艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

46年目の達成 霧の秘密尾から馬糞ヶ岳へ(2017.11.8)

 前稿に続き「ふるさとの山 その2」なのであるが、46年前の高校生の頃、故郷防府からは旧鹿野町(現:周南市)や錦町(現:岩国市)は遠いところだった。したがって同じ山口県ではあっても、寂地山や馬糞ヶ岳を「ふるさとの山」とよぶには、少々違和感がある。私にとって「ふるさとの山」と呼べるのは、やはり佐波川の流れる防府平野を囲繞する山々であろう。

 

 それはそれとして、高校2年生だった1971年12月25~26日に、長野山から縦走して馬糞ヶ岳を目指したことがある。当時としてはそれなりに意欲的な計画だったが、その時は時間切れで結局、馬糞ヶ岳手前のドウギレ峠から西の秘密尾という名の集落に降りた。目的の山頂に登れなかったという残念さとともに、秘密尾といういわくありげで魅力的な地名が深く記憶に刻みつけられたのである。馬糞ヶ岳という全国でここだけという珍しい山名も同様であるが。私は今でも地名というものに大いに惹かれるところがあるのだが、思えばこれが最初のきっかけだったのかもしれない。

 今回の帰省登山=秋山合宿(?)では、当初の心づもりでは山麓二泊程度の九州か四国の山と考えていたのだが、諸般の情勢から県内日帰り山行×2となった。その方がこちらとしては有難い=楽というのも正直なところではある。したがって馬糞ヶ岳の名が出た時、何の異存もなかった。

 調べてみると秘密尾周辺の林道工事が進んでいることがわかり、急に興味が薄れ、まだしも歩行距離の長くとれる東側の谷合いの高木屋(地形図には谷あいと尾根上に二カ所記載されている)から北北東の尾根上の高木屋に降りるコースを提案した。しかし、前稿に記したように、当初晴天の6日に登るはずだったのを8日に替えたことによって、天気予報は雨後晴れと変わり、短時間で頂上を踏める秘密尾からのコースに決定した。結果としては、これはこれで正解でもあった。

 

11月7日

 山口県立美術館で「奈良 西大寺展 叡尊と一門の名宝」と「雪舟発見!展 発見!幻の雪舟」を見、N法律事務所を訪れる(気まぐれ)。その後、毛利博物館で「特別展 国宝 雪舟筆『四季山水図(山水長巻)特別公開』」を見、KJ氏とS氏に会う。S氏とは偶然。夜、高校同期数名で飲み会。

 

11月8日水曜 曇り・霧

 前夜の飲み会の名残りの、多少酒の気の残る頭で7:50、K宅を発。富海でS嬢をピックアップ。一路登山口の秘密尾を目指す。例によって土地勘のない私は、どこをどう走っているのかさっぱりわからない。曇天、霧模様の川沿いの道は、すでにそれだけでどこか神秘的で、これから目指す秘密尾の名にいかにもふさわしく思われる。

 近づくにつれて山あいの道路はせばまり、ほとんど人家も見えず、車も通らない。そんな中、向こうからやってきた白いタクシーとすれ違った。こんなところにタクシー? 駅からは相当な距離がある。乗客は乗っていない、と言っていたら、Kが「おばあさんが一人乗っていた」と言う。K以外の三人にはそんなものは見えなかった。別にオカルト話に興味はないが、まあそんな雰囲気はあった。

 

 終点の秘密尾・氷見神社入り口で周防大島と周南から参加のF嬢、W嬢と合流。車をデポする。

 

 ↓ 舗装された林道を歩き始めたあたり。常緑樹の中に点在する紅葉。

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 舗装道路はそのまま奥にも延びているようだが、右の札ヶ峠方面に延びる林道を進む。雨は降っていないものの、あたりは霧の世界。左から入ってくるはずの古い山道を探しながらゆくと、30分ほどで幅の広い荒れた道があった。山道というよりも林道の法面の工事用のブル道かとも思われたが、とりあえず入って見る。しばらく行くと幅も狭くなり、山路らしくなる。

 

 ↓ 舗装林道からブル道を登り、古い山道になったあたり。

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 ↓ 薄暗い植林帯

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薄暗い植林帯を過ぎると、突然広大な伐採地に出た。縦横無尽といってよいほど伐採用の車道が走り、無惨な明るさが広がる。本来の山道は見出しようもないが、何とか見当をつけて進むとどうやら今現在の、林道から直接登ってくるらしいルートと合流した。そのすぐ右手の尾根が昔からの山道=登山道であった。

 

 ↓ 皆伐地帯 縦横に車道が走っている

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 ↓ 一応ここが今現在の正規ルート

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 辿り着いた尾根のすぐ先が札ヶ峠。弘化三年と記された道しるべが建っていた。私は道しるべというものが好きだ。それが古ければ古いほど、なぜか暖かい気持ちになる。おそらく昔の人たちの生活というか、人生を少しだけ垣間見れるような気がするからだろう。

 一つの面には「右 すま 左 ひろせ」、別の一面には「右 ひみつを 左 すま」と刻まれている。弘化三年は1846年、180年前のもの。ちなみにその面には「世話人 谷屋完左衛門 石工 藤左衛門」とも記されている。世話人はともかく、石工の名前まで彫られているのはちょっと珍しいように思う。少しほほえましい。

 

 ↓ 札ヶ峠の道しるべ 味わいのある筆跡                        (なぜか二つの写真の間にスペースがとれない。誰か教えてくれ。)

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 ↓ 藤佐衛門さんの仕事です

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 工事用の道から解放されて尾根上の道を辿る。右が自然林、左が伐採地だが、霧が幸いして皆伐された伐採地も見えず、気にならない。むしろ凄絶というか、夢幻の境を行く思いで味わいが深い。

 30分ほどで傾斜の落ちた笹原に出た。ここから尾根は右に曲がるが、前方にも延びているようで、薄いながらも踏み跡があるように思われた。そのためこの地点を910m圏の長野山への分岐だと誤認してしまった。何せ霧のため遠望がきかないのだ。そのためその後の山行中何か釈然としない思いに付きまとわれたのだが、帰宅後よく地形図をみてきたらそこは860m圏だったようだ。霧のなせるわざか、単なる読図力不足か。

 

  ↓ 霧の中の登高 凄絶というべきか 夢幻というべきか

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  ↓ 霧の中 夢幻

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  ↓ 黄葉の楓 これは夢幻というべきであろう

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 傾斜の落ちた幅広い尾根を進む。楢を主とする落葉広葉樹帯から背丈ほどの笹原へと続くルートは、不思議な霧の世界。葉は色づいているが、みな黄色のものばかり。これから赤くなるのか、それともそういう種類なのか。霧の中、ときおりいくつかの巨岩が現れる。

 

  ↓ 馬糞 横皺あり

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  ↓ 背を没する夢幻の笹

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 地図を読み違えていたせいで、どうも頂上が遠すぎるなと不安を覚えてきた頃、新たな分岐に出た。先ほどすでに長野山への分岐は通りすぎたと思い込んでいたため、現在地がわからない。とりあえず男子が二手に分かれて偵察してみる。私が進んだ左の路はしばらく行くと高木屋への標識があった。それでますますわからなくなった時、右の路に行ったKから「こっちだよ」のコール。分岐に戻って合流し、右手の路をしばらく進みほんの一登りであっけなく、ぽっかりと開けた馬糞ヶ岳985.3mの頂上に着いた(12:25)。

 

  ↓ 山頂にて 46年後の元高校生たち

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 やれやれ、何はともあれ、良かった。一等三角点の山でもあり、展望は良いはずなのだが、霧のせいで何も見えない。しかし46年ぶりの目標達成というか、久恋の山頂なのだ。Kや昨年から山行を共にするようになったF・W・S嬢はともかく、Tと山に登るのは彼が高校1年の時の新人歓迎山行以来である。うれしくないはずはない。そんな感慨にふける私をよそに、さっさと昼食が始まる。

 

 1時間後、下山開始。天気が良ければ長野山方面に進み、46年前の中退ルートに選んだ、途中のドウギレ峠から秘密尾に下るという選択肢もないではなかったが、当時でも荒れていた(記憶がある)路はあてにできないし、何よりもこの霧である。おとなしく往路を戻ることにする。

  先ほど迷った分岐で、下に落ちていた頂上の方向を示す標識を発見した。これを見つけていれば迷わなくても済んだのに…。再び現れる巨岩を見ていると、これが馬糞の名の元なのではないかと思い当たった。それらしい横皺もよっているし。山名考証としては、平家の落人の騎馬武者三百騎が云々という伝説や、遠くから見た形態説もあるらしいが。

 

  ↓ 夢幻の中の馬糞

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  ↓ 笹がないと歩みもはかどる

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 濡れて滑りやすくなった下りで尻もちをついたりしながらも、何とか順調に峠まで戻った。途中、平均年齢70歳を超えるかと思われる男女三人パーティーと遭遇。すでに午前中に一山登ってきたとのこと。元気で何よりというよりも、ちょっと頑張りすぎというか、慾をかきすぎではないかとも思うが、まあ、それはむろん余計なお世話というものだろう。

 峠からはすぐ眼下に見える林道に直接下りる。やはりそこが現在の正式の登山口であるらしく、標識が立っていた。あとは舗装道路を歩くだけ。

 

  ↓ 左上は桐の実 手にしているのは用意周到なアケビ採り用の木の枝

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  ↓ 路上のアート 落葉篇

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 常緑樹の中のときおりの紅葉を愛で、アケビ採りにチャレンジし、あれやこれやと駄弁りながらのんびりと車デポ地の氷見神社入り口に辿り着いた。簡単に着替えて、帰りがけの駄賃に、奥社がいまだに女人禁制だという氷見神社にお参りして、山行を終えた。

