艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

2017年に見た展覧会 ―その1

 昨年末、朝日新聞では恒例の「回顧2017 美術」で、北澤憲昭、高階秀爾山下裕二の「私の3点」をあげている。内容は以下の通り。

 

 北澤憲昭

  「パロディ 二重の声」(東京ステーションギャラリー

  「日本の家」(東京国立近代美術館

  「最古の石器とハンドアックス」(東京大学総合研究博物館

 高階秀爾

  「絵巻マニア列伝」(サントリー美術館

  「北斎ジャポニズム」(国立西洋美術館

  「皇室の彩」(東京芸術大学大学美術館)

 山下裕二

  「不染鉄」(東京ステーションギャラリー

  「海北友松」(京都国立博物館

  「運慶」(東京国立博物館

 

 以下にあげる、私が2017年に見た展覧会の中で、上記の9点と重なるのは、「不染鉄」のみ。もう一つ、これはその前年に北澤憲昭があげた「ラスコー展」が年度を越えて入っているが、それでも2/9。割合としては例年こんなものである。

 そもそも恒例行事である朝日新聞の「回顧 201X 美術」には、特に選定の基準や主旨といったものは記されていない。また3名の選者も近年は固定されているようだ。その結果、当然のことながら、選者の専門なり好みがそのまま反映されてはいるが、それを通してある種の客観的評価といったものがうかがわれるといったほどの、重みのようなものは感じられない。例えば入場者総数といったような客観的数字にさほど意味があるとも思えないが(それでは漫画・アニメ関係の展示が圧倒的上位を占めるのは目に見えている)、それでも一応の目安として併記するぐらいの度量というか、新聞文化欄としての客観性というか権威のようなものが示されてもよいと思うのだが、どうであろう。

 上記三者が現在の日本の美術(評論)界に占める位置、存在感、役割の大きさからすれば、三者の私的好みの提示とのみ思われかねない「私の3点」に終わっているのは、もったいないというか、無責任な気がするのであるが…。

 

 ともあれ以下に私が2017年に見た展覧会(等)の一覧をあげる。例によって、美術館だけではなく、寺社、遺跡、庭園等も含む場合もあるが、MUSEUMの範疇をなるべく広くとって考える。また、一般的な街の画廊等は含まない。

 

 凡例:上段「 」内は展覧会の正式名称。その右の( )内は展覧会のサブタイトル。下段は美術館名と見た日。[ ]はざっくりとしたジャンル。●以下は簡単なコメント-印象記。少しややこしいものについては、別稿として次のブログでアップする。

 

1.「ラスコー展」(クロマニョン人が残した洞窟壁画)

 国立科学博物館 1月13日  [歴史・原始]

 ●前年度の「私の3点」ということで、年が明けて見に行った。博物館の考古的・歴史的展示なども多少好きなので、海外ではわりとよく見る。北澤憲昭は「絵画の起源へとレプリカでいざなう美術館を出し抜く発想において」取り上げたとのこと。しかし例えば最近芸大がさかんに提唱している「クローン文化財」の発想にはいささか虚を突かれたというか、なるほどと思わせられるところもあるが、本展に関してはピンとこなかった。学校教育、社会教育の一つとしては有効かもしれないが。

 

2.「岩佐又兵衛 源氏絵」(〈古典〉への挑戦) 

 出光美術館 2月2日  [日本画

 ●辻惟雄の『奇想の系譜』以来気になっていた画家だったが、ピンとこなかった。通俗的という印象。

 

3.「ガラス絵」(幻惑の200年史)

 府中市立美術館 2月25日  [ガラス絵]

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●マイナーアートの魅力?数年前のはけの森美術館での「ガラス絵」(浜松市美術館の名品)展も面白かったが、これもなかなか面白かったです。

 

3-2 「常設展」(絵画の庭 小特集 府中の風景)

 府中市立美術館 2月25日  [洋画]

 ●上記展のついでに。特になし

 

4.「第41回 从展」

 東京都美術館 3月4日  [洋画等]

 ●いわゆる団体展は見に行かないのだが、たまたま今回のみ本展に関係した友人に頼まれ、招待券をもらったのでやむなくというか、まあたまには、といったぐらいの気持ちで見に行った。

 ところで、この団体展はアンデパンダン(無鑑査)なのだろうか?表現と表出の差異が弁別されていない作品が多い。

 

5.「シャセリオー」(19世紀フランス・ロマン主義の異才)

 国立西洋美術館 3月15日  [洋画]

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●考えてみればシャセリオーの単独展を欧米以外でやるというのは、相当すごいことなのではないだろうか。ということで、久しぶりにヨーロッパアカデミズムの勉強をしに行ってみた。来た作品の多くはひ弱なものだったが、ある程度以上の力量はあるのだろう。だが線は細い。新古典主義ロマン主義のはざまで若死にした(37歳)から、仕方がないのか。

 

5-2 「スケーエン デンマークの芸術家村」

 国立西洋美術館 3月15日  [洋画]

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●「シャセリオー」を思いがけず早く見終わったので、サブ企画(?)でやっていたのをついでに見た。まったく知らなかった作品群。きれいで誠実な作品群だが、ローカル。そこまでの話。抽象へと移行する時代の動きに反して、袋小路へと向かった誠実さである。

 

6.「ミュシャ展」

 国立新美術館 3月31日  [洋画]

 ●別稿

 

7.「伊勢神宮 内宮・外宮」

 伊勢神宮 4月8日  [寺社]

 ●高校同期の友人たちと観光旅行で行った。特にコメントはなし。本当は書くべきことが多いのだろうが、やはり美術の文脈だけでは語れない。

 

 ↓ 外宮の次に遷宮されるべき場所。現在は空き地。今建っている社殿は撮影禁止、だったような。美術の文脈だけでは語れない。

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8.「栃尾観音堂」(円空仏)

 奈良県天川村 4月11日  [仏教美術

 ●旅の一環、偶然、行った。ブログ「伊勢・大峰・大和への旅(観音峰山・三輪山) その2」に既述。45年前に東京で見ていたのだった。

 

9.「喜多美術館 常設展」

 奈良県桜井市 4月12日  [洋画・現代美術]

 ●友人のFが関係していることからアドバイスを頼まれて、旅の一環として訪問。個人コレクションとしての質は良いが、保存状態・展示方等、不可。これをきっかけとしてG大学のK氏、A氏の協力で修復、保存方法の見直し等、再生の方向に向かうことになった。

 

9-2.「金屋の石仏」 

 奈良県桜井市 4月12日  [仏教美術

 ●喜多美術館に隣接していたのでのぞいてみた。特になし。

 

10.「當麻寺」 (本堂・講堂・金堂) [仏教美術

 奈良県葛城市 4月13日

 ●同じ旅の一環。学生時代に一度見たはずだが、特に記憶なし。今回も特にコメントなし。

 

11.「アドルフ・ヴェルフリ」(二萬五千頁の王国)

 東京ステーションギャラリー 5月1日  [アウトサイダーアート]

 ●正統派かつ古典的アウトサイダーアート。由緒正しきお手本(?)である。こうした展覧会を見ることができて、私は幸福である。

 しかしそれにしても、なぜアウトサイダーアーティストたちはそれぞれの王国を、歴史を、建設しようとするのか。むろん、それがここではない外側に在るからである。

  展覧会のチラシは 旧論再録 「表現のはじまりとしてのアウトサイダーアート」  に載せているので、省略。

 

12.「小貫政之助」(生きた時代の証言) [洋画]

 たましん歴史・美術館 6月7日

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●未知の作家。まあ、見たという感じ。「生きた時代の証言」というサブタイトルからして、結局、ある種の通俗性のうちに終始したような気がする。その時代と共に消えゆくべき作家か。それはそれとして、自由美術にはこういったある種の「絵肌/テクスチャー」の系譜があるような気がしたが、さて?

 

13.「佐藤直樹個展」(秘境の東京、そこで生えている) 

 アーツ千代田3331  6月7日  [洋画]

 ●別稿

 

15.「浅野竹二の木版世界」(生きる、笑う、自由に!)

 府中市立美術館 6月21日  [版画]

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ↓ 前半の創作版画から新版画へと移行した時代の作品

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 ●創作版画の作家、未知の作家だったがゆえに見にというか、確認しに行った。前後半生の作品の違いが、私的には面白かった。はじけ具合にセンスあり。残念なのは、借りだされた個人蔵のものならまだしも(?)、出品されていた館蔵品にすらいくつかのものにカビ(!)が生えていたことである。最近こうして例が増えているような気がするのは、私の目が意地悪になっているせいなのか、それとも学芸員の怠慢、あるいは予算不足なのか。それにしても・・・。

 

15-2.「常設展」(「ゆかいな作品たち」) 

 府中市立美術館 6月21日  [版画]

 ●浅野竹二を見た後だったので、ついでに視野も広がり、多少面白かった。

 

16.「不染鉄」(没後40年 幻の画家)

 東京ステーションギャラリー 8月25日  [日本画

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ↓ 「思出之記」1927年f:id:sosaian:20180117214908j:plain

 

 ●迷ったが、未知の作家ゆえに見に行った。私の不勉強ゆえの未知かと思ったら、東京では初めての回顧展とか。あながち私のせいばかりではなかった。

 不思議な魅力がある。近代京都画壇、国画創作協会の時代あたりの、華岳、波光、あるいはさらに岡本神草、稲垣仲静あたりと通底する空気。そしてそれはその後の時代を通しても、決してメジャーにはなりえぬもの。未だよくわからぬ、消化しきれぬ作家である。

 

17.「藤島武二展」(生誕150年記念)

 練馬区立美術館 8月29日  [洋画]

 ●藤島のいくつかの作品は色々な機会を通じて見ているが、単独での展覧会を見るのは初めて。二三の魅力的な作品をのぞいては今一つといった印象。既述ブログ「国会議事堂の壁画の謎」につながるヒントでも見出せないかと思っていたが、それは見いだせなかった。

 

18.「山下清 とその仲間たちの作品展」(踏むな 育てよ 水そそげ 石川謙二 沼祐一 野田重博)

 川崎市民ミュージアム 9月13日  [アウトサイダーアート]

 ●別稿

 

19.「ハイチアート展」(川崎市民ミュージアム) 

 川崎市民ミュージアム 9月13日 [エスニックアート]

 ●別稿

 

20.「浅井忠の京都遺産」(京都工芸繊維大学美術工芸コレクション)  

 泉屋博古館 分館 10月11日 [洋画・工芸]

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●浅井忠は工部美術学校中退、明治美術会設立等ののち、いったんは東京美術学校教授となるが、2年後にフランスに留学。その2年後に帰国したが、そのまま新設の京都高等工芸学校教授になる。以後油絵=西洋画ではなく図案・デザインの教育にあたる。油絵=西洋画については聖護印洋画研究所(のち関西美術院)という私塾(?)でおこなった。そのあたりの経緯がよくわからない。あるいは左遷のニュアンスがあるのか。

 ともあれ、浅井の京都以降のアールヌーヴォー風の仕事に興味があったのだが、その手のものはほとんど出品されておらず、ウ~ン・・・、残念。黙語は黙したままだった。*(黙語は浅井の号)

 

21.「林敬二展」(品川区民芸術祭2017)

 O美術館 10月25日  [洋画]

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●新しく館長になったTさんから招待状が来たので、表敬訪問に行った。私は公募団体展には行かないことにしているので、美術雑誌等でたまに見るぐらいしか知らない作家だったが、まとまって見ると案外悪くない。ある種の誠実さを感じる。なお、団体展を見に行かないということは、当然その日本的特殊性を否定しているわけで、そうしたことについても考えざるをえないのだが、それはまた別の話。

 

22.「奈良 西大寺展」(叡尊と一門の名宝) 

 山口県立美術館 11月7日 [仏教美術

 ●同時期開催の「雪舟発見!展」を見に行ったのだが、美術館的にはこちらがメイン企画。しかし今の私には縁がなかったというか・・・。東大寺関係ではけっこう好きなものが多いのだが。

 

23.「雪舟発見!展」(発見!幻の雪舟

 山口県立美術館 11月7日  [日本画

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●これも実はその後の毛利博物館での雪舟筆「四季山水図(山水長巻)」特別公開と、セットの企画だった。なるほど、そうですか、という感じ。

