艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

晩秋の大羽根山からトヤド浅間へ (2016.11.18)

 それにしても、なぜ?と思う。わが悪癖、遅寝遅起きという生活習慣についてである。いや、それはその理由や問題点などすべてわかっているのだが、それがなぜ海外や旅先になると全く解消して問題なく早寝早起き体制に移行できるのかということである。

 海外でのそれは、時差の関係だと考えればわかる。つまり私の身体は海外時間で設定されているのだと。しかし、これが先日行った九州・山口の場合となると理解できない。5泊6日、毎晩9時前後には寝て、翌朝5時でも7時でも平気で起き出せるのだ。それが帰宅すると、あっという間に未明4時就寝11時起床に後戻り。と、まあ、結局は個人的意志的問題にすぎないということなのだが、いざ山に行こうという時には困る。寝酒の勢いを借りた4~5時間の浅い眠りで、重い頭を抱えて登る。途中の休憩で10~30分くらい寝入ることもある。それでも日の長い時期はまだ良い。寒く日の短い晩秋から冬にかけてはそうはいかない。行動時間やルート設定もおのずから限られてくる。ゆえに遠くの山には行き辛い。しかし山には行きたい。もうこうなれば近場でもどこでもいいのだという心境になる。

 その結果、思いついたのが、今回の大羽根山からトヤド浅間。登山口まで、わが家から駅まで歩き20分、そこから登山口までバスで約1時間、計1時間半。行き慣れた山域であり、近い。バスは7:19の次が8時台はなく、9:00発。これなら何とかなる。大羽根山もトヤド浅間も主稜線からはずれた支脈上に位置し、おそらくそれを目的に登る人はきわめて少ない。以前からその存在を知ってはいたが、私の「今年登る山」リストにも「いずれは登りたい山」リストにも記載しておらず、おそらく一生登らない可能性の方が高い山である。この二つを結ぶ笹尾根は奥多摩の中でもポピュラーなルートであり、私も二度に分けて全部歩いている。山域やルートに不足はあるが、まずは登ることを優先とする。標高差600m、歩程5~6時間、晩秋、快晴と、手頃なコースだろう。

 

 例によって5時間睡眠で満員のバスに乗る。座れない。乗客の9割が(中)高年の登山者。平均年齢60代後半か。

 バス亭浅間尾根登山口で下車。同時に降りた10余名はみな浅間嶺へ向かう。対岸の大羽根山へ向かうのは私一人。登山口には「中央区の森」の看板があり、見れば手すりと木の階段の幅広い道が尾根の上に続いている。そんなところを行くのはいやなので、すぐ左に分岐する道の方に入るが、すぐ先で合流し、結局は同じ道を行くこととなった。道は時々錯綜するところもあるが、特に問題はなく、歩きやすく、まあ快適である。

 ↓ こんな感じ

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 登り始めは植林帯だったが、すぐに広葉樹林帯も出てきて、以後広葉樹と植林帯の針葉樹がモザイク状に交錯する。晩秋特有の水色の空と中腹の黄(紅)葉した広葉樹の組み合わせは、見知ってはいても、やはり美しい。途中に炭焼き窯とヌタ場がある。また三頭山方面がよく見えるところがあった。

 ↓ 三頭山方面

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 一度休憩したそのすぐ先が大羽根山992m。ベンチがあり、先行のおばさま4名がいた。大羽根山自体は山頂らしからぬ尾根上の出っ張り。背後は植林帯が迫っているが、北側が伐採されて、浅間尾根とその先に御前山が大きく鎮座しているのに向かい合える。

 ↓ 大羽根山山頂

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 ↓ 大羽根山山頂から見る御前山 手前は浅間尾根

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 そこから30分ほどで笹尾根主脈と合流する。笹尾根は名前の通りかつては草原状の見晴らしの良い尾根で、富士を望む尾根であったようだが、現在では植林、広葉樹共に繁茂し、見晴らしはあまり良くない。

 ほどなく笛吹峠(大日峠)に着く。「大日」の文字を彫った道しるべがある。

 

 ↓ 大日峠(笛吹峠)の道しるべ 優美な書体 石全体の形も大日の見立てか

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 ここに限らず笹尾根上の峠は全て、かつての檜原村山梨県上野原方面との交易・生活の路である。谷沿いに本宿や五日市方面に出るよりも、山越え峠越えルートの方が安全で早かったのだ。したがって峠の名には檜原または上野原いずれかの、時には両方の地名が冠せられるので、笛吹(うずしき)峠はわかるが、大日峠となるとどうなのだろう。大日は大日如来のことであろう。仏教の中でも最上位に位置づけられる仏で、特に密教では最高仏とされている。また密教と関連付けられる山岳信仰の面では、富士山の本尊とされ、富士の神とされる浅間大神本地仏である浅間大菩薩ともされた。神仏習合の解釈では天照大神とも同一視されるとの由。それ以上詳しいことはわからないが、そうしたことから富士の良く見える笹尾根にあって、その大日と彫られた道しるべが置かれたということなのだろう。「みぎハかづま(数馬) ひたりさい○ら(西原 ○は異体字の〈は〉)」と散らし書き風に、なかなか優雅な味のある書体で彫りこまれている。

 

 丸山1098.3mの山頂は、三頭山側から来ると縦走路からちょっと外れた位置にあり、つい見落としがちである。前回踏んだかどうか記憶にないので、ちょっと寄り道してみる。三角点はあるが、特にどうということのない一地点。

 

 ↓ 丸山山頂

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  ↓ 落葉のパターン

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 ↓ 丸山~土俵岳の間

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 ゆるやかな起伏の植林帯、広葉樹林と歩けば小棡峠をへて、やがて土俵岳1005.2m。ここも山頂らしからぬところだが、やはり伐採された北面の展望は良い。三頭山、御前山、大岳山といわゆる奥多摩三山が一望できる。手前の落葉松の黄褐色が良い添景となっている。

 

 ↓ 土俵岳山頂

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 ↓ 土俵岳山頂からの左御前山、右大岳山

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 ↓ 土俵岳から浅間峠の間

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 さらに日原峠をへて浅間峠へは、広葉樹の割合も多く、気持が良い。今回いくつも通過した峠の中で、この浅間峠が最も大きく、東屋もある。

 

 ↓ 浅間峠の手前

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 ↓ 浅間峠

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 少憩ののち、峠から檜原上川乗方面への路に入る。すぐに右にトヤド浅間への尾根に乗る。踏み跡は思ったよりも薄いが、尾根上を辿ればよいので、慎重に行けば問題はない。

 

↓ トヤド浅間に向かう

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815mピークを越えた先の頂上831mは小広く、植林、広葉樹半々で展望はないが、それなりに頂上らしい雰囲気はある。古い手書きの山名表示板には「ズンガリ」とも書かれていた。その意味はわからない。トヤドは「鳥屋戸」で、かつてこのあたりで小鳥を捕まえるカスミ網などを仕掛けたところなのではないか。三角点のすぐそばには小さな祠がある。たぶんこれは浅間神社であろう。

 

 ↓ トヤド浅間山頂 この右前方に祠がある

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 さて下りである。その祠のところからごく自然に進みだす。ほんの10mも進んだところで何か引っかかるものがある。この方向で本当に良いのか?トヤド浅間のエリアに入ってからの踏み跡の薄さからすれば、この下りは要注意である。一ヶ月前の達沢山・中尾根での失敗が頭をよぎる。今回は慎重に2.5万図を片手にコンパスを振る。何と、目指す方向と45度ぐらいずれている。危ないところであった。いまさらながら、2.5万図とコンパスは必携であり、その使用は必須であると再認識。やれやれ。

 

 ↓ 下りの途中の伐採地から見る浅間尾根

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 古い赤テープが頼りの下りは、薄いながらも踏み跡はなんとか辿れる。やがて伐採地に出て一安心する。ところがその先でまた怪しくなる。山と高原地図では尾根の最下部で破線が二つに分かれるのだが、まだその手前と思われるあたりで左からのしっかりした作業道が合流してくる。これかなとも思って辿って見るが、それは登っていくようだ。やむをえず、そのまま尾根上を下降する薄い踏み跡を辿る。

 もう右手に民家の屋根が見え、岩まじりの痩せ尾根状になるあたりになると、タラの木やクマ苺などのトゲトゲの植物に行くてをはばまれる。左側に逃げようと試みるが、踏み跡は見いだせず、やむなく痩せ尾根に戻り、直進する。尾根上にはいくつかの人工物が設置されており、まあこれはこれで間違ってはいないはずなのだが、最後の小ピークから先がわからない。眼下には車の走る道路。踏み跡を左に辿ると、どうにもヤバそうな崖。二度三度と右往左往したあげく、最後の小ピークまでもどり、覚悟を決めて右前方に下る。最後に道路の法面の上に出るのを警戒したのだが、あっさりと法面からの通路に出ることができた。そこは京岳バス亭の少し先であった。15分ほどでやってきた満員のバスに乗る。結局トヤド浅間からの下りが今回の山行の核心部であった。

 

付記①

 全体を通じて意外と足が疲れた。前回の山行から9日たっているから疲れが残っているわけではなく、ちょっと不思議だった。途中で気づいたのだが、そういえば前回はサポートタイツをはいていたのだった。8月の燕~槍で初めてはいていたのだが、その締め付けられる感じというか、違和感があり、また実際どれほどの効果があるのか、今一つ実感できず、好感がもてず、今回は難度も低いことから着用しなかったのである。しかし今回の疲労感からすれば、やはり一定以上の効果はあるのだろうと認めざるをえない。一日たっても筋肉痛と言うほどではないが、疲れは残っている。複雑な心境である。それは一種の人工登攀ではないか。しかし、今後どうしよう。

 

付記②

 (中)高年登山者(私もその一人)が多いのは仕方ない、悪いことではないとして、マナーが悪いというか、例えば「すれ違う時は登り優先」という最低限のルールを知らない人と山中で行きかうと、やはり少し不愉快になる。

 また満員バスで、生活の足として使っているであろう地元のお年寄りが立っているのに、シルバーシートに座った中年の人(そのお年寄りよりは明らかに若い)が席を譲らないのは見ていて不愉快である。それを指摘できない私も情けないが。

(記:2016.11.18)

 

【コースタイム】2016.11.18(金) 快晴

浅間尾根登山口バス停10:05~大羽根山11:10~笹尾根11:40~笛吹峠(大日峠)12:00~丸山12:20~土俵岳1005.2m13:20~日原峠13:40~浅間峠14:20トヤド浅間15:10~京岳バス亭16:15

