艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

犇めく観客!!「縄文―1万年の美の鼓動」展(東京国立博物館平成館)を見に行った。

 8月28日、「縄文」展を見に行ってきた。

 

 ↓ 東博HPより

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 観測史上最高という猛暑の続く8月。会期終了まで1週間足らずとなり、その暑さもわずかに和らいだかと思われる28日、この日行かねば行く日はないという思いで、決死の覚悟(?)で見に行った。暑いのは仕方がない。電車の中や会場に入れば、冷房は効いているはずだ。

 

 問題は、大好評であるがために、8月17日で入場者数が20万人を超えたという混雑ぶりである(註1)。平均1日5000人弱。今日まで25万人以上か。20万という数字の大きさは実感がわかないが、私は美術館であれラーメン屋であれ、基本的に順番待ちの行列に並ぶことはしない。嫌いだからである。行列してまで見たのは2003年ワタリウム美術館か2007年の原美術館だったかの「ヘンリー・ダーガー展」のいずれかぐらいであろうか。この時は、作品劣化を防ぐために、海外でまとまった展覧会をするのは最後だとかいった触れ込みだった(註2)ので、予期せぬ行列を見たときには一瞬帰りかけたのだが、グッと我慢して行列に並んだ。

 2016年の東京都美術館の「若冲」展の時は多少の予想はしていたものの、文字通り長蛇の列を見て、1~2時間待ちと聞いて、あっさりあきらめた。しょせん縁が無かったのだ。ちなみにこの時の入場者数は31日間で44万6000人だったとか(註3)。

 

 今回並ぶかもしれないというのは、あらかじめある程度は予想していた。それを少しでも避けるために、平日のあえて一番暑い時間帯に行ったのである。今回はやはりどうしても見たかったのだ。見なかったら、必ず後悔することはわかっていた。

 一瞬の躊躇の後、チケット売り場の列の最後尾に並んだ。幸い、待ち時間は20分足らずで済んだ。その間にも続々と後続は増えるばかり。この日の入場者は5000人では済まなかったのではないか。

 誘導係の人から会場での入場制限があるかもしれないと言われていたが、それはなかった。しかし、その分、一挙に大勢が展示物の前に集まるのである。初めのあたりは、現物の前になかなか立てない。ひたすら忍の一字。どうしても展示の最初のコーナーから順次人が溜まっているようなので、コーナーによってはショートカットする。会場内での係員もそのように誘導していたのにはちょっと驚いた。後で若干後悔したが、最後に見に戻る気力はもう残っていなかった。

 

 縄文式土器自体は、全国あちこちの博物館やら郷土資料館やらに無数にあり、見る機会は多い。私自身、縄文式土器のかけらや断片はいくつも持っている。とある工事前の試掘で出てきたものをもらったり、ある時期住んでいた土地の近くで自分で表面採集したものなど。

 しかし、どんなものにも出来の良し悪しということは当然あり、また照明やキャプション等の見せ方、コンセプト・展示方法によって、見え方はまるで違ってくる。そうした意味で、国宝6点が展示されるということはさておいても、今回の展覧会が良いものであろうということは想像できた。そこはなんといっても、「東博」なのである。

 前回まとまって「縄文」を見たのは、2001年のやはり東京国立博物館での「土器の造形 縄文の動・弥生の静」展であり、それが実質初めての縄文体験であった。その時に初めて見た火焔式土器や初期の土偶に、強烈な印象を受けた。今、あらためてその時の図録を見てみると、今回と同じものもだいぶ出品されているが、17年も時間がたつと、多少印象は違う。

 

 ともあれ、展示物そのものはともかく、あまりに人が多いのである。押し合いへし合いというほどの混乱はないが、汗牛充棟(うん?意味が違うか)というか、犇めくという文字が思い出されるほどではあった。

 必ずしも時間に余裕のある年金生活のシニアクラスばかりではない。老若男女万遍なし。夏休みのせいもあり、子供連れも多い。美術愛好家だけではなく、歴史好きの人、とりあえず評判になっているものは何でも見たいという人も多いだろう。まあ、どんな人にも美術館に行く権利はあり、むろん多くの人が見ることは良いことだ。しかし、やはりここまでくると、入場制限をした方が良いのではないだろうかと思ってしまう。

 私自身は、先に述べたように行列するのが嫌いなこともあり、日本の美術館で入場制限といったことは、経験したことはない。ただし、海外ではある。二度目の、イタリアのパドヴァにある、修復が終わった壁画のあるスクロヴェーニ礼拝堂だったか。最初は入場制限と聞いて多少憤慨した(それが初めての体験だったので)が、30分程度待たされた後に入場してみれば、作品保護のための空調のありように納得し、2,30人ずつで本当にゆったりと落ち着いて見られることに納得した。したがってこの場合の入場制限とは、多すぎる観客のコントロールとは意味合いが異なるだろうが。

 まあ、そんな風にして「縄文展」を見たのである。ほとんど喘ぎながらといった態の鑑賞だったが、やむをえない。一休みしたいと思っても腰を降ろす休憩用の椅子は満員。ここまで人が多いと鑑賞のマナー云々と行って見たところで、意味はない。ここは、博物館・美術館の入場者数至上主義を批判するよりも、むしろそれに呼応して群集する日本人の美術好きのエネルギーをほめたたえるべきであろう。せいぜい図録を買って、帰ってからゆっくり見ようと思った。

 

 ↓ 図録 表紙

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 ↓ 図録 裏表紙 ある人から、私はこの遮光器土偶に似ていると言われたのだが…??

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 それはそれとして、今回一つ気になったのは、この暑さのせいであろうが、犇めきあっている人の匂い、汗が冷えた後の体臭である。体を密着させるようにして見ざるをえないところでは、特にそれがひどい。館内の冷房は効いているはずだが、人いきれのせいで、また体が密着されることで、いったん汗の引いた体が再び汗ばんでくるのである。有体に言って、汗臭い。私は匂いに対してさほど敏感な方だとは思っていないが、その私が臭いと感じるのだから、多くの人が感じたのではなかろうか。残念ながら高齢者のほうが匂いの強い方が多かったようである。むろん汗かきの私も臭かったのだろう。

 だからといって、どうすべきだとは言いようもないのである。せいぜい「これは縄文人の体臭だろう」などと、つまらぬ空想をしてみても、やはり臭いものは臭いのである。

 

 展示内容については、まずは、素晴らしかったと言える。しかもその素晴らしさが、前後左右の美術史の文脈と孤絶していることにあらためて驚くとともに、そのよってきたるところというか、あまりの独自性をまだ飲み込めないでいるというのが、現状である。それはこれから図録でも眺めながら、またゆっくりと味わい、考察するとしよう。

 

 ↓ 展覧会のチラシ この6点がすべて国宝!

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 今回は私が体験した、過去最高に混雑した展覧会の印象を書きとどめてみたまでである。

 それにしても、美術館に行くのに適季といったものは特にはないと思っていたが、やはり夏は不適というべきであろうか。それとも自宅を出て駅までの20分を歩きだすのに大きな勇気を必要とする、今年の暑さが異常と言うべきなのだろうか。美術館に行くのは、半ばは仕事であり、勉強であり、修行であると思っているが、それが辛くなってきたというのも、歳ということなのだろうか。

 

(註1)朝日新聞DIGITAL 2018.8.18

(註2)この触れ込みは2011年ラフォーレミュージアム原宿での「ヘンリー・ダーガー アメリカン・イノセンス。純真なる妄想が導く『非現実の王国へ』」展だったかもしれない。

(註3)日本經濟新聞デジタル版2016.5.24

                              (記;2018.8.28)

 

蕎麦粒山から天目山へ (2018.7.3)

 前回の山行から、また二か月空いた。5月から6月にかけて、ウズベキスタンに15日間旅した(別稿:カテゴリー「海外の旅」参照)。そのうち、少なくとも10日間は毎日2万5千歩前後歩いているから、必ずしも運動不足とは言えないだろうが、やはり山登りと、平地を歩くのでは、違う。前後にもう1、2回、行って行けないことはなかったとも思うが、頼まれて友人の山林ボランティア(スズメバチ退治+漆の木除去+笹薮伐採)や食料差し入れ緊急ボッカなどをやったりはしたけれども、実際の山登りには行かなかったのだから、仕方がないのである。

 今年の関東甲信の梅雨明けは、例年より22日も早い6月29日という早さだった。観測史上最も早かったそうだ。うっとうしい梅雨が早く明けたのは喜ばしいが、暑い夏が長く続くというのも困る。私は昔から暑さには弱いのだ。

 そうこうしているうちに、高校山岳部OB会の夏合宿(7月19~26日 雌阿寒岳羅臼岳斜里岳・旭岳)が近づいてきた。いくら暑さに弱くても、トレーニングせねばならぬ。

 

 今回のルートは、奥多摩の鳥屋戸尾根から長沢背稜、蕎麦粒山・天目山をへて横スズ尾根下降。久恋の、というほどではないが、けっこう前から懸案の山だった。標高差1100m、実働8時間程度の、日帰りにしては、ちょっと長く、要体力のルートである。

 アプローチもそう問題があるわけではないが、奥多摩駅発東日原行きのバスは平日7:04と8:10。7:04はともかく、8:10のバスに乗るためには、五日市発6:27の電車に乗らなければならない。そのためには5時前に起きなければいけない。日常遅寝遅起きの私にはそれが辛い。それがために、これまで先延ばしにしてきたのである。

 しかし、帰路の東日原発奥多摩駅行きのバスは、17:50と18:52の2本。つまり、無理して早く登り始めても、結局降りた東日原でバスを待つことになるのだ。幸い、今の時期は日が長い。ならば、登り始めるのは多少遅くても特に問題はない。バス部分はタクシーを使ってもたいした金額にはなるまい。夏合宿のトレーニングとしては、この程度のルートはぜひとも登っておきたいところだ。

 

 前夜はワールドカップの日本VSベルギー戦がある。心を鬼にして(?)録画予約する。4時間半の浅い睡眠で、7:18の電車に乗る。たった50分の違いだが、その壁を乗り越えられないのである。奥多摩駅から川乗橋まで、タクシーで1540円。安いものだ。

 ゲートの脇から川苔谷沿いに入れば、すぐに小さな標識がある。それに従って杉の植林帯を登り始める。植林帯ではあるが、間伐されており、意外と明るい。「山と高原地図」では難路の破線で記されているが、案外登る人は多いようで、わかりにくいところもなく、歩きやすい尾根を淡々と登り続ける。

 

 ↓ 登り始めの植林帯。地形図上の傾斜からすると登りやすい。

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 実は今回、どういうわけか、必要な2.5万図「武蔵日原」と「山と高原地図」を持ってくるのを忘れてしまったのである。持ってきたのは、置いてくるつもりだった方の2.5万図「奥多摩湖」(最初の登り口がほんの少し記載されている)と、ルートの後半しか出ていない「奥多摩登山詳細図」。チョンボである。以後一応、スマホ地理院地図を出して時おり参照しながら登るが、私にとっては、使い勝手の良いものではない。幸い読図の必要なところもほとんどなく済んだが、地図のない山登りは、少し寂しいものである。

 登るほどに暑さも和らぐ。自分の体調を観察しながら登るが、そう悪くもない。ウズベキスタンでの歩きの貯金が、多少は残っているのだろうか。

 

 ↓ 広葉樹の自然林がでてくる。

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 1ピッチも登ると自然林も出てくる。緑は濃く、展望はほとんど無い。ところどころ尾根が少し狭くなるところもあるが、おおむね幅広い尾根で、快適に登れる。自然林と植林の割合は半々か、やや自然林が多いかというところ。だんだん蝉の声がやかましくなる。小鳥のさえずりも多いが、鴬とホトトギス以外はわからないのが残念だ。

 

 ↓ 笙之岩山山頂。

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 笙ノ岩山(1254.8m)着、11:35。なにやらゆかしく思われる名前の、樹林の中の小広い山頂は、悪くはないが、特にどうということもなく、写真だけとって通過。

 

 ↓ 笙之岩山山頂からのゆるやかな上り下り。

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 ↓ 途中から見た川苔山(左)と大岳山。

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 ↓ 主稜線=水源林巡視路にぶつかる。蕎麦粒山山頂へは右正面。

