艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

2018年に見た展覧会・国内篇 その1 ある8人の「マイベスト」

 年末になると、自分の各種の記録の集計や整理をして、その一年間を概観し直すのが近年の習慣となっている。「美術館探訪録」というのもそのコンテンツの一つ。まあこの1年間に見た美術館等での展覧会をあげてゆくというか、個人的なコメントと共に羅列してゆくわけだが、その際、参考としてというか、私という個人性と世間一般とのちょっとした対照性を確認するために、朝日新聞の「回顧201× 美術」での北澤憲昭、高階秀爾山下裕二の「私の3点」をあげるのが恒例となっている。

 さて今年もと思って待っていたが、なぜかそれが出てこないうちに年が明けた。あるいは見落としたのかなと思って、年が明けてからネットで調べてみたが、「文芸回顧2018」や「論壇回顧2018」の「私の3点」は出てくるのに、美術の記載はない。音楽や演劇も無いようだ。本当に無くなったのか、私の見落としなのか今でもわからないままだが、まあそれはそれでしょうがないか。

 かわりと言っては何だが、WEB RONZAで[2018年 展覧会ベスト5 新たな時代の流れ]https://webronza.asahi.com/culture/articles/2018122500013.html というのを見つけた。『論座』というのは確か以前に朝日新聞社から出していた雑誌。その後身ということか。

 とにかくそこでは[2018年 展覧会ベスト5 新たな時代の流れ]として以下が挙げられている。選定者は、古賀太日本大学芸術学部映画学科教授 映画史、映像/アートマネージメント)という人。知らない。しかしなぜ映画専攻の教授なのか。

 

1 内藤礼明るい地上には あなたの姿が見える」展(水戸芸術館)
2 1968年 激動の時代の芸術」展(千葉市美術館)
3 「縄文 1万年の美の鼓動」展(東京国立博物館)
4 「アジアにめざめたら アートが変わる、世界が変わる 1960―1990年代」展(東京国立近代美術館)
5 ルーベンス――バロックの誕生」(国立西洋美術館)

 

 ↓ 「1968年 激動の時代の芸術」展 これについては小熊英二の『1968 若者たちの叛乱とその背景』等を読み込んでいるので、見に行く必要を感じなかった。

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 次点として、ピエール・ボナール展」(国立新美術館)、「ルドン 秘密の花園展(三菱一号館美術館)、「没後50年 藤田嗣治展」(東京都美術館)、ムンク共鳴する魂の叫び」(東京都美術館)、「生誕150年 横山大観展(東京国立近代美術館)、および別枠としてフェルメール展」(上野の森美術館ほか巡回)の六つをあげている。

 

 う~ん。この中で私が見たのは次点もふくめて「縄文 1万年の美の鼓動」展ピエール・ボナール展」「ルドン 秘密の花園展の三つだけである。それでも例年に比べると確率は良いか。

 

 ついでに『美術手帖』のサイトも見つけた。ここでは2018年展覧会ベスト3 として6名の有識者(?)+1名の選が出ていた。「数多く開催された2018年の展覧会のなかから、6名の有識者にそれぞれもっとも印象に残った、あるいは重要だと思う展覧会を3つ選んでもらった。」という趣旨だそうだ。これも読みようによってはちょっと面白いので、参考までにあげておく。

 ちなみにそれらの中で私が見たものは一つもない。地方での展覧会が多く取り上げられているにしても、ちょっと困ったものである(のか?)。

 

①清水穣(美術評論家) https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19050

ゴードン・マッタ=クラーク展
東京国立近代美術館、2018年6月19日〜9月17日)

秋山陽はじめに土ありき
京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA、2018年11月10日〜25日)

松江泰治 地名事典|gazetteer
広島市現代美術館、2018年12月8日~2019年2月24日)

 

 ↓ ゴードン・マッタ=クラーク展 複数の人が選んでいるので。見に行っても良かったのだが、その気にならなかった。

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②中村史子(愛知県美術館学芸員) https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19061

闇に刻む光 アジアの木版画運動 1930s2010s福岡アジア美術館、2018年11月23日〜2019年01月20日

麥生田兵吾「Artificial S 5 / 心臓よりゆく矢は月のほうへ (Gallery PARC、2018年9月7日〜2018年9月23日)

カオス*ラウンジ新芸術祭2017 市街劇「百五〇年の孤独」福島県泉駅周辺の複数会場、2017年12月28日~2018年1月28日)

  

③服部浩之(キュレーター) https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19060

1964 証言現代国際陶芸展の衝撃
岐阜県現代陶芸美術館、2017年11月3日〜2018年1月28日)

ゴードン・マッタ=クラーク展
東京国立近代美術館、2018年6月19日〜9月17日)

メディアアートの輪廻転生
山口情報芸術センターYCAM]、2018年7月21日〜10月28日)

 

蔵屋美香東京国立近代美術館企画課長) https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19095

会田誠展「GROUND NO PLAN(青山クリスタルビル、2018年2月10日〜29日)

ゴードン・マッタ=クラーク展東京国立近代美術館、2018年6月19日〜9月17日)

12 光州ビエンナーレImagined Bordersビエンナーレ展示ホールほか、2018年9月7日〜11月11日)

  

 さて、ここで私見をはさむ。

 本稿では参考のために展覧会の項目だけ引用して、コメントについては引用しないつもりであった。その選定や内容は評者の判断だから、異をとなえることはできないし、そもそも一つも見ていないのだから。したがって一切批評するつもりはなかったのだが、会田誠展「GROUND NO PLANのコメントの一部についてだけは一言記しておく。そのコメントの中で、「圧倒的な画力」「ほかの作家が泣いてうらやむ高い画力」という文言を用いていることが気になったのである。

 筆者の言う「画力」というのが、正確には何を示しているのかよくわからないが、もしそれがいわゆる「描写力」や「再現的、写実的に描く力量」、あるいは「高い表現性をもたらす作画時における画家の優れた身体・技術性」といったことを意味するのだとすれば、それは誤解というか認識不足というものである。

 会田誠の、抑揚のない均質な描線に囲まれたどちらかと言えば平面的な塗りによって作られた画面世界を、造形的角度から見れば、それが大友克洋以降的描線であったり、アニメーションのセル画的特性に影響を受けたものであろうが、それはそれで構わない。そのことは実際に筆をもって描く実作者であれば、比較的容易に見て取れることである。一面で言えば、天賦の「画力」が足りないから、そうした外在的手法を採用したのであろう。それをいまさら方法としてアンフェアだという気はない。

 ともあれ、それはそれとして、そうした要素は彼独自の発明ではないにしても、彼自身の画風としてすでに成立している。しかしそれは「画力」という言葉からイメージされる、身体性に裏打ちされた、つまり作家の個性に由来するものとは言えない。そこにはある種の「うまさ」はあっても「豊かさ」を感じとることはできない。これは決して批判、非難ではない。しかし、まともな画家であれば、会田誠程度の画力を誰もうらやみはしない。ある作家が自身の個性や力量や思想から、どのような方法・画風を選び決定するかは、その作家自身が決めることでしかないからである。

 だがそれゆえに、評者はここで「画力」という普遍性・根源性に根差す批評性を持った言葉を使うべきではない。会田誠の作品は「画力」によって成立しているのではない。にもかかわらず彼の作品に「画力」を幻視し、それを彼の作品世界の大きな要素として称揚しているということは、評者の鑑賞能力の低さ、分析力の曖昧さを露呈させるものだ。ゆえに美術館のキュレーター等に対して実作者である画家が基本的に持ちやすい、「この人(キュレーター)は本当に絵がわかる、見えるのだろうか?いわゆる文脈だけで絵を理解しているのではないだろうか?」という不信感がここで立ち上がってくるコメントであることは確かなのだ。眼の効かないキュレーターなのではないか?

 そしてそのことは、すなわちそうした程度の鑑賞力によって選んだ「展覧会ベスト3 」自体が信用できないものとなるということだ。

 

黒瀬陽平(美術家、美術批評家) https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19081

「山のような 100ものがたり」
東北芸術工科大学キャンパス、2018年9月1日~24日)

スペース・プラン記録展鳥取の前衛芸術家集団1968-1977−
(ギャラリー鳥たちのいえ、2018年12月7日〜19日)

鴻池朋子 ハンターギャザラー
秋田県立近代美術館、2018年9月15日~11月25日)

 

 ここでも展覧会の項目だけ引用して、コメントについては引用しないつもりであったが、「ベスト」だけではなく「ワースト」をもあげていることが面白く、またその「ワースト」たるコメントの方が力を感じるというか、面白かったので、少々長すぎるが、あえて引用しておく。

 美術についての批評は一般にほめる・評価するというのが普通で、はなはだしくは提灯持ち的なものも多いが、批評というからには当然批判する・否定するということもあって然るべきである。むろん、その内実が重要なことは言うまでもないが、そもそも否定的な場合は黙殺するのが普通であって、「ワースト」的言説を、少なくとも私は、見る機会が少ないので、その勇気に敬意を表して(?)あえて引用する次第である。

 趣旨の性格上、挑発的なのはかまわない(そのせいでちょっと小気味よい)が、量的制約のせいか、残念なことに若干文章に品がないことが惜しまれる(微妙ではあるが)。日本人(とは限らないかもしれないが)はどうも批判となると、感情的前傾姿勢となって、品に欠ける場合が多いようである。

 内容については見ていない、見に行く必要はないと事前に判断したのだから、コメントのしようもない。

 なお、アンダーラインは私河村が共感というか、引っかかったところである。

 

 以下引用

例年のように、ワーストも挙げておく。 残念ながら今年は、ワースト候補が非常に多かった。「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」水戸芸術館)や「五木田智央 PEEKABOO東京オペラシティ アートギャラリー)、「建築の日本展:その遺伝子のもたらすもの」森美術館)、「カタストロフと美術のちから展」森美術館)などはワースト上位に食い込むラインアップだが、すでに著者はレビューなどで触れており、ある程度議論もしているので、そちらを参照していただきたい。

