雪が付いていると少しありがたい。勝手なものだ。

 降り立ったところは、盆堀川の支流の逆川が90度向きを変える、堰堤の上の川原。ここは吹き溜まりというか、少し雪が多く、ひざ近くまである。しかし、物好きな先行者のトレースを辿れば、問題はない。すぐに両岸は狭まり、ゴルジュ状となる。その奥に小さな下段の滝が見える。凍っていない。残念。

 

 ↓ ゴルジュ状に狭まった先に下段の滝が見える

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 ↓ 金剛の滝 下段 見えにくいが、右の岩に黒くあるのが上段へと続く穴

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 伏流から水流が現れ、狭ばまった沢の右岸沿いから左岸に渡渉すれば小さな釜。夏には数匹だけ棲息している岩魚の姿も見えない。右に穿たれた小さな階段のトンネルをくぐりぬければ、上段の8mほどの滝の釜の縁に立つ。やはり凍結していない。多少水流は細くなっているようだが、とうとうと流れおちている。

 

 ↓ 金剛の滝 上段約8m

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 佛沢の滝は氷結しているのに、なぜここは凍らないのだろうか。佛沢の滝は標高340m、金剛の滝は地形図には出ていないが標高250mあたり。両方とも北東向き。佛沢の滝の方がより奥まった山あいにあるにしても、この100mあまりの標高差が気温の違いとしてでてくるのだろうか。しばし考えてみる。

 佛沢の滝の名は「払子」から来ている。払子とは仏教で使う毛足の長い筆のような、ハタキのようなもの(白い毛だと思っていたら、必ずしも白とは限らないようだ。また真宗では使わないとのこと)。元々はインドでは蝿や蚊などを追い払うためのもの。

 

 ↓ 払子(ネット上で拾ってきたものです。済みません)

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 この払子を縦にして見たときの、毛を束ねているところを滝の狭い落ち口に見立て、末広がりの毛を、下にいくほど飛沫(しぶき)をあげ、広がって流れ落ちる水流に見立てたものである。夏であればこの飛沫は水煙となって、涼気の源となる。周辺の岩に付着した飛沫は凍りやすい。小さなそれらが重なり合って、次第に氷瀑へと成長するのである。

 

 ↓ 夏の佛沢の滝(ネット上で拾ってきたものです。済みません)

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 ↓ 氷結した佛沢の滝(ネット上で拾ってきたものです。済みません)

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 それに対して金剛の滝は、落ち口から下までほぼ同じ幅で、しいて言えば棒状に落下している。傾斜角度と合わせて、飛沫はあまり発生しない。したがって氷瀑へと成長できないのである。川岸でも池でも凍るのはその縁からである。つまり、岸に付着する水は凍るが、流れる水は凍らないということだ。水量の点から見ても、滝上流の集水面積からして、金剛の滝の方が少ない。にもかかわらず、金剛の滝が凍らないのは、結論として、標高や方向のせいではなく、滝そのものの形状に由来する水流の形状が理由だということだ。

 ちなみに氷瀑で有名な茨城県袋田の滝は標高150mでしかないが、写真を見てわかるように、緩傾斜で凹凸の少ないスラブ状の岩盤の表面を、幅広くサラサラと流れている。気温次第でたやすく氷結しやすい条件を備えているのである。

 

 ↓ 紅葉時期の袋田の滝(ネット上で拾ってきたものです。済みません)

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 ↓ 氷結した袋田の滝(ネット上で拾ってきたものです。済みません)

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 以上が「なぜ佛沢の滝は氷結するのに、金剛の滝は凍らないのか」についての考察である。読み返すと多少ずさんな点もなくはないだろうが、いい線いっているのではないだろうか。どうでもいいことかもしれないが、そんなことを考えるのも、また山歩きの楽しみの一つではある。

 

 そんな事を考えながら下山の途についた。広徳寺近くでは伐採の最中。事情は知らぬが、嫌な感じだ。

 

 ↓ 伐採中

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 2時間と20分ほどの裏山散歩終了。ふだんよりちょっと時間がかかったが、まあ一日分の運動としては充分だろう。内容的にも、今回は「登山リスト」には入れられない。それにしてもそろそろちゃんと、今年の山始めをしなければならないのであるが...。

 

 ↓ 赤線が歩いたルート 左下の線が途切れたところが金剛の滝 右上の赤線の末端がわが家

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                         (2018.1.24)

週刊エコノミストに名前が載った??

 とある珍しく雪の降っている日、高校同期の友人Sさんからラインがきた。

 「凄いよ。」「ゴルフメンバーのY君からの情報です。」として、写真が一緒である。週刊エコノミスト1月23日号。 ??? 週刊エコノミスト?? 知らない。猪熊建夫・ジャーナリスト? 知らない。

 

 「名門高校の校風と人脈 273」防府高校山口県立・防府市)とあるから、経済誌の連載記事であることは間違いない。防府高校は私の母校である(名門高校ねぇ~・・・)。この手の記事というのは、無難ではあるが、経済人にとって意外と仕事上で役に立つかもしれない雑知識の提供ということだろうが、それが私と何の関係があるのか。

 

 ↓ これが問題の誌面です

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 送られたスマホの画面を拡大して見ると、学校の歴史、現状、進学率などから始まって、最初に種田山頭火ときた(3年制の周陽学舎を卒業後山口中学の4年に編入)。ふ~ん。清少納言が幼少期を防府ですごしたというのは初めて知った。さすがに高校とは関係ないだろうとは思うが、雑学的に案外面白いではないかと思った。しかし、次いで芥川賞受賞の高樹のぶ子直木賞伊集院静の紹介とからめて「防府には昔から文芸の血が脈々と流れていたのではないか」というのには賛成しかねる。