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 鳥屋戸尾根の急な部分はすでに終わり、後はゆるやかな登降を繰り返しながらゆっくりと登っていくわけだが、そこからが案外長かった。登り始めから蕎麦粒山山頂までの標高差が1000mだから、休憩も入れて4時間もあればと思っていたが、実際にはもう1ピッチ分かかってしまった(13:40着)。これが実力だろう。

 

 ↓ 蕎麦粒山山頂。

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 ↓ 蕎麦粒山山頂から日向沢ノ頭と川苔山(奥)を望む。

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 いくつもの大岩がある狭い蕎麦粒山山頂は、感じが良い。日向沢ノ峰・川苔山方面しか展望がきかないのが、少々残念だ。山名は、尖った三角錐状の蕎麦の実のような形から付けられたようだが、山頂に立ってみても、あまり尖がったピークとは思えない。見る方向によっては、そうも見えるのだろうか。簡単な昼食をとったのち、主稜線の長沢背稜を天目山に向かう。

 

 ↓ 山頂からの下り。

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 この主稜線につけられた登山道は、確か水源林の巡視路としてつけられたはず。そのため、尾根上を忠実に辿るというよりは、なるべく水平に、労の少ないようにつけられている。私は縦走の場合は、なるべく忠実に尾根上を辿りたいという美意識を持っているのだが、実際問題としては、小さな上り下りを繰り返すよりも、水平な路を歩く方がはるかに楽である。

 

 ↓ 主稜線上は山毛欅の大木が多い。

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 すぐそばの仙元峠にも立ち寄ってみたいと思っていたが、峠と名は確かに付いているものの、この場合は「峠=トッケ(朝鮮語由来?)」で、つまりピークであり、水平の巡視路によってあっさりと巻かれている。分岐から再び登り返す気もなく、そのまま進む。いつか仙元峠に立って、そこから秩父へと下る山旅をすることがあるだろうか。

 やがて天目山へと標識には記されていないが、尾根伝いに直接天目山山頂に至ると思われる分岐が現れた(15:10)。実はこの前から迷っていた。天目山へ向かうとなると50分ほど余計にかかるのだ。コースタイムからすると、東日原発17:50のバスにギリギリ。間に合わないかもしれない。疲労感も結構ある。天目山山頂を割愛し、このまま一杯水小屋から横スズ尾根を余裕をもって下るという案もある。

 しかし、一つの尾根を登り一つの山頂に立ち、さらにもう一つの山頂から別の尾根を下るという美しい(?)プランからすれば、天目山山頂を割愛するというのは画竜点睛を欠くと言うべきであろう。バスは17:50の後にもう一本、18:52もあるのだ。1時間バス停でぼんやり待つというのも乙なもの。

 

 文字通り疲れた体に鞭打って、天目山山頂に向かう。ちょっとしたピークの先から下りとなり、再び登り返す。思っていたよりもアルバイトを要求されるが、まあ好きでやっていること、誰にも文句は言えない。登山はしょせん修行である。

 

 ↓ 天目山山頂。

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 天目山山頂はぽつんと三角点が一つあるだけだが、好ましい山頂だ。蕎麦粒山よりも100m高く、おおむね展望も良い。やはり、来て良かった。川苔山、大岳山、御前山、雲取山と、奥多摩の主要なピークを指摘することができる。

 

  ↓ 天目山山頂より先ほど登った蕎麦粒山(左)を見る。右は川苔山。

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  ↓ 天目山山頂より大岳山(左)、御前山(右)を見る。

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  ↓ 天目山山頂より雲取山(左)を見る。夏山だ。

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  ↓ 天目山山頂より富士山を遠望。雲がかかって、頂上付近だけがわずかに見える。(富士山好きのFさんのために)

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 さて、時間のことがある。下山を急ぐ。一杯水小屋の裏手に出て横スズ尾根に入る。

 

  ↓ 一杯水小屋

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 この尾根も幅広く、尾根上から巻き道へとうまく路がつけられており、実に歩きやすい。休憩を減らして、さらにそれなりのハイペースで下りなければならないのだから、この歩きやすさはありがたい。

 

  ↓ 横スズ尾根の下り始め。

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  ↓ 横スズ尾根の途中。快適である。

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 横スズ山1289mは知らぬうちに巻き過ぎる。滝入ノ峰1310mはその手前から左に大きく巻き、以後ずっと自然林と植林帯の境の山腹を行くようになったが、このあたりからが実に長く感じられた。一本バスに遅れても1時間待てばよいだけだとわかってはいても、ついつい頑張ってしまう自分がいる。

 

  ↓ 山毛欅はこのようにウロになっていても結構踏ん張っている。

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 汗だくになって17:45、東日原バス停に着。バンガローにでも泊まったらしいさわやかな若者グループを横目に、大急ぎで汗に濡れたTシャツだけ着替えてバスに乗り込み、最後まで誰とも会うことのなかった山行を終えた。それなりの達成感を味わいつつ、眠りに落ち込んだ。

 

 今回気づいたことを一つ。

 この日原川の流域は昔、沢登りで何度か訪れたことがある。大雲取谷、小雲取谷、巳ノ戸谷、滝谷、カロー谷(中退)、川乗谷、など。そのうちのいくつかでは詰めの濃密な笹藪漕ぎで苦しめられた記憶がある。この笹とは「横スズ尾根」のスズ=スズ竹のこと。それが今回歩いていて全く見かけなかった。わずかに横スズ尾根の下部で、だいぶ古い枯れた株をほんの少し見かけただけである。

 笹に限らず、全体を通して下草がほとんどない。奥多摩に限らないのだが、笹=スズ竹が一斉に広範囲で枯れ死したというのは、だいぶ前から耳にし、実際目にしてきている(同じ笹でも熊笹などはこの限りでなく、今も健在である)。沢登りの詰めの藪漕ぎに限らず、スズ竹がなくなったことでずいぶん楽になったことは確かなのだが、いずれ復活するものだと思っていた。しかし、少々期間が空きすぎるのではないか。

 調べてみると「ササは40年から60年周期でどちらも開花後には枯死する」(ウィキペディア)とある。それはまあ、一応知ってはいるのだが、もう少し詳しくと思ったが、良い情報がない。

 ヤマレコのhayashiさんの日記で「スズタケの開花について」として、以下の記述があった(https://www.yamareco.com/modules/diary/5787)。

 「スズタケの開花を継続的観察している。奥多摩の開花は終息に向かっている。秩父や大菩薩も終わりに近づいているようです。スズタケ開花の情報は5年位前から非常に増えて、静岡県、長野県、群馬県茨城県、愛知県、岐阜県三重県兵庫県、四国、九州、岩手県と、スズタケが生えている場所のほとんどで見つかっている。各地の開花規模は不明だけど。少なくとも関東中部の太平洋側のスズタケは7割以上は開花枯死するみたいだ。東京都、埼玉県、山梨県の開花はほとんど終了。神奈川県、静岡県、長野県、愛知県、岐阜県三重県兵庫県、四国は開花継続中。群馬県茨城県、九州と東北は不明。」

 ちょっと知りたいことの核心からは、ずれているのだが、まあ貴重な情報である。ともあれ、奥多摩あるいは他山域でのスズタケの復活はあるのだろうか。スズタケはどちらかといえば嫌われ者というか、やっかい者の感がある。だから私としても必ずしもスズタケの復活を願うというわけではないのだが、現状のような樹林帯に下草が全くない状態というのは、見た目にも、生態学的にもちょっとヤバいのではないかと危惧するのである。

 

  ↓ 杉(檜?)の〆木。

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 もう一点。上に掲載した写真は横スズ尾根の下部の植林帯にあった杉の木であるが、ご覧のように見事にくるりと一回転、ねじれている。それ自体はそれほど珍しいものではなく、山では時々目にし、山関係のサイトでも取り上げられている。

 これは〆木などと言われ、いわゆる「山の神」が、12月12日、1月12日など12にまつわる日に、山で木の数を数え、100本とか1000本ごとに心覚えとして木を捩じっておくというもの。したがってその日に山に入ると木と間違われてねじられてしまうとして、山に入ることが禁止され、当日は「山の神祭」が執り行われるのである。「山の神」や「山の神祭」にも様々なバリエーションがあるが、この〆木という現象と、入山禁止のタブーはかなり一般的であるようだ。以上、ちょっと紹介しておく。

 

 さて、そんなあれこれの山行を終えた帰宅途中に、Kからメールがきた。いつもの山と旅の仲間であり、今度の夏合宿の主要メンバーでもあるKである。箱根金時山を登って下りの、流水とオーバーユースで溝状にえぐれた一般登山道で転倒し、右手を骨折したとのこと。

 ご愁傷様ではあるが、とりあえず、間近に迫った北海道合宿をどうするかだ。以後二日ほどかけて協議し、中止とあいなった。

 まあ、いろんなことが起き(う)るのである。年齢、体力、技術、状況。リスクのない、安全登山などというものはない。要はそれらに対して自分がどう予測し、対応するかである。他山の石として、今後の山行にのぞまなければならない。

 

  ↓ 今回のルート。手持ちの2.5万図をスキャンしたので、ちょっと見づらいかも。登り口の右下は少し切れています。左の赤線は昔のカロー谷遡行時のもの。

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【コースタイム】2018.7.3(火曜)晴 単独

川乗橋バス停9:03~最初の標石10:20~笙ノ岩山1254.8m11:35~蕎麦粒山1472.9m13:40-57~仙元峠分岐標識14:15~天目山分岐15:10~天目山1576m15:38~一杯水小屋14:02~東日原バス停17:45

 

「なぜウズベキスタンなのか―過去の海外の旅を概観してみる―完結篇」 (モロッコ+チュニジア・アメリカ・トランスコーカシア三国・ウズベキスタン 篇)

⑲2015.2.1~18 (18日間)

ロッコカサブランカマラケシュ・ザゴラ・トドラ・メルズーガ・フェズ・メクネス)~チュニジアチュニスカルタゴ

同行:河村森(息子:無職) S嬢(姪:無職)

 

 この旅については以前「モロッコチュニジアの旅 1-10」(カテゴリー:海外の旅)として途中まで書いて、挫折した(興味ある人はそちらの方も御高覧下さい)。

 なぜ挫折したのか、直接の理由は今となってははっきりとは思い出せないが、少なくとも紀行に関しての自分の表現スタイル/思想を確立していないまま書き出してしまったことが、大本の理由である。

 

 

 ヨーロッパ(西欧・北欧・南欧)、アジア(東アジア・東南アジア・南アジア)、中南米と巡ってくると、次はやはり、アフリカに行きたくなってくる。アフリカ美術・アラブ美術については国内外の美術館である程度は見ている。しかし、できればその風土の中で、全体性として見てみたい。

 アフリカらしいアフリカとなればやはりサハラ以南か東アフリカということになろうが、美術を期待できそうで、なおかつある程度安全快適に旅できる国となると、なかなか見当たらない。東アフリカの自然や野生動物には、二次的以上の興味はない。まあ、こちらとしても初アフリカなのだからということで、ここは敷居の低そうな北アフリカから手をつけることにした。思い起こせば15年前にもモロッコを計画したことがあったのだ(「なぜウズベキスタンなのか その1」 ②)。

 

 北アフリカ、モロッコチュニジアといえば、アフリカ大陸ではあってもアラブ・イスラム圏の印象が強い。先に行ったトルコとインドの一部でのイスラム美術体験は、なお新鮮かつ未消化なままであった。

 公務員試験に落ちまくって、結局春から別のIT企業に就職を決めた息子の最後の無職期間を活用するため、二月という時期になった。偶然だが、同様に転職前の無職期間であった姪も同行することになった。いわば親族旅行となったのであるが、それはそれで今までとは違った責任もあるような…。

 

 ↓ モロッコ料理。確か、タジンとか言ってたような? おいしいが、連日これでは・・・~。

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 結果としてはイスラム的要素とアラブ的要素、そして古代地中海世界的要素の混在した異文化・美術・自然を大いに味わい、楽しむことができた。予断をもって訪れたマラケシュのイブ・サン・ローラン・ギャラリーでは、かえって、美術という文脈ならではの、西欧とオリエントという異文化同士の幸福な結合に出会えた。

 

 ↓ イブ・サン・ローラン・ギャラリーの庭園。外部の眼/エキゾチシズムを通して見ることで、かえってその固有性が明確に立ち上がってくることがある。詳しくは「モロッコチュニジアの旅 7」(カテゴリー:海外の旅 参照)。

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 そして、マラケシュやフェズのメディナ(旧市街)と、メドレセ(神学校)などの装飾アラベスクに通底する、めまいのするような迷宮感覚。

 

 ↓ ベン・ユーセフ・マドラサにて。

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 ↓ メディナ(旧市街)=迷宮 マラケシュにて。

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 ↓ 昼間のメディナもまた迷宮である。フェズにて。

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 ↓ 迷宮の一角に、ふとこんなモロッコ的色彩が立ちあらわれる。

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 ↓ 異文化どうしの迷宮の出会い。

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 ↓ 装飾とは畢竟、迷宮のことなのか。絨毯。

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 アトラス山脈越えの雪と思いがけぬ寒さ。砂漠での一夜、二夜。

 

 ↓ アトラス山脈は予想だにしなかった雪の世界。そこを越えれば、サハラ。

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 ↓ トドラ渓谷。絶景です。

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 ↓ しばしの旅の仲間、スペインの大学生たち。砂漠の一夜を共にした。焚火を囲み、スぺインのロックバンド「Mago De Oz」の歌を一緒に歌った。

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 ↓ 砂漠の舟。

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 ↓ 砂漠のテント泊、二泊目。寒い。

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 ↓ 砂漠の夜明け。寒い。

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 沿岸部カルタゴ古代ローマ帝国文化の残照、モザイク。濃いコーヒーとオリーブの美味さ。等々。

 

 ↓ カルタゴ遺跡。遠くには地中海。だとすると、左遠くにうっすらと見えるのはスペインか?

