艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

晩秋の南大菩薩・殿平~鞍吾山~沼沢ノ峰 (2017.11.21)

 今回の山は南大菩薩の、殿平から鞍吾山をへて沼沢ノ峰*に至り、その南東尾根を下ろうというものである。数年前から何となく気にはなっていたが、大菩薩連嶺の主脈からはずれた、いかにもマイナーな支尾根上の山であり、さほど魅力も感じず、積極的に行く気にはならずいた。例によって、地形図にも山と高原地図にも、殿平以奥は山名も道記号も記載されていない。

*文献により「沼沢ノ峰 沼ノ沢峰」、現地の山名板には「沼ノ沢ノ峰」と表記に違いがあるが、ここでは「沼沢ノ峰」で統一。

 

 しかし、単独行で、運転免許を持たないため、駅近くの、または駅からバスでということになると、自ずと行く範囲は限られ、年と共に近場で未登の山、未登のコースがなくなってくる。特に私が行きやすい相模湖駅笹子駅間ではそうなってきた。その結果、いわゆるマイナー・バリエーションルートといった趣のあるところしか、行くところがなくなってきたというわけだ。

 もともと沢登りや雪尾根を好んでやっていたのだから、マイナールートやバリエーションルートは好きだったのである。ガイドブックに出ていない、つまり人のあまり入らないルートは、登山本来の、個人と自然そのものとの、原始的かつ直接的なふれあいが可能であり、その未知性の魅力に惹かれていたのである。だからその頃は、ガイドブックに出ている、いわゆる無雪期の一般ルートには行く気がしなかった。(今はだいぶ違うが…)

 むろん、マイナーであったりバリエーションであるには、それだけの理由、欠点というか、難点がある場合が多い。技術的な問題がある場合は、誰でも行けるというわけにはいかないから、当然マイナーかバリエーションにとどまらざるをえない。岩登りや沢登り、冬山は一部をのぞいて、当然、基本的にバリエーションである。

 また、展望がないとか、ヤブが多いとか、あるいは特徴的な魅力に欠けるといった理由で人気が出ないルートもあるだろう。そうした欠点や難点のゆえに結果として、マイナールート、バリエーションルートにとどまらざるをえないということか。しかし、そうした欠点や難点が逆に魅力になったり、評価できる場合もないわけではない。それは行ってみなければわからない。

 

 今回のルートの殿平~鞍吾山~沼沢ノ峰の間は、ネット上にもいくつも上がっている。それらのほとんどは、沼沢ノ峰から上部は滝子山へ抜けている。下りを入れれば、ざっと見て実質8時間以上かかる。休憩を入れれば10時間近くかかるだろう。しかも最上部の滝子山にぬける直下の急登が厳しいとのこと。今の私には荷が重い。

 『新バリエーションハイキング』(松浦隆康 2016年 新ハイキング選書)に「恵能野川、藤沢川の流域」として「⑥瑞岳院―岩カモヤ―沼ノ沢峰」が出ていた。そこに沼沢ノ峰の南東尾根が記されていたのである。といってもその時、記事そのものは読んでいない。概念図を見て、破線を手持ちの2.5万図に写しただけ。ある日、その2.5万図を見ている内に、沼沢ノ峰からその南東尾根を下れば良いと思いついた。道記号のない南東尾根を下りきれば、そこの二俣から先は破線が記されている。歩程6~7時間、実質7~8時間での山行計画が完成である。

 

 ちなみにこの松浦隆康氏には、他にも『バリエーションルートを楽しむ』、『バリエーションハイキング』(2007年 2012年 新ハイキング選書)、『静かなる尾根歩き』(未所有 2007年 絶版)などの著作がある。いずれも膨大な量のバリエーションルートが収録されている。

 基本的に価値観、主観等をまじえない簡潔な記述なので、必ずしも親切とは言えないが、基礎的情報源としては宝庫である。ただし、紀行文ともガイドとも言い切れない記述のスタイルであるため、ある種の解読力なくして安易にガイドブック代わりに参考にすると、ルートによっては危険である。要はある程度以上の経験者向きの本だということだ。いずれにしても大した本である。それにしても、まあ、よくこれだけの数の山に行かれたものだと、感心する。

 東京近辺を対象としたこの手の本は他にもいくつかある。大都市ゆえに絶対的登山人口が多い、分母が大きいということだろう。またそれに見合って、東京近辺の山には不思議なほどルートが多い。ガイドブックに記載されているもの以外に、およそありとあらゆる尾根筋には踏み跡があり、それを辿る物好きな登山者がいる。私と同様に近場を歩き尽くした結果、必然的にマイナーな尾根筋を歩くようになったのか、あるいは意外にもまだ山仕事にかかわる人が多く、多少なりとも山路が生きているということなのか。地方では登山者の分母が少ないためか、そこまでの現象は見られない。

 

11月21日(火)晴れ 

 4時間睡眠ではあるが、珍しくすっきりと5時に起床。6:52五日市駅発。初狩駅8:55着。駅前のコンビニで昼食等を仕入れ、9:08に歩きだす。

 

 ↓ 初狩駅前から見る百反刈山(左)と殿平(右)

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 中央高速をくぐり抜けた先で地元のおじさんにあいさつされ、声をかけられた。「今日は富士がよく見えるよ」。振り返っても見えない。「いやもう少し先だ」。なるほど頭を少し出している。歩くほどに、振り返れば富士はその高さを増す。道路わきの看板に「あいさつ街道」のコピー。なるほど。

 

 ↓ 顔をのぞかせる富士山

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 ↓ 民家の庭に置いてあった石仏。頭の上の馬頭の耳の尖り具合が可愛い。

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 子神社(ねのじんじゃ)の裏手から山道に入る。標識がある。初めは植林帯だが、ほどなく自然林となる。おりからの快晴に紅葉が美しい。しかし、やや強い風は冷たい。山は初冬だ。

 

 ↓ 百反刈山の手前 朝の光に紅葉が美しい

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 気持の良い明るい広葉樹の尾根を30分ほどで、ちょっとした高みに着いた。ふと足元を見ると百反刈山794mと記されたプレートが落ちている。気づかなければそのまま通り過ぎただろう、何ということもない尾根の一地点。

 

 ↓ 足元に落ちていたプレート

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 ↓ こんな感じ

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 その先も歩きやすいゆるやかな尾根を下り、また登り返せば、そこがあっけらかんとした殿平の山頂812m(10:27)。殿平(蕨平の表記を見たこともある)は「でんでえら」または「でんだいら」と発音し、全国各地にあるダイダラボッチ・だいだら法師伝説に由来する山名である。ダイダラボッチとは、出雲系の金属・製鉄伝承と関連する巨人信仰。踏鞴(たたら)製鉄のタタラと同根だろう。

 

 ↓ あっけらかんとした殿平山頂

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 気持は良いが、三角点と山名表示板が一つあるだけの、特に何と言うこともない山頂。あちこちで目にする「秀麗なんとか」とか「なんとか百山」の看板がないだけ、幸せな山頂であるかもしれない。まあ、そこがマイナーであるゆえんなのだろうが。

 

 ↓ 逆光で少しわかりにくいが、二本の幹が癒着した連理木 縁結び、夫婦和合の象徴として吉兆とされる。すぐそばにももう一つあった。

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 ここから先がマイナー・バルエーションルート。踏み跡はやや薄くなるが、歩きやすいなだらかな尾根の起伏が続く。尾根は幅広くなったり、細くなったり。藪っぽいというほどではないが、樹林であまり展望はきかない。ところどころに倒木がある。

 1時間ほど行くと傾斜が強まり、岩場が出てくる。岩角や木の根や幹につかまり、三点確保で登る。風化したザレの上に枯葉がつもり、滑りやすく、気が抜けない。写真を撮っている余裕もない。奮闘しばしで、ひょっこりと平らな尾根の一画に出た。ソモウノ峰というピークだろう。鞍吾山はその右に3分ほど行ったところ。標高で言えば数mは低いが、1037.7mの山頂である。支尾根の突端といったあんばいで、ここもあまりパッとしない。

 

 ↓ 鞍吾山山頂

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 鞍吾山の鞍は、こことソモウノ峰を結ぶラインを遠望して、鞍の形に見立てたのだろうか。それとも鞍=嵓(くら)(岩、岩場)ということか。木の間越しに周囲の山を垣間見るのみ。そそくさと昼食を食べて、先を急ぐ。

 再びゆるやかで歩きやすいな尾根の登り下りが続く。おおむね落葉広葉樹の好ましい林相。紅葉といえば紅葉だが、彩の割合は少ない。一二週間遅かったか。

 

 ↓ 紅葉の感じ 今一つか

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 一カ所、岩っぽい所に古いロープが張ってあった。また、例の恩賜三角点や恩賜林の標識杭も見かけた。

 

 ↓ ちょっとした岩場と古い残置ロープ

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 ここまでもそうだったのだが、この間、何ヶ所かで熊の糞を見た。猪かとも思ったが、猪は溜め糞のはず。地面を掘った痕跡もほとんどなかった。同じような大きさ、量だが、何となく風格(?)が違う。よくはわからないにしても、会いたくはないもの、そう思っていたら、少し先で突然ガサガサと走りだす大きな動物。どうやら鹿だったようだ。そう言えば鹿の糞もあちこちに落ちていた。

 

 ↓ 双耳峰の滝子山 右手前が沼沢ノ峰か?

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 ↓ 沼沢ノ峰頂上直下の急登

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 鉄塔を過ぎ、二重山稜を過ぎたあたりから再び傾斜がきつくなる。滑りやすいザレの上の枯葉をどけながらの登高しばしで、左から来た尾根に乗る。そのすぐ先が沼沢ノ峰1250m(14:05)。ここもまた頂稜上の単なる一地点といったあんばい。しかし、悪くはない。山名表示板が一つだけあった。ある程度の見晴らしはある。最後まで誰とも会わない、一人だけの山。

 

 ↓ 沼沢ノ峰山頂 右の木にプレートが見える

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 さて、ここまでは予定通り、順調に来た。その先の御聖人ノタルへは一投足のはずだが、そこから滝子山山頂までは、なお標高差400mほどの、岩混じりの難儀な急登があるとのこと。遠望する限りでは、そうも見えないが、時間的にも、ここから予定通りの南東尾根を下ることにする。滝子山自体はだいぶ前に登っていることだし。

 

 ↓ 沼沢の峰南東尾根の下りはじめ

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 下り始めは踏み跡らしきものもあるように見え、何の問題もなかった。しかし、ほどなく右側の支稜に入りこみかけた。この手の尾根の下降が案外難しいのは、何度も体験済み。深入りする前に地形図とコンパスで何度も確認する。間違いと判断して左の尾根に戻ることにする。登り返すほどの事もなく、そこから沢の源頭をトラバースできるように見える。獣道らしきものも見える。トラバースし始めてみると、意外と簡単ではない。ザレの上の落葉の堆積がやっかいだ。慎重に、緊張してなんとかトラバース終了。ほっと一息。あせりと過信は禁物だ。

 この尾根は藤沢川の源流の神戸沢と達沢に挟まれた、標高差400mの細い尾根である。左右に垣間見える沢は案外低い。ということは、尾根の左右の末端は崖ないし急傾斜の岩場になっているということだ。また細い尾根ではあっても、途中でアミダくじ状にいくつかに分岐している。その分岐したハズレの支尾根の末端は岩壁である確率が高い。正解は一つしかないのだ。慎重に行くしかない。ちなみに沼沢ノ峰山頂から後述の堰堤まで、テープ類は一つもなかった。やはり登高密度は相当低いのだろう。

 その後も大岩が出てきたり、岩場が続いたり、また風化したザレに積もった滑りやすい落葉と、緊張が続く。ところどころ痩せたところがある。分岐点では慎重にならざるをえない。ルートとして面白くはあるのだが、正直それどころではない。写真を撮る余裕もなかった。右手に植林帯と幅広い沢床が見えてきたときにはこれで一安心と、その沢床に下りようかとも思ったが、自重した。

 降り始めてかれこれ1時間以上たった頃、ようやく尾根の末端、二俣に近づいた。やれやれと思ったが、近づいて見れば、その末端は岩壁となっており、下降不能。慎重に右側にルートを見出して沢に降り立った時には、心からほっとした。振返れば左右共にそれなりの規模の沢。特に先ほど下りようかと思って止めた達沢の方は、大石の滝となっている。そちらに下りなくて良かった。

 

 ↓ 二俣から見る東南尾根の末端と達沢(左)と神戸沢(右)

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 二俣からは、地図に破線が示されていることだし、楽勝のはずだった。しかしその右岸にあるはずの路がない。ところどころに小規模な山抜けというか、崖崩れの跡。路は消滅していた。渡渉を繰りかえしながら、何とか行けそうなところを行くが、いつまで行っても路は見いだせない。思い切って右の尾根に高く登って、高巻こうかとも思うが、結構なアルバイトになるし、路がある保障もない。とにかくあるはずのものが見出せないということで、不安が増す。左から支沢が滝を落として合流する。右岸にあるはずの卍も見えない。まさかそれもなくなったのか。

 方角としては間違いないにしても、沢の水流もすこしずつ増えてきている。先の渡渉も思いやられる。かなり不安を覚え出した頃、簡易水道用の新しい塩ビのホースを見つけた。これを辿っていけば良いのだ。ホッと一安心と思ったら、しばらく先で、そのホースは右の尾根の上高くへと登っていった。直接、辿りようもない。