 

  ↓ 謎の氷見神社若宮 写真には写っていないが神社なのに右手に大きな釣鐘があった。

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 標高差522m、一カ所の読図ミスによる不安はあったものの、ルートそのものは特に問題になるところもなく、霧がかえって幸いし、夢幻的ともいうべき、印象に残る山行となった。

 あとは途中の石船温泉に一浴し、帰るだけである。その途中で「路上のアート」というか、ある種のアウトサイダーアートと言ってよいような面白い造形物群を見つけたのであるが、これについては別のカテゴリーで取り上げてみようと思うので、ここではふれない。

 

 以上で山行記録としては終りのはずだったのだが、帰宅後調べてみると色々と面白いことがわかってきた。ちなみに私は当然ながら、山行前にある程度の研究や調査はするのだが、それは主としてコース・ルートやアクセスなどに関すること。それに対して下山後には、実際に現地で見たものやコース・ルート以外で興味をひかれたもの・事に範囲を拡大して、記録を書きながら、あれこれと事後学習することが多い。やはり実地に見、体験したものから発して、調べ、考えるというのは、個人的体験から普遍化へというほど大げさではないにしても、世界が広がるというか、面白いものである。

 

 さて、神社に関して基本的にあまり興味のない私は、氷見神社についても、そのときは特に何の興味もわかず、入口にあった説明板もロクに読まず、写真にも撮っておかなかった。しかし、帰宅後調べてみたらこの氷見神社というのが実はなかなかたいしたものだということを知った。とりあえずウィキペディアの以下の記述を紹介しておく。

 

 「祭神は、闇於加美神ほか」、「平安時代の歴史書にもその名を残す由緒ある神社で、貞観9年(856年)に須万村秘密尾に創建されたと言われている。~(中略)~「露嶋宮」とも呼ばれ、若宮のほかに、山の中腹に中宮があり、山全体を上宮としている。上宮である奥社は今でも女人禁制である。の行場としても有名で、明治時代には神道家の川面凡児がここに籠り、神道の修行法を編み出したと言われている。現在でも山口県下の神官たちの禊ぎ行場として使われている。~(中略)~伊勢神宮同様、「遷宮祭」も20年ごとに行なわれており、二つの御社地の宮を交互に建て替えている。山口県下で遷宮を行なっているのは氷見神社だけである。」

 

 闇於加美神(くらおかみのかみ)というのは、私は初めて聞く名前だが、基本的には水の神・龍神とみなされているとのこと。「露嶋宮」という名のいわれは何なのだろう。「氷見」との関係は? それにしても何と千年以上前からあんなところにあるとは! あんなところと言うのは失礼かもしれないが、実際、平家の落人伝説はともかくとしても、現在人は住んでいるのだろうか? 限界集落どころではないように思われる。神社周辺に人家は見えなかったように思うが、地理院地図を拡大してみると神社の手前に道路を挟んで2軒の建物記号が記されているが、実際はどうだったのだろう。また46年前に私たちはそこを通過し、石ヶ谷集落の先の中村集落まで歩いたように手持ちの地図には赤線が引かれているが、その時何軒の家があったのかは当然記憶にない。 

 いずれにしても昔も不便であったことは間違いないであろうこの地に、なぜこのような規模の神社が存在し続けてきたのだろう。いや、それ自体は特殊なこと、不思議なことではないのかもしれない。20年ごとの遷宮も単に古式を守っているに過ぎないのかもしれない。

 

 吾々の行ったのは若宮(まで)である。そこでは20年ごとに遷宮(二ヵ所での交替で移動建て替え)ができるようなスペースはなさそうだから、遷宮されるのはその奥、中腹にあるより小規模と思われる中宮なのだろうか。さらにその奥に女人禁制とされているという上宮(奥社)があるということだ。

 神社の裏手に回ってみたが、確かに踏み跡は奥へと続いている。しかし地理院地図には若宮の所在しか記されていない。ネットで探してみても若宮から上宮までの全体が描かれた地図は見いだせなかった。そもそも「山全体を上宮としている」というが、その山とは具体的にはどの山(ピーク)を、あるいはどの範囲を示すのだろうか。地理院地図を見ると、神社の裏から直接始まっているわけではないが、神社の左手の沢の右岸沿いに928mピークまで道記号が記載されている。それはピーク直下で二分し右はピークをこえて反対側の五万堂谷へ下り、左は南の尾根を下って再び神社近くに降りている。この道が中宮~上宮へと至る路だとすると「山全体を上宮としている」にしても一応この928mピークを奥社あるいはその象徴と見ることができる。山麓にある神社の奥社は、その上の山頂(ピーク)に置かれている場合が多いからである。しかし見方によっては支尾根上の一突起にしかすぎない928mピークよりも、その西北西に位置する、沢筋を北に登りつめた990m圏の幅広くなったあたりの方が奥社にふさわしいようにも思える。

 前回の遷宮が2011年だったということだから、次回は2031年か。生きている可能性は半々か。せめてそれまでにこの神社裏手の踏み跡と、この沢の右岸の道記号を辿って上記の疑問を晴らしに、中宮と上宮を訪れてみたいものである。ともあれ、あれやこれやと興味はつきない。どなたかこのあたりについての良い郷土誌資料でも探し出してくれないものかしら。

  

 山から下りてからの事後学習が面白い、好きだと書いた。その対象の多くは歴史と民俗学的なものである。したがって郷土史・郷土誌的な文献にあたるのは必須だが、やはりそこには興味度の深浅ということがある。縁もなじみもない土地に興味は持ちにくい。私は以前、越後の下田・川内山塊と呼ばれる一帯に入りびたっていた頃、そうしたことに対する面白さを知った。しかし、そこでの沢登りや四季を通しての山行を実践することがなくなった現在では、もはやほとんど興味がなくなったというのが正直なところだ。

 今現在住んでいる東京都あきる野市や隣の檜原村にも、意外なほどにそうした面白さはあるのだが、やはり愛着とまではいかない。にもかかわらず、もはや住むことはない(であろう)山口、防府に対するそうした興味が、あらためて湧き起っているのを感じるのである。かつて住んでいた頃、あるいはいずれ帰るべきところだと思っていた40歳台までは、実地体験する機会がほとんど持てず、また文献等との出会いも少なかった。皮肉なものである。今さら秘密尾やら狗留孫山などに興味と愛着を持ってみたところで、やはり今後とも実地に体験する機会がそう多くあるとは思えない。そう思っているにもかかわらず感じるこの愛着、やはりそれがふるさとというものなのであろうか。「ふるさとは遠くにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」であるか。

 「読み、書き、登る」と記したのは、確か、ヒマラヤ登山のパイオニアの一人ではなかったか。事後学習ということで言えば、ささやかではあっても、私もそのようでありたいと思う。

 

 ↓ 青線が1971年のルート 赤線が今回のルート 例によってうまく地図ソフトが使えず(持っていず?)、見づらくてすみません。

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同行:K(高校同期) F嬢・W嬢・S嬢(高校1学年下) T(高校2学年下) Thanks!

【コースタイム】2017.11.8 霧 

秘密尾・氷見神社入り口車デポ10:00~林道から登山道へ10:40~札ヶ峠:現登山道と合流11:20~長野山分岐~馬糞ヶ岳985.3m山頂12:25/13:25~林道現登山口14:35~氷見神社車デポ15:00~石舟温泉入浴

 

追記

「法師崎の山歩き」(http://www.geocities.jp/houshizaki/bahungatake2.htm)の「馬糞ヶ岳(ばふんがだけ)山口県周南市鹿野」(2011年9月27日)に奥宮(遠望)と中宮の写真が出ているのを見つけた。「ゴムタイヤの恐竜」の写真も出ていた。(2017.11.16)

ふるさとの山 狗留孫山と三十三霊場めぐり (2017.11.6)

 前回の山行からまた二ヶ月空いた。この間、個展やら、息子の結婚式やら、いろいろあったのだが、何より大きかったのは天候不順である。ちなみに東京の十月の一ヶ月間の降雨日は23日で、過去三番目に多かったとのこと。しかし今さらそんなことを言ってみてもはじまらない。

 そうしたこととは関係ないが、今年は父の十七回忌である。そのための帰郷と合わせて、あれこれと予定を組んでみる。いつもの高校山岳部OB何人かと県内の日帰り山行をすることになったが、それだけでは物足りないので、もう一つ近場の日帰りの山に行くことにした。

 

11月4日

 朝、東京発。徳山で一つ所用を済ませ、夜は下松の姉夫婦宅に投宿。義兄と飲む。

11月5日 

 旧徳地町野谷の徳祥寺での法事を済ませ、さらにいくつかの用事をすませた後、いつものように防府のK宅にごやっかいになる。夜は二人で飲みに出かける。

 

11月6日(月曜)快晴

 当初の予定ではこの日は旧鹿野町の馬糞ヶ岳に山岳部OB会の皆と登り、8日にKと二人で狗留孫山に登る計画だったが、メンバーの都合により日程を入れ替えた。

 

 朝食後、ゆっくりと出かけ、車で登山口の旧徳地町(現山口市)堀の法華寺に着く。寺の正面手前には「法華寺(金徳寺跡)」の説明板があり、本堂には「東狗留孫山三十三カ所霊場 観世音菩薩配置見取り図」の図が掲げられていた。しかし、「法華寺(金徳寺跡)」の説明板には明治維新奇兵隊との関係は記されているものの、寺そのものについては何だか要領をえず、山中の三十三霊場についてもよくわからない。