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 ↓ 古代ローマ彫刻。技術の極み。

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 余談になるが、砂漠地帯での長距離バスの乗り継ぎに失敗して、まったく予定外のところで降ろされたときは途方に暮れたが、同時に旅の醍醐味を味わった瞬間でもあった。

 

  ↓ チュニス旧市街の街角の門扉。このバリエーションが実に面白い!

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  そしてその一か月後、私も大いに楽しませてもらったチュニジアのあのル・バルドー博物館が、日本人観光客も巻き込まれたテロの舞台となったのである。

 

  ↓ ラ・バルドー博物館にて。素晴らしいモザイク群。

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  ↓ 同上。それにしてもアフリカで、ダウンジャケットに山用パーカーを重ね着するとは思わなかった。

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  ↓ チュニスの街角でいきなり女子大生の群に囲まれて、一緒に写真を撮らされた。決して私から声をかけたのではありません。世俗主義万歳!

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⑳2015. 9.15~28(15日間)

アメリカ(ニューヨーク・グランドキャニオン・ヨセミテ・ロサンゼルス)

同行:K(無職)

 

 この旅についても、以前「アメリカの旅 1-2」(カテゴリー:海外の旅)として途中まで書いて、「モロッコチュニジアの旅」と同様に挫折した(興味ある人はそちらの方も御高覧下さい)。なぜ挫折したのかというと、やはり同様に、まず紀行に関する表現スタイルを確立していなかったということがある。

 次いで、アメリカについては、一般的にも自分自身としても、他の国よりどうしても手持ちの知識や情報が多いため、考察や検証において最初から深く突っ込むことが可能であり、その分、より厳密精確な検証性・典拠性が問われるからである。つまり、漠然とした感想ではすまないハードルの高さがあるのだ。考察に対する検証性・典拠性については、本来はどこに対しても同様なはずだが、ハードルの高さに関しては、現実的には、おのずと高低の差が存在する。そして書き始めてみると、そのハードルの高さは予想以上だった。

 私は考察の存在しない紀行/文章を書こうとは思わない。そして、検証に耐えられない、当人の感性だけが表出された紀行文というものは、もっと書きたくない。それゆえにそのハードルの高さを前にして、ひるみ、挫折したのである。

 以下、本論。

 

 

 アメリカに行くことは一生ないと思っていた。アメリカという国家に対して、私は子供の頃から良いイメージを持っていない。心情的反米帝主義者としての少年~青春時代を送り、今日に至っているのである。

 

 ↓ エンパイアステートビルからの夕暮れのマンハッタン

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 ↓ 9.11の跡地に作られたグランド・0。そこに刻まれた犠牲者の名前。あれから世界が大きく変わった。

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 ↓ ホイットニー美術館だったか、NY近代美術館だったかにあった9.11をダイレクトに描いた絵。日本の美術館では現実の社会との関係性は、どうなのだろう?

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 ↓ 同じくホイットニー美術館だったか、NY近代美術館だったかにあった、反体制的、反戦的、反政府的作品群を集めたコーナー。日本の美術館にこうした発想が可能か?

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 しかし実際問題として、世界的に見て、その圧倒的な影響力は否定しようもない。美術においてもまたしかり。アメリカ美術そのものは、日本においても見る機会が多い。ついわかっているような気がしてくる。だが美術の世界においてアメリカが圧倒的な力を発揮するようになったのは、戦後のこと。それ以前はヨーロッパに対する大いなる辺境にすぎなかったのだ。日本にいては、そのあたりのことが正確にはわからない。

 

 ↓ 巨大なメトロポリタン美術館。一日かけても、とても見切れない。しかし、あえて言えば、そこにあったルネサンス印象派以前のヨーロッパ美術のコレクションは、ヨーロッパのそれに比べれば、1.5流以下のものがほとんどである。アメリカの購買力が増した時に買えた一流のものは、主として同時代の印象派以降のものだということ。(ただし非ヨーロッパの、例えば日本のものなどは、超一流のものを持っている)

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 ↓ 巨大すぎるMOMA=ニューヨーク近代美術館。こちらはとにかく閉館までになんとか見切ったと思ったら、最後の大規模なピカソの彫刻展をそっくり見落としていたことに気づいて、がっくり…。

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 ↓ ホイットニー美術館だったかMOMAだったか、とにかく巨大すぎる展示スペース。世界中のあらゆる美術を蒐めようという、その執念と金力には脱帽。

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 ↓ 巨大な壁、巨大な作品。余裕ある展示空間。

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 私も20回も美術を巡る海外の旅をしてくると、たいていの「〇〇美術」「△△絵画」は見てきたという気がしてくる。しかし、考えてみれば「アメリカ現代美術」や「抽象表現主義」・「ポップアート」ではなく、「アメリカにおける美術」を、その全体性を見たことはない。これでは画竜点睛を欠く(?)というものではないか、と思い至った。

 

 ↓ これはフランス古典主義のアングルの作品。完璧な作品である。この作品におけるような、ヨーロッパ文化に対するコンプレックスが、両大戦を通じて経済力を持ったアメリカの、蒐集欲の源泉である。

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 ↓ ⑰「ペルー」でも触れたコロニアルアート。これはロサンジェルスの美術館にあったものだが、出来が良いので、再度取り上げる。

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 ↓ これもロサンゼルスカウンティ美術館(?)だったかの日本コーナーにあった須田剋太の書。司馬遼太郎の『街道をゆく』の挿絵で知られ、書も良くするとは聞いていたが…。

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 そのアメリカに長く駐在し、今でもアメリカ大好き男であるいつもの旅と山の仲間Kが、ようやくめでたく正式に完全退職することになった。帰郷するに前に、2週間の有給休暇を消化する必要があると言う。

 私はアメリカという国家に対しては良いイメージを持っていないと書いたが、その自然に対しては、逆に昔から大いに心惹かれてきた。グランドキャニオンやヨセミテには昔から行ってみたかったのだと、ふと思いだした。

 一生アメリカに行かないということは、一生グランドキャニオンやヨセミテに行けないということである。2週間あればその二か所だけではお釣りがくる。ここはやはり長い間の怨讐(?)を忘れて「アメリカ美術」を見に行かねばなるまい、となった次第である。「アメリカにおける美術」と「アメリカの自然=ヨセミテとグランドキャニオン」を結び付けることに、さほどの必然性があるわけではないが、必ずしも、無理のあるものとも言えまい。私としては、旅程として合理的・効率的(?)であると思った。

  なにせアメリカに慣れたKとレンタカーを駆使しての旅である。快適でないはずがない。

 

 ↓ 広大なアメリカのフリーウェーを行く。広大な空の広大な夕焼雲。

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 結果として大いに味わえ、大いに勉強できた。訪れた、あらゆる美術を包含した美術館の規模はでかく、まさに肉体労働的鑑賞の明け暮れではあった。ただし、スタンダードなものを見るだけで、手一杯だったため、課題の一つであった、アメリカにおける初期の美術の「ハドソンリヴァー派」や、アウトサイダーアートをも含む「アメリカン・フォークアート」については、あまり見れなかったのは残念だった。

 

 ↓ 「アメリカン・フォークアート」=ホームレス・アーティストのビル・トレイラー(たぶん)の作品。

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 ↓ 「アメリカン・フォークアート」=(たぶん)エイブル・アーティストの刺繍による作品。これらが他の専門画家の作品と同列に展示されている。

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 それに対して、ヨセミテとグランドキャニオンは純粋に素晴らしかった。

 グランドキャニオンでは、ブライド・エンジェル・トレイルをプラトー・ポイントまで往復した。予防していたつもりでも、あまりの暑さに、軽い脱水症状になった。(これについても別に「山行記-7 グランドキャニオンのブライド・エンジェル・トレイルを歩いた」として「山」のカテゴリーでアップした。興味のある方はそちらも参照していただければ幸いです。)

 

 ↓ ブライド・エンジェル・トレイルをコロラド川河岸段丘のインディアン・プラトー目指して、右の影の中のトレイルをくだる。

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 ↓ 前方の人がいるところがインディアン・プラトー。奥のピーク、右がシヴァ・ピーク、左がブラフマ・ピーク。

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 ヨセミテでは、三日間で三本のトレイルを歩いた。それらのすべては美しく、快適で、大いに楽しめた。

 

 ↓ バス停(グレイシャー・ポイント)でおりるといきなりこの絶景。前方はハーフ・ドーム。

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 ↓ ヨセミテ!である。花崗岩の王国。文句はありませんが、クライミングはともかく、もう少し山登りらしい山登りをしたかったなぁ…。

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 ↓ ハーフ・ドームの裏側を巡るパノラマコースの途中にあるバーナル滝だったかの滝壺に耀く虹。

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 ↓ エル・キャピタンを登攀中のクライマー。精一杯ズーム。

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 ↓ さらば、ヨセミテ、名残は尽きねど。ヨセミテ渓谷の入り口近くにて。

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 そして端的に言えば、それらの整備され(過ぎ)た「トレイル」は、楽に過ぎるコースだったのである。それはそのように設定されたトレイルなのであるが、麓から登り、見通しのきかない樹林帯にあえぎ、しんどい思いをして山頂に至るという、日本的登山に慣れ親しんだ吾々には、その楽しさはどこか違和感、不満足感のあるものでもあった。

 

 そして正直に言えば、それら「アメリカにおける美術・アメリカ美術」にせよ、「グランドキャニオンとヨセミテ」にせよ、すべてのものに、なにがしかの既視感があった。つまり事前に知識・イメージとして了解済みのものばかりで、予期せぬ出会い、未知なる異文化といったものは、なかったのである。半ば予想通りではあるが。

 旅とは難しいものである。

 ともあれ、納得はした。「見た」という気はする。 

 

 

 

 

㉑2016. 9.10~24(15日間)

トランスコーカシア三国 アゼルバイジャン(バクー)~グルジアトビリシ・クタイシ・ツカルトゥボ)~アルメニア(ハフバット・エレヴァン・アルガツ山麓

同行:K(無職)

 

 最近は身を焦がすような思いで「行きたい」「見たい」と思うところがなくなってきた。地域としてはオセアニアが残っているが、なぜかあまり心惹かれない。自然はともかく、美術に関して期待できないからだろう。

 

  ↓ グルジアから陸路国境を越えてアルメニアのハフバットにに入る。ホテルからの夕景。

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  ↓ 山関連で。アルメニア、アラガツォトゥン地方・アラガツ山麓を行く。見えているのは、最高峰アラガツ山4090m(?)。

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 しかしそうはいっても、年に一度ぐらいは未知の国に行きたいという旅心は、まだ健在である。そうなると目的地と目的とを考えるのが、一種「重箱の隅を」探す作業に近くなってくる。しかし「重箱の隅」にもお宝は眠っている。今回のトランスコーカシア三国は、私にとってそういった「とっておきのエリア」だったのである。

 

      ↓ アゼルバイジャンのバクーのメディナ(旧市街)をさまよう。

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     ↓ アゼルバイジャン、バクーの乙女の塔(世界遺産)で地元の乙女たちが駆け寄ってきた。

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  ↓ 左、グルジアを代表する画家ピロスマニの作品。彼の住む街を訪れた旅回りの女優に恋をし、描いた作品。そのエピソードを加藤登紀子が「百万本のバラ」として歌った。

右は彼が貧困のうちに死んだアトリエ兼住居。奥の右の、今は記念館になっている、階段下のごく狭い部屋(ただし、正確には少し離れた別の場所であるとのこと)。

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  コーカサス以遠はヨーロッパ文明にとって、トルコやモロッコと同様に、一番近いオリエント、すなわち異世界の入り口だった。その意味で東西の十字路であり、歴史・民族・文化の交差点であり、実に魅力的なトポスであるように思われた。むろんアルメニアが「世界で一番美人の多い国」であるといった下世話な評判は、動機としては(あまり)無い。

 

    ↓ アゼルバイジャン、ゴブスタンの岩壁画。先祖は舟でやってきたのか?