42(?)番目、20年ぶりの百名山 祖母山  2016.11.7

 前回8月の燕~槍縦走ですっかり味をしめたというか、意気投合したメンバーで、二回目の防高山岳部OB会(?)の秋山合宿をやろうということになった。基本は山口と東京の中間あたりの百名山ということと、私の個人的なつてもあって、いったんは大峰山ということに決まった。しかし、その後調べて見ると、今なお女人禁制が生きているとのこと。フェミニズムと宗教的意義のすり合わせという難問はともかく、無理押しすれば登れないことはなさそうだが、ここはメンバーの一人のF嬢の意を汲んで、急きょ九州の祖母・傾山群に変更した。

 当初、祖母山から傾山への縦走ということで計画を立ててはみたが、冷静に考えれば山中二泊の避難小屋泊まりといいうのは、現在のわれわれには少々荷が重いというのが正直なところ。結局、麓の民宿から祖母・傾、それぞれ日帰り山行を二つということにした。これはこれで悪くない計画である。

 

11月5日

 たまっていたマイルを使って山口宇部空港へ。出迎えてくれた同行のKは、つい先日故郷に退職帰郷を果たしたばかり。その実家にお世話になった。同夜、防高山岳部の4学年にわたるOB有志9名が集まってKの帰郷歓迎会。全員がほぼ、または完全に現役をリタイアしている。ああ、光陰矢の如し。

 

11月6日 晴れ

 最新データが入っていないカーナビのおかげで、大きく迷走迂回ルートを辿らされて、豊後大野市上畑の民宿を目指す。途中、行がけの駄賃に原尻の滝とやらに寄って見る。「日本のナイアガラ」はいささかオーバーだが、まあそれなりのもの。だがそれよりむしろ、周辺に散在する石仏群の案内表示に心惹かれる。

 

 ↓ 「日本のナイアガラ」

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 本来の登山口の尾平にある旅館は現在休業中とかで、少し手前にはなるが、上畑の民宿泊は選択の余地がないのである。そのすぐ近くまで来ているはずなのに、人家は見当たらない。電話して確認し、脇道を入ったところでようやく探り当てることができたが、本当にたった一軒だけ、山陰にひっそりとたたずんでいた。御主人は現在85歳。奥様は入院中とかで、年老いた犬と暮らされている。なんだかこれだけでも一篇の物語のようだが、なかなか味わい深い。

 

11月7日 快晴

 4:30起床。5:00心づくしの朝食後、車で登山口の尾平鉱山跡へ。駐車場に車をデポし、6:45に出発。その時点で水の入ったペットボトルを忘れたというか、宿においてきたことに気づいた人、約一名。水量豊かな奥岳川沿いに進み、吊橋を二つ渡り、さらに二回の渡渉がある。その内の一回は滑りやすい対岸へのジャンプである。

 現在、祖母山に登るのは比較的容易な神原コースや熊本県側からのコースからが多く、今回われわれが登る黒金山尾根は健脚向きとされているらしい。あえて難しいルートを選んだつもりはなく、二つの山を登る上での山群の構成上からと、渓谷美や岩峰、原生林、一部とはいえ縦走路を辿ることができることなどから選んだルートである。とはいえ、尾平からの標高差は1166mであるから、確かに日帰り登山としてはなかなかのアルバイトである。尾根の取付きはやや急傾斜で、中間にややゆるやか部分もあるが、その前後はまた傾斜がきついという構成である。

 明るい自然林の尾根上に続く山路は歩きやすいが、意外と歩く人は多くなさそうである。ところどころ美しく色づいた紅葉が目を楽しませてくれる。しばらく行くと前方に岩峰の連続する主稜線が見えた。なかなか素晴らしい山容である。

 

 ↓ こんな感じ

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 ↓ 中腹では紅葉していた

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 ↓ 天狗岩から主稜線上の岩峰群

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 だいぶ登り、スズタケのややうるさくなってきたあたり、左に天狗岩の岩峰が近づいてきた頃、水場が出てきた。そのすぐ上が天狗の岩屋。充分ビバーク可能である。さらにちょっとしたゴーロ帯、二三の梯子を慎重に登れば天狗岩の横の縦走路にポンと飛び出した。出発して休憩も含めて3時間45分だから、ほぼコースタイム通り。悪くないペースである。だいたい今日のペースがつかめたように思う。

 すぐ近くの展望台のピークに立てば、眼前に目指す祖母山、振返れば遠く美しい傾山と、そこに至る重厚な縦走路が見える。西には先頃噴火した阿蘇山が巨体を横たわらせている。予想以上に素晴らしい景色に歓声が上がる。

 

 ↓ 主稜線上の展望台から祖母山頂を見る

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 ↓ 傾山をのぞむ

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 ↓ 遠く阿蘇山塊をのぞむ 中央中岳 右のゴツゴツは根子岳 その主峰右側に先の地震で生じた崩壊が見える。

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 縦走路を辿ると頂上直下になにやら垂直の長い梯子が見える。あれを登るのかと思いながら頂上直下の急登に差しかかると、確かにいくつかの梯子は出てくるものの、先ほど見えていたものとは違う。

 

 ↓ 頂上直下ではいくつか梯子が出てくるがこれではない

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次か次かと思う内にポンと頂上の手前に飛び出した。あれはいったい何だったのだろうかと思うが、よくはわからずじまい。

 これまで人っ子一人出会わなかったが、さすが百名山の山頂ともなるとそうはいかない。とはいってもやってきたのは三組七人ほどである。静かな山頂で360度の大観を堪能する。

 

 ↓ 記念撮影です。左K、中一級後輩のF、私。

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 ↓ 古祖母山をへて傾山へと続く縦走路

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 私は百名山への執着は、昔はともかく、今はほとんど持っていない。むろん「深田久弥百名山」という、他者の価値観に無条件に追随する登山者の、自由と創造性の無さを批判することはあるが、百名山に選定された個々の山そのものの良さ、素晴らしさを否定するものではない。

 これまで登った百名山は41座。ただしそれは高校生ごろからごく素朴に自分なりにカウントした数字であって、厳密に最高地点ということになるといくつかは怪しいというか、不合格のものが出てくる。例えば富士山は富士吉田口頂上までは登ったにしても、最高地点の剣が峰に立っていない以上、やはり登ったとは言えないのである。その点からすると正確には38座だろう。しかし百名山制覇を目指していない以上、何よりも長く人の行かない山に親しみ、人の行かないルートに喜びを見出してきた私としては、それはまあどうでもよいことである。ともあれ今回の一応42座目の祖母山は、41座目を登って以来実に20年ぶりの百名山である。20年間、百名山には目もくれなかったということだ。

 明治23年に日本アルプスの開拓者ウォルター・ウェストンは日本アルプスにおもむく前の熊本滞在時に、富士山に次いで訪れた九州の山旅で阿蘇の次に、当時九州の最高峰と思われていた祖母山に登った。言うまでもなく九州の最高峰は屋久島の宮之浦岳1936mであるが、九州本土の最高峰は九重の中岳1791mである。帰宅後の事後学習で知ったのだが、ウェストンが祖母山に登ったのは何と11月6日。われわれの登った一日前である(だから何だと言われても困るが、奇縁と言えなくもない)。ちなみにルートは熊本側の五所コースからの往復だったとの由。

 故事来歴はともあれ、祖母・傾山群は広い範囲に障子岩、傾山などの顕著なピークと多くの登山ルートを包括し、またその山懐には数多くのすぐれた沢ルートも内包している。また山岳宗教や周辺に多くある鉱山関係のことなど、人々の生活とのかかわりの面でも興味深い。まさに名山の名に恥じないすばらしい山域である。

 

 快晴の静かな山頂を充分に味わったのち、下山に移る。九合目小屋へは登山者の多さを物語る深く掘りこまれた溝状となっており、滑りやすい。展望の良いやや痩せた尾根を過ぎ、しばらくゆくと宮原コースへの分岐。そこからはまた歩きやすい尾根をたんたんと下る。入山時に見た奥岳川の吊橋を渡ればほどなく車デポに到着。心楽しくも充実した一日の山行を終えた。

 

 ↓ 宮原コース分岐へ向かう 

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 ↓ 宮原コースの末端近く まだ紅葉していない

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 ↓ 奥岳川吊橋付近から見返る 天狗岩であろうか

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【コースタイム】

尾平駐車場6:35~最後の渡渉7:30~天狗の水場10:10~縦走路10:30~祖母山頂12:07-13:13~宮ノ原分岐14:20~駐車場16:40  同行:K重K夫 F.K子

 

11月8日 曇り一時雨

 本来はこの日、九折から三尾コースから傾山に登り、九折越経由上畑コース下山の予定であった。しかし天気予報では午後から雨、3時から雷雨。前日に堪能し(すぎ)たこともあって、前夜の話合いで登山は中止、石仏巡り観光へと転進することにあいなった。せっかく遠路はるばる来て日帰りの山一つとは内心忸怩たるものもあるが、まあ、それはそれ。融通無碍。以下、山ではないが、旅の記録としてごく簡単に記しておく。

 

 のんびりと朝食をとって出発。私以外の二人はなぜか筋肉痛との由。情けない。

 

 ↓ 民宿の近くでみかけた。「獣魂」の語は珍しく、重い。しかし獲った獲物のための石碑を建てる民族は世界中で日本ぐらいのものではないだろうか。

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 一昨日見た原尻の滝の近くから石仏(磨崖仏)巡りを始める。まず最初は辻河原石風呂。

 

 ↓ 辻河原の石風呂。岩壁に穿たれたサウナ。中央の黒くすすけたところが現在でも使われている。

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川岸の凝灰岩の岩肌をくりぬいたもの。風呂とはいってもつまりはサウナであり、したがって北方由来のものだろう。それ自体は石仏ではないが仏教との関連も深いそうだ。近くに他にもいくつかあるようだが、ここは現在も年に一度使われているというのは驚きである。そう言えばわが故郷防府の岸見や阿弥陀寺にも、タイプは違うが石風呂があり、隣の山口市にもある。

 次いで宮迫西石仏と宮迫東石仏を見る。古拙とも言えるがやはり、それなりのレベルのもの。

 

 ↓ 宮迫の西石仏(磨崖仏) 彩色は近世のもの

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 ↓ 宮迫の東石仏 石も仁王もいずれは植物にのみこまれてゆく

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近くには他にもいくつかあるようだが、このエリアは以上とし、臼杵石仏に向かう。

 石仏(磨崖仏)は西日本に多く分布しているが、その中でも大分県は特に多いところである。平安から鎌倉のものであるが、比較的早くに忘れられ、民間の信仰の対象となることも少なく、千年もの間放置されていたとのこと。それは仏教国日本では珍しい現象と言えよう。この日泊まった旅館のロビーにおいてあった『豊後の磨崖仏散歩―岩に刻むほとけとの対話』(渡辺克己 1975年 双林社)の最初の数頁をちょっと読んでみたが、来歴不明で関連資料がほとんど残されていないなど、いろいろ謎の多い存在だということであり、興味がそそられる。

 