 ワースト3位は「民藝 MINGEI -Another Kind of Art(21_21 DESIGN SIGHT)。「クールジャパン」でオタク文化が喰い荒らされた後、次なるオリエンタリズムの生贄として「民藝」が担ぎ出されるのは時間の問題だと思ってはいたが、今年に入ってすでにその兆候が見え始めている。 民藝とは、良くも悪くもイデオロギーとして人工的につくられた概念であり、そのことに対する再検討抜きで称揚すべきものでは決してない。しかし本展は、日本民藝館の館長である深澤直人無内容な「ポエム」とともに、ひたすら民藝をフェティッシュとして愛でるという、目を疑うような内容だった。

 ワースト2位は、「起点としての80年代」金沢21世紀美術館)。1980年代の日本現代美術に対して、サブカルチャーの影響をいっさい認めないという強い意思を持った展覧会。明確な仮想敵として、椹木野衣によって提唱された90年代の「ネオ・ポップ」が名指しされている。80年代の現代美術が、オタク文化を中心とするサブカルチャーとの影響関係で語られる「ネオポップ」の前史として扱われるがよっぽど嫌なのだろう。 しかし、本展で取り上げられている作家の半数以上が、サブカルチャーから明らかな影響を受けていたり、あまつさえサブカルチャー出身だったりすることについて、どう説明するのだろうか。

 そもそも、椹木史観が支配的になったのも、70年代以降の日本現代美術史をまともに編纂してこなかった美術館側の責任でもあるはずだ。自分たちの怠惰を棚に上げて、明らかに事実に反する歴史観を恣意的に語るのはいかがなものか。 独自の歴史観を語るのは結構だが、キュレーターのテキストを読んでみると、結局は「関係性の美学」や「オルターモダン」といった「グローバル」に流通する業界用語に沿って説明できるよう、サブカルチャーをノイズとして排除しただけのようだ。業績を積んで国際的な舞台で活躍したいという学芸員の野心のために、歴史が歪められ、作品の文脈が忘れ去られる。彼らはそのうち、90年代にも手を伸ばすことだろう。

 ワースト1位は、新しくできたギャラリー「ANOMALY」でのオープニング展のChimPom「グランドオープン」。本展によって、1990年代から続いた現代美術のひとつの流れが、完全に終わってしまった。もはや国内のコマーシャル・ギャラリーにはなんのアイデアもなく、Chim↑Pomもその閉塞状況を打ち破るどころか、コマーシャリズムにだらしなく身を委ねていた。 本展については、年明けに公開されるレビューで詳しく論じたので、そちらを参照してもらいたいが、間違いなく2018年のワースト1位であり、ひとつの時代の終わりを告げる記念碑的事件であったと言えるだろう。

 

 ↓ ワースト3位の「民藝 MINGEI -Another Kind of Art」

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 ↓ ワースト1位の Chim↑Pom「グランドオープン」

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 ⑥長谷川新(インディペンデント・キュレーター)

 https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19071

「全部見せます!シュールな作品 シュルレアリスムの美術と写真」

 (横浜美術館、2017年12月9日~2018年3月4日)

江上茂雄:風景日記

 (武蔵野市立吉祥寺美術館、2018年5月26日〜7月8日)

修理完成記念特別展「糸のみほとけ-国宝 綴織當麻曼荼羅と繍仏-」

 (奈良国立博物館、2018年7月14日~8月26日)

  

⑦番外編 岩渕貞哉(『美術手帖』編集長) https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19097

村上友晴ひかり、降りそそぐ
目黒区美術館、2018年10月13日~12月6日)

ヒスロム仮設するヒト
せんだいメディアテーク、2018年11月3日~12月28日)

変容する周辺 近郊、団地
(東京都品川区八潮5-6 37号棟集会所、2018年10月21日~11月4日)

  

 他人の「ベスト」やら「ワースト」やら引用やらで、そろそろ力尽きてきた。

 

 しかし、「ベスト」というからには、地域的な制約はある程度やむをえないにしても、2018年の日本全体の美術展を幅広く鳥瞰したうえでの「ベスト」であってほしい。とこう書いて、あらためて見直してみたら、「数多く開催された2018年の展覧会のなかから、6名の有識者にそれぞれもっとも印象に残った、あるいは重要だと思う展覧会を3つ選んでもらった。」とあった。つまり日本限定とは書いていなく、あくまでその6名の個々人の印象ということだったのだ。

 つまりはそれぞれの「マイベスト」なのだ。それはそれで悪くはないが、『美術手帖』の「2018年展覧会ベスト3」と書かれると、公的メディアなのだから、やはりある種の客観的視点を期待してしまうのだ。ましてや光州ビエンナーレといった海外の展覧会まで含むとなると、これは全く個人的なものでしかないではないか。というのは、ないものねだりというか、場違いな誤解であろうか。むろん美術の鑑賞というのは、基本的に極めて個人的な営為である。だからこそメディアにおいては「マイベスト」ではない「ベスト」も見てみたかったと思うのである。

 またそれぞれのコメントがその展覧会の「文脈」ということに寄りかかりすぎているように思われることも気になった。言うまでもなく、文脈・パラダイムというものは重要なものであるが、文脈でしか語れない批評というものは困ったものである。評者と作品そのものとの力強い体験が文章から感じられなければ、文脈やパラダイムといった狭い入り口を通してしか美術を見ていない、感じていないのではないかと思われるのである。それもまた、ないものねだりであろうか。

 

 ともあれ「2018年に見た展覧会・国内篇」は、今回思いがけず「その1 ある8人の『マイベスト』」として、長い前書きに終わってしまった。引き続き続編というか、本編を書くつもりではいるが、さて…。 

                              (記:2018.2.9)

『週刊女性』に(ちょっとだけ)名前が出た~古い一枚の写真から

 昨年末というか年明けごろから体調が芳しくない。

 一つは、あるいは高血圧?。長く血圧優等生だったのに、ここにきて110前後~140前後といった数値が出る。毎日ダルさと(実際には熱はないのに)微熱状態といった態。

 もう一つは六十肩(のバリエーション?)というか、右腕に力が入らず(平時の六割ぐらいか)、ある範囲以外うまく動かない。顔を洗うのにも、風呂で体を洗うのにも少し不自由だが、何より絵を描くのに不自由する。特に今は今年2回予定している個展のために150号の大作に取りかかっているのだが、腕を上にあげて筆を使うということがうまくできないのである。大作が描き進められない。やむなく小さな作品を抱え込むようにして描いているが、精神的にまことによろしくない。

 そんなわけで、当然山歩きなど行きようもない。いや、無理をしてでも一発行けばスッキリするような気がしないでもないが、いやな予感がして、自重している。せいぜい1時間半ほどの裏山歩きをたまにするぐらいのものである。

 気晴らしにブログ書きでもすればよいのかもしれないが、キーボードを打つのも少し辛い。書くべきコンテンツはあり、ある程度の下書きはしてあるのだが、集中するのがちょっと辛く、アップするには至っていない。

 しかしまあ、そんな愚痴ばっかり垂れていても仕方ないし、たまたま古い友人からの一通のメールからちょっとした珍しい(?)体験をしたので、素材の賞味期限が切れないうちに、ちょっと書いてみようと思った。これならば労力もさほど必要としないだろうし、考察も分析も必要ない、近況報告として。

 

 以上、前書き、以下本論。

 

 

 年が明けて10日ほどしたころ、Aからメールがきた。

 ええい、めんどくさい。Aとは秋元、現東京藝術大学大学美術館館長兼練馬区立美術館館長の秋元雄史である。ついでに言えば金沢21世紀美術館の元館長であり、直島の地中美術館の元館長でもある。

 本ブログでは個人的な交友関係の範疇の話題の場合は、一般常識にしたがって、原則個人名は出さず、AとかB氏とか仮名にしている。しかし、本人の実名をもって公表されたものや、ある程度公的な話題については実名をあげる。そうしないと話が見えないからである。そもそも、今回は画像を見ればわかるように実名、写真入りの記事なので、秋元雄史の名で話を進めるしかないのである。

 

 秋元からのメールは、今度『週刊女性』に取り上げられるので、「昔を知る友人」として、つまり裏付けインタビューに協力してほしいとのことであった。はあ?『週刊女性』?か。まったく縁のない世界であるが、まあ頼まれたからには協力してあげましょうか、といったところ。

 前後して奈良在住のFから画像が届いた。同様に秋元に頼まれて誌上に掲載する、学生時代の写真を提供したのだが、そこに写っている人物の真ん中の一人がどうしてもわからないという。

 

 ↓ 後ろのザック姿が私 一番右秋元 真ん中の男は誰だ?

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 1977年、大学2年の五月、私がまだ山岳部に在籍していた頃、唐松岳~不帰の新人歓迎合宿終了後、鹿島槍の麓の山岳部の山小屋に移動して定例の小屋整備を終え、さらに居残って先輩と二人で鹿島槍のバリエーションルート、荒沢尾根を登りに行ったものの、初日の渡渉に失敗し流されずぶ濡れになるやら、出直した翌日は取り付いてほどなく大滑落し、九死に一生を得てほうほうの態で敗退した日に、事前に約束していた通り、友人やら何やらが十名ほどやってきたのである。その写真は山小屋でさらに数日過ごした帰途の大糸線の駅で撮ったものだ。この写真には写っていないが、もうニ三人いた。

 

 メンバーは学年も大学も違ったり、友人やら知り合いやら雑多な集団なので、全員を見知っている者はいなかった。おおらかなものである。そういえばこの年の新人歓迎合宿自体は、例年の鹿島槍大冷沢定着が、雪庇の状態が悪く、場所を八方尾根に変更したこともあって、合宿自体は短かったにもかかわらず、家を出てから帰るまで二週間以上。当然授業はあったのだろうが、まったく気にしていない。思えばのんびりしたものであった。

 その写真は秋元自身がフェイスブックにあげ、それに反応した何人もの人から「真ん中の人物は誰?」という話題でひとしきり盛り上がっていた(私自身はフェイスブックをやっていないので、女房経由)。まあ、40年前の写真だからねえ。どうやらその人物を知っているのは私だけらしい。

 

 ↓ もう一枚 やはりボツ写真 真ん中の男は誰だ?