 企業関係、これは掲載誌の性格上、大事なのだろうが、ヤフーの社長がOBだというのは、そうなのか、知らなかった!と思うぐらいで、他は当然全く知らない。関心がない。

 他に、程度はともかく、私が知っているのは、アナウンサーの山根基世自由学園を創立した羽仁もと子の旦那、作曲家・鈴木淳伊東ゆかり/小指の思い出、八代亜紀/なみだ恋 確か天満宮宮司の息子だったと記憶している)、俳優・歌手の藤田三保子(NHK朝ドラ「鳩子の海」)、俳優の前田吟(中退だけど)ぐらいである。落語家二人は知らない。市長が三代続けてOBというのは地域的に当然と言えば当然だろう。

 

 最後の方に「登山部(われわれの頃は山岳部)の活動がめざましく、インターハイ(全国高校総合体育大会)で男子が7回、女子が6回全国制覇を成し遂げている」とあったのは、やはり(微妙なところもあるが)うれしい。

 

 そうした中に、「美術では、洋画家の田中稔之、河村正之、絵本作家の降矢加代子がOB、OGだ。」とあった。

 

 ↓ 上から4段目、中央左よりに

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 ↓ ちょい切り取り、拡大

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 降矢加代子の名は分野が違い、名前のみかすかに知っているが、作品については不勉強でほとんど知らない。

 しかし、田中稔之さん(故人 行動美術協会会員 元多摩美術大学教授 お世話になりました)はともかく、なんで次が私なのか、他にはいないのか、誰かいるだろう、というのが最初に思ったこと。

 明治10年(1877年)創立の私立周陽学舎から数えれば、140年。その中で美術関係ではたったこれだけなのか!?ということだ。私ごときの名があがるというのはおかしいのではないのか、と思うのである。言うまでもないが、私は有名ではない。少なくともいわゆる画壇では無名である、いや無名に近い(何でここでこんなことを言わなきゃならないのか)。

 といっても、あの人がとか、その人をとか、すぐには思い浮かばない。しばらく考えても思い浮かばない。確かに美術関係の人材が絶対的に少ないのは事実だろう。そう言ってしまえば、この話はそれで終わる。

 山頭火はともかく、高樹のぶ子伊集院静をもって文芸の血云々とはさすがに言い辛いが、文芸的風土とぐらいは無理に言えば言えなくもないかもしれない。だが地元における両者への遇し方などを見ていると、やはりとてもとてもというのが本音。とはいえ、美術よりははるかにましだ。

 しかしまあ、そのへんをこれ以上ぐだぐだ言ってみても、発展性はないし、私の絵描きとしてのひがみ根性のようなものが浮かび上ってくるだけかもしれないから、これ以上言わないことにしよう。微妙に複雑な気分だけが残っているが...。

 

 視点をかえれば、Sさんが言うように「凄~い」のだろう。むろん私が「凄い」のではなく、「凄くない」私の名前があがったことが「凄い」。本人の全くあずかり知らぬところで、正当な評価とも思えぬ扱い(?)をされたということだ。

 執筆者については全く知らぬ人であるが、記事全体をみれば、同窓会名簿の略史などを基本資料として、ネットで検索して、といった調べ方をして書いたような文章である。もちろんこの連載は学術的な、あるいは歴史的な、文学的な、深い考察を求められているような記事ではない。間違っていさえしなければ差し支えないのだ。

 したがって、この話には落ちも教訓もないのである。珍しい体験であることは間違いないから、一応書いてみて、アップすることにした。歴史の闇に埋没させるだけなのも、ちょっともったいないような気がするし。

 Sさん、一応、ありがとう。長く生きているといろんなことがありますね。

 

 ところでこの週刊誌エコノミストはどこに行けば買えるのだろうか。コンビニにおいてあるのだろうか。なさそうだ。近々大きな書店のある立川や都心に出る予定はない。わざわざアマゾンで買うというのもなあ~。せっかくだから一冊手元に置いておきたいような気もするのだが・・・。

                      (記:2018.1.22 雪降る日)

2017年の読書

 年末に各種の記録・データの集計をする。美術館関係、山関係、そして読書関係。

 絵(美術)、読書、登山、それらは言ってみれば、私の人生の4本柱の一つ一つだからである。では4本目は何かと言えば、とりあえず骨董蒐集と言ってもよいのかもしれないが、かつては麻雀だったり、恋愛だったり、海外旅行かと思ってみたりしたこともあったが、移り変わってきた。

 現在は骨董蒐集が変位した(主に)蔵書票蒐集ということになるのだろうが、それは言ってみれば美術の一部だから、独立した一柱とは言いにくい。日々の暮らしの中で酒の占める割合も小さくはないが、趣旨としては柱にはならない。4本目は、そのようにその時々に推移する要素のためにキープしてある空白の場所なのだ、としておこう。まあ、よい。ともあれ、年末に各種の記録の集計をするのである。

 

 本ブログでは山行については逐一、美術館関係は「201○年に見た展覧会」という形でまとめたものをブログアップしている。当然、読書関係もある程度はしていたつもりだった。しかし、ふと見てみると、2015年に「先月読んだ本」として、4回アップしただけだった。あれっ?という感じで、フォルダの中を確認して見ると、「2015年に読んだ本」「2016年に読んだ本」として、マイベスト的リストを書き出しただけで、途中放棄、未定稿のままで眠っていた。

 ここ30年以上、平均して年に100冊以上は読んでいる。そこから、単にその年のマイベスト10を選ぶだけなら簡単だ。しかしそこになにがしかの、できれば意義のあるコメントを書こうとすると厄介である。印象は当初は明瞭に残っていても、次第に薄れ、ついには忘れる。正確を期すためには、何ヶ月も前に読んだ本を再び手にしなければならなくなる。その労は大きい。それが大変だから、「先月読んだ本」という形で時間をおかず毎月書こうと一時は思ってみたものの、やはり続かなかったということだ。

 読書専門のブログならともかく、私の場合、他の分野とのバランスからしても、基本年に一度ぐらいが良いのかなと思う。なんせ、対象が本であると、山や展覧会と違って、より実証性というか、正確さが必要なような気がするのである。その辺は、われながら、律儀というか、難儀な性格である。