 

 ↓ 登山口となる法華寺

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 ↓ 三十三霊場の案内図 右上が登山口方向 とりあえずこの撮影時点では何が何だかさっぱりわからなかったが、山行中はこの図がずいぶん役に立った。

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 「東狗留孫山」とあるのは、山口県にはもう一つ、西方の下関市(旧豊田町)にも狗留孫山(別名:御岳)があり(知名度ではそちらの方が高いようであるが)、それに対して東と冠したものだろう。

 狗留孫というのがわからない。三重と奈良の県境上にも倶留尊山があるが、これも同主旨の山名であろう。帰宅後調べてみると、狗留孫とは「実に妙なる成就」の意で、「過去七仏の一つ。過去七仏とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。拘留孫はその四番目。」(ウィキペディア)とあるが、ただし「この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です」とある。結局よくわからずじまい。いずれ,、ヒンドゥーの影響を受けたりして、仏教が複雑錯綜化していったということなのだろう。

 

 ともあれ、寺の右の道に入り、すぐに中国自動車道を渡る陸橋を越えると、案内板がある。舗装された階段の登山道が続くようだが、すぐに左から山道が入ってくるので、そちらを進む。間もなく大きな石の鳥居が現れる。鳥居といえば神社であるが、この先に記されているのは卍の記号。神仏習合時代の名残であろうか。路は風化花崗岩穿った溝状のところが多いが、歩きやすい。古くからそれなりに良く歩かれているようだ。周囲は常緑広葉樹を主とした自然林。いかにも南西日本の山の植生、雰囲気である。

 

 ↓ こんな感じ

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 ↓ 三丁目の丁目石と石仏(地蔵)

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 路のかたわらには、時おり石仏とセットになった丁目石(丁塚)が出てくる。石仏は地蔵のようだ。路はおおむね見通しのきかない樹林の尾根上を行くが、雰囲気は明るい。ときおり紅葉もまじるが、やはり常緑樹の割合が圧倒的に多く、紅葉の山という感じはしない。

 

 ↓ 何丁目めだか? 根に巻き込まれて浮いている

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 ↓ 尾根上の路を行く

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 ほどなく十五丁目で、「狗留孫山霊場入口」と刻まれた石柱があった。ここが結界ということか。かつてここから先は女人禁制だったとのこと。そのすぐ先に何やら和歌らしきものが刻まれた巨岩がある。そんなものに興味のないKはさっさと通過するし、風化と苔のせいもあって読み下せなかったが、帰宅後調べてみると御詠歌岩と言われるもので、「八重がすみ 峰よりかけて狗留孫の 仏のちかいたのもしきかな」と刻まれているとのこと。

 

 ↓ 「狗留孫山霊場入口」

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 ↓ 1番目の摩崖仏

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 そのすぐ先に最初の摩崖仏があった。かたわらには「1」と記されたパウチされた番号札がかけられている。摩崖仏とはいっても昨年訪れた臼杵のそれのような、立体的に圧倒的に彫り出されたものではなく、道端の大岩に小さく、浅くレリーフ状に刻まれたもの。どちらかと言えば、可憐というか、可愛い感じのものである。手前には地蔵と思われる小さな石仏が置かれている。この日は三十三カ所の摩崖仏の内の約三分の二ほどを見たのだが、図像的には如意輪観音や千手観音等の違いはあるが、設置状況等はほぼすべて同様である。

 そのすぐ先に小さな御堂がある。こぢんまりとした良い感じだ。屋根はこの地方特有の赤い釉薬をかけられた石州瓦で葺かれている。案内図には奥の院と記されていたが、麓の法華寺奥の院ということなのだろうか。そもそもここの霊場や摩崖仏がいつ頃のものなのか、どういう性格のものなのか、私は今も知らないのである。地元の図書館などで調べればわかるのだろうが…。

 

 ↓ 奥の院

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 ↓ 12番(だったか?)

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  ↓ 穴観音への途中から佐波川右岸の山なみを見る

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 奥の院から左の分岐を進むと「穴観音」への標識がある。なるべく多くの摩崖仏も見たいが、穴観音といういわくありげな名前にも惹かれる。案内図では路は行き止まりで、往復することになりそうだが、すぐ近くにありそうに思われて、そちらの路を選ぶ。路はおおむね山腹をトラバース気味に続いているが、案外と長い。やがて「穴観音」の標識のすぐそばに「山頂」への標識が現れ、戸惑う。要領を得ぬまま路を辿ると、ほどなくその前に出た。それは大岩に穿たれた直径20~30㎝ほどの穴。人工的に広げられたようにも見える。中には小石がいくつかあるだけで、仏像等は何もない。釈然としないままに、もう一度ゆっくり全体を眺めてみると、かたわらに金精様の形をした岩が、その先を穴に向けて置かれているのに気づいた。やはりそういうことか。

 

  ↓ 看板の右の石が金精様

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 とは言え、この穴観音と金精様は三十三霊場とは本来は無関係なのではないか。場所的も離れている。そもそも西日本(の山)には金精信仰はあまり無いのではないかと思う。私が知らないだけかもしれないが。当初は小さかった穴を見つけた後世の誰かが、それを広げ、半ば冗談で金精様の形をした岩を探し出してわざわざ設置のではないだろうか。それはそれで、まあ悪い話でもないが、などと思っていたら帰宅後、この穴観音は「『防長風土注進案』堀村の寺院の項には、穴観音について「是より奥の院に穴観音方九尺位の石の中に尺位の穴あり、深サ曲がりてしれず、内は水晶石なり、是を出現石といふ」とある。」という記述を見出した(「鷲ヶ嶽・狗留孫山(剣谷川ルート)」 山へgomen … 山口県の山歩き記録 http://gomen.blog.so-net.ne.jp/2014-03-25 )。やれやれ、わからないもんだ。

 なお『分県登山ガイド 山口県の山』(中島篤巳 1995年 山と渓谷社)には「穴地蔵分岐」という記述があるが、どういうことだろう。

 

 岩観音の所から標識に従って尾根をほんの少し登ればすぐに主稜線上の通常ルートと合流する。いったん鞍部に下り、若干の急登で狗留孫山の三角点の設置されている543.9mの頂上に着いた。

 

  ↓ 頂上にて。11月とは言え、暖かくTシャツ一枚。このあと一組の登山者夫婦がやってきた。この日会ったのはその二人だけ。

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  ↓ 頂上からの展望

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 小ぢんまりとした頂上だが、気持が良い。東から南にかけての展望が良く、ススキの穂の向こうに、ふるさとを貫く佐波川方面が良く見える。標高は低いが、懐かしい山々。大都市近郊と異なり、こうした地方の山では一部をのぞいて、山道はどんどん消滅していきつつある。そのため縦走や周回ルートがとれなくなり、同じルートを往復せざるをえない場合が多く、もったいないことだと思う。ここの山頂には北に延びる尾根に向かうと思われる薄い踏み跡があったが、今はそれを辿ってみる余裕はない。それに心を残しつつ下山にうつる。

 

 穴観音へのルートと合流したすぐ先に狗留孫山方面を指す標識があった。それに手書きで「ここは510mピーク(昔はここが山頂?)」と書かれていた。しかし、上記『分県登山ガイド 山口県の山』には「標高510㍍の展望の峰、さらに尾根をたどると狗留孫山山頂に着く。頂上には石仏。東に石ヶ岳方面180°のパノラマが展開する。」とある。さらに「544㍍の山頂三角点はこれから西に25分であるが、ヤブ漕ぎ道であり、すすめるほどではない。」と記されている。この山に以前登ったことのある後輩のTによれば、確かに数年前まではヤブだったとの由。当時の山頂の正確な位置関係はわからないが、その標識の近くには石仏が一体あり、そこが旧山頂であろう。展望はきかない。ヤブの繁茂しやすいこのあたりでは、刈り払いをしなければあっという間に木々が繁茂し、状況や景観は変化するのだろう。なお510mピークを狗留孫山、543.9mピークを鷲ヶ嶽とした記録もある(上記「鷲ヶ嶽・狗留孫山(剣谷川ルート)」)。

 

  ↓ 旧山頂510mピーク?