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  問題の彼とは、私と同郷の、高校山岳部の後輩の、当時立教大生のTのことであった。高校では2学年下だが、私は3浪し、彼は現役合格だったせいで、この時は1学年上の3年生だったはずだ。芸大は浪人生の方が圧倒的に多かったので、そういうことはしばしばあり、年下の先輩なども普通に存在していた。

 ちなみに秋元と私は一歳違い(とは言っても数か月違いでしかないのだが)、大学入学は同期だが、彼は二年留年したせいで、学部卒業は私の修士課程修了と同じ年。写真を提供したFは私と同年齢だが、大学は私たちより二年早く入った。一緒に写っている現某芸大教授のS君はFより1学年下、私より1学年上だが、確か5浪か6浪しているからこの中では最長老か。結局大学には入らなかったIも、この写真には写っていないKも同じ3浪だが、確か高校入学前後に1年余分にかかっていたはず。ああ、ややこしい。

 なぜ彼が参加しているのかわからないが、私が声をかけたのだろうか。あるいは、やはりその写真に写っている、予備校で1年間一緒だった2学年下の、やはり立教大学生の(別の)K(大学生のくせに昼間の予備校に通っていた)と同じ大学サークルだったという縁で来たのか。まあ、いつでもどこでも顔を出すやつではあったが。しかもなぜかいつも真ん中に写っている。

 ともあれ、真ん中の人物の正体は判明したが、秋元のフェイスブックを共有するメンバーとは縁のない世界の人なので、フェイスブックの話題としてはそこでお終いである。

 

 そのTは大学卒業後しばらく旅人をやったのち、郷里に帰り、家業の運送会社を継ぎ、今はコンサルタントなんぞをたまにやりつつ、チャリダー兼旅人として復活しつつあるようだ。私とは長く縁が切れていたが、ここニ三年また淡い関係が復活しているようでもある。

 

 さて、『週刊女性』である。

  

 ↓ 『週刊女性』2月12日号(1月29日発売) 表紙に「人間ドキュメント」や秋元雄史の文字はない

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 ライターから電話がかかってきた。電話インタビューかよ、と一瞬思ったが、さすがに手際は良い。美術関係者ではないから若干ポイントを外すところはあるが、全体としてはツボを押さえた取材であり、必要とするところをうまく引き出していく。プロである。数日後、私の「談」の部分の文案が送られてきた。あらためて二三の修正点を指示する。

 

 ↓ 私の関与した部分 その1

 

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 ↓ 私の関与した部分 その2

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 私はこれまで何回かのテレビやラジオの取材を受けてきたが、普通その録画等は送ってくれない。社内規定があるようでもあるが、取材された方としては釈然としない。今回は掲載誌を送ってくれと言ってみたら、発行日にちゃんと送ってくれた。えらい。それが画像の『週刊女性』2月12日号(1月29日発売)である。

 残念ながら表紙に「人間ドキュメント」や秋元雄史の名前は出ていない。

 

 しかし、内容はしっかりしたもので、わかりやすい読みやすいにもかかわらず、それなりに読みごたえもある。他の記事に関してはノーコメントというしかない。あまりにも私の関心外の世界なので。

 それにしても秋元が、女性週刊誌といった、およそ芸術とは縁のなさそうな雑誌にでも出るというのはちょっと驚きというか、意外でもあった。もちろんそこにはそれなりの理由があるのだろうし、内容からすれば、決して悪いことではない。

 私としては、おかげで(?)まったく縁のない世界に一瞬ふれることができたということである。

 

 ↓ 記事の全体 その1 これでは内容は読めないので無断転載にはならないはず。

   関係ないけど相変わらずスーツの似合わないやつだ。

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 ↓ 記事の全体 その2

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 ↓ 記事の全体 その3

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 残念ながらTの写っている写真は画質が悪すぎて誌面には載せられないとのことで、ボツとなった。少し残念である。ほんの少し、ごく一部のフェイスブックににぎわしただけで日の目を見ることなく終わってしまうことの個人的な残念さゆえに、この写真を再録するために、この一文を書いたようなものである。ちょっとした話題提供、近況報告でもあるが。

 それにしても、多少ピンボケでも写真を直接高画質でスキャンして送れば、それなりに載せることは可能だったのではないか。ピンボケではあるが、雰囲気のある良い写真だと思うのだけれども…。

                            (記:2019.2.3)

再録:塚田尊明「NHK・BSグレートトラバース撮影隊に呼ばれるまで・そしてそれから」

 本は増える一方である。いや、一方であった。最近は購読量も減り、読書量も減ってきてはいるというものの、蔵書の総量は減っていない。微増を続けている。2万冊はないにしても、毎年の記録からして1万冊はある。機を見て人にあげたり、「これは君が読むべき本だ」などと、酔った勢いで押し付けたりするように心がけてはいるものの、しょせんは焼け石に水である。どこにどの本があるか覚えていられるのは1万冊までだという説を読んで、まったく同感である。

 断捨離という言葉も考え方も好きではないが、一理はあると思う(ただし一理にしかすぎない)。何にしても、多少は考えざるをえない。

 ともあれ少し蔵書を減らそう=処分しようと決めて、いよいよ年内にある古本屋に持っていくことにして、段ボール箱に詰め始めた。詰め始めて気が付いたというか、思い出したのだが、数年前に一度処分を決意してまとめはじめ、中断した段ボール箱が、数箱そのままになっていたのだ。書棚に入りきらなくなった山岳書、山岳雑誌。

 かつて記録の無い、あるいは記録の少ないルートを登ることを目標として山に登り続けていた頃、当時所属していた山岳会とは別に、日本山書の会というマイナーな趣味の研究団体に所属したこともあり、資料収集・研究の一環として、古い山岳書や雑誌・会報などを営々として集めていた。とても読み切れない。本は必ずしも読まなくともかまわない、しかしそれを持っているということが大事なのだ、という面もある。しかしそれも自分が現役の山登りをしていればこそである。今のように記録性云々とは無縁の尾根歩きを細々とするだけになってみれば、そうした資料類の多くはもはや自分には必要のないものだと気づかざるをえない。そうした情熱はなくなったのである。

 

 私の蔵書は専門の美術関係を第一として、山岳、文学、民俗学、ノンフィクション等々と、比較的多岐にわたる。私は本は読むべきものと思っているから、初版本や豪華本、限定版といったことには基本的には執着しない。文庫本で読めれば十分である。しかし文庫本はごく一部のもの以外は金にならない。いや、私の持っている本全般がそうだ。ある程度高く売れそうな山の本は、とっくに売り払っている。

 自分でヤフオクにでもコツコツと出品すれば、うまくすればそこそこの金にはなるだろう。しかしその手間暇を考えれば、そんなことにエネルギーを使いたくない。集めるのに費やした金額を考えれば多少の冷や汗も出るが、処分と考えれば二束三文で充分である。それらを所有していた年月だけで、充分楽しんだ、元はとったのだから。

 

 そんなことを考えていたある日、例の立川会の忘年会で現役のクライマー塚田さん(本ブログの「レジェンドたちと登った西上州・鍬柄山 2018.11.3」ではTさんとしている)と話していたら、山の本が好きだ、欲しいと言われる。山屋でも山の本を読まない人は多いが、塚田さんは別格で、異常に反応が良い。私が死蔵するより、この人のもとにあった方が本が生きる。これが縁だと、さっそく貰ってもらうことにした。

 忘年会からしばらくたって、その時の話の流れから元岳人編集部の山本さん、俳句をよくされる元山岳救助隊の金さん、指揮者のT島さん、山渓編集部を退職されたばかりの山書収集家でもあるKさんらが拙宅に来られ、本の話を中心とした清談のひと時をすごした。

 当日出席予定だった肝心の塚田さんは前日から都岳連の山岳救助隊のお勤めが入っており、来られなかったのだが、二日後にアルバイトでガイドをされている山岳ツアー会社のAさんと一緒にやって来られた。その夜はツアーの下見に両神山に行かなければならないとかで、運転役の塚田さんは飲めなかったが、Aさんと私は楽しく飲みつつ、山の話、本の話その他で楽しい時を過ごした。

 とりあえず段ボール箱9箱分の山書を引き取っていただいて、何やら肩の荷が少し軽くなったような気がしたものである。

 

 年が明けて、一通の封書が届いた。御礼の一筆と共に数枚のコピーが入っていた。それが以下に紹介する彼のエッセイである。一読、面白いと思った。決してプロの物書きの書く文章ではない。天然自然の純朴素朴な、例えれば泥のついたままの自然薯の味わいである。最近しばしばライター志望の若者と知り合うことがあるのだが、そうした職業としての、商品としての文章とは違った滋味に久しぶりに接したような気がした。

 内容的にも面白い。例えば(私自身は興味がないが)、大変人気のある「NHK・BS グレートトラバース」という番組の知られざる側面に期せずして光を当てている。何であれ、裏方話は面白いのだ。

 彼がクライマーとして山屋としてこれからどこへ向かうのか、私にはまだよくわからないのだが、これを私一人で読むのはもったいないと思った。

 その一文を発表したグループ山想というのは、たまにネット上で見かけたことはあるが、「山岳愛好者を横につないだグループ」で、『G山想』という機関紙・文集を出しているらしいが、それ以外のことはよく知らない。いずれにしてもこの一文を紙媒体=機関紙で読んだ人は少ないだろう。せめて私のブログに取り上げて、あらためて少しでも世間に知らしめたいと思いついたのである。

 本人に了解を求めて電話してみると、意外な展開に少しとまどわれたようであるが、すでに発表済みのものである。問題はないはずだ。そのまま再録させてもらえることになった。縦書きが横書きになるのが少し残念であるが、まあ仕方がない。

  

   ↓ 塚田さんから送られてきたコピー

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   ↓ 『G山想』の表紙のコピー

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 それにしても、絵描きのブログにしては絵の記事が少ないと言われる。確かにその通りである。絵は本職本業であるがゆえに難しいのだ。