 やがて堰堤が出てきた。地図によればこのあたりでは破線路から実線に変わり、林道が上がってきているはず。しかし、そんなものはない。堰堤を左に上がれば作業道がある。しかしそこを降りれば、またなくなる。この辺にきてやっといくつか赤テープが出てきたが、意味不明だ。そんな感じでさらに二つの堰堤を越えた先に、ようやく舗装された立派な林道があった。今度こそ間違いない。本当にやれやれである。身体よりも心理的疲労感を覚えた。

 

 ↓ 集落の手前にあった山の神の神社 やれやれ…

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 その先、しっかりした車道はあるが、地図にはない道も色々と錯綜しており、気分的に疲れた。別荘地を過ぎ、今朝の登り口の子神社に至り、今度こそ本当にホッとすることができた。薄暗くなりかけた頃、初狩駅に着いた(17:00)。8時間、まあ、終わってしまえば予定通りである。

 

 ↓ 暮れなずむ富士

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 今回の山行の核心部は何といっても下降の南東尾根と、その先の消失した沢沿いの道であった。林道の管轄は林野庁であり、国土地理院の管轄は国土交通省である。そのため、実際には存在する、あるいは消失した林道が2.5万図や5万図に記載されない、反映されないという話はよく聞く話である。今回、二俣以降の路に関しては、それに振り回された格好である。

 ただし逆に、このコースの状態を知った上で、南東尾根を登りに使うのであれば、変化に富んだ良いルートであるかもしれない。

 

 今回のルート上にある三つの山頂はいずれもあまり展望のきかない、パッとしない山頂である。また鞍吾山直下と沼沢ノ峰直下をのぞいて、尾根筋自体は歩きやすい気持の良いものであるが、やはり総じて展望はきかない。沼沢ノ峰から滝子山に向かうとすれば体力技術を要するロングコースであり、南東尾根の下降は経験者でないと危険なルートだ。したがって、結局のところ、今後とも多くの登山者を呼び込める一般的なルートにはなりえないだろう。そのことはこのルートにとって幸せなことだと思う。どんな世界でも、ごく少数の人にだけ認められ愛されるというタイプの人がいる。鞍吾山も沼沢ノ峰もそういう山であり続けてほしいと思う。

 

 ちなみにたまたま同じ日、故郷では先日一緒に登った高校山岳部OB会のメンバー数人である山に登っていたのだが、今回のルートでは、彼らと同行する自信はない。自分一人で精一杯である。単独で良かったと思うこともあるのだ。

 ともあれなかなか味わい深い山行であった。一流のマイナー・バルエーションルートであった。

 

 なお二俣の先の右岸にある卍は瑞岳院禅堂という由緒ある御堂で、現在もそこにあり、機能しているとのこと。沢床からでは見えない高みに位置していたようだ。塩ビのホースもそこに上がっていたと思われる。不安と焦りで、実際の位置よりも上流にあるように思いこんでいたようだ。

 

 ↓ 赤線が登高ルート

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【コースタイム】2017.11.21(火)単独 標高差790m

初狩駅9:08~子神社9:30~百反刈山10:15~殿平10:27~鞍吾山12:10-12:35~鉄塔13:13~沼沢ノ峰14:05~二俣15:25~最初の堰堤15:50~林道16:00~初狩駅17:00

旧論再録 「表現のはじまりとしてのアウトサイダーアート」

はじめに

 (長いです。旧論と合わせてA4 13ページ分あります。すみません。)

 

 先に山口県の山に登った時のことを3本、ブログにあげた(「狗留孫山」「馬糞ヶ岳」「天神山」)。その流れで次に「これはアウトサイダーアートなのか?~山里に群れなす怪獣たち (カテゴリー:路傍のアート)」もあげた。その文中でアウトサイダーアートの定義の一例をあげておいたのだが、同時に「今ここでそのことについて詳述する気はない。別のカテゴリーで、そのことにふれた拙稿〈表現のはじまりとしてのアウトサイダーアート -美術と教育の基層として-〉をあげておくので、そちらを参照されたい。」と書いた。

 そう書いたのは、その稿が『平成16年度「広域科学研究経費」に係わる報告書「アートセラピーの現状調査とアートセラピスト要請プログラムの開発」』(東京学芸大学大学院教育学研究科芸術系教育講座 東京学芸大学美術・書道講座 2005年)という、かつて大学に勤めていたころに発行した報告書に載せたものであり、したがって一般には大学の図書館にでも行かないかぎり、読むことがほぼ不可能だからである。

 

 大学の研究紀要や、報告書などといったものは、実は読まれること、きわめて稀である。部数も少なく、流通に乗ることなく、一般の人の目にふれる機会もない。同じ専門の教員・研究者・学生等であっても、読まれることはほとんどないといったものが大半である。

 近年は大学の教員であるかぎり、分野を問わず、研究成果としての論文の発表を、そしてその数を求められるようになってきた。論文を含めた研究成果が業績評価として毎年提出を求められ、点数化され、時に昇任人事や昇給等の審査の対象とされる。そのため、書きたくもない、書くべき必然性もないのに、必死にアリバイ作りとしての作文に励まざるをえない教員も多い。その結果、ほとんど中身の無い、レベルの低い、実証検証不可能な作文を載せた研究紀要やら報告書が発行され続け、頁を開かれることもなく、そのまま大量の資源ごみになっていくというのが実情なのである。むろん有意義で貴重な論文もまた多くあるのだろうが、そうでないもの方が圧倒的に多い。その費用は国費=税金でまかなわれている。

 ここで、そうした大学の実情とか、税金の無駄遣いについて言及する気はない。擁護する気はないが、一種の必要悪と言えなくもないからである。

 画家である私自身、優れた論文の書き手であったという自信はさらさらない。作品制作=個展やグループ展などは、論文とは別のカテゴリーで業績評価の対象として認められているが、だからと言って論文を書かなくて済むというわけにはいかない。いくら俺は画家だと言ってみても、大学院教育学研究科芸術系教育講座美術・書道講座に籍がある限り、そのことはまぬがれられない。

 しかたなく、書いた。書けば案外、書ける。時にはある種の面白さすら感じることもあった。芸術系の論文であるから、自然科学系における実証・検証可能性ということには及ばぬまでも、事実性を何よりも大切にし、その観点から調べ、まとめ、そして自分自身のオリジナルな考察を導き出してゆくという過程は、意外と面白かったのである。とは言え、ありていに言えば、私の書いたものなど、どちらかと言えばエッセイ(ある一貫性のある論にのっとって書かれたもの)にすぎなかったというのが正直なところであり、しかも本当にすてきなエッセイは、結局一本も書けなかったように思われる。

 

 ともあれ、件の論文はその報告書に載せたままで、Web上にあげることもなく、以後日の目を見ることはなかった。今回のことを機に久しぶりに読み返してみると、案外まともなことを書いている。もちろん今現在の目で読むと、訂正すべき点は多くあることはあるのだが、肝心の問題はいっこうに研究・改善されていないことにも気づくのだ。

 拙論を書いて以降にも、世界的動向を受け、日本でも急激にアウトサイダーアートないしエイブル・アートの認知度が高まっている。にもかかわらず、アウトサイダーアート自体の定義性、領域性等は曖昧なままであり、またそれらの要因である病理との関係が等閑視されたまま、せいぜい福祉との関連だけで流通することにより、アウトサイダーアート自体が「恐カワイイ」消費物と化しているという点である。

 この2点に関して、関係者の口は奇妙に重い。なぜ、知的ないし精神的障害にもかかわらず、人は絵を描くのか。描きうるのか。そして時として、その中に前例を見ないような美しさが立ち現われることがあるのか。そうしたことに対して、医療関係者ですら、明解な答えを示しえない。ゆえに、認知度と人気の高まりという俗な現象とは別に、「絵とは何か」、「人はなぜ絵を描くのか」という根源的な問いこそが問われ続けなければならないのである。私はその問いゆえに、アウトサイダーアートに惹かれ続ける。

 

 前書きはこれくらいにしよう。私にしたところで、上記の2点に対する有効な提案は示せなかったし、また根源的な問いに対しての答えなど、おそらくは出せようもないのだろうから。

 私が以下の拙論で示したかったことは二つある。一つは問題に到達するまでの道筋の整理の提案である。二つ目は、問題の本質を解明しえないにしても、事実として存在する障害者(及びそのアート)へ向き合うであろう、新任教師たちの教育現場での心構えについてのなにがしかの提案といったようなものである。

 以上、旧論を再録するに至った経緯である。内容、字句等に関しては発表当時のままで、一切訂正は加えていない。

 

(註:挿入図版は今回ブログにアップする際に追加したもので、論稿中には含まれていない。)

 

 ↓ 最近見たアウトサーダーアートの展覧会 アドルフ・ヴェルフリ

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 ↓ ヴェルフリの作品

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----- 旧論再録 -----

 

表現のはじまりとしてのアウトサイダーアート -美術と教育の基層として―

平成16年度「広域科学研究経費」に係わる報告書「アートセラピーの現状調査とアートセラピスト要請プログラムの開発」 pp.50-60

東京学芸大学大学院教育学研究科芸術系教育講座 東京学芸大学美術・書道講座 2005年

 

1.はじめに

 本プロジェクト「アートセラピーの現状調査と研究―アートセラピスト養成プログラムの開発―」は、本学におけるアートセラピスト養成の可能性を探ることを主目的としたものである。その一環として、本学で「アートセラピー」の授業を担当されている安彦先生の主導により、平川病院ほか二病院と連携した「描く―心の杖として鏡として―展 精神病院での芸術療法・37年の軌跡」が開催され、併せてシンポジウム「美術の力―臨床の現場より―」が催された。

 私は種々の事情からプロジェクトの全体にかかわったわけではない。しかし、今回のプロジェクトの中で一つの重要な軸であるところの精神的障害者の制作する美術が一般にアウトサイダーアートという範疇で語られることが多く、その意味で、以前から私自身の制作・研究の上からもまた教育的観点からも、強い興味を持っていた。そのため、本企画の中のシンポジウム「美術の力―臨床の現場より―」にパネリストとしての参加を求められたとき、アートセラピーというものを「アートによる治療」という観点からではなく、「アートすることによる癒しの可能性」を含むもう少し幅広い観点からとらえるのであれば、私自身のスタンスとのかかわりが確認できるのではないかと考えた。またそれと同時に、実際の授業における取り組みを紹介することによって、教育との接点における可能性を示唆できるのではないかとも考えた。そのことは、かねてから必要だと考えていた、学生や若い美術家にアウトサイダーアートの鳥瞰図を示すということにもつながると思われた。それらは次の二つの理由を根拠としている。

 一つ目は美術史的観点との関係、とりわけ近代から現代美術史において顕著に指摘できる以下の理由による。すなわち、美術は常にその属する社会と文化の中で、アカデミズムに代表されるその時どきのスタンダードによって自らの構造を維持してゆくと同時に、その一方でそれとは対照的な他者性・外部性を取り込むことによって、自らを更新・展開してきたと考えられるという点である。この更新がスムーズに機能しない時、例えば相対的な安定期、つまり他者性・外部性の導入量の少ない時期にはマンネリズムが発生する。こうした傾向は美術において特に著しいが、音楽や他のジャンルにおいても同様な傾向が見られる。

 障害者のアートに代表される、いわゆるアウトサイダーアートは、まさにその他者性・外部性として発現する。すなわち表出および表現のエネルギーの発露それ自体を自身の根拠とするということ、そしてそれゆえにアウトサイダーアートは更新という変革作用に不可欠な異質性を担保するものだと考えられる。なぜならばスタンダードではなくアカデミックでもないそれらの埒外(アウトサイド)において発現し、唯一の根拠であるところの自身すら時には宙吊りにするという異質性のゆえに、安定に対する刺激であり、挑発であり、異化作用であり続けるからである。

 二つ目を言う前に、ここでアウトサイダーアートという語の定義についてふれておく必要があるだろう。一言で言えば現在のところ、その定義は多様であり、錯綜している。それぞれの依拠する地点によって様々な定義が成り立っている。後述するように、私がこの言葉に興味を持ったこの20年ほどの間でも様々な定義と名称が提案されている。それらを概観した中から、とりあえず現在もっとも妥当かつ幅広い定義と思われるものを引用してみる。

 

アウトサイダーアートの定義】

(1)背景:過去に芸術家としての訓練を受けていないこと。 (2)創作動機:芸術家としての名声を得ることでなく、あくまでも自発的であること。(他者へ

の公開を目的としなければ、さらに望ましい) 

(3)創作手法:創作の過程で、過去や現在における芸術のモードに影響を受けていないこと。

http://outsiderart.ld.infoseek.co.jp./preface.html アウトサイダーアートとはなにか/アウトサイダーアートの世界)

 

 ↓ アウトサーダーアートのスーパースター  ヘンリー・ダーガーの作品

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 ↓ ヘンリー・ダーガーの作品その2 彼の作品は保存のため、今後まとまった展覧会は開催されないそうだ。

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 この三つの定義を個々の事例に当てはめようとすると、現実的には無理が生じる場合もあるが、とりあえずここでは「インサイド=内側・制度内の公認された」という事に対する、「外側」に立つ人々によってなされた美術という意味にとらえておけばよい。

 以上の三点を基準に考察を進めようとすると、インとアウトの境界線自体の意味が問われてくる。そして、やや強引に結論づければ、インとアウトとは規範・規定や習慣の問題にすぎない、すなわち多くの場合、相対的なものでしかないと言うことになる。したがって両者は交通可能なものであり、決して特殊な存りようではない。むしろ因子としては普遍的なものであると考えるほうが自然である。言い換えれば、誰もがそうでありうるということだ。それは芸術表現における、ある意味での普遍的要因であると考えられるからである。それゆえに個々の作品が成立する背景を抜きにして、我々は作品それ自体に共感可能なのである。その結果、二つ目の理由であるところの、そこから新たな美の領域とそれを感受しうる感覚の拡大という問題の所在が明らかになるのである。これについては4.「アウトサイダーアートの可能性」であらためて述べる。

