艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

「梅雨の合間の漆伐採ボランティア」

 

 梅雨の合間を見計らい、昨日今日と、頼まれて、漆の木の伐採ボランティアに行ってきた。

 場所は都内某所。いわゆる山上集落の一つだが、その中でも道路の通じていない、本来徒歩以外に交通手段のないところ。山道を歩けば三十分ほどだが、現在は村設のモノレールが設置されている。

 

 ↓ 山道の一部はモノレールの軌道と並行している。部分的にはかなりの急勾配のところもある。

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 集落の起源は知らないが、だいぶ古いようで、250年前に分家が一軒増えて、以後はずっと二軒。そのあたりの歴史というか、人々の暮らしを思うと、何か感じ入るものがある。

 限界集落をとっくに終了して、何年間か人が住んでいない時期があったが、3年ほど前に、私の女房の友人Hさん(女性)がそこを買い取って移住した。築250年以上の家だから、そのまま住むのはやはり難しく、現在は敷地の一画に小さな家を建てつつ、一人で暮らしている。熊や猪や鹿や猿や狸が出没するところに、犬と猫と羊と鶏と共に。

 

 ↓ 現在の母屋。昔は茅葺の兜造りだったが、今はトタンで葺いてある。二階?三階はお蚕部屋。左奥の一画に新居を建てている。

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 ↓ 参考図版:正確にはわからないが、20年以上前の写真。まだ住人が元気で畑作をしていた頃のもの。『檜原村賛歌』(石塚岩男 2006年 八朔社発行)より。

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 以前から時おり頼まれて、藪の刈払いやら、家の内外装の手伝いやら、薪つくりやら、スズメバチの巣の駆除やら、体調不良時の緊急食糧ボッカ(歩荷=担ぎ上げ)やらに通っている。今回頼まれたのは、昔の畑だった斜面(今はススキがはびこり、猪のねぐらと化している)に生えている漆の木の伐採と撤去。

 Hさんは基本的には何でも自分でやるたくましい人なのだが、けっこう過敏体質で、とりわけ漆には弱く、それが原因で、救急車で運ばれた実績がある。かくて、やむをえず私にお鉢が回ってきたということだ。

 そういう私はと言えば、つい四カ月前のミャンマーで仏像に金箔を貼る際の漆にかぶれ、そこそこのダメージを負ったばかり。大丈夫なのか。しかし、ミャンマーの漆は日本の漆とは品種が違うと聞いていたし、液体になった漆だったのである。今回扱うのは木そのもので、これまでの経験からして、まあ大丈夫だろうとは思う。多少かぶれても、そう大したことにはなるまいと高をくくる。とにかく頼まれたからには引き受けざるをえない。

 

6月29日 

 武蔵五日市駅発10:30のバスで1時間。そこから山道を登り(途中にある一軒家の廃屋や住居跡などを観察しながら)、体力の衰えを実感しつつ、30分ほどで到着。早速仕事に取り掛かる。

 

 ↓ 途中で見かけた下の方の廃屋。道路はない。いつ頃まで住んでいたのだろうか。

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 作業ズボンに長袖シャツ。頭部は手ぬぐいハチマキに帽子と防虫ネット(これは途中で必要なしと判断し、やめた)。足まわりはスニーカー風地下足袋。手はゴム軍手。得物は、左腰に鉈、右腰に剪定用鋸、右手に鎌といういで立ち。

 

 ↓ 今回も活躍してくれた愛用の鉈。秋田のマタギ用の、剣先鉈というのだったか、槍先にもするという実用品。30年ほど前に知り合いの勧めで秋田の鍛冶屋に特注したもの。

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 密生するススキはともかく、そこかしこにある野茨、木苺、アザミと、棘のある草木が邪魔をする。繁茂する藤蔓や蔓草が鬱陶しい。そんな斜面のあちこちに生えている漆の木を、汗だくになって伐る。

 

 ↓ 昔は畑だった斜面。これは伐採した後の写真なので、漆の木は見えない。手前は自然農法の自給自足の畑の一部。電気柵が張り巡らしてある。

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 漆の木はさくい(脆いというか弱い)木質なので、伐ること自体は難しくない。だが、伐っただけでは済まない。漆に対して異常に弱い彼女のために、それを離れた安全な場所まで引きずり上げ、移動しなければならない。これが結構たいへんで、全身の力を使う。

 ヤワな絵描きである私に何ということを頼むのだろうと思うが、こうした肉体を酷使する作業はそう嫌いでもない。むしろ、淀んだ心身を無理やり浄化してくれる。とは言え、実際問題、疲れる。休み休み、おおよその漆の木を伐り終えたと思われるあたりで、本日の作業は終了。

 新居のシャワーを浴び、着替え、持参(Hさんはアルコールも駄目)のビールを飲み、ものを食べる頃には、慣れぬ早起きと肉体労働ですっかり眠くなり、早々に母屋に引き下がる。いつものように開け放った築250年の広い部屋に一人横たわれば、寝袋に入る間もなく一瞬で寝入ってしまった。

 

 ↓ 写真には写っていないが、左にはぶっとい大黒柱がある。この近辺の古来からの伝統的な間取り。

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6月30日

 翌朝も何とか雨は降っていない。昨日ほぼ全て伐り終えたつもりでいても、異様に漆に対する感度の強いHさんの目はごまかされない。指摘された個所をよく見ると、確かにそれらしき、しかも大木が何本も伐り残されている。ということで、本日の作業は自動的に昨日の続き。またひとしきり大汗をかいて、なんとか今度こそ、すべて伐採、移動完了。

 

 終わったころからぽつぽつと雨が降り始め、以後天候悪化との予報。今回はここまでとし、下山することにした。女房に頼まれた、途中に生えているクロモジの小枝を採るために、今度はモノレールで降ろしてもらう。クロモジはお茶にするためである。

 来るときにも見た、少しずつ離れた場所にある二三軒分の廃屋や屋敷跡、共同作業場の跡などを見ながら、今は杉の植林で覆われている一帯もかつては畑作をしていたなどと、興味深い話を聞いた。

 

 迎えに来てくれた女房の車で、帰途にある石仏をニ三か所、大急ぎで撮影。瀬音の湯で汗を流して帰宅した。

 

 ↓ 帰途の下川乗の路傍にあった石仏群。大小8基の石仏が並んでいる。

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 日々アトリエでの制作が私の人生というか、日常ではあるが、時々は山に身を置きたくなる。ふつうは、それは登山なのだが、こうした肉体労働を伴うHさん宅での一日二日も悪くはない。山上の古民家滞在ということも良いし、またハードな山林作業もたまには良いものだ。絵を描くという形而上学的世界の中に、時おりはこうした肉体労働の要素も入り込まなければ、どこかで何かが嘘になると思うのである。

 

 ↓ 家から少し離れたところにある墓地。代々の墓石の面は長い年月、子孫の住む家を見守っている。

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(記:2020.6.30)