 ↓ ウ~ム… ここにもゆるキャラ  

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 次にむかったのは大分の石仏群の中でも中心的な臼杵石仏群。比較的狭い範囲にいくつかの石仏群が存在している。国宝に指定されている古園石仏は長く頭部が落ちて下に置かれたままだったのが、20年ほど前に修復され、胴体の上に戻されたというのを今回初めて知った。やはりレベルは高い。

 

 ↓ いくつかの石仏群が散在している 

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 ↓ 同上 

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 ↓ 上の写真の右の仏像の頭部拡大 

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 ↓ 国宝指定の古園石仏 落ちた頭部は長く下に置かれていた 

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 石仏は当然ながら信仰の対象であるが、私にとっては美術というフレームの中で見ている。先日旅したアルメニアの教会の在り様などとどこかで重なって、美術とは何か、作る・表現するとは何か、という答えの出ない問がまた湧いてくるのを感じるのである。

 

 次いで隣接しているヤマコ臼杵美術博物館をざっと見て、ながゆ温泉の宿に向かう。投宿後、まだ時間もあることだし、ということで、車で30分ほどの岡城址に行ってみた。岡城址といえば「荒城の月」。それから想像していたのはこじんまりとした、うらぶれたものであったが、実際は堂々としたものである。しかし晩秋の曇天の夕暮れという条件もあって、なかなか風情のあるものであった。滅びゆくもの、みな美し。

 

 ↓ 岡城址 本丸入口付近

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 ↓ 追手門付近

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11月9日 曇り

 帰路、帰りがけの駄賃に耶馬渓に寄ってみる。耶馬渓といってもいくつものエリアに分かれているようだが、行ったのは深耶馬渓(一目八景)と本耶馬渓青の洞門)の二か所。深耶馬渓はまあ、特にどうということもなし。ただ、いくつか入ってくる小さな支流を遡ってみると楽しいかなという気もする。青の洞門の掘られた一帯もまあそれなりではあるが、やはり数多くの山、渓谷を見なれた目からするとスケールの小ささは否めない。というのも野暮ではあろうが。

 

 ↓ 下部の道路が本来の青の洞門のあったところ。現在は舗装道路となっている。当初の洞門は入口と出口にわずかに残っている

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 ↓ 禅海和尚の手掘りの鑿の跡が残っている部分。奥の窓は最初に作られた明り取り用の窓といわれている。f:id:sosaian:20161114222052j:plain

 

 ここに限らず、今回の観光はすべて事前にはなにも調べていない行き当たりばったりのものであったため、帰宅後に事後学習してみれば当然見落としも多かったことに気づくが、それはまたそれ。本来行く予定はなかったのであるから、行っただけ儲けものだと思うべきであろう。

 ともあれ山は予定の半分しかこなせず後は軟弱な観光旅行に終わってしまったわけだが、これはまたこれで良しと思う。いや、見方を変えれば、長く気にはなっていても結局一生見ずに終わる可能性の方が高かった、臼杵の石仏群や耶馬渓、岡城址を思いがけずに見ることができたわけだから、むしろ収穫の多かった旅であったといっても良いのである。

 なお、蛇足ではあるが、この日アメリカ大統領にトランプが当選したのを知り、脱力したというか、むなしさにおそわれたことも付記しておく。

 

 その夜は故郷防府でまた別のメンバーで飲み会。退職、帰郷、人生、が肴である。故郷とは言っても、私の生まれ育った実家はすでに人手に渡っている。

 さて次は来年の春合宿。どこに登ろうか。  

                          (2016.11.11)

燕岳から槍ヶ岳へ(30年振りの北アルプス・45年振りの防高山岳部夏山合宿) -2 

8月3日

 4:00起床。快適とは言い難いが、まあなんとか眠れた。夜半、雨が降ったが、明ければ上空は良く晴れている。下界は一面の雲海。日の出を見る。格別な太陽信仰は持たぬにしても、やはり荘厳としかいいようのない、光と彩の織り成す壮大なドラマである。遠く八ヶ岳南アルプスの間に、富士山がそのシルエットを小さく見せている。

 ↓ 富士山を望む

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 振返れば、目指す槍ヶ岳方面の眺望が素晴らしい。何というべきか。さすが北アルプスである。これだけの豪快さは、やはり他の山域では得られないものだ。

 

  ↓ 黎明の雲海

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 ↓ 槍ヶ岳を望む 手前、喜作新道から大天井岳

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 今日の行程は大天井岳を越えて、東鎌尾根とば口の西岳ヒュッテまで。コースタイム7時間20分、最大標高差670mだから全行程の中で最も楽な一日のはずである。

 

 燕山荘を6:00に出発。なだらかな尾根筋を快適に進む。快適な稜線漫歩である。白い風化花崗岩と這松の緑。合い間に点綴された高山植物。イワギキョウの青、イワツメグサの瀟洒、クルマユリの可憐・・・。

 ↓ 白砂青松の稜線漫歩

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 ↓ 岩桔梗(たぶん)

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 K氏、Fさん、共に快調そうである。私も調子は悪くはないが、何せ、二人の調子が良すぎる。もっとゆっくり歩いて、景色を、花を、山を、愛で、味わいながら行こうと言いたいところであるが、一人遅れ気味では説得力に欠ける。とはいえ、順調に歩けるのは気持の良いものだ。蛙(ゲエロ)岩、為右衛門吊岩とおぼしきところを過ぎ、切通岩と、この表銀座=東鎌尾根をほぼ独力で切り拓いた小林喜作のレリーフを見れば、大天荘への巻き気味の登りとなる。

 小屋に荷を置き、頂上2922.1mを往復する。大天井岳にはまわりのきらびやかな巨峰に比べて、これといった顕著な個性はないが、昨日の燕岳とともに一応、二百名山の中に入っている。頂上は折悪しくガスがかかって何も見えず。早々に下りる。

 ↓ 一応、記念写真 

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 小屋からは巻き気味の下りで大天井ヒュッテへ、さらに巻き道を辿り、ビックリ平で一休み。休んでいたら韓国の登山グループがやってきた。全員大荷物で強そうだ。半分近くは女性。どういうパーティー編成なのかよくわからないが、聞けば総勢12名で、9日間で立山までテント泊で縦走するとのこと。この後も上高地までの間に、結構多くの韓国人パーティーを見た。いわゆるツアー登山らしいが、最近はこうなのだろうか。彼らの目に映る日本の山、日本の登山者はどう見えるのだろうか。両国の歴史的関係はともかく、機会があればゆっくり話をしてみたいものだ。

 その後も赤岩岳を巻き、ヒュッテ西岳まで順調に進む。ほぼ予定通りの行程で終了。小屋に荷を置き、西岳頂上2758mを往復する。途中、比較的新しい熊の糞を見た。これ以外にも何ヶ所で見たが、これが最も新しい。参考のため(?)に写真をあげておく。右の長辺で約10cm弱。まあ、熊もいるだろう。雷鳥は今日も見えず。

 ↓ 参考のためとは言いながら、見苦しいものをお見せします。

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 小屋は小ぢんまりとした、感じの良いもの。ただし、寝場所が蚕棚の上段、トイレが外というのが少々辛い。

 途中前後していた韓国人パーティーのテント場の受付時に、何だか小屋の人がプリプリ怒っている。以前にルールを無視され、だいぶ嫌な思いをされたことがあるらしい。しかしそうは言ってもねえ。双方、それぞれの現地と国際的なルールを理解し、遵守することが肝要なのだ。国や民族の問題ではなく、あくまで個々人そのものの理解とモラル等の問題なのだが、つい「○○人は~!」と口にしてしまいがちである。困ったもんだ。自戒せねば。

 そう言えば、今日は女房の誕生日だった。誕生祝いという習慣はわが家にはないが、こうして一人山にいるというのも多少問題かなと、小さく反省する。

 

【コースタイム】8月3日

燕山荘発6:00~大天荘9:30頃~大天井岳~大天荘発10:30~大天井ヒュッテ11:03~ビックリ平11:40~ヒュッテ西岳14:10

 

8月4日

 山中三日目。快晴。槍ヶ岳に登り、槍沢を下る日、つまりメインの日である。登りの最大標高差は680m、下りの標高差は1380m、コースタイムは8時間半と最長の日。

 黎明の常念岳の左、東天井岳あたりから朝日が登る。槍穂連峰がモルゲンロートに染まる。細くせり上がる東鎌尾根が手強そうだ。

 

 ↓ 右、常念岳

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 ↓ 中央、槍ヶ岳 左に大喰岳、中岳

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 ↓ 右、北穂高 左に奥穂高から吊尾根をへて前穂

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 小屋を出て下りはじめればすぐに階段、梯子、鎖場と続く。以後も痩せ尾根は小さなアップダウンを繰り返し、それを縫うようにしていくつもの梯子、鎖場が連続し、気が抜けない。道そのものはしっかりしている。水俣乗越は計画上の最後のエスケープルートだったが、ここまできてエスケープする理由はない。ただし、Fさんのペースがやや遅いというか、私が遅れず付いていけている。何だか少しリズムが悪そうだ。あとで聞けば、やはりこの日が最もきつかったそうである。ヒュッテ大槍の手前の長い垂直の鉄梯子の下りなど、なかなかスリルがある。

 

 ↓ 手前、天丈沢 右の稜線が北鎌尾根 

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 ↓ 垂直の鉄梯子 鉄は意外と滑りやすい 

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 ようやくヒュッテ大槍に辿り着くと、Fさんはテーブルに突っ伏してしばらくグッタリ。だいぶきつかったとの由。ゆっくり休んだのち、ザックを小屋に預け、サブザックに必要最小限のものだけ入れて、槍の穂先へ向かう。ここまでよく晴れていたが、そろそろガスが去来し始めている。もう少し待ってくれないものか。

 肩の小屋の前から、いよいよ槍の穂へ。場所によって登り下り専用ルートのペンキの表示に導かれて、上に向かう。特に難しいということはないが、ところによっては2~3級の岩登りの領域である。われわれはともかく、こんなところをよく素人が登るなあと思う。団体の高校生グループの下りで、一部混雑している。ちなみにここを登るのにヘルメット着用が必須という話を聞いた。だが、穂高あたりではある程度有効だろうが、槍の穂に関しては、どだい役には立たないだろう。落石はほぼ落ち尽くしていて無いし、滑落ならともかく転落には無意味だと思われるからである。

 

 ↓ 頂上直下の鉄梯子

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 頂上直下の垂直の鉄梯子を二つ登り切れば、そこが頂上だった。

 標高3180m。日本第五位。言うまでもなく日本を代表する名山の一つである。前回来たのは1976年、芸大山岳部の夏合宿として、剣三田平での定着合宿終了後に縦走してきたのだ。入山後16日目だったと思う。雨にたたられた縦走だったが、槍の頂上だけは晴れていたように記憶している。翌年にはちょっとしたいきさつがあって山岳部を退部した。あれから40年…。

 宿累々たる岩の先に、小ぢんまりとした祠が一つ。手前にむき出しの三角点がなぜか二つ。あいにく、ガスがかかり、展望はかなわない。Fさんは数年前に亡くなられた御主人の遺影を取り出され、一緒に記念撮影。彼が見守っていてくれたから恐くはなかったとのこと。人それぞれ、いろんな人生をへて、この山頂に立っているのだ。かつての防高山岳部も、今や全員還暦を越えた。これはこれで感慨深いシーンだと言えよう。

 

 ↓ 頂上は白いガスの中

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 ↓ なぜ三角点が二つ?