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 尾根道を辿っていくうちにシダの群落の中を降りてゆくようになる。風化花崗岩とこのシダは相性が良いのか、このあたり一帯の山によくある景観である。緑が輝き、他では見られない私の大好きな風景だ。ただし足元が見えなく、滑りやすいのが難。

 

   ↓ 緑金色に耀く羊歯

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  ↓ シダの群落の中を駆け下るお地蔵様

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 そうこうしている内に26番から33番へと至るコースとの分岐となり、右の25番から13番へのコースに入る。いくつもの摩崖仏が出てくる。場所や向きによっては風化が進んでいたり、苔に覆われたりしていて、パウチされた番号札がなければ見落としそうなものも多い。図像は正確にはわからないが、千手観音や如意輪観音が多いようだ。ほぼ同じような大きさで、下に地蔵が置かれているのも同様。岩に当たる陽ざしと、樹々の影と、苔とに同化しているような風情である。

 

  ↓ 光と影と苔とたわむれる観音様たち

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   ↓ 何番目だかの如意輪観音 解脱と諦念と慈悲の表情? この像が一番好きかも

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 途中、東方遙拝所と記された展望の開けたテラス状のところがある。その先で先の穴観音への分岐と合流する。奥の院からは御堂の裏手に回る。「悪人戒め岩」という直立した岩がある。そちらに回ったせいか、御堂のわきにあったはずの「御勅願岩」は気づかずじまい。その先に「西院ノ河原」とあったので「東院ノ河原」もあるのかなと思っていたが、しばらくして西院ノ河原=賽ノ河原であることにようやく気づいた。

 

  ↓ 悪人戒め岩

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  ↓ 光と影と石仏と

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 まもなく1番の摩崖仏に出て往路と合流。以後、往路を戻る。中国自動車道の陸橋を越えたところにもいくつかの石仏があったのに気づいた。その一つである青面金剛が吾々をみて笑っているように見えた。

 

  ↓ 登山口近くにある青面金剛

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 今回の標高差は420m。頂上往復だけなら3時間かからないところを、あれやこれやと楽しみながら4時間かけて登った。丁目石、奥の院、穴観音、摩崖仏、その他、楽しみどころの多い、良い山行であった。

 その後近くのロハス島地温泉で一浴。夜は山岳部OB会のメンバーとの飲み会で一日を終えた。

 

 ↓ 赤線がルート

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【コースタイム】2017.11.6 快晴 同行:K(高校山岳部同期)

法華寺10:10~奥の院11:20~穴観音11:40~狗留孫山543.9m頂上12:05~法華寺14:20 

個展開催のお知らせ 10月1日~8日 西荻窪・数寄和

西荻窪の数寄和で個展をします。

 

一昨年は同じメンバーで、二人ずつ二期にわけて発表しましたが、今回は四人の連続個展の全体で「秌韻」展です。

他のメンバーは細川貴司 岸本吉弘 吉川民仁 。

 

私は会期中毎日(日によって時間は異なりますが)午後は会場に行く予定です。

皆様の御来場、御高覧をお待ちしております。

 

詳しくは下記のリーフレットをご覧ください。

*(PCで見づらい場合、画像をダブルクリックすると拡大されます)

 

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「有朋自遠方来」 三ヶ月ぶりに登った王岳 (2017.9.5)

 Kから電話がかかってきた。有朋自遠方来。不亦楽。いや、共に山に行かざるべけんや、である。

 Kは本ブログにも、山と海外旅行の際の相棒としてたびたび登場する、中学・高校時代の同級生、高校山岳部のときの相棒。退職帰郷後も、郷里山口と東京と海外をしょっちゅう行き来している、せわしない男である。

 

 それにしても今年の夏は辛かった。そもそもまだ夏前の5月半ば、グループ展のさ中にギックリ腰になった。一応回復したと思われた6月初旬には上野原方面の権現山に登ったが、ほどなく再発した。今度は病院(整形外科)に行ったが、老化による筋力低下との診断。そうですか・・・。

 6月には風邪から気管支炎になり、10日ほど沈没。7月には60肩になり、左肩の痛みから腕の痛み、痺れへと移行し、指先の痺れが常時出るようになった。こちらは今も時々鍼治療に通っている。ギックリ腰も60(40、50)肩も40代から何度も経験しているが、良いものではない。ついでに(?)右足に魚の眼ができ、おまけに歯の具合も悪くなって治療に通った。散々である。

 女房の方も、7月に自宅の庭で足長蜂に眼球を刺され病院に行き、さらに8月には今度はスズメ蜂に太股を刺され、先の足長蜂の抗体ができていたせいか重症で、救急車で病院行き。以後女房も何かと不調。

 かてて加えて、今夏の猛暑と40数年ぶりとかいう19日連続の雨ですっかり体調が狂ってしまった。絶不調である。もともと夏は弱いのだ。それでも若いころは気力で制作に集中し、なんとかしのいできたが、今年はもうバテバテ。山やトレーニングどころではない。ブログを更新する気力もない。日々のわずかばかりの制作が精一杯。そのため、以前からの約束だった穂高行きもキャンセルのやむなきにいたった。仕方がない。もう限られたエネルギーは制作にしか向けないのだと、開き直るばかりの夏であった。

 そしてようやく秋めいて涼しくなった頃、上記のKからの電話である。すっかり腰の重くなっていた私には、まさに干天の慈雨。まさに、行かざるべけんや、である。

 

 前夜、Kは立川での飲み会の後、わが家で一泊。翌5日、朝5時起床のはずが、なぜか1時間遅れた。その後もアプローチの電車、バスの選択ミスが重なり、登り口の「いやしの里根場」バス停に着いたのは予定より1時間半も遅い11:25。私一人ならたぶん起床が1時間遅れた時点で中止している。Kの辞書には「山行中止」という言葉はないようだ。

 

 「いやしの里根場」は1966年の台風26号の集中豪雨で40数戸の家屋の内4戸を残し、他は流出または倒壊し、死者94名を出したところである。その後残った住民は西湖対岸に集団移住し、2006年以後、元の集落の復元・展示がなされ、観光施設として今に至っている。(以上、ウィキペディア「西湖によるいやしの里根場」から。なお本ブログの2015.7.14の『山行記5 富士周辺・節刀ヶ岳~鬼ヶ岳』では「40軒の家のうち3軒以外はすべて流され、200人未満の住民のうちの63人が亡くなられた」と記している。出典を明記していないため、数字の違い等の詳しい事は不明だが、今回は一応ウィキペディアの記載によった。)

 海外からの観光客も多いその「いやしの里根場」を後に、ともあれ歩き始める。

 

  ↓ 復元された茅葺の兜造りの民家群の奥から山に入る(撮影:K)

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 そこから主稜線上の鍵掛峠までは一昨年、一度下っている。その時、大石峠から節刀ヶ岳をへて立った鬼ヶ岳の山頂から見た王岳の山容がすっきりと魅力的に見え、ぜひ登りたいと、その時から私にとって課題となっていたのであった。

 

  ↓ 鬼ヶ岳から遠望する王岳への稜線(2015.7.13撮影)

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 まるまる三ヶ月山登りから遠ざかっていた身体に最初の1ピッチはキツイはずだが、歩きやすい路のせいか、意外にも脚は動く。言うまでもなくKのピッチはマイペースで速い。私が山に行かなかった三ヶ月の間に、Kは穂高を含めて5、6回は登っているという。まあ、身から出たサビ(?)ではあるが。

 

  ↓ 登り始めはこんな感じ。足裏にやさしく、登りやすい。

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  ↓ 岩を食む橅の造形

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 沢沿いの砂防ダム建設用の道から、やがて右手の尾根に乗る。下草のない樹林帯で展望はきかないが、登りやすい。左手、大岩の下の石仏を過ぎ、鍵掛峠着13:06。登り口からの標高差約600mだからまあいいペースだ。峠とはいうものの、標識のあるところは峠状をなしていない。そのまますぐ先の鍵掛という名のピークを目指して、主稜線の縦走に入る。

 

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 すぐ先で山向こうの鴬宿に下る路が右に分岐する。その先一登りで鍵掛1589m。とはいうものの、境界票石が一つあるだけで山名標識も展望もなく、およそ山頂らしからぬ所。今回のルートは地形図で見るかぎり、地形的にもすっきりと細長く延びる良い尾根なのだが、実際に歩いて見ると全体に樹林帯で、展望のきくところもほとんど無い。新緑やもう少し落葉した頃なら気持が良いだろうが、この時期でしかも曇天とあってはいささか魅力が乏しく感じるのもやむをえないところか。
 
  ↓ 鍵掛という名のピークだが、境界標石以外何もない。 

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 鍵掛からはゆるやかなアップダウンの歩きやすい尾根筋が続く。あいかわらず展望はないが、時おり現れる少しばかりの端境期の花に慰められる。といっても、早咲きのトリカブト(これだけは鹿も食べないようだ)と、遅れ咲きのハクサンフウロ以外は名前も知らないのであるが。
 
  ↓ トリカブトの群落が多かったが花期には少し早いようだ。 

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  ↓ 名前は…忘れた。 

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  ↓ これはたくさんあったが、名前は知らない。 

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 王岳周辺では多少の展望がえられる。西湖が見える。一瞬頭だけのぞかせた富士山もすぐに雲に隠れた。

 

 ↓ 西湖を見下ろす。遠方は足和田山 

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 ↓ この日唯一度見えた富士。この後一瞬にして雲の中。 

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 王岳の山頂はやはりあまり山頂といった感じがしない。三角点と山名表示板と、石仏のようなものがあり、お賽銭があげられている。近寄って見れば、日蓮宗の名号というのか(?)が石に彫られたもの。

 

 ↓ 王岳山頂右の石造物が日蓮宗物件。

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 甲州には日蓮宗の信徒が多いのだろうか、他でも新しいものが設置されているのをみかけたことがある。それがここにも置かれている。そう古いものとも思われない。古くから特定の(土着的)信仰と結びついた山は確かにあり、その意味での伝統はそれなりに尊重すべきだと思うが、言うまでもなく、基本的に山は特定の宗派のものではない。昔からあるものならばともかく、近年になってむやみに新たに設置するのはいかがなものであろうか。たとえそれが信仰のなせるわざだとしても。仮にそこに十字架やらヒンドゥーの神像やらがある日設置されることを想像してみればいい。

 

 ↓ 来し方を振り返る。雲が厚くなり、暗くなってきた。

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 遅めの昼食をとって、先に向かう。高度が下がる分、笹が路に覆いかぶさり、足元が見えないところが増える。先頭のKは蜘蛛の巣払いに大わらわ。御苦労さまです。

 多少のゆるやかなアップダウンを経ると、五湖山の表示がある。全く山頂とは言えない路の途中といった場所で、1340mと記されているが、地形図で見るとその手前の1330m圏あたりだと思われる。すぐ先が1340m圏の多少なりとも山頂らしさのあるところ。五湖山とあるからには富士五湖すべてとは言わぬまでもいくつかは見えるのだろうと期待していたが、見えるのは精進湖一つ。よくわからない山頂(山名)である。