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   ↓ アゼルバイジャン、ゴブスタンを歩く。こういうところを自由に歩くのが楽しい。

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 結果として、やはりかなり面白い地域であり、かなり面白い旅となった。

 グルジアアルメニアの、再建もしくは修復された古い教会建築そのものの暗鬱なたたずまいは、実に良かった。

 

  ↓ グルジア、ムツヘタ。要害の地に立つジュバリ聖堂。

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   ↓ アルメニア、アラガツォトゥン地方のとある教会。アルメニアの古い教会等は再建ないし修復されたものが多い。

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   ↓ アルメニア、セヴァン湖畔に二つ並んで立つサナヒン修道院かセヴァン修道院のどちらか。

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 だが、そこには当然ながら、当時の絵画は、ごく一部の壁画の残欠を除いては残っていない。蒙古とトルコに徹底的に破壊されつくされたのである。現在も信仰の対象である教会には、油絵で描かれた素人臭い真新しい小さな聖像画がささやかに置かれているばかり。美術館にもその当時のものは残されていなかった。そうしたことの歴史性に胸が打たれる。

 

  ↓ アラガツォトゥン地方のとある教会を訪れると、若い修道士が鍵を開けにきてくれた。

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  ↓ アルメニア、ゲガルト洞窟修道院内の一隅で、思いがけずポリフォニー(多重唱)の合唱を聴く。味わい深いものだった。

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 別に、ミニアチュールの類に地方色の濃い面白いものがあり、またハチュカルと呼ばれる石造の十字架群がたいへん良かった。

 

  ↓ アルメニアのマテナダタン(古文書館)所蔵のキリスト教のミニアチュール。アルメニアは西暦301年に世界で初めてキリスト教を国教と定めた国。

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   ↓ 同じくアルメニアのマテナダタン(古文書館)所蔵。色使いが独特で、地方色豊か。

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   ↓ ハチュカル。簡単に言えば「十字架石」とでもいうべきもの。主に墓石として用いられたようだ。

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   ↓ これはハチュカルとは言えないのだろうが、同根のもの。アルメニア、ゲガルト洞窟修道院

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  ↓ アゼルバイジャン、バクーの公園にあったもの。ハチュカルとは異なるイスラム的(?)装飾性なのだが、なぜかハチュカルとの親近性を感じる。

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  ↓ グルジアの首都トビリシので街角での路上(壁ですが)のアート。

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  ↓ 最終日、何も知らず、期待もせず、時間潰し(?)に行ったパラジャーノフ博物館。これが素晴らしかった。パラジャーノフは「火の馬」や「ザクロの色」などの作品で知られるグルジア生まれの映画監督。反体制的な言動から投獄され制作禁止の間に以下のような、アッサンブラージュ・コラージュ・ドローンイング等の美術作品を作った。

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 ↓ アッサンブラージュ作品

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   ↓ コラージュ作品

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   ↓ ドローイング作品

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 遠望するアルメニア人の心の故郷、アララット山にも感動した。(現在はトルコ領であり、かつてその山麓一帯で100万人規模の民族浄化=虐殺がおこなわれ、今に至るも未解決の民族的政治的アポリア/難題である)。 

 

   ↓ アララット山、遠望。左、小アララット、右、大アララット。

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   ↓ 首都エレバンアルメニア人虐殺博物館にあるモニュメント。

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 蛇足ではあるが、美人はやはり多かった。

 

 

  

 

㉒2018.5.25~6.8

ウズベキスタンタシケントサマルカンド・ブハラ・ボーストン近郊・ヒヴァ)

同行:K(無職)

 

 今回の「ウズベキスタン紀行」を書くために、ここまで書いてきた。長い間、うっちゃっておいたそれらの記録と記憶を、大急ぎで、概要・覚書・感想録としてまとめたのである。その間に私の「紀行」にふさわしいスタイルが見いだせたかというと、そうではない。

 私は紀行とは、基本的に時系列に沿って、客観的な事実の記述を経(たていと)として、感想や考察や検証を緯(よこいと)として編み込むべきものという考えを持っている。しかし、そのやり方は、自分でもあまりに古典的であると思う。時として、独りよがりな冗長さを陥りやすい方法でもある。書物という形をその先に夢見るのならばともかく、何よりもブログというメディアにあっては、長すぎるということは、読者を退屈させかねない。

 そうした点から、①~㉑を前段とした、新たに独立した「ウズベキスタン紀行」を書くのではなく、とりあえず、これまでの延長上に、今現在身に付いているリズムで一気に㉒を書き終えることで、このシリーズを終わらせようと思う。

 

 ↓ 旅の始まり。ウズベキスタンに向かう飛行機の窓から。天山?パミール

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 先回のトランスコーカシアの旅の印象や記憶がなんとなく消化できぬまま、そしてその理由が自分でもうまく解釈できぬまま、1年間旅を休んだ。休んだからといって何か見えてくるかというと、そんなこともないのであるが。

 旅は仕事や義務で行くものではない。しかし、年に一度の習慣として惰性的に消費するのもよろしくない。何よりも感動が薄れる。

 自分なりの「美術を軸とする旅」という方針を貫いてきた結果、身を焦がすような思いで「見に行きたい」と思う対象がなくなってきたのは、自然な成り行きである。かといって単なる世界遺産巡りや、美しい自然を見に行くという「観光旅行」に方向転換するのは、私の望むところではない。

 

 ↓ ブハラの城壁

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 ↓ サマルカンドの裏通り。ウズベキスタン的色彩。

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  ↓ ウズベキスタン的めまい。

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 今回のウズベキスタンは、本音を言えば、中央アジアという風土性が最大の魅力であったことは確かだ。未知を求める旅の軸が、自然に「美術」から、次第に「自然・風土性」に比重を移しつつあることは、そろそろ認めざるをえないのかもしれない。

 だがそれとともに、今回の旅には、トルコ~インド(の一部)~モロッコチュニジアアゼルバイジャンと続いてきた、イスラム圏とその美術の総まとめ(?)という意味合いもあった。そのゆえに、かろうじて「美術を軸とする旅」という目的意識というか、面目(?)は維持できたのである。

 

 ↓ レギスタン広場(圧倒的である)のシェルドル・メドレセ。

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 ↓ レギスタン広場のティラカリ・メドレセ

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  ↓ ティラカリ・メドレセの礼拝所。圧倒的である。

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 結果としてウズベキスタンは想像以上に美しく、快適な旅ができた。人も穏やかで、やさしく、親切だった。食い物も美味く、物価も安く、女性はみな美しかった。日中は猛烈に暑かったが、湿度が低いせいか、日陰に入ると死ぬほど爽やかだった。

 

  ↓ 手前、ブロフ(ピラフ)。左上、サラダ。その右、マンティ(饅頭≒餃子)。右端、サマルカンド・ナン

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  ↓ 昼食に寄ったチャイハナ(中央アジア風喫茶店)の店先で。

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  モスクやメドレセ(神学校)といったイスラム建築とそのモザイクタイルの装飾は素晴らしかったが、その内部は、現在はほとんどが工芸品の工房ないし土産物屋となっている。

 

   ↓ 小さな作品を制作中。画材は固形水彩絵具、その奥のチューブはロシア製テンペラ絵具。

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   ↓ シルクロードに流通したサマルカンド・ペーパー。原料は桑。和紙と全く変わらない。帰宅後調べたら、日本でも桑は和紙の原料として使われていたとのこと。そういえば楮も桑科だった。

紙を板の上に乗せ、宝貝で磨く、このやり方はイタリアルネサンスからアジアでも同様で、まさにシルクロード的技法の存在を確認した。

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   ↓ どこかのメドレセ(神学校)か博物館の店で物色中。手にしているのは、絣。

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   ↓ スザニ(刺繍) これは博物館に展示されていたもの。

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   ↓ 路上の土産物屋のスザニのバッグ。見ていると、どれもこれも欲しくなる。

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   ↓ 路上の宣伝用絨毯。

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 ソ連時代の宗教政策とその功罪が垣間見え、複雑な気分になった。人々のありようや、暮らしぶりなどを見てもイスラム色はごく薄い。

 サマルカンドのアフラシャブの丘や、予定にはなかったが現地でいきなり予定変更して行った四か所のカラ(城塞遺跡)巡りなど、いかにも吾々らしい行動も楽しかった。毎日歩きまくった。

 

   ↓ アフラシャブ博物館を目指して、なぜか山道を登る。楽しい。しかし、登りつめたら、そこは広大なユダヤ人墓地だった。

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   ↓  寄り道して行ったアヤズ・カラ。

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   ↓ カラ(都城跡)の城壁の日干し煉瓦の窓から、ステップ(草原地帯)を望む。

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 不思議なことにミニアチュールはほとんど見られなかった。ソ連時代にモスクワにでも持っていかれたのだろうか。

 残念だったのは、ヒヴァのさらに先のヌクスに行けなかった(行かなかった)ことである。出発する間際になってNHKBSで観た番組で、そこの美術館に、スターリン時代に弾圧されたロシア・アヴァンギャルド絵画が秘かに救い出され、膨大なコレクションとして在るということを知ったのだ。あらかじめ知っていればタシケント滞在を一日削って何の問題もなく見に行けたのだが、後の祭り。そんなものである。行けなかった所もふくめて、旅なのである。

 

  ↓ ヒヴァのどこかのメドレセの一隅で見た現代の絵画。何やら宗教への皮肉がユーモラスに仄見えるような…。

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 なお、これは余談というべきであろうが、同行のKは大のスマホ・FB・ライン好き。日々、行動と写真をアップしている。ラインのメッセージの一部は私のスマホにもガンガン入ってくる。旅とは、とりあえずそれまでの日常から断絶され、異土にあって、途方にくれることだと思ってきたが、その空気は今回あっけなく崩壊した。鬱陶しいと思いつつも、そのやりとりを多少なりとも楽しんでいる自分に気づいて、いささか複雑な思いを抱かざるをえないのである。それは私の旅の堕落だろうかと。そして、SNSが遍在することを前提とする世界の中で、自分はどのように振舞うかを考えざるをえないのである。

 

    ↓ 旅の終わり。飛行機から見る朝焼け。

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(2018.6.22 了)

「なぜウズベキスタンなのか―過去の海外の旅を概観してみる―その3」(インド・バリ島・ペルー・ラオス 篇)

 「なぜウズベキスタンなのか―過去の海外の旅を概観してみる」のその3である。

 文章は大体のところは、とっくに書きあげている。短い文章だから、考察やその検証性については、あまり深入りせず、印象が中心である。そのため、たいした労力は必要としないのだ。

 だが、挿入する写真の選択やら、圧縮処理やら、コメントの挿入といった作業が、わずらわしく、私にはえらく時間がかかる。

 しかし思えば、私自身にとっても、自分の旅を振り返るまたとない機会だ。何としてでもやり上げてしまおう…。

 

 

 *国名(都市名)の記載順は必ずしも行った通りの順番とは限らない。同行者名については実名にした場合もあり仮名の場合もある。( )内の立場は当時のもの。

 

 

⑮2013. 3.2~19 (18日間)