 それはそれとして、たまにはこうして私以外の人の文章を載せるのも面白いではないかと思うのだが、いかがだろう。少なくとも、私は面白いのである。

 以上、前書きであり、以下本文。

 

 

塚田尊明

NHK BSグレートトラバース撮影隊に呼ばれるまで そしてそれから」

(初出『G山想』2018年通巻第11号 2018年6月10日 グループ山想)

 

 山が好きになったのは中学生のときでした。科学クラブという自然科学を学ぶクラブに入ったことがきっかけです。恥ずかしい話ですが、勘違いでこのクラブに入部したのです。薬品などを扱う実験に興味があったわけですが、化学と科学の文字の意味がわかっていませんでした。入部してすぐ活動内容が違うことに気がつきましたが、自然も好きだったのでそのまま所属することにしました。

 この科学クラブで月に一回、野山に出かけました。運動の苦手な自分でしたが、山は歩いた分だけ、登った分だけ、高いところへ行くことができると感じました。登山は自分に向いていて、そして楽しいと思いました。

 

 高校では迷わず登山部に入りました。個性的な顧問の先生のおかげでますます登山が好きになりました。先生の指示で500円くらいの幕営代をケチり、指定キャンプ地以外でテントを張っているところをレンジャーに見つかってしまいました。先生はレンジジャーに謝り、反省している振りがとてもうまかったのを覚えています。先生は団体装備を何一つ持ちませんでした。それなのに合宿当日は誰よりも大きなザックで現れました。ザックの中身三分の二がお酒でした。「お前ら誰にも言うなよ」と言い、高校生の自分達にもお酒をわけてくれました。このときの秘密の共有はものすごい絆となり、高校在学中は誰にも言いませんでした。その先生もずっと前に定年退職をされました。今となれば時効の話です。

 

 柄にもなく大学へ進みました。登山部か山岳部へ入りたかったのですが、その二つのクラブが無く、山関係としてはワンダーフォーゲル部だけがありました。ワンダーフォーゲル部、ワンゲル、初めて聞く言葉でした。選択肢もないので、この謎のワンゲル部に入部することにしました。しかし今となれば青春の思い出がいっぱい詰まったクラブ活動になりました。ワンゲル部で教えてもらったことは登山ではなく、お酒を飲んで人に迷惑をかけることでした。親の苦労も知らず入れてもらった大学で勉強はしませんでした。大学は自然豊かな田んぼの真ん中にありました。おきまりのあぜ道を毎日走り、タイムを縮めることが楽しみでした。また6階建の校舎の屋上からロープを垂らし、プルージックで登り、懸垂下降をしていました。当然教授に怒られました。

 ボッカ駅伝や登山レースにも出場しました。大会で上位の成績を収めることができました。勉強では結果を出せませんでしたが、好きなことでは結果を出すことができました。そして国体の補欠選手に選ばれました。国体で知り合った方にクライミングを教えてもらいました。その方に「塚田君はどんな登山をしたいのか」と聞かれました。

 自分は長谷川恒夫さんに憧れていたので、冬壁を単独で登りたいと答えました。そしたら「日本登攀クラブに山野井泰史さんという人がいるから、集会を見学させてもらったら」と言われました。日本登攀クラブがどんなクラブなのか、山野井泰史さんがどんな人なのかも知らずに集会へ行くことになりました。

 

 当時の日本登攀クラブの集会は、御茶ノ水駅近くにあった談話室滝沢で行っていました。コーヒー1杯が1000円ぐらいしたと思います。そこに来ている客はみなスーツ姿で、なにか重要な商談でも行っているかのように見えました。そんな中に、普段着やジャージ姿でいる集団がありました。それが日本登攀クラブの人たちでした。

 山野井さんも来ていました。富士山の強力の仕事から帰ってきたばかりと言っていました。ある先輩から、「お前は長男か」と聞かれました。自分は、はいそうですと答えました。その先輩は「じゃあ殺せねぇなあ」と笑いながら言っていました。なんだかとんでもない山岳会に来てしまったような気がしました。しかし他の山岳会を見学したところで、山岳会というものがよくわからないような気がしたので、日本登攀クラブに入会することにしました。

 日本登攀クラブの先輩たちは強かったですが、自分は素質も無く、大した登山もできないまま、卒業後の進路を決めなければならない時期が来ました。普通の学生は就職をしますが、日本登攀クラブの先輩は、「就職と結婚は人生の墓場だ、親の脛をかじってでも山をやり続けろ。」、「30歳までは遊べ」とも言っていました。とてもまともな考え方では無いとそのときは思ってしまい、自分も普通の学生と同様に就職を選んでしまいました。就職と言っても高校の教師になりました。自分は中学、高校時代の素敵な先生たちに憧れ、自分も教員になりたいとずっと思っていました。

 

 なんとかその願いが実現し、私立の工業高校の教員になることができました。しかし理想と現実と学校方針の大きな変革などと、さまざまなことがあり、11年間勤めた学校を辞めることにしました。このとき自分は結婚もして子どももいました。また、ずっと感じていたことは、やっぱり山をやりたいという思いでした。教員時代の休みは週に1日。長い休みなんかはとれませんでした。一緒に着任した同期も時期はバラバラでしたが、辞めて行きました。

 しかし彼らは次の仕事や学校を決めてから辞めて行きました。自分はというと何も決めずに辞めてしまいました。独立して個人事業主として何かやりたいと漠然とですが思っていたからです。学校を辞める直前に車いす整備士の資格を取りました。学校活動の取り組みで、車いす修理のボランティアを着任以来ずっとやってきました。我流で車いすの分解組み立てをしていたので、記念と腕試しにと思い車いす整備士の資格を受けに行ったところ、受かってしまいました。

 この車いすで食べて行けたらと思いましたが、現実はそんなに甘いものではありません。失業保険をもらいながら、ハローワークにたまに行きますが、本気で仕事を探すわけでもありませんでした。失業中、天気の良い日に釣りに行き、数匹のハゼを釣っては家に持ち帰り、大漁だぞと子どもにくだらない冗談を言っていました。何の進展も無い無駄な日々を過ごしていました。

 

 失業保険も切れること、以前から親交のあった山の先輩、堤信夫さんからしばらく仕事を手伝って欲しいと言われました。それから1年ぐらい堤さんに世話になることになりました。仕事内容は住宅の塗装や外壁工事などをしました。堤さんはテレビの裏方の仕事も紹介してくれました。撮影機材を山中で運ぶ歩荷という仕事でした。

 初めてテレビの仕事をしました。NHKのBSで放送されている日本百名山という番組でした。そのとき知り合ったテレビのディレクターの方が後の「日本百名山一筆書きグレートトラバース」を手がけるディレクターでした。そのディレクターと堤さんは知り合いで、以前から山番組を一緒に作ってきたそうです。

 堤さんとの仕事が一段落した自分は派遣会社のアルバイトをするようになりました。そんな中、あのディレクターから電話がかかってきました。明後日から2週間ぐらい歩荷の仕事をして欲しいとのことでした。急なことでしたが仕事をいただけるので、手伝えますと即答しました。

 その仕事こそ、日本百名山を連続踏破する挑戦を追ったドキュメンタリー番組のグレートトラバースでした。グレートトラバースは長期に渡っての挑戦です。自分が関わったのはわずかな期間となります。現場のスタッフ構成はディレクター、アシスタントディレクター、カメラマン3人、車両ドライバー、あと歩荷がそのときの撮影内容によって数人でした。この番組はドキュメンタリー番組なので、その百名山の挑戦者と打ち合わせをしたり、協力をしたりということはしていません。

 挑戦者から行動などの最低限の情報だけを聞き、仲間にならないよう距離を置いて撮影をしました。挑戦者の出発時間や行動予定が急に変わることもよくあります。撮影スタッフはそれに合わせて行動します。また撮影スタッフも強力なメンバーをそろえていました。

 まずディレクター自身が日本、世界で登山経験のあるクライマー、挑戦者に勝るとも劣らないアドベンチャーレーサーのカメラマン、日本トップクラスのクライマーでもあるカメラマン、山岳ドローンカメラマン、歩荷も日本を代表するアドベンチャーレーサー、世界で活躍するクライマー、その土地を熟知した地元の歩荷、エネルギーあふれる大学山岳部の学生歩荷などでした。

 スタッフ一人ひとりに求められている能力は、山中でたとえ一人になっても必ず無事に目的地に到着することでした。自分は南アルプスの南部、光岳の撮影から参加しました。当日呼ばれていた歩荷は3人でしたが、集合時間になっても自分ひとりしか集まっていませんでした。ディレクターとカメラマンの先発隊は挑戦者を追って先に出発しています。歩荷はテントや食糧、予備の撮影機材など、すぐに使わない物を運ぶので挑戦者やカメラマンと一緒に行く必要はありません。しかし、毎日が12時間行程近くあるので、早朝から出発しないと目的地に到着できません。

 ここで起きて欲しくないことが現実となってしまいました。一人の歩荷から来られないと連絡がきたのです。もう一人の歩荷のことも待ちきれません。自分は三人で運ぶ予定だった荷物を二つに分けて、それを背負い出発することにしました。36~37キロと言ったところでしょうか。もう一人の歩荷は2時間遅れぐらいで出発し、無事合流することができました。

 この光岳から出発した撮影は、北岳を越えて広河原までが一つの区切りでした。この間、様々なことがありました。時期は残雪の南アルプス。夏道が出ているところもあれば、雪でまったく道がないところもありました。挑戦者は、アドベンチャーレースで培った経験と勘、そしてGPSを使い縦横無尽に山を駆け回ります。それを追って行く撮影スタッフは大変でした。歩荷以外のスタッフはわりと軽装ですが、歩荷は大荷物を背負っているので道も選ばなくてはなりません。挑戦者やカメラマンは夏道でもない岩稜を駆け抜けていきます。しかし歩荷はそのようにはいかず、雪で隠された夏道と思うところや、とにかく進めそうなところを行きました。ときには滑落したら200~300メートル落ちてしまうようところもありました。