新(再)発見を含めた6点の倣古図が出ていた。倣古図というと、まあ模写である。岡山県立美術館所蔵のものだけ伝雪舟とあるが、やはりその一点だけ格が下がる。模写のそのまた模写といったところであろう。

 

24.「特別展 国宝」(雪舟筆「四季山水図(山水長巻)」特別公開) [日本画

 毛利邸+毛利博物館 11月7日  [日本画

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●私のふるさと山口県防府市にある毛利博物館。国宝の雪舟筆「四季山水図(山水長巻)」を有している。そこに、文化・美術に関して一応の見識を持っている旧友が、昨年から理事となって勤務し始めた。彼とのやり取りの中で、アドバイザー的発言(?)を求められ、他の用件と合わせて見に行った。

 ずいぶん前に一度は見たことがあるはずだが、ほとんど記憶がない(あるいは公開していない期間だったのかもしれない)。雪舟自体についても、知っているつもりで、実はこれまでほとんどちゃんと向かい合ったことはなかったのである。今回、必ずしもそれを見たいという気が熟してのタイミングではなかったので、受容の仕方が難しい面もあったが、やはり良いものは良い。正直に白状すれば、前記の「倣古図」と合わせて、『雪舟はどう語られてきたか』(2002年 山下裕二 平凡社ライブラリー)を出発前に読み始めるという泥縄的事前学習をしつつ赴いたのである。同書の「わかりやすいもの 雪舟筆『山水長巻』」(橋本治)によって蒙を開かれたというか、鑑賞を助けられた感はある。

 それにしても今回は全16mのそれが全巻広げられているのを、ガラス越しではあるが、間近で、ゆっくりと見ることができた。全巻広げられるのは年に一度、40日程度だとの事。同行のK以外は、客が一組二人ほど来て去って行っただけ。Kもしばらく見てほかへ移り、長時間一人だけで見た。思えば相当に贅沢な時間であった。昨年10月の京都国立博物館での「国宝展」には他の多数の国宝と共に、本作の一部が出品されたが、長蛇の列だったとの由。そうしたことからもこの博物館での、同作の扱い方、取り扱い方において、今日的な目からはいくつも問題、改善すべき点を指摘することができる。文化財を経済的資源としか見ない、最近の政府発言は論外としても、その時代なりの見せ方、活用の仕方において、それぞれに工夫する必要はあるだろう。

 

25.「山頭火の句 名筆特選」(~百年目のふるさと~)

 山頭火ふるさと館 11月9日  [文学]

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●わがふるさとの生んだ自由律俳人種田山頭火の人気は近年ますます高く、その文学的評価も定着したと見るべきであるが、地元での受容度は極めて低かったと言わざるをえない。そこには、一つには、彼の一種無頼派とでもいう生き方に対する嫌悪、反発が根強くあるのだろう。それは、作品への評価とは別の、近親憎悪的感情とも思われる。それはいたしかたがないこととも言えるが、いま一つ、わがふるさとが、芸術・文化に対してきわめて冷淡な風土であることに由来するというのが、私自身の実感でもある。

 そうした風土でありながら、ここにきてようやく彼の記念館ができた。その最初の展示である。内容や設備構成を見て、ウ~ン・・・大丈夫だろうか、というのが正直なところだ。しかし、できたばかりなのだから、あまり文句を言うのは控えよう。ただ一つ、こうしたMUSEUM=展示施設の主役は収蔵品であり、使命の一つが収集及び研究であるとだけは強調しておきたい。器だけ作って収集購入予算を削減された施設の悲惨さ、さびしさは、全国どこにでも遍在しているのを知っているからである。

 

26.「ディエゴ・リベラの時代」(メキシコの夢とともに)

 埼玉県立近代美術館 11月15日  [洋画]

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●ディエゴ・リベラフリーダ・カーロについては、数年前にメキシコである程度見てきた。今回は比較的珍しいラテンアメリカ近代美術(全般)ということで見に行った。代表作、名作といったものはほとんどなかったが、ふだんあまりふれる機会が少ない分野であり、また幅広い目配りのきいた構成によって、その全体感はそれなりに勉強できた感じはある。

 

  1. 「銅版画家 清原啓子」(没後30年) 

 八王子市夢美術館 12月7日  [版画]

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●若くして逝った未知の作家。私と同年生まれということで、同級生みたいというか、まったく同じような空気を吸って生きていたことが感じられた。幻想的細密画と言ってしまえばおしまいだが、肯定的にせよ、否定的にせよ、それなりの魅力はある。

 

28.「オットー・ネーベル展」(シャガール カンディンスキー クレーの時代)

 Bunkamuraザ・ミュージアム 12月14日  [洋画]

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●チラシを見て、一見どう見てもクレーに似ているが、全く未知の作家であり、気になって見に行った。一流の作家であれば私が知らないはずがない、という自惚れを持っているからである。結果、ウ~ン・・・という印象。つまり、やはりせいぜい1.5流以下の作家だということである。それはそれで仕方がないことであるが。

 なお、展示構成等は親切で、また同時出品されていたクレーや他の作家の作品に良いものがあり、楽しめた展覧会ではあった。

 

  1. 「野生展」(飼いならされない感覚と思考)

 21-21 DESIGN SIGHT 12月18日  [現代美術・民俗]

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●中沢新一がディレクターだということで、少し期待して見に行った。民俗学的モチーフの巨大な丸石神(本物?なんだろうね?)をいきなりもってくるなど、けれん味たっぷり。しかし冷静に見てみれば、六本木ミッドタウンの21-21 DESIGN SIGHTというあたりからしても、この展覧会自体が飼いならされているようにしか見えない。高度資本主義社会の最先端の安全地帯での、無国籍で都会風でコンテンポラリーなアート(?)。南方熊楠(のレプリカ)はともかく、個々には良い作家、良い作品があったにもかかわらず、結局のところ肝心の「野生」なるものが見えてこない。何を言いたいのかわからない。やはり、しょせん中沢新一という人は、センシティブでかっこいい切り口は示せても、その先の体系というか、思想や情念の塊を紡げない人なのだろうか。

 若くスタイリッシュな外人の観客がけっこう来ていたから、外貨獲得には貢献したというか、評判は良かったんだろうな。

 

 なおこれは記事そのものとは関係ない話だが、私はこれまでに美術館等(いわゆる市中の画廊は除く)で見たすべての展覧会を一覧表で記録しているが、本展はそのちょうど1200番目である。実質18歳からの45年間の数字で、まあそれはそれで、ちょっと感慨深い。

 

 以下、●別稿と記したものについては、次回に取り上げる。

(記:2018.1.17)

 

今年の山納め:大高取山から鼻曲山をへて越上山 (2017.12.27)

 不調である。何とはなしに。不定愁訴とでも言おうか。よくあることだ。だからこそ山に行かねばならない。

 今年16回目の山行が、本年の山納めである。年度目標の月2回×12=24回には遠く及ばなかったが、夏場の天候や体調等の問題もあり、まあ、こんなもんだろうと思う。

 前二回の山行がともに一部スリリングというか(その分面白かったのではあるが)、ちょっと恐いところがあり、今回は絶対安全安心というか、そうした要素のない楽なところに行きたいと思った。予感による危険回避というほどのことでもないが、年末でもあるし、基本的には陽だまりハイキングのイメージである。

 とは言っても、そうしたイメージにかなう手持ちのカードもそうはない。とりあえず前回に続き奥武蔵の、大高取山376.4mを起点として南下するコースを選んだ。後半、越上山に行くか、山上集落として有名なユガテの方に行くか、現場で決めることにする。大高取山は昔から初心者向けハイキングコースとして有名なところ。おそらく一生行くことはないと思っていたところだが、まあいいか。

 

 ふだんよりもう少しゆっくりと7:48、五日市発。越生駅9:20着。「ハイキングのまち 越生」の看板がある。昨年4月28日に全国で初めて「ハイキングのまち宣言」をしたんだそうだ。ふ~ん・・・。

 

 ↓ 越生駅前からの西山高取(?) 右の中腹の白い建物が「世界無名戦士之墓」

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 ↓ 越生の石仏 右の庚申塔石灰岩 中の「いなり大こんけん(稲荷大権現)入口」は秩父青石 左の馬頭観音の材は? いい感じです。

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 大高取山はどこからでも取り付けそうだが、とりあえず「世界無名戦士之墓」なるところを目指す。車道をゆっくり登った先の階段の上の、横広がりの白い建物がどうやらそれらしい。ちらっとのぞいてみると仏教式の慰霊施設(?)のようだ。帰宅後一応調べてみた。例によってウィキペディアによると「~1955(昭和30年)に完成。264人の戦死した無名戦士の墓として遺骨が納められ、さらに世界60余ヶ国の251万の戦死者を安置している」との由。意味がわからない。当然「出典がまったく示されていないか不十分です」のレッドカード付き。私はこの手のものに対しては、まずは胡散臭さを感じる方なので、あまり深入りはせず、早々と脇のハイキングコースに入る。

 

 ↓ 「世界無名戦士之墓」 アルメニアグルジアにも同様の趣旨、同様のデザインのものがあった。

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 ↓ 登り始め こんな感じ

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 「ハイキングのまち宣言」のせいか、ルート全般に標識は多い。特に大高取山一帯は「月例ハイキング大会」のイベント用パウチ標識がやたらと多く、目ざわりだが、イベントだから仕方がないか。

 

 ↓ 数十枚も目についたパウチ標識 なんと二ヶ月以上放置されたまま

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 そう思い、当然のごとく、近々予定されているイベントの準備かと思った。帰宅後、何げなく越生町のHPで「月例ハイキング大会 平成29年度月例ハイキング」を見てみたら、来年1月は「武蔵越生七福神めぐりコース」とあり、違う。終わった12月は9日で「野末張見晴台コース」、11月が「健康長寿(樹)コース」で、いずれも違う場所だ。さかのぼって見ていくと、10月14日に「山々をめぐる健脚コース」として「越生駅前ポケットパーク→世界無名戦士の墓→大高取山→黒山三滝→傘杉峠→顔振峠→桂木観音→越生駅」とあった。これだ。なんと二カ月以上も前のイベントのパウチ標識が何十枚もそのまま放置されているのだ! 呆れた。

 「ゴミを持ち帰ろう」の看板も山中にいくつもある。用の済んだイベント用パウチ標識は、タチの悪いゴミ以外の何物でもない。それを「ハイキングのまち宣言」の町が率先して、撒き散らしているのだ。何をかや言わん、である。イベントが終われば速やかに回収すればよいだけの話である。

 参加した人、地元の人の見識も疑う。何も感じないのだろうか。このブログを見て、気がついた行政当局(越生町役場産業観光課)なり、地元の心ある人が速やかに回収におもむいて欲しいと思う。

 

 気分は悪いが、話を戻す。

 路は歩きやすいが、予想通り、ただただ植林帯の中。この日歩いたコースの8~9割が植林帯。江戸以来の西川材の地であり、さらに江戸の大火や関東大震災、戦後の復興等への貢献からすれば仕方がないか。植林帯は今もなお生きているようで、見通しのきかない起伏の中に、多くの仕事路、作業道が錯綜している。多すぎるハイキング用標識もむべなるかな(と先ほどまでは思っていた)。

 途中には「白岩様」と表示のある石灰岩の露頭があった。この日のコース全体、特に後半にはあちこちで規模の大きな石灰岩の露頭、大岩が散見されたが、それらのほとんどは針葉樹の植林に隠されている。自然林の中であれば、もっと見栄えがするだろうに、残念なことである。馬子にも衣装というが、その逆だ。

 

 ↓ あちこちにあった石灰岩の露頭 中央に小さな「白岩様」の表示 

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 大高取山周辺では何人かの登山者、トレランの人に出会った。さすが、ポピュラーコース。大高取山頂上では北東側が伐採されて展望が効く。都心方面から筑波山まで見えた。

 

 ↓ 大高取山山頂

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 ↓ 筑波山遠望 右には都心が望める この写真はさきほどの「世界無名戦士之墓」から撮ったもの

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 桂木山はどこか気づかぬまま通過し、少し下れば桂木観音に至る。由来は養老三年(719年)の行基に遡るとの由。彼が彫ったと言われる本尊の千手観音でも見れるなら別だが、信仰心のない私はスルー。

 

 ↓ 桂木観音

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 ↓ 桂木観音を下の車道から見る 山里の風情

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 参道の下には舗装された立派な車道が上がってきており、見れば近所には普通の民家が点在している。標高で言えば240mにすぎないにしても、ここもまた山上集落であったかと、合点する。この日は結局その後さらに3回舗装された林道を通過することになった。