 ということで、気を取り直して、「2017年の読書」について書く。

 

 近年、読書量も、蒐書量(購読量)も減ってきた。昨年2017年に入手した本は、全部で170冊。これは購入した主に古書と少数の新刊本、図書館等で借りたものや贈呈されたものなど、すべての合計である。

 一頃に比べると少ないとはいえ、170冊といえば一般的にはそう少ないとはいえないかもしれない。しかし、この数字には若干のトリック(?)がある。170冊の内、図書館で借りたものが22冊(そのほとんどが塩野七海のもの)、贈呈されたものなどものなどが5冊、つまり自分で自腹を切って購入したものは143冊。そしてその143冊の内に「豆本」関係のものが75冊あるのである。

 豆本武井武雄の『豆本ひとりごと』(のち『刊本作品ひとりごと』)と『刊本作品親類通信』が28冊、と『古通豆本』が45冊。大きさは『豆本ひとりごと』と『刊本作品親類通信』が縦15㎝×10.5㎝前後、『古通豆本』が縦10㎝弱×横7㎝。別に『九州・まめほん』が1冊。頁数は共に数十頁程度のものなので、内容量としては豆本75冊で普通の本10冊分もあるかどうか。つまり、豆本の分を普通の本で換算してみると、計80冊程度となる。これは過去30年で最も少ない蒐書数である。

 

 読書量で言えば、昨年読了したのは144冊だが、同様にその中の豆本41冊分を普通の本で換算して見ると、100冊少々といったところ。数だけでいえば、ここ10年ほどはだいたいこの程度で推移しているが、実感としてはやはり減っている気がする。読書量の減少と書いたが、それは読書欲の減退であるかもしれない。

 ところで、後述の年間「マイベスト」を書き出そうとしてみると、10に満たない。私は読み終わった後に、単なる心覚えではあるが、◎ ○ △ 無印 ▲ × という、6段階の評価点をつけている。昨年の読了録を見てみると、なんと!◎が一つしかなかった。こんな年も珍しい。つまり、読書欲の減退と書いたが、実はその印象は、読み終わってみて内容的に満足した本が少なかったということに因るのではないかと、思い当たったのである。

 ともあれ、比較的貧しかった昨年の読書の中から、印象に残ったものをいくつか取り上げてみる。

 *比較的ポピュラーなものや、文庫本などは特に書影は載せません。

 

 

ローマ人の物語 34~43 迷走する帝国(下)~ローマ世界の終焉(下)』

塩野七生 2008.9.1~2009.9.1 新潮文庫

『ローマ亡き後の地中海世界 海賊、そして海軍 1~3

塩野七生 2014.8.1~2014.9.1 新潮文庫

『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年 1~5

塩野七生 2009.6.1~2009.7.1 新潮文庫

 まず、昨年後半から引き続きハマり続けた、塩野七海ワールド、『ローマ人の物語』。これについては前年度分として書くべきであろうが、一言で言えば、ヨーロッパ文明の基本構造を知る知的喜びと、長大な通史・ストーリーを読み通す楽しみを充分味わったということ。これについては後述の「2016年の読書」であらためてふれたい。

 ようやく43冊を読破したその余勢を借りて『ローマ亡き後の地中海世界 海賊』と『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年』も一気に読んだ。両者共にそれなりに面白かった。ついでに読んだ『わが友マキャヴェッリ フィレンツェ存亡』は今一つ。『ルネサンスとは何であったのか』はまあまあ。他にも二三冊読んだが、特にコメントなし。

 

 美術関係では、市井の一趣味人、研究家である市道和豊の一連の蔵書票関連の研究個人誌。いずれも室町書房とあるが、実質は私家版であろう。ネット経由でなければ入手しにくい。

『奇跡の成立 榛の会昭和21年 <芸術集団の戦中・戦後>』 2008.4.1 

『孤高の版画家 祐正・人と芸術』 2009.9.24

板祐生の画業』 2013.6.4 

『渋谷修 アバンギャルドから消された男』 2011.8.3

『乙三洞の芸術』 2015.9.10

『藤牧を待て <新版画集団と版交の会>』 2013.9.14

『与太雑誌『グロテスク』』 2016.7.8 

 

 ↓ 市道和豊の個人誌3点

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 いずれも興味深かったが、中でも『渋谷修 アバンギャルドから消された男』、『乙三洞の芸術』、『孤高の版画家 祐正・人と芸術』は対象の作家およびその作品の質の高さへの興味からも、私には面白かった。とりわけ渋谷修については、今日彼がわずかに名を残している蔵書票という主に趣味的な世界のそれとは別に、日本の前衛芸術運動の中で最も重要なものの一つである「マヴォ」(それは世界の前衛美術運動史から言っても重要である)との関連においても重要な研究である。

 惜しいことに、全体の構成があまり良いとはいえず、また文章や検証の部分もやや粗雑な面があり、必ずしも読みやすくはない。しかし、扱っているテーマ、対象自体の面白さには惹かれた。また第一次資料を渉猟して得た、挿入された図版も貴重で興味深いものが多い。上記以外にもまだ何冊か、同様な分野のものを出されているようで、いずれそれらも読んでみたいと思っている。

 偶然だが、これらの一連の本が後押ししたかのように、この年、めったに出ない『第四回 蔵票作品集』(大正14年 日本蔵票會)と『昭和蔵票聚集』(未貼りこみ 昭和18年 日本蔵票愛好会)の二つの蔵書票集を入に入れることができた。私にとって幻の蔵書票作家であった渋谷修や森田乙三洞の作品を、手にすることができたのである。それらについては、いずれ稿をあらためて書いてみたい。

 

 ↓ 参考:『日本蔵票會 第四回作品集』 右上:森田乙三洞 左:渋谷修 右下:川崎巨泉

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 ↓ 参考:『日本蔵票會 第四回作品集』 右上:森田乙三洞 右下:川崎巨泉 左上:川崎巨泉?  左下:渋谷修 

