艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

燕岳から槍ヶ岳へ(30年振りの北アルプス・45年振りの防高山岳部夏山合宿) -1

 高校(山口県立防府高等学校=防高)時代、山岳部に所属していた。45年前のことである。美大・芸大進学志望ではあったものの、思うところがあり、美術部には入らなかった。その、ほぼ灰色に近かった高校時代を振り返ってみるとき、山岳部の思い出だけが、わずかに淡い青や碧色をふくんだ光を発している。

 山岳部とはいうものの、たいしてトレーニングをするでもなく、非体育会的な、ごくゆるい部であった。県外に出るのは夏の合宿(伯耆大山か石鎚)と、秋の中国大会の二回。それでも春秋の県体を含め、月に一度は山に行った。今と違い、週休二日ではなく、ロクな情報源もなく、地元の社会人山岳会の人に多少の情報を教わったり、部室にあった古い地形図(陸地測量部地図)を眺めたりして、自分たちで計画をたてた。そもそも山口県には、一般的な基準からすれば、たいして山らしい山は無いのである。百名山はおろか三百名山もない。それでも私は、今でも山口県の山が好きだ。

 

 Fさんは私が2年生でリーダーになった年に入部してきた、一級下の女子部員だった。彼女たちの代は女子部員が五名ほどいたが、私と同期の女子部員は事実上いなかったこともあり、以後一貫してめんどうを見たというか、一緒に登ったのである。高校2年生の男子にとって高校1年生の女子というのは、まさしく謎の存在であった。以来3年生の5月に現役引退(そういう決まりだったのである)するまで、ほぼ月1回、計11回の山行を共にした。

 山岳部のある高校自体が比較的珍しい中(当時山口県では八校)で、女子部員がいるというのはさらに少なく、たしか二校しかなかったのではないか。それも翌年にはわが校一校しかなくなったように記憶している。それもあっただろうが、彼女たちはなかなか強く、翌年には山口県の女子としては、おそらく初めてインターハイ福島県・吾妻山系)に出場したりした。

 ちなみに防高山岳部はその後登山部と名前をかえ、男女ともインターハイ優勝を目標とする、インターハイや国体出場の常連校となっているらしい。2012年ワールドカップ・リード部門オーストリア大会と2013年同スロベニア大会で優勝した小田桃花も輩出している。こうなってくるともう完全に別世界の話だが、少しうれしい気がしないでもない。

 

 Kとは中学・高校と同窓で、山岳部でもずっと一緒だった。とはいえ、文理のコースも違い、部員同士、同級生同士であっても、特に親しい間柄というわけでもなかった。

 FさんともKとも、卒業後のそれぞれの進路とともに、縁は薄れていった。以来、幾星霜。

 数年前にKが長いアメリカ勤務から帰国し、何となくといった感じで、付き合いが復活した。お互いの旅好きがうまく共鳴し、何度か海外旅行を共にした。そうした中で、バリ島のバトゥール山1717mを一緒に登り、グランドキャニオンやヨセミテのトレイルを歩いた。現在、退職目前で、目下、有給休暇の消化にいそしんでいる身。

 

 Fさんとは、私が30歳頃から地元に近い徳山市で定期的に個展をするようになって以来、山口県の各地に在住している、他の当時の女子部員たち、Wさん、Sさん、Mさんとともに、ほぼ三年に一度ずつ会っていた。その彼女が今春定年退職となったのを機に、また山登りを、それも百名山を中心としたそれを、再開したいという思いにかられたらしい。

 槍ヶ岳が最終目標だと言う。はいはい、気をつけて、と答える。そのためにまず穂高に一人で登ると言う。おいおい、穂高の方が槍より難しいよ、大丈夫なの?ルートはどこから?せめて穂高の前に槍からにしなさいよ、といったやり取りをかわした。同行する気はまったくなかったのが、途中でKにその話をしたところ、K曰く「俺も行く」。「俺も」? 私は行く気はないよ、だったのが、なんだかいつの間にか結局同行することになってしまった次第である。

 北アを含めてアルプスと名のつくところに最後に登ったのは30年前。現在では魅力の点というよりも、実際的な体力の面から、行く気は全く無かった。それが、あれよあれよという内に、行くことになってしまった。本当に私は「行く」と言ったのだろうか。どうにも記憶が曖昧である。山中三泊の縦走などもう十数年以上やっていない。大丈夫なんだろうか?

 

 ルートはたいして迷うこともなく、燕岳から槍ヶ岳、槍沢下山、と決めた。いわゆる表銀座と言われるコースである。むろん小屋泊まり。槍沢からの往復をのぞけば最も容易なコースと思われ、また充分魅力的なコースだからである。ただし私はこのコースのうち、大天井~槍ヶ岳~横尾以外はすでに歩いている。主要なピークは皆踏破済み。またKも槍沢以外は踏破済。しかし、まあいいか。30年40年ももたてば既に記憶も薄れているし、何より、可愛い後輩の女子の望みをかなえるためなら。言ってみれば45年ぶりの防高山岳部夏山合宿みたいなもんだ。

 

8月1日

 スーパーあずさ11号で松本駅大糸線のホームで山口から来たFさんと合流。FさんとKは高校卒業以来の再会である。穂高駅からはタクシーで中房温泉へ。宿の部屋は値段の割にはいかにも登山者専用といった趣だが、シーズン中だからまあ仕方がないか。ともあれ、入下山にそれぞれ温泉で一泊というのは、時間と経済力に余裕の出てきた今なればこそのスキルである。

 夜、豪雨。宿に上がる道路は封鎖され、近辺では警報も出たらしい。

 

8月2日

 曇ってはいるが、雨は上がっている。朝食の弁当(二種類のおこわとカロリーメイト!)をむりやり詰めこんで出発する。

 樹林帯の中のよく整備された登山道を、ひたすら登る。前夜の雨にもかかわらず、この山の地質を成す風化花崗岩質のせいか、ぬかるむこともなく、歩きやすい。周囲の樹林はさすがに素晴らしい。植林は全くない。第一、第二、第三ベンチ、富士見ベンチと通過するにつれ、混みあうというほどでもないが、陸続と登山者、下山者が行き交う。さすがに人気の山だ。

 

 ↓ 登り始めはこんな感じ

f:id:sosaian:20160810152253j:plain

 

 この登りは「北アルプス三大急登」と称されており、燕山荘までの標高差は約1200m。ふだんの日帰り登山でも標高差1000m程度は時おりこなしているからさほどでもないはずだが、やはり久しぶりの背中の重荷(といってもせいぜい10㎏少々なのだが)のせいか、山のスケールの大きさのゆえか、トップを行く元気なKに次第に遅れるようになる。後続を置いて行くその登りは、相変わらずだなと思う。ただし、遅れるのは私一人で、Fさんはしっかりついて行っていた。しっかりしたものだ。

 合戦小屋で一休み。スイカを食べる。何という贅沢。その上あたりから森林限界を越える。お花畑が出てくる。ハクサンフウロトリカブト、まだ蕾のウスユキソウ、その他、名を知らぬ花々。先行の二人との距離はいよいよ大きくなり、燕山荘目前で多少雨が降り出したところで雨具を着れば、ほどなく二人の待つ小屋に着いた。やれやれである。

 

 ↓ 燕山荘と燕岳 (翌朝の撮影)

f:id:sosaian:20160810152411j:plain

 

 1時間ほど休んだ後、空身で燕岳の頂上に向かう。ガスっていて展望はあまりきかないが、奇岩がそびえ並ぶゆるやかな砂礫地を行くのは気持が良い。この奇岩群には過去多くの絵描きが魅了されてきた。そこをスケッチブックも持たずただ登高するのは、少々引け目を感じないでもないが、まあそれはそれ。

  ↓ 奇岩 その1

f:id:sosaian:20160810152714j:plain

 

  ↓ 奇岩 その2 イルカ岩

f:id:sosaian:20160810152614j:plain

 

  ↓ 奇岩 その3 メガネ岩

f:id:sosaian:20160810152858j:plain

 

  ↓ 奇岩 その4

f:id:sosaian:20160810153049j:plain

 

 コマクサがずいぶんたくさん咲いている。これだけ移植し増やすには相当の時間とエネルギーを要したことだろう。

 

  ↓ 風化花崗岩の砂礫とコマクサ

f:id:sosaian:20160810153241j:plain

  ↓ コマクサの群落とハイマツ

f:id:sosaian:20160810153337j:plain

 

 燕岳山頂(2763m)はわずらわしい山名表示板などもなく、シンプルで清潔で好ましい。30年前の記憶もほとんど無い。ともあれ、いよいよ槍ヶ岳へのスタートである。

 

  ↓ ガスに包まれた燕岳山頂 中央Kと右Fさん

f:id:sosaian:20160810153459j:plain

 

 燕山荘は北アで最も人気の高い山小屋だとか。なるほど、とは思う。食事も良かった。最盛期には食事も6交替だとか聞いたが、今回は2交替制で、それなりに余裕はあった。夕食後の小屋の主人の話も有意義だった。中でもストック、特にダブルストックを自粛すべき意義、その他。そして今日の私の不調は、どうやら軽い高山病のせいであったかもしれないと、思い至る。

 しかし、今回の山中3泊の計画で最も気がかりだったのが、この山小屋泊ということなのだ。私はずっとテント専門でやってきたので避難小屋はともかく、営業小屋、特にハイシーズンのそれは経験がない。特に歳のせいか、就寝中に二度三度と小用に起き出すことを考えると、実に憂鬱になるのである。結果的にはどの小屋でもまあ何とか事なきを得たのであるが、精神的にはやはり快適とは言えない。他にもいろいろ気を使うことは多い。といって、いまさらテント泊の縦走というのは、荷物の重さなどから現実的にはほぼ無理であり、悩ましいところである。

 