 薮を漕ぎ、スタッフみんながバラバラになるなど、とても過酷でした。配給された行動食も歩荷には少なすぎてシャリバテになりました。飯は朝夕ともにアルファ米とラーメンでした。まだ山小屋は営業していないところがほとんどで、避難小屋を繋げて行く毎日でした。広河原から一度町に降りたスタッフたちはビジネスホテルで1泊し、数日間のたまった垢を落としました。

 そして翌日、食糧の買出をして、すぐまた広河原に戻りました。挑戦者はというと広河原にある避難小屋で休養をとっており、翌日は鳳凰三山に登ります。自分だけが広河原でテントキーパーとなり待機となりました。自分のことを、通行許可を得たディレクターが車でピックアップの予定になっていましたが、大雨が降り夜叉人峠から広河原へむかう林道が通行止めになってしまいました。自分はもう1日広河原に1人でいることになりました。翌日も林道は開通しなく、北沢峠側から山小屋の人に迎えにきてもらいました。その後は中央アルプスへ移動、そこでもさまざまなできごとがありました。そして上高地へとたどり着き、自分の歩荷の仕事が終わりました。

 このグレートトラバースはとても人気の番組となりました。そしてグレートトラバース2の続編も始まり、また歩荷として呼ばれました。このときの撮影も前回同様厳しいものでした。季節は晩秋で、一晩で山が真白くなり3日ほど停滞したときもありました。また、連日のハードな行程に集中力も無くなり、道を間違えてしまいました。気が付いた時にはもう戻っても合流できない状態で、自分の安全を考え下山したことがありました。

 他のスタッフに装備などを届けられず不便な思いをさせてしまいました。あるスタッフからは、「塚田が無事じゃなければ番組が終わってしまう判断は正しかった。」と言われました。反省をしなくてはなりません。しかし、とてもよい経験になりました。

 その後、山関係のテレビの仕事を毎年いただくようになりました。映画の仕事などもありました。角川映画のエヴェレスト神々の頂にも参加をさせていただきました。

 

 日常の仕事は日本登攀クラブの先輩の紹介で清掃業のアルバイトを始めました。フジテレビのガラス清掃などもしました。そんなある日、堤さんから木を伐採する仕事の誘いがきました。その現場には林業や造園業の職人たちも集まりました。

 その中に今現在自分が世話になっている池田功さんがいました。あの衝立岩の雲稜ルートをフリーで登った人です。池田さんは雑誌PEAKSを持ってきていました。南博人さんと対談をしたとのことでした。そのPEAKSに、南さんと池田さんが一ノ倉沢の岩壁群をバックに撮った写真が載っていました。その撮影のときに南さんは、「最近衝立登る人いないのだね」と言っていたそうです。撮影日に誰も衝立岩に取りついていなかったのでそう言われたのかもしれません。確かに衝立岩を登る人は少なくなっていると思います。実は、自分は南さんと池田さんが一ノ倉沢に来る1週間前に衝立岩を登っていました。しかも雲稜ルートでした。登っているところを南さんにも見ていただきたかったです。

 堤さんに呼ばれた伐採の仕事のあとに、自分は池田さんと連絡を取り、造園業の手伝いをさせていただくことになります。その造園の仕事で、長谷川恒夫さんの奥さんの昌美さんが現在所有している八ヶ岳の太陽館へ、庭の手入れにも行きました。

 その他自分の仕事としては、フィールド&マウンテンというツアー会社のガイドとして仕事もするようになり、先に出ていた車いす話ですが、日本福祉用具評価センターから、車いす整備士の講師として呼ばれるようになりました。

 

 振り返ると要所、要所で起きた出来事が繋がって行き、今の現在があります。

 20年前に日本登攀クラブの先輩が言っていた「30歳まで遊べ」もまんざら間違えではないように今は思えます。逆に今は30歳過ぎても遊べと言いたいです。そのとき、そのとき一生懸命やれば何とかなるようですし、よい方向へ行くと言うことがわかりました。

 大学で勉強したことはあまり役に立ってはいませんが、いや正確に言うと大学で学んだことをうまく活かせませんでしたが、大学に行ったからこそ、運命的な山の先輩たちに出会えました。

 自分が好きになった山を通じて、さまざまな形でこれからも社会貢献ができたらよいと思います。

そういえば先日、あのディレクターからグレートトラバース3の誘いが来ました。

今年も挑戦の年が始まります。

 

 

追記

 塚田さん、整理すれば貰っていただきたい本はまだ残っています。またよろしくお願いします。そして今度は山と本の話をしながら、じっくり飲みましょう。

 

「キク」登場! (ミケタも…)

わが家の猫「キク」(とミケタ)が、とあるサイト(フェリシモ)に登場しました。

 

私も今は猫好きですが、本来は女房の守備範囲。

女房の展覧会がらみで取材に来たとか。

とりあえず、紹介しておきます。

 

里山の三毛猫・キクとミケタ」

https://www.nekobu.com/blog/2018/11/post-1894.html

 

お暇な方、御高覧下さい。

 

註:キクは正確には三毛+キジネコです。

 

 ↓ キク

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 ↓ 純正三毛猫 キクタ

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附記:ストックとサポートタイツについて

 前々稿の「レジェンドたちと登った西上州・鍬柄山」で書き落としていたというか、ちょっと気がついたことを二点、書きとどめておく。

 

 一つはストックのこと(トレッキングポールと言うこともあるようだが、ここではストックで統一)。

 昨今の登山、特に尾根歩きではストックが大はやりというか、ほぼ必携装備扱いだが、あれはいつ頃からそうなったのだろうか。長く沢歩きを主にしていて、その後しばらくの空白の後に尾根歩きを主とした山を再開したせいで、再開した時にはもう常識となっていたような気がする。

 

 ↓ 愛用のストック モンベル製 使い込んで塗装はほとんど剥げている。

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 ↓ グリップの下、指先の当たるところには金属の冷たさを軽減するために断熱材(?)を養生テープで縛りつけている。

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 *サポートタイツは見苦しいので載せません。

 

 そのころ自分自身が年齢などから、体力・反射神経の低下などを自覚痛感することが多かったせいで、ストックを手にすること自体にはさほど抵抗感はなかった。すぐにその有効性もわかった。ピッケルを手にしていた経験も長かったので、躊躇なくシングル(T字グリップ)を選んだ。その時、なぜ日本の山でダブル(I字グリップ)を使うのだろうと不思議に思った。ルートにもよるが、日本の山では藪や、やせ尾根、岩場、鎖場・ロープなどの複雑な要素が混在していることが多い。藪や岩場鎖場では時にストックは邪魔になる。ダブルストックでは往々にして危険である。

 ダブルストックによる平地歩行がノルディック競技の夏場のトレーニングとして始まり、その有効性を認められて、近年新たな健康法として理論的にも確立され、新たな運動として独立したことも知った。しかしそれは基本的に平地でのことだ。

 ヨセミテをはじめとする海外のいくつかの(観光用)トレイルを歩いてみると、その多くは老若男女が安全に歩けるように、平地に準じて幅広く整備された「遊歩道」なのである。そうしたところだと了解していれば、ダブルストックもトレランも、問題はあまり発生しない。

 

 ↓ グランドキャニオンのトレイル 幅広い。

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 ↓ ヨセミテのトレイル 幅広い。

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 しかし日本の四季の変化の激しい、降雨量の多い、細い急峻な山道では話が別だ。多くの場合、藪、やせ尾根、岩場、鎖場・ロープなどがあることが多い。またそうしたところではない場合でも、少なくともダブルストックではシングルに比べて、山道の脇を二倍ほじくり返すことになる。以前泊まった北アルプス燕山荘の主人は夕食時のレクチャーでそうしたことによる登山道の荒廃、ひいては自然破壊というとことを切々と訴えておられた。私もその点は全面的に賛成である。

 しかしその話を聞いた当夜の登山客のどれだけがその趣旨に賛同し、ダブルからシングルに替えただろうか。新ハイキングクラブの山行では、ルートによって(?)ダブルストック禁止とされていたのを見た覚えもある。むろん各自の身体条件やルートによっては、ダブルストックの方が有効な場合もあるから、一概には言えないのであるが。

 

 二つ目はサポートタイツについて。これもほぼストックと同様な経緯で、ここ数年使い始めた。モノにもよるだろうが、現在使っているワコールCDXは非常に強力かつ有効なのだがその分、下腹部への圧迫が強く、毎回しんどい思いをしている。有効性と締め付けの苦しさを秤にかけて、着用すべきかどうか、いまだに少し迷い続けている。結局短い楽なコースでは着用せず、少し長いややハードなコースでは着用と、使い分けているのが現状だ。まあそれに関しては私のBMIが最大の原因なのだから、あまり文句も言えないのであるが…。

 

 このストックとサポートタイツについて、前回の鍬柄山山行の際、途中から気づいて観察し、何人かに質問してみた。全員に確認したわけではないからおおよそのところではあるが。

 

 ストックについては、山行自体が久しぶりの国井さんがダブルストック。これはまあ大事を取っての事だろう。ほかの人は持っている人の方が多かったが、そのおそらくほぼ全員がシングル。ベテラン組で持っていた人は間違いなくシングル。

 サポートタイツについては、着用していない人の方が多かったようだ。ベテラン組はほぼ全員がサポートタイツを着用せず。

 打田さんは一時着用していて、その有効性を大いに認めていたらしいが、冬用のそれを着用してみて圧迫による血流の悪さなどを感じ、現在は着用していないとのこと。

 

 いずれにしても、ベテランほどダブルストック、サポートタイツを使用されないということだ。またダブルストックに関しては、前述したような日本の山でのむしろ危険性を指摘されていた。

 それは長く山を続けておられて、ベテランとなった今に至っても体力・力量的に必要性を感じないということだろう。それはそれで素晴らしいことだ。しかし、ベテランとは言えない一般の中高年の登山者にあっては、遭難対策の面からも必要に応じて積極的に使うことは良いことだろうと思う。私の場合は、最近起こりがちな股関節痛に対する予防の面も大きい。

 