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 ↓ 参考:板祐正の日本書票協会1953年書票暦5月 左下の鉛筆書きは旧所蔵者の武藤完一の筆

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 ↓ 参考:板祐正の蔵書票2点 技法はS2(孔版:独自の謄写版技法)

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豆本ひとりごと』第2集~5集(1954.11.10~1960.4.15 限定版手帖発行所~吾八)および『刊本作品ひとりごと』第6集~24集(1961.10.25~1983.1.20 吾八~刊本作品友の会)の内16冊

『刊本作品親類通信』14~53

(1964.4.15~1983.11.25 刊本作品友の会)の内12冊

  

 ↓ 題簽は武井の木版

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 ↓ 同じく題簽は武井の木版

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 前記市道和豊のものと分野的に若干かぶるところもあるが、思いがけず武井武雄の刊本関連のものをいくつか入手した。

 武井武雄は画家、版画家、童画家、童話作家装丁家、として今なお一部で根強い人気を保っている。中でも彼の幅広い仕事の集大成(?)であり、出版美術界の一偉観とも言うべき「刊本作品」と呼ばれる一連の限定豆本シリーズは、出版印刷史上類を見ないユニークなものであり、評価が高い。市場価格も高いためになかなか手が出せなく、私は一冊も持っていない。個人的には彼の作風があまり好きではないので、無理をしてまで欲しいとも思わないが、その書物、印刷に関する彼の哲学というか、美学、こだわりや工夫のあれこれは、やはり面白い。たまたま今回それにかかわるものが期せずして、ある程度まとまって安く入手できたので、読んでみたが、やはり面白かった。

 

 ↓ 『九州・まめほん』1957.6 九州豆本の会 150部発行 表紙は川上澄夫の蔵書票貼付 目次の前頁に畦地梅太郎の蔵書票貼付 本文は手書き謄写版刷り 

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 同じく豆本である。

『藩校の蔵書』他古通豆本25~49、82~88、97~100、104~106、114~118 日本古書通信社 1976.4.10~1995.11.20)

 

 ↓ カットは若山八十氏

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 私は豆本という分野に特に興味があるわけではない。形態的にも、また内容的にも、あまりにも趣味性に偏しているという印象を持っており、蒐書の対象としては敬遠しているというか、どちらかと言えば好きではない。しかしそうした中で、この古通豆本は、執筆者に古書関係の人や、専門家が多いのは当然だが、その中でまた多様な専門的観点から書かれているものが多く、本好きにとっては面白いコンテンツだと思っていた。たまたま安く(一冊あたり100円少々)40冊ほどまとまって出ていたので入手した。縦10㎝弱×横7㎝、数十頁ほどだから、その気になればすぐに読み終えるのだが、仕事を終えた深更、ちびちびと酒を飲みながら、一冊二冊と味読するのを楽しんでいる。中では『造本覚え書』(内藤政勝 30)、『蔵書票』(坂本一敏 38)、『山の限定本 ☆および☆☆』(上田茂春 42、43)、『限定本と書票』(今村秀太郎 99)などが面白かった。けっこう貴重な内容のものもあるが、ごく一部を除いては一般書に再録されないものが多く、その点でも貴重である。

 なおこのシリーズは普通本と別に、装丁に凝った特装本も小部数出されているが、値段も高い。それはそれで魅力的だが、私は、中身さえ読めればよいというスタンスなので、今のところ手を出す気はない。今のところは。

 

『鬼が来た 棟方志功伝 上・下』

長部日出雄 1999.12.20 人物文庫/学陽書房

 蔵書票、版画とつながって、10年以上前に買ったまま未読だった本書をようやく読んでみた。小説的評伝である。案外というか、予想以上に面白かった。この年、唯一◎をつけたもの。棟方志功の作品はある程度は見ているし、人となりについてもある程度知っているつもりではあったが、著者が同郷のゆえか、よく調べ、公平な目線でよく書かれている。民芸運動とのかかわりや、日本浪漫派とのかかわりなど、教えられることが多かった。前より棟方志功が好きになった。

 

『特異児童画の世界 山下清とその仲間たち 石川謙二 沼祐一 野田重博』

(2004年 「八幡学園」山下清展事業委員会)

 

 ↓ 本のサイズが大きすぎてスキャナーにおさまりきらず、下5%ほどカット

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 美術関連でもう一点。川崎市民ミュージアムで開催された「山下清 とその仲間たち(踏むな 育てよ 水そそげ 石川謙二 沼祐一 野田重博)」展の会場で販売されていて内容も関連したものであるが、2004年発行で、正確には同展の図録ではない。内容も単なる展覧会図録ではなく、「踏むな 育てよ 水そそげ」のモットーを掲げる八幡学園の思想や歴史、また特異児童画=アウトサイダー・アートの評価史の一端をも紹介している。資料的にも価値の高いものである。

 

J・A・シーザー黙示録』

J・A・シーザー 2015.7.31 東京キララ社

 

 ↓ 表紙カバー おどろおどろしいですね。デザインでちょっと損しているような…。

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 アングラ劇団「天井桟敷」から寺山の死後、それを引き継いだ「演劇実験室◎万有引力」を主宰し、ミュージシャンとしても評価が高い、J・A・シーザーの回想録。

 二十歳前後の一時期、友人の関係からアングラ演劇をよく観ていた時期があった。そのころ贔屓にしていたのは「曲場館」と「摩訶摩訶(後、ブリキの自発団)」。最も過激で政治的だったと言われる「曲場館」は、ドキュメンタリー映画『風ッ喰らい節 時逆しま』(布川徹郎監督)にその残像を留められているが、その後「風の旅団」や「水族館劇場」に分かれた。「水族館劇場」は今も健在であり、最近、二度ほど観に行った。「摩訶摩訶」と「ブリキの自発団」には現在テレビ・映画俳優として活躍している銀粉蝶や、片桐はいりが所属していた。「天井桟敷」と「状況劇場」は当時すでにメジャーで、私は一本ずつしか観ていない。その頃からすでにマイナー好みだったようだ。