 その先のルートがややわかりにくいが、おおよその見当をつけて進む。民家の横から柚子畑の脇を行き、桂木峠とおぼしき峠から再び山道となる。

 天気は良いが、風は冷たい。途中でコンビニ弁当の昼食を食べている時、山口のKらからライン。雪の県境の莇ヶ岳から弟見山に登っているとのこと。向こうは4人パーティーで昼食は暖かいウドンだと聞けば、少しうらやましい。

 

 再び舗装された林道を横切れば、そこからは今日初めてと言っていい落葉広葉樹林が現れる。やはり植林帯よりは遥かに気分が良い。368.3mの四等三角点ピークの名は天望ということだが、由来はわからない。

 

 ↓ 舗装された林道正面の赤い標識の右から山道に入る

 

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 ↓ 登り始めて以来、久しぶりの広葉樹林 下生えは常緑の喬木

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 ↓ 送電線鉄塔付近から見た関八州見晴らし台方面

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 広葉樹林帯と植林帯を交互に進む。二カ所ほどのやや急登の先でひょっ

こりと鼻曲山(447.3m)の山頂に飛び出した(13:05)。やっと山頂らしい山頂で、少し気分が良い。

 

 ↓ このちょっとした急登のすぐ先が鼻曲山山頂

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 ↓ 鼻曲山山頂

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 その後もちょっとした岩場、植林帯、落葉あるいは常緑広葉樹林帯と進めば、一本杉峠。あたりの植林に紛れてはいるが、標識の後ろのそれが「一本杉」の名の由来なのだろうか。

 

 ↓ ちょっとした岩場(逆方向より)

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 ↓ コースの8~9割はこうした植林帯 下生えは馬酔木

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 ↓ 標識の後ろが名の元になった一本杉だろうか

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 さて、ここからどちらに進もう。西へ越上山か、南へユガテか。時間的には同じようなものだ。少し迷ったが、やはり越上山という「山頂」を目指す。

 一度舗装林道を横切り、尾根筋直下の山腹を水平にトラバースする路を辿る。尾根筋、山腹には植林帯の中、ところどころに石灰岩の大岩。車の通れそうな幅広い道に出た先に越上山への標識がある。そこを右に10分ほどで越上山566.5mの山頂に着いた(14:45)。展望はないが、感じは案外悪くない。大高取山、鼻曲山、越上山とだんだん山らしくなってきた感じだ。

 

 ↓ 越上山頂上手前の岩 右下は切り立っているが、植林のせいで迫力なし 見栄え悪し

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 ↓ 越上山山頂

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 下山は諏訪神社に出たあと、いったん阿寺集落の舗装された林道に出る。遠くにわが家から毎日見る大岳山と、その右に富士山が顔をのぞかせている。これから下る予定の尾根も確認した。

 

 ↓ 下山途中の林道から見る筑波山遠望

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 ↓ 左 大岳山と富士山 (富士山好きのFさんのために特に掲載) 

  富士山はラーヘンしている(煙草を吸っている=雪煙をあげている:ドイツ語)

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 ↓ 右の尾根が下山コース(のはずだった)f:id:sosaian:20171228195631j:plain

 

 林道を右に少し進み、標識に従って左折、予定の虎秀山への尾根に向かう。幅広い路はしっかりしており、標識もある。ここまで来ればもう楽勝だ。そのはずであった。しかし、好事魔多し。

 ほどなく現れた分岐には、正面に「東吾野駅(井上方面)」、左に「東吾野駅(虎秀)」の二つの標識。「虎秀山」方面に進むつもりであった私は、一応地図で(手書きの)「虎秀山」の位置を確認した上で左を選んだのである。しかしその手書きの「虎秀山」の右の谷間に「虎秀」という集落名が印刷されていたのに、気がつかなかったのだ。

 歩きだせばほどなく沢沿いに進むようになる。先ほど見た地図にあった分岐も沢沿いに下るようになっている。実は私が左に入った分岐と、予定していた地図上の分岐はだいぶ位置が違っていたのだが、思い込んでいたのでそのことに気づかなかったのである。

 ところどころにある石灰岩の露頭や、鍾乳洞の赤ちゃんのような小さな穴を観察したりしているうちに、右下の河原に大きな岩場を発見。どう見てもゲレンデのように見える。私は全く知らなかったのだが、阿寺の岩場として結構有名だということを、帰宅後に知った。

 

 ↓ 阿寺の岩場 左下に祠が納められていそうな小さな洞窟が見える

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 ちなみに阿寺は諏訪神社の下にある集落の名だが、「アテラ」とは東日本を中心にある地名で、「左」の字を当てられることも多い。越後や会津ではアテラの付いた山や沢も多かった。語源としては、「あちら側」という音韻からきたという説もあるが、「左」の字を当てられる場合は、その意はそのまま「左側」ということであり、それは同時に「日当たりが悪い」ということでもあるらしい。やはり古来日本では右が正=陽、左が邪=陰ということか。ともあれ、古い地名であることは間違いない。

 

 まあ、間違えはしたのだが、予定の尾根筋を歩くよりは、虎秀川沿いの車道歩きの方が結果的には早く楽だった。とはいえ、車道を歩いていて、間違いに気づいたのはだいぶたってから。単純かつお粗末な話である。東京付近の、特に奥武蔵あたりの林業がまだ多少なりとも生きている地域、高地集落がある地域では、今なお地図に出ていない仕事道や作業道、生活道が多い。案外間違えやすいゆえんである。

 しかし、今回のルートミスもまた、要は思い込みが原因である。間違えてばかりだ。ともかく反省。それにしても下りに関しては、奥武蔵とは何か相性が悪い・・・。

 

 暗くなる寸前、足が棒になる寸前に東吾野駅に着いた。電車を待つ間に夕闇が迫り、プラットホームはなんだかちょっと童話のような光につつまれていった。

 

 ↓ 東吾野駅ホーム ちょっとメルヘン

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 ↓ 5万図「川越」

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  【コースタイム】2017年12月27日快晴 単独 最大標高差約500m

越生駅9:25~世界無名戦士之墓9:47~大高取山10:55~桂木観音11:20~展望(P368.3m)12:32~鼻曲山13:05/13:20~一本杉峠14:00~越上山14:45~諏訪神社15:13~東吾野駅16:45

グループ展のお知らせ 「あなたのためのカレンダー展 Ⅱ」が始まります

グループ展のお知らせ 「あなたのためのカレンダー展 Ⅱ」が始まります。

 

  

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会期:2017/12/11-12/16

休廊日:会期中無休

時 間:11:30〜19:30(最終日 17:00まで)

来年はどんな絵で一年を過ごしましょう?

 

小品2点の出品です。

ということで、詳しくはうしお画廊HP あなたのためのカレンダー展 Ⅱ – うしお画廊  

 をご覧ください。

伊豆ヶ岳東尾根から子の権現へ (2017.12.6)

    ↓ 伊豆ヶ岳遠望 右に延びるのが東尾根

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 【コースタイム】 2017.12.6(水曜日)快晴 単独

西吾野駅9:25~下久通~琴平神社10:10~狢入山10:55~伊豆ヶ岳頂上12:30-13:00~古御岳830m13:20~ナローノ高畑山695m14:00~中ノ沢ノ頭622m14:27~天目指峠14:50~愛宕山15:45子の権現15:52~吾野駅17:30

 

 ↓ 5万図「秩父」2.5万図「正丸峠」「原市場」

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 前回の山行(11月21日 殿平~鞍吾山~沼沢ノ峰)で、下降時(沼沢ノ峰東南尾根)に少々しんどい思いをしたこともあって、今回の山は少し気楽なところに行きたいと思った。気楽と言えば何となく奥武蔵が思い浮かぶ。実際のルートによっては必ずしもそうとは言えないのであるが、まあ気分としてはそうなのである。奥武蔵もある程度歩いているから、そう食指をそそられるコースもないのだが、ふと伊豆ケ岳の東尾根のことを思い出した。

 

 伊豆ヶ岳には30年ほど前に一度登ったことがある。その時は、当時勤めていた美術予備校、武蔵野美術学院での一種の学校行事(?)として、生徒20~30名と講師数名を連れて正丸峠から登った。むろん言い出しっぺは私であり、自分の趣味である。

 その時に、出発前には知らなかったのだが、心臓に故障のある生徒が一人いたのである。その彼が頂上付近で「あ、心臓が止まった!」と言いながら、自分で心臓マッサージをし始めたではないか。驚いた。本人いわく「時々、急に止まるんですよ。こうしてマッサージをして薬を飲めば大丈夫です。」そうはいかないだろう。予定では子の権現まで行くはずだったが、急きょ、地図を見て、頂上と古御岳の間の鞍部から久通をへて吾野駅まで、二人で下った。彼はその後、特に問題もなく翌春、愛知県立芸術大学に入ったはずだ。今はどこでどうしているやら。

 ちなみにその前年にも、同じ予備校の生徒を連れて、奥多摩の御岳から大岳山に登っている。その中の一人に、それがきっかけとなって美大に入ってから山を始め、卒業後にガイド資格を取り、冬の一ノ倉滝沢スラブを攀ったり、転落して大怪我をしたり、ブータンヒマラヤの初登頂をしながら、現在もある山雑誌に連載を持っているH(女性)がいる。彼女いわく、山を始めたのはその時の山行がきっかけだったとの由。全然知らなかった。人生、何がきっかけで、どう変わるかわからないものである。

 

 伊豆ケ岳の東尾根については、その頃から何となく意識にはあったように思う。現在でも地形図や山と高原地図には破線が記されておらず、一般的なガイドブックにも取り上げられていないが、『新ハイキング』などには以前から時おり載っており、そうしたことから、意識にあったのだろう。出発の二三日前にふと手にした『ハイグレードハイキング[東京周辺]』(打田鍈一 1993年 山と渓谷社)にも思いがけず取り上げられていることに気づいて、つい気を強くした。マイナーであってもかまわないが、どこかで取り上げられているということは、やはりそれなりの魅力があるからだと思うからである。ちなみに著者の打田鍈一さんとはここ最近、年に一二度、立川会(元「岳人」編集者のYさんを中心とする会)で酒を飲む間柄。

 

 11月16日(水曜日 快晴)

 少しゆっくりと6:00起床。7:41武蔵五日市発、西吾野8:53着。すぐに歩き始める。『ハイグレードハイキング』にはアプローチとして森坂峠越えのルートが紹介されていたのだが、すっかり忘れていて(特に興味もなかったので…)、下久通まで歩く。いくつかの石仏がある。馬頭観音、地蔵、青面金剛庚申塔。すっかり風化して判別できないものもある。

 

 ↓ 左から「風化して不明」、「青面金剛庚申塔」、「地蔵」、「判読不能‐蚕関係?」

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 ↓ 下久通から見る琴平神社の鳥居

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 右の尾根の中腹に鳥居が見えてくる。そこが琴平神社。見下ろせば山里。石段を登れば、一段上にもう一つ社がある。奥宮ということか。

 

 ↓ 右下が琴平神社(前宮?)