 

2.「プロジェクト学習」における取り組み

 前述の定義(1)からすれば、多くの一般学生や子どもが作るアートはかぎりなくアウトサイダーアートに近い位置に在ると見ることが可能である。これは教育的観点から表現というものを考えるときに、重要なポイントとなる。

 私は本学の現行のカリキュラムが発足して以来、現在に至るまでの4年間「表現のはじまりをさぐる」をテーマとした「プロジェクト学習科目」という授業とかかわってきた。その中で私が直接担当しているのは、「美術表現のはじまり」をテーマとした「応用・1 色・形による表現(2)」および「総合演習」である。私の担当する「プロジェクト学習-表現のはじまりをさぐる」は当初、コーディネーターを含めて音楽科教員3名、国語科教員1名、美術科教員1名でスタートし、現在は音楽科3名、美術科2名の構成である。コーディネーターをのぞいた音楽科と美術科の教員がそれぞれ2年前期に基礎1・2を、後期に応用1・2を担当し、3年前期に総合演習を実施している。対象学生は幅広い分野に分散している。

 このプロジェクト学習は、実質的には「総合的な学習」に対応するものとして構想されたものである。余談になるが、ここにきて、教育行政のレベルでは、その成果の検討のみならず、実施や運営の情況の検討すら充分になされないうちに、「ゆとり教育から学力へ」といった言説にもとづいて総合的な学習そのものの見直しが取りざたされている。本学の平成19年度からの新しいカリキュラムにおいても、それに呼応したかのように「プロジェクト学習」の規模の縮小が規定事実化されようとしている。総合的な学習に対応した大学教育を受けた教員が現場に出るか出ないかのうちに、つまり総合的な学習に対応した感性やスキルを発揮する機会さえ十分に与えられないままに、異なる論理によって現在の総合的な学習縮小論は規定事実化されつつあるのだ。しかし、ここではそうした教育史上まれに見る教育行政の展望の無定見振りを批判しようとするものではない。

 またこれも余談になるが、「表現の始まりをさぐる」というテーマからすれば、美術と音楽にとどまらず、各専門教員による「言葉による表現」や「身体的表現」、「演劇的表現」なども含んだものとして構想されるべきであったかもしれない。実際、当初はそうした構想もあったと聞くが、現実には縮小した形でおこなっている。他のテーマを見ても多くは同様の経過をたどっている。教科横断や教科連携という趣旨からすれば、スケールダウンの観は否めない。総合的な学習という従来無かったタイプの教科に対する、専門性を軸とした多くの大学教員の意識の限界と、また総合的な学習という教科そのものの難しさを露呈したとも言えるだろう。その結果、毎年のように、必要な授業数を確保するのに苦労するという情況が繰り返されている。

 私個人としては、美術というものの本質を創造性に置くかぎり、ごく自然に総合的な学習の趣旨に多くの部分が重なると考えている。したがって両者の関係を、柔軟で流動的なものとしてイメージすることができる。しかし、学校教育における美術や図画工作といった教科性を起点に考えると、自ずと別の難しさが発生することも理解できる。また、大学教員がいわゆる教科教育と教科専門に分けられてきた経緯と現状からすれば、上記のような意識と意欲の限界は理解できないものではない。そしてまた、現場の教師達がかつて学生時代に受けてきた教育に依拠し、それを繰り返すかぎりにおいては、同様の問題が生まれることも予想されるのである。

 ともあれ、一般学生を対象とし、総合的な学習の趣旨と対応すべきものと位置づけられた「プロジェクト学習-表現の始まりをさぐる」を実施する上で重要なのは、いわゆる専門科目の意味および手法と、どのように差異を設定するかである。また教科横断、教科連携といった観点を活かすことも重要である。以下に「美術表現のはじまり」をテーマとする「応用・1 色・形による表現(2)」、すなわち「美術を軸とした総合的学習」におけるアウトサイダーアートという概念・イメージの導入のささやかな試みを紹介する。

 参考のために、シラバスとから「応用・1 色・形による表現(2)」の【ねらいと目標】、【内容】および「総合演習」の【ねらいと目標】を記しておく。

 

「応用・1 色・形による表現(2)」

【ねらいと目標】

 アートは自己と世界との出会いから生まれることを知り、自己表現の    方法、コミュニケーションの手段としてのアート(美術表現)について、総合的に学習する。

【内容】

 「表現の始まり」を探るために、まずアウトサイダーアートや子どものアート、現代美術などを参照しながら、美術表現について幅広く考える。演習形式のディスカッションや発表をおこなう。課題・レポートも課す。同時に何人かのゲスト講師や場によって、素材や様々な方法を通してアートが立ち現れるのを経験する。また、既成のイメージにとらわれないで、「色や形」と「素材性・偶然性」を手がかりにして実際に作品を制作してみる。技術的にうまい作品を作るのが目的ではなく、思いがけぬ自分と出会うことを期待したい。

 

「総合演習」

【ねらいと目標】(記載文章はコーディネーターの久保田教員)

 芸術の活動分野を、音楽、美術、文学というように区分する考えは、18世紀から20世紀初頭にかけてのヨーロッパ近代に特有な考え方である。しかし芸術活動の根源にあるのは、音、色、声など、ごく身近な素材と人間との関わりである。プロジェクト学習科目では、これら基本素材の扱い方を学んだので、総合演習はこれらを融合させたり、あるいは総合させたりすることで、芸術(アート)の垣根を越えて(トランスして)、その表現の根源を探ってみたい。

 

 ちなみに総合演習においては学生に、基礎1・2と応用1・2の四つの授業経験をふまえたテーマ設定のもとに、グループ単位での制作・表現―発表形式で行っている。現在までのところ、アウトサイダーアートに直接的にかかわる表現や、直接的に参照した表現は見られない。

 

 毎年の授業初日に実施している簡単なアンケートの結果を見るかぎりでは、当然のことかもしれないが、少数の美術専攻の学生をのぞいた多くの学生は、絵画や漫画、デザインといった一般に流通している美術作品そのものは好きであっても、それを描く、作るという点においては苦手意識を持っている。その意味でも彼らは上記(1)~(3)のアウトサイダーアートの定義に隣接した存在であると言える。したがって、上記のような趣旨にもとづいて彼らに「プロジェクト学習」を実施し、「美術表現の始まりをさぐ」らせるには、最初の段階で、美術に対する固定観念をゆるがせ、またその感性に揺ゆさぶりをかけることが必要であると考える。アウトサイダーアートにふれることは、その良いきっかけとなるのである。

 次にシラバスに掲載したものをもとに、2004年度の授業スケジュールを紹介しておく。

 

【授業スケジュール】

1週 ガイダンスおよび講義「周縁の美術について」

2週 「周縁の美術・1(アウトサイダーアート)」(スライド使用)およびそれについてのグループディスカッション

3週 「周縁の美術・1(アウトサイダーアート)」についての発表 「周縁の美術・2(民族美術・原始美術・現代美術等)」(スライド使用)

4週 「描く―心の杖として鏡として―展」ギャラリーツアーとギャラリートーク (レポート提出)

5週 制作演習Ⅰ「描くこととの出会い(スクリブル)」

6週 「子どもにアートが生まれるとき:図工の現場から」(現職教員2名による身体表現、 その他 ビデオ等使用)

7~8週 制作演習Ⅱ「素材性・偶然性との出会い」(偶然技法)

9週 制作演習Ⅱの発表と講評 制作演習Ⅲ「共同制作」の計画

10週 身体表現と美術表現(ゲスト講師:舞踏家)

11~13週 制作演習Ⅲ「共同制作」 

14週 合評会・まとめ

 

 授業形態は実習をまじえた演習形式である。テーマおよび授業内容の性格から、情況を見ながらのスケジュールや日程を変更することもある。例えば今年度は、ギャラリーツアーでは当初は予定していなかった展覧会の中心的企画者であり「アートセラピー」の授業者である安彦先生をゲストとしてギャラリートークをおこなった。また「身体表現と美術表現」は予定していたゲスト講師(舞踏家)と日程の調整がつかず、実施できなかった。その他にも日程の変更があった。

 こうした事例以外にも、これまで養護学校の教員を呼んで寝たきりの重度の障害を持つ子どもに美術の授業をした体験を語ってもらうなど、「美術表現のはじまりをさぐる」という観点から毎年2~3名のゲスト講師を招いている。そうしたことを切り口として、表現やコミュニケーション、教育、子ども、現代性といったことに模索的、発展的にふれてゆくよう意図している。

 

 例年アウトサイダーアートについてふれるのは、授業スケジュールを見てわかるように、導入の3週程度、そのうちスライドによる作品紹介は2週程度である。また後述するように、本授業ではアウトサイダーアートの概念領域を大きくとらえており、民族美術や原始美術なども含めて「周縁の美術」という概念を提示し、関連して一部の現代美術までを紹介している。したがって、紹介するものの中でのアウトサイダーアートの割合は比較的大きいが、授業全体の中で扱う知的・精神的障害者の美術(エイブルアート)の割合自体は大きなものではない。それとは別に、本年度は幸い本プロジェクトの一環として「描く―心の杖として鏡として―展」が本学芸術館で開催されることになり、実際の作品や作者に触れられたこと、また展覧会会場というリアルな場に授業の場を設定することができ、収穫は大きかった。

 授業のテーマである「表現の始まりをさぐる」とは、表現や表出における根源性を探るということである。つまり、完成され公認された芸術やアカデミックな技術的な美しさといったこととは別次元で存在するものにも美しさを見出し、そうした過程をへて個々の表現の可能性を見出そうとするものである。そうした要素は根源的であるがゆえに活力や治癒力へとつながってゆくというのが、授業者としての私の実感に裏打ちされた予想である。学生たちにとっては、普段見慣れないものへの違和感、抵抗感をどう乗り越えてゆくかということが最初の課題になる。

 そこで私の提示するのが、アウトサイダーアートの本質的な部分を、美術や教育の基層・深層に横たわるものとしてとらえる見方である。これが美術なのか?という戸惑いから始まって、そこに美しさを見出すことができるかどうか(感性の拡大)、またそれらが表現としてなされる出発点をどのように理解・共感するのか、という段階を経験することになる。

 

 ちなみに私個人とアウトサイダーアートとのかかわりは、小学生のときに初めて見た展覧会が山下清であり、初めて買った画集がゴッホということからもわかるように、ごく自然に進行した。以後、本格的に美術とかかわり始めた学生時代をへて今日に至るまで、アウトサイダーアート的な美術への関心は私の中で一定の大きな割合を占めている。いずれにせよ、関心の中心はあくまでその作品自体の美しさや造形性なのであり、他の美術となんら変わるところはない。授業においてもそうしたスタンスを明確にしている。

 私は美術における癒しということの可能性を基本的に認めているが、治療的側面や社会的有効性という点について語るには、それにふさわしい人が他にいる。しかしその際も、アウトサイダーアートを含めた美術全体に対する柔軟な感性の存在が前提であることは言うまでもない。それはどのような種類のものであれ、医学や心理学の分野との連携なくしては立ち行かないように思われる。その点からすると、教育学部単科大学である本学においては、現状では展開する上での制度的、物理的な難しさがあると言わざるをえない。むしろ教育や美術の基層におけるかかわりとして位置づけることがより有意義なのではないかと思う。

 

3・アウトサイダーアートの分類および定義

 ここ20年ほどの単位で見ても、アウトサイダーアートの定義や領域規定にはかなりの変化が見られる。そうしたことをふまえて、私の授業の中で提示するアウトサイダーアートと「周縁の美術」の分類と定義について以下に簡単な整理を試みてみる。

 

① エイブル・アート(able art)

 主に知的、精神的な障害を持つ人の為す美術である。

 エイブル・アートとは「可能性の芸術」、すなわち「障害者自身の可能性」および、「障害者を取り巻く社会環境の改革の可能性」という面を強調して名づけられた。かつてアウトサイダーアートの語は主にこの領域を中核としていたが、現在それにふさわしい名称が見当たらないため、授業においてはこの名称を借りている。また障害の範囲に視覚障害などの身体的障害を含むこともある。障害の種類や程度により多様な広がりがある。山下清高村智恵子など以外にもパトグラフィー(Pathographie:病跡学)の観点から見るとゴッホムンク宮沢賢治などにも関連した要素が指摘されている。表現というものの根源にかかわる話になるが、芸術とこうした要素の関連は古くから指摘されてきた。少なくとも一部の芸術家はこうした要素を自ら取り込もうとしていると言えるかもしれない。

 また、ジャン・デュビュッフェの提唱した「アール・ブリュット(L’art brut:生の芸術)」という概念も、この範疇に含まれる。その影響で今日の欧米諸国の一部ではアウトサイダーアーティストたちの経済面を含めた社会参加が一部実現しており、アウトサイダーアートの市場の形成とその動向が注目を集めている。

 

 ↓ 最近見た日本のアウトサーダーアート展覧会 スーパースター山下清ほか3名    山下清は日本の展覧会で通算して最も多くの観客を集めたが、その展示回数の多さのために作品の多くは激しく褪色している。痛ましいことである。

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 ↓ 同展でに出品されていた沼祐一の作品(図録から撮影したため歪んでいる)。山下清と異なり、展示回数が少なかったため、使われた色紙の色が鮮やかに残っている。

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↓ 同上 18歳で死亡 この展覧会で最も好き作家

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② ナイーブ・アート(naïve art 仏)