 だが中高年とは言えない若い登山者にあっても、最近は当たり前のように使用しているのを見かける。正確な統計はわからないが、かなりの割合で使用しているのではないか。

 彼らに本当にストックやサポートタイツが必要なのだろうか。登山は、程度はともかく、なるべく人工的手段に頼らないスタイルで登るべきである。そもそも、ストックなしでの身体バランス、サポートタイツを必要としない身体能力、体力をこそ、若い人は身に着けるべきではないか。ファッション性の観点はともかくとして、登山という行為そのものに目を向けて、道具・手段を自分の意思と思想で選びたいものである。

 

 もう一点、これは鍬柄山の岩場でのことだが、岩場の取り付き点で全員が一斉にストックを縮め、背に落とし刺し(ザックと背中の間に差し込む)か、またはザック本体に(グリップを下にして)収納された。さすがだなと思った。昔の剣岳での、雪渓を登りつめた岩場の取り付きのシーンを思い出した。

 

 ↓ こんなところではストックはザックに、できれば本体の中にしまおう。

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 ↓ こんなところではストックを使ったらかえって危険です。

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 岩場や鎖場では、邪魔になるストックを手から離しザックや背に収納することが必要なのだが、つい面倒くさがって、あるいはそうすべきだということを知らずに、手首にぶら下げたまま岩場鎖場を登る人が多い。ましてや二本の長いストックを片手で持ったり、両手首からぶら下げながら登る人を見ていると、本当に冷や冷やする。本人のみならず、振り回されるストックが後続の人にとっても危険だということに気づかない人が多すぎる。かくいう私自身、ちょっとした岩場では収納を面倒くさがることがないとは言えないが、あらためてそうしたフォームというか、ルーティンをさぼらないようにしようと自戒したのであった。勉強させていただきました。                        

                             (記:2018.11.6)

玲瓏の佐久・光あふれる尾根を天狗山から男山へ (2018.10.28)

 朝7時に金峰山荘の朝食。食べ終えてベランダで一服していると、快晴の朝陽を浴びて、周囲は紅葉と岩々の遊戯場のようだ。

 屋根岩パノラマコースに心惹かれる。千曲川上流梓山からの(秘峰?)五郎山にも惹かれる。未だ登っていない金峰山そのものも魅力的だが、ここはいずれまた違った計画で歩いてみたい。などとイメージプランは果てしなく広がっていくのだが、今日は一人で天狗山から男山の縦走である。

 

 昨日の宴会のあとを整理撤収する。そうこうしている間にも快晴の廻り目平でのクライミングを目指して多くの登山者がそれぞれに散っていく。圧倒的に多いのがマットを背負ったボルダリングの人。う~ん、時代は変わった。そうした人たちを眺めていると、さすがに有名人が多いせいか、山本さんや金さんや国井さんなどはあちこちから声を掛けられる。一ノ倉烏帽子大氷柱初登の菊地敏之さん(だったと思うのですが)、お~!この人がそうか。遭対訓練の講師として来ているとか。等々。

 撤収が終われば解散である。この後、近くでクライミングをする人、所用があって早々に帰られる人、のんびり寄り道して帰られる人、さまざまだ。

 私は先日のお話通り、関越道から帰るという打田さんに馬越峠まで送ってもらう。多少は回り道をさせることになるのだろうか。申し訳ないが、ありがたいことである。

 

 天狗山・男山は、山域としては佐久の山である。位置的には八ヶ岳の東、千曲川の右岸一帯を言う。大島亮吉が「佐久の幽巒」と呼んだ御座(おぐら)山が日本二百名山に選ばれているぐらいで、他に多少知られているものとしては茂来山、四方原山、そしてこの天狗山・男山ぐらいのものだろう。30年ほど前に茂来山から四方原山を目指したが、時間切れで四方原山は断念。その夜、麓の民宿に泊まり、翌日御座山に登った。12月で寒かった記憶がある。

 佐久の山と言うのは、八ツや奥秩父、西上州といったはっきりした個性を持っていないような気がする。個人的には、乾いた、中性的で、透明感のある山域といった印象を持っている。そうした強い自己主張をせぬ奥ゆかしさ(?)、さりげなさが佐久の山の個性というか魅力なのだろう。

 

 お土産を買いに打田さんが立ち寄られたスーパーの駐車場から、八ヶ岳東面の全貌が見える。素晴らしい大観だ。沢筋、ルンゼ、リッジ、克明に見える。昔中退した旭岳東稜はどれだ。しばし見とれた。

 

 ↓ スーパーの駐車場から見る八ヶ岳東面 中央赤岳

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 黄葉の白樺林を抜けて馬越峠に着いたのが10:00。ここは標高1610m。1178mのバス停大深山中央から歩けば、馬越峠の少し先で尾根に上がるのだが、2時間ほど楽ができた。私は、本来山はなるべき麓から登るべきだと思っているが、その原則は最近少しずつゆらいできている。今年登った四国剣山も八幡平もそうだった。実際問題、上まで車で上がれるようになっていて、そのルートがまあ妥当と思われるのに、わざわざ無理に下から登るというのもどうなのかとも多少は思う。原則を曲げる気はないが、実際楽なものは楽なのである。

 

 峠には車が6台停まっている。登山道の入り口には馬頭観音と地蔵がたたずんでいる。年記等は見なかった。

 

 ↓ 馬越峠 標識のところが登山口

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 ↓ 峠の石仏

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 登り出せば最初はやや急だが、路はしっかりしている。

 

 ↓ 登り始めはこんな感じ

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 10分ほどで尾根上に乗る。ここから先はもう急登はない。多少広くなったり細くなったりしながら緩やかに伸びる尾根を進む。

 ほどなく右に巻き道を分岐させるが、左に尾根上を進む。このあたりから所々に岩場が出てきて、良いアクセントとなる。ちょっとした所にはロープがセットされ、問題ない。この尾根全体を通して、この時期、おおむね見通しは良いが、特にそうした岩場では好展望に恵まれる。右に「佐久の幽巒」御座山、前方は八ヶ岳から南アルプス北部、左に振り返れば奥秩父金峰瑞牆と、豪華な展望の縦走路である。途中何人かの登山者とすれ違うが、それでも快晴の紅葉期の日曜日にしては予想していたより少ない。

 

 ↓ 「佐久の幽巒」御座山

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 自分なりの快適なペースで進む。昨夜は結構飲んだようだが、幸い二日酔いというほどのこともない。歩き出して1時間ほどで天狗山1882.1mの頂上に着いた(11:15)。峠からの標高差は270m、430mほど楽をさせてもらったのだ。

 

 ↓ 天狗山山頂

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 奥秩父方面だけ木立で見えないが、それ以外は330度の大展望。昨日午前中までの雨のせいか、大気の透明度が非常に高い。西には八ヶ岳が長大な全容を惜しげなく見せ、その手前にはこれから辿る山稜の先に、ポコンと男山が座している。スケールはともかく、それなりにきりっとした山容だ。八ヶ岳と良い対照をなしている。

 左に甲斐駒、北岳、振り返って遠くは浅間連山、最高の展望台である。15分ほど滞在して展望を堪能し、先に進む。

 

 ↓ 遠景は八ヶ岳全貌 手前が男山

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 ↓ 南アルプス北部 右甲斐駒と左北岳

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 ↓ 遠く浅間連山

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 その先もほぼ尾根筋を辿る。時おりの岩場のアクセント。さきほどまで見えなかった瑞牆山の鋸歯状の山容が見える。頂上右下は大ヤスリ岩。手前の送電線が少々目障りだが、やはり良い山だ。

 

 ↓ 瑞牆山 頂上の右の岩峰は大ヤスリ岩

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 ↓ 甲斐駒と北岳をズーム

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 ↓ 天狗山を振り返る。頂上そのものは見えていないか。

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 1時間ほどで垣越山1797mの標識(12:20)。ここはとりたてて言うほどのことはない。

 

 ↓ 垣越山頂上

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 ↓ こんな岩場があちこち出てくる。この先がビューポイント。

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 そのちょっと先の岩場がまた素晴らしいビューポイントで、前山を前景に五丈岩の金峰山から瑞牆山への連なりが美しい絵となって見える。振り返ると天狗山がだいぶ離れてきたことによって、その個性的な姿をあらわしてきた。

 

 ↓ 左金峰山五丈岩から再び瑞牆山

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 ↓ 右天狗山と左垣越山

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 やがて道が北側の山腹を回り込むようになると、ほどなく御所平への分岐に着いた(13:30)。地図(2.5万図)を見ると、男山山頂までまだ少しある。少し疲れも出てきた。一服して遅めの昼食を食べながら、今度は山と高原地図を取り出して見てみると、何かおかしい。この分岐の位置が2.5万図と全く違うのだ。おにぎりをほおばりながら数m進んで見上げてみると、どうもそのすぐ上が頂上のように見える。山と高原地図の通りに。

 またやって(やられて)しまった。2.5万図(や5万図)は地形図なので地形に関しては信用できるが、登山道に関してはかなりの確率で間違っているのは重々承知している。山と高原地図は登山道の位置や情報面では信用がおけるが、多くは縮尺が5万分の1なので、地形が読みにくく、行動中は胸のポケットに入れた2.5万図を見、ポシェットかザックに入れた山と高原地図を見るのはザックを降ろして休憩中というパターンなのだ。本来なら事前に両者を照らし合わせて、道の位置など確認しておくべきなのだが、よく行く山域ならともかく、あまり行かない所ではつい怠りがちになってしまう。

 やれやれ、ともかく昼食を食べ終わって目の前の急登を登れば5分で男山の頂上1851.3mだった(13:50)。できればここで飯を食いたかったが、しかたがない。あいかわらずの大観だが、八ヶ岳にはいくつか雲がかかってきた。10分ほど滞在して下山に移る。

 

 ↓ 男山山頂。大観は同様だが雲が出てきて、光線も少しぼやけてきた。

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 下山は手挽坂という小尾根というか山腹を下る。御所平までは700mほどの下りである。ほどなくカラ松林(植林)となる。落葉しているせいか明るい雰囲気で、案外気持ちが良い。カラ松そのものも意外に美しい。

 