 

 ↓ ここは笹藪がなく感じが良いところ。しかし暗くなってきた。

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 ↓ よくわからない五湖山の標識

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 多少の岩場混じりの小さな登高を二つ三つ繰りかえすと、ようやく女坂峠(阿難峠 1210m)に辿り着いた。

 

 ↓ 女坂峠。悲しい伝説の残るかつての生活道。

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 この峠を越えようとして子供と共に難に遭った母親の昔話が存在していることからわかるように、この峠は古くから山向こうの芦川とを結ぶ生活道だったのだろう。実際、下り始めれば、それまでの細い尾根筋とはうってかわった、幅広い九十九折りの歩きやすい路。数少ない帰りのバスに間に合いそうだ。そんなに急がなくても大丈夫だというのに、下りではペースが遅くなるはずのKのスピードは衰えない。ずいぶん余裕をもってバスの時刻に間に合った。山中誰にも会わない静かな山行だった。

 バスを待つ間に今日一日サポートしてくれ、圧迫し続けてくれたタイツを脱ぐと、ようやくほっとすることができた。

 その後、河口湖駅、大月を経由して八王子で降りて、夕食をかねた一杯に今日の山行を振り返った。

 

  今回の山行は私にとっては課題の山ではあったが、季節、天候のせいもあってそれほど好印象のものではない。しかし、課題を達成できたことはもちろんだが、それ以上に三ヶ月ぶりの山行ができたこと自体(それも珍しくコースタイム以上のスピードで)が、うれしいことである。Kよ、付き合ってくれてありがとう!

 山は逃げる。山は行ってナンボ。行けなかった山の計画にも味わいはあるにしても。

 ともあれ、今年はまだ四カ月近くある。暑さも終わったこれから、せいぜいがんばって山行に励むことにしよう。それにつけても強力なのは、外的推進力=相棒であると、今さらながら思うのである。

 

【コースタイム】2017.9.5 曇り

河口湖駅~いやしの里根場バス停11:25~鍵掛峠13:06~鍵掛1589m13:30~王岳1623.4m 14:27-14:55~五湖山16:10~1340m峰16:25~女坂峠16:53~精進バス停17:20~河口湖駅

 

権現山から麻生山・三ツ森北峰

 私の最も好きな山歩きの季節は、四月中旬から五月いっぱいにかけてである。最近の山歩きの中心である東京近辺の山を前提としての話だが。

 その四月五月に、今年は三回しか行けなかったというか、行かなかった。その三回も奈良県の観音峰山、三輪山山口県の寂地山と、西日本の山である。いずれもほぼ他動的な縁によるもので、行った山に別に不満はないが、肝心の東京近辺の四月五月の山に行けなかったことを残念に思うのである。落葉広葉樹林帯の木々の、芽吹きから新緑へと推移してゆくあの美しさを、今年は見ずに終わってしまったのだ。

 四月は伊勢志摩・大峰・奈良と結んで6日間家を空けたほか、あれこれと用事が多かった。五月は思いがけない郷里山口での葬式や、グループ展、ギックリ腰などがあった。また制作の金箔貼り関係の作業で、丸3日は費やした。忙しかったのである。だから、葬式のついでの一回だけでも良しとしなければならないかもしれない。

 まあそれは良い。そうこうしているうちに、前回の山行からまた中一ヶ月空いてしまった。早く行かねばならない。早く行かないと梅雨入りしてしまう。

 

 今回の山は権現山。中央線の上野原から猿橋の北方で長く東西に延びる尾根である。尾根と書いたが、周辺の山から見て、その長く延びる大きな尾根の存在を指摘することはたやすいのだが、それが何山なのかというのは判りにくい。明瞭な三角形の山頂や特徴的な山容を持っておらず、長く大きいだけが特徴で、とらえどころのない山なのだ。そうは言っても、そこには当然最高地点があり、それに権現山の名が冠せられている。一般的には昔からそれなりによく登られている山である。しかし私の印象としては、上記したように、何となくとらえどころがないというか、個性が見えないという印象だった。個性的ではないというのが、この山の個性なのか。また、アプローチの便が悪く、しかも長丁場のコースだと思い込んでいて、食指が動かなかったのである。

 しかし、赤線が増えた地図の中で、その一帯だけが赤線の空白地帯であることが気になる。調べてみると、確かにバス便は午前中1本だけだが、歩程としてはそれほど長くもない。そんなにハードルの高い山ではないのである。ハードルは私の起床時間だけだ。平日午前中1本だけのバスは上野原駅発8:30。それに合わせて五日市を6:52の電車に乗ればよい。いつもより少し早いが、仕方がない。

 

 いつにもまして寝不足のうちに、5時前に目が覚めた。寝不足だけなら仕方がないが、何を寝呆けたか、勘違いして1時間も早い5:47の電車に乗ってしまった。やっちまったことは仕方ないし、早く着くのはむしろ良いことだと思ったが、よく考えたらバス時刻まで、1時間半も待つことになる。上野原駅のバス・タクシー乗り場がある側は、本当にバス・タクシー乗り場しかない。そして一台のタクシーだけが止まっている。とりあえず用竹バス亭まで幾らぐらいかかるか聞いてみた。2500円くらいかなという答え。若干のためらいもあるが、1時間半待つ気にはなれず、タクシーに乗り込む。あると思っていたコンビニもなかった(反対側にあったようだ)ため、途中のコンビニに寄ってもらい、弁当、飲み物を買う。

 用竹バス亭のまだ手前で、メーターが2800円を超えたところで、運ちゃんはメーターを止めてくれた。2500円くらいと言った手前、バツが悪かったのか。そのままだと3000円は超えただろうから、とりあえず感謝である。

 

 いつもに比べるとずいぶん早く7:30に歩き始める。バス亭から左に舗装道路を辿り、すぐに標識に従って右に入る。その道の突き当たりから山路になる。炭焼窯の跡がある。路は幅広く、雑木林の中をゆるやかに登ってゆく。

 

 ↓ 登り口近くにあった炭焼き窯跡

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 ↓ こんな感じ

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 おおむね展望はきかないが、それでもところどころで展望が開けるところがある。新緑というにはやや緑が濃くなり、初夏の山の風情であるが、気持が良い。

 

 ↓ どの辺の山か、まだ見当がつかない

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 神戸山道分岐で主稜線に乗る(8:02)。主稜線に出ても幅広い路は尾根を丁寧に右に左にと縫うように、ゆるやかに続き、実に歩きやすい。墓村への分岐を過ぎ、三本松908.9mの三角点は気づかないうちに通り過ぎてしまったようだ。2時間ほどで寺入山1028mの山名表示を見つけた。特に山頂といった感じもなく通過する。

 

 ↓ ゆるやかで幅広い路 あふれる緑光

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 ↓ 寺入山山頂

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 雨降山1177mは大きなアンテナや観測所が立ち並んでいて、立ち寄りようもなく、早々にそのかたわらを通りすぎる。「すみれの丘」の表示があったが、盛りはもう終わっただろうと通りすぎる。

 ともあれ、この尾根は自然林と植林が交互に、あるいは左右に現れる林相で、思っていたより自然林の割合が多い。楢を主とし橅も交えた自然林のところは、特に気持が良い。

 

 ↓ 広葉樹林と針葉樹植林帯の違い 植林帯は光も彩も乏しい

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 歩いているうちに、ふと一基の馬頭観音が佇んでいるのを見つけた。観音像は刻まれておらず「馬頭尊」の文字。裏面を見ると明治38年11月、表には桑久保の文字が刻まれている。桑久保は南麓の集落の名。それで気がついた。この登山道は、昔の馬や牛に荷を運ばせていた交易路、生活道だったのだ。ふつう新しくつけられた登山道は、稜線上をそのまま忠実に辿るようにつけられていることが多い。その元になった仕事道の性格が強いものでは、可能な場合はピークを巻くようにつけられているが、それでもここのように可能な限り急登を避けるようにゆるやかに、丁寧に尾根を縫うように、しかも幅広くはつけられていないものである。ここの主稜線がおおむね幅広く、またそれを可能にする地質だったということなのだろう。明治38年といえば1905年、100年以上前だ。いつ頃までこの尾根を馬や牛が荷を運んでいたのかはわからないが、おかげで(?)今日こうして、ゆるやかな道を楽に歩けるというものだ。

 

 ↓ 刀痕も潔い

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 ところどころに山ツツジの朱い花が咲いている。

 

 ↓ 山ツツジ

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 ↓ 笹尾根と左:三頭山

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 そろそろ大宝沢ノ頭1245mあたりかなと思うあたりで、ふと足元を見ると、なにやら赤く塗られた三角点のような標石がある。側面には「㤙(恩の異体字)」と「九七」の数字。以前にも見た御料局三角点には「三角点」の文字があった。「恩賜林」という単語が思い浮かんだ。思い浮かんだが、その内実は全く記憶にない。そういえばこの標石自体もこれまで何度も見かけたことがあるような気がする。帰宅後の事後学習で「明治末期に山梨県に下賜された山梨県内の元御料林の通称。現在は県有林で、管理の一部を恩賜県有財産保護組合(通称 恩賜林組合)などが行っている。(ウィキペディア)」と知る。この標石は恩賜林の境界を示す標石だったのである。それはそれとして、ではその恩賜林という措置は、水害で苦しんだという山梨県民に対してだけ行われたのだろうか。そして恩賜林は山梨県以外には存在しないのだろうか。新たな疑問が出てきた。

 

 ↓ 恩師林境界標石

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 その少し先に御社がある。近寄っていくと、このあたりでは珍しい大岩の上に鎮座しているが、社に登る石段そのものが、その大岩を刻みこんで作られている。小さな足掛かりを岩に刻んでいるのはよく見るが、このようにしっかりした階段を大岩から直接彫り出しているというのは、ちょっと珍しいのではないだろうか。御社は大ムレ(群)権現。権現山の名の元だ。あまりパッとしない山頂よりも、やはりこのような巨岩を依代(よりしろ)として必要としたのだろうか。

 

 ↓ 大群権現

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 ↓ 大岩から彫り出された石段

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 大群権現の脇からは左に水平に続く古い道型を捨て、裏手の尾根を直上する。ほどなく権現山頂上1311.9mに着いた(11:15)。さほど頂上らしいところでもないが、周辺には山ツツジが咲き、北側には三頭山から奥多摩方面が望まれ、気分は良い。良い位置にある山だなと思う。ともあれ、登り口の用竹が標高337mだから1000m弱の登り、ゆるやかではあったが、充分登ってきたのだ。

 

 ↓ 権現山山頂 二つの三角点(?)