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 ガスは晴れそうにもなく、下りにかかる。下りの方が登りよりも恐い。Kが鎖に体重をかけ過ぎてバランスを崩す。右腕に打撲と擦過傷。腫れあがる。Fさんは看護師で元養護教員。応急処置はお手の物。しかしそれ以外に特に問題もなく、下りきる。

 

 ヒュッテ大槍に戻り、ゆっくり休み、つけ麺なんぞを食す。13:10、槍沢ロッジに向けて下降を始める。歩程3時間20分と、先はまだだいぶ長い。振返って見ても、モレーンの堆積した長大な槍沢の上部はガスに覆われ、稜線や槍の穂先は見えない。残雪はコース上には全くない。Fさんのために、万が一に備えて持ってきた軽アイゼンがむなしい。

 水俣乗越からのルートを合わせる大曲をすぎ、横尾尾根の側壁、意外に立派な赤沢山の岩場などに気を紛らわしながら、坦々と下る。下からはまだ陸続と登山者が続く。この長い単調な槍沢を登りのルートに使うのは、気がめいりそうだ。やはり下りに採って正解だったと思う。

 パラパラと降りだした雨粒に濡れる間もなく、ようやく槍沢ロッジに着いたのは16:10。部屋を割り振られたあと、待望の風呂に入る。ただし、入ってから知ったのだが、環境保全のためだろうが、石鹸もシャンプーも置いてない。使用禁止とは書かれていないが、たぶんそういうことなのだろうと理解し、浴槽の外でお湯だけで洗髪する。それでもかなりスッキリした。ここに限らず、他の小屋の洗面所でも、歯磨き粉は使用禁止、場所によっては洗面も禁止となっている。それはそれで知っていれば納得できるし、賛成なのだが、知らずにいるとちょっとびっくりするだろう。

 ロッジの庭先から木の間越しに槍の穂先が見える。ここが槍が見える最後のところなのだ。よく歩いたものだと、一人ビールを味わう。

 ↓ 槍沢ロッジから見る槍の穂

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 部屋は三階で、蚕棚ではないのだが、屋根裏部屋状態で、なんせ暑い。一晩中暑かった。トイレは一階の奥。気を使うことおびただしい。やれやれ。まあ仕方ないですけどね。

 

【コースタイム】8月4日

ヒュッテ西岳発5:40~水俣乗越6:50~ヒュッテ大槍9:10/9:50~槍ヶ岳頂上11:05~ヒュッテ大槍12:30/13:10~槍沢ロッジ16:10

 

8月5日

 今日は逍遥しつつ上高地に下り、中の湯温泉に行くだけだ。私とKは今日中に帰宅可能なのだが、山口県在住のFさんは時間的にちょっと厳しいとのことで、ならばせっかくだからもう一泊温泉に泊まって、ゆっくり山旅の垢を落とそうというわけである。余裕である。

 槍沢ロッジの前から、最後の槍の穂先を一瞥して出発。梓川沿いの道はゆるやかに下ってゆく。朝の光が美しい。

 

 ↓ 世界は光でできている

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 ↓ 前穂東壁 左奥は明神岳

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 涸沢への道を分ける横尾からは前穂東壁がよく見える。徳沢からは奥又白、中又白方面を望みながら、皆にならってソフトクリームを食べる。このあたりまでくると梓川も開け、闊達な風景となる。規模はともかく、ヨセミテ渓谷と構成が似ているなと思う。違いはむしろ樹林相の豊かさだろう。

 急ぐ必要はない。明神橋を渡り、明神池を参拝する。明神岳を背景とするこの池は穂高神社の奥宮、神域とされるだけに、ある種の神々しさがある。そう言えば穂高神社の祭神である穂高見命は綿津見命の子で、つまり北九州経由でやってきた安曇氏とともに、要は海人系、東南アジア系なのである。池の入口には、御船祭のための龍神を象徴する船が置いてあった。内陸の山国、長野県=安曇野が、遡れば海人系だと言うことの、歴史的、民族的な不思議さ、面白さ。

 

  ↓ 神域明神池 後方は明神岳の諸峰

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 明神池からは右岸の自然探勝路を歩く。河童橋を渡れば、そこは観光客があふれる雑踏の地であった。山旅の終り、45年振りの防高山岳部夏山合宿の終了である。

 

 中の湯温泉へはバスで行くつもりで切符も買ったのだが、目の前で定員一杯となり、発車。次はウン10分後だと言う。暑い中で待つのが嫌さにタクシーに切り替え、行ってみたら驚いた。われわれが降車予定の中の湯バス亭から宿まで、歩けば登り一時間以上かかりそうなのだ。一言言ってくれれば最初からタクシーにしたものを。あやういところだった。

 中の湯温泉は立派なホテル。われわれの部屋はやはり登山者用と思われる質素な一室だったが、不満はない。あとはゆっくり一浴、一杯、夕食、そしてゆっくりと寝るだけだ。

 

【コースタイム】8月5日

槍沢ロッジ発6:30~徳沢園9:15/9:40~河童橋12:20

 

8月6日

 朝、目覚めて一浴。ここの宿は部屋からも、露天風呂からも、玄関ロビーからも、奥穂~前穂・明神の稜線、吊尾根がよく見える。右手にはたおやかでおほどかな霞沢岳の山体。

 

  ↓ 中の湯温泉から遠望する奥穂~前穂

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  ↓ たおやかな山容の霞沢岳

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 ザックは、K以外の二人は、宅急便で送ることにし、荷は軽くなった。バス亭まで旅館の車で送ってもらう。11日の山の日の式典のために今日からバス等の入山規制が始まったということだが、われわれには影響はなさそうだ。夏真っ盛りの道を、新島々までバス、新島々から二両の電車で松本駅まで行く。振返って見ても、前山が大きすぎて、槍や穂高といった奥山は見えない。

 松本で蕎麦とビールでささやかな打ち上げ。さて来年の夏山合宿はどこにしようかという話になる。百名山、山中小屋泊。う~ん、さて、どうしよう。白山?そう言われれば、考えざるをえない。

 

 かくて今回の山旅は終わった。30年振りの北アルプスはともかく、ハイシーズンの営業小屋泊は初めてのことであり、山中三泊の縦走もだいぶ久しぶりであった。そうした不安は、結果的には、何ということもなくクリアできたように思う。よくやったなというか、まだ俺もできるんだという実感と驚きもある。

 しかし逆に言えば、有名な山で、山中泊の縦走をするとなると、どうしてもかなりの確率で、シーズン中の営業小屋泊とならざるをえないという現実、テント泊はほぼ無理だという限界を認識したということでもある。小屋泊は最初からその気で我慢すれば、できないことはないということもわかった。何といっても荷が軽くなり、楽なのである。

 しかし、私は人の多い山と、営業小屋泊が苦手だということも、あらためて身にしみてわかった。今後、そのへんのバランスをどう取るかが課題である。まあ、それだけ名山と言われる山は魅力的だと、再認識したということでもある。

燕岳から槍ヶ岳へ(30年振りの北アルプス・45年振りの防高山岳部夏山合宿) -1

 高校(山口県立防府高等学校=防高)時代、山岳部に所属していた。45年前のことである。美大・芸大進学志望ではあったものの、思うところがあり、美術部には入らなかった。その、ほぼ灰色に近かった高校時代を振り返ってみるとき、山岳部の思い出だけが、わずかに淡い青や碧色をふくんだ光を発している。

 山岳部とはいうものの、たいしてトレーニングをするでもなく、非体育会的な、ごくゆるい部であった。県外に出るのは夏の合宿(伯耆大山か石鎚)と、秋の中国大会の二回。それでも春秋の県体を含め、月に一度は山に行った。今と違い、週休二日ではなく、ロクな情報源もなく、地元の社会人山岳会の人に多少の情報を教わったり、部室にあった古い地形図(陸地測量部地図)を眺めたりして、自分たちで計画をたてた。そもそも山口県には、一般的な基準からすれば、たいして山らしい山は無いのである。百名山はおろか三百名山もない。それでも私は、今でも山口県の山が好きだ。

 

 Fさんは私が2年生でリーダーになった年に入部してきた、一級下の女子部員だった。彼女たちの代は女子部員が五名ほどいたが、私と同期の女子部員は事実上いなかったこともあり、以後一貫してめんどうを見たというか、一緒に登ったのである。高校2年生の男子にとって高校1年生の女子というのは、まさしく謎の存在であった。以来3年生の5月に現役引退(そういう決まりだったのである)するまで、ほぼ月1回、計11回の山行を共にした。

 山岳部のある高校自体が比較的珍しい中(当時山口県では八校)で、女子部員がいるというのはさらに少なく、たしか二校しかなかったのではないか。それも翌年にはわが校一校しかなくなったように記憶している。それもあっただろうが、彼女たちはなかなか強く、翌年には山口県の女子としては、おそらく初めてインターハイ福島県・吾妻山系)に出場したりした。

 ちなみに防高山岳部はその後登山部と名前をかえ、男女ともインターハイ優勝を目標とする、インターハイや国体出場の常連校となっているらしい。2012年ワールドカップ・リード部門オーストリア大会と2013年同スロベニア大会で優勝した小田桃花も輩出している。こうなってくるともう完全に別世界の話だが、少しうれしい気がしないでもない。

 

 Kとは中学・高校と同窓で、山岳部でもずっと一緒だった。とはいえ、文理のコースも違い、部員同士、同級生同士であっても、特に親しい間柄というわけでもなかった。

 FさんともKとも、卒業後のそれぞれの進路とともに、縁は薄れていった。以来、幾星霜。

 数年前にKが長いアメリカ勤務から帰国し、何となくといった感じで、付き合いが復活した。お互いの旅好きがうまく共鳴し、何度か海外旅行を共にした。そうした中で、バリ島のバトゥール山1717mを一緒に登り、グランドキャニオンやヨセミテのトレイルを歩いた。現在、退職目前で、目下、有給休暇の消化にいそしんでいる身。

 

 Fさんとは、私が30歳頃から地元に近い徳山市で定期的に個展をするようになって以来、山口県の各地に在住している、他の当時の女子部員たち、Wさん、Sさん、Mさんとともに、ほぼ三年に一度ずつ会っていた。その彼女が今春定年退職となったのを機に、また山登りを、それも百名山を中心としたそれを、再開したいという思いにかられたらしい。

 槍ヶ岳が最終目標だと言う。はいはい、気をつけて、と答える。そのためにまず穂高に一人で登ると言う。おいおい、穂高の方が槍より難しいよ、大丈夫なの?ルートはどこから?せめて穂高の前に槍からにしなさいよ、といったやり取りをかわした。同行する気はまったくなかったのが、途中でKにその話をしたところ、K曰く「俺も行く」。「俺も」? 私は行く気はないよ、だったのが、なんだかいつの間にか結局同行することになってしまった次第である。

 北アを含めてアルプスと名のつくところに最後に登ったのは30年前。現在では魅力の点というよりも、実際的な体力の面から、行く気は全く無かった。それが、あれよあれよという内に、行くことになってしまった。本当に私は「行く」と言ったのだろうか。どうにも記憶が曖昧である。山中三泊の縦走などもう十数年以上やっていない。大丈夫なんだろうか?

