艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

「なぜウズベキスタンなのか―過去の海外の旅を概観してみる―その3」(インド・バリ島・ペルー・ラオス 篇)

 「なぜウズベキスタンなのか―過去の海外の旅を概観してみる」のその3である。

 文章は大体のところは、とっくに書きあげている。短い文章だから、考察やその検証性については、あまり深入りせず、印象が中心である。そのため、たいした労力は必要としないのだ。

 だが、挿入する写真の選択やら、圧縮処理やら、コメントの挿入といった作業が、わずらわしく、私にはえらく時間がかかる。

 しかし思えば、私自身にとっても、自分の旅を振り返るまたとない機会だ。何としてでもやり上げてしまおう…。

 

 

 *国名(都市名)の記載順は必ずしも行った通りの順番とは限らない。同行者名については実名にした場合もあり仮名の場合もある。( )内の立場は当時のもの。

 

 

⑮2013. 3.2~19 (18日間)

インド(デリー・ヴァラナシ・アグラ・ジャイプール・ムンバイ・アウランガーバード・エローラ・アジャンタ)

同行:I T T(全員東京藝術大学油画1年生)

 

 前年、母校の藝大で、同級生I君の遺作展が開催された。同じ同級生で現在同大学教授のOが声をかけて、その展示作業等を手伝ってくれた学部1年生たちを交えて、オープニングパーティーで飲んだ。その席上で初対面の彼らに、海外に行けと、例によってけしかけたらしい。しばらくして彼らの一人から電話がかかってきた。一緒に行きたいという。

 

 ↓ 若者たちと。大学1年生、18歳…。アジャンタにて。

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 まさかと思ったが、どうやら本気らしい。とはいえ全員大学1年生。うち二人は現役入学なので18歳という。何度か会っていろいろ目的地等を検討し、途中メンバーの交代も一人あったが、結局つい先日まで見ず知らずだった若者たちと一緒に、いきなりインドに行くことになった。しかも国内便と夜行列車を予約(これだけは年長者特権で従ってもらった)する以外は、すべて現地でやるという若者旅である。

 われながら不安になった。不安ではあるが、近来にないときめきも感じた。還暦近くなってインドを若者旅で旅するというのは、どう考えてもハードである。しかし、楽しそうだ。こんな機会は二度とあるまい。そう思えば、つい気合が入る。

 

 

 ↓ 夜、ガンガーのほとりでロシアのお姉ちゃんが瞑想に耽りつつ、絵を描いていた。

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 ↓ ちょっと面白い絵だったので、3点買ったら感激していた。

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 ↓ その2 共にタイトルは未詳

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 還暦近い年齢ゆえのこれまでの経験を、彼らの若さと協働させて、結果としては実に面白い旅ができた。エピソードには事欠かない。例えばベナレスのガンジス川では頭まで水没の沐浴もした。若者たちは、財布は落とす、ケータイはなくす、迷子にはなる、等々、腹は壊す、その他色々と、やってくれる。

  

 ↓ ガンガー(ガンジス川)での沐浴。近くには火葬場やら、全裸の行者やら、牛やら、犬やら、観光客やらの混沌(カオス)。

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↓ 聖なるガンジスのほとりを感慨にふけりながら歩いていて、目にとまったのがこれ。国辱もの(?)だと思い、帰国後その話を絵描き仲間、麻雀仲間、飲み仲間のM君にしたら、なんと、それは彼が〇〇年前に、泊まった宿の人に頼まれて書いたものだとか! その後何度か上書きされているが、初めて書いたことは間違いないとのこと。呆れもしたが、まさかガンジスのほとりで彼の過去の行状に出くわすとは思いもしなかった。世界の狭さを感じた。ちなみにそのM君は、現在某大学の教授である。

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 かくて、人および人以外のあらゆるものから諸宗教までもが多様にかもしだす混沌(カオス)を、充分に堪能した。

 また、食事面はほぼ過去最悪と言えるものだったが、私以外の三人が次々とダウンしていく中で、なんとか一人踏み止まれたのも、経験の力と気合のおかげだと思う。

 

 ↓ 移動途中のドライブインのようなところで。三種のカレーだから、割と豪華な定食。不味いとは言わないが、完食は無理。左のコップの「ラッシー(ヨーグルト系飲料)」にどれだけ救われたことか。

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 ↓ 幅広い国道の路肩で、丸く練り広げられ、貼り付けられた牛糞(燃料用)とともに、無数の洗濯物が(写真ではわかりにくいが)広大な面積で干されている。洗濯をするカーストの存在に思い至り、また、インドは色彩の国でもあると知る。

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 美術にかぎらず、インド全体(食事を除く)が私には魅力的だった。インド美術全般の中でも、とりわけミニアチュールの素晴らしさは格別だった。

 

 ↓ いろんな種類があるミニアチュールの一つ。作品は素晴らしいが、展示状態、保存状態は悪いところが多い。

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 ↓ ジャイプールでミニアチュール制作者の店で研究中。当たり前といえば当たり前だが、洋の東西を問わず、技術や材料・道具は共通するものが多い。やや古い作品を1点と、紙(ライズペーパー)、筆などを買う。

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 ↓ これはミニアチュールではない。どこかの美術館にあった、何だったのか覚えていないが、精巧緻密なもの。こうなると、ヒンドゥーだか仏教だか、両方の要素があるものだか、よくわからない。

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 タージマハルおよびその他のイスラム建築(とその装飾)の華麗さは言うまでもない。ヒンドゥー寺院の過剰きわまりない美は、めまいがするほど魅力的ではあったが、私の中には入りようがない。

 

 ↓ タージマハル遠望。完璧な美。

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 ↓ イティマド・ウッダウラー廟だったか、マターブ・バーグだったか。

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 ↓ イスラム建築とは言えないが、ジャイプールにあるジャンタル・マンタル。数多くの巨大な天体観測装置群や日時計がある。なんとも不思議で、超現実的で、美しい建造物・構築物群。

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 ↓ どこかの壁面装飾の一例。美しいです。

中央の天秤秤は、死後に生前の善悪の軽重を調べるもの。イスラム教もキリスト教でも仏教も、発想は同じ。比較宗教学的には、おそらく相互にその教理を取り入れたものであろう。

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 よくインドに行った人は、二度と行きたくないという人と、その魅力にハマってしまう人と、二様に分かれると言われるが、それは年齢にもよるだろう。若い時に行ってみたかった気もするが、この歳で行ってちょうど良かったのだとも思う。今の私としては、カシミール方面か、南インドならば、もう一度行って見たいと思っている。

 

 

 ↓ アジャンタの窟院。保護のために照明は暗く、一部のものは修復中だったりして、一番有名なアジャンタ美人は見えずじまい。

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 ↓ 少し明るい窟の手前などには見やすいものもある。

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 ↓ 本命の人物群でなくても、このような素晴らしい装飾部分もある。

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  ↓ ふと気づけば、目立たないこんなところにも!

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 ↓ これはエローラの石窟。欠けてこそ匂いたつエロティシズム。

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 このブログの読者に一つだけ言い添えておくと、インドに行くなら、ムンバイ(他にもあると思うが)のスラム街ツアーだけは体験してみるべきだ。内部の撮影は禁止なので、画像を上げることはできないが、インド的混沌の極がある。それを通して、環境問題や国際的資源リサイクルの実相が見えてくる。

 

 ↓ ムンバイのスラム遠望。

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 なお、この時同行した三名の芸大1年生たちのその後の動向を記しておけば、I君はレオナルド・ディカプリオ基金による環境チャリティーオークションに最年少で参加したことをきっかけに、あれよあれよという間に、海外で売れっ子アーティスト(?)として活躍している。一番おとなしかった方のT君はその後ほどなく、「芸大は自分のいるべき場所ではない」といって大学を去った。もう一人の最も知的だったT君については、特に消息を聞かないが、元気でやっていることだろうと思う。

 う~ん、青春である。

 

  ↓ エレファント島の小さな波止場で偶然行きあったドイツの青年。同じ絵柄のTシャツに注目。同じ時に同じメキシコでそれぞれに買ったものが、地球の裏側で再会するとは。世界の狭さを実感。

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⑯2013. 7.10~15 (6日間)

インドネシア(バリ島/キンタマーニウブド・デンパサール)

同行:K(高校山岳部の同期:会社員)

 

 海外の旅にも脂がのってきたという感じで、8月からのペルーが決まっているにも関わらず、Kと共に短期・近場のバリ島に行った。しょせん吾々二人はリゾート地とは無縁。目的は二つ。一つはキンタマーニでのバトゥール山(1717m)登山と熱帯雨林の棚田巡りという自然ツアー。もう一つ、こちらが本命だが、ヴァルター・シュピースの作ったバリ島芸術を見ることである。

 

  ↓ バトゥール山(1717m)遠望

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 ↓ バトゥール山の火口壁。あちこちで小さな噴煙が上がっており、ところどころの岩や地面が熱い。

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 ↓ 頂上稜線、火口を一周縦走する。よく踏まれているが、ロープ、手すり、階段等はない。つい最近も転落事故もあったそうだ。

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 ↓ 世界遺産の棚田ではなかったが、熱帯農業の視察。癒される…。

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 ↓ 無数の気根を降ろす熱帯雨林の樹霊に、魂を吸い取られている。

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 ↓ このヒンドゥー寺院では腰に腰巻のような布をまとい、沐浴しなければ、域内に入ることができなかった。

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 ↓ ヒンドゥー寺院の造形。ここは大した観光地ではなかったせいか、腰巻は着けなかったような。

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  両者ともに目的を達成したというか、満足できるものであった。バリ島芸術=伝統的風土的と見える要素形態が、実はヴァルター・シュピースというヨーロッパ人(ロシア生まれのドイツ人)の異国趣味(エキゾチシズム)の目を通して1920年代以降に作り上げられたものという、作られた伝統、いわばねじれた構造が定着しているということ。その双方向的に外部性が挑発・発動しあう面白さ。

 人物画を描くことが基本的に宗教で禁じられている、世界最大の人口を持つイスラム国家インドネシアの中で、例外的なヒンドゥー教徒の島、バリ。そこでのみ開花しえた、エキゾチシズム=異文化交流の結果としての、実は新しい伝統としてのバリ島芸術の、怪しき美しさ…。

 

 ↓ ヴァルター・シュピースの作品。ただしこれは複製。実物はほとんど無かった。

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 ↓ バリ島絵画。これは大作の一部分。比較的新しいもの。

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 ↓ バリ島絵画 その2。同じく新しいもの。古いものより、新しいものの方が、より面白い、

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 ↓ バリ島絵画 その3。新しく、ゆるいテイストのもの。

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 ↓ 現代美術もある。若い作家のインスタレーション

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 そしてそのシュピースが第二次大戦末期に日本軍の飛行機の機銃掃射で殺されたということにも、なにがしかの因縁というか、慨嘆を禁じえないのであった。ただし残念ながら、シュピース自身の作品は、現地ではほとんど見ることができなかった。

 

  ↓ ふと森の中に足を踏み入れると、シュピース的世界。

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  ↓ ダンスや演劇、シュピースの(再)創造したケチャ、人形劇等、いろいろなバリ芸能を観た。

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  ↓ 最後に訪れた海岸で見かけた光景。何を思い、海を見つめているのか…。

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⑰2013. 8.23~9.5(14日間)

ペルー(リマ・クスコ・ナスカ・マチュピチュチチカカ湖

同行:K氏(国立音大教授)

 

 この年3回目の海外。K氏は現在国立音大の優秀な音楽学の先生であるが、その前は東京学芸大で学長補佐の身でありながら、同僚としても同じ授業を何年か一緒にやっていたこともある間柄。その後私は早期退職し、彼は大学を移り、縁は切れたかと思っていたが、なぜか一緒に海外に行こうということになった。とりあえず南米ペルーということで一致。

 

  ↓ リマの教会群の一つ。どこも異様に(先住民から収奪した)金をかけた、豪華絢爛な装飾でおおわれている。もう一歩でウルトラバロック

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 リマ・クスコという都市はともかくとして、ナスカ・マチュピチュチチカカ湖もという、かなり欲張った計画ではあったが、結果として中身の濃い、充実した旅になった。

 

  ↓ 夕暮れ近いナスカに、ただ一か所小高い丘。ここから彼方に一直線に伸びる直線(地上絵)が見える。

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 ↓ ナスカ上空の遊覧飛行。下を見ても、意外と地上絵はわかりにくい、というか、そうは鮮明には見えない。アクロバティックな旋回飛行のせいで酔った、前の座席のお姉さんのゲロのとばっちりを食らった…。

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 ↓ ナスカの地上絵の最初期の研究者マリア・ライヒの元研究所が、現在は博物館となっている。奥の人形が彼女。詳しくは楠田枝里子『ナスカ 砂の王国』を読んで下さい。

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 ↓ インカの遺跡の上に建てられたクスコの街並み。すぐ近くにあの有名な12角の石がある。リマから飛行機で標高3400m以上あるクスコに入ったため、初日高山病でちょっと苦しんだ。

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 ↓ 多様な色、デザインのアルパカ製品が大量に並び、面白かった。思わず、柄にもなく、セーターやマフラーを買いこみ、今でも愛用しています。

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 ↓ マチュピチュの画像はありすぎるので、この1点のみ。

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 ↓ マチュピチュから見る、周囲の素晴らしい山々の景観。