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 ↓ 山頂からの三頭山とその奥、奥多摩の山なみ

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 ここにも三角点?が二つある。側面は削られているようで、何も読みとれないが、例の御料局三角点か、あるいは先ほど見た恩賜林境界票石かのいずれかだろう。昼食を食べていると単独行の年輩の男性がやってきた。この日会った唯一の人。

 

 権現山頂上からさらに西に進む。ふだん通りだったら、ここから浅川方面に下りる確率が高いのだが、今回は時間的にも余裕がある。麻生山、さらにはその先の三ツ森北峰を目指す。まあ例によって欲をかいたのである。浅川への分岐からは、多くの人はそこから浅川へ下るようで、歩く人が減るせいか、心もち路も細くなる。これまでと異なり、植林帯がほとんどなくなり、ほとんど広葉樹林。ゆるやかに下りながらまことに気分が良い。途中、エビネのような花を見つけた。まだ蕾だったせいもあるが、正確な名はわからない。また「㤙 四三」と刻まれた恩賜林の票石があった。

 

 ↓ エビネ? どなたか名前を知っていたら教えてください。

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 快適な尾根歩き1ピッチで麻生山頂上1267.5mに着いた。麻生山の名を「地図の四隅に秘境あり」との名言と共に知ったのはだいぶ前のこと。確かに麻生山は五万図「五日市」の左下隅に、山名はなく、三角点と標高のみ記されている。見落とされるべくして見落とされる山だと言えよう。だからこそ「地図の四隅に秘境あり」とは名言なのである。この名言、出典は『静かなる山』『続・静かなる山』(川崎精雄・望月達夫・ほか 茗溪堂)あたりかと思って見てみたが、見当たらない。あるいは麻生山とは関係なく、深田久弥あたりだったかもしれない。

 

 ↓ 麻生山山頂 特に展望もなし

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 麻生山から先、左へ駒宮への分岐(尾名手峠?)を分けると、尾根筋はそれまでと変わって岩場混じりの細いものとなる。変化があって楽しい。急なアップダウンを少しばかり繰りかえした先が、三ツ森北峰の頂上(13:23)。南側の見晴らしが良い。その南側の木には、なぜかデコラティブな大きな鏡が取り付けられている。ちょうど晴れていれば富士山が大きく見えるはずの方向である。今日は雲がかかっていて見えないが、富士山と鏡に映る自分とを比較対照して反省せよ、ということか。それとも少し割れていることを含めて現代アートなのか。必ずしも100%嫌味ではないが、意味不明である。なお「北峰」の手書きの表示板には1202mと記されているが、地図で見てわかるように標高点はないものの、正しくは1250m圏である。

 

 ↓ 本来は富士山が見えるはず この鏡は???

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 ちなみに三ツ森というが、三ツ森が三つの山峰であるとして、ここがその北峰とすれば、南峰はどこなのか。地図を見ると北に三つピークが連なっている。この三つが三ツ森なら、ここは北峰ではなく南峰にあたる。ここを北峰とするなら南西の麻生山までを三ツ森ということになるが、さて本当はどうなのだろう。ともあれ一人っきりの静かな山頂を堪能した。

 

 下りの鋸尾根には地図とは違って、少し主稜線を行った先の分岐から入る。この尾根も広葉樹主体の気持の良い尾根。二つほどある小ピークは左に巻く。下るほどに幅広い、ゆったりとした歩きやすい尾根となる。

 

 ↓ 鋸尾根の上部を見上げる。まだ尾根は少し細い。

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 ↓ 鋸尾根の下部 尾根はだだっ広くなる

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特に問題もなく、小姓集落に降り着いた(15:05)。一ヶ月ぶりということもあって、後半、足はあちこちだいぶ痛んだが、まあこんなものだろう。

 橋を渡れば杉平入口バス停だが、バスが来るまで40分以上ある。せっかく初めて来たところなのだからと、いつもの流儀で歩きだす。路傍にはいくつもの石仏がある。丸石神がある。かたわらの林では猿の群れが騒いでいる。

 振返ると、どうやら「三ツ森」の名の由来と思われる山容が見えた。ただし山座同定には自信がない。浅川入口バス停まで歩き、15分ほど待ってやってきたバスに乗った。

 

 ↓ どうやらここからの眺めに三ツ森の名のいわれがありそうだが…

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 今回は出発時点でのミスから、かえって余裕のある山行ができた。山そのものも予想以上に良い山で快適だった。特に権現山以降は樹林の相もさらに良くなり、また変化もあって楽しめた。この周辺はもう少しルートがとれそうである。もう一ヶ月ぐらい早い時期に再訪してみようか。

 

 ↓ 山ツツジ

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 ↓ ギンリョウソウ

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【コースタイム】2017.6.5(月)(晴れ)

用竹バス停留所7:30~神戸山道分岐8:02~寺入山1028m9:40~雨降山10:15~和見分岐10:20~権現山11:15‐40~麻生山12:36~駒宮分岐12:58~三ツ森北峰13:23‐38~小姓登山口15:05~杉平入口バス停15:25~浅川入口バス停16:00‐15~猿橋駅

「散策展」 うしお画廊 2017.5.15~20 作品紹介

 さる5月15日から20日まで、銀座のうしお画廊で「散策展」という5人(+1人)のグループ展をおこなった。

 当然このブログでもその案内をすべきだったのであるが、送ってもらったフライヤー(A4両面刷り)のデータを、どのようにして取り込めばよいのか右往左往しているうちに、いつのまにかどこかに失ってしまった。意気消沈しているうちに、あっという間に会期が始まり、あっという間に終わってしまった。どうも山行記録以外のブログを書くのは、フットワークが悪いというか、腰が重い。ちなみに水曜日の朝ギックリ腰になり、二日間休んだが、四日会場に行った。四日とも酒を飲んだ。

 

 まあ、終わってしまったことはしかたがないが、6日間の会期中に来ていただいた人は(今、手元に芳名帖が届いていないので正確にはわからないが)、だいたい300人から400人の間だったと思う。比較的小さな画廊としてはまあまあの数字かもしれない。5人の出品者がいるが、案内状を出した先は、ある程度重複しているだろうし。

 私自身は350~400通弱の案内状を出したが、その中で画廊に来てくれた人は何人ぐらいだろう。それも芳名帖をチェックすればわかることだが、そんなことをしてみてもせつないだけで、あまり意味はない。それぞれ都合も事情をあることだろうし。そもそも、そんな事を考え始めると、発表すること自体がだんだんネガティブに、面倒に、なってくる。

 だが、それはそれとして、実際に来られなかった人がいて、そういう人たちに見てもらえなかった作品があるというのは事実である。ならばこの際、「散策展」に出品した作品を、ここで紹介しようというのが、本稿の趣旨である。

 

 グループ展であるからには、どういう趣旨のグループなのかとか、どんな人が来たのかとか、ところで売り上げはどうだったのかとか、そうした現実的世俗的な問題もあるにはあるが、それはここではふれないことにする。それぞれ、微妙にデリケートな面もあり、それらを検証・考察・記述することがむしろ消耗につながりかねないからである。あくまで「散策展」に出品した私河村の作品のブログ上での再録ということである。

 

 一つだけ記すならば、今回の7点の出品作の選択で私自身が心がけたのは、出品数は少なくても(とは言いながら結果としては一番多く並べたのであるが)、作品世界においてある程度の幅広さを提示したい、ということである。出品メンバーの関係が、作品傾向や思想・テーマの上での共通性に基づいたものではなく、大学・予備校での知り合いといういわば同窓展的なニュアンスに立脚したものであったことから、そんなゆるやかな選択をしたのである。

 それぞれの作品間の関連は、基本的にはない。会場での展示、配置等のイメージも、個人としては当然ある程度はあったが、実際には画廊の方がすべて行われ、私は全く関与していない。そもそも展示空間ということでは、ある程度以上の大きさのある会場の個展でないかぎり、あまり興味が持てないというか、たいした問題ではないと思っているのである。

 

 なお、以下に掲載する画像は額装する前に撮影したものである。額装すればまた印象も多少変わる。また、紙の作品によっては反りや歪みがそのまま撮影されているものや、平面ゆえの歪みがそのまま出ているものもある。印刷の際など、本来はフォトショップなどで加工すべきなのであろうが、私にはできないため、そのまま掲載せざるをえない。御容赦を乞う次第である。

 以下、作品紹介。

  *凡例:出品番号 「作品タイトル」(作品番号) 制作年 サイズ 技法及び素材 発表 

 