 

 

 

 

裏山歩きか石仏探訪か―天竺山・石山の池、大悲願寺、その他(2020.6.23)

 梅雨入りした。一年で最も苦手な季節だ。

 裏山歩きはこの時期、最も辛い。藪は繁茂し、風は通らず、蒸し暑い。おまけに蜘蛛の巣だらけ。ヤブ蚊もいるし、ダニもいる(らしい)。しかし、運動はしなければならぬ。ウォーキングではもの足りない。裏山でもよいから、山を歩きたい。もっと高い山に行けばよいのだが、諸般の事情(主に生活習慣の問題)から、そうもいかない。ということで、不快指数90%の裏山歩き+石仏探訪。

 

 自宅から歩いて、20分で三内神社。そこに至るまでの、いつも歩いている路傍に、庚申塔を2基(再)発見。次いで小さな木の祠も見るが、併設された石祠と共に、正体はわからず。と、かくのごとく、それまで気づかなかった、あるいは無視してきたいろいろなものを見出すが、先を急ぐ。

 

 ↓ 三内川を見下ろす。ほとんど知られていない、今はほとんど使われていない鉄の橋が架かっている。

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 線路を渡り、御岳神社の小祠を右に見て、石段を登れば、三内神社。ここはやや迫力のある狛犬二体のほかはさほど見るべきものはない。

 

  ↓ 三内神社

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 裏に回れば、2基の石祠が稲荷社。かたわらに「□(読めず)石稲荷大神」と刻まれた石碑。これは『あきる野市の石造物』には出ていない。そのすぐ上の木の祠は金毘羅宮

 

   ↓ 三内神社の裏奥の稲荷社にある石碑 最初の一字が私には読めない。

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 山道(表参道)を辿り、尾根に出て、一部崩れかけた趣のある伊奈石の階段を登れば、天竺山山頂(三角点なし310m圏)で、三内神社本社がある。山頂はまた少し伐採され、その材を使った椅子やテーブルが設置されていた。

 

   ↓ 伊奈石で作られた石段。崩れかけが良い味を出している。

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   ↓ 天竺山山頂=三内神社本社

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   ↓ 一応、天竺山山頂。あきる野市から梅雨空の都心方面をのぞむ。

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 そこから今日の課題の一つである、石山の池に向かう。室町時代ごろから採掘されていたという伊奈石の採掘場跡が、すり鉢状の底にわずかな水をたたえている。ここはいつ来ても大体こんな陰気なふんい気だ。一見浅い窪みのように見えるが、周囲の崖を見ると、そうとう深く掘り下げられたことがわかる(註1)

 

    ↓ 石山の池。いつも陰気です。

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    ↓ 石山の池に残る矢穴(楔打ち込み用)。以前に風化剥離防止措置を施したことがあるそうだ。

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 側壁の一部には割り出す時の矢穴(楔を打ち込むための穴)が残っている。この遺跡や伊奈石全般については、地元に「伊奈石の会」というのがあり、長く研究調査保存活動等をされておられるが、この矢穴跡にも風化剥離防止剤を塗布するなどの保護に努められているそうだ。最近、そこの会誌を三冊ほど入手し、面白く読んでいる。

 彫り出された石材は、需要に応じて、この地でおおよその形に整形された。池の前後には、整形後の石屑によって、小広いスペースが形成されている。その一角に「山の神」が置かれている。

 

    ↓ 山神社 彫の鋭い良い味。

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 荒く整形した細長いかけらに単純に「山神社」とだけ鋭く刻み込まれている。年記等もなく、いつ頃建立されたものかわからない。だがそれがあるだけで、かつてここで働いていた人々や、それによって作られた様々なもの、人々の暮らしなどが一挙に現実的なものとして思い浮かべられるような気がする。ちょっと傾いていたのを直しておく。

 (註1):「『新編武蔵風土記稿』には「信濃國伊那郡より石工多く移り住みて専ら業を廣くせし故に村名となせり、天正十八年(*1590年)御入国の後、江戸城石垣等の御用をつとむと云えり」とあるが、すでに12世紀には伊那から来住・開発し、伊奈石は多摩地域に流通していたとの神社の記録もある。伊奈石は硬質粗粒砂岩。加工しやすく、石碑、石仏、五輪塔、また石臼などとして利用された。」(コース NO.42横沢入から横沢丘陵、武蔵五日市駅 多摩百山/公益社団法人 日本山岳会東京多摩支部  http://www.jac-tama.or.jp/tama100.jac-tama.or.jp/course/course_42.html より)

 

 いったん天竺山まで戻って西側尾根を辿る。

 

    ↓ 天竺山から横沢入西側尾根、そして南側尾根へ。こんな感じで、山歩きの面白みは特にありません。私は嫌いではありませんが。

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 尾根が東に曲がるあたりの小ピーク(270m圏)でうっすらと記憶にあった祠(愛宕神社奥の院)を確認。現在は新しいコンクリート製のものだが、その後ろに古い「石祠」の残欠が放置されている。

 

    ↓ 今はコンクリート製に変わった愛宕神社奥の院

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    ↓ その後ろに放棄された古い伊奈石製の祠の残骸

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    ↓ 塔身に残る(雪中?)筍掘りの浮彫。風化は進む。

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 見ればその塔身(祠)には素晴らしい絵(浮彫)がほどこされている。前回何年か前にはその絵があることに気づかなかったのだろうか。あるいは見落としていたかもしれない。「信州石工森屋市之丞作」との由(註2)

 

    ↓ 同じく「松の木の下で巻物を見る少女(?)」の浮彫。本当に良い味。

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 だが「松の木の下で巻物を見る少女(?)」の絵がわからない。「筍掘り」が「雪中筍」のことだとすれば、「二十四孝」かと思って、ざっと当たってみたが、どうもこの絵に該当する話が見えない。せっかくだから、この絵の意味するところを知りたいものだが…。

(註2):『あきる野市の石造物』(平成24年 株式会社ダイサン:編集 あきる野市教育委員会発行 p.257) なお同書掲載の図版と比べると、今回見たものはさらに風化剥落が進んでいるように思われる。このように完全に新しい祠が再建されて放置されているのだから、この素晴らしい残欠部分だけでも五日市郷土博物館にでも収蔵保存してほしいものだ。)

 

 さらに進み、右手に大悲願寺の墓地への分岐を見送って、もう少し行った先にポツンと小さな石碑を見つけた。

 

   ↓ 「金毘羅神石」の碑。二つに割れていたのを据え付け直して撮影。石碑も壊れ、風化する。滅びないものはない。

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 二つに折れて文字面が見えなくなっていたが、持ち上げて積み直してみれば「金毘羅神石」の文字塔である。何年か前に確か見たことがあるような気がしてここまで足を伸ばしてみたのだが、やはりあった。三内神社の奥にあった金毘羅宮奥の院にしてはいささか意味の分からない場所だが。また「金毘羅神石」という表記もあまり見かけないように思うが、まあ、わからないことはわからないままで良い。