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 ↓ クスコからアンデス分水嶺を越えて、チチカカ湖までの長い長いバスの旅。この長い旅がまた、味わい深かった。そういえば、このあたりの草原・湿地帯がアマゾンの源流なのだ。

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 ↓ チチカカ湖クルーズ。空は死ぬほど青い。

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 ↓ 葦の浮島の上の生活。ある程度は観光客相手かもしれないが、基本、変わっていないと思われる。

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 初めての南米の風土性・異文化の面白さ、自然景観の多様な素晴らしさは言うまでもない。それに加えて、特に宗教画における文字通りのコロニアルアート/植民地芸術ということのバロック的面白さは、インカ文明等の先住民文化のそれらが時間軸を越えて共時的に併存しているという環境の中で、さらに複雑で摩訶不思議な味わいを見せてくれたのであった。

 

 ↓ コロニアルアート その1

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 ↓  コロニアルアート その2 ここまでの味は本国スペインでもなかなか見ることができない。

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 ↓ 一般的なインカのイメージの陶器。副葬品として作られたため、保存状態の良いものが多い。

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 ↓ 画像では見にくいが、陶器ではなく、木製品に彩色されたもの。他ではあまり見ることのない類のもので、お気に入り。

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 ↓ キープ。「結縄(けつじょう)」といい、文字を持たなかったインカで、結び目の位置などで数などを表わしたもの。こうして見るとすでにアートである。

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 オマケではあるが、思いがけずワイナピチュ山(2720m)とマチュ・ピチュ山(3082m)(共にマチュピチュ遺跡の前後のピーク)に登れたのもうれしかった。

 

 ↓ 左のピークがワイナピチュ山。明暗の境目のリッジを直登する。

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 ↓ ワイナピチュ山山頂2720mにて。写真の二人は現地で知り合って一緒に登ることになったお姉さん。登りの傾斜はきついが、ロープ等は設置されているので、慎重に登れば問題ない。一日の人数制限はされているが、結局は数珠つなぎ。狭い頂上では外人さんたちは決して場所を譲らず、大混雑。下山はほとんどの人は同じルートを下るが、私一人、反対側の「月の宮殿」を経由するコースで降りた。時間は少しかかったが、おかげで人がほとんどおらず、楽しめた。

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 ↓ マチュピチュの後方にそびえる、ワイナピチュ山と対峙するマチュピチュ山。山頂は一番高く見えるピークのさらに向こう側。登る人は少なく、むしろこちらの方がおすすめ。手前は「インカの道」。相棒のK先生は登山はもうコリゴリとかで、ゆっくり一人で楽しんだ。三日連続でマチュピチュを歩いたことになる。

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 ↓ マチュピチュ山の狭い山頂。360度の大展望。

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 ↓ 氷雪のアンデスを遠望する。

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 なお、これに気をよくしてK氏とは翌年もウズベキスタンに行こうと約束していたのであるが、不運にもその後、彼に親の介護の問題が出てきて、以後永く延期となったのである。

 

 ↓ とある美術館の中庭で見た景。南米的でもあり、スペイン的でもあり…。

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⑱2014. 12.10~17(7日間)

ラオスビエンチャンルアンパバーン

同行:K(高校山岳部の同期:会社員) 河村森(息子:無職)

 

 例によってKとの短期・近場の東南アジアシリーズ。もともとラオスに積極的興味はなく、また、そこにどんな美術があるのか全く知らなかったが、人気の高い(=観光客の多い)タイを避けて消去法的にラオスとなった。Kは勤務の都合で5日間。ならばと、当時公務員試験を目指して試験勉強中=無職だった息子も気晴らしも兼ねて誘い、7日とした(帰国は8日目)。

 

 ↓ とりあえずホテルの前のメコン川岸の屋台で夕食。

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 ラオスの旅自体はほぼ観光旅行状態で、美しい自然と穏やかさを楽しめた。

 

  ↓ どこの寺であったか。静かなたたずまい。

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  ↓  どこの寺であったか。こんな感じです。

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   ↓  とある寺院の外壁装飾。

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  ↓  どこの寺であったか。内部はこんな感じ。仏像が金ぴかなのをのぞけば、日本のそれとあまり変わりはありません。

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  ↓ どこの寺であったか。仏像はゆらりと背筋を伸ばし、指先が異様に長いのが特徴。より多くの衆勢を救おうとしてとのこと。

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 ↓ ルアンパバーンのプーシーの丘にて。

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 ↓ 美しい風景の傍らには、対空機銃座の残骸が残っている。ラオス内戦時のものだろう。

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 ↓ 早朝のメコン川を遡り、パークウー洞窟へ。その後、焼酎作りの村(バーンサーイハイ)、紙漉きの村、タート・クアンシーの滝などを訪れる。

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 ↓ パークウー洞窟入り口。

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 ↓ 広い内部は仏教遺跡。数多くの仏像や、かすかに残った壁画がある。

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 ↓ タート・クアンシーの滝の手前の渓流。

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  ↓ 払暁の路地を僧たちが托鉢の列をなす。

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  ↓ 双方無言のまま、布施を施す。いや、施させていただく。

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 しかし驚いたことに、絵のある美術館が一つもなかったのである。歴史的あるいは政治的文物を見せる博物館はあったが、「美術」を見せる美術館が一国の首都に無かったのである。こんな国は初めてだ。私の「美術を軸とする旅」という原則が勝手に外側から崩れてしまったではないか。

 

  ↓ メコン川沿いの紙漉の村で。素材の木の皮(楮?)を搗くやり方は、私が子供の頃自宅で使っていた足踏み式のそれと同じもの。

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  ↓ 紙を漉く時のやり方は、ちょっとだけ違う。少々、荒っぽい。

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 唯一見たのがブッダパーク。

  ↓ ブッダパーク その1 楽しい!

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  ↓ ブッダパーク その2 制作の動機はまじめなもの、らしい。

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 決して「トンデモ的」なキワモノではないが、結果としては、どちらかといえばアウトサイダーアート的なもの。これはこれで充分楽しめたが、せめて今現在の作家が描いた絵が見たかった。

 

  ↓ 街角の朝市にて。リスやらコウモリ(?)、その他生きたカエルや、竹籠に詰め込まれた生きた猪などが、食材として売られていた。

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  ↓ 暮れなずむメコン川で投網を打つ。今夜の夕食ななおか、明日の市場に売りに行くのか。

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「なぜウズベキスタンなのか―過去の海外の旅を概観してみる―その2」 (トルコ・スリランカ・ギリシャ・キューバ+メキシコ・バルト海沿岸三国・台湾・カンボジア 篇)

 以下、前稿の続きである。

 

 *国名(都市名)の記載順は必ずしも行った通りの順番とは限らない。同行者名については実名にした場合もあり仮名の場合もある。( )内の立場は当時のもの。

  

⑧2009. 9.13~9.27(15日間)

トルコ(イスタンブールアンカラサフランボルカッパドキア

同行:KH嬢(東京学芸大4年:指導学生) KR嬢(同) K(高校時代の同級生:会社員/後半合流) 河村森(息子:会社員/後半合流)

 

 この頃になると海外の旅もだいぶ慣れ、また、できれば年に一度くらいは興味のある、未だ行ったことのない地域に行きたくなってきた。学生にもそんな話をよくしていたが、二人の指導学生から行きたいという申し出があった。渡りに船と言いたいところだが、女子大生二人を連れてというのも気が重い。あれこれ男の同行者を探したが、見つからない。やむなく(?)、全日程は無理だが後半一週間なら可能という旅好きの会社員のK(高校山岳部の同級生)と、すでに就職していた息子に乗ってもらうことにした。

 

 ↓ アヤソフィアだったか? 

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 これまでヨーロッパ、東アジアと見てくると、やはりイスラム文化圏が気になる。文化・風土性、ともに、日本と対極的と言っていいくらい違ったものがあるはずだと思われた。トルコは言うまでもなくイスラム圏であるが、独立の英雄アタチュルク以来政教分離世俗主義を国是としてきたことから、近年はEUにも加盟しようかというくらいヨーロッパ的近代化を進めていた。ここ最近になって混迷する中東情勢の影響を受けて、イスラム色もやや濃くなってきているようで、きな臭い面も出てきているが、吾々が旅した頃までは安全で、旅しやすい国という定評があった。

 

 ↓ トプカピ宮殿の軍楽隊のパフォーマンスというか、ショー。けっこう面白く、前後二回も見に行った。

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 ↓ ハーレムの内部 見どころ多し。

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↓ ミニアチュール(装飾細密画)の宝庫。

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 ↓ トルコ式マーブリングの実演。

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 何よりもオスマントルコの首都であり、イスラム美術の宝庫、そしてアナトリアカッパドキアの魅力あふれる風土性は、私を惹きつけてやまない。

 

 ↓ アンカラからカッパドキアまで、金色に耀くアナトリア地方をバスで長距離移動。f:id:sosaian:20180616190647j:plain

 

 この予想はおおむね当たり、楽しめた旅となった。モスクやイスラムミニアチュールは、予想通り素晴らしかった。カッパドキアの摩訶不思議な面白さもアナトリアの金色に耀く草原の美しさも、言語に絶するものだった。

 

 

 ↓ カッパドキアその1

 

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 ↓ カッパドキアその2

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 ↓ カッパドキアその3 映画「スターウォーズ」でも使われたとか。

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 ↓ ところどころに残るかつての信仰の証。すべては滅びゆく。

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 ↓ カッパドキアに遊ぶ。

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 ↓ なぜここでクライミング? 当時の人々の生活を知るためです。

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 ↓ 高橋克彦の『竜の柩』の舞台となった地下都市

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 しかしまた、西欧的美術史観に慣れた目でそれらを見たとき、「絵とは何か」「なぜ絵を描くのか」という根源的・普遍的問題が自分の事として湧きおこってくるのを感じた。水煙草を吸いながら、旋回舞踊を見ながら、そんなことを考えた。

 

 ↓ 水煙草を吸いながらそんなことを考えた。

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 ↓ ベリーダンスを見ながらあんなことも考えた。このタトゥー入りのお姉さんは国外からの出稼ぎだそうです。

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⑨2010. 3.5~15(11日間)

スリランカコロンボ・シーギリヤ・ミヒンタレー・ボロンナルワ・ランブッダ・キャンディ・ナラタニヤ・スリーパーダ・ヌワラエリヤ・ワールズ・エンド)

同行:T嬢(東京学芸大学4年生:洋画) I嬢(同/指導学生) F君(東京学芸大学4年生:他専攻)

 

 前回の旅から4か月。前回と同学年の学生の「卒業旅行」に同行することになった。東アジア~東南アジア―~西アジアとくると、次は南アジアを知りたくなってくる。しかし海外旅行が初めての、気は好いがあまり使えない女子大生二人(その内の一人は奇遇にも私の母校の後輩!)と一緒に、いきなり南アジア=インドというのも気が重い。

 そこでもう少しソフトなイメージのある、南アジア=スリランカに決定。イスラム圏からヒンドゥー圏をとばして、仏教圏へと転進(?)である。

  幸い他専攻ではあるが、彼女たちの友人である旅慣れているF君(冒険探検部)の同行も得られた。考えた末に、全行程ガイド・ドライバー付きの行動にしたおかげで、比較的楽な旅となったが、ちょっと拾い物といった感じの、印象の良い旅になった。

 

 ↓ スリランカ

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 ↓ シーギリヤ! あの岩山の上に狂気の王の引き籠った王宮があった。

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 ↓ 山上の王宮跡に登る途中の壁画

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 ↓ 素晴らしい壁画だが、実はかつてこれを修復したノルウェー人(だったか?)に、原画とは異なった印象で、かなり創作的に描き直されたという話もある。実際はどうなのか? 現在は撮影禁止だとか?

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 ↓ シーギリヤ・ロックの山頂=王宮跡から下界=領土を望む。

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 ↓ ダンブッラ石窟寺院 この奥に壁画に彩られた巨大な仏教空間があった。

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 ↓ 予定が遅れて飛ばしすぎてスピード違反で捕まった。郷に入っては郷に従えということで、ガイドさんに言われるまま、日本の煙草をそっと差し出す。左の警官が持っているのがそれ。おかげでフレンドリーな対応で、おとがめなし。

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 日本のそれとはやはり相当に趣きの異なる仏教文化仏教美術ではあったが、それなりに親しみと美しさを感じられた。

 

 ↓ ボロンナルワだったか、どこだったか。あちこち回ったもんで…。裸足で拝観。

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 ↓ 遺跡にて。旅の形。

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 ↓ コロンボにはヒンドゥー寺院もある。濃すぎる!

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 ↓ さらに濃すぎるその内部。

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 ↓ 深夜1時に起きてスリー・パーダ(アダムスピーク)に登る。この山は仏教・ヒンドゥー教イスラム教・キリスト教のそれぞれ聖地とされている。標高2238mだが上までずっと(登りにくい)階段がつけられている。

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 ↓ 御来光時の「影スリー・パーダ」。

夜明け前について日の出を待っていたら、熱帯だと思ってあなどっていたせいか、死ぬほど寒かった。本当に寒いと筋肉が痛む。見えているあの山にこそ登ってみたい!