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 ↓ 琴平神社奥宮

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案外良い雰囲気で、先を期待したが、すぐに檜の植林帯となる。それが延々と続く。まあこんなものだろうと思う。このあたりは江戸時代からつい近年まで西川材として有名な材木の供給地だったというから、その名残りなのだろう。この日歩いたコースの6、7割は植林帯だった。

 

 ↓ 垂直性と木漏れ日のリズム

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 ↓ なぜドラえもん

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 神社から45分ほどで、なぜかドラえもんが置かれている標柱があり、そのすぐ右に狢入り山の表示。470m圏。ドラえもんは狢/狸ではなく、猫だったよな~。

 

 ↓ 狢入山

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 その先もけっこう歩かれているようで、路はしっかりしており、ゆるやかな登り降りと多少の急な登りを繰りかえす。ところどころに石灰岩の露頭が現れる。そういえば、ここは武甲山に近く、地質も似ているということか。

  物見台跡はどこかわからぬまま通過。展望のきかぬ、檜の垂直性と木漏れ日だけが眠くなるようなリズムを刻む単調な登りが続く。ところどころに栂の大木が現れる。

 

 ↓ こんな感じ

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 やや急な登りのあとでようやく雑木林となり、木の間越しに多少の遠望が効くようになる。ここまで見ることのなかった鹿の糞も見るようになる。鹿も植林帯では生きてゆけぬか。

 

 ↓ 右:伊豆ヶ岳 左:古御岳 遠望

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 そのあたりがバラガ平と言われる所かとも思うが、よくわからない。多少の岩場や急登も出てきて面白くなるが、案外長い。地図上で思っていた現在地を早めに読み過ぎていたようだ。帰宅後にネットで見てみると、このあたりから先、結構ルートファインディングに苦労した人が多いようだが、特にそんなこともなかった。

 

 ↓ こんな感じ

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 ↓ 急登、痩せ尾根、岩場が出てくる

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 どうやら後ろから後続のパーティーが迫ってきているようだ。ここまできたら、何となく抜かれたくないと思う。

 ヤセ尾根から気持の良い小ピークを過ぎると、頂上直下。尾根はここで形状を失い、藪混じりの壁に吸収される。順路は左にトラバースということで、か細い踏み跡を辿る。ザレた急斜面に積もった枯葉の上を慎重に進めば、ようやく主尾根に到達。すぐ先で一般道に合流した。

 851mの頂上へは一投足。30年前の記憶はおぼろ。前後して3、4パーティー10名弱の登山者がいた。やはり奥武蔵の盟主、気持の良い頂上である。東尾根も下半の単調さと上部の面白さが相まって、案外楽しめた。駅からの標高差は600m。

 

 ↓ 伊豆ヶ岳山頂 三角点はこの左下だが、ここの岩の方が少し高い

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 ↓ 南北に細長い伊豆ヶ岳山頂

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 例によってコンビニ弁当の昼食休憩30分。古御岳から高畑山へ向かう一般ルートは、さすがにオーバーユースに近いほどよく歩かれている。降り立った鞍部から30年前に左の上久通へ下りたはずなのだが、その路は気づかずじまい。見落としただけなのか、廃道化したのか。登り返した先が古御岳山頂。雑木林の気持の良いピークだが、立派な東屋はなくもがな。

 

 ↓ 古御岳山頂の東屋

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 古御岳山頂からの急な下りには赤いチャート(頁岩)の露頭がある。またところどころ秩父青石や蛇紋岩のような青い岩もある。わずかに残る紅葉が陽を浴びて美しい。

 

 ↓ 名残の紅葉 二題

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 やがて路は多く植林帯を行くようにある。こうなるともう、歩く面白みはあまりなくなってくる。やはり歩く楽しみの一つは樹林相の美しさを愛でることにある。単調ではあるが、それなりアップダウンはあり、疲れが出てくる。それにしても多くの人が歩いているせいか、路が突き固められたように硬い。

 

 ↓ 石灰岩の露頭 というか大岩

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 ↓ (ナローノ)高畑山

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 695mのピークは地形図では名前が記載されておらず、622.7m三角点峰に高畑山の名があるが、現地での表示板では695mピークに高畑山、622.7m三角点峰に中ノ沢ノ頭となっている。どちらも植林帯の中の面白みのない一地点。なお695mピークの「高畑山」表示板の傍らには「ナローノ高畑山」の表示板もあった。そろそろこの先の下山ルートが気になりだしてくる。

 (追記:当日使用したのは昭和56年発行の2.5万図だったが、その数日後に買い換えた平成10年発行のものでは、695mに高畑山の名が記され、622.7m三角点峰は名前がなくなっている)

 

 ↓ 工事中の送電鉄塔 原発再開と関連して(?)最近またあちこちで増えている 鬼の面

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 天目指峠14:50。舗装道路が上がってきている。今回は途中どこからでも下山できるという気もあって、最低でも子の権現まで、できれば仁田山峠近くまでと漠然と思っていた。

 実は今回、ここ2年いつもはいているサポートタイツを、あえてはかずにきた。最近数回はワコールCWXを使用しているのだが、あの締め付け過ぎる圧迫感がいまだになじめないのである。その圧迫感によってサポートされているのだと、頭ではわかっているのだが、どうにも不快なのだ。その不快感とサポートを秤にかけたら、さてどちらが重いのだろうと、それを確かめるためにあえて今回はかずにきてみた。結果としては、やはりはかないと疲れる。それが今の実力なのだとは思うが、ちょっと予想以上だ。ああ、われ老いたり。

 そんなことをラインでつぶやいたら、F嬢いわく「そうなんです。そんな年なんです!でも何度もはいて洗濯をしていると伸びてきますよ」。しかし、それはサポート力が落ちるということではないのか?

 

 それはそれとして、疲れと時間からすれば、天目指峠から右に名栗川沿いのバス路線までの30分か、左に西吾野駅までの1時間少々かの、いずれかの車道歩きで下山するのが順当だとは思う。しかし、わかってはいても、ラインとしてはやはりせめて子の権現まではつなげないと、美しくないと思ってしまう。そこらへんのこだわりというのは、われながら少々妙だとも思うのだが、それが私の個性ということなのだろう。子の権現まで行っても、そこからさらに最低1時間はかかる。暗くなるのは目に見えている。

 ここまでもどうしようか迷いつつ来たのだが、あらためて散々迷い、結局子の権現まで行くことにした。ヘッドランプはある。暗い林道歩きは慣れている(?)。

 峠から子の権現までへは約1時間、標高差は180mほどだが、岩混じりの急登の小さなピークの上り下りが四つある。根性と諦めでゆっくり登って行くが、やはりこたえる。最後のピーク愛宕山をすぎてようやく子の権現に着いた。

 

 ↓ 子の権現近くから残照の都心遠望

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 ↓ 子の権現近くの森の中のアート(?) 仏陀の御手でしょうが…

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 ↓ 子の権現 天台宗だが入口には阿吽の仁王と朱い鳥居が建っていた

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 ゆっくり拝観する余裕もなく、下り始める。距離的に吾野駅にではなく、少し近い西吾野駅に向かうつもりだったが、おそらく地形図の記載間違い(よくあること!)のため、途中の分岐を見出せず、まあ、より確実な西吾野駅に向かった。

 

 ↓ 最後の残照に浮かぶ山上集落ユガテ

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 薄暗くなりかけた頃、青場戸の集落に降り立った。立派な家も多いが、廃屋や無住と思われる家の方が多い。何を考えているのか、とある家から猫が一匹出てきて、まとわり付いてきて困る。30分近く私の前を先導してくれた。早く家に帰れ。

 途中から対向車への注意喚起のため、ヘッドランプを着用。駅近くになって標識に導かれるまま妙な道を辿り、少しだけ迷い、すっかり暗くなった17:30に吾野駅に着。直前で下山報告が遅いと心配した女房から電話がかかってきた。すみません。

 

 今回の山行は後半で慾をかきすぎた感はあるが、まあ、想定内というか、私らしいというか、つまりは確信犯である。したがって、こんなもんだろうと思うしかないのである。

晩秋の南大菩薩・殿平~鞍吾山~沼沢ノ峰 (2017.11.21)

 今回の山は南大菩薩の、殿平から鞍吾山をへて沼沢ノ峰*に至り、その南東尾根を下ろうというものである。数年前から何となく気にはなっていたが、大菩薩連嶺の主脈からはずれた、いかにもマイナーな支尾根上の山であり、さほど魅力も感じず、積極的に行く気にはならずいた。例によって、地形図にも山と高原地図にも、殿平以奥は山名も道記号も記載されていない。

*文献により「沼沢ノ峰 沼ノ沢峰」、現地の山名板には「沼ノ沢ノ峰」と表記に違いがあるが、ここでは「沼沢ノ峰」で統一。

 

 しかし、単独行で、運転免許を持たないため、駅近くの、または駅からバスでということになると、自ずと行く範囲は限られ、年と共に近場で未登の山、未登のコースがなくなってくる。特に私が行きやすい相模湖駅笹子駅間ではそうなってきた。その結果、いわゆるマイナー・バリエーションルートといった趣のあるところしか、行くところがなくなってきたというわけだ。

 もともと沢登りや雪尾根を好んでやっていたのだから、マイナールートやバリエーションルートは好きだったのである。ガイドブックに出ていない、つまり人のあまり入らないルートは、登山本来の、個人と自然そのものとの、原始的かつ直接的なふれあいが可能であり、その未知性の魅力に惹かれていたのである。だからその頃は、ガイドブックに出ている、いわゆる無雪期の一般ルートには行く気がしなかった。(今はだいぶ違うが…)

 むろん、マイナーであったりバリエーションであるには、それだけの理由、欠点というか、難点がある場合が多い。技術的な問題がある場合は、誰でも行けるというわけにはいかないから、当然マイナーかバリエーションにとどまらざるをえない。岩登りや沢登り、冬山は一部をのぞいて、当然、基本的にバリエーションである。

 また、展望がないとか、ヤブが多いとか、あるいは特徴的な魅力に欠けるといった理由で人気が出ないルートもあるだろう。そうした欠点や難点のゆえに結果として、マイナールート、バリエーションルートにとどまらざるをえないということか。しかし、そうした欠点や難点が逆に魅力になったり、評価できる場合もないわけではない。それは行ってみなければわからない。

 

 今回のルートの殿平~鞍吾山~沼沢ノ峰の間は、ネット上にもいくつも上がっている。それらのほとんどは、沼沢ノ峰から上部は滝子山へ抜けている。下りを入れれば、ざっと見て実質8時間以上かかる。休憩を入れれば10時間近くかかるだろう。しかも最上部の滝子山にぬける直下の急登が厳しいとのこと。今の私には荷が重い。

 『新バリエーションハイキング』(松浦隆康 2016年 新ハイキング選書)に「恵能野川、藤沢川の流域」として「⑥瑞岳院―岩カモヤ―沼ノ沢峰」が出ていた。そこに沼沢ノ峰の南東尾根が記されていたのである。といってもその時、記事そのものは読んでいない。概念図を見て、破線を手持ちの2.5万図に写しただけ。ある日、その2.5万図を見ている内に、沼沢ノ峰からその南東尾根を下れば良いと思いついた。道記号のない南東尾根を下りきれば、そこの二俣から先は破線が記されている。歩程6~7時間、実質7~8時間での山行計画が完成である。

 

 ちなみにこの松浦隆康氏には、他にも『バリエーションルートを楽しむ』、『バリエーションハイキング』(2007年 2012年 新ハイキング選書)、『静かなる尾根歩き』(未所有 2007年 絶版)などの著作がある。いずれも膨大な量のバリエーションルートが収録されている。

 基本的に価値観、主観等をまじえない簡潔な記述なので、必ずしも親切とは言えないが、基礎的情報源としては宝庫である。ただし、紀行文ともガイドとも言い切れない記述のスタイルであるため、ある種の解読力なくして安易にガイドブック代わりに参考にすると、ルートによっては危険である。要はある程度以上の経験者向きの本だということだ。いずれにしても大した本である。それにしても、まあ、よくこれだけの数の山に行かれたものだと、感心する。

 東京近辺を対象としたこの手の本は他にもいくつかある。大都市ゆえに絶対的登山人口が多い、分母が大きいということだろう。またそれに見合って、東京近辺の山には不思議なほどルートが多い。ガイドブックに記載されているもの以外に、およそありとあらゆる尾根筋には踏み跡があり、それを辿る物好きな登山者がいる。私と同様に近場を歩き尽くした結果、必然的にマイナーな尾根筋を歩くようになったのか、あるいは意外にもまだ山仕事にかかわる人が多く、多少なりとも山路が生きているということなのか。地方では登山者の分母が少ないためか、そこまでの現象は見られない。

 

11月21日(火)晴れ 

 4時間睡眠ではあるが、珍しくすっきりと5時に起床。6:52五日市駅発。初狩駅8:55着。駅前のコンビニで昼食等を仕入れ、9:08に歩きだす。

 

 ↓ 初狩駅前から見る百反刈山(左)と殿平(右)

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 中央高速をくぐり抜けた先で地元のおじさんにあいさつされ、声をかけられた。「今日は富士がよく見えるよ」。振り返っても見えない。「いやもう少し先だ」。なるほど頭を少し出している。歩くほどに、振り返れば富士はその高さを増す。道路わきの看板に「あいさつ街道」のコピー。なるほど。

 

 ↓ 顔をのぞかせる富士山

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 ↓ 民家の庭に置いてあった石仏。頭の上の馬頭の耳の尖り具合が可愛い。