 

 いったん先ほどの分岐まで戻って、大悲願寺の墓地に下りる。そのまま境内の中の古い墓地域と観音堂(無畏閣)の周りをゆっくりと見て歩く。前回はサラッと見て気がつかなかったいくつもの石仏を新たに発見する。「五輪地蔵」も珍しいもののようだが、立派な解説板が設置されている。

 

   ↓ 大悲願寺境内墓地内の五輪地蔵。舟形光背に五輪塔が刻まれている。若くして京都智積院で修行中に早世した愛弟子を悼んで建立した墓石とのこと。寛延元年/1748年建立。

しかし、よだれかけや帽子はなるべく施さないでほしいものだが…。

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 私は石仏には興味があるが、墓石となると、やはりあまり良い気はしないというのが正直なところ。だが、いわゆる「石仏」には、特に「古い形式の墓石」が含まれることがあるのは時代の変遷の中でやむをえないことなのである。場数を重ねてくると、慣れてきて、鑑賞には差し支えなくなってくる。無縁墓石の集合という感じで前回はあまりよく見なかった「無縁塔」をじっくり見てみると、小型の五輪地蔵や如意輪観音馬頭観音などの、良い味のものをいくつも見出すことができる。

 

    ↓ 無縁塔にある如意輪観音3基と右下、聖観音(?)。墓石だったようだ。

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 中に一つ不思議なものを見つけた。四角い一つの石に二体の像が刻まれたものである。一瞬双体道祖神かと思ったが、見慣れたものとは違う。

 

    ↓ 一つだけあった双体像。双体道祖神へとつながる両親を供養した祠内仏だったのか。

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 帰宅後調べていたら田中英雄『東国里山の石神・石仏系譜』(2014年 青蛾書房)の中に、「祠内仏は道祖神の原型か」というのを見つけた。夫婦一体像≒二尊仏⇒双体道祖神という論考で、まだよく理解しきれてはいないのだが、そうした種類のものであるようにも思われる。檜原で別のタイプの双体像(首だけのもの)を見たことはあるが、それをのぞけばこの近くでは見たことがない。これからの研究(?)が楽しみである。

 

一通り石仏系を見たのち、久しぶりに観音堂(無畏閣)の彩色欄間彫刻や、山門の天井画などを見る。

 大悲願寺そのものは源頼朝の命による建久2年(1191)の創建だが、観音堂は1794年の建立で1824年以降に欄間彫刻を追加。共に内部は見たことがない。そういえば本堂やその周辺もまだほとんど見たことがない。そちらはなんだか現在営業中の寺という感じがして、足が向かないのだ。

 ともあれ、2005~2007年の修復工事で観音堂の欄間彫刻も彩色され直された。完成当初はキンキラでいかがなものかと思ったが、すっかり落ち着いてきた。アジア各地域の地獄絵などと比較して見る。

 

     ↓ 観音堂(無畏閣)の彩色欄間彫刻。嘘つきは舌を抜かれ、左で釜ゆでにされる。

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      ↓ 同じく、三途の川の奪衣婆。左は地蔵。

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 その後ろにももう一つ御堂があり、浮彫の施された小堂があったが、正体はわからない。

 

      ↓ 小堂には何の説明もなく、格子戸には南京錠。鳥居と御幣があるからには神道の祠だと思うが。

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      ↓ 同上。側面の浮彫。格子の隙間から苦労してズーム。

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 楼門(仁王門)は1613年に建てられ1669年に再建。格子天井には四季の花が描かれており、少し味がある。作者は幕末の絵師・藤原善信と森田五水とのことだが、詳しくは知らない。 

 

      ↓ 大悲願寺の山門=楼門。

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    ↓ その天井画。納札がべたべたと貼られているのが痛ましい。今でもやる人がいるが、文化財の破壊だ。やめて欲しい。

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     ↓ 一格子ごとに四季の花が描かれている。これは水仙

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 やれやれ、充分満腹した気もするが、帰りがけの駄賃とばかり、近くの愛宕神社に足をのばす。踏切手前を右にということだったが、どう見ても私有地の畑の一画。意を決して進めばすぐ右手にコンクリートの階段があり、未舗装だが立派な車道が通っている。すぐ先に愛宕神社はあった。神社そのものにはあまり見るべきものもないが、入口にある杉の巨木(市指定の保存木)の根元に、小さな石祠2基に挟まれた山の神の碑があった。おそらくどこか別の場所にあったものが移されてきたのではないかと思う。

 

     ↓ 愛宕神社奥の手前。二つの石祠に挟まれて山の神が傾いでいる。右の巨木は指定保存木(?)。

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    ↓ 梵字種子は馬頭観音金剛夜叉明王を表すが…。どの系統だろう。

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 一部に割れと剥落もあるが、「梵字種子(ウーン) 山神 □境」の刻字が読み取れる。うん?山の神に梵字種子?山の神の出自というか分類はだいぶややこしく、種類系統も多いのだが、ざっくり言えば、「神」なのだから神道系である。梵字サンスクリット文字)種子は仏教の如来・菩薩・明王・天に対応するもの。神仏習合時代の名残かとも思うが、それ以上は不勉強でよくわからない。ちなみにこの種子はフォントがないので表記できないが「ウーン」と発音し、馬頭観音金剛夜叉明王を表すものとのことである。

 

 さて、さすがにもういい。と言いつつ、帰路も大悲願寺手前で右に急下降する石段を下りる寄り道をして、淡い記憶の陰に埋もれていた「廿三夜塔」を再発見。さらに帰路にあるいくつかの石仏を再確認しながら、ようやく自宅に帰り着いた。

 

    ↓ 廿三夜塔。元治2年(1865年)建立。廿三=二十三。二十三夜の月の出を待ちながら、念仏を唱える。後世には信心から歓談、会食といった娯楽の場に変容していった。

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 普通なら1時間半程度の行程だが、撮影したり、鑑賞したり、探索したり、考察したりで、その倍の時間がかかった。何度も歩いているはずの途中の行程でも、今まで気づかなかった、目に入らなかった石仏やらあれこれに気付く、発見するところがあり、なんだか、楽しかったような気がする。

 

 しかしそれはそれとして、やはり裏山歩きは秋から春にかけてのもの。石仏探訪もそうだ。だんだん爺くさい趣味にハマっているとは思うが、それそれでまあ、良い。しかし、私の「山登り」はどこに行ってしまったのだ…。 

                             (記:2020.6.24)

小ペン画ギャラリー 5-「蝶」

 「蝶」を描いた小ペン画、5点。

 