 

 ルートはたいして迷うこともなく、燕岳から槍ヶ岳、槍沢下山、と決めた。いわゆる表銀座と言われるコースである。むろん小屋泊まり。槍沢からの往復をのぞけば最も容易なコースと思われ、また充分魅力的なコースだからである。ただし私はこのコースのうち、大天井~槍ヶ岳~横尾以外はすでに歩いている。主要なピークは皆踏破済み。またKも槍沢以外は踏破済。しかし、まあいいか。30年40年ももたてば既に記憶も薄れているし、何より、可愛い後輩の女子の望みをかなえるためなら。言ってみれば45年ぶりの防高山岳部夏山合宿みたいなもんだ。

 

8月1日

 スーパーあずさ11号で松本駅大糸線のホームで山口から来たFさんと合流。FさんとKは高校卒業以来の再会である。穂高駅からはタクシーで中房温泉へ。宿の部屋は値段の割にはいかにも登山者専用といった趣だが、シーズン中だからまあ仕方がないか。ともあれ、入下山にそれぞれ温泉で一泊というのは、時間と経済力に余裕の出てきた今なればこそのスキルである。

 夜、豪雨。宿に上がる道路は封鎖され、近辺では警報も出たらしい。

 

8月2日

 曇ってはいるが、雨は上がっている。朝食の弁当(二種類のおこわとカロリーメイト!)をむりやり詰めこんで出発する。

 樹林帯の中のよく整備された登山道を、ひたすら登る。前夜の雨にもかかわらず、この山の地質を成す風化花崗岩質のせいか、ぬかるむこともなく、歩きやすい。周囲の樹林はさすがに素晴らしい。植林は全くない。第一、第二、第三ベンチ、富士見ベンチと通過するにつれ、混みあうというほどでもないが、陸続と登山者、下山者が行き交う。さすがに人気の山だ。

 

 ↓ 登り始めはこんな感じ

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 この登りは「北アルプス三大急登」と称されており、燕山荘までの標高差は約1200m。ふだんの日帰り登山でも標高差1000m程度は時おりこなしているからさほどでもないはずだが、やはり久しぶりの背中の重荷(といってもせいぜい10㎏少々なのだが)のせいか、山のスケールの大きさのゆえか、トップを行く元気なKに次第に遅れるようになる。後続を置いて行くその登りは、相変わらずだなと思う。ただし、遅れるのは私一人で、Fさんはしっかりついて行っていた。しっかりしたものだ。

 合戦小屋で一休み。スイカを食べる。何という贅沢。その上あたりから森林限界を越える。お花畑が出てくる。ハクサンフウロトリカブト、まだ蕾のウスユキソウ、その他、名を知らぬ花々。先行の二人との距離はいよいよ大きくなり、燕山荘目前で多少雨が降り出したところで雨具を着れば、ほどなく二人の待つ小屋に着いた。やれやれである。

 

 ↓ 燕山荘と燕岳 (翌朝の撮影)

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 1時間ほど休んだ後、空身で燕岳の頂上に向かう。ガスっていて展望はあまりきかないが、奇岩がそびえ並ぶゆるやかな砂礫地を行くのは気持が良い。この奇岩群には過去多くの絵描きが魅了されてきた。そこをスケッチブックも持たずただ登高するのは、少々引け目を感じないでもないが、まあそれはそれ。

  ↓ 奇岩 その1

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  ↓ 奇岩 その2 イルカ岩

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  ↓ 奇岩 その3 メガネ岩

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  ↓ 奇岩 その4

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 コマクサがずいぶんたくさん咲いている。これだけ移植し増やすには相当の時間とエネルギーを要したことだろう。

 

  ↓ 風化花崗岩の砂礫とコマクサ

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  ↓ コマクサの群落とハイマツ

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 燕岳山頂(2763m)はわずらわしい山名表示板などもなく、シンプルで清潔で好ましい。30年前の記憶もほとんど無い。ともあれ、いよいよ槍ヶ岳へのスタートである。

 

  ↓ ガスに包まれた燕岳山頂 中央Kと右Fさん

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 燕山荘は北アで最も人気の高い山小屋だとか。なるほど、とは思う。食事も良かった。最盛期には食事も6交替だとか聞いたが、今回は2交替制で、それなりに余裕はあった。夕食後の小屋の主人の話も有意義だった。中でもストック、特にダブルストックを自粛すべき意義、その他。そして今日の私の不調は、どうやら軽い高山病のせいであったかもしれないと、思い至る。

 しかし、今回の山中3泊の計画で最も気がかりだったのが、この山小屋泊ということなのだ。私はずっとテント専門でやってきたので避難小屋はともかく、営業小屋、特にハイシーズンのそれは経験がない。特に歳のせいか、就寝中に二度三度と小用に起き出すことを考えると、実に憂鬱になるのである。結果的にはどの小屋でもまあ何とか事なきを得たのであるが、精神的にはやはり快適とは言えない。他にもいろいろ気を使うことは多い。といって、いまさらテント泊の縦走というのは、荷物の重さなどから現実的にはほぼ無理であり、悩ましいところである。

 

【コースタイム】8月2日

中房温泉発5:50~富士見ベンチ8:33~合戦小屋9:35~燕山荘11:30/12:45~燕岳13:15~燕山荘14:00頃

宮沢賢治ゆかりの山を登る-2 『風の又三郎』の原点、種山ヶ原・物見山

 7月15日、岩手の山旅も四日目、最終日である。今日の予定は姥石から種山ヶ原(物見山869.9m)に登り、夕方の新幹線で帰ることだけだ。山歩きは実質1時間半ほど。登山口の姥石までどのくらい時間がかかるかわからないが、たいしたことはあるまい。おそらく時間をもてあます。帰途、土沢の万鐵五郎記念美術館にも寄って見ようと思ったが、調べるとあいにくと展示替えのため休館日とある。残念だがこれも縁だ。仕方がない。まあ、行き当たりばったりで、適当に寄り道しながら行こうということになった。こんな時、レンタカーと、適当に旅の仕方を知っている同行者なのは、気楽である。

 

 朝の一浴と朝食後、出発。S氏は一昨日昨日のアルバイトで筋肉痛との由。運転しない(できない)私は助手席でお気楽だが、せめてカーナビに注意していようと思ってはいても、そもそも種山ヶ原がどの辺にあるのかすら把握していないのである。

 興味がないわけではない。「風の又三郎」や「異稿 風野又三郎」、そしてそれらの原点とも言うべき「種山ヶ原」や、柳田国男の「遠野物語」等を通じてずいぶん昔から興味というか、むしろ憧憬に近い感情を持っていた。三十年近く前には『かぬか平の山々 秘境・北上山地を歩く』(日本山岳会岩手支部編 現代旅行研究所 1988.4.25)を購入したりしている。ちなみに「かぬか平(てい)」とは、馬の産地としての草地に定期的に火入れ(野焼き)をする火野・刈野・鹿野などからきた名称で、「北上山系の芝生のなだらかな山のことをいう。沢を登りつめ、ヤブをコギ、カヤをかき分けてパッと明るい天然の芝生の平らに出る。それが“かぬか平”である。(同書p.38)」と記されているような、広漠とした、おおどかなイメージに惹かれたのである。

 早池峰姫神、その他無数の山々と遠野物語の神秘を包摂する広大な準平原。しかし、北上山地と言っても、その範囲はきわめて広い。50万図「弘前」「盛岡」「一関」の三枚でもカバーしきれない。そしてそれだけ広大な山地と言っても、山として有名なのはせいぜい早池峰姫神ぐらいのもの。「日本のチベット」と言われていたように、電車を降りてからの公共交通の便も悪く、新幹線の開通以前の北上山地は実に遠い処だった。なまなかのことではおもむく気になれなかったのは、やむをえない。そうしているうちに、還暦を過ぎてしまったという次第である。しかもたまたま今回は、50万図「一関」も5万図も2.5万図も事前に用意できなかった。かろうじて「地理院地図」のサイトで必要最小限の部分だけプリントアウトして持ってきた。やはりちゃんとした地形図を持っていないと、それだけ味気ないというか、旅や山歩きの楽しみが減るのである。

 

 ともあれ、現在地もよくわからぬまま、ナビ嬢の仰せにに従って車を走らせる。コンビニに立ち寄る。なんて便利な世の中になったものか…。一帯は山村であることは間違いないが、山らしい山の形も見えず、ゆるやかな登り下りと蛇行を繰りかえす。これが準平原というものなのかと思い至る。雲は多いが、天気はまあまあ。緑が美しい。風が清々しい。すべての要素が東京や西日本とは違う。

 

 途中で「重要文化財 伊藤家住宅」という標識をみかけ、すかさずそちらの脇道に入る。寄り道である。茅葺(芝棟)、土壁の中に、板の間の三部屋と厩と土間がある。曲り家ではなく、直方体に屋根を葺いた直家(すごや)というシンプルで質朴な建築様式。一つ屋根の下での馬と一緒の暮らし。

 

  ↓ 伊藤家住宅

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 ↓ その前庭にある、後に建てられた馬屋 アジア的!