 

 ↓ ついでと言っては何ですが、表紙に惹かれて、曲馬館から水族館劇場の桃山邑の『水族館劇場の方へ』(2013.6.13 羽鳥書店)も紹介。表紙はこちらの勝ち。ただしこちらは未だ読んでいない。モデルは曲馬館以来の看板女優、千代次。惹句は「「此の世の外へこぼれてゆけ!!」

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 J・A・シーザーは「天井桟敷」時代から、演出とともに音楽も担当していた。1997年にアニメ「少女革命ウテナ」(私は見たことありませんが)の音楽を担当し、一般的にも人気を獲得した。2012年からコンサートもおこなっており、私もこれまで4回ほど聴きに行った(芝居にも2回行った)、かなり好きなミュージシャンである。

 内容は多様で、何となく昔のサイケデリックなヒッピー風なイメージもあるが、胡散臭くも、面白く読めた。ただ、その芝居を見たことのない人に話がわかるだろうか?という懸念はある。

 

『七帝柔道記』増田俊也 2017.2.25 角川文庫)

 格闘技にはあまり興味はないのだが、柔道だけは好きである。何年か前にたまたま読んだ『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(2014年 新潮文庫)が面白く、そこで昔の高専柔道という世界を知った。高専柔道とは戦前の旧制高等学校・大学予科旧制専門学校で行われていた、講道館柔道とは趣の異なる柔道であり、現在も東大や京大といった旧七帝大によるいわゆる七帝柔道に引き継がれているとのこと。

 著者の半ば自伝といってもよい本書は、北大入学後、中退するまでひたすら七帝柔道に明け暮れる、苦行僧めいた青春記である。面白いことは面白く、一気に読んだが、全体としてはやや冗長の感があり、作品としては完成度に不満が残る。ついでに関連して、同様に旧制四高で柔道に明け暮れた井上靖の『北の海』も読んだ。こちらの方も面白かったが、やはり完成度が今一つ。どうも柔道をやっていた人が自伝的柔道小説を書くと、描写に力が入り過ぎて、構成や完成度がおろそかになるようだ。

 

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年(2015.12.10初刷 2015.12.15二刷 文春文庫)

神の子どもたちはみな踊る(2002.3.1初刷 2007.5.5九刷)

 私は村上春樹のあまり良い読者ではないが、6~7割程度は読んでいるだろうか。彼の作品をちゃんと論ずるとすれば、いくら紙数があっても足りないだろう。むろん、そんな気はない。この二冊共に村上ワールドの魅力を味わいつつ、それなりに面白く読んだ。途中までは。

 彼の作風の翻訳小説的都会感は私の好みではないのだが、それは作者の個性だからがまんする。ただ一点、起承転結的でないストーリー進行、というか、多彩な伏線を張りめぐらしておきながら、往々にしてなぜそうなるのかが不明なまま話が終わってしまう感じに、いまだに不満感が残るのである。結論は読者の解釈に任せるというか、投げ出されたまま多様な解釈にゆだねられるというあたりが、今一つ納得できないのである。必ずしも理路整然と終わらせる必要はないにしても、その不明感が私に心地よく感じられれば良いのだが、そうではないのである。

 そして、こうした物語の終わらせ方というのが、今の小説界で増えているというか、安易な方向で流行っているような気がする。恩田陸原田マハとか、小川洋子とか(女性ばかりだ)、今ちょっと思い出せないが、他にもいたような気がする。でもまあ、村上の作品は、これからもぼちぼちと読んでいくだろう。

 

『被差別のグルメ』上原善広 2015.10.20 新潮新書

 食に関する本はわりと好きで、比較的よく読む。もちろん私のことだから、正統からやや外れたあたりのものが好みなのは言うまでもない。同じ著者のものではだいぶ前に『被差別の食卓』(2005.6.20 新潮新書)というのも読んだことがある(内容はほぼ忘れた)。著者は大坂の被差別部落で生まれ、そこでしか食べられない、臓物料理である「あぶらかす」や「さいぼし」を食べて育った。私は「あぶらかす」だけは一度食べたことがあるような気がする(美味かった!ような気がする)が、他のものもぜひ食べてみたいものだ。

 長じて、世界各地の同様な食文化を求め、体験したのが本書である。フライドチキンや針ねずみ料理については、別のところでも読んだことがある。食は文化であり、差別もまた裏返された一種の文化である。その両者を結びつけた観点が面白い。いや、面白がってはいけないのかもしれないが、読みつつ、食欲を刺激されたことは事実である。

 

『バッタを倒しにアフリカへ』(前野ウルド浩太郎 2017.5.17 6刷 光文社新書

 友人の奥さんから「これ面白かったわよ!」と言われ、借りて読んだ。食べる対象として以外の昆虫関係にはあまり興味はないのだが、舞台のサハラ砂漠イスラム教国であるモーリタリアあたりには、異文化趣味上、淡い興味がある。

 こういうのをエンタメ・ノンフィクションと言うのだろうか。一読、何とも面白かったが、その面白さの側面に、博士号取得後の不安定な研究者生活、いわゆるポスドク問題がリアルに透けて見え、その部分も少し興味深かった。学術博士号を取得して以降の10年間、学位と無縁な生活を続けざるをえなかった私にとって、他人事とも思えなかったのである。もっとも私の場合は、分野的なこともあるが、そもそも生きる力が弱かったということなのだろうが。 

 

 以上が2017年の読書「マイベスト」である。資料的なことは別にして、読書の喜びといった点では、例年に比べると見劣りがする。2016年、2015年のものをみてみると、その年は当たり年だったような気がする。このまま当たり年の2年分の「マイベスト」を死蔵しておくのも、なんかもったいないような気がするので、次稿ではその2年分の「マイベスト」を、項目だけでも揚げてみようと思う。          (記:2018.1.22)

別稿 2017年に見た展覧会 ―その2 +見損なった展覧会

 以下は前稿「2017年に見た展覧会 ―その1」で別稿としておいたものである。

 