 あらゆる動物、植物、鉱物といった自然の存在が不思議で美しいように、蝶もまた不思議で美しい存在である。

 ギリシャ神話では魂の象徴とされた。中国には荘子の「胡蝶の夢」がある。日本においても「極楽浄土に魂を運んでくれる神聖な生き物」として(?)、また「『不死・不滅』の象徴として武士に好まれ」(?)、武具の装飾に使われたり、家紋になったりした。平清盛の家紋は「丸に揚羽蝶」。

 

 デザインではよく取り上げられるが、絵では脇役以外では、案外少ない。私の大学時代の師田口安男先生はよく取り上げられていた。それに影響を受けたことは確かだ。開き直ってしまえば、あらためて先生の蝶の翅の造形的美しさ、面白さがすなおにわかる。

 そして人は、卵から毛虫・芋虫~蛹あるいは繭へ、そして蝶へと形態を変容し、空に舞うことの不思議さが意味するものを、読み解こうとする。

 

  ↓ 田口安男 「眼の島」 1977年 F150

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 坂崎乙郎は「私は、淡い色あいでまとめられたこの絵を一番好む。」と『田口安男作品集』(1977年東京セントラル美術館個展図録)に書いている。

 

 

 ↓ T43.「他所にて」

 1983年 S40+M40 自製キャンバスに樹脂テンペラ・油彩

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 大学院の頃の作品。一言で言ってしまえば、異界志向。この作品以外にも蝶の翅はしばしば登場する。田口安男の影響大である。

 

 

  D.20 「語られる前の言葉-4 李蝶」

 1988年 31×22㎝ 和紙に鉛筆・色鉛筆・水彩

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 李朝の民画の中の蝶の図を引用したもの。李蝶は李朝のごろ合わせ。参考までに。

 

 

 ↓ 75 「真后の嫦娥

 2019.10.11  10.7×9.3㎝ 水彩紙?にペン・インク・水彩

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 嫦娥とは中国の伝説では、元仙女だったが、下界に下りて結婚した後に不老不死の薬を盗んで飲み、月に逃げてヒキガエルになったとか。また道教では月の神とされる。近年の中国の月面探査機にその名がつけられている。蝶と嫦娥の関係は、はて?

 

 

 ↓ 203 「それでも彼は旅を続ける」

 2020.2.1-3   18.2×15.3㎝ インド紙にペン・インク・水彩・顔彩

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 これを描いたのは、コロナウィルス騒動が日本で本格化する少し前だが、中国ではすでにたいへんなことになっていた。上海経由でのミャンマー旅行を予定していた私たちにも、その影響が出始めていた。「こんな時に本当に行くの?」という周りからの危惧・非難に答える(?)作品。読みようによっては、空を飛び自由に彷徨うべき蝶の翅を持っていながら、自分の足で着実に、朗らかに歩くのだという意志の表明、というのはむろん後付けの解釈である。

 

 

  214 「蝶を食(は)む」

 2020.2.12  12.8×9.6㎝ アジア紙?に ペン・インク・水彩

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 朔太郎の詩に「蝶を食む」といったタイトルの作品があったような気がしていたが、調べてみると「蝶を夢む」という作品だった。私の記憶違いだが、「食む」もまた、良いような気がした。

 

 

 ↓ 215 「蝶を吐く」

 2020.2.13  13.1×9㎝ 雑紙にペン・インク・水彩

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 口の中に蝶が入ってゆく「蝶を食(は)む」を描いた翌日に、逆に口から蝶が出てくる「蝶を吐く」を発想。

 「もはや若くはない歌手が場末の酒場で、蝶=昔の夢を苦い思いと共に吐き出す。その時の彼女は、やはり昔日の美しさをとどめていた。」というのはむろん今でっち上げた後付けのストーリーである。

 

 

  221 「肩に蝶の翅」

 2020.3.5-6   10×7.9㎝ ペン・インク・色鉛筆・水彩

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 蝶の翅は造形的要請として召喚されただけで、特に何のストーリーもありません。結い上げた髪から別の作品が出てくるのだが、それはまた別の機会に。

 

(記:2020.6.22)

閑話 - 石仏探訪 (松岩寺・明光寺・中平庚申堂+砂沼谷戸)

 ここのところ痛みを増していた右足小指の治療に行ってきた。古傷の骨折―変形自然癒着によるものかと自己診断していたら、皮膚科の医者の診断は、(爪の水虫の進行と関連しているかもしれないが、)要はややこしい位置にできた「魚の目」とのこと。通院三回目にして、痛みがなくなってきた。釈然としないが、結果良ければ、とりあえずはすべて良し。

 天気も良いし、自転車でもあるし、帰りはついでに遠回りして、ここのところハマっている石仏探訪をした。

 

 実は石仏には30年前後前に一度ハマったというか、関心を持ったことがある。当時、山登りをけっこうまじめにやっていて、その関連で、山岳書蒐集にハマり、その一分野として、民俗学にもハマったというか、民俗学関連の本もずいぶん買った。その中に山の神や石仏関係の本も結構あったのである。

 ただし、いわゆる山村民俗関係のものは、越後や会津方面での山登りの実践を通じて、身近なものとして面白く実感できたけれども、石仏となると、なかなか手が回らなかったというのが、正直なところ。美学的な面から言っても、当時の私には、そうとうに爺臭い趣味という感を免れなかった。つまりは、石仏関係の本に関しては、買ったはいいが、あまり読まなかったというか、実践とはさほど結びつかないまま休眠したというところである。

 

 それがここにきて、ふ~っという感じで、復活してきた。コロナ自粛とは無関係だと言いたいが、上述の足指の痛みなどから、だいぶ長いあいだ山登りに行っていない。せいぜいがんばっての裏山歩きの途中で見かける石仏が、意識のどこかからか浮上してきたということなのだろう。

 その気になれば、私の住んでいる一帯は石仏の宝庫なのだ。30年前からの基盤も資料もある。かつて爺臭いという感が多くを占めていた鑑賞面においても、年齢なりの味わい方ができるようになってきたということもあるのだろう。

 手元には、ここ十年ほどの、あちこち登った山行写真にも、必ずといってよいくらい石仏を撮っている。かくて、気がつけば最近は、裏山歩きや散歩のたびに石仏を探している。

 

 一口に石仏と言っても実は多くの種類がある。もっともポピュラーなものはお地蔵さんだが、馬頭観音庚申塔、念仏塔、廻国記念塔、二十三夜塔、道祖神といった、濃淡はあれど仏教・宗教に関連したものから、道標、記念碑・顕彰碑、その他、あれこれ。むしろまずは石造物というカテゴリーでとらえた方が把握しやすい。

 また、それが何なのか、いつ誰によってどういう趣旨によって建てられたのかといったことを知りたく思っても、刻まれた文字も読もうにも風化して読めなかったり、意味がわからないことの方が多い。そうなると、やはりその地域の文献資料が欲しくなる。石仏は一面、文化財でもあるから、ほぼ必ずその地域の教育委員会等で調査研究し、報告書が出されているはずである。

