逍遥画廊で紹介する作品の選定について、特に明確な基準があるわけではない。「気ままに」が基本であるが、それでも、できればあまり人の目にふれていない(一回目の発表で人の手に渡ったとか、これまでの作品集等に掲載されていないといった)ものを取り上げたいと、漠然と思っている。
かならずしも自作についての解説やエッセイを志向しているわけではないのだが、作品画像だけをポンと投げ出すのも、面白くない。やはり、なにがしかの、語る上でのきっかけになるようなエピソードというか、要素があった方が、書くほうとしても面白みがあるというもの。
今回の眼目は「ヤフオクに出品された私の作品」、である。
私はヤフオク愛好者である。いや、あった言うべきか。
私がヤフオクに入札するようになったのは、10余年前の40代後半、大学に勤めてだして10年近くたったころだったと思う。理由はいくつかあるが、今から顧みて一番大きかったのは、ストレス解消のためであった。ストレスの拠ってきたるところについては、ここであれこれ書いてみてもしかたあるまい。およそどんな仕事、職場であっても、それが生活のためとなれば、ましてや対人を大きな要素とする仕事であれば、ストレスが生じるのは自然の理であろう。そして、生じたストレスはうまくそれと付き合いつつ、適度な割合でそれを解消していかなくてはやっていけない。
実際、40代半ばから、髪は次第に減りはじめ、白髪が目立ち始め、肩こり・腰痛、また、歯や目の老化に悩まされるようになった。それらはその年ごろになれば、程度の差はあっても、自然に訪れる当たり前の現象ではあろうが、当人はそうも言っていられない。健康診断や病院に行くたびに、言われるのは「(原因の一部以上は)ストレスです」。言われるまでもなく、自覚している。
私はパソコンやネットであれやこれやするというのは、仕事上やその利便性からある程度はやらざるをえなかったにせよ、基本的に嫌いだった。だからネットオークションなど、とても自分がやるようになるとは思ってもいなかった。しかし、要は「慣れ」であった。いつのまにやらそれに慣れ、一時はというか、昨年の秋にほぼ憑き物すべてが落ちるまでのこの15年ぐらい、研究対象という小さな口実、言い訳はあったにせよ、軽症ではあるがずっとハマっていたと言える状態だった。
その間、対象としては外国切手から始まり、内外のマッチラベル、外国紙幣、蔵書票等とジャンルは移動した。他に割合は少ないが、明治石版画やセノオ楽譜、ホテルラベル、缶詰ラベル、古い薬袋、若干の版画や絵画等にも手を出した。ほとんどがいわゆる「紙もの」である。むろん、オークション自体が好きなのではない。それらの小さな美術品であるところの造形物、その持っている歴史性や世界観等を含めた、いわばマイナーアートとしての小世界が私にとってのアジール(避難場所)だったのである。
そのコンテンツが変わるごとに憑き物の種類も変化したようだ。そうして見ると、IT自体についてはいまさら言うまでもないが、その内のネットオークション一つの普及によっても世界が、と大きく言わないまでも、コレクションということの在りようが旧来とは確かに激変したことがよくわかる。そもそもネットオークションという場がなければ一体どこで買えばよいのか、見当のつかぬコンテンツが多い。
ともあれ、私がネットオークションにかかわったのはすべて入札者としてであって、出品したことはない。気がつけば手元にたまった各種のコレクションや、オークションとは関係なくそれ以前から所有している膨大な蔵書など、出品すれば整理処分できることはわかっているが、そんなめんどうなことをする気は、今のところない。
そんなわけでネットオークションとの付き合いはそれなりに深いのだが、まさか自分の作品が出品されることがあるとは思ったこともなかった。
そう言えば以前ネット上の古本屋のサイトで私の著書(論文集)が出ていたことがあった。これまで4冊の著書を出している。といってもその内の3点は論文の印刷公表や展覧会図録、作品集といった自費出版、もしくはかぎりなく自費出版に近いもので、正規の出版社から出た商業出版物としては『山書散策』(東京新聞出版局 2001年)だけ。『山書散策』が古本屋のサイトやオークションに出るのは不思議ではないが、たかだか300部程度しか印刷していない、しかも市販していない論文集が古本屋のサイトに出るというのはちょっと驚きだった。その本に関してだけは論文集(+作品集)という性格もあって、半分近くを公的機関や関係者に寄贈した。まあ仕方がないというか、それなりの事情があったのだろうとは思うが、何となく妙な気分になったことは確かである。しかしそれはまあ、それだけのこと。
数年前のある日、何気なく自分の名前で検索してみたところ、あるサイトで、自分の作品がヤフオクに出ていたことを知った。それがこの「水茎-4」(作品番号:D.60)である。
「水茎-4」(D.60)
制作年:1989年 サイズ:63×46.5㎝
素材及び技法:手漉き水彩紙(3A)にアクリル、水彩
発表:S.11個展 1990.10 ぎゃらりいセンターポイント/銀座(←?)