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 ↓ 高原のホートン・プレインズ国立公園。遠くに前日登ったスリー・パーダが遠望される。

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 ↓ 高原の一角、ワールズ・エンドにて。左は断崖絶壁。

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⑩2010. 9.25~10.3(9日間)

ギリシャサントリーニ島アテネ

同行:A氏(東京学芸大学教授:デザイン) 中国人留学生5名(東京学芸大大学院生:デザイン) 台湾人留学生1名(東京学芸大大学院生:デザイン)

 

 海外旅行好きの同僚A先生とその指導学生6名の旅に誘われて参加。面白かったのが、この二か国6名の留学生が、四つか五つの民族に分かれていたということである。今はよく知らないが、当時は彼らの中華人民共和国のパスポートや身分証明書には民族名が記されており、また、その民族の違いゆえの様々な問題や志向・思想、可能性等の違いがあることを知り始めた頃だったのである。

 そもそも中国とは限らず、世界には実に多くの多民族国家があり、それがどういうことなのかということを、旅を通じての体験の中で実感し始めた頃だった。

 

 ↓ ちょいとピンボケ。私も入れて三か国、5~6民族。民族って、何?

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 ギリシャは、一度は行かねばならない所だとは思っていた。美術とは限らず、西欧文明の根底にあるのがギリシャ文明だということは、いまさら言うまでもないこと。にもかかわらず、私はそれを避けてきたというか、自分には縁が無いように思っていた。ギリシャ美術に、美としての実感を、感じなかったからである。

 

 ↓ ギリシャ以前のミケーネ文明(たぶん)。そう言えば、よく見たら「ギリシャ彫刻」の写真を一枚も撮っていない…。

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 今回の旅でそれが埋まったかというと、そうでもないのである。そもそも、モザイク以外に当時の絵は残っていないのだ。むろんそのモザイクは素晴らしかった。パルテノン神殿の壮大きわまりない美しさにも感動せざるをえなかった。

 

 ↓ パルテノン遠望。

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 ↓ パルテノン神殿

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 ↓ アテネ市内 民族衣装の衛兵交替のパフォーマンス。

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 そしてそれ以上に面白かったのが、できたばかりで、何の予備知識もなく入ったビザンティン美術館のイコン群だった。

 

 ↓ ビザンティン美術の優品の数々。

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 ↓ これは珍しい ビザンティンイコンの下絵。

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しかし、何よりも素晴らしかったのは、結局、サントリーニ島の景観、風物であった。

 

 ↓ リゾートしている私。

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 ↓ サントリーニ島パステルカラーのキュビズム迷宮。

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  ↓ こんな感じ。

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  ↓ 新先史期博物館か考古学博物館か、どっちかの博物館にあった、たぶんミケーネあたりの壺。美しいフォルム。

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⑪2011. 3.1~15(15日間)

キューバハバナ・トリニダー・サンタクララ・サリーナ島・ビニャーレス渓谷)~メキシコ(メキシコシティーテオティワカン

同行:M嬢(東京学芸大大学院生:洋画) I君(東京学芸大教務補助?:デザイン) G君(筑波大学大学院生:M嬢の友人)

 

  なんとなく学生を連れての旅に慣れ、自信を持つようになっていた。その自信(過信)から自分の指導学生ではない三名と旅したのだが、それが失敗の原因だった。

 M嬢は指導学生ではないが、別の大学からから学芸大洋画研究室に来た大学院生。I君とは5年前に北欧の旅を共にし、大学入学以来だから、付き合いはそれなりに長い。しかし、今回の旅には、間際になっての押しかけ気味での参加。G君とは初対面だが、以前にキューバに留学しており、今回の旅の牽引車。彼がいなかったらこの旅は成立しなかった。

 

 いつもなら事前のミーティングを重ねて意識統一をはかるのだが、今回はみな「多忙」とかで、それが不十分なままの出発となった。

 今でも明確な理由が思い当たらないのであるが、しょせん寄り合い所帯だったせいか、意識統一の不足からか、旅の半ばから人間関係がうまくいかなくなり、おそらく全員が不愉快な思いをした。結局のところ、責任は年長者である私の不徳のいたすところ、とするしかない。われ未だし、である。

 

 ↓ カバーニャ要塞から見る首都ハバナ。電力供給不足のため、ビルにともる灯はきわめて少ない。

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 ↓ トリニダーへ向かう。

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 しかしそれ以上にこの旅のトータルな印象を暗いものにしたのは、旅先で東北大震災を知ったことである。当初は情報不足のせいでそれほど大したことはあるまいと思われたが、次第にそうでないことがわかってきた。時差の関係もあるが、そのニュースと、私の誕生日のサプライズセレモニー(?)と、上記の不和が一緒くたに発生し、参った。しかし、最年長者、旅のリーダーとしては、個人的感情でメゲたり、不貞腐れたりするわけにはいかない。パーティーを、旅を、投げ出すわけにはいかないのだ。何とか取り繕いながら、以後のスケジュールをこなしていったのである。

 

 メキシコ・キューバそのものは良かった。初めてのアメリカ大陸、中米、カリブ海キューバという特異な国の魅力ある明と暗の双方を知ることができた。まばゆい陽光と社会主義ゆえ(?)の遍在する貧しさ。

 入植したスペイン人が先住民を殺戮し尽くし、その後の革命の末に達成された「世界で一番人種差別が少ない国」。ゲバラカストロと、あの時代の神話性。

 

 ↓ 停電は定期的。そのためか断水も日常的。首都ハバナでも給水車が走るが、これはトリニダーでの光景。

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  ↓ 視察に訪れた国立芸術大学の教授であっても、給料が安過ぎて食っていけず、このように内職に励まざるをえない。見せているのはハバナ葉巻の貴重なラベルコレクション。当然いくつか買いました。

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  ↓ 貧しかろうとも人々は歌い踊る。トリニダーの路上で。

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 ↓ ビニャーレス渓谷。ここにあるインディヘナ洞窟にごく少数の先住民だけが隠れ住み、虐殺を逃れた。

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 ↓ インディヘナ洞窟の出口。中の美しい鍾乳洞をボートで下った。

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   ↓ 煙草の火を貸してあげて、路上の国際交流。トリニダーで。

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 メキシコのテオティワカンも、母が生前に訪れた地ということもあって、味わい深かった。人類学博物館も実に面白かった。

 

  ↓ テオティワカン 太陽のピラミッド。かつて私の母もあの上まで登った。

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  ↓ 人類学博物館にあった巨大な絵(部分)。細部を見ると司修の絵にそっくり。というか、司修がパクったんだろうな~。

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   ↓ 人類学博物館。中身はかなり面白いが、量があって見るのが大変。これは確か棺桶だったと思う。

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   ↓ 人類学博物館 現代の工芸品。

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  しかし、マヤ文明の美術方面では、面白さは感じたものの、私自身の深部に降りてくるところもは少なかった。フリーダ・カーロやリベラなどの現代画家については多少感ずるところがあった。

 

    ↓ ディエゴ・リベラのアトリエ。素敵!

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 帰国後三月末をもって15年間勤めた東京学芸大学を予定通り早期退職したので、これが最後の大学教員としての旅となった。

 いずれにしても、正直言って、その土地や文化そのものの素晴らしさとは対照的に、人間関係ゆえに後味の悪い旅となってしまったのは、今にしても残念である。

 

     ↓ キューバ、 NICHO公園渓谷で泳いだ。

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    ↓ キューバ、 サリーナ島海水浴で泳いだ。ブルジョワ的振る舞いのうしろめたさ…。

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⑫2011. 9.27~10.8 (12日間)

エストニア(タリン)~ロシア(サンクトペテルスブルグ)~フィンランドヘルシンキタンペレ

同行:A氏(東京学芸大学教授:デザイン) S君(名前失念:東京学芸大大学院生/現職教員) O嬢(東京学芸大大学院生)

 

 東北大震災、福島原発事故の余韻も冷めやらぬうちに、A氏に誘われるままに、彼の指導学生との旅に加わった。退職後、時間的余裕だけはあったのだ。

 このバルト海沿岸三国の組み合わせは、地理的合理性のある面白い組み合わせである。それぞれに魅力はあるが、地域的になんとなく大きな魅力に欠けるというか、大義名分(?)のようなものがなく、個々にはちょっと行きにくい感じがしていた。しかしこの三つを効率的につなげることによって、こぢんまりとはしていたが、まとまりのある、案外収穫の多い、良い旅となった。

 

    ↓ 城壁で囲まれた古都タリンの旧市街。

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    ↓ エストニア野外博物館で。

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    ↓ タリン的夕暮れ。

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    ↓ タリン的夜。

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 エルミタージュ美術館には確かに世界的名画もあるが、その系統のものはすでにさんざん他所で見尽くしている。その目から見れば、結局のところエルミタージュ美術館の壮大さは、しょせん田舎帝国主義の壮大さに過ぎないように思われる。

 ダ・ヴィンチ作ということになっている(ロシア以外では弟子系統の手になるものとするのが一般的なようだが)「ブノワの聖母子」の前では、中国の旅行者が記念撮影の列をなしてやかましく、鑑賞どころではない。

 

    ↓ サンクトペテルブルク 夕景。

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    ↓ いざエルミタージュへ。

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    ↓ エルミタージュ 鏡の間

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    ↓ 個人的にはこういったものの方に心惹かれましたけどね。七宝焼き。

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    ↓ 一日がかりのエルミタージュを見終わって。

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    ↓ その夜疲れ果てて入ったレストランでは、こんな色っぽい、諸国巡り風の楽しいショーをやっていた。別の日は人形劇も見た。

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 私にはそれらよりも、ロシア美術館のフォークアートやロシア正教の教会群、あるいはヘルシンキの国立現代美術館キアズマでの「アフリカ現代美術展」の方が印象に残っている。フィンランドタンペレムーミン博物館やその隣にあった鉱物博物館も案外良かった。

 

    ↓ サンクトペテルブルク 「血の上の教会」

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    ↓ ヘルシンキ 国立現代美術館キアズマでの「アフリカ現代美術展」より

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    ↓ ヘルシンキ 国立博物館 糸紬車の棹の装飾

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    ↓ ロシア美術館のフォークアート これはタンスか食器棚の扉(?)

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    ↓ ロシア美術館のフォークアート 鉄製の燭台

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    ↓ タンペレの鉱物博物館 石好き、化石好きにはたまりません。隣はムーミン博物館。

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    ↓ フィンランドの、かつては全島が要塞だったというスオメンリナ島。

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⑬2011. 11.11~14 (4日間)

台湾(台北・烏来)

同行:K T M嬢 S嬢(以上高校時代の同級生) 河村森(息子/会社員) *T嬢(元東京学芸大学の教え子/台北在住)

 

 数年来、月に一度集まって飲んでいる、高校の同期会のメンバーによる親睦観光旅行。こうした純粋な観光旅行というのは初めだが、故宮博物院に行くというので参加してみた。

 

    ↓ 台湾的裏町

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     ↓ 台湾的お茶の講習

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 この年3回目の海外旅行となる。さすがに年に3回は多すぎるとも思ったが、メンバーの一人が旅行会社を経営しているおかげで格安だったことも理由である。ただし時間のある身としては、2泊3日ではあまりに短すぎてもったいないので、またしても息子に声をかけ、二人で一日居残ることにした。ついでに学芸大時代の教え子T嬢(前年のギリシャ旅行にも同行)が故郷台湾に帰っているのを思い出し、連絡して現地で一杯飲むことにした。

 

     ↓ 台湾的屋台群

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     ↓ T嬢を囲んで (この頃はTもKも太ってたなぁ~)

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     ↓ 民族博物館などもあったが、実質、烏来での唯一の見どころの、ややしょぼい滝。

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 気楽な旅行であったが、故宮博物院と、夜ふけのうらぶれた屋台で息子と二人で飲んだこと以外は、あまり印象に残っていない。その故宮博物院も何年か前にリニュアールされて以来なのか、実に商売上手というか、展示のクオリティは高いように思った。漠然とさすがに名品が揃っているなと感心した記憶はあるが、撮影禁止だったせいか、個々の作品についてはあまり記憶がない。しかも見たかった北宋画あたりはほとんど展示されておらず、残念だった。

 

     ↓ 台北當代芸術館。「當潮 FASHIONISTA 時尚設計展」と「Beyond書法─徐永進當代書藝」という展覧会をやっていた。

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     ↓ 「當潮 FASHIONISTA 時尚設計展」より

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     ↓ 同上

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     ↓ 「Beyond書法─徐永進當代書藝」より

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     ↓ 最後は、どこかで見かけた何となくホッとする作品。

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⑭2012.11.22~26 (4日間)

カンボジアアンコールワット・トレンサップ湖)

同行:K(高校山岳部の同期:会社員) 

 

 この年は特にどこにも行く予定はなかった。だが、例によって旅好きのKと話しているうちに、短期間で近場の東南アジアならということで、急きょカンボジアに行くことにした。むろんアンコールワットは昔から見たかったところだ。

 

 ↓ アンコールワット

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 ↓ かつてアンコールワットは密林に飲み込まれようとしていた。

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 ↓ アンコール・トム

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 ↓ プレ・ループ遺跡

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 それとともに、インドシナ三国といえば避けて通れないのが、ベトナム戦争に伴う歴史と記憶である。

 カンボジアにおけるベトナム戦争時およびそれ以降の内戦と、クメール・ルージュによる理想的原始共産主義国家の建設に伴い、70~300万人が虐殺されたジェノサイドの悪夢の記憶の検証というか、その後の確認ということもあった。それは私の二十代前半の事で、それ以前のベトナム戦争における少年の素朴なシンパシーとは相容れぬ、異様な出来事であった。