インド(デリー・ヴァラナシ・アグラ・ジャイプール・ムンバイ・アウランガーバード・エローラ・アジャンタ)

同行:I T T(全員東京藝術大学油画1年生)

 

 前年、母校の藝大で、同級生I君の遺作展が開催された。同じ同級生で現在同大学教授のOが声をかけて、その展示作業等を手伝ってくれた学部1年生たちを交えて、オープニングパーティーで飲んだ。その席上で初対面の彼らに、海外に行けと、例によってけしかけたらしい。しばらくして彼らの一人から電話がかかってきた。一緒に行きたいという。

 

 ↓ 若者たちと。大学1年生、18歳…。アジャンタにて。

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 まさかと思ったが、どうやら本気らしい。とはいえ全員大学1年生。うち二人は現役入学なので18歳という。何度か会っていろいろ目的地等を検討し、途中メンバーの交代も一人あったが、結局つい先日まで見ず知らずだった若者たちと一緒に、いきなりインドに行くことになった。しかも国内便と夜行列車を予約(これだけは年長者特権で従ってもらった)する以外は、すべて現地でやるという若者旅である。

 われながら不安になった。不安ではあるが、近来にないときめきも感じた。還暦近くなってインドを若者旅で旅するというのは、どう考えてもハードである。しかし、楽しそうだ。こんな機会は二度とあるまい。そう思えば、つい気合が入る。

 

 

 ↓ 夜、ガンガーのほとりでロシアのお姉ちゃんが瞑想に耽りつつ、絵を描いていた。

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 ↓ ちょっと面白い絵だったので、3点買ったら感激していた。

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 ↓ その2 共にタイトルは未詳

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 還暦近い年齢ゆえのこれまでの経験を、彼らの若さと協働させて、結果としては実に面白い旅ができた。エピソードには事欠かない。例えばベナレスのガンジス川では頭まで水没の沐浴もした。若者たちは、財布は落とす、ケータイはなくす、迷子にはなる、等々、腹は壊す、その他色々と、やってくれる。

  

 ↓ ガンガー(ガンジス川)での沐浴。近くには火葬場やら、全裸の行者やら、牛やら、犬やら、観光客やらの混沌(カオス)。

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↓ 聖なるガンジスのほとりを感慨にふけりながら歩いていて、目にとまったのがこれ。国辱もの(?)だと思い、帰国後その話を絵描き仲間、麻雀仲間、飲み仲間のM君にしたら、なんと、それは彼が〇〇年前に、泊まった宿の人に頼まれて書いたものだとか! その後何度か上書きされているが、初めて書いたことは間違いないとのこと。呆れもしたが、まさかガンジスのほとりで彼の過去の行状に出くわすとは思いもしなかった。世界の狭さを感じた。ちなみにそのM君は、現在某大学の教授である。

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 かくて、人および人以外のあらゆるものから諸宗教までもが多様にかもしだす混沌(カオス)を、充分に堪能した。

 また、食事面はほぼ過去最悪と言えるものだったが、私以外の三人が次々とダウンしていく中で、なんとか一人踏み止まれたのも、経験の力と気合のおかげだと思う。

 

 ↓ 移動途中のドライブインのようなところで。三種のカレーだから、割と豪華な定食。不味いとは言わないが、完食は無理。左のコップの「ラッシー(ヨーグルト系飲料)」にどれだけ救われたことか。

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 ↓ 幅広い国道の路肩で、丸く練り広げられ、貼り付けられた牛糞(燃料用)とともに、無数の洗濯物が(写真ではわかりにくいが)広大な面積で干されている。洗濯をするカーストの存在に思い至り、また、インドは色彩の国でもあると知る。

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 美術にかぎらず、インド全体(食事を除く)が私には魅力的だった。インド美術全般の中でも、とりわけミニアチュールの素晴らしさは格別だった。

 

 ↓ いろんな種類があるミニアチュールの一つ。作品は素晴らしいが、展示状態、保存状態は悪いところが多い。

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 ↓ ジャイプールでミニアチュール制作者の店で研究中。当たり前といえば当たり前だが、洋の東西を問わず、技術や材料・道具は共通するものが多い。やや古い作品を1点と、紙(ライズペーパー)、筆などを買う。

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 ↓ これはミニアチュールではない。どこかの美術館にあった、何だったのか覚えていないが、精巧緻密なもの。こうなると、ヒンドゥーだか仏教だか、両方の要素があるものだか、よくわからない。

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 タージマハルおよびその他のイスラム建築(とその装飾)の華麗さは言うまでもない。ヒンドゥー寺院の過剰きわまりない美は、めまいがするほど魅力的ではあったが、私の中には入りようがない。

 

 ↓ タージマハル遠望。完璧な美。

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 ↓ イティマド・ウッダウラー廟だったか、マターブ・バーグだったか。

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 ↓ イスラム建築とは言えないが、ジャイプールにあるジャンタル・マンタル。数多くの巨大な天体観測装置群や日時計がある。なんとも不思議で、超現実的で、美しい建造物・構築物群。

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 ↓ どこかの壁面装飾の一例。美しいです。

中央の天秤秤は、死後に生前の善悪の軽重を調べるもの。イスラム教もキリスト教でも仏教も、発想は同じ。比較宗教学的には、おそらく相互にその教理を取り入れたものであろう。

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 よくインドに行った人は、二度と行きたくないという人と、その魅力にハマってしまう人と、二様に分かれると言われるが、それは年齢にもよるだろう。若い時に行ってみたかった気もするが、この歳で行ってちょうど良かったのだとも思う。今の私としては、カシミール方面か、南インドならば、もう一度行って見たいと思っている。

 

 

 ↓ アジャンタの窟院。保護のために照明は暗く、一部のものは修復中だったりして、一番有名なアジャンタ美人は見えずじまい。

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 ↓ 少し明るい窟の手前などには見やすいものもある。

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 ↓ 本命の人物群でなくても、このような素晴らしい装飾部分もある。

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  ↓ ふと気づけば、目立たないこんなところにも!

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 ↓ これはエローラの石窟。欠けてこそ匂いたつエロティシズム。

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 このブログの読者に一つだけ言い添えておくと、インドに行くなら、ムンバイ(他にもあると思うが)のスラム街ツアーだけは体験してみるべきだ。内部の撮影は禁止なので、画像を上げることはできないが、インド的混沌の極がある。それを通して、環境問題や国際的資源リサイクルの実相が見えてくる。

 

 ↓ ムンバイのスラム遠望。

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 なお、この時同行した三名の芸大1年生たちのその後の動向を記しておけば、I君はレオナルド・ディカプリオ基金による環境チャリティーオークションに最年少で参加したことをきっかけに、あれよあれよという間に、海外で売れっ子アーティスト(?)として活躍している。一番おとなしかった方のT君はその後ほどなく、「芸大は自分のいるべき場所ではない」といって大学を去った。もう一人の最も知的だったT君については、特に消息を聞かないが、元気でやっていることだろうと思う。

 う~ん、青春である。

 

  ↓ エレファント島の小さな波止場で偶然行きあったドイツの青年。同じ絵柄のTシャツに注目。同じ時に同じメキシコでそれぞれに買ったものが、地球の裏側で再会するとは。世界の狭さを実感。

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⑯2013. 7.10~15 (6日間)

インドネシア(バリ島/キンタマーニウブド・デンパサール)

同行:K(高校山岳部の同期:会社員)

 

 海外の旅にも脂がのってきたという感じで、8月からのペルーが決まっているにも関わらず、Kと共に短期・近場のバリ島に行った。しょせん吾々二人はリゾート地とは無縁。目的は二つ。一つはキンタマーニでのバトゥール山(1717m)登山と熱帯雨林の棚田巡りという自然ツアー。もう一つ、こちらが本命だが、ヴァルター・シュピースの作ったバリ島芸術を見ることである。

 

  ↓ バトゥール山(1717m)遠望

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 ↓ バトゥール山の火口壁。あちこちで小さな噴煙が上がっており、ところどころの岩や地面が熱い。

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 ↓ 頂上稜線、火口を一周縦走する。よく踏まれているが、ロープ、手すり、階段等はない。つい最近も転落事故もあったそうだ。

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 ↓ 世界遺産の棚田ではなかったが、熱帯農業の視察。癒される…。

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 ↓ 無数の気根を降ろす熱帯雨林の樹霊に、魂を吸い取られている。

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 ↓ このヒンドゥー寺院では腰に腰巻のような布をまとい、沐浴しなければ、域内に入ることができなかった。

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 ↓ ヒンドゥー寺院の造形。ここは大した観光地ではなかったせいか、腰巻は着けなかったような。

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  両者ともに目的を達成したというか、満足できるものであった。バリ島芸術=伝統的風土的と見える要素形態が、実はヴァルター・シュピースというヨーロッパ人(ロシア生まれのドイツ人)の異国趣味(エキゾチシズム)の目を通して1920年代以降に作り上げられたものという、作られた伝統、いわばねじれた構造が定着しているということ。その双方向的に外部性が挑発・発動しあう面白さ。

 人物画を描くことが基本的に宗教で禁じられている、世界最大の人口を持つイスラム国家インドネシアの中で、例外的なヒンドゥー教徒の島、バリ。そこでのみ開花しえた、エキゾチシズム=異文化交流の結果としての、実は新しい伝統としてのバリ島芸術の、怪しき美しさ…。

 

 ↓ ヴァルター・シュピースの作品。ただしこれは複製。実物はほとんど無かった。

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 ↓ バリ島絵画。これは大作の一部分。比較的新しいもの。

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 ↓ バリ島絵画 その2。同じく新しいもの。古いものより、新しいものの方が、より面白い、

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 ↓ バリ島絵画 その3。新しく、ゆるいテイストのもの。

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 ↓ 現代美術もある。若い作家のインスタレーション

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 そしてそのシュピースが第二次大戦末期に日本軍の飛行機の機銃掃射で殺されたということにも、なにがしかの因縁というか、慨嘆を禁じえないのであった。ただし残念ながら、シュピース自身の作品は、現地ではほとんど見ることができなかった。

 

  ↓ ふと森の中に足を踏み入れると、シュピース的世界。

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  ↓ ダンスや演劇、シュピースの(再)創造したケチャ、人形劇等、いろいろなバリ芸能を観た。

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  ↓ 最後に訪れた海岸で見かけた光景。何を思い、海を見つめているのか…。

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⑰2013. 8.23~9.5(14日間)

ペルー(リマ・クスコ・ナスカ・マチュピチュチチカカ湖

同行:K氏(国立音大教授)

 

 この年3回目の海外。K氏は現在国立音大の優秀な音楽学の先生であるが、その前は東京学芸大で学長補佐の身でありながら、同僚としても同じ授業を何年か一緒にやっていたこともある間柄。その後私は早期退職し、彼は大学を移り、縁は切れたかと思っていたが、なぜか一緒に海外に行こうということになった。とりあえず南米ペルーということで一致。

 

  ↓ リマの教会群の一つ。どこも異様に(先住民から収奪した)金をかけた、豪華絢爛な装飾でおおわれている。もう一歩でウルトラバロック

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 リマ・クスコという都市はともかくとして、ナスカ・マチュピチュチチカカ湖もという、かなり欲張った計画ではあったが、結果として中身の濃い、充実した旅になった。

 

  ↓ 夕暮れ近いナスカに、ただ一か所小高い丘。ここから彼方に一直線に伸びる直線(地上絵)が見える。

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 ↓ ナスカ上空の遊覧飛行。下を見ても、意外と地上絵はわかりにくい、というか、そうは鮮明には見えない。アクロバティックな旋回飛行のせいで酔った、前の座席のお姉さんのゲロのとばっちりを食らった…。

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 ↓ ナスカの地上絵の最初期の研究者マリア・ライヒの元研究所が、現在は博物館となっている。奥の人形が彼女。詳しくは楠田枝里子『ナスカ 砂の王国』を読んで下さい。

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 ↓ インカの遺跡の上に建てられたクスコの街並み。すぐ近くにあの有名な12角の石がある。リマから飛行機で標高3400m以上あるクスコに入ったため、初日高山病でちょっと苦しんだ。

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 ↓ 多様な色、デザインのアルパカ製品が大量に並び、面白かった。思わず、柄にもなく、セーターやマフラーを買いこみ、今でも愛用しています。

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 ↓ マチュピチュの画像はありすぎるので、この1点のみ。