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 子神社(ねのじんじゃ)の裏手から山道に入る。標識がある。初めは植林帯だが、ほどなく自然林となる。おりからの快晴に紅葉が美しい。しかし、やや強い風は冷たい。山は初冬だ。

 

 ↓ 百反刈山の手前 朝の光に紅葉が美しい

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 気持の良い明るい広葉樹の尾根を30分ほどで、ちょっとした高みに着いた。ふと足元を見ると百反刈山794mと記されたプレートが落ちている。気づかなければそのまま通り過ぎただろう、何ということもない尾根の一地点。

 

 ↓ 足元に落ちていたプレート

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 ↓ こんな感じ

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 その先も歩きやすいゆるやかな尾根を下り、また登り返せば、そこがあっけらかんとした殿平の山頂812m(10:27)。殿平(蕨平の表記を見たこともある)は「でんでえら」または「でんだいら」と発音し、全国各地にあるダイダラボッチ・だいだら法師伝説に由来する山名である。ダイダラボッチとは、出雲系の金属・製鉄伝承と関連する巨人信仰。踏鞴(たたら)製鉄のタタラと同根だろう。

 

 ↓ あっけらかんとした殿平山頂

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 気持は良いが、三角点と山名表示板が一つあるだけの、特に何と言うこともない山頂。あちこちで目にする「秀麗なんとか」とか「なんとか百山」の看板がないだけ、幸せな山頂であるかもしれない。まあ、そこがマイナーであるゆえんなのだろうが。

 

 ↓ 逆光で少しわかりにくいが、二本の幹が癒着した連理木 縁結び、夫婦和合の象徴として吉兆とされる。すぐそばにももう一つあった。

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 ここから先がマイナー・バルエーションルート。踏み跡はやや薄くなるが、歩きやすいなだらかな尾根の起伏が続く。尾根は幅広くなったり、細くなったり。藪っぽいというほどではないが、樹林であまり展望はきかない。ところどころに倒木がある。

 1時間ほど行くと傾斜が強まり、岩場が出てくる。岩角や木の根や幹につかまり、三点確保で登る。風化したザレの上に枯葉がつもり、滑りやすく、気が抜けない。写真を撮っている余裕もない。奮闘しばしで、ひょっこりと平らな尾根の一画に出た。ソモウノ峰というピークだろう。鞍吾山はその右に3分ほど行ったところ。標高で言えば数mは低いが、1037.7mの山頂である。支尾根の突端といったあんばいで、ここもあまりパッとしない。

 

 ↓ 鞍吾山山頂

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 鞍吾山の鞍は、こことソモウノ峰を結ぶラインを遠望して、鞍の形に見立てたのだろうか。それとも鞍=嵓(くら)(岩、岩場)ということか。木の間越しに周囲の山を垣間見るのみ。そそくさと昼食を食べて、先を急ぐ。

 再びゆるやかで歩きやすいな尾根の登り下りが続く。おおむね落葉広葉樹の好ましい林相。紅葉といえば紅葉だが、彩の割合は少ない。一二週間遅かったか。

 

 ↓ 紅葉の感じ 今一つか

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 一カ所、岩っぽい所に古いロープが張ってあった。また、例の恩賜三角点や恩賜林の標識杭も見かけた。

 

 ↓ ちょっとした岩場と古い残置ロープ

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 ここまでもそうだったのだが、この間、何ヶ所かで熊の糞を見た。猪かとも思ったが、猪は溜め糞のはず。地面を掘った痕跡もほとんどなかった。同じような大きさ、量だが、何となく風格(?)が違う。よくはわからないにしても、会いたくはないもの、そう思っていたら、少し先で突然ガサガサと走りだす大きな動物。どうやら鹿だったようだ。そう言えば鹿の糞もあちこちに落ちていた。

 

 ↓ 双耳峰の滝子山 右手前が沼沢ノ峰か?

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 ↓ 沼沢ノ峰頂上直下の急登

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 鉄塔を過ぎ、二重山稜を過ぎたあたりから再び傾斜がきつくなる。滑りやすいザレの上の枯葉をどけながらの登高しばしで、左から来た尾根に乗る。そのすぐ先が沼沢ノ峰1250m(14:05)。ここもまた頂稜上の単なる一地点といったあんばい。しかし、悪くはない。山名表示板が一つだけあった。ある程度の見晴らしはある。最後まで誰とも会わない、一人だけの山。

 

 ↓ 沼沢ノ峰山頂 右の木にプレートが見える

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 さて、ここまでは予定通り、順調に来た。その先の御聖人ノタルへは一投足のはずだが、そこから滝子山山頂までは、なお標高差400mほどの、岩混じりの難儀な急登があるとのこと。遠望する限りでは、そうも見えないが、時間的にも、ここから予定通りの南東尾根を下ることにする。滝子山自体はだいぶ前に登っていることだし。

 

 ↓ 沼沢の峰南東尾根の下りはじめ

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 下り始めは踏み跡らしきものもあるように見え、何の問題もなかった。しかし、ほどなく右側の支稜に入りこみかけた。この手の尾根の下降が案外難しいのは、何度も体験済み。深入りする前に地形図とコンパスで何度も確認する。間違いと判断して左の尾根に戻ることにする。登り返すほどの事もなく、そこから沢の源頭をトラバースできるように見える。獣道らしきものも見える。トラバースし始めてみると、意外と簡単ではない。ザレの上の落葉の堆積がやっかいだ。慎重に、緊張してなんとかトラバース終了。ほっと一息。あせりと過信は禁物だ。

 この尾根は藤沢川の源流の神戸沢と達沢に挟まれた、標高差400mの細い尾根である。左右に垣間見える沢は案外低い。ということは、尾根の左右の末端は崖ないし急傾斜の岩場になっているということだ。また細い尾根ではあっても、途中でアミダくじ状にいくつかに分岐している。その分岐したハズレの支尾根の末端は岩壁である確率が高い。アミダくじの正解は一つしかないのだ。慎重に行くしかない。ちなみに沼沢ノ峰山頂から後述の堰堤まで、テープ類は一つもなかった。やはり登高密度は相当低いのだろう。

 その後も大岩が出てきたり、岩場が続いたり、また風化したザレに積もった滑りやすい落葉と、緊張が続く。ところどころ痩せたところがある。分岐点では慎重にならざるをえない。ルートとして面白くはあるのだが、正直それどころではない。写真を撮る余裕もなかった。右手に植林帯と幅広い沢床が見えてきたときにはこれで一安心と、その沢床に下りようかとも思ったが、自重した。

 降り始めてかれこれ1時間以上たった頃、ようやく尾根の末端、二俣に近づいた。やれやれと思ったが、近づいて見れば、その末端は岩壁となっており、下降不能。慎重に右側にルートを見出して沢に降り立った時には、心からほっとした。振返れば左右共にそれなりの規模の沢。特に先ほど下りようかと思って止めた達沢の方は、大石の滝となっている。そちらに下りなくて良かった。

 

 ↓ 二俣から見る東南尾根の末端と達沢(左)と神戸沢(右)

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 二俣からは、地図に破線が示されていることだし、楽勝のはずだった。しかしその右岸にあるはずの路がない。ところどころに小規模な山抜けというか、崖崩れの跡。路は消滅していた。渡渉を繰りかえしながら、何とか行けそうなところを行くが、いつまで行っても路は見いだせない。思い切って右の尾根に高く登って、高巻こうかとも思うが、結構なアルバイトになるし、路がある保障もない。とにかくあるはずのものが見出せないということで、不安が増す。左から支沢が滝を落として合流する。右岸にあるはずの卍も見えない。まさかそれもなくなったのか。

 方角としては間違いないにしても、沢の水流もすこしずつ増えてきている。先の渡渉も思いやられる。かなり不安を覚え出した頃、簡易水道用の新しい塩ビのホースを見つけた。これを辿っていけば良いのだ。ホッと一安心と思ったら、しばらく先で、そのホースは右の尾根の上高くへと登っていった。直接、辿りようもない。

 やがて堰堤が出てきた。地図によればこのあたりでは破線路から実線に変わり、林道が上がってきているはず。しかし、そんなものはない。堰堤を左に上がれば作業道がある。しかしそこを降りれば、またなくなる。この辺にきてやっといくつか赤テープが出てきたが、意味不明だ。そんな感じでさらに二つの堰堤を越えた先に、ようやく舗装された立派な林道があった。今度こそ間違いない。本当にやれやれである。身体よりも心理的疲労感を覚えた。

 

 ↓ 集落の手前にあった山の神の神社 やれやれ…

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 その先、しっかりした車道はあるが、地図にはない道も色々と錯綜しており、気分的に疲れた。別荘地を過ぎ、今朝の登り口の子神社に至り、今度こそ本当にホッとすることができた。薄暗くなりかけた頃、初狩駅に着いた(17:00)。8時間、まあ、終わってしまえば予定通りである。

 

 ↓ 暮れなずむ富士

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 今回の山行の核心部は何といっても下降の南東尾根と、その先の消失した沢沿いの道であった。林道の管轄は林野庁であり、国土地理院の管轄は国土交通省である。そのため、実際には存在する、あるいは消失した林道が2.5万図や5万図に記載されない、反映されないという話はよく聞く話である。今回、二俣以降の路に関しては、それに振り回された格好である。

 ただし逆に、このコースの状態を知った上で、南東尾根を登りに使うのであれば、変化に富んだ良いルートであるかもしれない。

 

 今回のルート上にある三つの山頂はいずれもあまり展望のきかない、パッとしない山頂である。また鞍吾山直下と沼沢ノ峰直下をのぞいて、尾根筋自体は歩きやすい気持の良いものであるが、やはり総じて展望はきかない。沼沢ノ峰から滝子山に向かうとすれば体力技術を要するロングコースであり、南東尾根の下降は経験者でないと危険なルートだ。したがって、結局のところ、今後とも多くの登山者を呼び込める一般的なルートにはなりえないだろう。そのことはこのルートにとって幸せなことだと思う。どんな世界でも、ごく少数の人にだけ認められ愛されるというタイプの人がいる。鞍吾山も沼沢ノ峰もそういう山であり続けてほしいと思う。

 

 ちなみにたまたま同じ日、故郷では先日一緒に登った高校山岳部OB会のメンバー数人である山に登っていたのだが、今回のルートでは、彼らと同行する自信はない。自分一人で精一杯である。単独で良かったと思うこともあるのだ。

 ともあれなかなか味わい深い山行であった。一流のマイナー・バルエーションルートであった。

 

 なお二俣の先の右岸にある卍は瑞岳院禅堂という由緒ある御堂で、現在もそこにあり、機能しているとのこと。沢床からでは見えない高みに位置していたようだ。塩ビのホースもそこに上がっていたと思われる。不安と焦りで、実際の位置よりも上流にあるように思いこんでいたようだ。

 

 ↓ 赤線が登高ルート

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【コースタイム】2017.11.21(火)単独 標高差790m

初狩駅9:08~子神社9:30~百反刈山10:15~殿平10:27~鞍吾山12:10-12:35~鉄塔13:13~沼沢ノ峰14:05~二俣15:25~最初の堰堤15:50~林道16:00~初狩駅17:00

旧論再録 「表現のはじまりとしてのアウトサイダーアート」

はじめに

 (長いです。旧論と合わせてA4 13ページ分あります。すみません。)

 

 先に山口県の山に登った時のことを3本、ブログにあげた(「狗留孫山」「馬糞ヶ岳」「天神山」)。その流れで次に「これはアウトサイダーアートなのか?~山里に群れなす怪獣たち (カテゴリー:路傍のアート)」もあげた。その文中でアウトサイダーアートの定義の一例をあげておいたのだが、同時に「今ここでそのことについて詳述する気はない。別のカテゴリーで、そのことにふれた拙稿〈表現のはじまりとしてのアウトサイダーアート -美術と教育の基層として-〉をあげておくので、そちらを参照されたい。」と書いた。

 そう書いたのは、その稿が『平成16年度「広域科学研究経費」に係わる報告書「アートセラピーの現状調査とアートセラピスト要請プログラムの開発」』(東京学芸大学大学院教育学研究科芸術系教育講座 東京学芸大学美術・書道講座 2005年)という、かつて大学に勤めていたころに発行した報告書に載せたものであり、したがって一般には大学の図書館にでも行かないかぎり、読むことがほぼ不可能だからである。

 