 

 私の住んでいるあきる野市でも、合併前の五日市町でも出していた。『あきる野市の石造物 -市内石造物調査報告書-』(あきる野市教育委員会 2012年)、『五日市の石仏 ふるさとの精神風土を探る』(五日市町郷土館 1987年)。共に今の私にとっては実に興味深い本だ。しかし、両者共に絶版。「日本の古本屋」で探してみるが、どこにもない。図書館で借りることはできるが、一般図書と違って、資料扱いなので、一週間しか借り出せない。

 そもそもそうしたレファレンスブックというものは、手元に置いておかないとだめなのだ。欲しいけれども入手できないのだから、時々図書館から借りだすことで、今はがまんせざるをえない。私は、欲しい本はいずれ手に入るという信念を持っている。気長に待つしかない。余談だが、「日本の古本屋」に両者はなかったが、代わりに(?)『檜原村の石仏 第一~三集』(檜原村文化財保護調査委員会 1973~1977年)と『伊奈石の会会誌 伊奈石 4号、4号別冊、5号』(伊奈石の会 2000~2001年)を思いがけず入手できた。これはこれで、けっこううれしい。

 

 ともあれ今日回ったのは、伊奈の松岩寺と明光寺と中平庚申堂、そしてちょっと別口だが砂沼というところの「○○(失念)の森」という谷戸。松岩寺とその奥にある「芙蓉山半僧房大権現御堂」は初めてだが、他は一度は行ったことがある。

 

 ↓ 松岩寺

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 松岩寺は小さな寺で、墓地の入り口に地蔵が一つあるぐらいで、石仏はあまりない。その奥の権現堂は神仏習合の頃のなごりなのだろうが、外壁の上部に置いてあったいくつかの古い絵馬に少し心惹かれた。

 

 ↓ 松岩寺・権現堂の絵馬 その1 剥げかかった胡粉。組板なのは珍しいように思うが…。

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 ↓ 松岩寺・権現堂の絵馬 その2 面白い絵柄だが同様の絵柄は中平庚申堂にもあり、専門の画工がいたのだろうか。

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 そのすぐ近くの砂沼という名の谷戸は、少し先の横沢入りと同じように、かつて稲作をしたところ。美しい湿地帯となっている。今回見てみると「○○の森」と名付けられて、蛍が見られるように遊歩道やベンチなどが新たに整備されていた。

 

 ↓ 砂沼の「○○(失念)の森」 小規模だが気持ちの良い湿地帯

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 ↓ 「○○の森」入口のにあったホタルブクロの群落

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周回路の路傍に小さな五輪塔や墓石らしきものがあったが、個人の墓地のように思われる。またこの谷戸周辺には横沢入りと同様に、戦争末期にいくつかの地下壕が掘られたとのことだが、その内の一つを、崩壊してはいるものの、確認することができた。

 

 ↓ 砂沼の谷戸沿いには8ヵ所の地下壕があったそうだが、今回確認できたのはこれ一つ。

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 明光寺は広く、新しくきれいにしつらえられた庭を持つ寺。入り口近くにはそれなりに古く趣きのある地蔵や如意輪観音、萬霊塔などが集められていた。

 

 ↓ 明光寺入口の石仏群。

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  ↓ 奥にあって見えづらいが、小首かしげた如意輪観音

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 ↓ 境内の墓地にあった古い墓石だが、よほど音楽関係の人なのか、笛、三味線のバチ、鼓、太鼓が浮き彫りされているのが珍しい。

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  中平庚申堂は現在でも地元の暮らしと結びついているらしい集会所的な御堂。

 

 ↓ 中平庚申堂。左に石仏群。自転車はわが愛車ビアンキ製。

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 入口の戸は開け放たれている。中には、大きな、古拙な青面金剛立像のほかに、奉納された数枚の絵馬と、穴の開いた石と、鉄のわらじ。それらの意味を昔読んだような気もするが、今はもう忘れてしまった。また調べてみるか。

 

 ↓ 本尊の庚申塔青面金剛立像だが、長く露天にあったため、近くで採れる伊奈石製の特徴である風化・剥落が激しく、図像がよく見えない。彩色は近年のもの。

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 ↓ 奉納された、右はサルノコシカケ、中央は穴のあいた石。

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 ↓ 奉納された鉄の草鞋。

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 御堂の外には集められた地蔵、馬頭観音如意輪観音などの残欠群。カラっとした明るい滅びの風情が好ましい。

 

 ↓ 外側の石仏(残欠)群。

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   ↓ 辛うじて残され補修された馬頭観音。馬の造作ははっきりしている。はねあがった衣の裾が可愛い。

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 寄り道にしては、収穫は多かったというべきであろう。

 

 ところで、石仏探訪の意義は、現場での鑑賞以外に、帰宅後に撮った写真を見ながら、(本来であれば)資料と付け合わせて、種類や年代や時代背景等々を調べ、そこから何事かを知り、考察することにあると思う。なぜならば、石仏の多くは単に宗教的対象物であるにとどまらず、庶民の生活や思想や歴史性をも反映しているからである。しかし、上述のような資料が手元にない限り、考察は宙吊りにならざるをえないのである。

 

 二月に行ったミャンマーで見た、今現在の生き生きした信仰対象である仏像と信者(国民の大多数である一般市民)とのかかわり。生きた信仰の対象であるから、像は年々歳々美しく豪華に塗り替えられる。光背にはピカピカと色変わりに点滅するネオンを採用する。人々は日々当たり前のように参拝し、貢物を奉納し、ひたすら来世の幸福を祈り、現世の悩みを癒され、幸せになる。そうした彼我のかかわり方の違いを見ると、とても同じ仏教とは思えない。

 かつて見てきた中国のモンゴル仏教・チベット仏教圏においても、ラオスカンボジアスリランカなどにおいてもそうした違いはあった。またイスラム教圏、ヒンドゥー教圏も同様である。さらにキリスト教のローマカトリック教圏とプロテスタント教圏は言うに及ばず、ギリシャ正教圏、アルメニア正教圏、グルジア正教圏、ロシア正教圏においてもまたしかり。

 要するに宗教とは何か、宗教を求め必要とする人間の心のありようとは何かという実に大きな命題が立ち現れるのだ。その地点において、無宗教者である私が絵を描くということと、絵とは何かという命題と、つながるのである。悟りは日常の中にあり、制作の中にある。

                             (記:2020.6.17 )

小ペン画ギャラリー・4 「建物」

 今回は少し趣きをかえて「建物」。「建築」ではない。

 建築というと、どうも公共建築とか、ビルディングというか、大きなもの、夜になると人の住んでいない、政治や資本の論理に裏打ちされたもの、といった胡散臭いイメージがあって、好きではない。だから丹下健三ル・コルビジェも、安藤忠雄もみな嫌いなのである。