 「素朴派」の意味で、特に定義の(1)に強くかかわる。

 「素朴画家」の説明として「アカデミックな理論や技術と無縁な素人画家。アンリ・ルソーやセラフィーヌを発見したヴィルヘルム・ウーデによって、近代絵画における独特の一領域として初めて“素朴絵画”の概念が立てられた」(「素朴画家」/『新潮世界美術辞典』 新潮社 1985年 p.853)とある。アンリ・ルソーについて果たしてこの定義があてはまるかどうか、今日から見ると疑問なところであるが、素朴派=ルソーというイメージは一般的に定着している。また「“素朴絵画”とは表現のタイプないし作風にかかわる概念で、素朴画家と日曜画家とは本来概念が異なる。」とあるが、後述するプリミティヴィズム(primitivizm)と同様に、他との関連で領域境界の定義しにくい概念である。ルソーやセラフィーヌ以外にもアンドレ・ボーシャン、カミーユ・ボンボワ、ニコ・ピロスマニ、グランマ・モーゼス丸木スマなどをあげることができる。

 なお、世田谷美術館は「芸術と素朴」をテーマに、一貫してこのジャンルの作品を積極的に収集・研究している。(『芸術と素朴 コレクション10年の歩み』 展覧会図録 世田谷美術館 1996年 等を参照)

 また、趣味・余技としての側面に注目すると、文学者のヴィクトル・ユーゴーヘンリー・ミラー、さらにはアントナン・アルトー宮沢賢治などもこの範疇に関連付けて言及することが可能だろうが、境界領域的にエイブル・アートと区別しにくい場合があり、厳密な線は引きにくい。ヘンリー・ダーガーなどもしいて言えば両側面を持つと言える。

 

③ プリズナー・アート(prisoner art)

 プリズナー・アートとは授業時における私の便宜的な造語で、本来はプリズンズ・インサイド・アート(priso’s inside art)と記すべきかもしれない。刑務所の中での囚人による美術ということである。従来、少数ながらこうした美術の存在は知っていたが、作品をまとめたものとしては今のところ『PRISO’S INSIDE ART アメリカの囚人芸術』(カーティス・ナップ アスペクト 2000年)を知るのみである。同書はカリフォルニア州の刑罰システムの中で生まれたアートを記録したものであるが、それらがどのような趣旨と方法で実施されているのかなどについては同書には記されていない。前述の定義には必ずしも即さない点もあるが、文字通り刑務所というアウトサイドにおいて存在するユニークな美術である。

  意味合いは異なるが、数少ない他の事例としては、帝銀事件の平沢貞道の仕事などもこの範疇に含められるだろう。(『祈りの画集 獄中三十七年、生と死のはざまより』 平沢武彦 1985年 KKダイナミックセラーズ 参照)

 

④ プリミティブ・アート(primitive art)

 授業時には原始美術や部族社会の美術の意味で用いている。

 西洋美術史的には、つまり、アウトサイダーアートや関連する他の概念が出てくるまでの「19世紀の西欧において」は、プリミティヴィズム(primitivism)とは「いまだ自然再現の技術は完全に達成していないし理想美の様式も十分に体得していないながら」、「プリミティヴな純真華麗な美のある」、「盛期ルネサンス以前のイタリアの美術家、および15世紀のフランドルやフランスの画家」のことを指していた(「プリミティヴィズム」/『新潮世界美術辞典』p.1286)。その後、印象派などの反古典主義から20世紀美術の変遷の中でその意味するところは拡大し、時代的には中世から古代、原始時代を、地域的にはオリエントからアジアへ、つまり非西欧圏のすべてを、また意味的には「素朴画家の作品、精神障害者の作品、子供の図工作品など」をも包括する、つまり広義のアウトサイダーアートへと拡大されていった。その意味の変遷の重要性は理解できるにしても、本授業での領域規定としては実用的でない。したがって、授業では「原始美術や部族社会の美術」の意味に限定して用いている。最近では一般的にもその意味で用いられることが多いようだ。

 

⑤ エスニック・アート(ethnic art)

 民族美術および部族社会の美術の意で用いている。両者の違いはサイズの違いである。したがって④のプリミティブ・アートと重複する部分もある。言うまでもなく、地域性・民族性・歴史性と強いかかわりがある。

 この範疇にフォークアート(folk art)としての「民芸」を含ませることもできよう。もちろんその場合は「民芸運動」以前の、柳宗悦らが発見した「民衆的工芸」のことである。

 

⑥ マージナル・アート(marginal art)

 周縁の美術という意味で用いている。

 アウトサイダーアートとほぼ同義に使われている例もあるが、授業発足の時点では包括性の必要に迫られて個人的、便宜的に造語したものである。すなわち、インサイド/アウトサイドという分け方や、ファインアートの対立概念としてではなく、中心に対する周縁もしくは辺境に位置する美術という概念である。ある程度拡張した領域規定をもってしてもなお現在の美術や芸術の範疇には収まりきらないにもかかわらず、手法としての美術的・造形的要素を備え、その結果ある種の強い表現性を発揮しているものを言う。

 具体的に取り上げているものの例としては、「落書きアート(グラフィティ・スクリブル)」として世界各地の街角の落書きやベルリンの壁の落書きなど、またそうした地点を出発点としているキ-ス・ヘリングやバスキアといった作家、あるいは「刺青」などがある。いずれにしても芸術と現実そのもののはざまにあって「これは美術なのか?」といった驚きと疑問とインパクトを与えてくれるものであり、ほかにも多くの種類をこれに加えることができるだろう。

 

⑦ 子供のアート

 子供は小さな大人ではなく、異文化としての存在であるという認識は、すでに一般的なものである。にもかかわらずと言うべきか、であるからこそと言うべきか、そこに横たわる現実再現性や技術修得といった文脈とは別の表現の可能性は、今なおわれわれを魅了し続けてやまない。パウル・クレーをはじめとして、多くの芸術家を今なお惹きつけている所以である。

 

⑧ 現代美術・コンテンポラリーアート(contemporary art)

 現代美術の発生をどの時点に置くかは、本稿においてはあまり意味が無い。すでに見てきたように、美術の更新が他者性・外部性の導入によってもたらされたという観点から言えば、それは必然的な推移だからである。しかし結果としてのスタイルや意味の領域の拡大という点では、史上無かった大規模なものであることは間違いない。

 いずれにせよ重要なことは、後述するように、アウトサイダーアート的要素の導入がインサイドの作家たちに自覚的に選び取られているということであり、またそのこと自体が今日では美術にとって自然なことだとみなされていることである。したがって、⑧現代美術・コンテンポラリーアートは先の定義からしても、アウトサイダーアートとは言えない。授業においてこれを取り上げるのは、これまで見てきたアウトサイダーアートとの関連において、またインサイダーアートとアウトサイダーアートの境界が消滅する可能性を垣間見させてくれる現代性という視点からである。

 

 以上、見てきたようにアウトサイダーアートの語とその分類および定義にこだわるかぎり、事態は一見、錯綜したものとならざるをえないように見えるかもしれない。しかし、美術に対する苦手意識を持ちアウトサイダーアートなどに触れる機会の少ない学生に接するとき、そのいずれか一部をのみ強調するのではなく、それら全体の深部に共通して存在する美術というものの豊かな可能性と、感受能力の拡大の可能性を示唆するためには、一時の煩雑さをいとわず、多様なありようをそのまま並置して示すことが、かえって有効であると思われるのである。

  なぜならば、その一見した煩雑さのゆえに、多様な表現を背景抜きで、つまり作品それ自体として、既成概念が形成される前の段階で体験することを可能にするからである。学生の多くは将来、教育や表現という事を通じて、現代社会にかかわる可能性の大きい人たちである。そうした人にとって、表現や作品そのものを直接的に経験すること、既成概念からとりあえず可能な限り自由な距離を保つということは重要なことであると思われる。

 

4.アウトサイダーアートの可能性

 以上のように、アウトサイダーアートとは「インサイド=制度内の公認された」という事の外側に立つ人々によってなされた美術表現という意味である。その作者たちはインとアウトのはざまを貫いて立ち、時には双方を行き来するマレビト的存在であるゆえに、その境界性が発生する地点を照らし出すという性格をもっている。ゆえにそこから境界を成り立たせるもの、すなわち人間とその文化や伝統との関係性や、コミュニケーションとしての教育などといった次元を照らしだし、それらとの接続可能性を浮き出させる。

 そうした接続の結果を美術史上に見れば、一定の閉ざされた文化的な文脈の中では更新不可能だった美の領域の拡大と感性や意識の拡大が、外部性を意識的に取り込むことによってなされてきたことはすでに見てきたとおりである。印象派と浮世絵の関係の例を持ち出すまでもなく、インサイダーによっては生み出すことのできなかった活力をアウトサイドから得る事ができるのである。情報や交通などが発達した現代においては、そうした展開はさらに加速度的に進行している。こうした状況を共通の背景として、私自身も含めた今日の作家の表現が存在するのである。

 しかしそうした要素は、見方を変えれば、人間の可能性の常数として本来的に存在していたのではないかと考えられる。マニエリズムや奇想・幻想的な絵画の存在、抽象美術やダダイズムといったものはその現れである。そこには、アウトサイダーアートの持つ一見特殊とみられがちな、しかし実のところ美術表現の根源に横たわるある種の普遍性と共通する要素を見出だすことができる。

 さらにここで言い添えておけば、「表現のはじまりをさぐる」ということは、必然的に「表現の終わり」という視点をもたらしうる。その意味でアウトサイダーアートとは優れた「メタ美術」でありうる。現代において絵画というジャンルがすでにかつてのような特権的な優越性を保証されていないにもかかわらず、再びそれを選び直そうとする時、それは自らの内にそのはじまりと終わりを、思想ないしイメージとしてもまた方法としても内包することが前提となる。その困難のゆえのあやうさの上にこそ、表現行為が今日的な美しさとして成り立つのではないだろうか。本稿のはじめに記した学生や若い美術家にアウトサイダーアートの鳥瞰図を示す必要性の二番目の理由がここにある。

 先に述べたアウトサイダーアート①~⑦のそれぞれは、⑧を含む近・現代美術に取り込まれた過程とその成果をへて、現在では様々なメディアを通じて様々なレベルで一般社会にごく自然な形であふれている。そうした様々なメディアの担い手である現代の作家たちは、定義(1)「背景:過去に芸術家としての訓練を受けていないこと」に反して、美術の専門教育を受けた後に意識的にせよ、無意識的にせよ、あらためてアウトサイダーアート的な要素を選び取っているのである。それはスタイルのレベルにとどまるものではない。なぜならばスタイルとは、当然ながらある程度以上は内面の反映であることから逃れられないからである。したがって仮にスタイル=表面の引用・模倣として始まったにせよ、それを選ぶということ自体が、それに共振する内部の共通項の存在に気づかぬわけにはいかないのである。

 そうした意味で現代のインサイダーアーティストたちは、定義(2)「創作動機:芸術家としての名声を得ることでなく、あくまでも自発的であること。」および(3)「創作手法:創作の過程で、過去や現在における芸術のモードに影響を受けていないこと。」を逆説的にふまえて、つまりそれらの条件を再構築することによって、インサイダーアートの内部にアウトサイダーアートを取り込んでいるのである。その結果、「アウトサイダーアートはもはや特殊なものではない」という感覚は、少なくとも社会の深層や若い世代においては、一般的なものとなりつつある。こうした一般化を、現代の成熟した先進諸国特有の多様性によって要請された、アウトサイダーアート的なるものの消費と見るか、あるいは新たな美の領域及び感性の到達した一過程と見るか、双方の動向に注目せざるをえない。

 

 私が大学の授業において、表現の始まりというテーマのもとに最初にアウトサイダーアートを取り上げる理由は、多様性や異文化というものを理解するということの以前の、自己と他者との違いを認めその差異を共有するということにあり、そのことをつうじて自己と他者との間に存在する共通性や普遍性を知覚し、共有への感覚に至らしめるということにある。そのことを可能にするものこそが共感能力としての想像力(イマジネーション)であり、言い換えればそれこそが美術の力なのだと考えている。

  今年度の「描く―心の杖として鏡として―展」を経験したあとでの学生のレポートでは、インサイドとアウトサイドを区別することの無意味さを感覚的に主張する意見が多かった。これは一見すると健全な現象であるかのように見える。しかしこのことが作品の背景への理解の度合いなどとは無関係に、前述したようにアウトサイダーアート的な要素を取り込んだ表現があふれている現代社会の中で育まれた感性に因るのだとすれば、「何でもアリ」(授業をつうじてこの言葉を聞くことが実に多かった)という、開かれているように見えて実は閉塞的でしかない感覚に裏打ちされた、単なる消費的感覚に過ぎないのではないかとの危惧もぬぐいきれないのである。かれらの表層の感性としての、インサイド/アウトサイドの無効化を主張する感性は、一見正しい。だとすれば問題なのは「アウトサイダーアート以降」のアートのありようを問うことであり、そのためにも美術の力を信頼し、美術教育の力を回復することが今必要なのではないだろうか。                      2005.3.6

グループ展のお知らせ  「アートビューイング OME」展が始まりました

 遅くなりましたが、今日からグループ展「アートビューイング OME 1917」展が青梅市立美術館の市民ギャラリーで始まりました。

 

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 今朝、搬入・展示作業を終えて、午後から公開しています。12月3日まで展示しています。

 偶然ですが、参加メンバーには、予備校時代に教わった先生、その当時一緒に浪人していた人(40年ぶりで再会した!)、予備校で教えた教え子、初めてお会いする方、等々あり、ちょっと不思議な感じです。

 

 青梅、羽村福生あきる野といった、地元(?)で発表する機会は必ずしも多くはないのですが、これも御縁と参加させていただきました。

 