 

 ↓ 地雷によって障害を負った人たちによる民族音楽の演奏。

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 ごく短時間での旅行者に過ぎない者の目でしかないのだが、おそらく地雷によるものと思われる障害者をしばしば見かけたのは予想通りではあったが、行きかう人々の中に、吾々と同年代以上の人の割合が異様に少ないことに、ふと気づく。子供や若い人はいるが、年寄りは少ないのである。その理由に思い当たり、思わずゾッとした。

 その悲劇を生みだしたのは、元の宗主国フランスで学んだ知的エリートの留学生たちである。つまりその悪夢をもたらした理念は、フランス=ヨーロッパから直接的に輸出されたというべきなのである。旅をして見るべきは、美しい風景や文化だけではあるまい。必ずしも見やすくはないにしても、民族性や歴史の負の側面もまた心して見るべきであろう。

 

 ↓ 考える私。

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 アンコールワット自体はむろん良かったが、具体的な目的物がそれだけだったせいで、時間を持て余す。しょーがねぇなぁといった感じで、予備知識もほとんどなく、たいして期待もせず行って見たトレンサップ湖の水上集落が実に面白かった。

 

 ↓ 水上集落。この時はは乾期で、水面が低い。

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 ↓ ここに生活がある。

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 ↓ こどもの生活と文化は、フルチンで泳ぐこと。

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 ↓ 少女に導かれてマングローブ林クルーズ。

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 世界遺産云々とは異なるが、そうした人々の暮らしそのものも、また一つの文化である。生活の香りがプンプンする異文化体験を堪能した。

 

 ↓ マーケット。ここに生活がある。

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 以下、その3に続く(?)。

原稿は書き上げてあるのですが、画像の選択とかアップの手間とかで、ものすごくエネルギーを費やしクタクタです…。

 

「なぜウズベキスタンなのか―過去の海外の旅を概観してみる―その1」(初めてのヨーロッパ・2回目のヨーロッパ・ベトナム・中国内蒙古・中国甘粛省~青海省・スウェーデン+ノルウェー・貴州省 篇) 

 ウズベキスタンの15日間の旅に行ってきた。

 なぜウズベキスタンなのか、と問われる。

それに対して、今回のウズベキスタンは、これまでの「美術」を軸とする私の旅の積み重ねから、必然的に出てきたのだと答えることになる。

 そうすると、ウズベキスタン以前の旅の積み重ねについて、ざっと触れておく必要が出てくる。それは私にとっても、過去の旅を「消費」しないためにも、一度はこうした形でまとめてみても良いのではないかとかねてから思っていた「手続き」なのである。

 

 それにあたって、私の旅についての主たる性格を、2点だけあげておく。

 1点目は、旅の主目的はその地の美術を見ることであり、それに付随して、その美術を成立させる歴史や風土性を見る・体験・確認・考察するということである。したがって有名な観光コンテンツではあっても、美術に関係しないものは基本的に見ない(この原則は近年少しずつ軟化してきてはいるが、大元は今でも変わっていない)。具体的に言えば、例えばパリにはのべ5日以上滞在したはずだが、エッフェル塔にも、凱旋門にも、リュクサンブール公園にも、シャンゼリゼ通りにも行っていない(と思う)。

 2点目は、私の旅はすべて個人的な営為として、それ自体を目的としており、すべて自費で行くということだ。つまり、仕事や、研究調査の名目で、他人の財布で行ったことはないということ。(ただし厳密に言えば、大学教員時代の後半、個人研究費の使い方のルールが変わって、海外研究取材等にも認められるようになり、何回か、ごく一部をそこから充てたことはある。)

 

以下に、ごく簡単に過去の旅の一覧をあげて、概要を振り返ってみる。

 

 

 *国名(都市名)の記載順は必ずしも行った通りの順番とは限らない。同行者名については実名にした場合もあり仮名の場合もある。( )内の立場は当時のもの。

 

① 1977.7.28~9.11 (45日) 

フランス(パリ・コルマール)~ベルギー(ブリュッセルアントワープブリュージュ・ゲント)~イギリス(ロンドン)~イタリア(ミラノ・フィレンツェシエナ・ローマ・オルヴィエト・アッシジ・アレッツォ・ペルージア・フェラーラパドヴァヴェネチア)~バチカン~スイス(ルガノ)~ドイツ(ミュンヘン)~オーストリア(ウィーン)~フランス(パリ)

同行:沓間宏 秋元雄史(共に東京藝術大学油画2年/*当時の立場 以下同様)

 

 3年浪人して入った大学1年の時に、同級の二人に強く誘われ、引きずられるようにして、翌年の夏休みに行った。話が出た時には、表現者としての自分の方向性を見出せないまま、芸大油絵科=ヨーロッパという「歴史的必然性」に必ずしも同意することができず、かといって、行かないという必然性も見出せず、つまりこの頃から、いわば外部性をきっかけとした行動をとっていたということになろうか。

 当時の芸大油絵科には「ヨーロッパ古美研」という希望者と教官による団体旅行の企画もあったのだが、さすがにそれに加わる気にはならなかった。また、この旅行の前に、大学の必修授業「古美研(古美術研究旅行)」で二週間かけて奈良・京都を回ったのだが、その日本体験との対照性も彼の地で面白く感じたものである。

 パソコン・スマホもなく、『地球の歩き方』も日本語のガイドブックもない時代(ついでにと言っては何だが、貧乏と好きでなかったせいで、カメラすら持っていかなかった)。45日間、ひたすら美術館と絵のある教会のみを巡り歩いた。そのハードさに同行の秋元は「もう古い絵なんかたくさんだ!」と宣言して、途中から別行動で一人南仏へ向かい、最後にパリで落ち合うことになった。私見ではこの時の経験が、彼の後の直島地中美術館(および金沢21世紀美術館・藝大美術館)でのキュレーター/館長の仕事に直結していると見ている。

 

 ↓ パリ どこだろう? 右:秋元 それはいいが、なんというパーマ頭だ…。

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 ↓ パリ モンパルナスタワーで 中:沓間。私の腹もこの頃はまだ出ていない…

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 この22歳の旅の結論としては「ヨーロッパ(およびアメリカ)に美術の未来はない。これから面白いのはアジア、わけても日本だ。」というものだった。同時に「海外なんかいつでも行ける。金さえあれば。重要なのは必然性だ。」とも言い切ったのであるが、金のせいか、必然性のせいか、次に海外に行くまでに20年以上の歳月を必要とした。

 

 ↓ イタリア アッシジ その後大地震で被害が出たと聞いたが、現在は修復されたようだ。

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 ↓ ローマにて

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② 2000. 8.8~9.9 (33日)

オランダ(アムステルダムロッテルダム・デン-ハーグ・オッテルロー)~ドイツ(ベルリン・オルレアンブルグ・ミュンヘン)~オーストリア(ウィーン)~イタリア(パドヴァ・フィレツェ・サン・ジミニャーノ)~スペイン(バルセロナ・トレド・グラナダマドリッド

同行:水上泰財(武蔵野美術大学専任教員/オランダで合流)・水上美佐緒(東京都教諭/ドイツまで)・荒木晋太郎(東京学芸大大学院1年 指導学生:油画))

 

 40歳で大学教員となり、生活も安定して数年。ようやく機が熟したというべきか、20数年ぶりの海外の旅。指導学生の荒木と二人で非ヨーロッパであるモロッコへ行こうという計画を立てていた時に、当時武蔵野美術大学の専任教員になったばかりの水上君からヨーロッパ旅行の相談をもちかけられた。油絵(≒西洋画)科の専任教員となりながら、ヨーロッパに行ったことがない彼のために、あれこれとアドバイスしているうちに、当時東京都の教員だった奥さんも途中まで加わることになり、さらにはいつの間にかモロッコは消えてなくなり、結局再度ヨーロッパに行くことになってしまった。私の計画は乗っ取られてしまったのである。しかも初めてのヨーロッパの三人のために、その旅程の半ばは、23年前に行ったところを再訪するという計画になった。まあ四半世紀ぶりの再訪・復習も一興かと思わざるをえない。

 

 ↓ 左から 私 荒木 水上君 美佐緒さん 全員タバコ吸い。

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 結論として、この旅によって、西欧(美術)はほぼ見尽くしたという感。加えて、若い時の「見る」という体験力がいかに強かったかを思い知った。四半世紀前に見たものを、身体は本当によく記憶していたのである。

ゴッホ美術館の「カラスのいる麦畑」「荒れもようの空と畑」、サンマルコ修道院のフラ・アンジェリコの壁画(再訪)、プラド美術館ゴヤの「黒い絵」におぼえず涙した。

 

 ↓ グラナダ アルハンブラ宮殿 この後フラメンコとカンテ(歌)のショーを見に行った。

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 また、この旅をきっかけに美術史に目覚めた(?)美佐緒さんが、その後私の勤務先の東京学芸大学大学院に入学し、授業等で教えることになったという後日譚もあった。

 

 

③2002.8.18~28 (11日間)

ベトナムハノイ・ダナン・ハイフォン・フエ・ホーチミン

同行:S先生(東京学芸大教授:工芸) S氏(高校教師:新海先生の教え子)

 

 初めての非ヨーロッパの旅。同じ学芸大の工芸(専門は漆芸)の先生で、私以上に骨董好きのキャリアの長く深いS先生と骨董話をしているうちに、同行させてもらうことになった。S先生の元教え子のアジア旅好きのS氏が計画手配全般を引き受けてくれ、また骨董全般に詳しい先輩が一緒なので、気楽かつ心強い限りであった。

 

 ↓ 母子二人の小さな船をチャーターしてホン川をツアーした。

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 ↓ 版画村やら、漆芸村やら、陶芸村やら、各種の工芸村を見に行った。ここは木工家具作りの村。

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 ベトナム=東南アジアという非ヨーロッパ風土を体験し、そこでの美術を見ることが目的の旅だったが、もう一つ、子供の頃から世の中というか、「社会」や「世界」を意識し始めたとき、常に背景にあったベトナム戦争という現象の、その後の姿を確認することも目的の一つだった。

 

 ↓ ハノイ近郊山岳地方のミーソン ここはベトナム戦争当時、激戦地だった。

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 ↓ 奈良の大仏の開眼供養の時、このミーソンからも僧が出席したとのことである。

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 ベトナム=中国およびフランスの旧植民地=辺境ということのありよう、そこから導き出されるコロニアルアートとも言うべき美術のありよう、そして日本もまたそうであるところの、漢字文化圏=東アジアという風土性、等々を考えさせられることになった旅だった。 

 

  ↓ ホーチミン市サイゴン)の美術館にあったベトナム戦争当時の絵。技術はアカデミック。

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④2004. 9.22~30 (9日間)

中国(内蒙古/フホホト・パオトウ・オルドス)

同行:荒井経(東京学芸大教授:日本画)夫妻 S君(東京学芸大大学院生 中国留学生/モンゴル族日本画

 

 当時同じ学芸大日本画を教えていた荒井君に誘われて、彼の指導学生S君の故郷内蒙古に行った。初めての中国だがモンゴル文化圏。

 

  ↓ パオでの歓迎セレモニー 強烈な馬乳酒を一気に飲み干さねばならない。

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  ↓ 舗装はされていないが、ここはまだ道があるからいい。やがてなくなった。ホテルに戻ったのは深夜3時。

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  ↓ フホホト東方 万部華厳経

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 旅程等はS君におまかせだったが、例えば五當召だったかに行くのに、深夜の道なき道を命がけでといった趣きの、文字通りハードなもの。異文化体験としては大きなものだった。また、歓迎の席ですすめられる酒の強さには参った。

 

  ↓ どこだったか? 新しく作られたチンギスハン記念館(?)の壁画

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  ↓ 同上 美人です。上手です。

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 風土的には面白い旅だったが、モンゴルの仏教美術は私の中には入って来なかった。

 

  ↓ 休館中の内蒙古美術館 内部では地元の美術系大学を卒業した若い画家がこのように新造の施設用の大壁画を共同製作中。彼らの未来は…。

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⑤2005.8.14~28 (15日間)

中国(甘粛省敦煌・阿克塞~青海省/烏蘭・青海湖・西寧・同仁・互助)

同行:M君(東京学芸大大学院生 中国留学生/モンゴル族:指導学生:油画) D君(東京学芸大大学院生 中国留学生/モンゴル族:油画) 河村森(息子/大学生)

 

 前年に引き続き中国人留学生(モンゴル族)二人の故郷に錦を飾る旅に、憧れの敦煌を加えた旅。チベットも加えたかったのだが、ちょっと欲張りすぎということで青海省までとした(ただし現在の青海省西蔵自治区とともにいわゆる昔からのチベットの範疇に含まれる)。ほぼ全行程車チャーターの長距離移動の旅。

 

  ↓ 敦煌莫高窟遠望

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  ↓ 敦煌付近 果てしなく続く砂漠というか土漠。

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 初めて息子も連れていった。息子と一緒というのはやはりどこか面はゆいものではあるが、それはそれとして、ある種の体験のきっかけを提供することはできたと思う。歓迎の酒宴対策の面もあったが、その点ではたいして役に立たなかった。

 