 大きいということでは教会や寺院、モスクなどもそうだが、これはまた別の文脈があるので、自分の中では一応別扱いである。

 それに対して建物/タテモノというと、住宅とかせいぜい三階建てぐらいの、どこか人の体温や体臭といった生活感があり、安心感がある。

 

 以上はむろん個人的偏見、趣味であるが、そうなのである。したがって私が描くのは、「建築」ではなく「建物」。木造か一部石作りの、つまり自然な素材のもの。ちなみに「小屋」はもっと好きだが、たぶんそれとして描いたことはない。

 

 それにしても、そもそもなぜ私は建物を描くのだろう。うまく説明できない。説明できなければ説明できないままでもよいのだが、せっかくだから、こうした機会に少し考えてみようと思う。

 

 遊牧民とか流浪の民といったことがある。日本のジプシー=山窩というのもあった。非定住、一所不住ということだ。人にもよるだろうが、画家はというか、私自身は精神的、本質的にはそうした存在なのだとも思うが、実際には、家族と生活があり、アトリエということがあり、なかなかそうはいかない。

 その代償ということでもないだろうが、毎年のように出かける旅の中で、北欧をはじめとするいくつかの国で、古い民俗的な建物を集めた野外博物館を訪れたことがある。

 

  ↓ ノルウェー民族博物館 木造の教会。屋根瓦も木製。このタイプの教会はノルウェーにまだいくつかあるとのこと。2006年10月2日 

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  ↓ ノルウェー ヴォス近郊にある建物。倉庫か住居か、現在も使われているもの。2006年10月2日 

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 最近は日本でも古民家ブームだが、ブームとは別に各地に古い民家などが保存されている。海外であれ、日本であれ、そうした所を訪ねるのは面白い。私などは、年齢と体験に根差した、あるいは体験から帰納しうる懐かしさを覚える。それらは共に全く異なる風土と歴史でありながら、なぜか妙に共通して、懐かしい。

 私の絵の中の建物には、そんな気分が反映されているようだ。

 

  ↓ 岩手県花巻市 旧伊藤家住宅の前庭にある馬小屋。 2016年7月15日 

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  ↓ エストニア エストニア野外博物館 これは住居なのか蔵(?)なのか、中に入れなかったのでわからない。 2011年9月29日

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 作品中の建物を眺めていると、作品世界という異界の旅の途上で立ち寄りたくなった建物、そんな感じに思える。実在しない、夢の中の建物。実在しないものへの希求というか、懐かしさととらえれば、それは確かに私らしい発想だ。

 

 以下、作品紹介。

 

  

145 異国風の建物

 2019.12.9-10 12.5×9.5㎝ 洋紙に和紙・古紙貼り・ドーサ・裏面ジェッソ、ペン・インク・セピア

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 どういう心境でこの作品を描き出したのか、覚えていない。だが、「はじめにこの用紙ありき」だったことは確かだ。それでなくても小さな台紙に、さらにこまごまと虫食い穴のある古い和紙の断片などを貼ってある。それ自体がコラージュといったタイプの用紙を、ある時、何点も作った。その時点ではどんな絵を描くのかは未定。以前からそうした仕事は好きで、時々そうしたタイプの作品も作っている。

 絵を描く前にすでに用紙にある程度の物質感が施されているのだから、そこにあらためて絵を描こうとすると、けっこう難しい。コラージュの要素を生かさなければ意味がない、とすれば。少々扱いかねていたことは確かだ。描き出したのは虫食い穴がきっかけだったかもしれない。

 内容的には上述した通り。異郷から異界への懐かしさ。

 

 

147 とつ国の水晶塔

 2019.12.10-11  12.5×9.3㎝ 厚紙(青灰色)に古紙貼り、ペン・インク・セピア

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 145とほぼ同じ。テント、波、瞑想者、水晶、梯子、山・・・、イメージがイメージを引き寄せ、形が次の形を呼び寄せる。解釈は見る人にゆだねられる。

 

 

172 特別な建物

2020.1.5  14.8×19.9㎝(大サイズ) 和紙(徳地)、ペン・インク・セピア

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 タテモノというよりも大きな祠。中にいくつかの繭がある。隠されている。結界が張られている。それで「特別な」建物。

右にはその建物を大きく迂回して通過する旅人。テーマとしてはむしろ「旅」ということかもしれない。

柳の木の本歌は竹久夢二の作品。それをさらに桝岡良(版画家 1905-?)が模倣(?)したもの(『浪漫荘蔵書票集』 1947年)。

 小ペン画としては初めての大きなサイズ。以後、時おりこうした大きめの作品も描くようになった。

 

 

174 しじま-北方の町

 2020.1.5-7 12.8×15.8㎝(中サイズ) 和紙に膠、ペン・インク・セピア

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 純粋に建物だけを描いたのは、いまのところこれ一点。北欧の古い木造の教会や民家や街並みといったイメージ。木造ではないし、北欧とも言えないが、40年以上前に行ったベルギーの『死都ブリュージュ』(著者ローデンバック タイトルのみ印象に深いが、読んではいない)の記憶もあるようだ。

 この作品に限らないが、小ペン画では、基本的に定規は使わない。すべてフリーハンド。

 

 

208 風信子の家

 2020.2.6-8 12.5×9.3㎝ ボール紙に古着色紙貼り・裏面ジェッソ、ペン・インク・水彩

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 風信子とはヒヤシンスのこと。「風信子の家=ヒアシンスハウス」は、東大建築科卒の詩人、立原道造が設計した自分のためのごく小さな別荘である。没後65年の2004年、本人の希望通り、さいたま市別所沼公園に建設された。

 私は立原をはじめとする四季派の詩人たちの、どうもブルジョアジーの子弟の都会的趣味の匂いが好きになれないのだが、このヒアシンスハウスだけは心惹かれる。それもまた私の壺中天趣味であろう。

 タイトルとしては完成後につけた。実際のヒアシンスハウスとは似ても似つかぬものだが、言ってみればこれが私のヒアシンスハウスである。

 ちなみに冒頭の建築家丹下健三は大学建築科の一学年下。二人は全然違う時代の人かと思っていたが、こんな近い人だったとは、今回初めて知った。

 

 最近はこうした建物のイメージが湧いてこないというか、さっぱり訪れない。そういうたぐいのモチーフ・テーマというものもある。

 

 以下、蔵出しの参考画像。

 

スェーデン スカンセン(野外博物館)

何の用途なのか不明。  2006年9月25日

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スェーデン スカンセン(野外博物館) 

屋根の形からするとごく小さな天文台かとも思われるが、不明。まわりの地面には天体を思わせるような大小の球体が置かれてあった。 2006年9月25日

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エストニア エストニア野外博物館 

風車だが、木造だとかえって異様な迫力があった。 2011年9月29日 

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エストニア エストニア野外博物館 

これは石造り。北方の住居は冬の寒さ対策なのだろうが意外と小さく低い。入り口も窓も小さく、内部の熱を逃さない構造になっている。 2011年9月29日

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(記:2020.5.22)