6. ミュシャ展 

国立新美術館 3月31日  [洋画]

 

  ↓ 展覧会チラシ

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 ミュシャは日本では人気が高く、ずいぶん何度も展覧会が開かれている。しかし私が行ったのは、1983年伊勢丹美術館での「アルフォンス・ミュシャ展」だけ。もう少し見ているような気がするのだが、ある時期、一度見た作家のものは(例外はあるにしても)二度は行かないと決めていたようである。ともあれ、それは良い展覧会であり、深く記憶に残っている。

 ミュシャはもちろんアールヌーヴォーを代表するデザイナー、イラストレーターとして有名であり、展覧会もその分野の紹介がほとんどだったが、タブロー作家としても大きな存在であることは知っていた。今回、そのタブローの代表作「スラブ叙事詩」が一挙に公開されるということで、期待して行った。所蔵先のプラハ国立美術館の改修のためとはいえ、20点そろって国外に出るのは初めてで、おそらく二度とはないだろう。

 

 巨大な画面が次々と繰り広げる世界と、そのメッセージ性は、圧倒的であり、間違いなく美しかった。

 しかし同時に私は、そこにはっきりと、ある違和感と、もどかしさを感じたのである。それはつまり、結局のところ、タブローに不可欠な「肌合い」の魅力に欠けるということである。「肌合い」、「絵肌」、「テクスチャー」の魅力の欠如。言い換えれば、画面を、形と色相と明暗の、正確で合理的・効率的な完璧な布置によって、すなわち絵を、グラフィカルな要素でのみ成立させるデザイナー/イラストレーターの美の作法によって、成立させているということだ。

 良い絵を(絵とは限らないが)見たときに必ず感じる「さわってみたい」という触覚的欲望が惹き起こされないのである。われわれは絵を見る時、実際には手でさわることができなくても、目でさわる。ミュシャの絵を目でさわってみても、ほとんどの箇所で冷やかで、薄い、中性的で無性格な手触りがあるだけなのだ。眺められるためだけの絵。

 すなわちそこに現出されているのは、いわば、完璧なる下絵なのである。印刷工程を経ることなく完成を余儀なくされた巨大な下絵、油絵具とテンペラで描かれた壮大なイラストレーションである。それらは最終的に印刷されるべき存在である。おそらく印刷されたものの方が原画より美しく、なまめかしい。天才イラストレーター、ミュシャの、意図せぬ逆説である。

 

 それは、世紀末のアールヌーヴォーを代表するイラストレーターとして、その方面の注文仕事に追われた彼の、時代とのかかわり方の、宿命的で決定的な「ずれ」なのである。

 念願の絵画(タブロー)制作に専念し始めたのは1910年、50歳になってから。もはや若くはない年齢である。その「スラブ叙事詩」全20点は20年の歳月をかけて1930年ごろに完成したのであるが、その主題をなす民族自決の目標、具体的にはチェコスロバキアの独立は、制作途中の1918年に達成された。つまり、その作品の主題すなわち民族の独立は作品の完成より早く現実に達成されたことにより、言ってみれば作品のテーマは行き場所をうしない、宙吊りにされてしまったのである。出番を逸したということだ。そのことにより、当時ですら微苦笑をもって「国粋的、時代遅れのものと(註)」評価されるしかなかった。

 彼がもっと早い時期にデザイン・イラストレーションの仕事を減らし、絵画に取り組んでいたなら、同様な絵柄であったとしても、そのタブローに必要な「肌合い」を獲得していたに違いない。おそらく絵画の「肌合い」の感覚は、というよりも「肌合い」という身体的な造形要素は、ある程度若い時でなければ身に着かないものなのである。

 「肌合い」は絵画制作の身体作業の終点、すなわち描画作業の完成をもって成立する。デザイナー・イラストレーターの作業が下絵の完成をもって終了し、その先、印刷という機械的行程をへてデザイン・イラストレーション作品が完成するということとの違いは大きい。彼の身体性は、画家としてではなく、デザイナー・イラストレーターとして成熟・完結してしまっていたのだ。

 ましてや1910年代といえば、すでにアカデミックな写実主義にとってかわる、表現主義キュビズムから抽象主義が台頭しつつあった時代である。流行は変化し、進化するもの。いくら時代の流れとはいっても、彼がキュビズム風の絵画を、あるいは抽象画を描くことを想像することは難しい。言ってみれば、前時代的作家の誠実な隘路である。その誠実さは否定されるべきものではない。しかし、彼がそのクラシックで事大主義的な構成や絵柄と描画要素を捨てず、その上でもし彼独自の「肌合い」を獲得していたならば、どうなっていただろうか。古臭くはあっても「油絵具で描かれたイラストレーション」ではなく、「絵画(タブロー)」としての独自の強い魅力を持ち得ていたのではないかと、夢想せずにはいられない。

 

 結局のところ、ミュシャとは、以上述べてきたように、二つのずれを制作者として、時代性として、生きた存在なのである。制作者としてのデザイナー・イラストレーターと、絵画(タブロー)制作者としての年齢上のずれがもたらした「肌合い」の獲得の失敗があり、次いで絵画(タブロー)制作者として、主題である民族主義の理念と現実社会の時系列のずれがあった。それらのすべてが、あの壮大にして空虚な美しさを「スラブ叙事詩」にもたらしたのである。

 完成後も、時代的な美術思潮上のずれによって、おそらくは長く、正当でもあり、不当でもあった評価を甘受せざるをえなかったであろうと想像される。だが、それからさらに100年近くがたった今の地点から見れば、そうした評価は、もはやかなりの部分で風化・解消されたと言えるのではないかと思う。

 

 私は、結局のところ、彼の本筋はデザイナー・イラストレーターであったと思う。

 にもかかわらず、今なお私は、絵画としての「肌合い」の不在が「スラブ叙事詩」にもたらした、壮大にして空虚な美しさが、気にかかってしかたないがないのである。 

 