  ↓ 蒙古族自治県粛北 結婚したばかりのM君(中央右)の奥さんの実家で歓迎される。 

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  ↓ 今回の最高地点、青山坪山4412mを越えて青海省へ。茫漠たる荒野が続く。

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  ↓ D君の故郷近くの仏教寺院内部

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  ↓ D君の親族一同が近くの草原のパオに集合して歓迎してくれた。

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  ↓ 朝、散歩していたらわらわらと集まってきて、記念写真。

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 風土・風物のすばらしさは言うまでもない。だが、敦煌莫高窟については、前評判というかイメージが大きすぎて、美術としてはやや物足りなかった。やはり私は、有名すぎるところには、なにがしかのアレルギーが発動するようだ。昨年に引き続き、モンゴル族をはじめとする少数民族の領域での異文化体験。

 

  ↓ お茶を飲みに立ち寄ったチベット族の遊牧のテントの中では羊を解体して、ソーセージ造りの最中だった。

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  ↓ 黄河(?)源流域の絶景の中、旅は続く。

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  ↓ 耕して天に至るとはこのことか? 旅は続く。

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  ↓ 地元のタンカ(仏画)制作工房を訪れて勉強する。左の彼が主催者の画家。

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  ↓ 路上の国際交流。私が一局勝った後、息子に交代。

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⑥2006.9.22~10.6(15日間)

スウェーデンストックホルム・ヨテボリ・ゴットランド島)~ノルウェーオスロソグネフィヨルド・ヴォス)

同行:S嬢(東京学芸大大学院生:洋画・指導学生) M君(東京学芸大4年生:芸術学) I君(東京学芸大大学院生:デザイン スェーデンに留学中)

 

 指導学生のS嬢から、「北欧に一緒に行ってくれませんか」と言われた。聞けば彼女の恋仲の君がスウェーデンに留学中で、その彼に会いに行きたいのだと言う。つまりはお目付け役ということか。きっかけはどうであれ、北欧は昔から行ってみたかったところ。ただし美術ではムンク以外は知らない。

 

  ↓ ゴットランド島にて、たぶん火薬塔。S嬢と共に。

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  ↓ ゴットランド島のヴィスビー廃墟群(セント・カタリナ教会)

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  ↓ ルーン文字の刻まれた石碑(レプリカかもしれない)。赤い色は近年の補彩。

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 S嬢、M君という現・元指導学生と異なり、専攻分野も違い、またそれまでの接し方も違ったためか、旅行中君との関係に微妙なところもあったが、まあそれは仕方がない。二人はその後めでたく結婚し、幸せに暮らしているようだ。

 西洋美術史(≒ファインアート)の文脈にあっては、北欧もスカンジナビアあたりまでいくと、やはり田舎(≒辺境)だということを認識した。そうした場所における近代から現代の美術のありようを見てゆく中で「ローカル・アート」ということを考え始めた。むろん辺境=日本におけるそれと重ね合わせてである。

 それとは別に、工芸=フォークアートの豊かさには目をみはらされた。それらに対する人々の愛情と、保存・展示方法などについても。

 

  ↓ アイアンアート 門扉

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 ↓ アイアンアート 門扉その2

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 ↓ 刺繍 その1

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 ↓ 刺繍 その2

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 フィヨルドをはじめとする自然の景観も興味深く味わった。

 

  ↓ ノルウェー ソグネフィヨルド

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⑦2007.9.20~10.4(15日間)

中国(貴州省/貴陽・凱里・南花村・榕江・従江・岊沙・黎平・隆里・錦屏・鎮遠・台江・四川省重慶

同行:R嬢(東京学芸大大学院生 中国留学生/漢族:指導学生:油画) U嬢(東京学芸大学1年生:友人の娘) Y氏(R嬢の夫・大学教員/苗族 現地在住)

 

 三回目の中国だが、またしても辺境、少数民族の地である。結局今に至るまで、北京や上海といった漢民族中心の近代的大都市には行かずじまいである。まあ、望むところではあるが。

 指導学生のR嬢の修了論文(苗族の刺繍について)の指導の過程で、必要とされる現地調査に同行したのである。現地に在住する彼女の夫のY氏がすべて立案・手配してくれた。

 その話を古くからの知り合いのUさんとその娘と飲んでいるときに話をしたことから、その娘の学芸大1年生のU嬢も同行することになった。その展開には、自分が言い出したこととはいえ、少々面食らったが、まあそれも良かろうと。

 

   ↓ 気の遠くなりそうな棚田。そういえば日本の稲作のルーツは苗族だと聞いたことがある。f:id:sosaian:20180615013128j:plain

 

  ↓ 苗族だったか?土族だったか?何族だったか?

   とある少数民族の集落に入る際のセレモニー。むろん飲まされるのは超強い酒。f:id:sosaian:20180615013202j:plain

 

  ↓ 何族だったか? とある少数民族の集落での、めちゃくちゃ激しい民族ショー。男性の吹くのは笙。面白かったです。

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 これまでの中国旅行と同様に、やはりとても個人では回れない地域・内容であったが、私にとっては面白い旅であった。しかし、後日知った事だが、この旅は、夫婦関係がうまくいかなくなっていたR嬢とY氏の関係修復を試みる最後の機会でもあったとのこと。残念ながらその試みは成功しなかったようだ。

 

    ↓ 友人やら、親戚やら、知り合いやらとの食事。基本、シェアです。取り皿はありません。

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  ↓ 同上。この時はかなり人里から離れた小さな集落に夜中に着いて、地面に埋めた甕から取り出した「魚の漬物(なれ鮨)」とか「カメムシの唐揚げ」とか、結構なものをいただいた。ちなみに「魚の漬物」は塩辛いが美味かった。

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   ↓ こういう中国山水画的風景もあります。

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 ↓ 偶然行き会った俳優の〇〇。名刺交換までしたのに名前が思い出せない。張芸謀監督の作品にもよく出ている、日本でいえば高倉健レベルの有名俳優だとか。何かこの時は鼻のガン(?)で治療中とか言っていたような。

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  ↓ こんなのも見た。超派手で、豪華絢爛な、民族音楽舞踏その他のショー。面白かったです。

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 現地で出会った美術では染織、中でも刺繍が最大のもの。前回の北欧旅行の際のそれとも共振して、以後染織・刺繍関係に対する興味が強まった。

 

   ↓ 貴陽の青空市。ほとんど骨董市で、ずいぶん面白いものがあった。

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   ↓ 上とは別に、紹介されて骨董屋の倉庫にも行き、いくつか買った。これはそのうちの一つ。現在我が家に展示してある。

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 以下、その2 その3 と続く(かな?)。      (記:2018.6.14)

 

四国の山旅―その3 三嶺 (2018.4.27)

4月27日(金)晴時々曇り

 

 朝食後、通いなれた(?)道を名頃の登山口の駐車場へ。数台の車が停まっている。8:25カカシ達に見送られて登り始める。

 

 ↓ お見送りのカカシ(?)たち

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 剣山からの往復に比べれば、この尾根から三嶺に登る人は少ないようで、その分いっそう足の裏にしっとりとくる快適な登山道である。芽吹きからようやく新緑へといった感じの、なだらかで明るい樹林の尾根筋。下草はほとんどなく、時期がまだ早いのかと思う。熊の爪痕や、ところどころの木の幹や根に鹿の齧った跡があった。

 

 ↓ 芽吹きの尾根を行く

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 しかし下山後に宿に備え付けてあった『シカと日本の森林』(依光良三 築地書館)をパラパラと見たり、宿の人の話を聞いてみると、下草がないのはどうも鹿の食害によるものらしい。今回五日間のうち三日、四回鹿を見かけているから、鹿の生息密度はやはりそうとうに高い。それが人工林密度の高い徳島県でわずかに残っている剣山・三嶺周辺の自然林に集中しているらしい。キレンゲショウマどころか、トリカブト以外の下草をほとんど見かけなかったのも、そういうことなのか。考えてみれば、悩ましいことである。

 

 ↓ 少し尾根の狭まるところもあった

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 尾根を横切っている林道を越えると(9:05)、そこにだけ何本かのミツバツツジ(?)があでやかな花をつけている。

 

 ↓ ミツバツツジ(たぶん)

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 ↓ ダケモミの丘手前の針葉樹林帯

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 その上の針葉樹林帯を少し登れば1517mのダケモミの丘(10:08)。さらに少しばかりの急登とゆるやかな登りの後、頂上直下の急登になる。

 

 ↓ 笹原の中のガレ場の登高

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 笹の中のガレ場を登れば、頭上に頂稜の岩壁帯がのしかかってくる。

 

 ↓ 頂稜直下の岩壁帯

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 ↓ 岩壁帯基部のトラバース

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 その基部をトラバースして最後の急登を登り切れば、池の脇にポンと飛び出た。池の名前は知らなかったが、帰宅後調べてみると「龍神さんの池」というらしい。悪くもないが、もう少しふさわしい名前がありそうな気もするが…。

 

 ↓ 龍神さんの池に飛び出した

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 ともあれ、気持ちの良い一帯である。生えているのは、ミヤマクマザサ以外はコメツツジだけ。ただし花も蕾もまだ早く、今のところは味気ないだけだ。

 

 ↓ 三嶺山頂へ

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 頂上はそこから一投足だった(11:35)。比較的狭い三嶺山頂は、ここも360度の展望。昨日の剣山はおろか遠く石鎚山系まで見える。西に延びる縦走路が魅力的だ。後から何人かの人が登ってきたが、しばらくは我々だけの静かな山頂で展望を堪能する。

 

 ↓ 頂上三角点

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 ↓ ハッピーな二人

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 ↓ 昨日登った剣山方面遠望

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 ↓ 西に続く魅力的な縦走路

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 宿の弁当の昼食後、下山にうつる。帰りがけの駄賃に頂上ヒュッテのトイレに寄る。そこから振り返って見れば、笹原の先に三嶺の頂上が、ぽこんと可愛らしい頭を突き出していた。

 

 ↓ 三嶺ヒュッテと池

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 ↓ 三嶺山頂を振り返る

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 下山ルートとしては、登りと同じところを下るのはあまり面白くないというか、できれば違うルートから降りたいもの。今回でいえば登った尾根の右手の沢の対岸の尾根あたりに道があれば好都合だったのだが、ない。車の都合などからも、いかんともしようがないと思い込んでいたので、特に考えることもなくそのまま下った。しかし帰宅後地図を見ると、頂上から北に「いやしの温泉郷」に向かって登山道が記載されていた。実は下山後、ある必要があってその「いやしの温泉郷」に行くことになっていたのだ。「いやしの温泉郷」から名頃の駐車場まで歩いて1時間少々といったところだから、そこを下るという選択肢もありえたのだが、後の祭である。

 まあ同ルートピストンというのも、必ずしも悪いものではない。一度通ったところを視点をかえて落ち着いて観察できるし、安心感もある、といったことをどこかで書いていたのは池内紀だったか。それはその通りで、久しぶりの「同ルート下降」を味わいつつ降りる。

 

 ↓ 久しぶりの「同ルート下降」を味わいつつ降りる

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 途中一頭の鹿に遭遇。いったん走り去ったあと、遠くに立ち止まってこちらを見ている。何とかズームで撮影できたが、見ると腹部に妙な瘤というか、浮き出しがある。寄生虫?かとも思うが、正確にはわからない。

 

 ↓ 腹部の瘤というか浮き出しは何?

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 再びのミツバツツジの美しさを味わい、ほどなく駐車場に到着。

 

 ↓ 再びのミツバツツジ

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 それなりに変化のあるルートと山行内容、好展望を楽しめた充実した山行を終えた。

 

 その後、上述の「いやしの温泉郷」に行く。これは吾々が泊まっていたラフォーレつるぎ山に同宿していたシンガポールからの姉妹が、その前に泊まった「いやしの温泉郷」の部屋の鍵を誤って返却しそこなって困っていたのを、預かって返すためである。むろん温泉に入るのは当初の予定のうち。事前に連絡しておいたせいか、入浴料タダ、お土産付きで感謝され、かえって恐縮してしまう。ラフォーレつるぎ山にも当然風呂(徳島県で一番標高の高いところにあるという風呂)はあり、そちらも申し分のない風呂ではあるが、温泉ではない。必ずしも温泉にこだわるわけではないが、入ってみればやはり格別である。

 

 ラフォーレつるぎ山に戻ると、目の前の夫婦池畔に何頭かの鹿がやってきた。ただ見ている旅行者にとっては可愛い存在だが、地元の人からすれば「悪さばかりしよる」ということなのだろう。悩ましいことである。

 

 ↓ 夫婦沼に降りてきた鹿の群 ラフォーレつるぎ山よりズーム

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 ↓ 途中で見かけたオブジェというか樹肌の形象

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【コースタイム】4月27日(金)晴時々曇り

名頃登山口駐車場8:25~林道9:05~ダケモミの丘10:08~三嶺山頂1893.6m11:35/12:30~ダケモミの丘13:50~名頃登山口駐車場14:53

 

 

4月28日(土)晴

 入山日こそ雨にたたられたが、それ以外は(霧もふくめて)好天に恵まれ、三日で五つの山頂に立つことができた。連休前という選択も正解であった。大いに楽しんだ剣山・三嶺山系を離れ、帰宅の途につく。

 貞光川沿いの細いくねくねした道も、二度目となればさほどの不安はない。下がるほどに輝きと濃密さを増す新緑を愛で、藤の紫を愛でつつ走る。坂出で豪快素朴なうどんを味わい、瀬戸内中央道のパーキングで光あふれる海景を味わう。