「ちょっとミニワイルドでミニハードだった今日の裏山歩き―金剛の滝」(2020.5.17)

 

(*最初に:本稿は山行記録というほどのものでもなく、またあまり多くの人に訪れてほしくないので、地図・ルート図は掲げません。わかる人が読めばわかると思いますので、興味のある方は、自分で地形図等を見て探して下さい。)

 

 前回の裏山歩き(これはブログにもFBにも投稿せず)から10日目。明日からまた天気が悪くなる。さほどモチベーションは上がらぬが、行かねばならぬ。ほんの少しの制作と、家事雑事を済ませて、15時頃家を出る。

 秋川丘陵を越えて金剛の滝を往復後、日向峰から沢戸橋、というのが漠然とした計画。とりあえず登り口はどこからにしようかと歩いていたら、昨秋の台風でやられた小和田グランド付近の河川改修工事をやっていた。大掛かりなものだな、などと漫然と思ったのだが、同じ台風のもたらした被害に後ほど出くわすとは、この時点では思いもしなかった。

 

 ↓ 小和田グランド付近の改修工事。右岸の屈曲部には以前は武田信玄由来の臥牛という水勢をやわらげる一種の蛇篭が設置されていたが、無力だったということなのだろう。

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 ↓ 御岳神社登り口付近の黄菖蒲

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 小和田の御岳神社に登る。御岳山の御岳神社の分社で、地元の人がよく手入れされている気持ちの良い小さな神社。

 

 ↓ 御岳神社境内

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 御岳神社だけあって、狛犬ではなく、大神(狼)のはずなのだが、耳は垂れているし、どう見ても犬にしか見えない。台座には昭和四十九年とある。

 

 ↓ 狛犬ではなく大神(狼)

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 ↓ 同じくその2 昭和49年

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 その脇にある小さな摂社のオオカミの方は、こちらの方がもっと古そうで、やはり耳は垂れているが、社殿前のそれよりも野性的というか、より山犬っぽい。ニホンオオカミはいわゆる狼とは異なって、山犬あるいは、より犬に近い種類という説も聞いたことがあるから、これはこれで間違いとは言えないのだろう。あちこちつぎはぎ修復だらけだが、なんだか可愛らしくて、私は好きだ。

 

 ↓ 摂社二基

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 ↓ 摂社の狛犬≒狼≒山犬。よく見るとこちらは阿吽の形になっており、これは口を開けた阿形。

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 ↓ 同じくその2 補修だらけのぬいぐるみのようだ。

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 手前の鳥居のところまでいったん戻って、順路である尾根上の部分的に簡易舗装された道ではなく、左の山腹に続く細い踏跡を辿る。はっきりとは覚えていないが、ニ三回は歩いたことがあり、いずれ主尾根に合流するはず。まもなく踏跡は二つに分かれ、下に下りそうなしっかりした左ではなく、上に向かうかすかな踏み跡の右を選ぶ。

 次第に踏み跡は薄くなり、やがて獣道と変わらない状態になる。途中に新しい痕跡の残るヌタ場があった。

 

 ↓ イノシシのヌタ場

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 藪漕ぎというほどのこともなく、歩きやすいところを選んで登れば、不安をおぼえる前にまた踏み跡はしっかりしてきて、やがて一般道に合流。予想していたところとは少しずれていたが。

 

 ほどなく金剛の滝への分岐。数年前に補修された木の階段を降りる。降り立った堰堤が滝からの沢との合流点。完全に伏流している。この一帯は私のお気に入りの場所。前にここでホラ貝の練習をしていた修験道マニアの人と会ったことがある。

 少し先で水流が現れるはずだが、そのまま河原が続き、なんと下の滝の滝壺のところまで砂利に埋もれている。

 

 ↓ 金剛の滝への沢すじ。このあたりは以前でも伏流している。

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 ↓ 滝の手前も伏流している。以前はこのあたりには水が流れていた。

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 この滝壺は小さいけれども、それなりに深さもあり、いつも岩魚が数匹泳いでいたのだが、その片鱗は全くない。毎年必ず何度かは訪れているが、こんな小さな滝壺は初めてだ。

 

 ↓ 金剛の滝下段の滝・岩魚の泳いでいた滝壺の片鱗はない。右の穴の階段から上の滝へ。

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 右側の岩壁に穿たれた、胎内くぐりといった感じの穴の階段を上る。上にあるのが金剛の滝だが、ここの滝壺もごく小さく浅い水たまりのようになっていて、驚く。

 

 ↓ 金剛の滝への階段

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 ↓ 金剛の滝全景。この滝壺も埋まっている。

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 周辺にはそれほど土砂崩れなどの様子も見えないのだが、とにかく沢筋は大量の土砂で埋まってしまったということなのだろう。

 沢や滝が土砂で埋没し浅くなるということは見たことも聞いたこともあるが、前後の状況の変化を目の当たりにするのは初めてか。浅くなるのは簡単だが、以前のような深い滝壺や水流に戻るにはまた長い期間が必要なのだろうか。それを思えば、少々痛ましい感じがする。

 周辺にあるイワタバコの花を期待していたのだが、まだ早かったのか、見えない。

 

 帰りはいったん尾根に登り返して日向峰まで行くのが、めんどうになり、そのまま沢(逆川)沿いの道で楽をしたくなった。のんびり歩いていくと、ところどころに倒木や小規模な土砂の押出がある。

 細い山道から、未舗装の林道になってほどなく、いきなり道が無くなっていた。右岸からの山抜け(土砂崩れ)で左岸の林道の擁壁が流され、道が無くなっているのだ。昨秋の台風の爪痕はこんなところにも残っていたのだと驚く。

 

 ↓ 左側が林道の通っていたところ。中ほどのラインが歪んだ擁壁。

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 ↓ 右岸からの土砂崩れ

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 ↓ 手前が林道のあった部分と堰堤の一部だった石組み。その先は擁壁のみ残って中身の一部は流出している。

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 慎重に倒木を乗り越えていけば特に問題ないが、あまり気持ちの良いものではない。あとは何の問題もなく、沢戸橋から50分ほど歩いて帰宅した。

 

 2時間半ほどの裏山歩きにしては、獣道ルート、道の消失等、けっこうミニワイルドかつミニハードな内容だったか。

(2020.5.17)

小ペン画ギャラリー―3 「踊り―その1」

 「ダンス」を訳せば「踊り」。

だが日本語の「踊り」には「舞踏」と「舞踊」とがある。もともと日本語として「舞踏」と訳されていたのを、1904年の『新楽劇論』において、坪内逍遥福地桜痴が新たに造語した「舞踊」を訳語として当てたとのこと。