 大学の研究紀要や、報告書などといったものは、実は読まれること、きわめて稀である。部数も少なく、流通に乗ることなく、一般の人の目にふれる機会もない。同じ専門の教員・研究者・学生等であっても、読まれることはほとんどないといったものが大半である。

 近年は大学の教員であるかぎり、分野を問わず、研究成果としての論文の発表を、そしてその数を求められるようになってきた。論文を含めた研究成果が業績評価として毎年提出を求められ、点数化され、時に昇任人事や昇給等の審査の対象とされる。そのため、書きたくもない、書くべき必然性もないのに、必死にアリバイ作りとしての作文に励まざるをえない教員も多い。その結果、ほとんど中身の無い、レベルの低い、実証検証不可能な作文を載せた研究紀要やら報告書が発行され続け、頁を開かれることもなく、そのまま大量の資源ごみになっていくというのが実情なのである。むろん有意義で貴重な論文もまた多くあるのだろうが、そうでないもの方が圧倒的に多い。その費用は国費=税金でまかなわれている。

 ここで、そうした大学の実情とか、税金の無駄遣いについて言及する気はない。擁護する気はないが、一種の必要悪と言えなくもないからである。

 画家である私自身、優れた論文の書き手であったという自信はさらさらない。作品制作=個展やグループ展などは、論文とは別のカテゴリーで業績評価の対象として認められているが、だからと言って論文を書かなくて済むというわけにはいかない。いくら俺は画家だと言ってみても、大学院教育学研究科芸術系教育講座美術・書道講座に籍がある限り、そのことはまぬがれられない。

 しかたなく、書いた。書けば案外、書ける。時にはある種の面白さすら感じることもあった。芸術系の論文であるから、自然科学系における実証・検証可能性ということには及ばぬまでも、事実性を何よりも大切にし、その観点から調べ、まとめ、そして自分自身のオリジナルな考察を導き出してゆくという過程は、意外と面白かったのである。とは言え、ありていに言えば、私の書いたものなど、どちらかと言えばエッセイ(ある一貫性のある論にのっとって書かれたもの)にすぎなかったというのが正直なところであり、しかも本当にすてきなエッセイは、結局一本も書けなかったように思われる。

 

 ともあれ、件の論文はその報告書に載せたままで、Web上にあげることもなく、以後日の目を見ることはなかった。今回のことを機に久しぶりに読み返してみると、案外まともなことを書いている。もちろん今現在の目で読むと、訂正すべき点は多くあることはあるのだが、肝心の問題はいっこうに研究・改善されていないことにも気づくのだ。

 拙論を書いて以降にも、世界的動向を受け、日本でも急激にアウトサイダーアートないしエイブル・アートの認知度が高まっている。にもかかわらず、アウトサイダーアート自体の定義性、領域性等は曖昧なままであり、またそれらの要因である病理との関係が等閑視されたまま、せいぜい福祉との関連だけで流通することにより、アウトサイダーアート自体が「恐カワイイ」消費物と化しているという点である。

 この2点に関して、関係者の口は奇妙に重い。なぜ、知的ないし精神的障害にもかかわらず、人は絵を描くのか。描きうるのか。そして時として、その中に前例を見ないような美しさが立ち現われることがあるのか。そうしたことに対して、医療関係者ですら、明解な答えを示しえない。ゆえに、認知度と人気の高まりという俗な現象とは別に、「絵とは何か」、「人はなぜ絵を描くのか」という根源的な問いこそが問われ続けなければならないのである。私はその問いゆえに、アウトサイダーアートに惹かれ続ける。

 

 前書きはこれくらいにしよう。私にしたところで、上記の2点に対する有効な提案は示せなかったし、また根源的な問いに対しての答えなど、おそらくは出せようもないのだろうから。

 私が以下の拙論で示したかったことは二つある。一つは問題に到達するまでの道筋の整理の提案である。二つ目は、問題の本質を解明しえないにしても、事実として存在する障害者(及びそのアート)へ向き合うであろう、新任教師たちの教育現場での心構えについてのなにがしかの提案といったようなものである。

 以上、旧論を再録するに至った経緯である。内容、字句等に関しては発表当時のままで、一切訂正は加えていない。

 

(註:挿入図版は今回ブログにアップする際に追加したもので、論稿中には含まれていない。)

 

 ↓ 最近見たアウトサーダーアートの展覧会 アドルフ・ヴェルフリ

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 ↓ ヴェルフリの作品

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----- 旧論再録 -----

 

表現のはじまりとしてのアウトサイダーアート -美術と教育の基層として―

平成16年度「広域科学研究経費」に係わる報告書「アートセラピーの現状調査とアートセラピスト要請プログラムの開発」 pp.50-60

東京学芸大学大学院教育学研究科芸術系教育講座 東京学芸大学美術・書道講座 2005年

 

1.はじめに

 本プロジェクト「アートセラピーの現状調査と研究―アートセラピスト養成プログラムの開発―」は、本学におけるアートセラピスト養成の可能性を探ることを主目的としたものである。その一環として、本学で「アートセラピー」の授業を担当されている安彦先生の主導により、平川病院ほか二病院と連携した「描く―心の杖として鏡として―展 精神病院での芸術療法・37年の軌跡」が開催され、併せてシンポジウム「美術の力―臨床の現場より―」が催された。

 私は種々の事情からプロジェクトの全体にかかわったわけではない。しかし、今回のプロジェクトの中で一つの重要な軸であるところの精神的障害者の制作する美術が一般にアウトサイダーアートという範疇で語られることが多く、その意味で、以前から私自身の制作・研究の上からもまた教育的観点からも、強い興味を持っていた。そのため、本企画の中のシンポジウム「美術の力―臨床の現場より―」にパネリストとしての参加を求められたとき、アートセラピーというものを「アートによる治療」という観点からではなく、「アートすることによる癒しの可能性」を含むもう少し幅広い観点からとらえるのであれば、私自身のスタンスとのかかわりが確認できるのではないかと考えた。またそれと同時に、実際の授業における取り組みを紹介することによって、教育との接点における可能性を示唆できるのではないかとも考えた。そのことは、かねてから必要だと考えていた、学生や若い美術家にアウトサイダーアートの鳥瞰図を示すということにもつながると思われた。それらは次の二つの理由を根拠としている。

 一つ目は美術史的観点との関係、とりわけ近代から現代美術史において顕著に指摘できる以下の理由による。すなわち、美術は常にその属する社会と文化の中で、アカデミズムに代表されるその時どきのスタンダードによって自らの構造を維持してゆくと同時に、その一方でそれとは対照的な他者性・外部性を取り込むことによって、自らを更新・展開してきたと考えられるという点である。この更新がスムーズに機能しない時、例えば相対的な安定期、つまり他者性・外部性の導入量の少ない時期にはマンネリズムが発生する。こうした傾向は美術において特に著しいが、音楽や他のジャンルにおいても同様な傾向が見られる。

 障害者のアートに代表される、いわゆるアウトサイダーアートは、まさにその他者性・外部性として発現する。すなわち表出および表現のエネルギーの発露それ自体を自身の根拠とするということ、そしてそれゆえにアウトサイダーアートは更新という変革作用に不可欠な異質性を担保するものだと考えられる。なぜならばスタンダードではなくアカデミックでもないそれらの埒外(アウトサイド)において発現し、唯一の根拠であるところの自身すら時には宙吊りにするという異質性のゆえに、安定に対する刺激であり、挑発であり、異化作用であり続けるからである。

 二つ目を言う前に、ここでアウトサイダーアートという語の定義についてふれておく必要があるだろう。一言で言えば現在のところ、その定義は多様であり、錯綜している。それぞれの依拠する地点によって様々な定義が成り立っている。後述するように、私がこの言葉に興味を持ったこの20年ほどの間でも様々な定義と名称が提案されている。それらを概観した中から、とりあえず現在もっとも妥当かつ幅広い定義と思われるものを引用してみる。

 

アウトサイダーアートの定義】

(1)背景:過去に芸術家としての訓練を受けていないこと。 (2)創作動機:芸術家としての名声を得ることでなく、あくまでも自発的であること。(他者へ

の公開を目的としなければ、さらに望ましい) 

(3)創作手法:創作の過程で、過去や現在における芸術のモードに影響を受けていないこと。

http://outsiderart.ld.infoseek.co.jp./preface.html アウトサイダーアートとはなにか/アウトサイダーアートの世界)

 

 ↓ アウトサーダーアートのスーパースター  ヘンリー・ダーガーの作品

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 ↓ ヘンリー・ダーガーの作品その2 彼の作品は保存のため、今後まとまった展覧会は開催されないそうだ。

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 この三つの定義を個々の事例に当てはめようとすると、現実的には無理が生じる場合もあるが、とりあえずここでは「インサイド=内側・制度内の公認された」という事に対する、「外側」に立つ人々によってなされた美術という意味にとらえておけばよい。

 以上の三点を基準に考察を進めようとすると、インとアウトの境界線自体の意味が問われてくる。そして、やや強引に結論づければ、インとアウトとは規範・規定や習慣の問題にすぎない、すなわち多くの場合、相対的なものでしかないと言うことになる。したがって両者は交通可能なものであり、決して特殊な存りようではない。むしろ因子としては普遍的なものであると考えるほうが自然である。言い換えれば、誰もがそうでありうるということだ。それは芸術表現における、ある意味での普遍的要因であると考えられるからである。それゆえに個々の作品が成立する背景を抜きにして、我々は作品それ自体に共感可能なのである。その結果、二つ目の理由であるところの、そこから新たな美の領域とそれを感受しうる感覚の拡大という問題の所在が明らかになるのである。これについては4.「アウトサイダーアートの可能性」であらためて述べる。

 

2.「プロジェクト学習」における取り組み

 前述の定義(1)からすれば、多くの一般学生や子どもが作るアートはかぎりなくアウトサイダーアートに近い位置に在ると見ることが可能である。これは教育的観点から表現というものを考えるときに、重要なポイントとなる。

 私は本学の現行のカリキュラムが発足して以来、現在に至るまでの4年間「表現のはじまりをさぐる」をテーマとした「プロジェクト学習科目」という授業とかかわってきた。その中で私が直接担当しているのは、「美術表現のはじまり」をテーマとした「応用・1 色・形による表現(2)」および「総合演習」である。私の担当する「プロジェクト学習-表現のはじまりをさぐる」は当初、コーディネーターを含めて音楽科教員3名、国語科教員1名、美術科教員1名でスタートし、現在は音楽科3名、美術科2名の構成である。コーディネーターをのぞいた音楽科と美術科の教員がそれぞれ2年前期に基礎1・2を、後期に応用1・2を担当し、3年前期に総合演習を実施している。対象学生は幅広い分野に分散している。

 このプロジェクト学習は、実質的には「総合的な学習」に対応するものとして構想されたものである。余談になるが、ここにきて、教育行政のレベルでは、その成果の検討のみならず、実施や運営の情況の検討すら充分になされないうちに、「ゆとり教育から学力へ」といった言説にもとづいて総合的な学習そのものの見直しが取りざたされている。本学の平成19年度からの新しいカリキュラムにおいても、それに呼応したかのように「プロジェクト学習」の規模の縮小が規定事実化されようとしている。総合的な学習に対応した大学教育を受けた教員が現場に出るか出ないかのうちに、つまり総合的な学習に対応した感性やスキルを発揮する機会さえ十分に与えられないままに、異なる論理によって現在の総合的な学習縮小論は規定事実化されつつあるのだ。しかし、ここではそうした教育史上まれに見る教育行政の展望の無定見振りを批判しようとするものではない。

 またこれも余談になるが、「表現の始まりをさぐる」というテーマからすれば、美術と音楽にとどまらず、各専門教員による「言葉による表現」や「身体的表現」、「演劇的表現」なども含んだものとして構想されるべきであったかもしれない。実際、当初はそうした構想もあったと聞くが、現実には縮小した形でおこなっている。他のテーマを見ても多くは同様の経過をたどっている。教科横断や教科連携という趣旨からすれば、スケールダウンの観は否めない。総合的な学習という従来無かったタイプの教科に対する、専門性を軸とした多くの大学教員の意識の限界と、また総合的な学習という教科そのものの難しさを露呈したとも言えるだろう。その結果、毎年のように、必要な授業数を確保するのに苦労するという情況が繰り返されている。