 

 ↓ 瀬戸内海と飯野山(讃岐富士)その他

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 昼過ぎ、新倉敷駅でパーティーは解散。それぞれの帰途についた。次は七月の北海道だ。

                              (記:2018.5.2)

 

四国の山旅―その2 次郎笈~剣山~一ノ森 (2018.4.26)

 4月26日(木)

 朝、薄い雲はあるが、晴れている。7時からの朝食を済ませ、車で登山口の見ノ越へ。宿泊施設や食堂、土産物屋などがある。

 靴を宿に置き忘れ取りに戻るというお粗末な一幕の後、駐車場わきの剱神社の石段を上がる。

 

 ↓ 剱神社の石段

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 見ノ越からは登山用リフトもある。それを使えば登り30分の地点まで上がれるということだが、さすがにそれは使わない。山は、特に尾根ルートは、なるべく下から登るのが正しいのだと今でも思っているが、実際に車道がかなり上まで上がっていて、それを使うのが定番となっていれば、やはり使わざるをえないことの方が多いのはいたしかたのないところ。

 ちなみに登り30分で頂上というのは、百名山の中でも最短だとのことである。しかし、それでなくとも見ノ越が標高1400mなのだから、1955mの剣山山頂まで標高差555mしかないのだ。リフトを使ったらバチが当たろうというものである。今回、少し前から膝を痛めていたというF嬢は、昨日の丸笹山では多少痛んだとのことだが、とりあえず予定通り行ってみるとの由。

 歩きやすい道は、私の勝手な予想に反して植林帯が全くない。快適である。

 

 ↓ 登り始め

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 なにやらいわくのありそうな、祠の置かれている巨岩の脇を通り、45分ほどでリフトの終点西島駅(9:10)。そこから中腹の大劔神社へのルートをとる。昨日と違って右に昨日登った丸笹山とその尾根続きの塔丸、そしてその左に明日登る予定の三嶺が見える。ともに良い山だ。

 

 ↓ 昨日登った丸笹山 

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 ↓ 三嶺遠望

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 大劔神社も背後に巨岩を背負っており、修験道の雰囲気がわずかに残っている。すぐ先に御神水の湧き出る泉と祠がある。日本名水百選だとか。なんだか私は、こうした何とか100選とかいうのを見たり聞いたりするたびに少し憂鬱になるのであるが、飲んでみれば味は良い。昼食用にと2ℓほど汲んだが、それは後にレトルトカレーとパックライスを湯煎するのに使われただけだった。

 

 ↓ 大劔神社と背後のお塔石

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 ↓ 左下の穴が御神水

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 振り返れば先ほど大劔神社の後ろに見えていた石灰岩の岩峰が迫力ある全容を見せていた。お塔石というらしいが、最長で40m、3ピッチぐらいか。直登するのもそれほど難しいとは思えないが、だれか登った人はいるのだろうか。大劔神社御神体というか依代とも見えるから、登ったとしても公表するわけにはいかないかもしれないが。

 

 ↓ 石灰岩の岩塔「お塔石」 登りたい!

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 すぐ先で主稜線と合流し、一服する。次郎笈が魅惑的な姿態をあらわにする。山が樹林帯ではなく笹原で覆われているのために、薄物だけを身にまとっているように、いっそうなまめかしく見えるのである。

 

 ↓ 魅惑的な姿態の次郎笈

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 ↓ 次郎笈峠付近

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 それなりに距離があるように見えたが、歩き出せば案外早く1893.6mの頂上に着いた(11:35)。展望は360度。申し分ない。

 

 ↓ 次郎笈山頂にて

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 ↓ 剣山遠望 左は丸笹山

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 三嶺へ延々と延びる縦走路は格別としても、それ以外の山々も魅力的に見える。徳島県は県土面積の75%が森林で、その62%が人工林(植林)とのこと。自然林のほとんどはこの剣山三嶺山系に集中しているとのことだが、遠くの山もかなり魅力的に見えるのはなぜだろう。ここに来るまでは、四国の山は植林帯が多く、魅力に欠けるというイメージというか先入観を持っていたのだが、実際に来てみなければわからないものだ。

 

 十分展望を堪能してから、剣山に向かう。頂上の直下から木の階段になり、三角点一帯はぐるりと木製の回廊。

 

 ↓ 剣山頂上直下

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 ↓ 三角点にはふれられない。しかし三角点に注連縄が張り巡らされているのは初めて見た。

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 植生回復のためであり、何よりも有名であるがゆえのオーバーユースがもたらした荒廃からすれば、やむをえない。こうした事態は百名山とは限らずとも、多くの特定の山で進行中の悲しい事態であるが、それもまた自然と日本人の、いや自然と人間とのかかわり方のありようの一面である。

 それはそれとして、それぞれの念願の、あるいは課題であった剣山登頂は、やはりうれしいことである。

 

 ↓ 一ノ森遠望

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 御神水によってあたためられたパックライスと三種類のレトルトカレーの昼食は、聞けばF嬢の非常用備蓄食料のローリングストックだとか。なるほど(?)、こういう使い方もあるのか。さらにコーヒーとデザートフルーツ付きときては、普段貧しい山の昼食に慣れている身としては豪華すぎる感があるが、まあこれはこれで…、美味しくいただいた。

 

 ついでに剣山といえば、ソロモンの秘宝という「トンデモ」的、「ムー」的話題がある。日ユ同祖論を背景とした失われた聖櫃や剣山=ピラミッド説などといった一種の偽史であるが、実際に戦前にはこの頂上一帯でそれを目的とした発掘調査が行われたとのこと。まあ、青森県に今でもイエスキリストの墓があったり、各地に徐福伝説が残っていたりするくらいだから、面白いと言えば平家伝説以上に面白いかもしれないが、かつてはともかく、今現在は私としては全く興味がない。ただし、今回ひょっとしたらその発掘調査の際の痕跡のようなものがどこかに残っていないかと見まわしてみたが、それらしきものは見当たらなかった。(これらの項目については馬鹿馬鹿しいので、これ以上ふれない。興味のある人は勝手に調べてください)

 

 頂上ヒュッテのトイレを借りにたち寄ってみる。ヒュッテはやはり祠の置かれた巨岩(宝蔵石)に隣接している。位置、名前からしてもかつてはここが信仰上の中心だったのだろう。ここ以外にも、点在するすべての巨岩にはなにがしかの祠が置かれているようだから、基本的に修験道=巨石信仰といった関係が言えるのだろう。ヒュッテでは連休の小屋開設に向けて、その準備におおわらわの呈であった。

 

 ↓ 頂上ヒュッテと宝蔵石

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 一ノ森に向かう道は、相変わらず笹原の中の歩きやすい道。

 

 ↓ 笹原にはいたるところに鹿の路が記されている。近い将来の食害が予想されている。

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 途中からしばらく栂などの針葉樹林帯になる。特有のターペンタインの芳香が、絵描きである私には懐かしく感じられる(ターペンタイン=テレピン油は油絵の溶剤の一つとして使われる)。ふと見ると足元に熊のものと思われる糞を見つけた。翌日の三嶺でも何か所か熊の爪とぎの跡を見つけたから、この一帯には確かに熊が棲息しているのだろう。

 

 ↓ 熊の糞

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 新田次郎が揮毫した遭難費のある分岐を過ぎればほどなく、一ノ森ヒュッテ。そのすぐ裏が山頂だった(14:20)。この日三つ目の山頂となればやや感激も薄れるが、ともかく山頂である。次郎笈、剣山と来し方を振り返る。

 

 ↓ 一ノ森ヒュッテ

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 ↓ 一ノ森山頂のグラサンの人と隠れている人

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  別ルートから再び先ほどの遭難費のある分岐に戻り、右のトラバースルートに入る。

 

 ↓ 白骨木その1 後ろは次郎笈

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 ↓ 白骨木その2

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 単なる巻き道かと思っていたら、源流部を横切るため、ガレ場ザレ場の通過が多く、それなりに危険性のある個所も多い。雪が多ければ雪崩道となるようなところが多いが、特にその痕跡も見えないから、雪崩れるほどの降雪量はないのだろう。

 巨岩と祠のある分岐から右に入る。後から知ったのであるが、このあたりは修験道の行場となっており、その跡を辿ってみるのも興味深いだろう。しかし今回は事前の知識もなく、ただ歩きやすいルートを選ぶのみに終わってしまったのは、少々残念だったかもしれない。

 

 ↓ 行場にある巨岩 名は知らず

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 キレンゲショウマの群生地と表示のある場所でそれらしきものは見えず、まだ季節的に早いのかと思った。あるいはそこに生えているほとんどただ一種類の群落がそれかと思って、後で確認したところ、それはトリカブトだった。キレンゲショウマその他は鹿が食べ尽くし、トリカブトのみ、有毒ゆえ鹿も食わずひとり繁栄しているということだった。むろんここに限らずいたるところに鹿除けのネットは張り巡らされているが、あちこちで倒れたりしていて十分には機能していないようだ。

 

 ↓ ひとり栄えているトリカブト

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 ↓ 名前を調べたが忘れた。確か、何とかオウレンとか。あまりに小さすぎて鹿も見逃したか。

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 最後の登りに汗をかくと刀掛けの松に出た。祠といくつかの石仏がある。

 

 ↓ 最後の登り

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 ↓ 刀掛けの松

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 ↓ 猿田彦とあるが、ちょっと珍しい図像。全体の形もあまり見たことがない。帰宅後しばらくたってから気がついた。「剣」をかたどっているのだ!

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 ここからはリフト終点からの正面登山道であり、にわかに大道となる。小休憩の後、西島駅からF嬢は大事をとってリフトで降り、私とKは朝登った道を降り、駐車場に戻った(16:23)。

 

 次郎笈、剣山、一ノ森と三つの山頂をめぐることで、変化のある面白い山歩きができた。久恋というほどではないが、長く登ってみたいと思っていた山である。14番目の百名山というF嬢も、有名山岳好みのKも満足そうだ。それぞれに充実感を抱いて宿に帰った。

 

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 【コースタイム】4月26日(木)晴時々曇り

見ノ越駐車場8:25~西島駅9:10~大劔神社9:40~次郎笈山頂1930m10:50/11:13~剣山山頂1955m12:07/13:17~一ノ森ヒュッテ14:10~一ノ森山頂1879.6m14:20/14:30~分岐の祠15:08~刀掛けの松15:28~西島駅18:46~駐車場16:23

四国の山旅-その1 霧の丸笹山 (2018.4.25)

 2年ほど前から高校山岳部時代の同期と後輩の三名で、ごくプライベートで怪しげな「OB会」をでっち上げ、山口県と東京から参集して、北アルプスや九州、大峰などで年に二、三回の「合宿」と称する山行を行ってきた。

 その間、帰郷したKを中心に故郷の山口県で何名かの後輩が集まり、「プライベートなOB会」として、県内を中心に月に一二回の山歩きを楽しんでいるようだ。多くは還暦の前後になってから山歩きを再開した者ばかり。一般ルートの尾根歩きではあるが、体力や技術・経験の点からして、まじめに組織論や遭難対策の面を考えれば、不安をおぼえるところがある。

 しかし、そこはすでに確立した大人の意識(?)というものがあり、いわゆる山岳会的な意識性といったものを求めるのは難しいというか、無理がある。60代前半の、それなりの時間と余裕があり、山歩きの面白さに再燃し、そして拘束されることを嫌うリタイア組特有の危なっかしさを指摘するのは容易であるが、そうした指摘もまた野暮だと思えないこともない。悩ましいところである。

 

 それはさておき、三月四月は身辺に私個人以外のことでいろいろと悩ましいことが多く、山に行く気もなかなか起きなかった。恒例(?)の春合宿の計画もなかなか来ない。今回は流会かなと思う頃になって、ようやく連絡が来た。四国の剣山と三嶺。この「OB会合宿」の通奏低音となっている百名山(と二百名山)である。

 いうまでもなく、私は昨今の百名山ブームを苦々しく思う者である。むろん、そこに取り上げられている山々を否定するものではない。それらのほとんどは、間違いなく素晴らしい山々だと思う。その選定の妥当性はさておき、と言ってみたところで、それはあくまで深田久弥個人の価値観・美意識なのだから、否定もしようがないのである。

 誤解がないように言っておけば、私は基本的に書物としての『日本百名山』は、割と高く評価しているのだ。

 嫌いなのは、自らの山を探そうとせずに、無条件にガイドブック的カタログ的指標として深田百名山に身を寄せるという意味での「ブーム」なのであり、それをニーズとして商品化しまくるメディアと商業主義なのだ。

 したがって私自身は、百名山踏破を目標とする意識は持ち合わせていない。といって、百名山にだけは登りたくないという偏屈な気もない。登りたい山のいくつかが、たまたま百名山に選ばれているということだ。

 ちなみに私の登った百名山は、リストの上では、これまで42座。ただし、その内の阿蘇山丹沢山、富士山の三つは、実はその最高地点を踏んでいない。阿蘇山は火口を一周したが高岳山頂には立っていない。丹沢山は塔ノ岳山頂と二三の沢と別の一つの頂。富士山は氷雪の吉田大沢を登りつめた吉田口山頂(?)。剣ヶ峰には立っていない。