【コースタイム】8月2日

中房温泉発5:50~富士見ベンチ8:33~合戦小屋9:35~燕山荘11:30/12:45~燕岳13:15~燕山荘14:00頃

宮沢賢治ゆかりの山を登る-2 『風の又三郎』の原点、種山ヶ原・物見山

 7月15日、岩手の山旅も四日目、最終日である。今日の予定は姥石から種山ヶ原(物見山869.9m)に登り、夕方の新幹線で帰ることだけだ。山歩きは実質1時間半ほど。登山口の姥石までどのくらい時間がかかるかわからないが、たいしたことはあるまい。おそらく時間をもてあます。帰途、土沢の万鐵五郎記念美術館にも寄って見ようと思ったが、調べるとあいにくと展示替えのため休館日とある。残念だがこれも縁だ。仕方がない。まあ、行き当たりばったりで、適当に寄り道しながら行こうということになった。こんな時、レンタカーと、適当に旅の仕方を知っている同行者なのは、気楽である。

 

 朝の一浴と朝食後、出発。S氏は一昨日昨日のアルバイトで筋肉痛との由。運転しない(できない)私は助手席でお気楽だが、せめてカーナビに注意していようと思ってはいても、そもそも種山ヶ原がどの辺にあるのかすら把握していないのである。

 興味がないわけではない。「風の又三郎」や「異稿 風野又三郎」、そしてそれらの原点とも言うべき「種山ヶ原」や、柳田国男の「遠野物語」等を通じてずいぶん昔から興味というか、むしろ憧憬に近い感情を持っていた。三十年近く前には『かぬか平の山々 秘境・北上山地を歩く』(日本山岳会岩手支部編 現代旅行研究所 1988.4.25)を購入したりしている。ちなみに「かぬか平(てい)」とは、馬の産地としての草地に定期的に火入れ(野焼き)をする火野・刈野・鹿野などからきた名称で、「北上山系の芝生のなだらかな山のことをいう。沢を登りつめ、ヤブをコギ、カヤをかき分けてパッと明るい天然の芝生の平らに出る。それが“かぬか平”である。(同書p.38)」と記されているような、広漠とした、おおどかなイメージに惹かれたのである。

 早池峰姫神、その他無数の山々と遠野物語の神秘を包摂する広大な準平原。しかし、北上山地と言っても、その範囲はきわめて広い。50万図「弘前」「盛岡」「一関」の三枚でもカバーしきれない。そしてそれだけ広大な山地と言っても、山として有名なのはせいぜい早池峰姫神ぐらいのもの。「日本のチベット」と言われていたように、電車を降りてからの公共交通の便も悪く、新幹線の開通以前の北上山地は実に遠い処だった。なまなかのことではおもむく気になれなかったのは、やむをえない。そうしているうちに、還暦を過ぎてしまったという次第である。しかもたまたま今回は、50万図「一関」も5万図も2.5万図も事前に用意できなかった。かろうじて「地理院地図」のサイトで必要最小限の部分だけプリントアウトして持ってきた。やはりちゃんとした地形図を持っていないと、それだけ味気ないというか、旅や山歩きの楽しみが減るのである。

 

 ともあれ、現在地もよくわからぬまま、ナビ嬢の仰せにに従って車を走らせる。コンビニに立ち寄る。なんて便利な世の中になったものか…。一帯は山村であることは間違いないが、山らしい山の形も見えず、ゆるやかな登り下りと蛇行を繰りかえす。これが準平原というものなのかと思い至る。雲は多いが、天気はまあまあ。緑が美しい。風が清々しい。すべての要素が東京や西日本とは違う。

 

 途中で「重要文化財 伊藤家住宅」という標識をみかけ、すかさずそちらの脇道に入る。寄り道である。茅葺(芝棟)、土壁の中に、板の間の三部屋と厩と土間がある。曲り家ではなく、直方体に屋根を葺いた直家(すごや)というシンプルで質朴な建築様式。一つ屋根の下での馬と一緒の暮らし。

 

  ↓ 伊藤家住宅

f:id:sosaian:20160723145849j:plain

 

 ↓ その前庭にある、後に建てられた馬屋 アジア的!

f:id:sosaian:20160723145940j:plain

 

 土間の一画に囲炉裏をしつらえ、地元の管理の方が火にあたっておられる。私は古民家などを見るのも好きで、これまで各地で機会があれば見てきたが、ここの長年にわたって黒く燻された暗い室内にいると、懐かしさといったものを通り越して、どこか昔の外国の辺境にでもいるような気がしてくる。特に西日本山口生まれの私には、こちらの言葉も含めて、その感が強い。決して日本は一つなどではないのだ。「18世紀中期ごろのこの地方の古形式を持つ農家として、旧状を良く留めています。」と表の説明板にあった。妙に余韻を残す古民家であった。

 

 このあたりには人首(ひとかべ) 古歌葉(こがよう)などといった、なにかいわくのありそうな、あるいは優美な地名が多く残っている。登山口の姥石も同様に古雅な地名だが、しかし道の駅は「種山ヶ原『ぽらん』」と名付けられている。地理院地図の物見山(種山)には「∴イーハトーブの風景地種山ヶ原」と付されている。以下、種山ヶ原森林公園内に細かく張り巡らされたコースには「ブリューベルの径」、「アザリアの径」、「イリスの径」といった、確かに賢治にゆかりはあるかもしれないが、少々気恥かしくなるような名前がつけられている。いくら観光客相手とはいえ、もう少しセンスがあって欲しいものである。

 道の駅で昼食のおにぎり、カレーパン、トマトなどを購入して準備完了。ルートはほぼ南尾根沿いだが、なるべく車道を歩かないようにコースをつなぎ、そしてなるべくのんびりとゆくことにする。

 

 ↓ こんな感じ

f:id:sosaian:20160723150103j:plain

 標高差は270mだが、道は幅広く、かぎりなくゆるやかである。周囲の森は自然林と植林の混生のようで、気持は良いが、よく手入れさえた道のわきには、花ざかりのハナミズキが並木のように植えられている。市中や山麓の公園ならともかく、ここのような山中に、元々そこにない種類の木、特に桜やハナミズキなどといった一般受けする花木を植えるということに、私は賛成できない。いくら観光のためとは言え、あざといというか、そこにある本来の自然を味わいに来たはずの人を結局は落胆させるように思う。まあ、一まれびとの意見ではあるが、一定の普遍性はあるだろう。

 ブリューベルの広場をすぎ、ほどなくぽっかりと開けたアザリアの広場に飛び出した。これまで展望のない森の中を歩いてきただけに、まことに気持の良いところだ。アザリア(ツツジ)の季節は過ぎたが、小さな白や黄色の花が咲いている。ここはもう頂上の直下なのだが、ゆっくりと一休みする。空も少しずつ晴れてきたようだ。

 

 ↓ イリス=アヤメの類

f:id:sosaian:20160723150200j:plain

 

 ↓ アザリアの広場

f:id:sosaian:20160723150224j:plain

 

 そこから車道を渡り、右に巨大なレーダーを見ながら一投足で、広く気持の良い870.6mの山頂に着いた。種山ヶ原とはこの広がりの一帯を言い、物見山は山頂そのものを示す名である。360度の展望。眼下には種山牧場。あいにくと早池峰方面はレーダーに隠れて見えないようだ。何せ5万図も50万図もないのだから、山座同定など及びもつかない。ともあれ、初めての北上山地、感慨深い。100年前、賢治はここを何度も訪れたのだ。 ・・・どっどど どどうど どどうど どどう・・・

 

 ↓ 頂上にある巨石の上から三角点を見る

f:id:sosaian:20160723150351j:plain

 

 ↓ 広漠たる準平原 北上山地

f:id:sosaian:20160723150412j:plain

 

 ↓ 三角点の上で何やらアートを制作中のS氏

f:id:sosaian:20160723150428j:plain

 

 しばしの休憩と昼食の後、下山に移る。付近に散在する岩塊は残丘(モナドノック)、というよりもこの物見山の高まり自体が残丘なのだ。

 コースはゆるやかに下り、一部車道を辿り、途中から左に折れ明神コースに入ると、またぽっかりとした小広い空間「イリスの広場」に出る。確かに、ときおり妖精が現れても不思議ではない。そこから20分あまり歩けば姥石集落に出た。道の駅はすぐそこである。

 

 ↓ 途中の無名の草原 無名であることにほっとする

f:id:sosaian:20160723150728j:plain

 

 ↓ 車道からそれて明神コースの森へ

f:id:sosaian:20160723150830j:plain

 

 ↓ イリスの広場

 

f:id:sosaian:20160723150939j:plain

 

 かくてハイキングと言うことさえはばかられそうな、ささやかな山歩きは終わった。元図工教師のS氏いわく「小学生の遠足に最適の山」。山高きがゆえに尊からず。ルート長きがゆえに尊からず。対照的な山容の前日の南昌山と合わせて、北上準平原の可愛らしい小ピークを訪ねる山旅は終了した。たまにはこんな山も良いもんだ。

 

 ↓ 帰途 増水気味の猿石川f:id:sosaian:20160723151056j:plain

 

 その後また、のんびりと土沢の和紙工芸館などを寄り道しながら、夕方新花巻駅に到着。賢治蕎麦とビールでこの四日間を振り返る。

 いつも気づくのは、きっかけとしての外部性ということだ。行きたい気はあっても、60歳すぎるまで実行することのなかった、宮沢賢治ゆかりの山めぐり。あるいは岩手山なら、相当がんばった上でならば、自発的に一人で行くかもしれない。しかし南昌山、種山ヶ原に一人で行くことは、おそらく一生なかったであろう。外部性としてのS氏からの一言があったがゆえに実現した今回の山旅である。

 どうせ実現しきれぬほどのプランを抱いている私ではあるが、それらが一つでも多く実現できれば、それだけ嬉しい。行為の基本は私個人の、ともすれば頑固にすぎがちな主体性・自発性であることは動かないにしても、時として外部からのはたらきかけに、自然にしなやかに身をゆだねる柔軟性は、今後とも大切にしたいと、あらためて思うのである。それこそがどうやら、私という現象の、社会・世界に向かい合う振る舞い方であるらしいと、歳とともに思うようになってきたのである。

 

【コースタイム】

道の駅種山ヶ原「ぽらん」11:30~南尾根~物見山(種山ヶ原)山頂12:40‐13:10~イリスの広場~明神コース~道の駅14:25 

 