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 ↓ マチュピチュから見る、周囲の素晴らしい山々の景観。

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 ↓ クスコからアンデス分水嶺を越えて、チチカカ湖までの長い長いバスの旅。この長い旅がまた、味わい深かった。そういえば、このあたりの草原・湿地帯がアマゾンの源流なのだ。

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 ↓ チチカカ湖クルーズ。空は死ぬほど青い。

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 ↓ 葦の浮島の上の生活。ある程度は観光客相手かもしれないが、基本、変わっていないと思われる。

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 初めての南米の風土性・異文化の面白さ、自然景観の多様な素晴らしさは言うまでもない。それに加えて、特に宗教画における文字通りのコロニアルアート/植民地芸術ということのバロック的面白さは、インカ文明等の先住民文化のそれらが時間軸を越えて共時的に併存しているという環境の中で、さらに複雑で摩訶不思議な味わいを見せてくれたのであった。

 

 ↓ コロニアルアート その1 イエスはスカートというか、腰巻をはかせられています。

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 ↓  コロニアルアート その2 ここまでの味は本国スペインでもなかなか見ることができない。

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 ↓ 一般的なインカのイメージの陶器。副葬品として作られたため、保存状態の良いものが多い。

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 ↓ 画像では見にくいが、陶器ではなく、木製品に彩色されたもの。他ではあまり見ることのない類のもので、お気に入り。

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 ↓ キープ。「結縄(けつじょう)」といい、文字を持たなかったインカで、結び目の位置などで数などを表わしたもの。こうして見るとすでにアートである。

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 オマケではあるが、思いがけずワイナピチュ山(2720m)とマチュ・ピチュ山(3082m)(共にマチュピチュ遺跡の前後のピーク)に登れたのもうれしかった。

 

 ↓ 左のピークがワイナピチュ山。明暗の境目のリッジを直登する。

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 ↓ ワイナピチュ山山頂2720mにて。写真の二人は現地で知り合って一緒に登ることになったお姉さん。登りの傾斜はきついが、ロープ等は設置されているので、慎重に登れば問題ない。一日の人数制限はされているが、結局は数珠つなぎ。狭い頂上では外人さんたちは決して場所を譲らず、大混雑。下山はほとんどの人は同じルートを下るが、私一人、反対側の「月の宮殿」を経由するコースで降りた。時間は少しかかったが、おかげで人がほとんどおらず、楽しめた。

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 ↓ マチュピチュの後方にそびえる、ワイナピチュ山と対峙するマチュピチュ山。山頂は一番高く見えるピークのさらに向こう側。登る人は少なく、むしろこちらの方がおすすめ。手前は「インカの道」。相棒のK先生は登山はもうコリゴリとかで、ゆっくり一人で楽しんだ。三日連続でマチュピチュを歩いたことになる。

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 ↓ マチュピチュ山の狭い山頂。360度の大展望。

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 ↓ 氷雪のアンデスを遠望する。

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 なお、これに気をよくしてK氏とは翌年もウズベキスタンに行こうと約束していたのであるが、不運にもその後、彼に親の介護の問題が出てきて、以後永く延期となったのである。

 

 ↓ とある美術館の中庭で見た景。南米的でもあり、スペイン的でもあり…。

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⑱2014. 12.10~17(7日間)

ラオスビエンチャンルアンパバーン

同行:K(高校山岳部の同期:会社員) 河村森(息子:無職)

 

 例によってKとの短期・近場の東南アジアシリーズ。もともとラオスに積極的興味はなく、また、そこにどんな美術があるのか全く知らなかったが、人気の高い(=観光客の多い)タイを避けて消去法的にラオスとなった。Kは勤務の都合で5日間。ならばと、当時公務員試験を目指して試験勉強中=無職だった息子も気晴らしも兼ねて誘い、7日とした(帰国は8日目)。

 

 ↓ とりあえずホテルの前のメコン川岸の屋台で夕食。

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 ラオスの旅自体はほぼ観光旅行状態で、美しい自然と穏やかさを楽しめた。

 

  ↓ どこの寺であったか。静かなたたずまい。

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  ↓  どこの寺であったか。こんな感じです。

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   ↓  とある寺院の外壁装飾。

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  ↓  どこの寺であったか。内部はこんな感じ。仏像が金ぴかなのをのぞけば、日本のそれとあまり変わりはありません。

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  ↓ どこの寺であったか。仏像はゆらりと背筋を伸ばし、指先が異様に長いのが特徴。より多くの衆勢を救おうとしてとのこと。

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 ↓ ルアンパバーンのプーシーの丘にて。

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 ↓ 美しい風景の傍らには、対空機銃座の残骸が残っている。ラオス内戦時のものだろう。

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 ↓ 早朝のメコン川を遡り、パークウー洞窟へ。その後、焼酎作りの村(バーンサーイハイ)、紙漉きの村、タート・クアンシーの滝などを訪れる。

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 ↓ パークウー洞窟入り口。

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 ↓ 広い内部は仏教遺跡。数多くの仏像や、かすかに残った壁画がある。

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 ↓ タート・クアンシーの滝の手前の渓流。

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  ↓ 払暁の路地を僧たちが托鉢の列をなす。

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  ↓ 双方無言のまま、布施を施す。いや、施させていただく。

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 しかし驚いたことに、絵のある美術館が一つもなかったのである。歴史的あるいは政治的文物を見せる博物館はあったが、「美術」を見せる美術館が一国の首都に無かったのである。こんな国は初めてだ。私の「美術を軸とする旅」という原則が勝手に外側から崩れてしまったではないか。

 

  ↓ メコン川沿いの紙漉の村で。素材の木の皮(楮?)を搗くやり方は、私が子供の頃自宅で使っていた足踏み式のそれと同じもの。

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  ↓ 紙を漉く時のやり方は、ちょっとだけ違う。少々、荒っぽい。

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 唯一見たのがブッダパーク。

  ↓ ブッダパーク その1 楽しい!

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  ↓ ブッダパーク その2 制作の動機はまじめなもの、らしい。

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 決して「トンデモ的」なキワモノではないが、結果としては、どちらかといえばアウトサイダーアート的なもの。これはこれで充分楽しめたが、せめて今現在の作家が描いた絵が見たかった。

 

  ↓ 街角の朝市にて。リスやらコウモリ(?)、その他生きたカエルや、竹籠に詰め込まれた生きた猪などが、食材として売られていた。

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  ↓ 暮れなずむメコン川で投網を打つ。今夜の夕食ななおか、明日の市場に売りに行くのか。

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「なぜウズベキスタンなのか―過去の海外の旅を概観してみる―その2」 (トルコ・スリランカ・ギリシャ・キューバ+メキシコ・バルト海沿岸三国・台湾・カンボジア 篇)

 以下、前稿の続きである。

 

 *国名(都市名)の記載順は必ずしも行った通りの順番とは限らない。同行者名については実名にした場合もあり仮名の場合もある。( )内の立場は当時のもの。

  

⑧2009. 9.13~9.27(15日間)

トルコ(イスタンブールアンカラサフランボルカッパドキア

同行:KH嬢(東京学芸大4年:指導学生) KR嬢(同) K(高校時代の同級生:会社員/後半合流) 河村森(息子:会社員/後半合流)

 

 この頃になると海外の旅もだいぶ慣れ、また、できれば年に一度くらいは興味のある、未だ行ったことのない地域に行きたくなってきた。学生にもそんな話をよくしていたが、二人の指導学生から行きたいという申し出があった。渡りに船と言いたいところだが、女子大生二人を連れてというのも気が重い。あれこれ男の同行者を探したが、見つからない。やむなく(?)、全日程は無理だが後半一週間なら可能という旅好きの会社員のK(高校山岳部の同級生)と、すでに就職していた息子に乗ってもらうことにした。

 

 ↓ アヤソフィアだったか? 

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 これまでヨーロッパ、東アジアと見てくると、やはりイスラム文化圏が気になる。文化・風土性、ともに、日本と対極的と言っていいくらい違ったものがあるはずだと思われた。トルコは言うまでもなくイスラム圏であるが、独立の英雄アタチュルク以来政教分離世俗主義を国是としてきたことから、近年はEUにも加盟しようかというくらいヨーロッパ的近代化を進めていた。ここ最近になって混迷する中東情勢の影響を受けて、イスラム色もやや濃くなってきているようで、きな臭い面も出てきているが、吾々が旅した頃までは安全で、旅しやすい国という定評があった。

 

 ↓ トプカピ宮殿の軍楽隊のパフォーマンスというか、ショー。けっこう面白く、前後二回も見に行った。

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 ↓ ハーレムの内部 見どころ多し。

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↓ ミニアチュール(装飾細密画)の宝庫。

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 ↓ トルコ式マーブリングの実演。

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 何よりもオスマントルコの首都であり、イスラム美術の宝庫、そしてアナトリアカッパドキアの魅力あふれる風土性は、私を惹きつけてやまない。

 

 ↓ アンカラからカッパドキアまで、金色に耀くアナトリア地方をバスで長距離移動。f:id:sosaian:20180616190647j:plain

 

 この予想はおおむね当たり、楽しめた旅となった。モスクやイスラムミニアチュールは、予想通り素晴らしかった。カッパドキアの摩訶不思議な面白さもアナトリアの金色に耀く草原の美しさも、言語に絶するものだった。

 

 

 ↓ カッパドキアその1

 

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 ↓ カッパドキアその2

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 ↓ カッパドキアその3 映画「スターウォーズ」でも使われたとか。

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 ↓ ところどころに残るかつての信仰の証。すべては滅びゆく。

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 ↓ カッパドキアに遊ぶ。

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 ↓ なぜここでクライミング? 当時の人々の生活を知るためです。

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 ↓ 高橋克彦の『竜の柩』の舞台となった地下都市

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 しかしまた、西欧的美術史観に慣れた目でそれらを見たとき、「絵とは何か」「なぜ絵を描くのか」という根源的・普遍的問題が自分の事として湧きおこってくるのを感じた。水煙草を吸いながら、旋回舞踊を見ながら、そんなことを考えた。

 

 ↓ 水煙草を吸いながらそんなことを考えた。

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 ↓ ベリーダンスを見ながらあんなことも考えた。このタトゥー入りのお姉さんは国外からの出稼ぎだそうです。

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⑨2010. 3.5~15(11日間)

スリランカコロンボ・シーギリヤ・ミヒンタレー・ボロンナルワ・ランブッダ・キャンディ・ナラタニヤ・スリーパーダ・ヌワラエリヤ・ワールズ・エンド)

同行:T嬢(東京学芸大学4年生:洋画) I嬢(同/指導学生) F君(東京学芸大学4年生:他専攻)

 

 前回の旅から4か月。前回と同学年の学生の「卒業旅行」に同行することになった。東アジア~東南アジア―~西アジアとくると、次は南アジアを知りたくなってくる。しかし海外旅行が初めての、気は好いがあまり使えない女子大生二人(その内の一人は奇遇にも私の母校の後輩!)と一緒に、いきなり南アジア=インドというのも気が重い。

 そこでもう少しソフトなイメージのある、南アジア=スリランカに決定。イスラム圏からヒンドゥー圏をとばして、仏教圏へと転進(?)である。

  幸い他専攻ではあるが、彼女たちの友人である旅慣れているF君(冒険探検部)の同行も得られた。考えた末に、全行程ガイド・ドライバー付きの行動にしたおかげで、比較的楽な旅となったが、ちょっと拾い物といった感じの、印象の良い旅になった。

 

 ↓ スリランカ

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 ↓ シーギリヤ! あの岩山の上に狂気の王の引き籠った王宮があった。

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 ↓ 山上の王宮跡に登る途中の壁画

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 ↓ 素晴らしい壁画だが、実はかつてこれを修復したノルウェー人(だったか?)に、原画とは異なった印象で、かなり創作的に描き直されたという話もある。実際はどうなのか? 現在は撮影禁止だとか?