 近くの多摩川の紅葉もきれいです。1点だけの出品ですが、紅葉を見がてら、ぜひ御高覧下さい。

 

 なお11月26日(日)14:00から出品作家によるギャラリートークが予定されています。

 

  会場風景

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「ふるさとの山―番外編+路上のアート」 これはアウトサイダーアートなのか?~山里に群れなす怪獣たち

 先日(2017.11.8)、山口県鹿野町(現周南市)にある馬糞ヶ岳に登りに行った。その途中で不思議なものを見た。

 最初は徳山から北上して登山口である秘密尾を目指して車で走行中、とある交差点(?場所不明)で何か、黒い大きなフィギュアのようなものが置かれているのを一瞬見たような気がした。しかし、その時は、??気のせいか??というぐらいで、確認する間もなく通りすぎた。そして登山口に近づいたあたりで、今度ははっきりと、道路わきにいくつも群れなしているのを見た。「何だ?あれは?!」同行の一人が知っているらしく、「この辺では結構有名らしいですよ」という声。下山後にあらためて確認すことにして、その時はとりあえず通過した。

 登山が終わって帰りがけに一風呂浴びようと温泉に向かう途中、再度の遭遇。今度は車から降りてゆっくり鑑賞、観察する。

 

 ↓ 人家の前の畑の恐竜・怪獣群

 

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 ↓ 整列行進の恐竜・怪獣群

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 第一印象は、こんなところに素晴らしいアウトサイダー・アートがあった!というものだった。

 なかなかのモノである。恐竜、怪獣たちが群をなしている。道路わきの人家の前の畑の中、整然と隊列をなして車道のほうに向かっている。迫力がある。近づいてみると、思ったより大きい。最大のもので7、8mぐらいか。全部で10体以上ある。小さいものや、人家の庭先の止まり木の上の鳥のようなものまで入れれば20体、いや30体以上ある。ほとんどのパーツがゴムタイヤを切り刻んだもので作られている。細工は細かく、細部までよく工夫され、同じデザインのものは一つもないようだ。

 

 ↓ 一つ一つ顔が違う

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 ↓ 鳥もいる 後ろのが作者の家か?

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 ↓ 前の二人は誰?

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 見れば見るほど、良くできている。言い換えれば、創造的であり、作品的であり、アウラが感じられるのである。つまり、よくありそうではありながら、「ありがち」ではない、ように思われる。

 そこのところの見極めが難しい。つまりオリジナリティあふれる「アート」なのか、それとも「ありがちな造形物」なのかが、今一つ確信を持てないのである。わが鑑賞眼も未だしだなと思う。(「現代美術」にもそういうところがあるが)

 こうした造形物というのは、全国あちこちにけっこう存在する。中にはオッ!と思わせるものもないではないが、たいていはまあ、言わずもがな、といったものだ。その程度のものを私は「アート」と呼ぶ気はない。

 

 今日、「アート」という言葉は安くなった。それは「芸術」や「美術」という言葉の相対的インフレの進行と照応する現象である。「ハイアート」の衰退と「ローアート」の躍進・蔓延。それは必ずしも悪いことばかりとは言いきれない。しかし、そこには功罪が相半ばする。芸術の領域拡大による美の可能性の増大ということもできるし、感性や価値観の低下といった現象もそうである。もちろんそのことは、情報化社会の進行、SNSの普及などといった事態に支えられたものでもある。

 芸術はある文化に属するものであるから、その時代や社会、風土、歴史性といったものによって定義付けられるのは当然のことである。しかしまた、どんな芸術もいずれ外部の要素を取り入れることによって更新されることを必然とする存在である。19世紀末のフランスアカデミズムに対する印象派の勃興において果たした浮世絵の役割など、その典型であると言えよう。20世紀以降の美術における「アウトサイダーアート」の意義もまた同様である。

 

 ここにある造形物群は「ありがちな造形物」なのか、「アウトサイダーアート」なのか。実を言えば、作者さえわかればその区別は簡単なのである。

 「アウトサイダーアート」というのは、その語が使われだした当初は、主に「知的ないし精神的障害をもった人が作ったユニークな作品」といった程度のシンプルな意味合いだったのだが、その魅力と可能性が認められるに従って、領域と意味をを拡大していった。今ここでそのことについて詳述する気はない。別のカテゴリーで、そのことにふれた拙稿「表現のはじまりとしてのアウトサイダーアート -美術と教育の基層として-」〈『平成16年度「広域科学研究経費」に係わる報告書「アートセラピーの現状調査とアートセラピスト要請プログラムの開発」』(pp.50-60 東京学芸大学大学院教育学研究科芸術系教育講座 東京学芸大学美術・書道講座 2005年)〉をあげておくので、そちらを参照されたい。

 

 とりあえず、簡単なアウトサイダーアートの定義の一例として、以下をあげておく。

 

 (1)背景:過去に芸術家としての訓練を受けていないこと。

 (2)創作動機:芸術家としての名声を得ることでなく、あくまでも

    自発的であること。(他者への公開を目的としなければ、さらに

    望ましい) 

 (3)創作手法:創作の過程で、過去や現在における芸術のモードに影

    響を受けていないこと。

  http://outsiderart.ld.infoseek.co.jp./preface.html アウトサイダーアートとはなにか/

   アウトサイダーアートの世界 より引用)

 

 要するに上記三点を満たしている人が作ったものであれば、この造形物はアウトサイダーアートだと言えるのである。

 

 しかし、今日ではアウトサイダーアートの概念は拡大されている。アール・ブリュットという語も一般的になったが、主に知的、精神的障害をもつ人の行為・作品を示すエイブル・アート(able art)以外に、ナイーブ・アート(naïve art)やプリミティブ・アート(primitive art)、エスニック・アート(ethnic art)、マージナル・アート(marginal art)、さらには子供の絵も含めることすら可能なのである。

 もしこの造形物群の作者が上記(1)~(3)の条件を満たしているとしても、ナイーブ・アート≒素朴派といったあたりに位置づけるのが適当かもしれない。

 

 意識されて配列されたと思われる設置状況からして、作者はこの畑の所有者である奥の人家の住人ではないかと想像される。「すみません。ちょっとお聞きしたいのですが」と言って、聞いてみればすぐにわかるだろう。単なるモノ作りの好きな人、工作好きの人かもしれない。しかし、単なるモノ作り好き、工作好きというだけなら、ここまではやらないだろうというか、ここまでのクオリティには到達しないだろうと思う。だから、少し怖いような気がする。でもせっかくだから、聞いてみるべきかとは思うのだが、気の弱い私にはなかなかその決断が下せない。同行のメンバーは、最初は面白がっていたものの、とっくに飽きているというか、あまり深入りしないように距離をおいている、という感じだ。これからの予定もある。ああ、俺はフィールドワークに弱い男だと思いつつ、予定の温泉に向かわざるをえないのであった。

 

 ↓ とっくに飽きている他のメンバー

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 ↓ 布製のパーツは少数派

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 作品は写真を見てわかるように、一見して恐竜あるいは怪獣と見えるものである。しかし恐竜や、既成の怪獣のイメージともちょっと違う。たまたまその直前に立ち寄った氷見神社との関連から、祭神の闇於加美神(くらおかみのかみ)=水の神・龍神=龍を模したものではないかと言う説も出されたが、イメージのくくりとしては恐竜も怪獣も龍も同じこと。

 

 何にしても大した迫力である。ゴムタイヤの色、質感をうまく利用している。

 明らかに鳥を造形したとわかるものはさほどでもないが、ところどころに置かれている人物像はよく見ると案外恐い。作者は必ずしも恐がらせようとしたのではないかも知れないが、結果としては少し怖い。怖いけれども、味はある。可愛いと言えなくもない。

 

 ↓ 恐可愛い二人

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 これを見た多くの人は、結果として何と物好きな!と思うかもしれない。確かに物好きの結果ではあろう。しかし、その物好きの度合いとクオリティによっては、それはアートと言うべきなのもしれないのである。私は、これはアート=芸術だと思う。ただし、少し自信がないのである。ああ、わが鑑識眼、未だし…。

 真価が認められるのに時間がかかることもあるのだ。価値を見出されるまでに時間がかかり過ぎて、作品が消滅してしまうことは、もっと多い。

 ちなみに、こうした素人の物好きが延々と作り続けた結果、今や完全にアートとして認められ、国の文化財として認定された例を紹介しておこう。「ワッツタワー」(アメリカ)と「郵便配達夫シュヴァルの理想宮」(フランス)である。

 

 ワッツタワーの方は、とあるさえないイタリア移民サバトロディアがロサンゼルスのスラム街に33年かけて作り上げたもの。現在は「アメリカ国定歴史建造物」に指定されている。

 

 ↓ ワッツタワーその1

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 ↓ ワッツタワーの下部

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 「郵便配達夫シュヴァルの理想宮」の方は、ある日仕事(郵便配達)の途中でつまづいた石を拾い上げたことがきっかけで、やはり33年かけて作り上げたもの。現在はフランス政府により国の重要建造物に指定されている。

 

 ↓ シュヴァルの理想宮 その2

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 ↓ シュヴァルの理想宮 その1

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 共にたった一人で作り上げたもので、今や共に多くの観光客を呼びあつめている。

 私はまだ見たことがないが、できれば一度ぐらい見てみたい気もする。まあ、見なくても差し支えはないが、そんな事をやった人がいて、そんなものがあると思うだけで、少し暖かい気持になれるのである。

 

 おまけとして、もう一つ紹介しよう。こちらは3年前に見た。ラオスビエンチャン郊外のブッダパークである。こちらは仏教をまじめに広めようとしたあるまじめなお金持ちがまじめに作った(こちらはおそらく職人に作らせた)ものである。しかし、どこかアウトサイダーアート的な感はまぬがれない。私も現地で大いに楽しんだ。

 

 ↓ ブッダパーク その1

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 ↓ ブッダパーク その2

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 ともあれ、思わぬ拾い物をしたような気持ちではある。いまだに自信はないのであるが、ここまで書いてみるともう、アウトサイダー・アートだか、単なる造形物だか、どちらでもいい気が少ししてきた。なにはともあれじゅうぶん楽しませてもらったことは確かだ。

 構造的にはしっかりしているようだからこのままでも長持ちしそうだが、こうしたものの常として、いつまでそこに健在であるかはわからない。私としては、この過疎の山間の集落で、ひっそりと静かに朽ち果てるまで、末永く立ち続けていて欲しいものだと思う。

                       (2017.11.16 記)

「ふるさとの山 その3」 これまでに登った最も低い山 天神山 (2017.11.9)

 11月9日木曜

 東京を発ってから6日目、帰京すべき日である。予定していたコンテンツはほぼすべて消化した。

 前夜は馬糞ヶ岳から帰ってきてから、K宅で野郎三人で鍋を囲んで飲んだ。5日連続だ。思い残すことはない。あとは駅に行く途中で、「山頭火ふるさと館」にちょっと立ち寄って見るだけである。途中下車してどこかの美術館を見るのも良いが、正直言って疲れた。満腹である。ということで、さっさと帰ることにする。

 朝食後、山道具や着替えを詰め込んでふくらんだザックを宅急便で出しに行く。いったんK宅に戻って、デイパックとショルダーバッグのいでたちで家を出る。4泊もさせていただいたKのお母さんには感謝のしようもない。

 

 さて山頭火ふるさと館経由、駅に向かうかと思いきや、Kが「天神サマに行こう」と言う。天神様とは日本三天神の一つ、防府天満宮のこと。10分もあれば行けようが、子供の頃からさんざん行っているし、今さら行く気もしない。「いや、天神様ではなく、天神山だ」と言う。天神様は天神山の南山麓にあり、K宅は天神山の西山麓にある。そんな気はまったくなかったのだが、登るとすれば50年ぶりぐらいだろうし、低山ではあるが案外良い感じらしいということも知っていたので、急ぐ旅ではなし、まあ付き合ってみるかという気になった。

 帰郷して以来、Kは日々のトレーニングとして、裏山にあたる天神山を歩いているらしい。確かに玄関から登り口まで3分なのだから裏山歩きとしては最高の位置関係だ。かく言う私も自宅玄関から最短3分で登り口がある高尾山から、尾根続きの網代城山や弁天山などを裏山歩きの場としている。言うまでもなく、高尾山といってもあの有名観光地の高尾山ではなく、あきる野市高尾にある高尾山である。この地の産土神社である高尾神社の裏山だ。あきる野市高尾=旧五日市町は山に囲まれた盆地なので、ほかにも横沢入り・天竺山、秋川丘陵、金比羅山など、1時間半から2時間程度の300mクラスの裏山・里山歩き=裏山散歩の場にはことかかない。弁天山や秋川丘陵はガイドブックにも取り上げられている。

 地図で確認してみたらK宅が標高10mくらい、天神山が166.8mで標高差約155m。私の家の標高が約180m、網代城山が330.7mで標高差約150m。共に玄関から3分で登り口、30分ほどで頂上という、ほぼ同じ環境にあることがわかった。偶然とはいえ、おそろしい(?)もんだ。

 登り口は道路わきの「足王様」という小さな社。猿田彦が祭神で、古くから足の神様として信仰されているとのこと。私がその存在を知ったのはK宅に初めて泊まった昨年の事だが、有名になってきれいに整備されたのもやはり近年のことだという。今は観光スポットとしてある程度有名らしい。山登りをする身としてはまんざら縁がないわけでもないし、猿田彦=足の神様というのもわからなくもないが、「足王様」とはねえ…。

 その足王様の左わきを少し行った先から登りはじめる。入り口には大きな案内図がある。何年か前に遊歩道として天神山全体にいくつものコースが設定整備されたらしいが、詳しいことは知らない。またいくつもあるらしいコースの全貌も、今のところわからない。地理院地図を拡大して見ると、確かに多くの路があるようだが、それがこの遊歩道全体と正確に対応しているのかどうかはわからない。