宮沢賢治ゆかりの山 ― 1 『銀河鉄道の夜』の舞台、南昌山

 初めて宮沢賢治を読んだのは、小学校の4年生か5年生の時。そのころ私はすでに重度の活字中毒・読書好きであったにもかかわらず、わが家では本を買うという習慣がほとんど無かった。あるのは姉たちが定期購読していた学習雑誌か、農業雑誌の「家の光」(ああ、懐かしい!)くらい。

 そんなある日、めったにない事なのだが、父に誕生日に何が欲しいかと聞かれ、「本」と答えたのである。父は「本か…」とつぶやいたような気もするが、バイク(ホンダカブ)の後ろに乗せて町の本屋に連れていってくれた。特に目当ての本があったわけではない。一軒の本屋で『宮澤賢治名作集 (少年少女世界名作全集)』(偕成社 1963.7.25)を見つけたのは偶然である。その時点で宮沢賢治を知っていたかどうかは、憶えていない。おそらく知らなかったのではないかと思う。それを選んだ理由は思い出せないが、中身を少し読んで、どこか、何か、心惹かれるものがあったということなのだろう。それを買ってもらい、さらにもう一軒別の店で漱石の『坊っちゃん』も買ってもらったが、こちらの方は知っていた。『坊っちゃん』はすぐに読み終えた。それなりに面白かったが、そのときはそれだけのことである。

 この『宮澤賢治名作集』は50年たった今現在、手元にあるのだが、「銀河鉄道の夜」、「風の又三郎」、「グスコーブドリの伝記」等、代表的な童話はほぼ収録されており、詩が「雨ニモマケズ」、「永訣の朝」ほか三篇、他に「その他の作品紹介」や解説等、今見ても良く構成された、充実した内容である。詩についてはやや印象が薄いが、小学校の4・5年生にはちょっと難しかったのだろう。中学校での「春と修羅」との出会いまで待つ必要があった。ちなみに同書の「銀河鉄道の夜」では、ジョバンニがカムパネルラの死を知る場面が銀河鉄道に乗車する前におかれているが、現行ではそれが終りにおかれている。同書に親しんだ私としては現行の配置転換はいまだになじめないところがあるのだが、後述の松本隆氏も同様だとのこと。

 ともあれ、小学生の私にとって、初めて出会った宮沢賢治の作品は実に魅力的だった。その世界にごくすんなりというか、ぬるりと入っていった感覚を、今も懐かしく思い出す。その当時「異界」という言葉は、むろん知るよしもなかったろうが、それは間違いなく異界への入り口であった。運命的な出会いだったといっても良い。そして今に至るまで私にとって、宮沢賢治は最も好きで、大切な文学者・詩人であり続けている。

 

 似たような体験をへた賢治好きは多いだろう。学生時代に知り合った友人S氏もまた幼時に母親の読み聞かせによって賢治好きになったとのこと。しかしそのことを知ったのは、つい最近のことだ。およそ美術以外のことは、あまり話題にしたことがない間柄なのである。

 その彼が『童話「銀河鉄道の夜」の舞台は矢巾・南昌山』(松本隆 2010.11.23 ツーワンライフ出版)という本を知っているかと言う。宮沢賢治についての本、研究書は多い。それこそ山ほどある。おそらく漱石と双璧か、あるいはそれ以上、つまり日本で最も多く研究書・関連書が出ている文学者であろう。あまりに多すぎるゆえに最近ではめったなことでは買わない、読まない。なによりも筑摩書房の『校本 宮沢賢治全集』全14巻が出て、さらにその後、『新校本 宮沢賢治全集』全16巻+別巻1(全19冊)が出るにおよんで、その膨大さに圧倒されて、何かをあきらめたような気がする。

 S氏が上述の本に載っている南昌山847.5mに、夏至の日に登り、頂上で一泊しようと言う。詳しくは同書を読んでもらうに如くはないが、概要は「銀河鉄道の夜」の中の天気輪の柱のある丘が紫波郡矢巾町西方の南昌山であり、カムパネルラのモデルが中学校の一年先輩の藤原健次郎だという説を主として考証したものである。

 

 宮沢賢治ゆかりの地めぐりとしては、ちょっとした奇縁があって、三年前にその墓や賢治記念館、イーハトーブ記念館、イギリス海岸などを訪ね歩いた。だから、いまさらゆかりの地といってもそうは食指が動かない。しかし、山登りとなればまた話が別だ。できれば岩手山早池峰といきたいところだが、上述の主旨からすれば、標高に不足はあるが、仕方がない。同書を一応読み終える頃には、それなりにというか、大いに興味が湧いてきた。ついでにと言っては何だが、「風の又三郎」の原点である物見山(種山ヶ原)も計画に加えると、すっかり「宮沢賢治ゆかりの山めぐり―その1」といった気分である。

 同書によれば銀河鉄道に乗ったのは、ケンタウル祭=夏至の日ということであるが、いかんせん梅雨の真っ最中。幸いS氏の都合もあり、一ヶ月ほどずらして早めの梅雨明けを期待したのだが…。

 

 旅行全般についてS氏が、山登りについては私がという分担で、7月12日発。昼前に新花巻駅着。事前に依頼しておいたボランティアガイドの高橋さんと合流。聞けば全国どこでもボランティアガイドが大流行りで、それはけっこうなことなのだが、最近はそれらの多くが有料となっているらしい。それなりの理由あることなのだろうが、有料のボランティアというのも何だかなあ~、という気はする。しかしここ岩手花巻では無料との由。むろん抜かりのないS氏のことだから、あらかじめ手土産を用意してきたのはさすがである。

 その高橋さんのガイドで、レンタカーで動く。羅須地人協会の建物(現在、県立花巻農業高校に移築されている)、イギリス海岸、羅須地人協会跡地、賢治の生家、賢治の母の実家、田日土井の「渇水と座禅」詩碑、賢治と宮沢家の墓、ぎんどろ公園(花巻農学校の跡地)、などを見て歩く。田日土井の詩碑以外はすでに一度訪れているところだが、二度目には二度目の感慨があるが、本稿は「山」のカテゴリーなので、委細は省略。

 

 ↓ 羅須地人協会の建物 集会室にて 左:ボランティアガイドの高橋さん 右:S氏

f:id:sosaian:20160721003218j:plain

 

 夕方、賢治ゆかりの鉛温泉湯治部(自炊部)に投宿。昔ながらの湯治場の面影を色濃く残している宿である。素泊まりとはいえ、布団と浴衣を借りて3000円とは素晴らしい!中でも昔の雰囲気をそのままとどめている白猿の湯の、豪壮かつ質朴な浴室空間は、私が体験した温泉の中でも最上位にランクされるものだった。

 

 二日目の朝、矢巾駅で連絡しておいた『童話「銀河鉄道の夜」の舞台は矢巾・南昌山』の著者松本隆さんとお会いする。駅の展示コーナーでたまたま開催中の「賢治が愛した南昌山と親友藤原健次郎 『童話銀河鉄道の夜』の舞台は南昌山」展の展示パネルを前に丁寧なレクチャーを受けた。地方の在野の研究者として、地道かつ実証的な研究を続けてこられたその熱意が、痛いほどに伝わってきた。

 

 ↓ 中:松本隆

f:id:sosaian:20160721003434j:plain

 

 その後、藤原健次郎の生家に行き、隣地から望む箱ヶ森(現名:赤林山)、毒ヶ森、南昌山、東根山と連なる、賢治が愛し、登った山々を見る。標高は高くないが、美しく、また可愛らしい愛すべき山々の連なり。こうして佇めば、百年の時を隔てて、少年の頃の賢治と共振しているような気がする。現地に身を置かなければ見えないものがある。来て、本当に良かったと思う。

 ↓ 藤原健次郎生家の隣から見た右から赤林山(旧:箱ヶ森)、その左奥の小さく顔をのぞかせているのが毒ヶ森、中央南昌山、左に切れているのが東根山

f:id:sosaian:20160721003601j:plain

 

 ↓ 南昌山をズーム ほぼ正面を登る

f:id:sosaian:20160721003905j:plain

 

 その後、松本さんの御自宅で昼食までいただいたあと、賢治たちが実際に歩いた道筋を、要所要所でレクチャーを受けながら、南昌山登山口へと向かった。詩碑の設置された山麓の「水辺の里」は、何年か前の出水でまだ荒れたままなのが惜しまれる。

 幣懸(ぬさかけ)の滝は、南昌山神社と山頂とを結ぶ、雨乞い神事の起点となる重要な場所である。また、これから見るはずの山頂の「天気輪の柱」の石柱が柱状節理のものであり、その産地というか採取の場所がこの幣懸の滝だったのではないかという、私の机上の仮説を確認する上からも重要視していた。ところが、滝に近づいてみると、何人かの男女がうごめいている。見れば女性モデルが滝身で濡れながら、数名のスタッフに囲まれて撮影中である。どうやら、色っぽいというか、怪しげな雰囲気のそれであるようだ。私としては、もっと滝に近づかなければ地質的考察ができないのだが、ちょっと近づける雰囲気ではない。仕方がない。帰途に寄ることにして早々に立ち去る(ただし、帰途では後述するように雨が降っていたせいもあり、立ち寄り確認するのをすっかり忘れてしまった…)。

 南昌山の肩に上がる林道の途中から右に入れば、すぐに南昌山神社。ここまで松本さんに送ってきていただいた。突然の物好きな旅人にもかかわらず、すっかりお世話になりました。本当にありがとうございました。

 この神社は延暦年代(782~806年)に征夷大将軍坂上田村麻呂が山頂に造営し、元禄16年(1703年)に青竜権現の祠が建てられ、合わせてそれまで毒ヶ森と呼ばれていた山名を「部(藩)繁」の意をこめて南昌山と変えたとある。さらにその後嘉永2年(1849年)に山麓の現在の地に移されたということである。祭神は青龍権現で、雨乞いの山として古来より有名。そのためか、谷文晁の『日本名山図譜』にも収録されている。ここが今回のわれわれの出発点である。しかし「部繁」で南昌山というのも相当に現世御利益的な改名ではある。ちなみに現在の毒ヶ森の名は南昌山のすぐ北西のピークに冠され、さらに少し離れた南西の和賀郡境にも同じ名前の山がある。後者は残雪の頃にでも歩けば良い山のようだが、さて実現できるだろうか…。ともあれ人里近い山は、色々と人間の都合で、改名させられたりするということなのだ。