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 ↓ シーギリヤ・ロックの山頂=王宮跡から下界=領土を望む。

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 ↓ ダンブッラ石窟寺院 この奥に壁画に彩られた巨大な仏教空間があった。

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 ↓ 予定が遅れて飛ばしすぎてスピード違反で捕まった。郷に入っては郷に従えということで、ガイドさんに言われるまま、日本の煙草をそっと差し出す。左の警官が持っているのがそれ。おかげでフレンドリーな対応で、おとがめなし。

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 日本のそれとはやはり相当に趣きの異なる仏教文化仏教美術ではあったが、それなりに親しみと美しさを感じられた。

 

 ↓ ボロンナルワだったか、どこだったか。あちこち回ったもんで…。裸足で拝観。

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 ↓ 遺跡にて。旅の形。

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 ↓ コロンボにはヒンドゥー寺院もある。濃すぎる!

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 ↓ さらに濃すぎるその内部。

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 ↓ 深夜1時に起きてスリー・パーダ(アダムスピーク)に登る。この山は仏教・ヒンドゥー教イスラム教・キリスト教のそれぞれ聖地とされている。標高2238mだが上までずっと(登りにくい)階段がつけられている。

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 ↓ 御来光時の「影スリー・パーダ」。

夜明け前について日の出を待っていたら、熱帯だと思ってあなどっていたせいか、死ぬほど寒かった。本当に寒いと筋肉が痛む。見えているあの山にこそ登ってみたい!

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 ↓ 高原のホートン・プレインズ国立公園。遠くに前日登ったスリー・パーダが遠望される。

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 ↓ 高原の一角、ワールズ・エンドにて。左は断崖絶壁。

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⑩2010. 9.25~10.3(9日間)

ギリシャサントリーニ島アテネ

同行:A氏(東京学芸大学教授:デザイン) 中国人留学生5名(東京学芸大大学院生:デザイン) 台湾人留学生1名(東京学芸大大学院生:デザイン)

 

 海外旅行好きの同僚A先生とその指導学生6名の旅に誘われて参加。面白かったのが、この二か国6名の留学生が、四つか五つの民族に分かれていたということである。今はよく知らないが、当時は彼らの中華人民共和国のパスポートや身分証明書には民族名が記されており、また、その民族の違いゆえの様々な問題や志向・思想、可能性等の違いがあることを知り始めた頃だったのである。

 そもそも中国とは限らず、世界には実に多くの多民族国家があり、それがどういうことなのかということを、旅を通じての体験の中で実感し始めた頃だった。

 

 ↓ ちょいとピンボケ。私も入れて三か国、5~6民族。民族って、何?

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 ギリシャは、一度は行かねばならない所だとは思っていた。美術とは限らず、西欧文明の根底にあるのがギリシャ文明だということは、いまさら言うまでもないこと。にもかかわらず、私はそれを避けてきたというか、自分には縁が無いように思っていた。ギリシャ美術に、美としての実感を、感じなかったからである。

 

 ↓ ギリシャ以前のミケーネ文明(たぶん)。そう言えば、よく見たら「ギリシャ彫刻」の写真を一枚も撮っていない…。

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 今回の旅でそれが埋まったかというと、そうでもないのである。そもそも、モザイク以外に当時の絵は残っていないのだ。むろんそのモザイクは素晴らしかった。パルテノン神殿の壮大きわまりない美しさにも感動せざるをえなかった。

 

 ↓ パルテノン遠望。

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 ↓ パルテノン神殿

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 ↓ アテネ市内 民族衣装の衛兵交替のパフォーマンス。

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 そしてそれ以上に面白かったのが、できたばかりで、何の予備知識もなく入ったビザンティン美術館のイコン群だった。

 

 ↓ ビザンティン美術の優品の数々。

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 ↓ これは珍しい ビザンティンイコンの下絵。

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しかし、何よりも素晴らしかったのは、結局、サントリーニ島の景観、風物であった。

 

 ↓ リゾートしている私。

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 ↓ サントリーニ島パステルカラーのキュビズム迷宮。

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  ↓ こんな感じ。

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  ↓ 新先史期博物館か考古学博物館か、どっちかの博物館にあった、たぶんミケーネあたりの壺。美しいフォルム。

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⑪2011. 3.1~15(15日間)

キューバハバナ・トリニダー・サンタクララ・サリーナ島・ビニャーレス渓谷)~メキシコ(メキシコシティーテオティワカン

同行:M嬢(東京学芸大大学院生:洋画) I君(東京学芸大教務補助?:デザイン) G君(筑波大学大学院生:M嬢の友人)

 

  なんとなく学生を連れての旅に慣れ、自信を持つようになっていた。その自信(過信)から自分の指導学生ではない三名と旅したのだが、それが失敗の原因だった。

 M嬢は指導学生ではないが、別の大学からから学芸大洋画研究室に来た大学院生。I君とは5年前に北欧の旅を共にし、大学入学以来だから、付き合いはそれなりに長い。しかし、今回の旅には、間際になっての押しかけ気味での参加。G君とは初対面だが、以前にキューバに留学しており、今回の旅の牽引車。彼がいなかったらこの旅は成立しなかった。

 

 いつもなら事前のミーティングを重ねて意識統一をはかるのだが、今回はみな「多忙」とかで、それが不十分なままの出発となった。

 今でも明確な理由が思い当たらないのであるが、しょせん寄り合い所帯だったせいか、意識統一の不足からか、旅の半ばから人間関係がうまくいかなくなり、おそらく全員が不愉快な思いをした。結局のところ、責任は年長者である私の不徳のいたすところ、とするしかない。われ未だし、である。

 

 ↓ カバーニャ要塞から見る首都ハバナ。電力供給不足のため、ビルにともる灯はきわめて少ない。

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 ↓ トリニダーへ向かう。

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 しかしそれ以上にこの旅のトータルな印象を暗いものにしたのは、旅先で東北大震災を知ったことである。当初は情報不足のせいでそれほど大したことはあるまいと思われたが、次第にそうでないことがわかってきた。時差の関係もあるが、そのニュースと、私の誕生日のサプライズセレモニー(?)と、上記の不和が一緒くたに発生し、参った。しかし、最年長者、旅のリーダーとしては、個人的感情でメゲたり、不貞腐れたりするわけにはいかない。パーティーを、旅を、投げ出すわけにはいかないのだ。何とか取り繕いながら、以後のスケジュールをこなしていったのである。

 

 メキシコ・キューバそのものは良かった。初めてのアメリカ大陸、中米、カリブ海キューバという特異な国の魅力ある明と暗の双方を知ることができた。まばゆい陽光と社会主義ゆえ(?)の遍在する貧しさ。

 入植したスペイン人が先住民を殺戮し尽くし、その後の革命の末に達成された「世界で一番人種差別が少ない国」。ゲバラカストロと、あの時代の神話性。

 

 ↓ 停電は定期的。そのためか断水も日常的。首都ハバナでも給水車が走るが、これはトリニダーでの光景。

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  ↓ 視察に訪れた国立芸術大学の教授であっても、給料が安過ぎて食っていけず、このように内職に励まざるをえない。見せているのはハバナ葉巻の貴重なラベルコレクション。当然いくつか買いました。

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  ↓ 貧しかろうとも人々は歌い踊る。トリニダーの路上で。

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 ↓ ビニャーレス渓谷。ここにあるインディヘナ洞窟にごく少数の先住民だけが隠れ住み、虐殺を逃れた。

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 ↓ インディヘナ洞窟の出口。中の美しい鍾乳洞をボートで下った。

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   ↓ 煙草の火を貸してあげて、路上の国際交流。トリニダーで。

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 メキシコのテオティワカンも、母が生前に訪れた地ということもあって、味わい深かった。人類学博物館も実に面白かった。

 

  ↓ テオティワカン 太陽のピラミッド。かつて私の母もあの上まで登った。

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  ↓ 人類学博物館にあった巨大な絵(部分)。細部を見ると司修の絵にそっくり。というか、司修がパクったんだろうな~。

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   ↓ 人類学博物館。中身はかなり面白いが、量があって見るのが大変。これは確か棺桶だったと思う。

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   ↓ 人類学博物館 現代の工芸品。

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  しかし、マヤ文明の美術方面では、面白さは感じたものの、私自身の深部に降りてくるところもは少なかった。フリーダ・カーロやリベラなどの現代画家については多少感ずるところがあった。

 

    ↓ ディエゴ・リベラのアトリエ。素敵!

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 帰国後三月末をもって15年間勤めた東京学芸大学を予定通り早期退職したので、これが最後の大学教員としての旅となった。

 いずれにしても、正直言って、その土地や文化そのものの素晴らしさとは対照的に、人間関係ゆえに後味の悪い旅となってしまったのは、今にしても残念である。

 

     ↓ キューバ、 NICHO公園渓谷で泳いだ。

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    ↓ キューバ、 サリーナ島海水浴で泳いだ。ブルジョワ的振る舞いのうしろめたさ…。

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⑫2011. 9.27~10.8 (12日間)

エストニア(タリン)~ロシア(サンクトペテルスブルグ)~フィンランドヘルシンキタンペレ

同行:A氏(東京学芸大学教授:デザイン) S君(名前失念:東京学芸大大学院生/現職教員) O嬢(東京学芸大大学院生)

 

 東北大震災、福島原発事故の余韻も冷めやらぬうちに、A氏に誘われるままに、彼の指導学生との旅に加わった。退職後、時間的余裕だけはあったのだ。

 このバルト海沿岸三国の組み合わせは、地理的合理性のある面白い組み合わせである。それぞれに魅力はあるが、地域的になんとなく大きな魅力に欠けるというか、大義名分(?)のようなものがなく、個々にはちょっと行きにくい感じがしていた。しかしこの三つを効率的につなげることによって、こぢんまりとはしていたが、まとまりのある、案外収穫の多い、良い旅となった。

 

    ↓ 城壁で囲まれた古都タリンの旧市街。

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    ↓ エストニア野外博物館で。

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    ↓ タリン的夕暮れ。

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    ↓ タリン的夜。

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 エルミタージュ美術館には確かに世界的名画もあるが、その系統のものはすでにさんざん他所で見尽くしている。その目から見れば、結局のところエルミタージュ美術館の壮大さは、しょせん田舎帝国主義の壮大さに過ぎないように思われる。

 ダ・ヴィンチ作ということになっている(ロシア以外では弟子系統の手になるものとするのが一般的なようだが)「ブノワの聖母子」の前では、中国の旅行者が記念撮影の列をなしてやかましく、鑑賞どころではない。

 

    ↓ サンクトペテルブルク 夕景。

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    ↓ いざエルミタージュへ。

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    ↓ エルミタージュ 鏡の間

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    ↓ 個人的にはこういったものの方に心惹かれましたけどね。七宝焼き。

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    ↓ 一日がかりのエルミタージュを見終わって。

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    ↓ その夜疲れ果てて入ったレストランでは、こんな色っぽい、諸国巡り風の楽しいショーをやっていた。別の日は人形劇も見た。

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 私にはそれらよりも、ロシア美術館のフォークアートやロシア正教の教会群、あるいはヘルシンキの国立現代美術館キアズマでの「アフリカ現代美術展」の方が印象に残っている。フィンランドタンペレムーミン博物館やその隣にあった鉱物博物館も案外良かった。

 

    ↓ サンクトペテルブルク 「血の上の教会」

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    ↓ ヘルシンキ 国立現代美術館キアズマでの「アフリカ現代美術展」より

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    ↓ ヘルシンキ 国立博物館 糸紬車の棹の装飾

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    ↓ ロシア美術館のフォークアート これはタンスか食器棚の扉(?)