 しかし丹沢山で言えば、深田久弥自身が『日本百名山』の「丹沢山 1673米」の項で「最高峰は蛭ヶ岳(毘盧ヶ岳)で」、「私が百名山の一つに丹沢山丹沢山というのは山塊中の一峰である)を取りあげたのは、個々の峰ではなく、全体としての立派さからである。」と記している。表題の「丹沢山」は地図上では1567mであり、1673米なのは蛭ヶ岳であるから、やはり山塊としての「丹沢」山全体を意図したということであり、かならずしも最高地点にはこだわっていないということでもあるのだ。

 いずれにしても、リストアップした当時は、私も厳密には最高地点のことなど気にしていなかったのだ。だが、それはそうだとしても、今思えばやはりスッキリはしないのである。できればいずれその最高点を踏みに再登したいという気も、多少はある。しかし、何が何でもというほどではない。

 余談であるが、『日本百名谷』(関根幸次・中庄屋直・岩崎元郎 白山書房 1983年)は13本。百名山完登者は数多くいるが、百名谷完遡行者というのは、果たしているのだろうか。困難度でいえばはるかに高いが。

 ともあれ、剣山と三嶺は昔から登りたかった山だ。そして四国にはなぜか長く縁がなく、遠いところだった。したがって今回の計画は私にとって、千載一遇というべきチャンスなのである。

 

 

4月25日(火)雨時々曇り

 新幹線で新倉敷駅へ。昼過ぎ、山口から車で来たKとF 嬢と合流。雨の中、剣山へ向かう。初めて通る瀬戸中央自動車道も雨で、瀬戸内海の島もほとんど見えない。ただカーナビの指示に従い、峠を越え、貞光川沿いに走る。奥に行くほど道幅は狭まり、ヘアピンンカーブの続く、なかなかスリルのあるドライブだった。運転ができず、土地勘もない私はただただ助手席でハラハラするのみ。目的地に近づけば、かたわらの山腹を四五頭の鹿の群が駆け上り、こちらを見下ろしていた。

 夕方、濃い霧のたれこめる夫婦沼そばのラフォーレつるぎ山に到着。ここはすでに標高1450m。元は国民宿舎だったという、ホテル風の立派な宿である。登山のベースとしてはいささか贅沢すぎるような気がする。連休前とあって客は我々のみ。夜は強い雨で、翌日からが思いやられる。

 

 

4月25日(水)

 もともと天気があまり良くない、変わりやすいのはわかっていた。そのため宿をベースに日帰り登山を二日、一日を予備日もしくは観光に充てるというのが当初からの計画だった。

 朝、雨は降っていないが、濃い霧。前夜、宿の支配人(?)にすすめられた丸笹山1711.6mに、足慣らしを兼ねて登ることにする。丸笹山は宿がすなわち登山口で、標高差260m、往復2時間足らずの山。ガイドブックには出ているようだが、全く頭になかった。

 露対策もかねて雨具上下とスパッツも着用。指導票にしたがって登り始める。

 

 ↓ ラフォーレつるぎ山の前の登山口で

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 よく歩かれているようで、歩きやすい。露を払うような下草もない。時おり梢から雫がおちてくるだけだ。針葉樹林帯をしばらく行くと落葉灌木帯になる。

 

 ↓ 登り始めの針葉樹林帯

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 ↓ 落葉灌木帯

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 途中いくつかの石仏があった。第何番と刻まれていることからしても、信仰登山の対象である剣山とセットのような形で、それなりに古くから登られているのだろう。

 

 ↓ 石仏三体三様

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 ↓ 石仏その2 完全に苔にのみこまれている。何かを全うしきったような、良い感じだ。

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 ↓ 石仏その3 第29番

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 ゆるやかな登り道はすぐに背丈の低い笹原となり、霧で先が見えない中、そこから一投足で頂上だった。あっけない登高だったが、感じの良い頂上である。展望は良いはずだが、周囲360度霧で何も見えない、いや、霧だけが見える。それもまた悪くない。これならいっそのこと、もう一つすすめられた塔丸1713.3mを目指せば良かったかなと思ってもみるが、後の祭。

 

 ↓ 白い笹原を行く

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 ↓ 山頂

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 下山は北に向かう。すぐに赤帽子山へのルートとぶつかる。こちらもそれなりに魅力的だ。

 

 ↓ 山頂から北に向かって下る

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 ↓ 赤帽子山への分岐

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 道を左にとれば貞光川の源流をトラバースするようになる。

 

 ↓ 貞光川源流沿いにトラバース

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 ↓ 貞光川源流

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 まだ芽吹き以前のやや荒涼とした景観だが、霧と苔むした源流の雰囲気がそれなりに味わい深い。

 

 ↓ 霧と苔の世界

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 瞑想的な歩みしばしで登山口に戻った。実質1時間半ほどのささやかな山登りだった。ささやかではるが、味わい深い、もうけものというか、拾い物の山だった。

 

 

 

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  ↓ ラフォーレつるぎ山の前の夫婦沼 小さな池だが霧で対岸も見えない

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観光篇

 

 宿に戻っても雨にはなりそうもない。時間もあるし、服を着替えて今度は観光におもむく。

 

 途中に「かかしの村」という不思議な集落がある。住人の数より多い等身大のぬいぐるみがあちこちに置かれ、それ目当ての観光客が来ている。微妙なイメージであるが、とりあえずスルーして、奥祖谷二重かずら橋へ。

 私はいつもたいていそうなのだが、今回も周辺の観光に関しては不勉強で、かずら橋が近くにあるということも、そしてそれが二か所あるということも知らなかった。そもそも、剣山が祖谷渓の奥にあるということすら知らずに来たのである。山登りと同様に観光にも貪欲な、KとF嬢の仰せのままに、である。祖谷渓にせよ、かずら橋にせよ、一度は見てみたかったところなのだから、ここはまあラッキーとしておくべきであろう。

 この奥祖谷の二重かずら橋は、その名の通り隣りあって二本かかっている。金550円也を払ってさっそく渡ってみる。

 

 ↓ 奥祖谷の二重かずら橋 遠景

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 ↓ 奥祖谷の二重かずら橋 近景

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 まあ写真のとおりであるが、芯にはワイヤーが使用されている。今どき当たり前といえば当たり前だが、な~んだ、という感も少しある。

 

 ↓ ワイヤーが見えるのが残念

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 ↓ 葛の造形 芯はワイヤー

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 その先には野猿もあり、こちらも乗ってみる。野猿(やえん)とは籠の渡しとも言い、いわば人力ロープウェイである。こちらは屋根付きの立派なもの。実際に実用されていた頃は、もっとむき出しの危なっかしいものではなかったかと推測される。30年以上前に朝日岳から白馬岳に登った時や、海谷に行った時のものはそうだったような記憶がある。

 

 ↓ 野猿 到着する時と下りる時には結構腕力が要る

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 次いでもう一つの、おそらくこちらの方が本家(?)として有名なのではと思われる、祖谷のかずら橋へ行く。見かけはこちらの方が葛を纏う量も多く、よりそれっぽいが、芯がワイヤー(と見えないようにコーティングされている)なのは同様。さらに隣接してコンクリート造りの近代的な橋が並行しており、やや興ざめだが、まあ仕方がない。足元の隙間を通して見える川面までの空間を楽しむ。

 

 ↓ 本家(?)祖谷のかずら橋近景 造作はより丁寧になされている

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 ↓ 隣接する橋からの遠景 水色はイマイチだが新緑と藤の紫は美しい

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 ↓ 皆さんこんな感じでしがみついて渡っています

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 ↓ ワイヤーは微妙にカモフラージュされています

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 ついでにすぐ近くのびわ滝も見に行った。まあ、祖谷渓で二か所のかずら橋を見たということだ。

 次いで大歩危へ行く。ここも名のみ知ってはいたが、具体的なことは何も知らなかった。各地の渓谷を見てきた目からすれば、単なる山間のそこそこ大きな流れとしか見えない。だが、本来ここを味わうには、国道から眺めるだけではなく、船で川下りすべきなのだろう。しかし今回はそこまでの時間も熱意もない。かたわらの道の駅で早々に土産を買って、小歩危も見ずに宿に戻ることにした。

 途中、工事のため30分ほど通行禁止で待たされる。暇つぶしにすぐそばの山腹に登って、ふと足元を見たら有害獣駆除の罠が仕掛けられていた。鹿用か猪用かわからないが、知らずに足を突っ込んでいたらどうなったのだろう?

 

 ↓ 上部の輪っかに足を入れていたらどうなったんだろう?

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【コースタイム】4月25日(水)霧

フォーレつるぎ山前登山口8:45~丸笹山山頂1711.6m9:30/9:43~貞光川源流~登山口10:32

 

「400回目の山」 坪山から大寺山をへて尾名手尾根下降 (2018.4.5)

2018年4月5日 曇りのち晴れ 同行:K

        2.5万図/猪丸・七保 最大標高差:676m 

 

 何回かの延期をへて、前回から二週間以上たった。期が熟したというのか、ようやく山に行く気になった。3月29日、5時起床。朝食を食べ、準備を終り、さあ靴を履こうかという時になって、女房が起き出してきた。ここ最近血圧が上がり、前日に病院に行き、前夜も薬を飲むなどしていたのだが、一睡もできず、頭が痛いという。血圧を測ると205/125。尋常ではない。

 かつて社会人山岳会に在籍していた頃は、パーティー山行である以上、共同装備・食料等の関係もあり、まだケータイ電話もない時代で、ドタキャンということはできなかった。たぶん具合の悪かった家族をおいて山に行ったことも、自分の風邪や体調不良をおして山に行ったことも何度かはあっただろう。しかし、今は情況が違う。この情況ではさすがに山に行くわけにはいかない。中止である。

 午後になって、女房は再度病院に行き、点滴を打ったりして、ようやく落ち着いた。その後数日様子を見ると、根本的な解決はともかく、とりあえずは大丈夫なようだ。やれやれ、一安心である。

 

 しかし、今度はこちらの「気」が上がらない。山に行きたいのだが、行く気になれない。何となく煮詰まって鬱々とした日々。そんな時、かねてから話をしていたKから連絡があった。

 山口県在住の高校山岳部同期の、あいかわらずのマグロ男(マグロは泳ぎ続けていないと死んでしまう―らしい?)Kは、今回は首都圏在住の娘から車をもらいに来て、ついでの旅三昧らしい。こちらの情況を知って遠慮するが、むしろ来て欲しいのは私の方。むろん一緒に山に登るためである。日々何かしら活動し行動し続けるKは、山も今年に入ってすでに8回も登っているとのこと。こうなるとあらためて知るのは、Kが私にとって、強力な外部性、縁、きっかけとして機能するということだ。

 

 前日4月4日夕方、車でやってきた。さっそく一杯飲みつつ、翌日の計画を立てる。坪山に登るのに電車で行く場合、鶴川側からでも葛野川側からでも上野原駅から午前中1本しかないバスを使わなくてはならないのだが、車利用だとその点がどうにでもなる。さらに南秋川の甲武トンネルを使えば、自宅から鶴川沿いは案外と近いのである。せっかく珍しく車を利用するのだからと、かねてから登りたかった坪山を軸に、うまい周回ルート案をひねり出した。

 ふだんから早寝早起きのKに引きずられて、睡眠時間もしっかり確保し、いつもよりゆっくりと自宅をでる。桜、ムラサキツツジその他、百花繚乱、花ざかりの秋川沿いから檜原村南秋川に入り、甲武トンネルを抜ける。

 

 入山地点近くの駐在所に寄って、車を止められる場所を聞いていたら、いつの間にか登山届を出せということになって、その場で書かせられる羽目になった。昨年末の3人が死亡した遭難の影響があるようだ。その現場となった飯尾からの東コースには入るなと言われた。そこは、元々われわれの予定ルートには含まれていないが、あれはあれでちょっと不思議な遭難であった。私は当初、頂上前後の東西に延びる痩せ尾根のどこかでの転落だと思っていたのだが、実際は飯尾登山口からダイレクトに頂上に突きあげる二本ある尾根の、(より険しい)東コースでのことらしい。新聞報道以上に詳しいことはわからないが、滑落が原因にしても三人同時にというのが解せない。全員が70歳以上という年齢のことは確かにあると思う。

 ともあれ、おとなしく登山届を提出し、すぐ先の「びりゅう館」という施設の駐車場に車をデポすし、その脇の道標にしたがって登り始める。

 

 ↓ 「びりゅう館」 この左が登山口

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 ↓ 登り口

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 南に延びる尾根につけられた路はよく踏まれ、歩きやすい。しばらくは植林帯が続き、やがて広葉樹林帯も出てくる。芽吹き始めてはいるが、新緑と言うにはまだ早い。振返れば木の間越しに鶴川沿いの集落が見える。ほどなく896m地点に着いた(10:15)。

 

 ↓ こんな感じ

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 ↓ こんな巨木もありました

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 ↓ 振り返って見降ろす鶴川沿いの集落

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 そこから東西に延びる気持の良い尾根の縦走となる。自然林の割合が増え、ところどころに痩せた部分も出てくる。ミツバツツジ(註.1)の花が出てくる。