 実は、賢治たちが南昌山の山頂に登ったルートはどこか、という問題がある。松本氏は前掲書や『新考察「銀河鉄道の夜」の誕生の舞台 物語の舞台が南昌山である二十考察』(2014.3.1 ツーワンライフ みちのく文庫)において、賢治の描いた鉛筆スケッチをもとに、幣懸の滝の上流で北ノ沢から分かれた支流の金壺沢の右俣沿いに上る林道「盛岡西安庭線」と同じラインであった旧道を登ったものとされている。このラインは地形的にももっとも容易なため、古くからあった道と重なっていると思われる。現在でも南昌山を訪れる多くの人が辿るルートであり、肩まで自動車を利用して、1時間ほどで山頂を往復することができる。賢治たちも基本的には、このルートを利用したのは間違いないだろう。

 ↓ 南昌山を描いたとされる賢治の絵。右下に延びる稜線が東稜、左下の線が金壺沢右俣=現在の林道ルート、下の黒点が幣懸けの滝とされるが?

f:id:sosaian:20160814142041j:plain

 

 ただし私は、絵を見る限りにおいては、道を描いたとされる左下の線は、金壺沢の右俣の沢筋を表現したものに見える。実際には道は沢沿いにあったわけだから位置関係や意味合いとしては同じことなのであるが、絵の中のモチーフの扱いとしてはあくまで沢を描いたものだと思う。それは山頂から右下方に伸びる木立の生えた稜線(東稜)の、具体的描写との対比からもそう思われる。また、この道とされる線は上部で二ヵ所の分岐を示しており、それは沢筋を表現する時に自然と現れる表現様式である。以上は絵描きとしての私の観点であり、また長く山登りをしながら記録としての「ルート図」を描いてきた経験から自然に導き出される結論である。

 また松本氏は、画面下部の黒い点(染み)を幣懸の滝と同定されているが、右下方に伸びる稜線と、その向こう側に描かれた北ノ沢と思われる二本の線(その左のものはやはり途中で支流とも思われる線を派生させている)の位置関係からして、幣懸の滝ではないと思う。幣懸の滝は、右下方に伸びる稜線が、北ノ沢と金壺沢が合流する地点で消失するさらに下流に位置するからである。地形図と照らし合わせてこの絵を見れば、以上のことがより明快に見てとれよう。むろん絵であるから、必ずしも忠実に実際を再現したものとはかぎらない。しかしおそらく現場、もしくは実際の体験から間をおかずに描いたものであろうから、そうした場合、大きなデフォルメ(変形)は成されないものである。では絵の中のこの黒い点(染み)は何かと言えば、現物を見ていないので断定はできないが、保存状態等に由来する単なる染み、汚れなのではないかと思う。エックス線等の科学的調査を行えば真相は容易に判明することだろうが。

 ともあれ、この林道のラインは地形的にも最も容易なため、古くからあった道とほとんど重なっていると思われる。現在でも南昌山を訪れる多くの人が辿るルートであり、肩まで自動車を利用して、1時間ほどで山頂を往復することができる。賢治たちも基本的には、このルートを利用したことは間違いないだろう。しかしそれと別に、現在でももう一つ、矢巾側からのルートがある。それがこの神社から山頂に伸びる東稜というべきルートなのである。国土地理院の地形図には破線は記されていない。『分県別登山ガイド 岩手県の山』(1993.7.15 山と渓谷社)でもふれられていない。しかしネットで調べると容易に検索でき、それなりに登られていることがわかる。

 山麓に神社がある場合、そしてそれが山とかかわりがある神社の場合、その山頂には奥の院が置かれ、神社の裏手から直接登り始めるようになっているのが一般的である。南昌山の場合、もともと山頂にあった神社を麓に移したという経緯がやや特殊ではあるが、山頂が(雨乞い)神事の場であるという意味で、神社と山頂の関係の深さは変わらない。前記の林道のラインが生活と密着した容易なルートであることと、神事の場へのルートとしての東稜ルートが併存することは不思議ではない。南昌山は「かつて活動していた火山が風化浸食を受け火道が露出した岩頸と呼ばれる地形」のため、下半はなだらかだが、釣鐘型の頂上から下、標高差250mほどの間はどの方向も傾斜がきつい。林道からのルートは現在は登山道が九十九折り状に整備され登りやすくなっているが、以前は一直線のやはり急傾斜だったようである。つまり林道ルートも東稜ルートも、前半がなだらかで後半が急傾斜という構成は同じなのである。だとすれば雨乞い神事の際に辿るルートは神社から東稜であったという可能性があり、山頂の「天気輪の柱」の所以を知っていたであろう賢治たちが少なくとも一度はその神事ルート=東稜を辿ったのではないかという可能性も考えられるのではないだろうか。

 以上は私の、とりあえず机上の推論である。東稜=神事ルートについては地元で調べれば容易に判明するだろう。しかし、それはそれとして、正直に言えば、林道ルートで車で肩まで行き、そこから30分で頂上というのは、あまりに楽すぎて面白くないというのが本音だった。多く賢治が辿ったであろう林道ルートは下りに歩くことにして、せめて登りは少しは面白そうな東稜からということにしたのである。

  ↓ いざ出発 奥に見えるのが南昌山神社

f:id:sosaian:20160721004044j:plain

 

 S氏はかつてはカヌー乗りであり、また現在もなかなかの秘境と言うべきところに住んでいる自然派の元図工教師であるが、登山に関しては素人。数年前に一度、箱根の駒ケ岳から神山、冠ヶ岳まで一緒に歩いたことがある。体力等もそれなり、気心も良く知っている。幸い天候も今日一杯はもちそうだし、2時間ほどの行程であり、不安はない。

 神社わきの木の階段を上がり、登り始める。若干急な所もあるが、よく歩かれており、歩きやすい。なだらかな部分と時おりの多少の急な部分を繰りかえす。熊を恐れるS氏のガランガランと鳴る鈴やら、ときおり吹く熊除けの笛がやかましい。とはいえこの辺は熊の多数棲息する所ではあるらしい。なめとこ山も峰続きだし。実際途中で一か所、翌日もう一か所、少し古いものだが、熊の糞を見つけた。

  ↓ こんな感じ

f:id:sosaian:20160721004146j:plain

 

 橅と楢を主とする自然林はまことに気持が良い。ところどころに巨木も現れる。さすが東北の山、独特の深さ、風情だ。展望はほとんど無いが、百年前にひょっとしたらこの尾根を歩いたかもしれない賢治少年たちのことを思えば感慨深いものがある。

 

  ↓ 橅の巨木

f:id:sosaian:20160721004357j:plain

 

 なだらかな部分の尾根の終り頃、木の間越しに山頂のドームがどーんと現れる。ここから頂上までが一気の急登である。とはいえ標高差は250m、1時間足らずだ。

 登り始めると、岩と木の根と湿った泥の急傾斜に張られたロープが連続するようになる。ロープはマニラ麻で、湿った泥がこびり付き、コケまで生えている。手がかりになるような結び目も無い。旧式のロープ張りである。三点確保を保ちながら、なるべく体重をかけずに、バランス保持程度につかまれと指示するが、S氏はそれどころではなさそうで、必死に両手でしがみついて登っている。気持はわかるが、一番危ないパターンだ。ロープに体重をかけると、場所によっては後続の者を弾くこともあるのだ。歩幅を狭く、ゆっくり登れと言っても大股で息を切らせている。確かにその気になれば、結構恐いところもあった。途中二三度休憩をとって見下ろせば、樹が多いせいであまり高度感はないが、なかなかの急登であることは間違いない。その分、私は楽しかったのであるが。ルートとしてはやはり登り専用というべきであって、下りにはちょっとすすめ難い。

 

  ↓ 岩と木の根の急傾斜をロープたよりによじ登る

f:id:sosaian:20160721004512j:plain

 

 やがて傾斜もゆるみ、左からの道と合流すれば、その先が待望の頂上だった。頂上は小広く、木立に囲まれている。あの天気輪の柱(のイメージの源泉)と言われる奉納された石柱が何本も立っていた。その内の何本かは柱状節理の特徴を示していた。何体かの獅子頭も鎮座している。そしてこの山頂のどこかに、今も賢治の遺言に従って、一冊の『国訳妙法蓮華経』が埋められたままでいるのである。

 

  ↓ 「天気輪の柱」 右下の四つは獅子頭

f:id:sosaian:20160721004656j:plain

 

  ↓ 大満足のS氏

f:id:sosaian:20160721004815j:plain

 

  ↓ こんな感じ

f:id:sosaian:20160721005022j:plain

 

  ↓ 不思議なことに三角点が二つある 右は三角点ではないのか?

f:id:sosaian:20160721005342j:plain

 

 ここからジョバンニは銀河鉄道に乗ったのか。いや、賢治はそのイメージの一半をこの山頂で形成したのか。そして私はその現場に、遅れて今、佇んでいる…。それやこれやとイメージと感慨が交錯し、何だかとりとめもなく時間が過ぎてゆく。酒と賢治談義が弾む。

  ↓ 酒がはずむ 右は退職記念で買った一人用テント 山で初めて使った

f:id:sosaian:20160721005131j:plain

 

 予想と違って、また樹の葉が繁っていることもあり、山頂からの展望は良くない。盛岡方面が見えるだけだ。その方向に展望台というかテラスのようなものがしつらえられてある。夜半からの雨が予想されることもあり、そのテラスの上にテントを張る。夕食はコンビニで買ったおにぎりとインスタントみそ汁。それなりに美味しくいただけた。ただ一つ残念なのは、ぜひ見たいと思っていた山頂でのヒメボタル(姫蛍)の乱舞。もうすでに出ていると言う情報もあったのだが、天候のせいかついに一匹も現れなかった。「まるで億万の蛍烏賊の火を一ぺんに化石させて、空中に沈めたという具合」、ああ、それを見るために、わざわざこの時期に山頂で泊まったのに。仕方がないが、やはり残念である。