 私個人としては、美術というものの本質を創造性に置くかぎり、ごく自然に総合的な学習の趣旨に多くの部分が重なると考えている。したがって両者の関係を、柔軟で流動的なものとしてイメージすることができる。しかし、学校教育における美術や図画工作といった教科性を起点に考えると、自ずと別の難しさが発生することも理解できる。また、大学教員がいわゆる教科教育と教科専門に分けられてきた経緯と現状からすれば、上記のような意識と意欲の限界は理解できないものではない。そしてまた、現場の教師達がかつて学生時代に受けてきた教育に依拠し、それを繰り返すかぎりにおいては、同様の問題が生まれることも予想されるのである。

 ともあれ、一般学生を対象とし、総合的な学習の趣旨と対応すべきものと位置づけられた「プロジェクト学習-表現の始まりをさぐる」を実施する上で重要なのは、いわゆる専門科目の意味および手法と、どのように差異を設定するかである。また教科横断、教科連携といった観点を活かすことも重要である。以下に「美術表現のはじまり」をテーマとする「応用・1 色・形による表現(2)」、すなわち「美術を軸とした総合的学習」におけるアウトサイダーアートという概念・イメージの導入のささやかな試みを紹介する。

 参考のために、シラバスとから「応用・1 色・形による表現(2)」の【ねらいと目標】、【内容】および「総合演習」の【ねらいと目標】を記しておく。

 

「応用・1 色・形による表現(2)」

【ねらいと目標】

 アートは自己と世界との出会いから生まれることを知り、自己表現の    方法、コミュニケーションの手段としてのアート(美術表現)について、総合的に学習する。

【内容】

 「表現の始まり」を探るために、まずアウトサイダーアートや子どものアート、現代美術などを参照しながら、美術表現について幅広く考える。演習形式のディスカッションや発表をおこなう。課題・レポートも課す。同時に何人かのゲスト講師や場によって、素材や様々な方法を通してアートが立ち現れるのを経験する。また、既成のイメージにとらわれないで、「色や形」と「素材性・偶然性」を手がかりにして実際に作品を制作してみる。技術的にうまい作品を作るのが目的ではなく、思いがけぬ自分と出会うことを期待したい。

 

「総合演習」

【ねらいと目標】(記載文章はコーディネーターの久保田教員)

 芸術の活動分野を、音楽、美術、文学というように区分する考えは、18世紀から20世紀初頭にかけてのヨーロッパ近代に特有な考え方である。しかし芸術活動の根源にあるのは、音、色、声など、ごく身近な素材と人間との関わりである。プロジェクト学習科目では、これら基本素材の扱い方を学んだので、総合演習はこれらを融合させたり、あるいは総合させたりすることで、芸術(アート)の垣根を越えて(トランスして)、その表現の根源を探ってみたい。

 

 ちなみに総合演習においては学生に、基礎1・2と応用1・2の四つの授業経験をふまえたテーマ設定のもとに、グループ単位での制作・表現―発表形式で行っている。現在までのところ、アウトサイダーアートに直接的にかかわる表現や、直接的に参照した表現は見られない。

 

 毎年の授業初日に実施している簡単なアンケートの結果を見るかぎりでは、当然のことかもしれないが、少数の美術専攻の学生をのぞいた多くの学生は、絵画や漫画、デザインといった一般に流通している美術作品そのものは好きであっても、それを描く、作るという点においては苦手意識を持っている。その意味でも彼らは上記(1)~(3)のアウトサイダーアートの定義に隣接した存在であると言える。したがって、上記のような趣旨にもとづいて彼らに「プロジェクト学習」を実施し、「美術表現の始まりをさぐ」らせるには、最初の段階で、美術に対する固定観念をゆるがせ、またその感性に揺ゆさぶりをかけることが必要であると考える。アウトサイダーアートにふれることは、その良いきっかけとなるのである。

 次にシラバスに掲載したものをもとに、2004年度の授業スケジュールを紹介しておく。

 

【授業スケジュール】

1週 ガイダンスおよび講義「周縁の美術について」

2週 「周縁の美術・1(アウトサイダーアート)」(スライド使用)およびそれについてのグループディスカッション

3週 「周縁の美術・1(アウトサイダーアート)」についての発表 「周縁の美術・2(民族美術・原始美術・現代美術等)」(スライド使用)

4週 「描く―心の杖として鏡として―展」ギャラリーツアーとギャラリートーク (レポート提出)

5週 制作演習Ⅰ「描くこととの出会い(スクリブル)」

6週 「子どもにアートが生まれるとき:図工の現場から」(現職教員2名による身体表現、 その他 ビデオ等使用)

7~8週 制作演習Ⅱ「素材性・偶然性との出会い」(偶然技法)

9週 制作演習Ⅱの発表と講評 制作演習Ⅲ「共同制作」の計画

10週 身体表現と美術表現(ゲスト講師:舞踏家)

11~13週 制作演習Ⅲ「共同制作」 

14週 合評会・まとめ

 

 授業形態は実習をまじえた演習形式である。テーマおよび授業内容の性格から、情況を見ながらのスケジュールや日程を変更することもある。例えば今年度は、ギャラリーツアーでは当初は予定していなかった展覧会の中心的企画者であり「アートセラピー」の授業者である安彦先生をゲストとしてギャラリートークをおこなった。また「身体表現と美術表現」は予定していたゲスト講師(舞踏家)と日程の調整がつかず、実施できなかった。その他にも日程の変更があった。

 こうした事例以外にも、これまで養護学校の教員を呼んで寝たきりの重度の障害を持つ子どもに美術の授業をした体験を語ってもらうなど、「美術表現のはじまりをさぐる」という観点から毎年2~3名のゲスト講師を招いている。そうしたことを切り口として、表現やコミュニケーション、教育、子ども、現代性といったことに模索的、発展的にふれてゆくよう意図している。

 

 例年アウトサイダーアートについてふれるのは、授業スケジュールを見てわかるように、導入の3週程度、そのうちスライドによる作品紹介は2週程度である。また後述するように、本授業ではアウトサイダーアートの概念領域を大きくとらえており、民族美術や原始美術なども含めて「周縁の美術」という概念を提示し、関連して一部の現代美術までを紹介している。したがって、紹介するものの中でのアウトサイダーアートの割合は比較的大きいが、授業全体の中で扱う知的・精神的障害者の美術(エイブルアート)の割合自体は大きなものではない。それとは別に、本年度は幸い本プロジェクトの一環として「描く―心の杖として鏡として―展」が本学芸術館で開催されることになり、実際の作品や作者に触れられたこと、また展覧会会場というリアルな場に授業の場を設定することができ、収穫は大きかった。

 授業のテーマである「表現の始まりをさぐる」とは、表現や表出における根源性を探るということである。つまり、完成され公認された芸術やアカデミックな技術的な美しさといったこととは別次元で存在するものにも美しさを見出し、そうした過程をへて個々の表現の可能性を見出そうとするものである。そうした要素は根源的であるがゆえに活力や治癒力へとつながってゆくというのが、授業者としての私の実感に裏打ちされた予想である。学生たちにとっては、普段見慣れないものへの違和感、抵抗感をどう乗り越えてゆくかということが最初の課題になる。

 そこで私の提示するのが、アウトサイダーアートの本質的な部分を、美術や教育の基層・深層に横たわるものとしてとらえる見方である。これが美術なのか?という戸惑いから始まって、そこに美しさを見出すことができるかどうか(感性の拡大)、またそれらが表現としてなされる出発点をどのように理解・共感するのか、という段階を経験することになる。

 

 ちなみに私個人とアウトサイダーアートとのかかわりは、小学生のときに初めて見た展覧会が山下清であり、初めて買った画集がゴッホということからもわかるように、ごく自然に進行した。以後、本格的に美術とかかわり始めた学生時代をへて今日に至るまで、アウトサイダーアート的な美術への関心は私の中で一定の大きな割合を占めている。いずれにせよ、関心の中心はあくまでその作品自体の美しさや造形性なのであり、他の美術となんら変わるところはない。授業においてもそうしたスタンスを明確にしている。

 私は美術における癒しということの可能性を基本的に認めているが、治療的側面や社会的有効性という点について語るには、それにふさわしい人が他にいる。しかしその際も、アウトサイダーアートを含めた美術全体に対する柔軟な感性の存在が前提であることは言うまでもない。それはどのような種類のものであれ、医学や心理学の分野との連携なくしては立ち行かないように思われる。その点からすると、教育学部単科大学である本学においては、現状では展開する上での制度的、物理的な難しさがあると言わざるをえない。むしろ教育や美術の基層におけるかかわりとして位置づけることがより有意義なのではないかと思う。

 

3・アウトサイダーアートの分類および定義

 ここ20年ほどの単位で見ても、アウトサイダーアートの定義や領域規定にはかなりの変化が見られる。そうしたことをふまえて、私の授業の中で提示するアウトサイダーアートと「周縁の美術」の分類と定義について以下に簡単な整理を試みてみる。

 

① エイブル・アート(able art)

 主に知的、精神的な障害を持つ人の為す美術である。

 エイブル・アートとは「可能性の芸術」、すなわち「障害者自身の可能性」および、「障害者を取り巻く社会環境の改革の可能性」という面を強調して名づけられた。かつてアウトサイダーアートの語は主にこの領域を中核としていたが、現在それにふさわしい名称が見当たらないため、授業においてはこの名称を借りている。また障害の範囲に視覚障害などの身体的障害を含むこともある。障害の種類や程度により多様な広がりがある。山下清高村智恵子など以外にもパトグラフィー(Pathographie:病跡学)の観点から見るとゴッホムンク宮沢賢治などにも関連した要素が指摘されている。表現というものの根源にかかわる話になるが、芸術とこうした要素の関連は古くから指摘されてきた。少なくとも一部の芸術家はこうした要素を自ら取り込もうとしていると言えるかもしれない。

 また、ジャン・デュビュッフェの提唱した「アール・ブリュット(L’art brut:生の芸術)」という概念も、この範疇に含まれる。その影響で今日の欧米諸国の一部ではアウトサイダーアーティストたちの経済面を含めた社会参加が一部実現しており、アウトサイダーアートの市場の形成とその動向が注目を集めている。

 

 ↓ 最近見た日本のアウトサーダーアート展覧会 スーパースター山下清ほか3名    山下清は日本の展覧会で通算して最も多くの観客を集めたが、その展示回数の多さのために作品の多くは激しく褪色している。痛ましいことである。

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 ↓ 同展でに出品されていた沼祐一の作品(図録から撮影したため歪んでいる)。山下清と異なり、展示回数が少なかったため、使われた色紙の色が鮮やかに残っている。

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↓ 同上 18歳で死亡 この展覧会で最も好き作家

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② ナイーブ・アート(naïve art 仏)

 「素朴派」の意味で、特に定義の(1)に強くかかわる。

 「素朴画家」の説明として「アカデミックな理論や技術と無縁な素人画家。アンリ・ルソーやセラフィーヌを発見したヴィルヘルム・ウーデによって、近代絵画における独特の一領域として初めて“素朴絵画”の概念が立てられた」(「素朴画家」/『新潮世界美術辞典』 新潮社 1985年 p.853)とある。アンリ・ルソーについて果たしてこの定義があてはまるかどうか、今日から見ると疑問なところであるが、素朴派=ルソーというイメージは一般的に定着している。また「“素朴絵画”とは表現のタイプないし作風にかかわる概念で、素朴画家と日曜画家とは本来概念が異なる。」とあるが、後述するプリミティヴィズム(primitivizm)と同様に、他との関連で領域境界の定義しにくい概念である。ルソーやセラフィーヌ以外にもアンドレ・ボーシャン、カミーユ・ボンボワ、ニコ・ピロスマニ、グランマ・モーゼス丸木スマなどをあげることができる。

 なお、世田谷美術館は「芸術と素朴」をテーマに、一貫してこのジャンルの作品を積極的に収集・研究している。(『芸術と素朴 コレクション10年の歩み』 展覧会図録 世田谷美術館 1996年 等を参照)

 また、趣味・余技としての側面に注目すると、文学者のヴィクトル・ユーゴーヘンリー・ミラー、さらにはアントナン・アルトー宮沢賢治などもこの範疇に関連付けて言及することが可能だろうが、境界領域的にエイブル・アートと区別しにくい場合があり、厳密な線は引きにくい。ヘンリー・ダーガーなどもしいて言えば両側面を持つと言える。