 

 ↓ 登り口 最初は簡易舗装の道 

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 すぐに整備された幅広い階段となり、それがほぼ頂上まで続く。整備はされていても階段状なので、かえって登りにくい。整備自体は良いとしても、そもそもこんな階段が必要なのだろうか。おまけに鉄鎖の柵まで。行政のやることはまったく・・・。

 

 ↓ こんな感じ 鉄鎖の柵が興をそぐ 

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 すぐに左手、北西に右田ヶ岳が見える。長く両翼を延ばした秀麗豪快な山容である。標高は低いが、視覚的な点だけで言えば、私の最も好きな山の一つかもしれない。その右奥に連なる三谷山、八幡山、山口尾なども、いつか登ってみたい山々だ。

 

 ↓ 右田ヶ岳遠望 右は山口尾(?)方面 

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 路は途中でいくつかの分岐があるが、Kの後を付いていけばあっという間に166.8mの頂上に着いた。頂上にはいくつかの花崗岩の大岩があり、ミニヨセミテとかミニカッパドキアと呼びたいような良い感じである。いや、さすがにほめすぎか?せいぜいマイクロヨセミテ、マイクロカッパドキアという程度。

 

 ↓ 頂上三角点 奥に見えるのが桑山 

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 ↓ 頂上のヨセミテ風の大岩に立つ

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 ↓ 頂上よりカッパドキア風の大岩群の向こうに防府市中心部を見下ろす

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 しかし傍らには、説明板や航空標識用の電柱といった無粋な人工物がいくつもある。航空標識は防府市自衛隊の飛行場がある以上、不要とはいえないかもしれないが、他はさほど必要とも思われない。惜しいことである。

 ともあれ、予想以上に素晴らしい360度の展望に気を良くし、楽しむ。南には山口県最大の防府平野の先に海が光って見える。(建物が多すぎる…。)右手南西方向には佐波川の流れと、その右岸の西目山、楞厳寺山。左手、東から北にかけては大平山とそれに連なる矢筈ヶ岳、多々良山。わがふるさとの山。それらをつなげて歩いてみたいと思う。

 

 ↓ 南西 佐波川と右岸の山々

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  「ふるさとの山に向かいて言ふことなし

   ふるさとの山はありがたきかな」

 

 ↓ 左 矢筈ヶ岳 その手前 多々良山 右下は競輪場

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 この頂上には50年前後前の小中学生の頃に二三回登ったことがあるはずだが、おぼろげにしか憶えていない。その時は遊びの延長でしかなく、少なくとも山登りとしての意識はなかった。Kはここが子どもの頃の遊び場だったという。そして今は還暦をとうに越えた彼の裏山歩き=トレーニングの場。

 彼が実際に歩いているのはどの程度の頻度なのかは知らない。私の場合は年に40回程度(別に本来の「登山」が10回少々)。むろん山を歩くこと自体が好きなのはいうまでもないが、理念としては山登りのトレーニングであり、心身の健康のためである。なるべく多く、できれば毎日、せめて週3回は歩くのが良いと思っているが、実際にはなかなかそうは行かない。

 

 そう思いだし、多少なりとも実践し始めたのは、多少のきっかけがある。9年前に死んだ母が、自宅の近所の桑山(くわのやま)という標高107.4mの山に、ほぼ毎日登り続けていたのを知ったことである。近所とはいっても自宅から登り口までが約1.5㎞ある。そこから標高差100m少々の「散歩」をし、しかも途中の広場で仲間たちと体操を、よほど天気が悪いとか、体調が悪い時以外は、毎日していたのである。正確にはわからないが、80歳で亡くなる直前まで、おそらく10年以上続けていたようだ。その事を知ったのは私が40台半ば、母が70歳台前半ぐらいの頃だったろうか。多少心配ではあったものの、健康のためと言うのだから止める理由はない。

 

 母がそのような「毎日登山=散歩」をしていたのは、70歳前後から海外旅行に行き始めたということが大きな理由だったようだ。海外旅行など夢だった時代と環境に生まれ育った母が初めて海外に行ったのは、1994年66歳の時。中国戦線で6年間兵士として戦った父の戦跡再訪ツアーも兼ねたパック旅行に同行したのが初めて。その後2001年に父が死んでからは毎年のように、多い年は年に三度も行っている。むろん友人と誘い合わせての、「簡保の旅」とかが主の、パック旅行である。その頻度に私も少々驚き、心配でもあり、多少の苦言を呈した憶えがある。少し気を悪くしたらしい母は以後、行って帰ってきたあとでのみ報告するようになった。その、ある程度の全体像を知ったのは、遺品整理の際にパスポートを見つけ、その中身を見て知った時である。あらためて驚いた。

 ともあれ、その海外旅行をすることによって、歳をとってからやりたいことをやるための、健康であることの必要性を感じ、「毎日登山=散歩」をやり始め、やり続けたということのようだ。ちなみに死ぬ二三年前には富士山(!)にも登っている。それまで山登りなど、たぶん、したことはないと思う。心配して同行した20歳年の離れた妹を含めて、ツアーメンバーの三分の二は途中リタイアしたそうで、当然、母はそのパーティーでの最年長登頂者であったとの由・・・。何をかや言わん、である。

 毎日登山と言えば、ちょっと脱線するが、「一万日連続登山」を目指して9738日目で倒れた東浦奈良男さんという人を取材した『信念 東浦奈良男 一万日連続登山への挑戦』(吉田智彦 2012年 山と渓谷社)という本がある。達成間際に倒れたとはいえ、26年以上、毎日雨が降ろうと何があろうと登山し続けるということ。信じられない。何か「業」のようなものも感じさせるが、私自身は面白く、興味深く読んだ。 

 

 話がだいぶ思わぬ方に流れた。

 天神山頂上からの大観を充分楽しんでから下山に移る。三日前の狗留孫山と同様の花崗岩の大岩があちこちにある。水流で掘りこまれた正面コースを下る。東道とか忠魂碑コースとか鐘秀台コースとか酒垂下山道とか、いくつものコースがあるようで、それらのいくつかが分岐合流し、気がひかれるが、それはまた別の機会に。あっという間に天神様=防府天満宮に降り立った。

 

 ↓ 頂上を振り仰ぐ 電信柱は航空管制標識用

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 ↓ 下山路 あまり手入れされていない自然林の中の風化花崗岩に掘りこまれた路

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 参道の石段を下りて、大鳥居から3分。楽しい寄り道をしたあげく、ようやくオープンしたばかりの「山頭火ふるさと館」で「山頭火の句 名筆特選 ~百年目のふるさと~」展を見ることができた。芸術文化に対してはいたって冷淡な気風を持つ山口県防府市でようやくできた施設ではあるし、ある意味、極道の限りを尽くした山頭火を受容し難かったのももっともだと言えなくもない。だから今回はあまり冷やかに批評するのはやめよう。あまり上質なものとは思えないが、とにかく山頭火の真筆も見ることができたことだし。

 

  「分け入っても分け入っても青い山」

  「雨ふる故里ははだしであるく」

  「どうしようもない私が歩いている」

 

 最後に山頭火ふるさと館の前の蕎麦屋で、意外と美味かった鶏竜田揚げ蕎麦とビールの昼食。やれやれ、これでようやく帰宅することができる。そのビールのせいか、新幹線の中ではほとんど寝ていた。

  

【コースタイム】(2017.11.9) 晴れ

とっていない。2時間近く楽しんだと思うが、最短コースなら天満宮から登って下りて1時間以内。

 

付記1

 私はこれまで登った山はすべて「山行一覧」として記録している。基準としては、標高は関係なく、例外もあるが、だいたい歩行3時間程度以上ということ。したがって1~2時間程度の「裏山歩き=山散歩」は、ふつうは「山行」としてはカウントせず、リストには記載しない。したがってこの天神山は「山行」ではなく「山散歩」ということになる。しかし、考えてみれば、「山高きをもって尊しとせず」という言葉もある(?)。ふるさとへの愛着も、山そのものの良さも含めて、今回は山行として扱うことにした。かく、駄文も記した次第である。

 ついでにいえば、作成途中ではあるが、「標高順山行一覧」というリストも作っている。自分の登った山を標高順に並べたものである。それを見るとこれまで登った山で100m台のものは、奥武蔵の天覧山197mとあきる野市の滝山丘陵の170.7m峰の二つだけ。低くても山は山。

 しかし、それらより低い天神山は、登った山としては最も標高が低いという点で、むしろ意味があるのではないか。あ!今、気づいたが、桑山107.4mもあった(その尾根続きにはもっと低い井上山もあったが、現在は上に施設ができて、山頂そのものがなくなったらしい)。これはリストに入れ忘れていた、というか、やはり登山としての意識がなかったのである。麓に母校防府高校があったということもあって、10回以上は登っているはずだが、いつか再訪することがあったら、そのときあらためてリストに載せることにしよう。

 

 

付記2

 天神山は別名「酒垂山(さかたりやま)」とも呼ばれるが、「山の中腹にある岩からの湧き水が飲料水として用いられていたが、東大寺再建のために防府に来た重源が松崎天神の加護を求めて社殿の造営をしたところ、湧き水が酒に変わったとの言い伝えもある。(例によってウィキペディア)」とのことである。天神山=酒垂山ということはなんとなく知っていたが、その所以は今回初めて知った。

 ちなみに私の母校の佐波中学校校歌の2番の歌詞には「山は紫 酒垂の 古き韻の 花かげや」とある。1番の歌詞はかろうじて憶えていたが、この2番は酒垂の一語しか憶えていなかった。

 

付記3

 この機会に母が行った海外旅行の一覧を付しておく。むろん、何の意味もない個人的な感傷ではあるが、どこか今現在の海外旅行好きの私自身に重なるところからの、そして親を心配させ続けた息子からの、ささやかな供養であると思って看過していただきたい。

 

① 1994年1月20~25日 

 中国/石林・桂林 香港経由(初めての、そして父と一緒の最初で最後の海外旅行)

② 1995年12月11~13日

 韓国/ソウル

―2001年父死亡―

 

? 2002年12月12~15日 (詳細不明)

 ?

③ 2003年11月15~20日

 ハワイ

④ 2005年2月6~13日

 中国/大連・旅順

⑤ 2005年9月2~5日

 台湾/台北

⑥ 2005年10月27~30日

 ベトナムサイゴンメコンデルタ

⑦ 2005年2月6~13日

 メキシコ/メキシコシティメリダ・チチェンイッツァ・ロンクン

⑧ 2006年2月11~18日

 フィンランド・ロシア/ヘルシンキ(市内)・モスクワ・サンクトペテルスブルグ

⑨ 2006年7月4~8日

 中国/山東省 曲阜・黄山・泰山・青島

⑩ 2007年2月11~17日

 インド/デリー・ジャイプール・アグラ・ベナレス

⑪ 2007年8月22日~9月2日

  ブラジル・ペルー/イグアスの滝マチュピチュ・クスコ

⑫ 2008年2月21~28日

  フランス/南仏+モン・サン・ミシェル

―2008年 母死亡―

 

*(2005年から2007年の項の年月日に疑問があるが、今確認する余裕がなく、とりあえずそのまま記載しておく)

                        (記 2017.11.15)

46年目の達成 霧の秘密尾から馬糞ヶ岳へ(2017.11.8)

 前稿に続き「ふるさとの山 その2」なのであるが、46年前の高校生の頃、故郷防府からは旧鹿野町(現:周南市)や錦町(現:岩国市)は遠いところだった。したがって同じ山口県ではあっても、寂地山や馬糞ヶ岳を「ふるさとの山」とよぶには、少々違和感がある。私にとって「ふるさとの山」と呼べるのは、やはり佐波川の流れる防府平野を囲繞する山々であろう。

 

 それはそれとして、高校2年生だった1971年12月25~26日に、長野山から縦走して馬糞ヶ岳を目指したことがある。当時としてはそれなりに意欲的な計画だったが、その時は時間切れで結局、馬糞ヶ岳手前のドウギレ峠から西の秘密尾という名の集落に降りた。目的の山頂に登れなかったという残念さとともに、秘密尾といういわくありげで魅力的な地名が深く記憶に刻みつけられたのである。馬糞ヶ岳という全国でここだけという珍しい山名も同様であるが。私は今でも地名というものに大いに惹かれるところがあるのだが、思えばこれが最初のきっかけだったのかもしれない。

 今回の帰省登山=秋山合宿(?)では、当初の心づもりでは山麓二泊程度の九州か四国の山と考えていたのだが、諸般の情勢から県内日帰り山行×2となった。その方がこちらとしては有難い=楽というのも正直なところではある。したがって馬糞ヶ岳の名が出た時、何の異存もなかった。

 調べてみると秘密尾周辺の林道工事が進んでいることがわかり、急に興味が薄れ、まだしも歩行距離の長くとれる東側の谷合いの高木屋(地形図には谷あいと尾根上に二カ所記載されている)から北北東の尾根上の高木屋に降りるコースを提案した。しかし、前稿に記したように、当初晴天の6日に登るはずだったのを8日に替えたことによって、天気予報は雨後晴れと変わり、短時間で頂上を踏める秘密尾からのコースに決定した。結果としては、これはこれで正解でもあった。

 

11月7日

 山口県立美術館で「奈良 西大寺展 叡尊と一門の名宝」と「雪舟発見!展 発見!幻の雪舟」を見、N法律事務所を訪れる(気まぐれ)。その後、毛利博物館で「特別展 国宝 雪舟筆『四季山水図(山水長巻)特別公開』」を見、KJ氏とS氏に会う。S氏とは偶然。夜、高校同期数名で飲み会。