 

 夜半、小便に起き出してみれば、しめやかな雨。濃密なガスの中、天気輪の柱は静かに濡れていた。

 

 簡単な朝食をとってのんびりと出発する。雨はひとしきり本降りとなるが、問題はない。林道までよく整備された擬木の階段の道を下る。ちょっと整備しすぎと文句を言いたいところだが、歩きやすい。舗装された林道を淡々と歩き、50分ほどで、車を置いた南昌山神社に着いた。濡れた服を着替え、山行を終了した。

 振返れば、休憩を入れても合わせてたかだか3時間半ほどの歩程だったが、変化のあるルートで楽しめた。思索的要素の多い、印象深い山登りであった。

 

 その日の午後は盛岡に行き、岩手県立美術館ともりおか啄木・賢治青春館を見る。前者では万鐡五郎・松本峻介・船越保武の常設展を中心に見、後輩の学芸員のO氏と30余年振りで会う。お互い年をとったもの。年をとったからこそ再会できるのであろうが。

 その夜はこれも賢治ゆかりの大沢温泉に泊。やはり湯治部で素泊まり3000円。湯も申し分なし。ただし疲れからか、酒は弾まず、早々に寝入った。

 

【コースタイム】

7月13日 南昌山神社14:10~東稜~南昌山16:35 847.5m

7月14日 南昌山8:45林道9:13~南昌山神社10:05

中身の濃かった裏山歩き―金剛の滝綴景 2016.7.17

 たまたまちょっとした用事があって帰って来ていた息子が、今日の予定が流れたとのことで、急きょ一家三人で近くの金剛の滝まで散歩に行くことになった。まあ単なる「裏山散歩」で、特段ブログにアップするほどのことでもないのだが、ここのところ更新をサボり気味の観もあるし、ちょっと書いてみた。

 

 7月17日。曇天。蒸し暑い。二日前に4日間の岩手の山旅から帰ったばかりで、まだその疲れも抜けきっていない。息子や女房が行こうとでも言わない限り、とてもこんな日に裏山歩きなんぞに出かける気にはならない。

 歩けば20分の広徳寺の駐車場まで車で行く。山百合の花が美しい。寺の左手から山道に入る。あいかわらず湿度は高いが、多少の冷気・山気が心地よい。尾根から金剛の滝へ向かって下り始めるころから、何やら妙な音(声?)が聞こえてくる。獣?まさか。どうやら法螺貝のようだ。近くの今熊山(今熊神社)で何か行事でもやっているのかななどと考えながら、金剛の滝のある沢の入口に差しかかると、何やら白装束の異様な、修験道行者風の若い人物が法螺貝をもって立っている。怪しげだが悪い人でもなさそうだ。話しかけてみると、暇なときに近所迷惑の心配のないここによく練習しに来るのだとおっしゃる。う~ん、迷惑でもないが、付近を歩いているハイカーにはあの音は結構不気味がられるのではないだろうか。しかも白装束の修験行者風スタイル。別にどこかに所属しているということもないそうで、つまり修験行者マニアなのだろう。まあ面白いものを見たということで、友好的に別れる。

 

 ↓ 法螺貝の練習中の行者風の方

f:id:sosaian:20160717230415j:plain

 金剛の滝は普段よりわずかに水量が多いようだが、まあ変わりはない。手前の小滝の釜(滝壺)にも前回と同様に小さな岩魚が何匹も泳いでいる。

 ↓ 手前の小滝 その右にトンネルがある

f:id:sosaian:20160717230637j:plain

 

 ↓ トンネルをくぐる

f:id:sosaian:20160717230706j:plain

 

そう言えば、この金剛の滝のある沢は本流(と言ってもごく小さなものだが)の逆川(秋川支流の盆堀川のそのまた支流)に合流する手前で伏流となっており、本流はその合流したすぐ先で埋没した堰堤となっている。岩魚は一説によると伏流の間を、つまり地下の石の間を進む(泳ぐ)という説もあり、そのこと自体は必ずしも否定しきれないが、ここは直下が埋没した堰堤となっており、つまりは行き止まりなのである。さらにその岩魚の泳ぐ釜の先はすぐ落差7、8mの垂直に近い金剛の滝となっており、ここはどうにも溯上できない、いわゆる魚止めの滝なのである。つまり岩魚の棲息流域はその間のわずか数十mに過ぎない。こんな狭い範囲で自然の状態で棲息できるものだろうか。私がそこに岩魚がいるのに気づいたのは今年の冬。それまでは沢の形態からして当然いないものだと思い込んでいたせいもあり、岩魚を見たことはなかったように思う。近年放流されたものなのだろうか。こんな狭い流域に放流したとすれば、それは気の毒というもの。それとも昔から自然に居ついて長らえてきているのだろうか。真相はどうなのだろう。

  ↓ 金剛の滝 落差7,8m

f:id:sosaian:20160717230915j:plain

 

 小滝の右のくりぬかれたトンネルをくぐりぬければ金剛の滝の滝壺である。さらに右上から上に向かって鉄の階段が設置されており、滝を高巻いて上流沿いに行けるコースがある。数年前に歩いたことがあるが、近年は荒れていて通行禁止になっている。数段上がってふと足元を見ると、なにやら風情ある紫ピンクの花が咲いている。女房いわくイワタバコとの由。名前は知っていたが実際の花を見た、あるいは認識したのは今回が始めてだ。気がつけばあちこちにある。往路を戻りながら注意してみるとけっこうな群落がある。なかなか良いものだ。葉っぱが煙草の葉に似ているからイワタバコ、帰宅後調べてみたら若葉は食べられるそうでそこからイワヂシャ(岩萵苣)とも言うとのこと。今度食べてみようか。山草としても人気があるらしいから、盗掘されるおそれもあるので、場所はあまり詳しくは書かない。

  ↓ イワタバコ 花弁は5枚

f:id:sosaian:20160717231037j:plain

 

  ↓ 群落を下から見上げる

f:id:sosaian:20160717231142j:plain

 

 沢の出合いで先ほどの法螺貝修行中の若者に再び会う。二言三言立ち話。法螺貝の音階は三つだけと言うことを教わった。

 

 帰路は逆川沿いの道を辿る。

  ↓ 危なっかしい橋を危なっかしく渡る人 右に安全なルートがあるにもかかわらず。

f:id:sosaian:20160717231250j:plain

 

 途中でマタタビ(木天蓼)を見つけた。良く見ると実が、それも虫エイ(営?)といって「マタタビアブラムシ」が寄生し瘤状になった、より価値(滋養強壮)効果の強い実が生っている。さっそく飼い猫へのお土産用の葉っぱ少々とともに、少しばかり採取する。

 

  ↓ マタタビ

f:id:sosaian:20160717231548j:plain

 

  ↓ 虫エイのマタタビ 猫は完全にラリっていました。

f:id:sosaian:20160717231639j:plain

 気を良くしながらも、こんな時期にこんなうっとうしい山道を歩く人もそうはいないよね、などと話しながら歩いていると前方から何台かの自転車がやって来た。ふと見ればその先頭は何と、知り合いというかお友達の各種ガイドのジンケンさん。お客さんを連れてのガイドの最中なのだ。サービスにマタタビやイワタバコのことを教えてあげる。

 お気をつけてと別れてから、いや~奇遇だと言いつつ、ふと足元を見ると、なんとまたしてもイワタバコの群落。そこは護岸工事された目にふれにくいところなのだが、条件が良かったのか、けっこうな規模の群落だった。

   ↓ 再びのイワタバコの群落を見下ろしたところ。上部が川床

f:id:sosaian:20160717231748j:plain

 

 沢戸橋からは右岸の道を辿る。二三年前に転落死亡事故があって、現在は一応通行禁止となっているが、その少し前に改修されたばかりだったので、むしろ歩きやすい。それにしても事故はなんでこんな所で?という所で起きるものなのだ。

 秋川本流は曇天にもかかわらず、大勢の水遊び、バーベキューの人達でにぎわっている。それを横目で見ながら、意外なほど中身の濃かった、2時間ほどの裏山歩きを終えた。

                        (記:2016.7.17)

   ↓ 佳月橋から曇天の秋川本流。

   写真ではわかりにくいが、大勢の水遊び客でにぎわっていた。

f:id:sosaian:20160717231917j:plain

新緑から万緑の世界へ 御坂・黒岳から釈迦ヶ岳へ

 また中一ヶ月空いてしまった。この間一度、わが「裏山」の秋川丘陵の小峰公園桜尾根から金剛の滝をへて、今熊山505mというコースを歩いてはいる。歩程3時間ほどで、一部初めて歩く部分も含まれているのだが、「登山」というよりはやはり「裏山歩き」の延長といった感が強い。他人からすればどうでもいいことだろうが、自分としては「山行リスト」に記載するにはためらいがある。まあ、ささやかなこだわりなのだが。

 

 ここのところの股関節の不安がある。左肩から指先までの痺れもある。まあ、歩く分には大丈夫だろうと、例によって3時間少々の睡眠で家を出る。目的は昨年黒岳から、今年四月に大沢山から遠望した三角錐の鋭鋒、釈迦ヶ岳。珍しくその姿形に惹かれて登りたくなった山である。

 河口湖駅からのバスは最近毎度のことだが、中国人観光客で満員。事前に調べておいたはずなのに、寝不足のせいか違うバスに乗ってしまったようで、登山口の久保田一竹美術館前のバス亭に着いたのが、予定より15分遅い10:05。

 ここで重大なミスに気づいた。地図を半分忘れてきてしまったのだ。私は普通、山行には国土地理院の2.5万図と5万図の地形図と、あれば昭文社の「山と高原地図」の三種を持っていく。今回予定のルートは2.5万図も5万図も二枚にまたがっているのだが、それぞれその左半分(「河口湖西部」と「甲府」)を忘れ、さらに「山と高原地図」も忘れてしまったのである。おおよそは覚えているし、一般ルートだから特に読図力が必要ということもなかろうが、やはり多少は不安である。現地で見るのは主に2.5万図だが、「山と高原地図」にはコースタイムと、要所要所にちょっとした注意点が記されており、それはそれで結構役立つことが多いのだ。