 

③ プリズナー・アート(prisoner art)

 プリズナー・アートとは授業時における私の便宜的な造語で、本来はプリズンズ・インサイド・アート(priso’s inside art)と記すべきかもしれない。刑務所の中での囚人による美術ということである。従来、少数ながらこうした美術の存在は知っていたが、作品をまとめたものとしては今のところ『PRISO’S INSIDE ART アメリカの囚人芸術』(カーティス・ナップ アスペクト 2000年)を知るのみである。同書はカリフォルニア州の刑罰システムの中で生まれたアートを記録したものであるが、それらがどのような趣旨と方法で実施されているのかなどについては同書には記されていない。前述の定義には必ずしも即さない点もあるが、文字通り刑務所というアウトサイドにおいて存在するユニークな美術である。

  意味合いは異なるが、数少ない他の事例としては、帝銀事件の平沢貞道の仕事などもこの範疇に含められるだろう。(『祈りの画集 獄中三十七年、生と死のはざまより』 平沢武彦 1985年 KKダイナミックセラーズ 参照)

 

④ プリミティブ・アート(primitive art)

 授業時には原始美術や部族社会の美術の意味で用いている。

 西洋美術史的には、つまり、アウトサイダーアートや関連する他の概念が出てくるまでの「19世紀の西欧において」は、プリミティヴィズム(primitivism)とは「いまだ自然再現の技術は完全に達成していないし理想美の様式も十分に体得していないながら」、「プリミティヴな純真華麗な美のある」、「盛期ルネサンス以前のイタリアの美術家、および15世紀のフランドルやフランスの画家」のことを指していた(「プリミティヴィズム」/『新潮世界美術辞典』p.1286)。その後、印象派などの反古典主義から20世紀美術の変遷の中でその意味するところは拡大し、時代的には中世から古代、原始時代を、地域的にはオリエントからアジアへ、つまり非西欧圏のすべてを、また意味的には「素朴画家の作品、精神障害者の作品、子供の図工作品など」をも包括する、つまり広義のアウトサイダーアートへと拡大されていった。その意味の変遷の重要性は理解できるにしても、本授業での領域規定としては実用的でない。したがって、授業では「原始美術や部族社会の美術」の意味に限定して用いている。最近では一般的にもその意味で用いられることが多いようだ。

 

⑤ エスニック・アート(ethnic art)

 民族美術および部族社会の美術の意で用いている。両者の違いはサイズの違いである。したがって④のプリミティブ・アートと重複する部分もある。言うまでもなく、地域性・民族性・歴史性と強いかかわりがある。

 この範疇にフォークアート(folk art)としての「民芸」を含ませることもできよう。もちろんその場合は「民芸運動」以前の、柳宗悦らが発見した「民衆的工芸」のことである。

 

⑥ マージナル・アート(marginal art)

 周縁の美術という意味で用いている。

 アウトサイダーアートとほぼ同義に使われている例もあるが、授業発足の時点では包括性の必要に迫られて個人的、便宜的に造語したものである。すなわち、インサイド/アウトサイドという分け方や、ファインアートの対立概念としてではなく、中心に対する周縁もしくは辺境に位置する美術という概念である。ある程度拡張した領域規定をもってしてもなお現在の美術や芸術の範疇には収まりきらないにもかかわらず、手法としての美術的・造形的要素を備え、その結果ある種の強い表現性を発揮しているものを言う。

 具体的に取り上げているものの例としては、「落書きアート(グラフィティ・スクリブル)」として世界各地の街角の落書きやベルリンの壁の落書きなど、またそうした地点を出発点としているキ-ス・ヘリングやバスキアといった作家、あるいは「刺青」などがある。いずれにしても芸術と現実そのもののはざまにあって「これは美術なのか?」といった驚きと疑問とインパクトを与えてくれるものであり、ほかにも多くの種類をこれに加えることができるだろう。

 

⑦ 子供のアート

 子供は小さな大人ではなく、異文化としての存在であるという認識は、すでに一般的なものである。にもかかわらずと言うべきか、であるからこそと言うべきか、そこに横たわる現実再現性や技術修得といった文脈とは別の表現の可能性は、今なおわれわれを魅了し続けてやまない。パウル・クレーをはじめとして、多くの芸術家を今なお惹きつけている所以である。

 

⑧ 現代美術・コンテンポラリーアート(contemporary art)

 現代美術の発生をどの時点に置くかは、本稿においてはあまり意味が無い。すでに見てきたように、美術の更新が他者性・外部性の導入によってもたらされたという観点から言えば、それは必然的な推移だからである。しかし結果としてのスタイルや意味の領域の拡大という点では、史上無かった大規模なものであることは間違いない。

 いずれにせよ重要なことは、後述するように、アウトサイダーアート的要素の導入がインサイドの作家たちに自覚的に選び取られているということであり、またそのこと自体が今日では美術にとって自然なことだとみなされていることである。したがって、⑧現代美術・コンテンポラリーアートは先の定義からしても、アウトサイダーアートとは言えない。授業においてこれを取り上げるのは、これまで見てきたアウトサイダーアートとの関連において、またインサイダーアートとアウトサイダーアートの境界が消滅する可能性を垣間見させてくれる現代性という視点からである。

 

 以上、見てきたようにアウトサイダーアートの語とその分類および定義にこだわるかぎり、事態は一見、錯綜したものとならざるをえないように見えるかもしれない。しかし、美術に対する苦手意識を持ちアウトサイダーアートなどに触れる機会の少ない学生に接するとき、そのいずれか一部をのみ強調するのではなく、それら全体の深部に共通して存在する美術というものの豊かな可能性と、感受能力の拡大の可能性を示唆するためには、一時の煩雑さをいとわず、多様なありようをそのまま並置して示すことが、かえって有効であると思われるのである。

  なぜならば、その一見した煩雑さのゆえに、多様な表現を背景抜きで、つまり作品それ自体として、既成概念が形成される前の段階で体験することを可能にするからである。学生の多くは将来、教育や表現という事を通じて、現代社会にかかわる可能性の大きい人たちである。そうした人にとって、表現や作品そのものを直接的に経験すること、既成概念からとりあえず可能な限り自由な距離を保つということは重要なことであると思われる。

 

4.アウトサイダーアートの可能性

 以上のように、アウトサイダーアートとは「インサイド=制度内の公認された」という事の外側に立つ人々によってなされた美術表現という意味である。その作者たちはインとアウトのはざまを貫いて立ち、時には双方を行き来するマレビト的存在であるゆえに、その境界性が発生する地点を照らし出すという性格をもっている。ゆえにそこから境界を成り立たせるもの、すなわち人間とその文化や伝統との関係性や、コミュニケーションとしての教育などといった次元を照らしだし、それらとの接続可能性を浮き出させる。

 そうした接続の結果を美術史上に見れば、一定の閉ざされた文化的な文脈の中では更新不可能だった美の領域の拡大と感性や意識の拡大が、外部性を意識的に取り込むことによってなされてきたことはすでに見てきたとおりである。印象派と浮世絵の関係の例を持ち出すまでもなく、インサイダーによっては生み出すことのできなかった活力をアウトサイドから得る事ができるのである。情報や交通などが発達した現代においては、そうした展開はさらに加速度的に進行している。こうした状況を共通の背景として、私自身も含めた今日の作家の表現が存在するのである。

 しかしそうした要素は、見方を変えれば、人間の可能性の常数として本来的に存在していたのではないかと考えられる。マニエリズムや奇想・幻想的な絵画の存在、抽象美術やダダイズムといったものはその現れである。そこには、アウトサイダーアートの持つ一見特殊とみられがちな、しかし実のところ美術表現の根源に横たわるある種の普遍性と共通する要素を見出だすことができる。

 さらにここで言い添えておけば、「表現のはじまりをさぐる」ということは、必然的に「表現の終わり」という視点をもたらしうる。その意味でアウトサイダーアートとは優れた「メタ美術」でありうる。現代において絵画というジャンルがすでにかつてのような特権的な優越性を保証されていないにもかかわらず、再びそれを選び直そうとする時、それは自らの内にそのはじまりと終わりを、思想ないしイメージとしてもまた方法としても内包することが前提となる。その困難のゆえのあやうさの上にこそ、表現行為が今日的な美しさとして成り立つのではないだろうか。本稿のはじめに記した学生や若い美術家にアウトサイダーアートの鳥瞰図を示す必要性の二番目の理由がここにある。

 先に述べたアウトサイダーアート①~⑦のそれぞれは、⑧を含む近・現代美術に取り込まれた過程とその成果をへて、現在では様々なメディアを通じて様々なレベルで一般社会にごく自然な形であふれている。そうした様々なメディアの担い手である現代の作家たちは、定義(1)「背景:過去に芸術家としての訓練を受けていないこと」に反して、美術の専門教育を受けた後に意識的にせよ、無意識的にせよ、あらためてアウトサイダーアート的な要素を選び取っているのである。それはスタイルのレベルにとどまるものではない。なぜならばスタイルとは、当然ながらある程度以上は内面の反映であることから逃れられないからである。したがって仮にスタイル=表面の引用・模倣として始まったにせよ、それを選ぶということ自体が、それに共振する内部の共通項の存在に気づかぬわけにはいかないのである。

 そうした意味で現代のインサイダーアーティストたちは、定義(2)「創作動機:芸術家としての名声を得ることでなく、あくまでも自発的であること。」および(3)「創作手法:創作の過程で、過去や現在における芸術のモードに影響を受けていないこと。」を逆説的にふまえて、つまりそれらの条件を再構築することによって、インサイダーアートの内部にアウトサイダーアートを取り込んでいるのである。その結果、「アウトサイダーアートはもはや特殊なものではない」という感覚は、少なくとも社会の深層や若い世代においては、一般的なものとなりつつある。こうした一般化を、現代の成熟した先進諸国特有の多様性によって要請された、アウトサイダーアート的なるものの消費と見るか、あるいは新たな美の領域及び感性の到達した一過程と見るか、双方の動向に注目せざるをえない。

 

 私が大学の授業において、表現の始まりというテーマのもとに最初にアウトサイダーアートを取り上げる理由は、多様性や異文化というものを理解するということの以前の、自己と他者との違いを認めその差異を共有するということにあり、そのことをつうじて自己と他者との間に存在する共通性や普遍性を知覚し、共有への感覚に至らしめるということにある。そのことを可能にするものこそが共感能力としての想像力(イマジネーション)であり、言い換えればそれこそが美術の力なのだと考えている。

  今年度の「描く―心の杖として鏡として―展」を経験したあとでの学生のレポートでは、インサイドとアウトサイドを区別することの無意味さを感覚的に主張する意見が多かった。これは一見すると健全な現象であるかのように見える。しかしこのことが作品の背景への理解の度合いなどとは無関係に、前述したようにアウトサイダーアート的な要素を取り込んだ表現があふれている現代社会の中で育まれた感性に因るのだとすれば、「何でもアリ」(授業をつうじてこの言葉を聞くことが実に多かった)という、開かれているように見えて実は閉塞的でしかない感覚に裏打ちされた、単なる消費的感覚に過ぎないのではないかとの危惧もぬぐいきれないのである。かれらの表層の感性としての、インサイド/アウトサイドの無効化を主張する感性は、一見正しい。だとすれば問題なのは「アウトサイダーアート以降」のアートのありようを問うことであり、そのためにも美術の力を信頼し、美術教育の力を回復することが今必要なのではないだろうか。                      2005.3.6

グループ展のお知らせ  「アートビューイング OME」展が始まりました

 遅くなりましたが、今日からグループ展「アートビューイング OME 1917」展が青梅市立美術館の市民ギャラリーで始まりました。

 

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 今朝、搬入・展示作業を終えて、午後から公開しています。12月3日まで展示しています。

 偶然ですが、参加メンバーには、予備校時代に教わった先生、その当時一緒に浪人していた人(40年ぶりで再会した!)、予備校で教えた教え子、初めてお会いする方、等々あり、ちょっと不思議な感じです。

 

 青梅、羽村福生あきる野といった、地元(?)で発表する機会は必ずしも多くはないのですが、これも御縁と参加させていただきました。

 

 近くの多摩川の紅葉もきれいです。1点だけの出品ですが、紅葉を見がてら、ぜひ御高覧下さい。

 

 なお11月26日(日)14:00から出品作家によるギャラリートークが予定されています。

 

  会場風景

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