 私は「舞踏」とは踏すなわち下半身、足を踏みならすリズミカルなもの、「舞踊」は上半身を中心としてゆらゆらさせるもの、といった感じで理解していた。西洋舞踏と日本舞踊、つまり西洋的と日本的ということで良いのかと思っていたのだが、あらためて調べてみると、どうもそうではなく、本質的には似たようなものというか、その違いがよくわからない。どうも現在では、歴史的あるいは意味強調的な文脈において使い分けられるらしい。

 その歴史的背景からダンスは「諸芸術の母」と言われることもあるようだが、音楽も詩もそうした言い方をされることはあり、まあ、人間の表現文化の上で古いものであることは確かだ。

 

 何にしても、私はダンスなどというものとは、一生縁が無いと思っていた。ディスコやクラブに行ったこともなければ、行きたいと思ったこともない。盆踊りもほぼ同様。暗黒舞踏だけは一度は見てみたいと思っているが、縁がない。ずいぶん昔に田中泯と霜田誠二だけはチラッと見たことがある。

 正直に言うと、私はダンスに対してけっこう偏見を持っていた。つまりダンスとは、音楽や演劇などもそうなのだが、限定された時間と場においてのみ存在する時間芸術であり、非時間芸術である絵画とは相容れぬ関係にある、別の言い方をすれば、とてもかなわない、と認識していたのである。微妙なコンプレックスと言ってもよい。

 それなのに、最近このように「ダンス/踊り」を画題・モチーフとして描いているのは、いったいどうしたことなんだろう。

 

 そうなる上で、いくつかの前段階があった。だいぶ前からだが、「ダンス/踊り」ではなく、パフォーマンス=身体表現ということには、限定的ではあるが、多少の興味を持っていたこと。マタハリ等における、エキゾチシズムの眼差しに興味を持ったこと。中でも海外に行って、観光客向けではあるが、各地の伝統的なダンスショーを数見る機会があったことは大きい。多様な地域で何の先入観もなく初めて見る、多様な文化に根差したダンスは、実に面白く、感動したといってよい。

 

 ↓ 参考:2003年 キューバ・トリニダーで見たストリートダンス。これだけは観光客向けではない。貧しいキューバの田舎の貴重な楽しみ。電力不足の暗い路上に人々は集う。 

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 ↓ 参考:2009年 トルコで見たベリーダンス ダンサーは外国からの出稼ぎだとか

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 また近年はテレビやインターネットなどで、アイドルグループなどのダンスパフォーマンスを目にする機会がいやおうなしに増えたこともあるだろうし、その延長(?)でつい高校ダンス選手権なるものまでネット上で見てしまったこともある。今や、例えばYouTubeでベビーメタルを見て、歌よりも、そのダンスに感動したりしている。

 そうしたいくつかの要因をへて、気がつけば、ダンスというものに対して持っていた偏見はだいぶなくなり、面白がることができるようになった。そうなれば「諸芸術の母」と言われるゆえんも理解できるようになってきたし、自分自身を、気分的にはではあるが、身体的に同調させることもできるようになった。

 

 ダンスとは動きが本質であり、(多くの場合は音楽との連関がある)時間を軸とする表現だから、ふつうは絵で描くのは難しいと言える。ロダンクロッキードガの踊り子はやはり神技というべきだろう。

 パフォーマンスの現場では、その瞬間瞬間を体感し、味わうしかない。それとは別に日常生活の中で、ビデオやユーチューブなどでダンスを見る。それを一時停止にして静止画像で見ると、動きや流れとはまた別種の美しさが稀にあらわれることがある。それは絵の対象として実に魅力的だ。

 だがそれはそれとして、ダンスとは動きが本質である以上、目に映る数秒の印象、記憶をもとに描く、表現するべきであろうとも思う。

要はそのあたりの葛藤と緊張感がもたらすものが、絵画としてのダンスの美を可能にするのではないか、と思う。何も見ずに記憶やイメージだけで描くときは問題ないが、いわゆる写真のような「切り取られた瞬間」を絵にする気はないのだ。静止画面を見過ぎるべきではない。

 むろんダンスを描くということは、瞬間の人体の形の美を描くということではない。そもそもの原初のダンスがおそらくは神とのコレスポンダンスであったような、意味以前の意味や、儀礼化様式化以前のメッセージといったものに成っていかないとつまらないと思うのである。私の作品がそうしたところに行っているかどうかは、はなはだ自信がないが。

 

 今回取り上げるのは以下の4点。すべて男の踊りだが、男を描いたものはこれで全部。ほぼ同時期に描いている。「踊り」を描いた作品はほかにもいくつかあるが、それらはすべて女性。女性を描いたものについては、また別の要素も加わっているようであり、それらについてはまた別の機会に紹介したい。

 ともあれ、以下に作品を紹介する。

  

  「世界の不安を踊る」

 2020.1.20-21 12.4×9.6㎝ 画用紙に薄和紙・古紙貼り、ペン・インク・水彩 

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↑ これを描いたのは、コロナウィルス騒動が今のように世界的になる前であったことは確かだが、その不安を反映している。だがそれはそれとして、やはり漠然とした「世界の不安」で良いのだろう。かなりデスペレートな、ペシミスティックな情感、そしてそのことで結果として醸し出されるユーモア、といった感じを描きたかった。絶望の踊りでもある。女房には「タコ踊り」と言われた。

 

 

  227.「辺境の風神の踊り」 

 2020.3.11-12 12.5×9.1㎝ 和紙風はがきにドーサ、ペン・インク・水彩

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 ↑ BS放送で見たネパールの奥地(ドルポ地方)のドキュメンタリーで、相当に過酷な自然と文化状況の中で生きている人々を見た。そこで営まれるしごくまっとうな生活と宗教と踊り。番組を見ながらの一瞬の走り描きが元なので、その映像と比較されても、似ても似つかぬものになっていると思う。関係ないが、石井鶴三の木版画でちょっと似たような作品(『山精』だったか?)を思い出した。

 

 

    228.「辺境の陽神の踊り」

 2020.3.11-12 12.7×9.4㎝ アジア紙にマルチサイジング、ペン・インク・水彩

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  ↑ 同じくネパールの奥地のドキュメンタリーが元。描き終えて二つを見比べて「風神」「雷神」としようかと思ったのだが、一ひねりして「陽神」とした。造語である。

 

 

251.「新しいダンスは可能か」 

 2020.329-4.11 11.5×9.4㎝ 和紙にドーサ、ペン・インク・水彩・アクリル

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↑ 元は何もない。こうした激しい動きの、土俗的とでもいうような動きには心惹かれる。背景(?)には苦労し、小ペン画にしては珍しく10日以上かかった。(部分的な)白以外のアクリル絵具で彩色したのは初めてだが、構成もふくめて、それなりに納得している。

 

 ↓ 参考:2009年 トルコで見たフォークダンスショー

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 ↓ 参考:2013年 バリ島で見たトラディショナルダンス

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(記:2020.5.9)