 今回の入山ルートに選んだ黒岳の南尾根は、半ばで二つに分かれ、そのいずれにも登山道はあるが、共に地形図に破線は記載されていない。左の烏帽子岩コースは現在通行不可のようで、右稜というか右側の尾根を選んだ。山と高原地図に記載されたルートは事前に地形図に書き写していたが、取り付きに関しては覚えていなかった。

  とにかく久保田一竹美術館の横を過ぎ、その先の野天風呂天水の前に至る。実は登山コースに入るには、天水の手前の右手の橋を渡らなければならなかったのだ。気をつけていたにもかかわらず、道標がなかったのか、あるいは寝不足のせいで見落としたのか。念のため天水の玄関先を掃除していたおばちゃんに聞いてみると、このまままっすぐ先に進めとのこと。地元の人に道を聞いても登山道のことは案外知らないことが多い。知らないのはしかたがないが、今回のように変則的な道を教えられるとかえって混乱するというか、困るのである。まあ悪気はないのだろうが。やはり「山と高原地図」は必携ということか。

 釈然としないが、一応そのまま進むと道は二つに分かれ、そこにも道標はない。ともかく右手の尾根に登るべく右を選ぶ。少し進むと作業所の廃屋があり、どうにも正規のルートでない事が明確になってきた。正面に、左にと、道らしきものはあるが、どれを辿ってもすぐ先でほぼ消滅する。やむをえず、少し沢沿いに登ったところで、右の尾根を目指して道のないところを登ることにする。幸い藪はなく、錯綜する獣道を上手く使えば、ほどなく正規の尾根上の登山道に出ることができた。やれやれである。それにしても前回、前々回に引き続き三連続で取り付きを間違うとは…。寝不足ばかりではないにしても、少し慎重にやらねばと気を引き締める。とにかくここで30分ほど時間をロスしたようだ。

 ↓ こんな感じ

f:id:sosaian:20160604224343j:plain

 いったん正規ルートに乗ってしまえば、あとは問題ない。よく踏まれた快適な尾根道である。展望はほとんどないが、広葉樹が主の気持良い自然林の中を、ゆるやかな登りが続く。あたりは蝉や野鳥の声がうるさいほど。新緑を過ぎ、万緑とも言うべき緑の中、風に吹かれつつ、さわやかこのうえない登行である。

 

 ↓ あちこちにオトシブミが落ちていた。これはオトシブミ科のオトシブミというゾウムシに似た甲虫が中に卵を産みつけて落としたもの。

f:id:sosaian:20160604225137j:plain

 

 やがて左側から烏帽子岩コースを合わせ、中沢山1554mはそれと気づかぬうちに過ぎた。少しずつ傾斜を増し、一汗かくとようやく展望がひらけ、富士山の見える岩場が出てきた。今日の富士山は、残雪は少ないが、なかなか立派である。前方の毛無山、十二ヶ岳方面もよく見える。こちらも青巒といったおもむきで、なかなか立派である。この初夏の万緑の頃の山の魅力も、また捨てがたいものがある。

 ↓ 今日の富士山-その①

f:id:sosaian:20160604225645j:plain

 

 ↓ 左毛無山から十二ヶ岳、右節刀ヶ岳の稜線

f:id:sosaian:20160604225754j:plain

 

 ↓ もう少し先から 今日の富士山-その②

f:id:sosaian:20160604230100j:plain

 

 ↓ 正面、毛無山~十二ヶ岳、右節刀ヶ岳の青巒の主稜線 

f:id:sosaian:20160604230153j:plain

 

 黒岳山頂直下でこの日はじめて登山者二人と出会った。黒岳頂上は昨年5月以来二度目だが、展望もなく、やはり特にどうということもない。

 府駒山、釈迦ヶ岳に続く尾根すじもまた、今まで以上に気持が良い。「山梨の森林10選」とかの看板があった。最近は山も滝も道も森林も、何につけランキングばやり。むしろ興をそがれる思いがするのだが、まあ、いいか。それはそれで、橅の多い、確かに気持の良い森である。

 ↓ 水楢や橅の森 

f:id:sosaian:20160604230530j:plain

 

 ふと思いついて、スマホで「地理院地図」を開いてみる。おお、何と!開ける。小さい画面ではあるが、ちゃんと地形図が見えるではないか。これでだいぶ気が軽くなった。そう言えば、あとで気づいたのだが、グーグルマップは使えたのだろうか。スマホ片手に山登りと言うのも様にならぬが、今度一度試してみなければならないだろう。

 

 日向坂峠(どんべい峠)で車道が横切っているが、そこに救急車や何台かの車が止まっていた。こんな山の上で交通事故かなと思うが、とりあえず通過する。少し行った先で、何やらやかましく降りてくる団体が来ると思ったら、事故者の搬出だった。道をゆずり、見ると60か70歳台の女性が担架に乗せられ、救助隊数人によって運ばれている。顔に青あざがあるものの、目は開いて、意識もあるようだった。転倒して打撲と捻挫あるいは骨折といったところか。少し先にそのパーティーの数名がいたが、推定平均年齢60歳台後半。

 う~ん、人ごとではない。寝不足、地図の忘れもの、ルートミスによる時間の遅れ、股関節の不安と、私自身ずいぶん不安材料を抱えての今日の登行である。特に黒岳頂上を出て以来、帰路のバスの時間が気になって、早めに予定ルートをカットして降り始めるべきかと葛藤しつつも、釈迦ヶ岳に登りたいという「登山慾」にかられて歩を進めているのである。背筋を少し冷たいものが走るようだ。せいぜい残りを慎重に行こうと、気を引きしめる。

 府駒山1562.4mは三角点はあるものの、およそ山頂らしくないところ。写真を一枚撮っただけで、休みもせず先に進む。釈迦ヶ岳山頂直下は岩場も出てくるが、気をつけて登れば特に問題はない。先ほどの事故者もこうした岩場では慎重にやり過ごして、その後の何ということのないところで転倒したのではないだろうか。えてしてそういうものである。

 ↓ 釈迦ヶ岳山頂直下の岩場 

f:id:sosaian:20160604230658j:plain

 

 ↓ 釈迦ヶ岳山頂直前から見る 今日の富士山-その③ 

f:id:sosaian:20160604230903j:plain

 

 釈迦ヶ岳山頂1641mは岩累々の気持の良いところだ。360度の大展望が素晴らしい。いつもだったらこの時間、富士山は雲に隠れていることが多いのだが、今日はまだその秀麗な姿態を黒岳から鬼ヶ岳へと続く稜線の向こうに見せている。その稜線のこちら側、芦川の谷の風情もすばらしい。

 ↓ 釈迦ヶ岳山頂

f:id:sosaian:20160604231121j:plain

 

 ↓ 山名のゆえか、地蔵仏やこうした信仰関係の新しい設置物がいくつも置かれていた。まあ気持はわかるが、古いものは大事にしたいが、あまり増やさない方が良いと思いますけど。

f:id:sosaian:20160604231452j:plain

 

 ↓ 釈迦ヶ岳山頂からの 今日の富士山-その④ 

f:id:sosaian:20160604231158j:plain

 

右岸の神座山、春日山と連なる稜線とにはさまれ、緑の波濤と形容したくなるような景観である。思わず、この光、この彩を見るために、ここに来たのだと思ってしまう。実に絵になる。しかし、私がこれを絵にしようと試みることがあるのだろうか。

 

 ↓ 緑の波濤 芦川谷 

f:id:sosaian:20160604231340j:plain

 

 ↓ 芦川谷右岸 神座山から春日山へと連なる稜線

f:id:sosaian:20160604231854j:plain

 

 ともあれ、時間が気になる。コースタイムの記されている山と高原地図がないために、時間のめどが立たない。スマホ地理院地図を見ると2時間はかかりそうに思える。17:36のバスには間に合わなくとも、最終18:36には乗らなくてはならない。しかし先ほど事故者を見たばかり。こういう時ほど慎重にいかねばならない。山頂からの下りも岩場が続くがロープもあり、慎重に行けば問題ない。間もなく道は無名の峠から芦川へと下る。九十九折りの後、林道から立派な舗装道路に出た。

 頑張れば、ひょっとしたら17:36のバスに間に合うかもしれない。そう思えば、何とか間に合わせたいと思うのは人情(?)で、ついつい頑張ってしまった。結局、すずらんの里バス亭の少し手前でやってくるバスに出会い、手をあげて乗りこむことができた。自由乗降区間だったのである。

 

 かくして懸案の、少し憧れの、釈迦ヶ岳に登ることができた。全体を通して樹林の美しい、良いルートだった。寝不足、股関節痛、地図忘れ、等々の不安材料、失敗にもかかわらず、充実した一日だった。それにしても、何とか充分な睡眠をとってから登ってみたいものである。もっと素晴らしい山行が堪能できるのだろう。相変わらずの永遠の課題だ。そして、ある程度の無理はやむをえないにしても、今後とも充分気をつけて慎重に行動しなければならないと、人ごとでなく、あの事故者の搬送作業を思い出すのだった。                  (記 2016.6.4)

 

【コースタイム】2016年6月2日

河口湖駅~久保田一竹美術館バス亭10:05~黒岳南尾根右尾根~左尾根と合流12:05~黒岳1792.1m13:40~日向坂峠(どんべい峠)14:55~府駒山1562.4m15:25~釈迦ヶ岳1641m16:08-20~峠16:40~舗装道路17:15~すずらんの里バス亭手前17:40~河口湖駅

緑に癒され 風に吹かれ 股関節痛に悩まされ~ 外秩父・鐘撞堂山から陣見山へ

 一週間ほど前から右の股関節の調子が妙な具合に痛い。二三日前も一時間少々の裏山歩きのあと、舗装道路に降り立ったとたん、右足がアレっという感じで、一歩二歩が前に出なくなった。なんとかだまして歩いたが、なんだ?これは?といった感じだった。