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 土間の一画に囲炉裏をしつらえ、地元の管理の方が火にあたっておられる。私は古民家などを見るのも好きで、これまで各地で機会があれば見てきたが、ここの長年にわたって黒く燻された暗い室内にいると、懐かしさといったものを通り越して、どこか昔の外国の辺境にでもいるような気がしてくる。特に西日本山口生まれの私には、こちらの言葉も含めて、その感が強い。決して日本は一つなどではないのだ。「18世紀中期ごろのこの地方の古形式を持つ農家として、旧状を良く留めています。」と表の説明板にあった。妙に余韻を残す古民家であった。

 

 このあたりには人首(ひとかべ) 古歌葉(こがよう)などといった、なにかいわくのありそうな、あるいは優美な地名が多く残っている。登山口の姥石も同様に古雅な地名だが、しかし道の駅は「種山ヶ原『ぽらん』」と名付けられている。地理院地図の物見山(種山)には「∴イーハトーブの風景地種山ヶ原」と付されている。以下、種山ヶ原森林公園内に細かく張り巡らされたコースには「ブリューベルの径」、「アザリアの径」、「イリスの径」といった、確かに賢治にゆかりはあるかもしれないが、少々気恥かしくなるような名前がつけられている。いくら観光客相手とはいえ、もう少しセンスがあって欲しいものである。

 道の駅で昼食のおにぎり、カレーパン、トマトなどを購入して準備完了。ルートはほぼ南尾根沿いだが、なるべく車道を歩かないようにコースをつなぎ、そしてなるべくのんびりとゆくことにする。

 

 ↓ こんな感じ

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 標高差は270mだが、道は幅広く、かぎりなくゆるやかである。周囲の森は自然林と植林の混生のようで、気持は良いが、よく手入れさえた道のわきには、花ざかりのハナミズキが並木のように植えられている。市中や山麓の公園ならともかく、ここのような山中に、元々そこにない種類の木、特に桜やハナミズキなどといった一般受けする花木を植えるということに、私は賛成できない。いくら観光のためとは言え、あざといというか、そこにある本来の自然を味わいに来たはずの人を結局は落胆させるように思う。まあ、一まれびとの意見ではあるが、一定の普遍性はあるだろう。

 ブリューベルの広場をすぎ、ほどなくぽっかりと開けたアザリアの広場に飛び出した。これまで展望のない森の中を歩いてきただけに、まことに気持の良いところだ。アザリア(ツツジ)の季節は過ぎたが、小さな白や黄色の花が咲いている。ここはもう頂上の直下なのだが、ゆっくりと一休みする。空も少しずつ晴れてきたようだ。

 

 ↓ イリス=アヤメの類

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 ↓ アザリアの広場

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 そこから車道を渡り、右に巨大なレーダーを見ながら一投足で、広く気持の良い870.6mの山頂に着いた。種山ヶ原とはこの広がりの一帯を言い、物見山は山頂そのものを示す名である。360度の展望。眼下には種山牧場。あいにくと早池峰方面はレーダーに隠れて見えないようだ。何せ5万図も50万図もないのだから、山座同定など及びもつかない。ともあれ、初めての北上山地、感慨深い。100年前、賢治はここを何度も訪れたのだ。 ・・・どっどど どどうど どどうど どどう・・・

 

 ↓ 頂上にある巨石の上から三角点を見る

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 ↓ 広漠たる準平原 北上山地

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 ↓ 三角点の上で何やらアートを制作中のS氏

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 しばしの休憩と昼食の後、下山に移る。付近に散在する岩塊は残丘(モナドノック)、というよりもこの物見山の高まり自体が残丘なのだ。

 コースはゆるやかに下り、一部車道を辿り、途中から左に折れ明神コースに入ると、またぽっかりとした小広い空間「イリスの広場」に出る。確かに、ときおり妖精が現れても不思議ではない。そこから20分あまり歩けば姥石集落に出た。道の駅はすぐそこである。

 

 ↓ 途中の無名の草原 無名であることにほっとする

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 ↓ 車道からそれて明神コースの森へ

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 ↓ イリスの広場

 

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 かくてハイキングと言うことさえはばかられそうな、ささやかな山歩きは終わった。元図工教師のS氏いわく「小学生の遠足に最適の山」。山高きがゆえに尊からず。ルート長きがゆえに尊からず。対照的な山容の前日の南昌山と合わせて、北上準平原の可愛らしい小ピークを訪ねる山旅は終了した。たまにはこんな山も良いもんだ。

 

 ↓ 帰途 増水気味の猿石川f:id:sosaian:20160723151056j:plain

 

 その後また、のんびりと土沢の和紙工芸館などを寄り道しながら、夕方新花巻駅に到着。賢治蕎麦とビールでこの四日間を振り返る。

 いつも気づくのは、きっかけとしての外部性ということだ。行きたい気はあっても、60歳すぎるまで実行することのなかった、宮沢賢治ゆかりの山めぐり。あるいは岩手山なら、相当がんばった上でならば、自発的に一人で行くかもしれない。しかし南昌山、種山ヶ原に一人で行くことは、おそらく一生なかったであろう。外部性としてのS氏からの一言があったがゆえに実現した今回の山旅である。

 どうせ実現しきれぬほどのプランを抱いている私ではあるが、それらが一つでも多く実現できれば、それだけ嬉しい。行為の基本は私個人の、ともすれば頑固にすぎがちな主体性・自発性であることは動かないにしても、時として外部からのはたらきかけに、自然にしなやかに身をゆだねる柔軟性は、今後とも大切にしたいと、あらためて思うのである。それこそがどうやら、私という現象の、社会・世界に向かい合う振る舞い方であるらしいと、歳とともに思うようになってきたのである。

 

【コースタイム】

道の駅種山ヶ原「ぽらん」11:30~南尾根~物見山(種山ヶ原)山頂12:40‐13:10~イリスの広場~明神コース~道の駅14:25 

 

宮沢賢治ゆかりの山 ― 1 『銀河鉄道の夜』の舞台、南昌山

 初めて宮沢賢治を読んだのは、小学校の4年生か5年生の時。そのころ私はすでに重度の活字中毒・読書好きであったにもかかわらず、わが家では本を買うという習慣がほとんど無かった。あるのは姉たちが定期購読していた学習雑誌か、農業雑誌の「家の光」(ああ、懐かしい!)くらい。

 そんなある日、めったにない事なのだが、父に誕生日に何が欲しいかと聞かれ、「本」と答えたのである。父は「本か…」とつぶやいたような気もするが、バイク(ホンダカブ)の後ろに乗せて町の本屋に連れていってくれた。特に目当ての本があったわけではない。一軒の本屋で『宮澤賢治名作集 (少年少女世界名作全集)』(偕成社 1963.7.25)を見つけたのは偶然である。その時点で宮沢賢治を知っていたかどうかは、憶えていない。おそらく知らなかったのではないかと思う。それを選んだ理由は思い出せないが、中身を少し読んで、どこか、何か、心惹かれるものがあったということなのだろう。それを買ってもらい、さらにもう一軒別の店で漱石の『坊っちゃん』も買ってもらったが、こちらの方は知っていた。『坊っちゃん』はすぐに読み終えた。それなりに面白かったが、そのときはそれだけのことである。

 この『宮澤賢治名作集』は50年たった今現在、手元にあるのだが、「銀河鉄道の夜」、「風の又三郎」、「グスコーブドリの伝記」等、代表的な童話はほぼ収録されており、詩が「雨ニモマケズ」、「永訣の朝」ほか三篇、他に「その他の作品紹介」や解説等、今見ても良く構成された、充実した内容である。詩についてはやや印象が薄いが、小学校の4・5年生にはちょっと難しかったのだろう。中学校での「春と修羅」との出会いまで待つ必要があった。ちなみに同書の「銀河鉄道の夜」では、ジョバンニがカムパネルラの死を知る場面が銀河鉄道に乗車する前におかれているが、現行ではそれが終りにおかれている。同書に親しんだ私としては現行の配置転換はいまだになじめないところがあるのだが、後述の松本隆氏も同様だとのこと。

 ともあれ、小学生の私にとって、初めて出会った宮沢賢治の作品は実に魅力的だった。その世界にごくすんなりというか、ぬるりと入っていった感覚を、今も懐かしく思い出す。その当時「異界」という言葉は、むろん知るよしもなかったろうが、それは間違いなく異界への入り口であった。運命的な出会いだったといっても良い。そして今に至るまで私にとって、宮沢賢治は最も好きで、大切な文学者・詩人であり続けている。

 

 似たような体験をへた賢治好きは多いだろう。学生時代に知り合った友人S氏もまた幼時に母親の読み聞かせによって賢治好きになったとのこと。しかしそのことを知ったのは、つい最近のことだ。およそ美術以外のことは、あまり話題にしたことがない間柄なのである。

 その彼が『童話「銀河鉄道の夜」の舞台は矢巾・南昌山』(松本隆 2010.11.23 ツーワンライフ出版)という本を知っているかと言う。宮沢賢治についての本、研究書は多い。それこそ山ほどある。おそらく漱石と双璧か、あるいはそれ以上、つまり日本で最も多く研究書・関連書が出ている文学者であろう。あまりに多すぎるゆえに最近ではめったなことでは買わない、読まない。なによりも筑摩書房の『校本 宮沢賢治全集』全14巻が出て、さらにその後、『新校本 宮沢賢治全集』全16巻+別巻1(全19冊)が出るにおよんで、その膨大さに圧倒されて、何かをあきらめたような気がする。

 S氏が上述の本に載っている南昌山847.5mに、夏至の日に登り、頂上で一泊しようと言う。詳しくは同書を読んでもらうに如くはないが、概要は「銀河鉄道の夜」の中の天気輪の柱のある丘が紫波郡矢巾町西方の南昌山であり、カムパネルラのモデルが中学校の一年先輩の藤原健次郎だという説を主として考証したものである。

 

 宮沢賢治ゆかりの地めぐりとしては、ちょっとした奇縁があって、三年前にその墓や賢治記念館、イーハトーブ記念館、イギリス海岸などを訪ね歩いた。だから、いまさらゆかりの地といってもそうは食指が動かない。しかし、山登りとなればまた話が別だ。できれば岩手山早池峰といきたいところだが、上述の主旨からすれば、標高に不足はあるが、仕方がない。同書を一応読み終える頃には、それなりにというか、大いに興味が湧いてきた。ついでにと言っては何だが、「風の又三郎」の原点である物見山(種山ヶ原)も計画に加えると、すっかり「宮沢賢治ゆかりの山めぐり―その1」といった気分である。

 同書によれば銀河鉄道に乗ったのは、ケンタウル祭=夏至の日ということであるが、いかんせん梅雨の真っ最中。幸いS氏の都合もあり、一ヶ月ほどずらして早めの梅雨明けを期待したのだが…。

 

 旅行全般についてS氏が、山登りについては私がという分担で、7月12日発。昼前に新花巻駅着。事前に依頼しておいたボランティアガイドの高橋さんと合流。聞けば全国どこでもボランティアガイドが大流行りで、それはけっこうなことなのだが、最近はそれらの多くが有料となっているらしい。それなりの理由あることなのだろうが、有料のボランティアというのも何だかなあ~、という気はする。しかしここ岩手花巻では無料との由。むろん抜かりのないS氏のことだから、あらかじめ手土産を用意してきたのはさすがである。