(註.1)私はムラサキ(ヤシオ)ツツジではないかと思うのだが、地元のパンフにはミツバツツジとあったのでここではそれにしたがっておく。ちなみにムラサキツツジミツバツツジの違いは、雄蕊の数や葉の数の付きかたなどでわかるそうだが、葉はまだ出ておらず、雄蕊の数のことも帰宅後に知ったことなので、正確なことは保留としておく。写真を載せればよいのだが、お馬鹿なことに写真を撮っていない。より絵になる構図を求めているうちに、ミツバツツジの咲く高度を越えてしまったようだ。上部にはあまりなかった。

 

 ↓ 芽吹きはじめだが新緑にはまだ遠い渋い配色

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 芽吹き前、新緑以前の地味な色彩の樹林帯の中にあって、その鮮やかな淡い紅紫色の花は上品でありながら華やかで、一瞬息を飲むほど美しい。

 毎週のような山歩きで絶好調だというKに遅れ気味ではあるが、自分なりに快適に登っていると、今度は淡黄色の花。私は初めて見る花で、ツツジとも思えるが、葉を見ると「キバナシャクナゲ」という言葉が思い浮かぶ。後ほどやはり地元のパンフを見ればヒカゲツツジとあった(註.2)。

 

 ↓ ヒカゲツツジ 葉を見るとシャクナゲのようだ

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(註.2)帰宅後調べてみると、「シャクナゲに近い形態をしており、ツツジの名が付くが実際は有鱗片シャクナゲに分類されるべきものである(ウィキペディア)」とあった。石楠花と見たのはまんざら見当違いでもなかったのだ。ただしキバナシャクナゲは「日本では北海道から中部地方までの高山帯から亜高山帯上部にかけて自生する高山植物である(同上)」とあるから、やはりヒカゲツツジが正しい。

 

 高度が上がるにしたがってミツバツツジは減り、ヒカゲツツジアセビの花が増えてくる。例によって事前にあまり調べてこなかったのだが、坪山はこのヒカゲツツジカタクリの花の群落によって近年急に人気の出てきた山であるらしい。

 確かに坪山自体は主稜線から外れた支脈上にある目立たないピークである。5万図上の位置としては「五日市」図副の端っこにあり、山名も記されていない。つまり文字通り知られざる不遇の山といった印象だった。確かに2,30年前にはあまり聞かなかったように思う。それがこれらの花のおかげで人気が出て、登山者も増え、結果として前述の遭難という不幸な結果に至ったのは皮肉というか、残念なことである。

 

 ↓ ところどころに痩せ尾根が出てくるが、木々のせいで不安感はない。

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 しっかりした樹々に守られてはいるが、左右ともに深く切れ落ちた痩せ尾根を登り切れば、すぐ先が狭い坪山1102.7mの山頂(11:35)。平日にもかかわらず7,8名の登山者が休んでいる。吾々と同様のリタイヤ組だろうか。ほとんどが飯尾から登って来たのだろう。狭い頂上は展望が良く、目の前には三頭山が大きく鎮座している。

 

 ↓ 一坪の狭さしかないと名付けられた(?)坪山山頂 後ろは三頭山

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 ↓ 右の三頭山から左奥の鶴峠に連なる北側の景観。手前の右はミツバツツジ、その左はアセビ

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 ちなみにこの三頭山でも、写真には写っていない反対側奥多摩湖側のヌカザス尾根で13人の遭難(6人がヘリで搬送)があったのは、つい先日3月21日から22日にかけてのこと。これはあきらかにお粗末な遭難である。三頭山からほど近いわが家でも21日は午前中水分の多いベタ雪。午後から霙、そして雨にかわっていったから、山では最もタチの悪い質の雪であったろうと思われる。その中を登るのは、悪天を承知であえて行くこともありえないことではないが、種々の情報からするとどうもそういうことではないらしい。

 私自身は基本的に新聞・テレビ以外の情報をもたないのであるが、ネット上ではその内の何人かの中国の人について、「一時『中国人観光客』のグループと報道されていましたが、そうではなくて日本人もいるものの、日本在住の中国人の方?同士がネットを通じて集まったグループという事が判明しました。(-奥多摩 三頭山遭難事故の深読み-)」というのがあった(「山旅天空俱楽部 http://blog.livedoor.jp/yamatabi_tenkuclub/archives/22981131.html」)。「㈳日本山岳ガイド協会所属登山ガイドのブログです。」と記しているぐらいだから少し信用したいのだが、典拠は示されていない。したがって、それが本当なのかどうか検証・確認のしようがない。ネット上で知り合った人どうしが当日始めて会って一緒に山に登るという、いわゆる「ネット登山」に関しては、ここでは私自身は信じられないとしか言いようがないのであるが、「日本在住の中国人の方?同士」という狭いネットワークの中ではありうる話かもしれない。そもそも、そういう言説の根拠が示されないまま論を進めていくというのは、限りなくフェイクニュースに近いのではないか。

 坪山の遭難にしても三頭山にしても、いろいろな意見がネット上に出ていたが、それらの多くはほぼ素人の、憶測に基づいた怪しげなものであった。いくつかには悪意に近いものもあった。困ったものである。それにしても13人のパーティー構成はどうなっていたのであろうか。

 

 話を戻す。

 坪山山頂は気持は良いし、ゆっくりしたいところではあるが、人の多い頂上にはなじめない吾々は早々に移動することにした。正直、タバコを吸うのも憚られるのである。これ以降、誰とも会うことはなかった。

 

 ↓ 坪山~佐野峠の間

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 西に向かう尾根は踏み跡もしっかりしており、問題ない。カタクリの群落は時期が早いのか、見つけられなかった。二つ三つの登降をくりかえし、佐野峠に着いた(12:50)。ここからまっすぐ主稜線に向かって尾根上を辿る手もあるが、左には西原峠に至る巻道もあり、そちらに入る。

 

 ↓ 佐野峠

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 大菩薩連嶺の大きな支脈である奈良倉山から権現山に至るこの主稜線上には、いくつかの古い峠路や佐野山、西原山、小寺山、大寺山などがある。しかしそれらの上を、あるいはそれらを縫って古い林道が走っており、山歩きのルートとしては魅力を欠くものであると思っていた。それで主脈を忠実に辿ることに執着しなかったのである。

 

 ↓ 佐野峠に至る林道(跡?) 

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 ↓ キブシ 花はよく見かけるが、そういえばどんな葉っぱだったか?

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 西原峠着13:03。尾根の反対側に姿の良い山が見える。泣キ坂ノ頭または大峰(この二つの山名は文献によって位置が錯綜している)だ。ちょっと登ってみたくなる姿形である。ここで軽く昼食をとる。

 

 ↓ 右の円錐形が大峰 その左が西沢ノ頭 奥は雁ヶ腹摺山(たぶん)

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 峠から尾根上を辿る踏み跡も見えるが、そのまま林道を辿る。林道は現在は使われておらず、一部崩壊していたり、藪になっていたりして、再び自然に還りつつあるが、歩く分には問題はない。今回のルートは阿寺沢の両岸の尾根を周回するものなので、左手に登って来た坪山の尾根が垣間見える。

 

 ↓ 登ってきた坪山の山稜

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 ↓ マメザクラ(フジザクラ)たぶん・・・

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 ほどなく林道は二つに分岐するが、そのまま直進すると、少しずつ下り気味になっていくように思われる。そのまま沢沿いに下るつもりはないので、頃合いを見計らって、右側の斜面をかき登って主稜線上に出る。主稜線上にも、おそらく先ほど右に分岐した林道がそのまま走っている。幅広い登山道という感じだ。

 

 ↓ 小寺山山頂 赤テープに山名表示

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 すぐ先の、道から外れた右のわずかな高まりが小寺山1165m。楢の木立の、案外気持の良い山頂だ。そのまま気持の良い尾根をゆき、再び左に二つに分岐した林道の右わきに本来の登山道というか、踏み跡がある。それを辿れば一投足で大寺山山頂1226m(14:36)。ここも何ということもないが、明るく気持の良い頂上である。このあたりまだ芽吹きには遠く、景観としては晩秋の風情に近いが、空気には春の気配が満ちている。

 

 ↓ 大寺山へ 幅広い登山道のような林道跡

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 ↓ 大寺山直下

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 ↓ 大寺山

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 さてこの先である。予定ではというか、あわよくばということになろうが、直進してミツモリ北峰(1290m圏)往復というのも選択肢としてはあった。そうすれば権現山稜の赤線とつながる。しかし時間は1時間以上かかる。下に下りる頃には暗くなりそうだ。下降する尾名手尾根も一般ルートではない。ここはまあ安全第一でそのまま下ることにした。もし私一人だったら突っ込んだ可能性が高いが・・・。

 

 ↓ 大寺山からミツモリ北峰を見る

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 その結果、また赤線の未接続区間が生じたわけだが、それもまあ山の味わいの一つ。未完成の美学、「花はさかりに、月は隈なきをのみ見るものかわ」である。

 

 下りの尾名手尾根にはやや薄いが踏み跡はある。道標はないが、ところどころに古い赤テープがある。感じは良い。15分ほどで1207m。お椀を伏せたような丸いピークである。赤テープに小さくチョウナ沢ノ頭と記されていた。チョウナとは釿と書きチョンナとも発音される、斧の一種。左右いずれかの沢にあてられた名前だろう。

 

 ↓ 尾名手尾根はこんな感じ

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 さてそこからKは左手に下り始めた。こちらにしか路はないと言う。確かにかすかな踏み跡はあるようだが、薄すぎる。5分足らずで再度、地図とコンパスで確認する。東に向かうはずが北に向かっている。間違いである。登り直して、あらためて東に向かえば、踏み跡は続いている。

 路のかたわらに、少し古いが熊の糞を見つけた。これまでにも1,2ヶ所あったが、その後も含めてこの尾名手尾根だけで4ヶ所あった。爪とぎの痕もあった。猪の糞や掘り返し痕、鹿の糞や樹皮剥ぎ痕も多く、尾根全体には獣の痕跡気配が濃厚である。万が一のために笛を吹いたり、木を叩いて音を出しながら下る。

 

 ↓ 尾籠な写真ですみません。だいぶ古い熊の糞。もう少し新しめのもあったけど、写真には撮らなかった。

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 ↓ 再び尾籠で済みません。こちらは猪の糞で、いわゆる溜グソ。やはり少し古めですが、次々に積み重ねていきます。

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 ↓ 熊の爪痕 古いもの

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 ↓ 立ち枯た木の中の虫を求めて熊が齧りまくったものだと思います。

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 尾根自体は見通しも良く快適に進む。1時間ほどでちょっとした祠に至る。傍らの赤テープに尾名手山ノ神と記されていた。そのあたりから左側の支尾根に乗れば、ほどなく阿寺沢の民家の脇の車道に降り立った。

 

 ↓ だいぶ下に降りてから見上げた坪山の稜線

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 居合わせた地元の人と話をすると、やはり猪や熊は多く、家の裏庭の柿を食べに来るとのこと。そのせいか近所には猟友会の建物や猟犬のアパート(?)もあった。「鳥獣 名犬供養塔 水楢大物俱楽部」というのもあった。そこから25分ほど歩いて車デポに到着。

 

 ↓ 供養塔 同様のものは宮崎県の山の中でも見たことがある

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 ミツモリ北峰を往復できなかったのは若干心残りではあるが、まあ充分楽しめた。予想よりも良いルートであった。新緑にはもう一週間か10日ほど先だろうが、その頃にはまた別の山を歩けば良いのだ。最近はもっぱら山口県内の山を歩いているKも楽しめたようだ。

 帰途に秋川沿いの瀬音の湯に立ち寄って一浴。最近の煮詰まっていた細胞が活性化したのがよくわかる。これでまた10日や2週間は元気にやっていけるだろう。

 ちなみに前回の山行からしばらくの間悩まされ続けた股関節通は、今回全く問題がなかった。そのように、身体のあちこちが気まぐれに痛みだし、いつの間にか治り、その頻度が次第に増えていくというのが、老化の一つの現れということなのだろう。そして、いかにそれらとうまく折り合いをつけていくかが、これから続く課題なのだろう。

 

 ↓ 今回歩いたルート 上の黄色いマーキングが坪山 下のマーキングが大寺山

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 余談になるが、この稿を書き出してから気がついた。

 私はこれまでの山行をすべてリストにして、通し番号を振っているのだが、それが今回の山行でちょうど400回になったのである。

 そのリストには小学生のころの家族旅行での阿蘇山(火口は一周したが最高点には登っていない)や中学生の頃のボーイスカウトの頃のものも若干は含んでいるが、実質的には高校山岳部以降である。社会人山岳会の頃は、現地まで行ってから雨天で中止した場合は、山行回数としてカウントしたので、それらも数に含んでいる。

 実質的には50年弱で400回だから、もとより大した数ではない。一回も登らなかった年もある。せいぜい塵も積もれば、といった程度のものでしかない。しかしそれはそれとして、400回という記念すべき(?)節目の山行として、もう少し気合いを入れてというか、祝祭的に取り組んでも悪くはなかったとのではとも思うが、後になってから気づくというのも、いかにも私らしいかなと思わざるをえない。

 さて、そのリストに、今後何回の山行を加えていけるだろうか・・・。

                              (記:2018.4.8)

 

【コースタイム】2018.4.5 

 郷原びりゅう館9:28~P896m10:15~坪山1102.7m11:35~佐野峠12:50~西原峠13:03~小寺山1165m14:00~大寺山1226m14:36~チョウナ沢ノ頭1207m14:52~尾名手山ノ神~阿寺沢16:20~郷原びりゅう館16:45