 その少し前には急に歯グキが腫れた。かかりつけの歯医者が休みで、急きょ別の年中無休の歯医者に駆け込んで、切開して膿を出した。四月初めにはいきなり花粉症らしき症状となったが、二日間寝込んだら治った。花粉症だったのか風邪だったのか、いまだによくわからずじまい。その前三月には、これは確実に花粉関係で、二三週間ほどまぶたが爛れて困った。これは教え子のカヨちゃん(「『蜂の子』を料理して食べた」の送り主)が作った蜜蝋人参オイルワックスを何日か塗ったら、何とか治った。今年の正月に転倒して左ひざを強打して以来、腰痛肩凝りを含めて、あちこち、どこかしら痛いといった状態が続いている。

 歳なのだろうか。たぶんそうだろう。しかしその直接的な原因は、高め安定の体重であり、それと連動する、絵描きとしてまじめに制作にいそしむことによってもたらされる慢性的な運動不足である。

 なんであれ、ああ~、ジジくさい。何にしてもまたそろそろ山にでも行かないと、身体が倦んでいるなあと、ひしひしと感じる。心と精神は決して倦んでいないのだが、身体が倦んでいるとやはりダメなのである。

 

 そんなことをボンヤリ思いながら前夜、古い美術関係の雑誌を見ていたら、ある寺の五百羅漢の紹介が載っている頁に目がとまった。何かいいなあ、見に行きたいなあと思って何気なく調べると寄居、長瀞の近く。つい地図を取り出して見ると周囲は山だ。鐘撞堂山。聞いたことがある。家族向き低山ハイキングコースとしてポピュラーなところだ。この辺りは奥秩父からも奥武蔵からもちょっと離れているため、何となく所属が曖昧な、外秩父とか北武蔵などといった要領をえぬくくられ方をされているところ。そのためもあってか、山登りの対象としてはあまり魅力を感じるということもなく、20年ほど前に大霧山に家族で登って以来足を向けたことはない。したがって私の「登山予定リスト」には載っていない。

 股関節は微妙に痛い。そういえば明日は久しぶりに晴れだとか言っていたな。でも明日は連休の初日だし、どこも混むだろうな。などと倦んだ頭で考えていたら、閃いた。ウダウダ言わず、行けば良いのだ。股関節が気になるなら低山ハイキングコース、結構、ポピュラールート、上等ではないか。季は新緑。晴天。楽ルート。完ぺきである。多少人が多いくらい、なんだ。何せ私はこの身体の倦みを早急になんとかせねばならぬのだ!ということで、唐突に行くことに決めたのである。五百羅漢はどこかへ飛んで行ってしまった。さすがにここまで唐突なのは吾ながら珍しい。まあそれはそれとして、あまりなじみのない所に行くというのは、それだけでも結構心躍るものだ。

 

 ↓ 国土地理院の地図を利用して初めて作成してみました。赤い線が歩いたラインです。縮尺の関係で見えるかどうか。PCではクリックすると拡大されます。 

f:id:sosaian:20160501140543p:plain

 

 4月29日、五日市発7:47。拝島、高麗川、寄居と乗り継いで桜沢という妙に風情のある名前の駅に降り立つ。近くにはこれもきれいな杏沢(あんずさわ)という地名もある。

 ここに至るまで、八高線の車窓からは案外ときれいな新緑の里山が続いているのが眺められた。実はその間、微妙な違和感を感じていた。そしてそれは、そのきれいさが、人里近くの里山でありながら杉檜の植林が少ないことによるのだということに思い当たった。考えてみれば私の住む五日市にせよ、奥多摩、中央線沿線にせよ、人里近くはほとんどと言っていいほど植林されている。緑は多いが視界のほとんどは暗緑色の杉檜の常緑針葉樹なのだ。それがこの八高線沿線では、かなりの割合で落葉広葉樹なのである。その理由はよくわからないが。したがってこの季節、ここら一帯の山々は全体が新緑、銀緑色に「うるうるともりあがって」いる。何か、うれしい誤算、うれしい発見である。

 ↓ 入口の八幡山 

f:id:sosaian:20160501140713j:plain

 

 ともあれ駅の目の前にある小さな丘、八幡山めざして八幡神社から登りだす。最初は少し急だが、すぐになだらかな良い路となる。新緑の広葉樹。10分で八幡山山頂。う~ん、良い感じだ。以後も新緑と言うには若干濃くなった若葉のなだらかな尾根を、急がず、快適に歩く。季節のせいもあるだろうが、どうやら思っていた以上に良い山だ。あちこちで朱い山ツツジが満開である。展望はさほどないが、飽きない。まことに気分が良い。

 ↓ 登り始め

f:id:sosaian:20160501140908j:plain

 

 ↓ 八幡山山頂

f:id:sosaian:20160501141830j:plain

 

 そういえば今日は強風注意報が出ているそうだが、確かに風は強い。「風はゴーゴー、森はザワザワ」。もう又三郎がやって来たのかと思うほど。

 たしかにポピュラーなコースだけあって、行きかう人は多い。犬を連れた人、犬を背中のザックに入れて歩いている人、会社員風の服装で黒い革靴の人。しかしみなすれ違うばかり、降りてくる人ばかり。ああそうか、また時差登山のせいだと気づく。

 北側に遠望される谷津池の傍らでは、大きな桐の木の紫の花が満開だった。山中にも桐の木は多いらしく、歩いていて桐の花、藤の花があちこちに咲きこぼれている。これも今日の強風のおかげだ。

 ↓ いたるところに山ツツジが満開

f:id:sosaian:20160501141953j:plain

 

 ↓ 桐の花 そういえば手にとって見るのは初めてかもしれない。

f:id:sosaian:20160501142110j:plain

 

 ↓ 谷津池と満開の桐の木

f:id:sosaian:20160501142235j:plain

 鐘撞堂山(330.2m)の山頂に11:30着。わが家の裏山の網代城山330.7mとほぼ同じ高さ。歩き始めて1時間ほどである。戦国時代は見張り場だったという、よく整備された、歴史ある山頂。外秩父の山々が意外なほど近く、新緑の衣につつまれて美しく耀いて見える。前日までの雨と今日の強風で、大気中の塵が洗い流され吹き飛ばされたのだろう。

 ↓ 鐘撞堂山山頂

f:id:sosaian:20160501142336j:plain

 

 ↓ 外秩父 北武蔵の山々 

f:id:sosaian:20160501142458j:plain

 

 鐘撞堂山からはいったん円良田集落を目指して下る。途中の峠状のところに今も現役の炭焼き窯があった。

 ↓ こんな感じ 

f:id:sosaian:20160501142610j:plain

 

 ↓ 現役の炭焼き窯 

f:id:sosaian:20160501142647j:plain

 

 円良田集落から道路わきの最初の指導票に導かれて左に入る。すぐに左右に分かれるが、そこに指導票はない。右か、左か。右を選ぶとすぐに最奥の二三軒の廃屋。あれっ?と思いつつ、もう一歩踏み出すと、目の前を狸が通過した。そこは竹林だったところを前年に伐採したようで、竹は生えていないが筍ばかりが生えている。上を伐っても根は生きていて、今年生えてきたのだ。などと考えながら進んで行くと、路は次第に踏跡へと変わり、それがいつしか怪しくなってくる。ああ、やはりあの分岐は左だったのか、それとも狸に化かされたのかと思いつつも、この踏跡は何とかうまいこと稜線まで続いているのではないかと甘い期待にすがって引き返さない自分がいる。人はそうやって遭難するのである。やがて当然のように藪に突入。地面を横に這う藤蔓をかいくぐるのは厄介である。ヤバい、ヤバいと汗だくになる頃、かすかな獣道を見つけた。それを慎重に辿ればあっけなく、左手の支稜に乗ることができた。かすかにかつて人が歩いていたようにも思われる尾根だ。少なくとも歩く分には差し支えない。やれやれである。ありがとう、狸さん。ほっと一息入れる。反省すべきではあるが、しょせんたかがしれた藪こぎ、その逆境を楽しんでいる自分もいる。

 その支稜を少し登ればなんの苦もなく正規のハイキングコースに出れた。そこから一投足で337mの虎ヶ丘城址(資料では亀ヶ岡城となっているものもあったが、ここでは現地での表示に従う)に到着。13:05。小さな館というか、砦が置かれるに充分な広さである。ここの前後の尾根には二三層の空堀の遺構と思われる地形があった。

 ↓ 虎ヶ丘城址 

f:id:sosaian:20160501142812j:plain

 

 鐘撞堂山を出て以来、人に合わない。ここまで足を延ばす人は少ないのだろう。以後も気持の良いなだらかな尾根が続く。防火帯かと思わせるような幅広い路が長く続くところもあった。そうしたところには敷石のような、秩父青石と呼ばれる緑泥片岩の露頭が多く見られた。この石のスレート状に加工できる性質を利用して作られた「板碑(または板石卒塔婆)」と呼ばれる石碑が檜原や青梅周辺でいくつか発見されている。その色合いや彫りこまれた梵字などの様相と相まって、ちょっと趣のあるものだが、それらは鎌倉から室町前期にこの長瀞付近で作られ、はるばる青梅や檜原まで山を越えて運ばれたものである。下山の時に通過した地元の集落では、いつの頃のものかわからないが、墓地にいくつか見受けられた。比較的近年まで使われていたのかもしれない。

 馬頭観音のある大槻峠をへて(13:30)、稜線上の舗装道路を渡ればほどなく陣見山山頂(531m)。

 ↓ 大槻峠 秩父青石に彫られた馬頭観音の年記は安永9年(1780年)  

f:id:sosaian:20160501143046j:plain

 

 ↓ 途中で見かけた不思議な三角点 コンクリートのふたの下に埋められているのか?

f:id:sosaian:20160501143513j:plain

 

 ↓ 味気なき陣見山山頂f:id:sosaian:20160501143657j:plain

 

ここは残念ながらテレビ埼玉の施設が設置された植林帯の中のまことに味気ないところ。写真を一枚撮って早々に通過する。この少し前頃から心配だった右股関節が痛み出してきていた。まだなんとか歩ける。時間的にも余裕はあるが、予定していた雨乞山や不動山まではちょっと辛い。残念だが、今日は充分堪能した。きりの良い次の榎峠から降りることにした。