 その高橋さんのガイドで、レンタカーで動く。羅須地人協会の建物(現在、県立花巻農業高校に移築されている)、イギリス海岸、羅須地人協会跡地、賢治の生家、賢治の母の実家、田日土井の「渇水と座禅」詩碑、賢治と宮沢家の墓、ぎんどろ公園(花巻農学校の跡地)、などを見て歩く。田日土井の詩碑以外はすでに一度訪れているところだが、二度目には二度目の感慨があるが、本稿は「山」のカテゴリーなので、委細は省略。

 

 ↓ 羅須地人協会の建物 集会室にて 左:ボランティアガイドの高橋さん 右:S氏

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 夕方、賢治ゆかりの鉛温泉湯治部(自炊部)に投宿。昔ながらの湯治場の面影を色濃く残している宿である。素泊まりとはいえ、布団と浴衣を借りて3000円とは素晴らしい!中でも昔の雰囲気をそのままとどめている白猿の湯の、豪壮かつ質朴な浴室空間は、私が体験した温泉の中でも最上位にランクされるものだった。

 

 二日目の朝、矢巾駅で連絡しておいた『童話「銀河鉄道の夜」の舞台は矢巾・南昌山』の著者松本隆さんとお会いする。駅の展示コーナーでたまたま開催中の「賢治が愛した南昌山と親友藤原健次郎 『童話銀河鉄道の夜』の舞台は南昌山」展の展示パネルを前に丁寧なレクチャーを受けた。地方の在野の研究者として、地道かつ実証的な研究を続けてこられたその熱意が、痛いほどに伝わってきた。

 

 ↓ 中:松本隆

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 その後、藤原健次郎の生家に行き、隣地から望む箱ヶ森(現名:赤林山)、毒ヶ森、南昌山、東根山と連なる、賢治が愛し、登った山々を見る。標高は高くないが、美しく、また可愛らしい愛すべき山々の連なり。こうして佇めば、百年の時を隔てて、少年の頃の賢治と共振しているような気がする。現地に身を置かなければ見えないものがある。来て、本当に良かったと思う。

 ↓ 藤原健次郎生家の隣から見た右から赤林山(旧:箱ヶ森)、その左奥の小さく顔をのぞかせているのが毒ヶ森、中央南昌山、左に切れているのが東根山

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 ↓ 南昌山をズーム ほぼ正面を登る

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 その後、松本さんの御自宅で昼食までいただいたあと、賢治たちが実際に歩いた道筋を、要所要所でレクチャーを受けながら、南昌山登山口へと向かった。詩碑の設置された山麓の「水辺の里」は、何年か前の出水でまだ荒れたままなのが惜しまれる。

 幣懸(ぬさかけ)の滝は、南昌山神社と山頂とを結ぶ、雨乞い神事の起点となる重要な場所である。また、これから見るはずの山頂の「天気輪の柱」の石柱が柱状節理のものであり、その産地というか採取の場所がこの幣懸の滝だったのではないかという、私の机上の仮説を確認する上からも重要視していた。ところが、滝に近づいてみると、何人かの男女がうごめいている。見れば女性モデルが滝身で濡れながら、数名のスタッフに囲まれて撮影中である。どうやら、色っぽいというか、怪しげな雰囲気のそれであるようだ。私としては、もっと滝に近づかなければ地質的考察ができないのだが、ちょっと近づける雰囲気ではない。仕方がない。帰途に寄ることにして早々に立ち去る(ただし、帰途では後述するように雨が降っていたせいもあり、立ち寄り確認するのをすっかり忘れてしまった…)。

 南昌山の肩に上がる林道の途中から右に入れば、すぐに南昌山神社。ここまで松本さんに送ってきていただいた。突然の物好きな旅人にもかかわらず、すっかりお世話になりました。本当にありがとうございました。

 この神社は延暦年代(782~806年)に征夷大将軍坂上田村麻呂が山頂に造営し、元禄16年(1703年)に青竜権現の祠が建てられ、合わせてそれまで毒ヶ森と呼ばれていた山名を「部(藩)繁」の意をこめて南昌山と変えたとある。さらにその後嘉永2年(1849年)に山麓の現在の地に移されたということである。祭神は青龍権現で、雨乞いの山として古来より有名。そのためか、谷文晁の『日本名山図譜』にも収録されている。ここが今回のわれわれの出発点である。しかし「部繁」で南昌山というのも相当に現世御利益的な改名ではある。ちなみに現在の毒ヶ森の名は南昌山のすぐ北西のピークに冠され、さらに少し離れた南西の和賀郡境にも同じ名前の山がある。後者は残雪の頃にでも歩けば良い山のようだが、さて実現できるだろうか…。ともあれ人里近い山は、色々と人間の都合で、改名させられたりするということなのだ。

 実は、賢治たちが南昌山の山頂に登ったルートはどこか、という問題がある。松本氏は前掲書や『新考察「銀河鉄道の夜」の誕生の舞台 物語の舞台が南昌山である二十考察』(2014.3.1 ツーワンライフ みちのく文庫)において、賢治の描いた鉛筆スケッチをもとに、幣懸の滝の上流で北ノ沢から分かれた支流の金壺沢の右俣沿いに上る林道「盛岡西安庭線」と同じラインであった旧道を登ったものとされている。このラインは地形的にももっとも容易なため、古くからあった道と重なっていると思われる。現在でも南昌山を訪れる多くの人が辿るルートであり、肩まで自動車を利用して、1時間ほどで山頂を往復することができる。賢治たちも基本的には、このルートを利用したのは間違いないだろう。

 ↓ 南昌山を描いたとされる賢治の絵。右下に延びる稜線が東稜、左下の線が金壺沢右俣=現在の林道ルート、下の黒点が幣懸けの滝とされるが?

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 ただし私は、絵を見る限りにおいては、道を描いたとされる左下の線は、金壺沢の右俣の沢筋を表現したものに見える。実際には道は沢沿いにあったわけだから位置関係や意味合いとしては同じことなのであるが、絵の中のモチーフの扱いとしてはあくまで沢を描いたものだと思う。それは山頂から右下方に伸びる木立の生えた稜線(東稜)の、具体的描写との対比からもそう思われる。また、この道とされる線は上部で二ヵ所の分岐を示しており、それは沢筋を表現する時に自然と現れる表現様式である。以上は絵描きとしての私の観点であり、また長く山登りをしながら記録としての「ルート図」を描いてきた経験から自然に導き出される結論である。

 また松本氏は、画面下部の黒い点(染み)を幣懸の滝と同定されているが、右下方に伸びる稜線と、その向こう側に描かれた北ノ沢と思われる二本の線(その左のものはやはり途中で支流とも思われる線を派生させている)の位置関係からして、幣懸の滝ではないと思う。幣懸の滝は、右下方に伸びる稜線が、北ノ沢と金壺沢が合流する地点で消失するさらに下流に位置するからである。地形図と照らし合わせてこの絵を見れば、以上のことがより明快に見てとれよう。むろん絵であるから、必ずしも忠実に実際を再現したものとはかぎらない。しかしおそらく現場、もしくは実際の体験から間をおかずに描いたものであろうから、そうした場合、大きなデフォルメ(変形)は成されないものである。では絵の中のこの黒い点(染み)は何かと言えば、現物を見ていないので断定はできないが、保存状態等に由来する単なる染み、汚れなのではないかと思う。エックス線等の科学的調査を行えば真相は容易に判明することだろうが。

 ともあれ、この林道のラインは地形的にも最も容易なため、古くからあった道とほとんど重なっていると思われる。現在でも南昌山を訪れる多くの人が辿るルートであり、肩まで自動車を利用して、1時間ほどで山頂を往復することができる。賢治たちも基本的には、このルートを利用したことは間違いないだろう。しかしそれと別に、現在でももう一つ、矢巾側からのルートがある。それがこの神社から山頂に伸びる東稜というべきルートなのである。国土地理院の地形図には破線は記されていない。『分県別登山ガイド 岩手県の山』(1993.7.15 山と渓谷社)でもふれられていない。しかしネットで調べると容易に検索でき、それなりに登られていることがわかる。

 山麓に神社がある場合、そしてそれが山とかかわりがある神社の場合、その山頂には奥の院が置かれ、神社の裏手から直接登り始めるようになっているのが一般的である。南昌山の場合、もともと山頂にあった神社を麓に移したという経緯がやや特殊ではあるが、山頂が(雨乞い)神事の場であるという意味で、神社と山頂の関係の深さは変わらない。前記の林道のラインが生活と密着した容易なルートであることと、神事の場へのルートとしての東稜ルートが併存することは不思議ではない。南昌山は「かつて活動していた火山が風化浸食を受け火道が露出した岩頸と呼ばれる地形」のため、下半はなだらかだが、釣鐘型の頂上から下、標高差250mほどの間はどの方向も傾斜がきつい。林道からのルートは現在は登山道が九十九折り状に整備され登りやすくなっているが、以前は一直線のやはり急傾斜だったようである。つまり林道ルートも東稜ルートも、前半がなだらかで後半が急傾斜という構成は同じなのである。だとすれば雨乞い神事の際に辿るルートは神社から東稜であったという可能性があり、山頂の「天気輪の柱」の所以を知っていたであろう賢治たちが少なくとも一度はその神事ルート=東稜を辿ったのではないかという可能性も考えられるのではないだろうか。

 以上は私の、とりあえず机上の推論である。東稜=神事ルートについては地元で調べれば容易に判明するだろう。しかし、それはそれとして、正直に言えば、林道ルートで車で肩まで行き、そこから30分で頂上というのは、あまりに楽すぎて面白くないというのが本音だった。多く賢治が辿ったであろう林道ルートは下りに歩くことにして、せめて登りは少しは面白そうな東稜からということにしたのである。

  ↓ いざ出発 奥に見えるのが南昌山神社

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 S氏はかつてはカヌー乗りであり、また現在もなかなかの秘境と言うべきところに住んでいる自然派の元図工教師であるが、登山に関しては素人。数年前に一度、箱根の駒ケ岳から神山、冠ヶ岳まで一緒に歩いたことがある。体力等もそれなり、気心も良く知っている。幸い天候も今日一杯はもちそうだし、2時間ほどの行程であり、不安はない。

 神社わきの木の階段を上がり、登り始める。若干急な所もあるが、よく歩かれており、歩きやすい。なだらかな部分と時おりの多少の急な部分を繰りかえす。熊を恐れるS氏のガランガランと鳴る鈴やら、ときおり吹く熊除けの笛がやかましい。とはいえこの辺は熊の多数棲息する所ではあるらしい。なめとこ山も峰続きだし。実際途中で一か所、翌日もう一か所、少し古いものだが、熊の糞を見つけた。

  ↓ こんな感じ

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 橅と楢を主とする自然林はまことに気持が良い。ところどころに巨木も現れる。さすが東北の山、独特の深さ、風情だ。展望はほとんど無いが、百年前にひょっとしたらこの尾根を歩いたかもしれない賢治少年たちのことを思えば感慨深いものがある。