 

11月8日水曜 曇り・霧

 前夜の飲み会の名残りの、多少酒の気の残る頭で7:50、K宅を発。富海でS嬢をピックアップ。一路登山口の秘密尾を目指す。例によって土地勘のない私は、どこをどう走っているのかさっぱりわからない。曇天、霧模様の川沿いの道は、すでにそれだけでどこか神秘的で、これから目指す秘密尾の名にいかにもふさわしく思われる。

 近づくにつれて山あいの道路はせばまり、ほとんど人家も見えず、車も通らない。そんな中、向こうからやってきた白いタクシーとすれ違った。こんなところにタクシー? 駅からは相当な距離がある。乗客は乗っていない、と言っていたら、Kが「おばあさんが一人乗っていた」と言う。K以外の三人にはそんなものは見えなかった。別にオカルト話に興味はないが、まあそんな雰囲気はあった。

 

 終点の秘密尾・氷見神社入り口で周防大島と周南から参加のF嬢、W嬢と合流。車をデポする。

 

 ↓ 舗装された林道を歩き始めたあたり。常緑樹の中に点在する紅葉。

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 舗装道路はそのまま奥にも延びているようだが、右の札ヶ峠方面に延びる林道を進む。雨は降っていないものの、あたりは霧の世界。左から入ってくるはずの古い山道を探しながらゆくと、30分ほどで幅の広い荒れた道があった。山道というよりも林道の法面の工事用のブル道かとも思われたが、とりあえず入って見る。しばらく行くと幅も狭くなり、山路らしくなる。

 

 ↓ 舗装林道からブル道を登り、古い山道になったあたり。

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 ↓ 薄暗い植林帯

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薄暗い植林帯を過ぎると、突然広大な伐採地に出た。縦横無尽といってよいほど伐採用の車道が走り、無惨な明るさが広がる。本来の山道は見出しようもないが、何とか見当をつけて進むとどうやら今現在の、林道から直接登ってくるらしいルートと合流した。そのすぐ右手の尾根が昔からの山道=登山道であった。

 

 ↓ 皆伐地帯 縦横に車道が走っている

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 ↓ 一応ここが今現在の正規ルート

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 辿り着いた尾根のすぐ先が札ヶ峠。弘化三年と記された道しるべが建っていた。私は道しるべというものが好きだ。それが古ければ古いほど、なぜか暖かい気持ちになる。おそらく昔の人たちの生活というか、人生を少しだけ垣間見れるような気がするからだろう。

 一つの面には「右 すま 左 ひろせ」、別の一面には「右 ひみつを 左 すま」と刻まれている。弘化三年は1846年、180年前のもの。ちなみにその面には「世話人 谷屋完左衛門 石工 藤左衛門」とも記されている。世話人はともかく、石工の名前まで彫られているのはちょっと珍しいように思う。少しほほえましい。

 

 ↓ 札ヶ峠の道しるべ 味わいのある筆跡                        (なぜか二つの写真の間にスペースがとれない。誰か教えてくれ。)

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 ↓ 藤佐衛門さんの仕事です

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 工事用の道から解放されて尾根上の道を辿る。右が自然林、左が伐採地だが、霧が幸いして皆伐された伐採地も見えず、気にならない。むしろ凄絶というか、夢幻の境を行く思いで味わいが深い。

 30分ほどで傾斜の落ちた笹原に出た。ここから尾根は右に曲がるが、前方にも延びているようで、薄いながらも踏み跡があるように思われた。そのためこの地点を910m圏の長野山への分岐だと誤認してしまった。何せ霧のため遠望がきかないのだ。そのためその後の山行中何か釈然としない思いに付きまとわれたのだが、帰宅後よく地形図をみてきたらそこは860m圏だったようだ。霧のなせるわざか、単なる読図力不足か。

 

  ↓ 霧の中の登高 凄絶というべきか 夢幻というべきか

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  ↓ 霧の中 夢幻

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  ↓ 黄葉の楓 これは夢幻というべきであろう

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 傾斜の落ちた幅広い尾根を進む。楢を主とする落葉広葉樹帯から背丈ほどの笹原へと続くルートは、不思議な霧の世界。葉は色づいているが、みな黄色のものばかり。これから赤くなるのか、それともそういう種類なのか。霧の中、ときおりいくつかの巨岩が現れる。

 

  ↓ 馬糞 横皺あり

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  ↓ 背を没する夢幻の笹

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 地図を読み違えていたせいで、どうも頂上が遠すぎるなと不安を覚えてきた頃、新たな分岐に出た。先ほどすでに長野山への分岐は通りすぎたと思い込んでいたため、現在地がわからない。とりあえず男子が二手に分かれて偵察してみる。私が進んだ左の路はしばらく行くと高木屋への標識があった。それでますますわからなくなった時、右の路に行ったKから「こっちだよ」のコール。分岐に戻って合流し、右手の路をしばらく進みほんの一登りであっけなく、ぽっかりと開けた馬糞ヶ岳985.3mの頂上に着いた(12:25)。

 

  ↓ 山頂にて 46年後の元高校生たち

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 やれやれ、何はともあれ、良かった。一等三角点の山でもあり、展望は良いはずなのだが、霧のせいで何も見えない。しかし46年ぶりの目標達成というか、久恋の山頂なのだ。Kや昨年から山行を共にするようになったF・W・S嬢はともかく、Tと山に登るのは彼が高校1年の時の新人歓迎山行以来である。うれしくないはずはない。そんな感慨にふける私をよそに、さっさと昼食が始まる。

 

 1時間後、下山開始。天気が良ければ長野山方面に進み、46年前の中退ルートに選んだ、途中のドウギレ峠から秘密尾に下るという選択肢もないではなかったが、当時でも荒れていた(記憶がある)路はあてにできないし、何よりもこの霧である。おとなしく往路を戻ることにする。

  先ほど迷った分岐で、下に落ちていた頂上の方向を示す標識を発見した。これを見つけていれば迷わなくても済んだのに…。再び現れる巨岩を見ていると、これが馬糞の名の元なのではないかと思い当たった。それらしい横皺もよっているし。山名考証としては、平家の落人の騎馬武者三百騎が云々という伝説や、遠くから見た形態説もあるらしいが。

 

  ↓ 夢幻の中の馬糞

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  ↓ 笹がないと歩みもはかどる

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 濡れて滑りやすくなった下りで尻もちをついたりしながらも、何とか順調に峠まで戻った。途中、平均年齢70歳を超えるかと思われる男女三人パーティーと遭遇。すでに午前中に一山登ってきたとのこと。元気で何よりというよりも、ちょっと頑張りすぎというか、慾をかきすぎではないかとも思うが、まあ、それはむろん余計なお世話というものだろう。

 峠からはすぐ眼下に見える林道に直接下りる。やはりそこが現在の正式の登山口であるらしく、標識が立っていた。あとは舗装道路を歩くだけ。

 

  ↓ 左上は桐の実 手にしているのは用意周到なアケビ採り用の木の枝

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  ↓ 路上のアート 落葉篇

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 常緑樹の中のときおりの紅葉を愛で、アケビ採りにチャレンジし、あれやこれやと駄弁りながらのんびりと車デポ地の氷見神社入り口に辿り着いた。簡単に着替えて、帰りがけの駄賃に、奥社がいまだに女人禁制だという氷見神社にお参りして、山行を終えた。

 

  ↓ 謎の氷見神社若宮 写真には写っていないが神社なのに右手に大きな釣鐘があった。

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 標高差522m、一カ所の読図ミスによる不安はあったものの、ルートそのものは特に問題になるところもなく、霧がかえって幸いし、夢幻的ともいうべき、印象に残る山行となった。

 あとは途中の石船温泉に一浴し、帰るだけである。その途中で「路上のアート」というか、ある種のアウトサイダーアートと言ってよいような面白い造形物群を見つけたのであるが、これについては別のカテゴリーで取り上げてみようと思うので、ここではふれない。

 

 以上で山行記録としては終りのはずだったのだが、帰宅後調べてみると色々と面白いことがわかってきた。ちなみに私は当然ながら、山行前にある程度の研究や調査はするのだが、それは主としてコース・ルートやアクセスなどに関すること。それに対して下山後には、実際に現地で見たものやコース・ルート以外で興味をひかれたもの・事に範囲を拡大して、記録を書きながら、あれこれと事後学習することが多い。やはり実地に見、体験したものから発して、調べ、考えるというのは、個人的体験から普遍化へというほど大げさではないにしても、世界が広がるというか、面白いものである。

 

 さて、神社に関して基本的にあまり興味のない私は、氷見神社についても、そのときは特に何の興味もわかず、入口にあった説明板もロクに読まず、写真にも撮っておかなかった。しかし、帰宅後調べてみたらこの氷見神社というのが実はなかなかたいしたものだということを知った。とりあえずウィキペディアの以下の記述を紹介しておく。

 

 「祭神は、闇於加美神ほか」、「平安時代の歴史書にもその名を残す由緒ある神社で、貞観9年(856年)に須万村秘密尾に創建されたと言われている。~(中略)~「露嶋宮」とも呼ばれ、若宮のほかに、山の中腹に中宮があり、山全体を上宮としている。上宮である奥社は今でも女人禁制である。の行場としても有名で、明治時代には神道家の川面凡児がここに籠り、神道の修行法を編み出したと言われている。現在でも山口県下の神官たちの禊ぎ行場として使われている。~(中略)~伊勢神宮同様、「遷宮祭」も20年ごとに行なわれており、二つの御社地の宮を交互に建て替えている。山口県下で遷宮を行なっているのは氷見神社だけである。」

 

 闇於加美神(くらおかみのかみ)というのは、私は初めて聞く名前だが、基本的には水の神・龍神とみなされているとのこと。「露嶋宮」という名のいわれは何なのだろう。「氷見」との関係は? それにしても何と千年以上前からあんなところにあるとは! あんなところと言うのは失礼かもしれないが、実際、平家の落人伝説はともかくとしても、現在人は住んでいるのだろうか? 限界集落どころではないように思われる。神社周辺に人家は見えなかったように思うが、地理院地図を拡大してみると神社の手前に道路を挟んで2軒の建物記号が記されているが、実際はどうだったのだろう。また46年前に私たちはそこを通過し、石ヶ谷集落の先の中村集落まで歩いたように手持ちの地図には赤線が引かれているが、その時何軒の家があったのかは当然記憶にない。 

 いずれにしても昔も不便であったことは間違いないであろうこの地に、なぜこのような規模の神社が存在し続けてきたのだろう。いや、それ自体は特殊なこと、不思議なことではないのかもしれない。20年ごとの遷宮も単に古式を守っているに過ぎないのかもしれない。

 

 吾々の行ったのは若宮(まで)である。そこでは20年ごとに遷宮(二ヵ所での交替で移動建て替え)ができるようなスペースはなさそうだから、遷宮されるのはその奥、中腹にあるより小規模と思われる中宮なのだろうか。さらにその奥に女人禁制とされているという上宮(奥社)があるということだ。

 神社の裏手に回ってみたが、確かに踏み跡は奥へと続いている。しかし地理院地図には若宮の所在しか記されていない。ネットで探してみても若宮から上宮までの全体が描かれた地図は見いだせなかった。そもそも「山全体を上宮としている」というが、その山とは具体的にはどの山(ピーク)を、あるいはどの範囲を示すのだろうか。地理院地図を見ると、神社の裏から直接始まっているわけではないが、神社の左手の沢の右岸沿いに928mピークまで道記号が記載されている。それはピーク直下で二分し右はピークをこえて反対側の五万堂谷へ下り、左は南の尾根を下って再び神社近くに降りている。この道が中宮~上宮へと至る路だとすると「山全体を上宮としている」にしても一応この928mピークを奥社あるいはその象徴と見ることができる。山麓にある神社の奥社は、その上の山頂(ピーク)に置かれている場合が多いからである。しかし見方によっては支尾根上の一突起にしかすぎない928mピークよりも、その西北西に位置する、沢筋を北に登りつめた990m圏の幅広くなったあたりの方が奥社にふさわしいようにも思える。

 前回の遷宮が2011年だったということだから、次回は2031年か。生きている可能性は半々か。せめてそれまでにこの神社裏手の踏み跡と、この沢の右岸の道記号を辿って上記の疑問を晴らしに、中宮と上宮を訪れてみたいものである。ともあれ、あれやこれやと興味はつきない。どなたかこのあたりについての良い郷土誌資料でも探し出してくれないものかしら。

  

 山から下りてからの事後学習が面白い、好きだと書いた。その対象の多くは歴史と民俗学的なものである。したがって郷土史・郷土誌的な文献にあたるのは必須だが、やはりそこには興味度の深浅ということがある。縁もなじみもない土地に興味は持ちにくい。私は以前、越後の下田・川内山塊と呼ばれる一帯に入りびたっていた頃、そうしたことに対する面白さを知った。しかし、そこでの沢登りや四季を通しての山行を実践することがなくなった現在では、もはやほとんど興味がなくなったというのが正直なところだ。

 今現在住んでいる東京都あきる野市や隣の檜原村にも、意外なほどにそうした面白さはあるのだが、やはり愛着とまではいかない。にもかかわらず、もはや住むことはない(であろう)山口、防府に対するそうした興味が、あらためて湧き起っているのを感じるのである。かつて住んでいた頃、あるいはいずれ帰るべきところだと思っていた40歳台までは、実地体験する機会がほとんど持てず、また文献等との出会いも少なかった。皮肉なものである。今さら秘密尾やら狗留孫山などに興味と愛着を持ってみたところで、やはり今後とも実地に体験する機会がそう多くあるとは思えない。そう思っているにもかかわらず感じるこの愛着、やはりそれがふるさとというものなのであろうか。「ふるさとは遠くにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」であるか。

 「読み、書き、登る」と記したのは、確か、ヒマラヤ登山のパイオニアの一人ではなかったか。事後学習ということで言えば、ささやかではあっても、私もそのようでありたいと思う。

 

 ↓ 青線が1971年のルート 赤線が今回のルート 例によってうまく地図ソフトが使えず(持っていず?)、見づらくてすみません。

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同行:K(高校同期) F嬢・W嬢・S嬢(高校1学年下) T(高校2学年下) Thanks!