 ↓ 榎峠の看板

f:id:sosaian:20160501143824j:plain

 

 榎峠には林道が上がってきている。あまり突っ込む気にもならないが、「長瀞八景 ~『間瀬峠と陣見山のビューライン』と命名しましょう」という看板があった。峠からは痛みたがる股関節をだましだまし下り、1時間ほどで秩父鉄道樋口駅に着いた(16:20)。

 

 ↓ 下山途中から見る521m峰 やさしい風情 ここもちょっと登ってみたい

f:id:sosaian:20160501143938j:plain

 

 股関節痛はともかく、意外にも、予想以上に楽しめた今日のルートの余韻にひたりながら帰途に着いた。

 

 そしてこの後、おまけがある。17時少し前に着いたJR寄居駅のホームで時刻表を見ると八高線は何と1時間以上無い。ゲッ、まさかと思ってスマホの「駅すぱあと」で検索すると17:01発がある。何だ、あるではないか???と思いつつ待っていたが、やはり来ない。ちょうどその時間、向こうのホームを出発する電車があったのをボンヤリ眺めていた。窓口で「駅すぱあと」画面を見せて聞いたら、何と寄居駅にはJRと秩父鉄道以外に東上線も乗り入れていて、ちゃんとその東上線の時間が表示されていたのだった。すみません、そんなこと知らなくて、「駅すぱあと」を使い慣れていなくて。

 仕方がない。駅員に断って煙草を吸いに、いったん外に出た。さて、と、幸か不幸か目の前に赤ちょうちんがある。当然、一杯、二杯とビールを重ねる仕儀とあいなってしまったのであった。その最中に教え子のイトキン嬢から一年振りのメールが届いた。飲み会のお誘い。明日30日も5月2日も飲む予定が入っている。「では1日に」と。もちろん「了解」と返信したのであった。

 

コースタイム】 2016.4.29

桜沢駅10:00~八幡神社10:15~八幡山10:30~鐘撞堂山330.2m11:30~円良田集落~道を失う・藪こぎ~支尾根上12:40~虎ヶ丘城址337m13:05~大槻峠13:30~陣見山531m~榎峠15:20~樋口駅16:20

                         (記:2016.5.1)

 

筍を掘る! 

 四月、春たけなわ。「四月は残酷な月だ」と歌った詩人もいたが、つまりそれは裏返しの生命力の祝歌(ほぎうた)である。

 ↓ わが家の枝垂桜 清楚にしてあでやか

f:id:sosaian:20160427193340j:plain

 ↓ アトリエから見るNさん宅の八重桜 物狂おしく、妖しきほどに濃厚

f:id:sosaian:20160427193612j:plain

 ↓ 同上 この過剰なまでの豊穣

f:id:sosaian:20160427193750j:plain

 

 生命力―花。多くの花がいっせいに彩美しく咲くというのは、考えてみれば不思議な話だ。かくして花は形而上学的な思いへともいざなってくれるが、もう一つ、より多く形而下的な喜びに寄与してくれるのが、春の山菜や野草食である。

 

 蕗の薹にはじまり、土筆、甘草、野蒜、コゴミ。いずれも庭先やごく近所で自採りするもの。山葵の新芽は檜原の友達からもらった。ワラビの自生地は知っているが、今年はスーパーで購入。イタドリとタラの芽は、今年は採りそこなった。まあ、いい。ほんの少し、二三回で良いのだ。ただ自分の食べる分だけ採り、シンプルに季節を食すのである。おすそ分けなんかしない。必要以上に採るから自生地が消滅するのだ。コシアブラ、ウルイ、シドケ、ユキザサ、根曲竹などの山地性のものは、もはやなかなか手にすることができない。

 しかしなんといってもこの美しき季節に燦然と輝くもの、それは自採りの筍(孟宗竹)である。まあ、ふつう山菜とは言わないが。

 

 縁あってここ五日市に住むようになって以来、お付き合いさせていただいている隣家のNさんの敷地に竹林がある。その半ばを占める沢床に向かう斜面は、数年前に残土捨て場(?)~造成予定地として売却され、その後何らかの事情で放置されているから、正確にはNさんの土地ではないのだが、Nさんにとっては頑として「俺んちの筍」であるらしい。Nさんは今年89歳。根っからの地の人。かつて五日市が山村と呼ばれるにふさわしかった時代から、農業と山仕事をなりわいとしてこられた人である。そのNさんも寄る年波には勝てず、ここ数年は私が許可をえて、採らせてもらっているのである。

 筍掘りといっても、栽培農家でのそれと違って、ここでのやり方は別にそう難しいものではない。とは言え、ほんの少しだが一部急斜面の登降があり、また採ったあとの重い(けっこう半端ではない)筍を担ぎあげるアルバイトもある。しかし、こうした山仕事的な作業はお手の物、どちらかと言えば、好きなのだ。

 服装は汚れてもかまわないもの、つまりアトリエでの制作用の格好そのまま。足回りは重要で、長靴でもよいが、やはり登山用の靴は信頼できる。そして採った筍を詰め込んで一気に担ぎあげる50~70ℓ程度の山ザックと、汗止め用の手拭。

 ↓ いざ出陣 本日は長靴着用

f:id:sosaian:20160427194046j:plain

 何といっても一番重要なのが、鍬である。これはNさんの使い込んだそれを、毎回借用させてもらっている。いわゆる打ち鍬というやつだろうか。調べてみたらなんと「筍掘り鍬」というのがあった!まさにこれである。柄の長さは1m弱。斜面登降の際には、これを逆に持って、ピッケルのようにして使うと便利。

 竹林の上の方の平らなところはNさんやその親族が掘れるように手をつけず、私が掘るのは急斜面を下った下の方。そこは暗くやわらかい腐葉土層の斜面という立地条件もあって、技術的には(慣れれば)簡単だ。

 ↓ 上部は写真で見るより急傾斜 鍬をピッケル代わりに下る

f:id:sosaian:20160427194201j:plain

 あちこちに10~30㎝も顔を出した筍の、谷側(下側)の根元の落葉、腐葉土を少し掘って、出てきた湾曲部の外側の白い部分に狙いを定め(一二度素振りをして)、足場をかため、一気にザクっと打ちこみ、そのままテコの原理でグイッと引き起こせば、きれいにポロリととれる。一丁上がり。

 ↓ ドヤ!

f:id:sosaian:20160427194329j:plain

 今年二度目の今回は、撮影役として女房を同伴したのだが、最初の一つが採れると以後皮むきに専念したようで、肝心の、鍬で一撃!のシーンを撮っていない。まったく何のために同伴したのか。

 

 まあ、だいたいそんな感じである。

 採ってからは皮をむき(廃棄率60~70%)、あく抜き用に米糠を入れてゆでる。わが家では圧力釜を使用しているが、普通の鍋でもかまわない。

 ↓ ドヤ!

f:id:sosaian:20160427194506j:plain

 ↓ さて、皮むき

f:id:sosaian:20160427194545j:plain

 ↓ むけばこんなもの

f:id:sosaian:20160427194644j:plain

いろいろな食べ方があるだろうが、私はシンプルに昆布+鰹だしで、鶏肉か豚肉(牛肉でも可)と一緒に醤油で煮るのが一番好み。他にも、バタ焼き、味噌炒め、サラダ、中華風、汁の実、スパゲッティや焼きそばの具と、色々できる。なお冷凍にすると、やはり味は一段落ちる。保存用に、細切りにして干して見たこともあったが、戻しがうまくいかず、これは今のところ失敗。やはり、採ってから間をおかず食べるのが一番うまい。むろん作るのはすべて女房である。

 よくまだ地面から顔を出す前のものを朝方に掘って、穂先を刺身でという食べ方もあるが、それはまあ専門栽培農家の料亭用だろう。私流は結構大きくなったものが好きなので、そうした食べ方は向かない。実際、そう美味いものでもない。やはり筍なんてそんな上品なものではなく、ガンガン採ってゴンゴン田舎っぽくシンプルに食べるのが一番美味いと思う。

 そう言えば同じ筍でも、私は孟宗以外の真竹などの細いものも好きだ。中でも雪国の根曲竹(地竹という言い方をするところもある)の採りたてのものの味は、確かに一ランク以上、美味い。以前に残雪から初夏の越後や会津の山を歩いていた頃、よく採っては焚火に放り込んで焼いて食べたものだが、あれは確かに絶品であった。だが、それも今は昔。

 ↓ 参考画像 ネマガリタケ

f:id:sosaian:20160427200731j:plain

 

 今年はどうやら筍は豊作のようだ。日々の裏山歩きでも、その感はある。ただし近年の手入れをしないせいか、広がっていく一方の竹林を見ると、肝心の筍の姿があまり見えない。かわりに無数の掘り返した跡がある。猪である。猪も今年は喜んでいるらしい。竹林はその領域を広げようとして、その外側、人の生活圏にも筍を生やすのだが、不思議なことにそれらは取り残されている。猪も人間を警戒するらしい。ちなみにNさんの竹林は山からちょっと離れていることもあって、被害をまぬがれている。

 五日市に住んで20年近くなるが、私の家の周りでも、新しく住宅や建物がずいぶんと増えており、その分、空き地や山林が減ってきている。私の筍掘りもいつまで可能か、予断を許さない。願わくば、猪と共存しつつも、何よりもNさんが少しでも長く健康であられんことを!

 ↓ 今夜の食卓。こういうのを出すのはあまり好きではないのだが、せっかく作ってくれたことだし。

中央:●筍と牛肉の煮もの その上、●シラスのソテー 以下時計回りに●アジフライ+千切りキャベツ ノラボウ菜(五日市特産の地野菜)のおひたし 寝かせ玄米ご飯 餃子とニラのスープ 独活+ニンニク味噌とマヨネーズだれ その左にチラッと見えているのは●山形の三五八漬け ビールは当然発泡酒 (今日はちょっとつまみが少ない) 女房よ、いつも美味しいものをありがとう。

f:id:sosaian:20160427214326j:plain

                         (記:2016.4.27)