 

  ↓ 橅の巨木

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 なだらかな部分の尾根の終り頃、木の間越しに山頂のドームがどーんと現れる。ここから頂上までが一気の急登である。とはいえ標高差は250m、1時間足らずだ。

 登り始めると、岩と木の根と湿った泥の急傾斜に張られたロープが連続するようになる。ロープはマニラ麻で、湿った泥がこびり付き、コケまで生えている。手がかりになるような結び目も無い。旧式のロープ張りである。三点確保を保ちながら、なるべく体重をかけずに、バランス保持程度につかまれと指示するが、S氏はそれどころではなさそうで、必死に両手でしがみついて登っている。気持はわかるが、一番危ないパターンだ。ロープに体重をかけると、場所によっては後続の者を弾くこともあるのだ。歩幅を狭く、ゆっくり登れと言っても大股で息を切らせている。確かにその気になれば、結構恐いところもあった。途中二三度休憩をとって見下ろせば、樹が多いせいであまり高度感はないが、なかなかの急登であることは間違いない。その分、私は楽しかったのであるが。ルートとしてはやはり登り専用というべきであって、下りにはちょっとすすめ難い。

 

  ↓ 岩と木の根の急傾斜をロープたよりによじ登る

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 やがて傾斜もゆるみ、左からの道と合流すれば、その先が待望の頂上だった。頂上は小広く、木立に囲まれている。あの天気輪の柱(のイメージの源泉)と言われる奉納された石柱が何本も立っていた。その内の何本かは柱状節理の特徴を示していた。何体かの獅子頭も鎮座している。そしてこの山頂のどこかに、今も賢治の遺言に従って、一冊の『国訳妙法蓮華経』が埋められたままでいるのである。

 

  ↓ 「天気輪の柱」 右下の四つは獅子頭

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  ↓ 大満足のS氏

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  ↓ こんな感じ

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  ↓ 不思議なことに三角点が二つある 右は三角点ではないのか?

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 ここからジョバンニは銀河鉄道に乗ったのか。いや、賢治はそのイメージの一半をこの山頂で形成したのか。そして私はその現場に、遅れて今、佇んでいる…。それやこれやとイメージと感慨が交錯し、何だかとりとめもなく時間が過ぎてゆく。酒と賢治談義が弾む。

  ↓ 酒がはずむ 右は退職記念で買った一人用テント 山で初めて使った

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 予想と違って、また樹の葉が繁っていることもあり、山頂からの展望は良くない。盛岡方面が見えるだけだ。その方向に展望台というかテラスのようなものがしつらえられてある。夜半からの雨が予想されることもあり、そのテラスの上にテントを張る。夕食はコンビニで買ったおにぎりとインスタントみそ汁。それなりに美味しくいただけた。ただ一つ残念なのは、ぜひ見たいと思っていた山頂でのヒメボタル(姫蛍)の乱舞。もうすでに出ていると言う情報もあったのだが、天候のせいかついに一匹も現れなかった。「まるで億万の蛍烏賊の火を一ぺんに化石させて、空中に沈めたという具合」、ああ、それを見るために、わざわざこの時期に山頂で泊まったのに。仕方がないが、やはり残念である。

 

 夜半、小便に起き出してみれば、しめやかな雨。濃密なガスの中、天気輪の柱は静かに濡れていた。

 

 簡単な朝食をとってのんびりと出発する。雨はひとしきり本降りとなるが、問題はない。林道までよく整備された擬木の階段の道を下る。ちょっと整備しすぎと文句を言いたいところだが、歩きやすい。舗装された林道を淡々と歩き、50分ほどで、車を置いた南昌山神社に着いた。濡れた服を着替え、山行を終了した。

 振返れば、休憩を入れても合わせてたかだか3時間半ほどの歩程だったが、変化のあるルートで楽しめた。思索的要素の多い、印象深い山登りであった。

 

 その日の午後は盛岡に行き、岩手県立美術館ともりおか啄木・賢治青春館を見る。前者では万鐡五郎・松本峻介・船越保武の常設展を中心に見、後輩の学芸員のO氏と30余年振りで会う。お互い年をとったもの。年をとったからこそ再会できるのであろうが。

 その夜はこれも賢治ゆかりの大沢温泉に泊。やはり湯治部で素泊まり3000円。湯も申し分なし。ただし疲れからか、酒は弾まず、早々に寝入った。

 

【コースタイム】

7月13日 南昌山神社14:10~東稜~南昌山16:35 847.5m

7月14日 南昌山8:45林道9:13~南昌山神社10:05

中身の濃かった裏山歩き―金剛の滝綴景 2016.7.17

 たまたまちょっとした用事があって帰って来ていた息子が、今日の予定が流れたとのことで、急きょ一家三人で近くの金剛の滝まで散歩に行くことになった。まあ単なる「裏山散歩」で、特段ブログにアップするほどのことでもないのだが、ここのところ更新をサボり気味の観もあるし、ちょっと書いてみた。

 

 7月17日。曇天。蒸し暑い。二日前に4日間の岩手の山旅から帰ったばかりで、まだその疲れも抜けきっていない。息子や女房が行こうとでも言わない限り、とてもこんな日に裏山歩きなんぞに出かける気にはならない。

 歩けば20分の広徳寺の駐車場まで車で行く。山百合の花が美しい。寺の左手から山道に入る。あいかわらず湿度は高いが、多少の冷気・山気が心地よい。尾根から金剛の滝へ向かって下り始めるころから、何やら妙な音(声?)が聞こえてくる。獣?まさか。どうやら法螺貝のようだ。近くの今熊山(今熊神社)で何か行事でもやっているのかななどと考えながら、金剛の滝のある沢の入口に差しかかると、何やら白装束の異様な、修験道行者風の若い人物が法螺貝をもって立っている。怪しげだが悪い人でもなさそうだ。話しかけてみると、暇なときに近所迷惑の心配のないここによく練習しに来るのだとおっしゃる。う~ん、迷惑でもないが、付近を歩いているハイカーにはあの音は結構不気味がられるのではないだろうか。しかも白装束の修験行者風スタイル。別にどこかに所属しているということもないそうで、つまり修験行者マニアなのだろう。まあ面白いものを見たということで、友好的に別れる。

 

 ↓ 法螺貝の練習中の行者風の方

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 金剛の滝は普段よりわずかに水量が多いようだが、まあ変わりはない。手前の小滝の釜(滝壺)にも前回と同様に小さな岩魚が何匹も泳いでいる。

 ↓ 手前の小滝 その右にトンネルがある

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 ↓ トンネルをくぐる

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そう言えば、この金剛の滝のある沢は本流(と言ってもごく小さなものだが)の逆川(秋川支流の盆堀川のそのまた支流)に合流する手前で伏流となっており、本流はその合流したすぐ先で埋没した堰堤となっている。岩魚は一説によると伏流の間を、つまり地下の石の間を進む(泳ぐ)という説もあり、そのこと自体は必ずしも否定しきれないが、ここは直下が埋没した堰堤となっており、つまりは行き止まりなのである。さらにその岩魚の泳ぐ釜の先はすぐ落差7、8mの垂直に近い金剛の滝となっており、ここはどうにも溯上できない、いわゆる魚止めの滝なのである。つまり岩魚の棲息流域はその間のわずか数十mに過ぎない。こんな狭い範囲で自然の状態で棲息できるものだろうか。私がそこに岩魚がいるのに気づいたのは今年の冬。それまでは沢の形態からして当然いないものだと思い込んでいたせいもあり、岩魚を見たことはなかったように思う。近年放流されたものなのだろうか。こんな狭い流域に放流したとすれば、それは気の毒というもの。それとも昔から自然に居ついて長らえてきているのだろうか。真相はどうなのだろう。

  ↓ 金剛の滝 落差7,8m

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 小滝の右のくりぬかれたトンネルをくぐりぬければ金剛の滝の滝壺である。さらに右上から上に向かって鉄の階段が設置されており、滝を高巻いて上流沿いに行けるコースがある。数年前に歩いたことがあるが、近年は荒れていて通行禁止になっている。数段上がってふと足元を見ると、なにやら風情ある紫ピンクの花が咲いている。女房いわくイワタバコとの由。名前は知っていたが実際の花を見た、あるいは認識したのは今回が始めてだ。気がつけばあちこちにある。往路を戻りながら注意してみるとけっこうな群落がある。なかなか良いものだ。葉っぱが煙草の葉に似ているからイワタバコ、帰宅後調べてみたら若葉は食べられるそうでそこからイワヂシャ(岩萵苣)とも言うとのこと。今度食べてみようか。山草としても人気があるらしいから、盗掘されるおそれもあるので、場所はあまり詳しくは書かない。

  ↓ イワタバコ 花弁は5枚

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  ↓ 群落を下から見上げる

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 沢の出合いで先ほどの法螺貝修行中の若者に再び会う。二言三言立ち話。法螺貝の音階は三つだけと言うことを教わった。

 

 帰路は逆川沿いの道を辿る。

  ↓ 危なっかしい橋を危なっかしく渡る人 右に安全なルートがあるにもかかわらず。

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 途中でマタタビ(木天蓼)を見つけた。良く見ると実が、それも虫エイ(営?)といって「マタタビアブラムシ」が寄生し瘤状になった、より価値(滋養強壮)効果の強い実が生っている。さっそく飼い猫へのお土産用の葉っぱ少々とともに、少しばかり採取する。

 

  ↓ マタタビ

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  ↓ 虫エイのマタタビ 猫は完全にラリっていました。

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 気を良くしながらも、こんな時期にこんなうっとうしい山道を歩く人もそうはいないよね、などと話しながら歩いていると前方から何台かの自転車がやって来た。ふと見ればその先頭は何と、知り合いというかお友達の各種ガイドのジンケンさん。お客さんを連れてのガイドの最中なのだ。サービスにマタタビやイワタバコのことを教えてあげる。

 お気をつけてと別れてから、いや~奇遇だと言いつつ、ふと足元を見ると、なんとまたしてもイワタバコの群落。そこは護岸工事された目にふれにくいところなのだが、条件が良かったのか、けっこうな規模の群落だった。

   ↓ 再びのイワタバコの群落を見下ろしたところ。上部が川床

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 沢戸橋からは右岸の道を辿る。二三年前に転落死亡事故があって、現在は一応通行禁止となっているが、その少し前に改修されたばかりだったので、むしろ歩きやすい。それにしても事故はなんでこんな所で?という所で起きるものなのだ。

 秋川本流は曇天にもかかわらず、大勢の水遊び、バーベキューの人達でにぎわっている。それを横目で見ながら、意外なほど中身の濃かった、2時間ほどの裏山歩きを終えた。

                        (記:2016.7.17)

   ↓ 佳月橋から曇天の秋川本流。

   写真ではわかりにくいが、大勢の水遊び客でにぎわっていた。

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