「《スラブ叙事詩》のメッセージ」(ヴラスタ・チハーコーヴァー『ミュシャ展(図録)』 p30 2017年 求龍堂) 

また「ずれ」についてはp29も参照のこと。「もしムハが第一次大戦の開戦前に、連作全体のなかで最も優れた作品とされる、最初に仕上げた3点を展示することができたたなら、見る人を感嘆させずにはおかなかっただろう。」

 

【付記】

 上記の一文は、本展を見て感動した友人のM氏との会話がきっかけであった。私は「スラブ叙事詩」の良さを認めたからこそ、そのとき体感した「肌合いの魅力」の欠如にこだわり、また他のデザイン・イラストレーションとの比較や時代性などの観点から、一部否定的にならざるをえなかった。しかし、その時には自分のそうした体感をすぐには言語化・論理化しきれず、言い足りない思いをしたこともあり、この一文を書いた。

 

 ↓ 付録 ミュシャがデザインした独立当初の紙幣2点。私の手持ちのものなので、保存状態は悪い。10K紙幣のモデルとなったのは10歳の娘ヤロスラヴァ

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 ↓ 娘ヤロスラヴァ 10歳

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13.佐藤直樹個展 「秘境の東京、そこで生えている」

 アーツ千代田3331  6月7日  [洋画]

 

  ↓ 展覧会チラシ

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 長大な作品自体は、アウトサイダーアートの文脈で見られるべき、見られるようにしつらえてある絵である。その方法と理念を、自覚的に採用しているということだ。作品にはそれなりに、圧倒的な迫力がある。ではそれは本物か?そこで前面に出されているアウトサイダーアート性は本物なのか。

 

 ↓ 会場風景と作品の一部

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 もちろん作者はアウトサイダーではない。その経歴や現多摩美術大学グラフィックデザイン学科教授というスタンスからしても、筋金入りのインサイダーである。方法、理念の上だけならば、こうした確信犯的ミスマッチなやり方は、今日広く行われている。歴史的に見ても、シュールレアリスム以来そうなのだから、それをズルイ、ヒキョウなやり方だとは言わない。ゆえに、はからずもフライヤーの裏に記された「デザイナーが描くアウトサイダーアート?」(ナカムラクニオ)という文言がそのことを一言で語っている。むろん私はこの文言を提灯持ちではなく、揶揄として読む。

 しかし、そこまでは良い。というか、仕方がない。

 

 問題は、この作品(制作行為)を、なぜ一過性の「そこで生えているプロジェクト実行委員会」を立ち上げ、様々な後援・助成・協賛を取り付け、公的な場でにぎにぎしく、入場料(一般800円)まで取って、権威主義的な展覧会として催さなければならないのか、ということである。なぜ芸大教授が、美術館キュレーターが、そこに提灯を持って並ぶのか。

 

  ↓ 展覧会チラシ裏面

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 この作品(とその行為)は、誰知られず為され続ければ良い作品なのである。ゆえにそこに見えてくるのは、その場かぎりのプロジェクト実行委員会側の、矛盾をそれと認めることなく、むしろそれを無視ないし充分承知した上での開き直った社会性として利用しようとする計算であり、アウトサイダーアートの根底に本来的に在るはずの無償性すら、社会的有効性・文化資源としておいしく消費しようとする、危険で退廃した美術消費主義の匂いなのである。

 かくてアウトサイダーアートもエイブルアートも、そうした構造を範として、例えば楽しく可愛いアートという消費コンテンツの一つに組み込まれていき、社会の中に居場所を与えられてゆく。誰もアウトサイダーアートの本質に言及することなく。もっとも効率的で安全な方法だけを与えられて。今やこの手のプロジェクトはあちこちで花盛りである。

 

 せめて作者はこの作品を発表するにあたって、どこかしかるべき展示会場かギャラリーなどで、自腹を切って、もしくはギャラリー企画展で、単純に個展として発表すればよかったのである。

 

 ちなみに公平を期すために一言つけ加えれば、一見無償的と見えるその描画の行為性も、よく見れば、さすが一流のデザイナーならではの効率の良い、上手に換骨奪胎された、口当たりの良い完成度を持っている、つまり充分美しい作品であるということだけは指摘しておこう。

 

 

18. 山下清 とその仲間たちの作品展 踏むな 育てよ 水そそげ 石川謙二 沼祐一 野田重博

 川崎市民ミュージアム 9月13日  [アウトサイダーアート]

 

  ↓ 展覧会チラシ

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 山下清は以前から何度も見てきた。その山下清が在籍していた八幡学園に同時期にいた石川謙二、沼祐一、野田重博という三人の「特異児童」の作品を見に行った。

 『宿命の画天使たち 山下清・沼祐一・他』(2008年 三頭谷鷹史 美学出版)や『山下清と昭和の美術 ―「裸の大将」の神話を超えて―』(2014年 服部正 名古屋大学出版会)などを読めばもっと早く知るところがあったのだろうが、未だ読んでいない。買っていない。だが、読まずに行って良かった。久しぶりに何の予備知識も持たずに、初めての作品・作者に出会えた。

 むろん、良い作品であった。山下清以上に知的障害の度合いが高く、「会話能力」も「身体能力」も劣るがゆえに、より他者の理解・共感を求めない、より自己完結せざるをえない「表現」。ゆえにそこに顔をのぞかせる「表現」なるものの深淵。

 

  ↓ 沼祐一の作品2点 ほとんど褪色していない

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 作品に即して言えば、褪色がやるせない。わけても山下清の作品においてはそれが著しい。山下は彼らの中で最も健康に恵まれ、一番長生きをした。彼らの中で、辛うじて社会となんとか折り合えるだけの知性を、山下だけが持っていた。彼はこれまで日本で最も多くの観客を展覧会に集めた画家である。それは日本で、一人の作家としては、最も数多くの展覧会が開催されたということでもある。作品が激しく色褪せてゆくほどの回数を。

 材料への認識における時代的限界といったことは、当然あるだろう。特に緑、青あたりの褪色が甚だしい。高村智恵子の切り絵の作品もそうであった。

 褪色という悲惨な現実を見据えていると、かえって、消えることのいさぎよさといった考えも浮かんでくる。アートとはしょせん消え去るものか。

 ヘンリー・ダーガーもそうであったように、専門の美術教育を受けていない/アカデミックに描けない者は、自分にみあったというか、自分が必要とする技法を発明するということだ。耐久性などといったことは、やはり二次的なことにすぎないのかもしれない。学んでできることと、学んではできないことがある。

 

 

19.  ハイチアート展

 川崎市民ミュージアム 9/13日 [エスニック・アート]

 

  ↓ 展覧会チラシ

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 耀く「おみやげアート」!