 

1.「神殿」(680)

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2015~2017年 P80 自製キャンバスに樹脂テンペラ・油彩 未発表

 

 部分的にある、タッチで表現したところをのぞいて、すべての形を定規、コンパス等を使用して幾何学的に描いた。幾何学的色面によってのみ画面を構成すること。イメージのきっかけはモロッコのマサドラ(神学校)やトルコのモスクなどのありようである。結果としてやはりある種のエキゾチシズムが出てしまった感はあるが、それはやむをえない。

 

 

2.「立つをみな」(678)

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2015~2016年 P6 自製キャンバスに樹脂テンペラ・油彩 未発表

 

 「をみな」とは「おんな」の古語。モデルはいない。意味もほとんどない。想像の産物である。何となく高飛車で現代的な謎の女。

 

 

3.「渡海」(530)

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 2008~2010年 29.7×35.3㎝ 和紙(紅花漉き込み:軍道紙)に膠引き、コラージュ・アクリル・蜜蝋・油彩・凧糸 パレット画廊(周南市)/2011年

 

 今回出品した中では最も古く描きだしたもの。あきる野市にあるあきる野ふるさと工房では東京で唯一残っている手漉き和紙、軍道紙を作っているが、そこで注文して作った紙を使用。紅花が漉き込んであり、いささか表情が強すぎるが、それをどう活かすかということ。結局あしかけ3年もかかってしまった。なかなかまとまらなかったが、画面左下の、たぶんミャンマーあたりの小舟に乗った僧侶の写真をどこかの雑誌かパンフレットで見つけていっきょに完成した。作品タイトルもそれに由来しているが、もう一つ那智あたりで行われていた「補陀落渡海」のイメージも滑り込ませている。曼荼羅の左下の女性像は昔のフランスのお札の絵柄。

 

 

4.「南方の話」(563) 

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2010年 42.5×57.3㎝ 台紙に厚口和紙・膠引き、アクリル・油彩・コラージュ・砂  パレット画廊(周南市)/2011年

 

 中央に貼りこんであるのはトルコで買ったコーランの一頁。モンゴル仏教のお経やスリランカの貝葉経、道教の護符、寺社印、聖書など、宗教的な紙ものを素材として使うことがあるが、それらは日本の漢文の本や謡曲本、ルーン文字ギリシャ語の詩集等の、様々な言語・文字に対するのと同等の興味からである。むろん宗教そのものへの(批判的、比較文明論的な)関心はある。

 この作品に関してはいたって単純で、異国趣味(エキゾチシズム)であると言えばその通り。一つの文字の記された形(頁)を中心に、どのように魅力ある異文化、異風土を感じさせるかということ。上の左右の隅の青色は40年ほど前に山梨で入手したアズライトの鉱石をその後精製し(てもらっ)たもの。下の左右の隅の円弧はスリランカで採取した土だったか。周辺の銀彩はマージンであり、本来はマットの下に隠れる部分。

 

 

5.「胡姫」(565) 

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2010~2016年 31.4×23.5㎝ 厚口和紙にアクリルクラッキング地、樹脂テンペラ・油彩 未発表

 

 イメージの源はずいぶん前、20年か30年くらい前の新聞に載っていた図。図柄はほぼそれを忠実になぞっているが、左右の向きと大きさと色合いを変えてもう1点並行して描いた。図だけを切り取ってスクラップしていたのだが、解説の部分は切り取っておかなかったので、どこのどんなものだか、作者も、大きさも、素材も、何も知るところがなかった。4年前にインドに旅し、タジマハ―ルの一画にある美術館に入ったところ、その実物があった。10数㎝ほどの、何と象牙の薄板に描かれたミニアチュール。薄い象牙のゆえか、半透明感のある、実に美しい絵だった。それに比べ、本歌取りを狙った私の作品のなんと下手糞なこと!赤面ものである。まあ、あしかけ7年もかかった(実際何度か途中で放棄しようかと思った)事に免じて、勘弁してもらいたい。その美術館では撮影禁止だったため、写真は撮れず、いまだに作者の名前も知らないが、影響される源はまあ、そんなものであっても良いと思っている。ちなみに今回は作者の名前がわからず、できなかったが、いつもは他の作者の作品からはっきりと引用、サンプリングする場合には、その作者がわかるような頭文字とかをタイトル中に入れることにしている。

 周りのひびわれた部分はクラッキングという名のアクリル系の内装用の塗料。2種類の塗料を混ぜ合わせて使う。20年、あるいはそれ以上に買ったもので、今はよくわからないが、当時は一斗缶入りでしか売っておらず、そんなに量を使うものではないため、いまだに大量に残ってはいるが、もう賞味期限切れというか、使えないのではないかと思う。処分するのもたいへんだ。

 

6.「晶徴」(686) 

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2015年 51.2×36.2㎝ 台紙に和紙(宇陀紙)、鉛筆・銀筆・アクリル・水彩 未発表

 

近年というか、長く画面に現れてくる三角錐状の形体を、単独ではなく、組み合わせるということに最近少しこっている(?)。三角錐状の形体は一種の象徴装置。その「象徴」の「象」を「晶」の時に置き換えてみる。そうした言葉遊び、文字遊びの例も最近少し多い。

 

 

7.「森の中で」(706) 

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2016年 35.3×28.7㎝ 和紙に水彩・アクリル・アラビアゴム 未発表

 

 北方、あるいは北欧の旅の印象というか、イメージ。紙を使った作品ではほとんど膠(ドーサ)をひいて目止めをするが、ここのところ目止めをしない生のままの和紙を試みている。単独ではほとんど使わない透明水彩やアラビアゴム+顔料の味ももっと追究してみたい気もあるが、やはりしっかり絵具を置くということでは今のところアクリルにならざるをえない。グアッシュはなぜか相性が悪いというか、使いこなせない。墨を使うというありがちなことはしたくない。課題である。

 

 以上、7点。

 カテゴリーとしては「個展」ではないし、「美術・展覧会」でもよいが、ここは主に他者の作品や展覧会を扱う場だし、やはり「逍遥画廊[Gallery Wandering]」ということになるだろうか。あらかじめ計画的に設計したカテゴリー群ではないので、今一つ使い勝手が悪い面もあるが、まあ融通無碍ということにしよう。

カタクリの咲く尾根 46年振りの寂地山

 5月1日。夕方からの飲み会(高校同期会)に合わせて、東京ステーションギャラリーで開催中の『アドルフ・ヴェルフリ展』を見に行こうと家を出かけたとき、電話がかかってきた。

 山口県周南市のパレット画廊から、社長のHさんが亡くなられたとの報。享年79歳。2日が通夜、3日が葬儀。最近は癌の再発で入退院を繰り返され、この四月に予定されていた私の個展も延期と決まったばかり。あるいは、とも思ってはいたが、こんなに早いとは思っていなかった。Hさんとは30年以上の付き合いがあり、お世話になった。恩もあれば義理もある。通夜葬儀には行かねばならない。

 隣の下松市に住む姉に連絡し、宿を確保。ついでに防府市在のKに連絡を入れる。2日に山に登る予定で、3日以降も空いているとのこと。これでとりあえず行けば何とかなるというめどは立った。

 

 翌5月2日、ちょっとした踏切事故のせいで、予定より遅れたものの、通夜には少し遅れた程度でなんとか間にあった。3日、葬儀。多少の感慨あり。終わって下松の姉の家にいったん戻り、明日の予定を考える。

 事前にKに連絡を取った以上、山に登るという選択肢は当然あったのである。再度Kに連絡を取ってみると、前日に登っているにもかかわらず、若干の行き違いもあったらしいが、4日にもまた登ることになったという。行き先は山口県の最高峰(1337m)寂地山。高校生の時にすでに二度登っているし、今回としては、ちょっとイメージ的にハードに過ぎるかなと思った。しかし同行メンバーを聞くと、高校山岳部の後輩のF嬢、W嬢、S嬢が一緒だとのこと。何だ、これは、高校山岳部の再現ではないかと驚く。F嬢とは4月にも大峰に同行したばかり。ここのところ、妙に故郷山口との縁が深まっているような気がするが、それこそまさに縁というやつであろうか。ともあれ参加を表明。ルートや計画はKにお任せである。その夜は、なぜか地元防府の飲み会にも急きょ参加したあと、例によってK宅に泊めてもらう。

 

 5月4日、K宅を出てS嬢、W嬢をピックアップ後、玖珂インター近くでF嬢と合流。寂地山へは錦川沿いに進むが、車で行くのは初めてで、どこをどう走っているのかよくわからない。しかし、天気は良く、新緑の錦川沿いの景観も水の流れも実に美しい。

 登山口にあたる寂地峡駐車場に10:10着。意外にもというか、この時期当然というべきか、満車に近いぐらい多くの車がある。ということは、みな当然登り始めているわけだ。身支度を整えて、犬戻峡沿いの舗装された林道コースを歩き始める。46年前にはこのメンバーでそろいの赤い山シャツ、大きなキスリングザックを背負って歩いていたのだと思うと、なんとも不思議な気がする。

 

 ↓ 舗装された林道を歩く。

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 途中青いユニフォーム姿の高校生らしき10名ほどの集団とすれ違う。何気なく振り返ってザックを見ると「防高登山部」と書かれている。後輩だ。現役「防高登山部」と46年後の「防高山岳部」の邂逅。少しだけ言葉を交わす。