【コースタイム】2017.11.8 霧 

秘密尾・氷見神社入り口車デポ10:00~林道から登山道へ10:40~札ヶ峠:現登山道と合流11:20~長野山分岐~馬糞ヶ岳985.3m山頂12:25/13:25~林道現登山口14:35~氷見神社車デポ15:00~石舟温泉入浴

 

追記

「法師崎の山歩き」(http://www.geocities.jp/houshizaki/bahungatake2.htm)の「馬糞ヶ岳(ばふんがだけ)山口県周南市鹿野」(2011年9月27日)に奥宮(遠望)と中宮の写真が出ているのを見つけた。「ゴムタイヤの恐竜」の写真も出ていた。(2017.11.16)

ふるさとの山 狗留孫山と三十三霊場めぐり (2017.11.6)

 前回の山行からまた二ヶ月空いた。この間、個展やら、息子の結婚式やら、いろいろあったのだが、何より大きかったのは天候不順である。ちなみに東京の十月の一ヶ月間の降雨日は23日で、過去三番目に多かったとのこと。しかし今さらそんなことを言ってみてもはじまらない。

 そうしたこととは関係ないが、今年は父の十七回忌である。そのための帰郷と合わせて、あれこれと予定を組んでみる。いつもの高校山岳部OB何人かと県内の日帰り山行をすることになったが、それだけでは物足りないので、もう一つ近場の日帰りの山に行くことにした。

 

11月4日

 朝、東京発。徳山で一つ所用を済ませ、夜は下松の姉夫婦宅に投宿。義兄と飲む。

11月5日 

 旧徳地町野谷の徳祥寺での法事を済ませ、さらにいくつかの用事をすませた後、いつものように防府のK宅にごやっかいになる。夜は二人で飲みに出かける。

 

11月6日(月曜)快晴

 当初の予定ではこの日は旧鹿野町の馬糞ヶ岳に山岳部OB会の皆と登り、8日にKと二人で狗留孫山に登る計画だったが、メンバーの都合により日程を入れ替えた。

 

 朝食後、ゆっくりと出かけ、車で登山口の旧徳地町(現山口市)堀の法華寺に着く。寺の正面手前には「法華寺(金徳寺跡)」の説明板があり、本堂には「東狗留孫山三十三カ所霊場 観世音菩薩配置見取り図」の図が掲げられていた。しかし、「法華寺(金徳寺跡)」の説明板には明治維新奇兵隊との関係は記されているものの、寺そのものについては何だか要領をえず、山中の三十三霊場についてもよくわからない。

 

 ↓ 登山口となる法華寺

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 ↓ 三十三霊場の案内図 右上が登山口方向 とりあえずこの撮影時点では何が何だかさっぱりわからなかったが、山行中はこの図がずいぶん役に立った。

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 「東狗留孫山」とあるのは、山口県にはもう一つ、西方の下関市(旧豊田町)にも狗留孫山(別名:御岳)があり(知名度ではそちらの方が高いようであるが)、それに対して東と冠したものだろう。

 狗留孫というのがわからない。三重と奈良の県境上にも倶留尊山があるが、これも同主旨の山名であろう。帰宅後調べてみると、狗留孫とは「実に妙なる成就」の意で、「過去七仏の一つ。過去七仏とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。拘留孫はその四番目。」(ウィキペディア)とあるが、ただし「この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です」とある。結局よくわからずじまい。いずれ,、ヒンドゥーの影響を受けたりして、仏教が複雑錯綜化していったということなのだろう。

 

 ともあれ、寺の右の道に入り、すぐに中国自動車道を渡る陸橋を越えると、案内板がある。舗装された階段の登山道が続くようだが、すぐに左から山道が入ってくるので、そちらを進む。間もなく大きな石の鳥居が現れる。鳥居といえば神社であるが、この先に記されているのは卍の記号。神仏習合時代の名残であろうか。路は風化花崗岩穿った溝状のところが多いが、歩きやすい。古くからそれなりに良く歩かれているようだ。周囲は常緑広葉樹を主とした自然林。いかにも南西日本の山の植生、雰囲気である。

 

 ↓ こんな感じ

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 ↓ 三丁目の丁目石と石仏(地蔵)

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 路のかたわらには、時おり石仏とセットになった丁目石(丁塚)が出てくる。石仏は地蔵のようだ。路はおおむね見通しのきかない樹林の尾根上を行くが、雰囲気は明るい。ときおり紅葉もまじるが、やはり常緑樹の割合が圧倒的に多く、紅葉の山という感じはしない。

 

 ↓ 何丁目めだか? 根に巻き込まれて浮いている

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 ↓ 尾根上の路を行く

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 ほどなく十五丁目で、「狗留孫山霊場入口」と刻まれた石柱があった。ここが結界ということか。かつてここから先は女人禁制だったとのこと。そのすぐ先に何やら和歌らしきものが刻まれた巨岩がある。そんなものに興味のないKはさっさと通過するし、風化と苔のせいもあって読み下せなかったが、帰宅後調べてみると御詠歌岩と言われるもので、「八重がすみ 峰よりかけて狗留孫の 仏のちかいたのもしきかな」と刻まれているとのこと。

 

 ↓ 「狗留孫山霊場入口」

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 ↓ 1番目の摩崖仏

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 そのすぐ先に最初の摩崖仏があった。かたわらには「1」と記されたパウチされた番号札がかけられている。摩崖仏とはいっても昨年訪れた臼杵のそれのような、立体的に圧倒的に彫り出されたものではなく、道端の大岩に小さく、浅くレリーフ状に刻まれたもの。どちらかと言えば、可憐というか、可愛い感じのものである。手前には地蔵と思われる小さな石仏が置かれている。この日は三十三カ所の摩崖仏の内の約三分の二ほどを見たのだが、図像的には如意輪観音や千手観音等の違いはあるが、設置状況等はほぼすべて同様である。

 そのすぐ先に小さな御堂がある。こぢんまりとした良い感じだ。屋根はこの地方特有の赤い釉薬をかけられた石州瓦で葺かれている。案内図には奥の院と記されていたが、麓の法華寺奥の院ということなのだろうか。そもそもここの霊場や摩崖仏がいつ頃のものなのか、どういう性格のものなのか、私は今も知らないのである。地元の図書館などで調べればわかるのだろうが…。

 

 ↓ 奥の院

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 ↓ 12番(だったか?)

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  ↓ 穴観音への途中から佐波川右岸の山なみを見る

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 奥の院から左の分岐を進むと「穴観音」への標識がある。なるべく多くの摩崖仏も見たいが、穴観音といういわくありげな名前にも惹かれる。案内図では路は行き止まりで、往復することになりそうだが、すぐ近くにありそうに思われて、そちらの路を選ぶ。路はおおむね山腹をトラバース気味に続いているが、案外と長い。やがて「穴観音」の標識のすぐそばに「山頂」への標識が現れ、戸惑う。要領を得ぬまま路を辿ると、ほどなくその前に出た。それは大岩に穿たれた直径20~30㎝ほどの穴。人工的に広げられたようにも見える。中には小石がいくつかあるだけで、仏像等は何もない。釈然としないままに、もう一度ゆっくり全体を眺めてみると、かたわらに金精様の形をした岩が、その先を穴に向けて置かれているのに気づいた。やはりそういうことか。

 

  ↓ 看板の右の石が金精様

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 とは言え、この穴観音と金精様は三十三霊場とは本来は無関係なのではないか。場所的も離れている。そもそも西日本(の山)には金精信仰はあまり無いのではないかと思う。私が知らないだけかもしれないが。当初は小さかった穴を見つけた後世の誰かが、それを広げ、半ば冗談で金精様の形をした岩を探し出してわざわざ設置のではないだろうか。それはそれで、まあ悪い話でもないが、などと思っていたら帰宅後、この穴観音は「『防長風土注進案』堀村の寺院の項には、穴観音について「是より奥の院に穴観音方九尺位の石の中に尺位の穴あり、深サ曲がりてしれず、内は水晶石なり、是を出現石といふ」とある。」という記述を見出した(「鷲ヶ嶽・狗留孫山(剣谷川ルート)」 山へgomen … 山口県の山歩き記録 http://gomen.blog.so-net.ne.jp/2014-03-25 )。やれやれ、わからないもんだ。

 なお『分県登山ガイド 山口県の山』(中島篤巳 1995年 山と渓谷社)には「穴地蔵分岐」という記述があるが、どういうことだろう。

 

 岩観音の所から標識に従って尾根をほんの少し登ればすぐに主稜線上の通常ルートと合流する。いったん鞍部に下り、若干の急登で狗留孫山の三角点の設置されている543.9mの頂上に着いた。

 

  ↓ 頂上にて。11月とは言え、暖かくTシャツ一枚。このあと一組の登山者夫婦がやってきた。この日会ったのはその二人だけ。

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  ↓ 頂上からの展望

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 小ぢんまりとした頂上だが、気持が良い。東から南にかけての展望が良く、ススキの穂の向こうに、ふるさとを貫く佐波川方面が良く見える。標高は低いが、懐かしい山々。大都市近郊と異なり、こうした地方の山では一部をのぞいて、山道はどんどん消滅していきつつある。そのため縦走や周回ルートがとれなくなり、同じルートを往復せざるをえない場合が多く、もったいないことだと思う。ここの山頂には北に延びる尾根に向かうと思われる薄い踏み跡があったが、今はそれを辿ってみる余裕はない。それに心を残しつつ下山にうつる。

 

 穴観音へのルートと合流したすぐ先に狗留孫山方面を指す標識があった。それに手書きで「ここは510mピーク(昔はここが山頂?)」と書かれていた。しかし、上記『分県登山ガイド 山口県の山』には「標高510㍍の展望の峰、さらに尾根をたどると狗留孫山山頂に着く。頂上には石仏。東に石ヶ岳方面180°のパノラマが展開する。」とある。さらに「544㍍の山頂三角点はこれから西に25分であるが、ヤブ漕ぎ道であり、すすめるほどではない。」と記されている。この山に以前登ったことのある後輩のTによれば、確かに数年前まではヤブだったとの由。当時の山頂の正確な位置関係はわからないが、その標識の近くには石仏が一体あり、そこが旧山頂であろう。展望はきかない。ヤブの繁茂しやすいこのあたりでは、刈り払いをしなければあっという間に木々が繁茂し、況や景観は変化するのだろう。なお510mピークを狗留孫山、543.9mピークを鷲ヶ嶽とした記録もある(上記「鷲ヶ嶽・狗留孫山(剣谷川ルート)」)。

 

  ↓ 旧山頂510mピーク?

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 尾根道を辿っていくうちにシダの群落の中を降りてゆくようになる。風化花崗岩とこのシダは相性が良いのか、このあたり一帯の山によくある景観である。緑が輝き、他では見られない私の大好きな風景だ。ただし足元が見えなく、滑りやすいのが難。

 

   ↓ 緑金色に耀く羊歯

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  ↓ シダの群落の中を駆け下るお地蔵様

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 そうこうしている内に26番から33番へと至るコースとの分岐となり、右の25番から13番へのコースに入る。いくつもの摩崖仏が出てくる。場所や向きによっては風化が進んでいたり、苔に覆われたりしていて、パウチされた番号札がなければ見落としそうなものも多い。図像は正確にはわからないが、千手観音や如意輪観音が多いようだ。ほぼ同じような大きさで、下に地蔵が置かれているのも同様。岩に当たる陽ざしと、樹々の影と、苔とに同化しているような風情である。

 

  ↓ 光と影と苔とたわむれる観音様たち

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   ↓ 何番目だかの如意輪観音 解脱と諦念と慈悲の表情? この像が一番好きかも

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 途中、当方遙拝所と記された展望の開けたテラス状のところがある。その先で先の穴観音への分岐と合流する。奥の院からは御堂の裏手に回る。「悪人戒め岩」という直立した岩がある。そちらに回ったせいか、御堂のわきにあったはずの「御勅願岩」は気づかずじまい。その先に「西院ノ河原」とあったので「東院ノ河原」もあるのかなと思っていたが、しばらくして西院ノ河原=賽ノ河原であることにようやく気づいた。

 

  ↓ 悪人戒め岩

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  ↓ 光と影と石仏と

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 まもなく1番の摩崖仏に出て往路と合流。以後、往路を戻る。中国自動車道の陸橋を越えたところにもいくつかの石仏があったのに気づいた。その一つである青面金剛が吾々をみて笑っているように見えた。

 

  ↓ 登山口近くにある青面金剛

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 今回の標高差は420m。頂上往復だけなら3時間かからないところを、あれやこれやと楽しみながら4時間かけて登った。丁目石、奥の院、穴観音、摩崖仏、その他、楽しみどころの多い、良い山行であった。

 その後近くのロハス島地温泉で一浴。夜は山岳部OB会のメンバーとの飲み会で一日を終えた。

  

【コースタイム】2017.11.6 快晴 同行:K(高校山岳部同期)

法華寺10:10~奥の院11:20~穴観音11:40~狗留孫山543.9m頂上12:05~法華寺14:20