 これは否定的な語ではない。世界のあちこちの観光地の「アート・マーケット」で、そこの風土と直結した「スーベニール・アート」を見てきた。むろん圧倒的に石の多い玉石混合である。それらに比べて、本展はかなり上質な「スーベニール・アート」である。異文化の輝き、異風土の光。独特のオリジナリティと魅力があり、大いに楽しめた。楽しい展覧会だったが、意外と深い問題を提示している。

 残念ながら図録がない。そのため、なぜこうなのか?これは何なのかと事後に考える楽しみが提供されていない。せっかくの良い展覧会なのに、不親切である。あげた画像も図録がないため、やむなくネット上で拾ってきたもの。私が最も良いと思った作品の画像はなく、私が本展を評価するゆえんが今一つ伝わらないというか、誤解されそうなのを危惧する。

 

 ↓ フォーレスト・アブリール[幻想の森」

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 ↓ ギー・ジョセフ「ラブトゥリー」

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 なお、似てはいるが、別の文脈で「コロニアル・アート」がある。例えば、中南米で17世紀頃から19世紀にかけて、旧スペイン美術から発し、以後独自の展開を遂げた<植民地の美術>である。そうした仕組みは、古くからの<中国―日本>美術についても、<欧米の油絵―日本西洋画>についても、異なる風土の中に持ち込まれた異文化を核として独自の発展をした美術という観点から、もっと研究され、語られるべき問題があると思う。なぜならばわれわれ日本人自体が当事者だからである。

 

 ちなみに本展とは関係ない話であるが、その後、トランプ大統領がハイチやその他の国々を「屋外便所*のような国」と言ったのは記憶に新しいところ。なぜこんな発言をする人間が一国の大統領をしていられるのだろう。まあ、日本でも同様な発言(認識)は、首相以下、しょっちゅうなされているのではあるが。

 

*発言は「shit-hole」。直訳すれば「糞穴」、わかりやすく言えば「糞壺」であり、ちょっと意訳して「肥溜」であろうから、新聞等で「屋外便所」と訳したのは若干歪曲してでも下品さを回避したということだが、そもそもの発言が下品なのである。むろん「肥溜」と「屋外便所」は違う。屋外の肥溜は人糞を肥料として活用していたついこの前まで、日本中どこの農山村でもわれわれの目に親しく見うけられた、必要欠くべからざる農業施設なのである。ハイチは知らないが、確かにアジアの田舎などでは、今でもかなりおぞましい形でそうした類の施設が在るのを見たことがある。

 

 

以上で「2017年に見た展覧会」は終りだが、ついでに(と言ってはなんであるが)見そこなった展覧会もあげておく。

 

2017年に見そこなった展覧会

 

1.クラーナハ」(500年後の誘惑)

西洋美術館 [洋画]

クラーナハは海外でも日本でもずいぶん見ている。「今さら」感。

 

2.「endless 山田正亮の絵画」

 東京国立近代美術館  [洋画・現代美術]

 

  ↓ 展覧会チラシ

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●見よう、行こうと思いつつ、ついつい行かずじまい。なぜ行かなかったのか、説明が難しいが、どちらかと言えば、私自身がアンチの位置にいるからなのだろうかとも思うし、それをおして「御勉強」のために見に行くのが潔くないと思ったのか。しかし今にしてみれば、やはり見るべきであったと後悔。

 

3.「瑛九」(1935-1937

 東京国立近代美術館  [写真]

瑛九は、まとまって見たことがないので、行くつもりではあったが、どうやら写真のみ(?)の展示と知って、急に行く気が失せた。写真にはあまり興味がないのです。

 

4.「草間彌生」(わが永遠の魂)

 国立新美術館  [洋画・現代美術]

●いろいろ思いは大きく、重くあったのだが、結局行かずじまい。否定的にであれ、何であれ、見に行くべきであった。痛恨。

 

5.「これぞ暁斎」(世界が認めたその画力)

 Bunkamuraザ・ミュージアム

●30年前に見たことがあり、世評はともかく、私にはあまり関係ないという判断。

 

6.「ブリューゲルバベルの塔」展」(16世紀ネーデルランドの至宝-ボスを超えて-

 東京都美術館 [洋画]

ブリューゲルも海外でずいぶん見た。今回の目玉の「バベルの塔」も昔現地で見たし。

 

7.「椿貞雄」(没後60年 師・劉生、そして家族とともに)

 千葉市美術館 [洋画]

 

 ↓ 展覧会チラシ

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●草土社あたりは気になるが、なんせ毎日暑いし、千葉は遠いし、今さら感もあるし。時期が悪かった。行かない理由はこのようにいくらでもひねり出すことができる。まあ、今回は縁がなかったのだ。次は行こう。

 

8.「怖い絵」展

 上野の森美術館

 ●中野京子の『怖い絵』その他は、案外面白く読んだ。何よりもほとんど知らない絵をわかりやすく解釈しているのが面白く、こういう見かた、紹介の仕方もあるのかと、感心した。しかし、行かずじまい。何となく。少し後悔している。ふだん美術館に行くことのない友人Tが二度も行ったというのに。最後の方は2時間待ちだったとか。

 

 ●他にもいくつかあったような気もするが、特に記録もしておかないぐたいだから、たいしたものではないだろう。

                                        (記:2018.1.19)