 われわれの頃の「山岳部」はだいぶ前に「登山部」と名を変え、現在は男女ともインターハイの常連校、強豪校として有名であるらしい。クライミングも盛んで日本人女子として初めてワールドカップで優勝(!)した小田桃花なども輩出している。部員数も35名と多く、われわれの頃と比べると雲泥の差、隔世の感がある。とはいえ、ほぼ何の規制もなく、それなりに自由にやっていたわれわれの頃に比べ、「インターハイ優勝が目標」などと競技性があまり強調されることには違和感を覚えるが、まあそれは年寄りの余計なお世話というものだろう。ちなみに今回の女性三名は、45年前に女子パーティーとして山口県から初めてインターハイに出場したメンバーである。もっとも、その当時女子のいた山岳部は県内で一校しかなかったという事情もあるが。

 今回は新人歓迎合宿とのことであるが、この先行の10名ほどは訓練に特化した、いわば精鋭であるらしい。その後も新人をまじえたグループや一人離れて最後尾から来る顧問の先生などが続々と降りてくるのに出会った。とにかく偶然とはいえ、ここでも故郷との深い縁を感じさせられた出来事であった。

 

 ↓ 犬戻峡遊歩道

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 しばらくすると林道は右に大きく尾根を回りこむようにカーブし、左に谷の左岸沿いの犬戻峡遊歩道が分かれる。そちらに入る。よく整備されており、歩きやすい。前方左に三段の立派な滝が見える。本流なのか支流なのか、ちょっとわかりにくい。地図上では顕著な支流は見当たらないのだが。そこからすぐに犬戻の滝に着き一服する。

 

 ↓ 水量からすれば本流だと思うが、地図にはこれにあたる滝記号なし

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 ↓ 犬戻の滝と若者たち

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 ここにも若者が大勢いる。聞くと今度は山口高校山岳部(登山部?)のやはり新人歓迎合宿だという。新緑の光あふれる渓谷の、なんとも若々しい光景である。それは60歳をとうに越えたわれわれを逆に照射し、年月なるものの残酷さというか、当り前さを感じさせずにはおかない。だがまあ、この美しい風景の中でそんなことを思ってみるのも鬱陶しいだけだ。ともあれ、近年絶滅危惧種と言われていた学校山岳部であるが、先日の那須での高校山岳部合同訓練の雪崩遭難に関連して報道された記事で、高校運動部に所属している人数が柔道部に次いで16位というのには少々驚いた。悪いことではない。若い時に山に登るのは基本的に良いことだ。そこから先は当人の問題。競技性も結構だが、山という大いなる自然性を充分に味わってほしいと、老婆心ながら、願うばかりである。

 

 滝や渓谷の美しさよりもむしろ若者たちの姿に感動した後、ふたたび谷から離れ、林道を辿る。ほどなく林道終点登山口の表示があり、そこから山道となる(12:00)。とはいえ、あいかわらず良く整備されており、歩きやすい。スミレ、ミヤマカタバミ、ネコノメソウ、キケマンなどを愛でつつ、1ピッチで尾根に乗る。

 

 ↓ ??スミレ 詳しくは知らない

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 ↓ ミヤマカタバミ ピンボケ

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 辿り着いたなだらかな尾根上は一面のカタクリの花。カタクリがあるとは間際に聞いていた。カタクリならすでに盛りは過ぎているが、自宅周辺にいくらでもある。とはいえ、ここほどの規模のものではない。特に期待もしていなかったが、実際には見事なものである。

 

 ↓ カタクリの群落

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 ↓ ちょっとズームで。 この花弁の反りっぷりが潔い。

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 ↓ カタクリを撮る。枯れ枝の結界。(撮影:K氏)

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 頂上はそこから一投足(13:20)。1337mの山口県の最高峰である。山塊としてはすぐ近くの冠山1338.9mの方がわずかに高く、三角点もそちらに置かれている。46年前と47年前に来た時はいずれも三月だったため、雪もあり、誰とも会うことのなかった山頂だが、今回は多くの人がいる。カタクリの咲くゴールデンウィークが、この山のハイシーズンであるようだ。それなりに良い頂上だ。大きな橅の木が立っている。中国山地最大級と言われる橅林だそうだ。東日本で見る地衣類をまとった白い樹肌と違って、緑色の苔類をまとっている。

 

 ↓ それぞれ色々あったでしょうが、46年ぶりのこのメンバーで、この頂上

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 珍しく、コンビニ弁当以外に、インスタントみそ汁やフルーツ、ケーキ、コーヒーまである豪華な昼食をとる。たまにはこういうのも良いものだ。

 頂上からはいったん先ほどの犬戻峡からのコースの合流点まで戻り、そのまま直進して右谷山を目指す。ルートは幅広くなだらかな尾根。ずっと樹林帯だが、芽吹いたばかりの落葉広葉樹が多く、この時期は明るい印象である。木の間越しに中国山地の山々が遠望できる。かつてはドンくさいだけで、さほどの魅力も感じなかったが、今こうしてみると、新緑のせいもあるのか、それなりに魅力ある山域である。それは、私自身の山に対する鑑賞能力が高まったということもあるだろうが。

 

 ↓ なだらかな橅の縦走路。

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 ↓ 振り返り、冠山遠望。

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 ↓ 中国山地の山々 (撮影:K氏)

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 道の左右にはずっとカタクリの群落が続く。自生地に立ち入らないようにと書かれた小さな看板がところどころにあるが、ロープなどは張られておらず、わずかに倒木や小枝を利用した結界があるだけで、それも感じが良い。

 行きあった何人かの人に白いカタクリがあると教えられ、それとなく見てゆくと確かにいくつか白いカタクリがあった。雄蕊の先はわずかに薄い青緑。アルビノということだろうか。独特の孤高というか、清楚な印象である。

 

 ↓ 白いカタクリ。残念ながらピンボケ。

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 ↓ 同じく白花カタクリ。同じくピンボケ。

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 みのこし峠、15:08。風邪をひいて体調があまり芳しくなかったS嬢が、右谷山には行かずここで待っているという。待っているくらいなら先にゆっくりと降りることをすすめると、KやF嬢に比べ、最近の山歩き経験がやや少ないW嬢も付き合うと言う。多少残念だが、あまり右谷山に未練のなさそうな二人で先に降りてもらうことにして、残る三人で右谷山を目指す。急にペースの速くなったKとF嬢の後を追いかける。1260m圏の錦ヶ岳(地図に山名記載なし)の少し先が右谷山1233.9mの山頂(15:35)。特にどうということもないが、悪くない。標高の数字に若干の趣味的こだわりをもつ私としては、四捨五入すれば1234mとなるこの山は貴重だ。ともあれ、初めての山頂だ。少しばかりの感慨あり。

 

 ↓ みのこし峠~右谷山の間

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 ↓ 私は別に機嫌が悪いわけではありません。

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 写真を二三枚とっただけでみのこし峠に引き返す。下りは寂地峡沿いの、やはり歩きやすい道。

 

 ↓ 穏やかな寂地峡上流部 (撮影:K氏)

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 途中不思議な石組の構築物を見た。炭焼き釜かと思われた石組の下に、もう少し規模の大きなものがある。帰宅後調べてみたら、かつてこのあたりで伐採をした木を、水車を利用して製材したその施設の跡だとのこと。水車で帯鋸を回したということか。それだけの設備を必要としたということは、ずいぶんと伐採したのだろう。伐採される前の樹林におおわれた山は、どんなだったのだろうか。見てみたかったような気がする。

 

 ↓ 水車利用の製材所跡

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 おだやかな上流から下るほどに谷は深くなり、まもなく木馬トンネルにさしかかる。その手前の寂地峡左岸の尾根上にある、小さいが面白かった記憶のある岩峰、竜ヶ岳は落石のため登山禁止の鉄柵が設置されていた。

 

 ↓ 真っ暗な木馬トンネル入り口

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 木馬トンネルもかつて通過したはずだが、全く記憶にない。頭のつかえそうな内部は真っ暗で、意外に長い。左に五竜の滝経由のルートも分かれていたが、楽で早く着ける方のルートを選び、ほどなく寂地峡駐車場に着いた(17:25)。先に降りた二人ものんびり降りたせいか、ほんの少し前に着いたばかりだとのこと。

 

 全く予定のなかった時期に、まったく登る気のなかった山だったが、結果としては良い山行になった。期せずして46年ぶりに一緒に登ることになったW嬢S嬢をはじめとする、防高山岳部という縁の取り結ぶ「人」のゆえでもあり、全く期待していなかったカタクリをはじめとする花々のおかげでもある。登山としては難しいところも急登もなく、穏やかに楽しめるコースだった。周辺の沢や藪尾根といったバリエーションルートを探るなどということは、今の私にはありえないだろうが、その気になれば魅力のある山域だと思う。

 東京に終の棲家を定めた現在、山口県中国地方の山に登る機会は、今後ともそう多くあるとも思えないが、少なくともKやF嬢にその気がある限り、可能性はいつでもあると思えるのは、なんとも心楽しいものである。御両人、そしてWさん、Sさん、機会があったらまたよろしくお願いします。

 

 ↓ 寂地山で見た花:ボタンネコノメソウ (ヨゴレネコノメソウだと思ったが、帰宅後調べたらボタンネコノメソウだった。ちなみにヨゴレネコノメソウはイワボタンの変種だとのことで、なかなか奥が深いというか、よくはわからない)

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 ↓ 寂地山で見た花:名前はわからない。これもピンボケ…。

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 【コースタイム】2017年5月4日

寂地峡駐車場10:20~犬戻の滝11:10/20~林道終点登山口12:00~寂地山頂上13:20/14:15~みのこし峠15:08~右谷山15:35~みのこし峠16:05~木馬トンネル~寂地峡駐車場17:25