S.12個展 1991.1/パレット画廊/徳山
2011年の4月15日開始、4月20日に終了していた。即決価格80.000円とされていたが、5件の入札があり、落札価は4.850円。まあ、そんなものだろう。ちなみに発表時の価格はたぶんその25倍以上。ただし企画展なので当方の取り分はその半分。
ついでに記せば、この「水茎」というタイトルを持つ作品は1から5まで5点あるのだが、この機会に確認したところ、めったにないことだが、どういうわけかこのデータの記述の一部をD.59とD.61のいずれかのそれと間違えて記していたことが判明した。5点のうちこれを含めた4点は売れていて手元になく、また手元にあるはずの一点もどういうわけか、今見当たらない。ということでデータのうち、発表の項は少々不明確なのである。
絵柄としてはケルト風の錯綜する線の要素が強いというか、その要素の面白さだけで描き上げたもの。なにかを、例えばある思想や考えを表現しようとしたものではなく、おそらくあらかじめのイメージすらもなかった。
厚手の物質感の強い手漉き紙の上に、粘度の高い金彩(アクリル)を用い、自律的、自動的に生まれてくる瞬間ごとの表現効果に集中することによって成立した作品である。一種のオートマティズムとも言える。したがってそれ自体の完成度はありえても、そこからまた次の別の世界を紡ぎだすといったところまではいかなかった。5点で終了のゆえんである。
もう30年近く前の作品であるが、久しぶりに見て見ると、これはこれでやはり面白い。この要素、方法を今ならばまたもっと異なった形で展開できそうな気もする。しかし、これはやはり極度の集中を必要とするので、今となってはちょっとしんどいかもしれない。といって、もう過去の方法として捨て去ってしまうのも惜しいような気がする。
しかし、それにしても「水茎-4」は今現在どこのどなたが所有されているのだろう。絵は売れてゆく、人の手に渡っていくのが絵にとっても一番良いことなのだろう。落札した人は案外知り合いかもしれないとも思うが、とりあえず「買っていただいてありがとうございました」とこの場で感謝の意を表明させていただきたい。
ついでといっては何だが、めったにないことだし、この機会に他の「水茎」も以下にまとめて紹介しよう。
「水茎-1」(D.57)
制作年:1989年 サイズ:63×46.5㎝
素材及び技法:手漉き水彩紙(3A)にアクリル、水彩
発表:S.12個展 1991.1/パレット画廊/徳山 ●個人蔵
「水茎-2」(D.58)
制作年:1989年 サイズ:63×46.5㎝
素材及び技法:手漉き水彩紙(3A)にアクリル、水彩
発表:S.12個展 1991.1/パレット画廊/徳山 ●個人蔵
「水茎-3」(D.59)
制作年:1989年 サイズ:63×46.5㎝
素材及び技法:手漉き水彩紙(3A)にアクリル、水彩
発表:S.12個展 1991.1/パレット画廊/徳山 ●個人蔵(?)
「水茎-5」(D.61)
制作年:1989年 サイズ:63×46.5㎝
素材及び技法:手漉き水彩紙(3A)にアクリル、水彩
発表:S.12個展 1991.1/パレット画廊/徳山 ●個人蔵(?)
ちなみに水茎とは筆、筆跡とか、文字あるいは手紙といった意味。作品のタイトルとしては深い意味はない。
(記:2017.2.26)