 ↓ 手挽坂のカラ松林。腕とカメラのせいでどうも美しさが再現できない。

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間もなく山道は古い林道に出た。長く車は入っていないようで、歩きやすく、幅広いゆるやかな山道といった感じである。こうした林道歩きにありがちな単調さも、西陽を受けたカラ松や白樺、楢などの黄葉と、時おりの紅葉の織りなす美しさに、あまり気にならない。気持ちよくたんたんと歩を進めるのみである。

 

 ↓ 林道ではあるが、美しい黄葉の中を行く。腕とカメラのせいで…。

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 やがて予想通り、車止めのゲートというか金属製の扉があると、もうその先は舗装道路。時おり振り返りながら、カラ松林を含めた全山紅葉を愛でながら、信濃川上駅に向かった。

 

 ↓ 腕とカメラのせいで…。

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 ↓ 信濃川上駅から男山山頂を見る。

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 今回の天狗山から男山への縦走は、天候その他にも恵まれ、予想以上に良い山行となった。今回の山行は言って見れば偶然の産物である。だいぶ前から「行ってみたい山」リストには入っていたが、アプローチの点などから、実現性はそう高くはなかった。それが今回の立川会の西上州鍬柄山~廻り目平宴会の流れで、思いがけず実現できてしまったのである。企画世話人の、そして峠まで送っていただいた打田さんには本当に感謝します。

 西上州も佐久も久しぶりの山域だった。通いなれた山域も良いが、久しぶりの山域、やはりまだ経験したことのない山域というのは良いものである。さてこれからあといったいどれぐらい、未知の山域に足を運ぶことができるだろうか。

 

 

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【コースタイム】2018.10.28(日)快晴 単独

馬越峠10:00/10:10~尾根上に乗る10:22~巻道分岐10:42~天狗山11:15/11:25~垣越山12:20~御所平分岐13:30~男山13:50/14:00~舗装道路15:40~信濃川上駅15:55/16:43発

レジェンドたちと登った西上州・鍬柄山 (2018.10.27)

【初めに:私は山行のブログにおいては、同行者の氏名は原則仮名としている。しかし本稿ではプロとして活躍している、または活躍していた人、あるいは著書のある人については実名で記す。そうしなければ「レジェンド」の所以がわからないからであり、彼らの活動の軌跡は本名で発表されてきているからである。以上の条件に当てはまらない方のみ仮名で記す。】

 

 

 ここ数年、年に二三回ぐらいのペースで立川会という名の飲み会に参加している。これは『岳人』の編集をされていた山本修(註1)さんが退職されたのを機に、気のおけない知り合いだけで時々集まって一杯飲みましょうという、ごくゆるいプライベートな集まりである。

 (註1)山本修二さん そう言えば正確な年齢は知らない。私より多少年長。長く『岳人』の編集をされていた。板橋勤労者山岳会所属のオールラウンド山屋。編著書に『岳人備忘録』(2010年 東京新聞 *面白く、素晴らしい本です。日本現代登山史の第一級の資料。)等、多数。

 

 私と山本さんの縁は、20年以上前、1995年から2年間『岳人』誌上に「山書彷徨」という、山に関する書物についての連載をしていた時の担当者だったことにさかのぼる。当時所属していた浦和浪漫山岳会の月報に断続的に掲載していた拙文に目をとめ、『岳人』への連載を要請されたのである。連載終了後、数年の間をへて『山書散策』として東京新聞出版局から単行本化された。

 それを機にというか、山書への執着も少し熱が冷めたというか、何よりも本業の大学教員としての多忙な仕事と、制作の両方に追われ、山に行く機会も減り、山岳会とも縁が薄くなった。その間、山の本についての執筆依頼も何度かはあったが、本業と制作に集中するためにほとんどの依頼は断り、いつしかそちらの世界との縁も切れた。やはり自分が積極的に山に行かなくなると、山の本に関する情熱もなくなるというか、薄れる。私は本質的には、山書に限らないが、コレクターではないのである。

 したがって以後の20年近く、ほんの淡いお付き合いしか無かったにも関わらず、ある日立川会に誘われた。そしてノコノコ行ってみたら、その顔ぶれの豪華さにびっくりしたのである。有名度合いはともかく、アルピニスト、ヒマラヤニスト、クライマー、ガイド、ライターばかりのそうそうたる顔ぶれではないか。せいぜい元:三流沢屋、現:ほぼ無名の画家(元大学教授とか博士という肩書は、この会に限らないが、ほとんど無意味)という貧弱な肩書しかない私としては、当初は必ずしも居心地の良い場とは言えなかった。なぜ私に声がかかったのかは、今でもよくわからない。

 しかしそれはそれとして、それぞれのお人柄もあり、話の内容も興味深いものが多かった(最先端のクライミングあたりになると、知らないというか、理解できないことの方が多かったが)。私は決して有名人好きのミーハーでないが、本や雑誌でしか知らなかった有名人・レジェンドたちと場を共にするのは、やはり大した体験である。そうした人にはやはり特有のオーラがある。

 

 9月の初旬だったか、そのメンバーの一人の打田鍈一さん(註2)から「国井さん(註3)と山へ!! 立川会親睦山行」というメールがきた。その前の暑気払いの飲み会には欠席したのだが、その時にでも話が出たのだろうか。

 

(註2)打田鍈一さん 1946年生まれ。名刺には「低山専門 山歩きライター」とある。著書に『ハイグレードハイキング』(共著 1993年 山と渓谷社)、『新分県登山ガイド 埼玉県の山』(山と渓谷社)、『藪岩魂』(2013年 山と渓谷社)、『山と高原地図 西上州』(昭文社)。ほか山岳雑誌に執筆多数。

 

(註3)国井治 1944年生まれ。徒歩渓流会。エベレスト南壁隊隊員、ヌプツェ北西峰初登頂、ナンガパルバット隊隊長。ウィランス・シットハーネスやEBシューズを日本で初めて輸入販売し、のちに登山用品開発会社マジックマウンテン設立。著書に『ザ・ロング・トレイル 登山用具と人と五十年』(2017年 山本修二さん編集 株式会社マジックマウンテン)。

 

 立川会というのは、本質的にはゆるい飲み会である。登山を軸とする会ではあるが、個々間ではともかく、全体としてみんなで一緒に山に行きましょうという雰囲気には、ちょっとなりにくい場なのである。そうした場で、仕切り上手で積極的な打田さんが、最近顔を出されるようになった、現在は実質的に山屋を引退されている国井さんをどう口説いたのか知らないが、こうした企画が出てきたのはちょっと驚きだった。

 当初は何人参加するのかもわからなかったが、場所が西上州鍬柄山と知って、参加を表明した。

 西上州は昔から好きな山域であり、その意味で打田さんの著書もガイドブックもよく読んでいた。しかも、西上州は距離的にはさほど遠くはないが、車を運転せぬ私としてはひどく不便で行きにくい山域だったこともあり、ぜひこの機会に久しぶりの西上州を訪れたいと思ったのである。

 そうこうしているうちに参加者も増え、その夜は奥秩父廻り目平で宴会、山小屋泊まりと、プランが広がっていった。うまくすれば二日目に近くの山に登れるかもしれない。打田さんに電話してみると、二日目の朝、所用で早めに帰るので途中の登山口馬越峠まで送って下さるという。久しぶりのラッキーな展開である。

 

10月27日(土)

 朝6:45東飯能駅に集合。4時過ぎには起きなくてはならない。結果、ふだんにもまして少ない2時間ほどの睡眠…。

 ともあれ駅で金邦夫さん(註4)とT島さん(註5)と一緒に、駅前で待っていていただいた打田さんと合流。打田さんの車で下仁田の道の駅に向かう。まだ雨は少し降っている。

(註4)金邦夫さん 1947年生まれ。アルピニスト。元警察官で長く奥多摩山岳救助隊副隊長。著書に『奥多摩登山考』(2002年 東京都公園協会等)、『金副隊長の山岳救助隊日誌』(2007年 角川学芸出版)、『すぐそこにある遭難事故 奥多摩山岳救助隊員からの警鐘』(2015年 東京新聞)。最近は某宮家の登山に同行というかガイド(?)などもされているようだが、詳しくはオフレコとの由。

 

(註5)T島さん 1960年生まれ。オーケストラ指揮者、某音大等の講師。本人曰く、指揮を始めるより岩登りの方が早かったとか。今でもクライミング、それも単独登攀やアイスクライミングを中心に実践しておられるクライマー。

 

 道の駅に着くころには雨も上がり、なんとかなりそうだ。他のメンバーも続々と集まってきた。山本さん、国井さん、川村晴一さん(註6)、T田さん(註7)、Iさん(註8)、Kさん(註9)、S(娘)さん(註10)、S(母)さん(註11)、計12名の大部隊。

 

(註6)川村晴一さん 1947年生まれ、元山学同志会。ジャヌー北壁初登、エベレスト無酸素登頂(日本人初)、K2北稜登頂、カンチェンジュンガ北壁初登、等。ヒマラヤはすべて無酸素。8000mの上で煙草を吸われたそうである(本人談)。本人の著書はないが、『北壁の七人』(小西政継)、『精鋭たちの挽歌』(長尾三郎)等に登場している。前掲の山本さんの『岳人備忘録』でも山本さんがうまく心情を引き出されている。私が高校生の頃の何年間か『山と渓谷』の表紙モデルをされておられ、それが実にカッコよかった。

 

(註7)Tさん 41歳、現役クライマー。某山岳会所属。立川会会員の、これもまた間違いなくレジェンドの一人である池田功さんの経営される造園会社に勤務していたが最近独立されたとか。会うのは確か今回で2回目か3回目、お話しするのは事実上初めて。

 

(註8)Iさん 茨城県在住。軽トラで遠路来られた。徒歩渓流会で国井さんの少し(?)後輩だと言われるから70歳前後(?)。今も毎週のように山歩きされているとか。私とは初対面。仕事の都合で初日のみ参加。

 

(註9)Kさん 山梨県在住で元蒼山会会員。国井さんの友人(?)。現在も幅広く山登りされておられる由。私とは初対面。私よりちょい年上の、ちょっと不思議な雰囲気の女性。

 

(註10)S(娘)さん 20代後半?30代前半? 沢でT田さんに、日和田でT島さんにナンパ(?)されて立川会に参加。クライミングも沢も志望とのことだが仕事がら山行パートナーが見つからず、お母さんと山に行っているとのこと。

(註11)S(母)さん 私とは初対面。もともと山は歩いておられたようだが、最近は山に目覚めた娘さんに乞われてあちこち同行されているとのこと。中の良い親子である。

 

 駐車場からは、これから向かう鍬柄山がガスを通してぼんやりと見える。風景としては水墨画のようで、それなりに美しいが、鍬柄山そのものは茫洋とガスった大桁山の中腹手前にポコンと飛び出した突起というか、コブのようだ。

 

 ↓ 道の駅から見る鍬柄山 後ろは大桁山

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 終結した計12名全員を知っている人はたぶん誰もいない。簡単に自己紹介とあいさつを交わし、車に分乗し、登山口に向かう。

 単線の上信電鉄を横切り、林道(関東ふれあいの道)を少し行けば、車4台ほどが止められる駐車スペースがある。目の前には鍬柄山がいかにも岩峰といった面持ちで、頭を出している。

 

 ↓ 駐車場から見た鍬柄山

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 ↓ 参考:別の角度から見る鍬柄山 (ネット上で拾ってきた画像)

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 山仕事をしていた地元の方に少しスペースを譲っていただいて、歩き出す。雨は上がっている。ほんの少し戻ったところに登山口の標識。植林の中を登る。

 

 ↓ さて出発 すぐ先が登山口

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 ↓ 登山口 左のオレンジのヘルメットが国井さん 

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 中にお社がある。鍬柄山阿夫利大神と記された巨大な木刀が掛かっている。天井裏にはたくさんの木刀が奉納されている。

 

 ↓ 阿夫利神社

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 鍬柄山は別名石尊山とも言われるとは知っていたが、石尊?阿夫利神社?この関係は?と不思議だったが、帰宅後調べてみると、「石尊権現(せきそんごんげん)は、大山の山岳信仰修験道が融合した神仏習合の神であり、不動明王本地仏とする。神仏分離廃仏毀釈が行われる以前は、相模國 雨降山大山寺から勧請されて全国の石尊社で祀られた。(ウィキペディア)」とあって、納得した。丹沢の大山は別名阿夫利/雨降山であり、雨乞いの山でもある。

 

 登り始めて30分ほどで尾根上のちょっとした広場に出た。これからの岩場の登りと頂上からの懸垂下降に備え、ここでザイルを用意し、ハーネスを着ける。

 

 ↓ 岩場手前の肩の広場で

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 ↓ 川村晴一さんのザイルさばき 思わず見惚れるほど流麗である。

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 今回の山は岩峰とは言っても、地元の人が毎年総出で参詣のため登られているとあって、鎖などが整備されており、所要時間もさほどかからないということで、オプションとして、下山は反対側の岩場を下降しようと打田さんが提案されていたのだ。ハーネス?そういえば沢登りをしていた頃もっぱら使っていたのは、いわゆるウエストベルトである。確かシットハーネスも登攀的要素の強いルートでは使っていたが、ザイルを使う山行を事実上やめて以来、とっくに捨てている。まあ、懸垂下降だけに使うのであればウエストベルトでも差し支えあるまいというか、耐用年数はとっくに過ぎているだろうが、それしかないのだから。

 

 ↓ 岩場取り付き手前

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 ↓ 岩場取り付き

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 そこからすぐ先が岩場の取り付き。久しぶりということで、国井さんとS(母)さんのみアンザイレン。前後を、それこそ超ベテランが確保して登る。実際には岩場全部に鉄鎖が設置されていたのだからほとんどその必要はないようなものだが、そこはまあお互いの現状の力量もわからぬこととて、安全第一である。

 

 ↓ アンザイレンされたS(母)さん

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 岩場もそれほどのスケールがあるわけではない。人数も多いせいで少し時間もかかるが、その分のんびりと景色を楽しめながら登れた。

 

 ↓ 岩場中ほどのビューポイント

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 ↓ ビューポイントで撮影中の打田さん

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 いったん祠のある頂稜部に出ると、そこから目と鼻の先にある頂上までの間がやせた岩稜。気持ちが良い。ここにも真新しい鉄鎖が付けられている。ということで、あっという間に頂上。標高は低い(598m)が360度の大展望。小粒だがピリッとした気持ちの良い山頂である。残念ながら鹿岳・四ツ又山や荒船方面は雲がかかって見えない。

 

 ↓ 頂稜のやせた岩稜 目の前が頂上

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 ↓ 下仁田から鏑川流域をのぞむ

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 ↓ 頂上の祠と国井さん

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 ↓ 山本さんと一緒に

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 ↓ その先にも三つの祠がある。良い感じ。

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 私などが展望を楽しんだり、軽くものを食べている間に、クライマーたちは下降予定の岩場を偵察している。クライマー、沢屋(私)、藪屋(打田さん)の考える下降の仕方、懸垂下降の技術論がそれぞれ微妙に違っており、面白い。とはいえ、まだ力量もわからぬ初対面のメンバーもいるということで、結局大事をとって往路を戻ることになった。それはそれで納得。

 

 ↓ この先が下降予定の岩稜というか、壁。手前のブッシュで支点としては充分だと思うのだが…。確かにそうすると長さがね…。

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 いったん基部の尾根上の広場まで降りて、希望者数名で、下降を予定していた岩稜の基部まで行ってみた。見上げれば、やはりかなり切り立っており、今回の懸垂中止は妥当な判断だったようだ。

 

 ↓ 下降予定の岩稜の基部。う~ん、確かにまあ…。

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 そうこうしているとその反対側の尾根からぞろぞろと人が降りてきた。大桁山から下りてきて、これから鍬柄山に登るという。老若男女交えて約20名ほどの団体。どこかの市民ハイキングでもあろうかという風情である。

 下りはあっという間である。かくて普通であれば2時間足らずの山をゆっくりと楽しんだ、豪華な山行は終了した。

 

 ↓ 駐車場から青空を背景に再度鍬柄山を見る。

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 ↓ ズームすると、こんな感じ。左の影のところの下から右上に斜上。頂上は左のピーク。

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 いったん道の駅に戻り、打田さんおすすめの食堂で昼食。その後、昭和の色合いを濃く残す路地を歩いて、名物のコンニャク屋に寄る。ここでIさんのみ仕事の都合で帰宅され、他は今宵の宿、奥秩父廻り目平に向かう。

 

 ↓ 昭和の色合い。「撞球場」などと書かれた店(廃屋)もあった。

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 西牧川沿いを行き、内山峠では車を止めて荒船山艫(トモ)岩を眺める。なかなかの絶景である。突然、S(娘)さんが「岩壁に星がある!」と言う。よく見ると確かに岩壁の左側に星形が見える。ズームして撮影してみると多少形は崩れるが、やはりそのように見える。いわゆるゲシュタルト反応というか、無秩序な偶然の状態の中にある意味をもった形体を見出す(「だまし絵」などがその一例)ということなのであるが、それはそれで面白かった。それを見出し面白がるS(娘)さんの詩的感性に感心。

 

 ↓ 荒船山・艫岩 確かに軍艦の舳先のようだ。左の影との境のリッジに星が見えますか。

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 ↓ ズームすると星形が見える。

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 その後佐久に出て、小海線沿いから川上村廻り目平に向かう。この辺りは、昼間は初めて、あるいは実に久しぶりに目にする景色。西日をあびて紅葉の山々が美しい。と思っていたら、Kさん曰く、長野県の人は、長野県の山はカラ松(唐松 落葉松)の植林ばかりでつまらないと言われるとのこと。そうか、素晴らしい紅葉(黄葉)だと見入っていたら、植林されたカラ松の黄葉だったのである。とはいえ、一年中ほとんど変化することのない暗緑色の植林=杉檜に馴染んでいる吾々からすれば、確かに人口林、植林ではあっても四季の変化に対応して新緑から夏の緑、そして黄葉から落葉へと遷り変わるカラ松は十分に自然の一部として美しく見えるのである。風土性というか、認識の違いというのは面白いものだ。

 

 ↓ 残照に映える御陵(おみはか)山

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 廻り目平に近づくと前方に怪異な岩峰群が現れてくる。あれが屋根岩かと思うが、車窓からは撮影の余裕もない。素晴らしい白樺林の黄葉とその間に点在する紅葉。メンバーのほとんどの人にとっては単なる見慣れたアプローチにすぎないのだろうが。もっとゆっくりと鑑賞したいものだが、今回は仕方がない。ほどなく廻り目平に到着。

 

 ↓ 廻り目平から見る屋根岩。もっと手前でカッコ良く見えたのですが、撮影できませんでした。

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 ↓ 廻り目平の紅葉。これももっと少しきれいな場所があったのですが、あっという間に暗くなってしまった。そして何よりも私の腕とカメラではあの素晴らしさは再現できません。わが心に残るのみ。 

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 素晴らしい紅葉である。私がこれまで見た紅葉の中でも間違いなく一番である。残念なことに秋の日は釣瓶落としで、雑用に追われているうちにあっという間に暗くなってきた。

 

 ↓ さて宴会準備。続々とクライマーたちの車がやってくる。圧倒的に多いのはボルダリングの人たち。

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 早速、宴会の準備。流儀は違ってもベテラン揃い。焚火に大鍋をかけ、おでんが煮える。あっという間に準備は整い、宴会に入る。楽しい宴会はその後、金峰山荘の部屋へと二次会の場を移し、23時頃まで続いたのであった。

 

 ↓ 歩行距離が短すぎて赤線がさびしい。

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【コースタイム】2018.10.27(土)曇りのち晴 

 *あまりちゃんと記録をとっておらず、不正確です。

林道駐車スペース9:10~尾根広場ハーネス着装9:55~頂上598m~尾根広場~西側岩稜基部往復~阿夫神社12:20~林道駐車スペース12:25