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    ↓ ロシア美術館のフォークアート 鉄製の燭台

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    ↓ タンペレの鉱物博物館 石好き、化石好きにはたまりません。隣はムーミン博物館。

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    ↓ フィンランドの、かつては全島が要塞だったというスオメンリナ島。

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⑬2011. 11.11~14 (4日間)

台湾(台北・烏来)

同行:K T M嬢 S嬢(以上高校時代の同級生) 河村森(息子/会社員) *T嬢(元東京学芸大学の教え子/台北在住)

 

 数年来、月に一度集まって飲んでいる、高校の同期会のメンバーによる親睦観光旅行。こうした純粋な観光旅行というのは初めだが、故宮博物院に行くというので参加してみた。

 

    ↓ 台湾的裏町

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     ↓ 台湾的お茶の講習

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 この年3回目の海外旅行となる。さすがに年に3回は多すぎるとも思ったが、メンバーの一人が旅行会社を経営しているおかげで格安だったことも理由である。ただし時間のある身としては、2泊3日ではあまりに短すぎてもったいないので、またしても息子に声をかけ、二人で一日居残ることにした。ついでに学芸大時代の教え子T嬢(前年のギリシャ旅行にも同行)が故郷台湾に帰っているのを思い出し、連絡して現地で一杯飲むことにした。

 

     ↓ 台湾的屋台群

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     ↓ T嬢を囲んで (この頃はTもKも太ってたなぁ~)

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     ↓ 民族博物館などもあったが、実質、烏来での唯一の見どころの、ややしょぼい滝。

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 気楽な旅行であったが、故宮博物院と、夜ふけのうらぶれた屋台で息子と二人で飲んだこと以外は、あまり印象に残っていない。その故宮博物院も何年か前にリニュアールされて以来なのか、実に商売上手というか、展示のクオリティは高いように思った。漠然とさすがに名品が揃っているなと感心した記憶はあるが、撮影禁止だったせいか、個々の作品についてはあまり記憶がない。しかも見たかった北宋画あたりはほとんど展示されておらず、残念だった。

 

     ↓ 台北當代芸術館。「當潮 FASHIONISTA 時尚設計展」と「Beyond書法─徐永進當代書藝」という展覧会をやっていた。

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     ↓ 「當潮 FASHIONISTA 時尚設計展」より

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     ↓ 同上

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     ↓ 「Beyond書法─徐永進當代書藝」より

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     ↓ 最後は、どこかで見かけた何となくホッとする作品。

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⑭2012.11.22~26 (4日間)

カンボジアアンコールワット・トレンサップ湖)

同行:K(高校山岳部の同期:会社員) 

 

 この年は特にどこにも行く予定はなかった。だが、例によって旅好きのKと話しているうちに、短期間で近場の東南アジアならということで、急きょカンボジアに行くことにした。むろんアンコールワットは昔から見たかったところだ。

 

 ↓ アンコールワット

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 ↓ かつてアンコールワットは密林に飲み込まれようとしていた。

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 ↓ アンコール・トム

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 ↓ プレ・ループ遺跡

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 それとともに、インドシナ三国といえば避けて通れないのが、ベトナム戦争に伴う歴史と記憶である。

 カンボジアにおけるベトナム戦争時およびそれ以降の内戦と、クメール・ルージュによる理想的原始共産主義国家の建設に伴い、70~300万人が虐殺されたジェノサイドの悪夢の記憶の検証というか、その後の確認ということもあった。それは私の二十代前半の事で、それ以前のベトナム戦争における少年の素朴なシンパシーとは相容れぬ、異様な出来事であった。

 

 ↓ 地雷によって障害を負った人たちによる民族音楽の演奏。

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 ごく短時間での旅行者に過ぎない者の目でしかないのだが、おそらく地雷によるものと思われる障害者をしばしば見かけたのは予想通りではあったが、行きかう人々の中に、吾々と同年代以上の人の割合が異様に少ないことに、ふと気づく。子供や若い人はいるが、年寄りは少ないのである。その理由に思い当たり、思わずゾッとした。

 その悲劇を生みだしたのは、元の宗主国フランスで学んだ知的エリートの留学生たちである。つまりその悪夢をもたらした理念は、フランス=ヨーロッパから直接的に輸出されたというべきなのである。旅をして見るべきは、美しい風景や文化だけではあるまい。必ずしも見やすくはないにしても、民族性や歴史の負の側面もまた心して見るべきであろう。

 

 ↓ 考える私。

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 アンコールワット自体はむろん良かったが、具体的な目的物がそれだけだったせいで、時間を持て余す。しょーがねぇなぁといった感じで、予備知識もほとんどなく、たいして期待もせず行って見たトレンサップ湖の水上集落が実に面白かった。

 

 ↓ 水上集落。この時はは乾期で、水面が低い。

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 ↓ ここに生活がある。

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 ↓ こどもの生活と文化は、フルチンで泳ぐこと。

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 ↓ 少女に導かれてマングローブ林クルーズ。

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 世界遺産云々とは異なるが、そうした人々の暮らしそのものも、また一つの文化である。生活の香りがプンプンする異文化体験を堪能した。

 

 ↓ マーケット。ここに生活がある。

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 以下、その3に続く(?)。

原稿は書き上げてあるのですが、画像の選択とかアップの手間とかで、ものすごくエネルギーを費やしクタクタです…。

 

「なぜウズベキスタンなのか―過去の海外の旅を概観してみる―その1」(初めてのヨーロッパ・2回目のヨーロッパ・ベトナム・中国内蒙古・中国甘粛省~青海省・スウェーデン+ノルウェー・中国貴州省 篇) 

 ウズベキスタンの15日間の旅に行ってきた。

 なぜウズベキスタンなのか、と問われる。

それに対して、今回のウズベキスタンは、これまでの「美術」を軸とする私の旅の積み重ねから、必然的に出てきたのだと答えることになる。

 そうすると、ウズベキスタン以前の旅の積み重ねについて、ざっと触れておく必要が出てくる。それは私にとっても、過去の旅を「消費」しないためにも、一度はこうした形でまとめてみても良いのではないかと、かねてから思っていた「手続き」なのである。

 

 それにあたって、私の旅についての主たる性格を、2点だけあげておく。

 1点目は、旅の主目的はその地の美術を見ることであり、それに付随して、その美術を成立させる歴史や風土性を見る・体験・確認・考察するということである。したがって有名な観光コンテンツではあっても、美術に関係しないものは基本的に見ない(この原則は近年少しずつ軟化してきてはいるが、大元は今でも変わっていない)。具体的に言えば、例えばパリにはのべ5日以上滞在したはずだが、エッフェル塔にも、凱旋門にも、リュクサンブール公園にも、シャンゼリゼ通りにも行っていない(と思う)。

 2点目は、私の旅はすべて個人的な営為として、それ自体を目的としており、すべて自費で行くということだ。つまり、仕事や、研究調査の名目で、他人の財布で行ったことはないということ。(ただし厳密に言えば、大学教員時代の後半、個人研究費の使い方のルールが変わって、海外研究取材等にも認められるようになり、何回か、ごく一部をそこから充てたことはある。)

 

以下に、ごく簡単に過去の旅の一覧をあげて、概要を振り返ってみる。

 

 

 *国名(都市名)の記載順は必ずしも行った通りの順番とは限らない。同行者名については実名にした場合もあり仮名の場合もある。( )内の立場は当時のもの。

 

① 1977.7.28~9.11 (45日) 

フランス(パリ・コルマール)~ベルギー(ブリュッセルアントワープブリュージュ・ゲント)~イギリス(ロンドン)~イタリア(ミラノ・フィレンツェシエナ・ローマ・オルヴィエト・アッシジ・アレッツォ・ペルージア・フェラーラパドヴァヴェネチア)~バチカン~スイス(ルガノ)~ドイツ(ミュンヘン)~オーストリア(ウィーン)~フランス(パリ)

同行:沓間宏 秋元雄史(共に東京藝術大学油画2年/*当時の立場 以下同様)

 

 3年浪人して入った大学1年の時に、同級の二人に強く誘われ、引きずられるようにして、翌年の夏休みに行った。話が出た時には、表現者としての自分の方向性を見出せないまま、芸大油絵科=ヨーロッパという「歴史的必然性」に必ずしも同意することができず、かといって、行かないという必然性も見出せず、つまりこの頃から、いわば外部性をきっかけとした行動をとっていたということになろうか。

 当時の芸大油絵科には「ヨーロッパ古美研」という希望者と教官による団体旅行の企画もあったのだが、さすがにそれに加わる気にはならなかった。また、この旅行の前に、大学の必修授業「古美研(古美術研究旅行)」で二週間かけて奈良・京都を回ったのだが、その日本体験との対照性も彼の地で面白く感じたものである。

 パソコン・スマホもなく、『地球の歩き方』も日本語のガイドブックもない時代(ついでにと言っては何だが、貧乏と好きでなかったせいで、カメラすら持っていかなかった)。45日間、ひたすら美術館と絵のある教会のみを巡り歩いた。そのハードさに同行の秋元は「もう古い絵なんかたくさんだ!」と宣言して、途中から別行動で一人南仏へ向かい、最後にパリで落ち合うことになった。私見ではこの時の経験が、彼の後の直島地中美術館(および金沢21世紀美術館・藝大美術館)でのキュレーター/館長の仕事に直結していると見ている。

 

 ↓ パリ どこだろう? 右:秋元 それはいいが、なんというパーマ頭だ…。

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 ↓ パリ モンパルナスタワーで 中:沓間。私の腹もこの頃はまだ出ていない…

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 この22歳の旅の結論としては「ヨーロッパ(およびアメリカ)に美術の未来はない。これから面白いのはアジア、わけても日本だ。」というものだった。同時に「海外なんかいつでも行ける。金さえあれば。重要なのは必然性だ。」とも言い切ったのであるが、金のせいか、必然性のせいか、次に海外に行くまでに20年以上の歳月を必要とした。

 

 ↓ イタリア アッシジ その後大地震で大きな被害が出たと聞いたが、現在は修復されたようだ。

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 ↓ ローマにて。

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② 2000. 8.8~9.9 (33日)

オランダ(アムステルダムロッテルダム・デン-ハーグ・オッテルロー)~ドイツ(ベルリン・オルレアンブルグ・ミュンヘン)~オーストリア(ウィーン)~イタリア(パドヴァ・フィレツェ・サン・ジミニャーノ)~スペイン(バルセロナ・トレド・グラナダマドリッド

同行:水上泰財(武蔵野美術大学専任教員/オランダで合流)・水上美佐緒(東京都教諭/ドイツまで)・荒木晋太郎(東京学芸大大学院1年 指導学生:油画))

 

 40歳で大学教員となり、生活も安定して数年。ようやく機が熟したというべきか、20数年ぶりの海外の旅。

 指導学生の荒木と二人で非ヨーロッパであるモロッコへ行こうという計画を立てていた時に、当時武蔵野美術大学の専任教員になったばかりの水上君からヨーロッパ旅行の相談をもちかけられた。油絵(≒西洋画)科の専任教員となりながら、ヨーロッパに行ったことがない彼のために、あれこれとアドバイスしているうちに、当時東京都の教員だった奥さんも途中まで加わることになり、さらにはいつの間にかモロッコは消えてなくなり、結局再度ヨーロッパに行くことになってしまった。私の計画は乗っ取られてしまったのである。

 しかも初めてのヨーロッパの三人のために、その旅程の半ばは、23年前に行ったところを再訪するという計画になった。まあ四半世紀ぶりの再訪・復習も一興かと思わざるをえない。

 

 ↓ 左から 私 荒木 水上君 美佐緒さん 全員タバコ吸い。

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 結論として、この旅によって、西欧(美術)はほぼ見尽くしたという感。加えて、若い時の「見る」という体験力がいかに強かったかを思い知った。四半世紀前に見たものを、身体は本当によく記憶していたのである。

 ゴッホ美術館の「カラスのいる麦畑」「荒れもようの空と畑」、サンマルコ修道院のフラ・アンジェリコの壁画(再訪)、プラド美術館ゴヤの「黒い絵」におぼえず涙した。

 

 ↓ グラナダ アルハンブラ宮殿 この後フラメンコとカンテ(歌)のショーを見に行った。

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 また、この旅をきっかけに美術史に目覚めた(?)美佐緒さんが、その後私の勤務先の東京学芸大学大学院に入学し、授業等で教えることになったという後日譚もあった。

 

 

 

③2002.8.18~28 (11日間)

ベトナムハノイ・ダナン・ハイフォン・フエ・ホーチミン

同行:S先生(東京学芸大教授:工芸) S氏(高校教師:新海先生の教え子)

 

 初めての非ヨーロッパの旅。同じ学芸大の工芸(専門は漆芸)の先生で、私以上に骨董好きのキャリアの長く深いS先生と骨董話をしているうちに、同行させてもらうことになった。S先生の元教え子のアジア旅好きのS氏が計画手配全般を引き受けてくれ、また骨董全般に詳しい先輩が一緒なので、気楽かつ心強い限りであった。

 

 ↓ 母子二人の小さな船をチャーターしてホン川をツアーした。

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 ↓ 版画村やら、漆芸村やら、陶芸村やら、各種の工芸村を見に行った。ここは木工家具作りの村。

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 ベトナム=東南アジアという非ヨーロッパ風土を体験し、そこでの美術を見ることが目的の旅だったが、もう一つ、子供の頃から世の中というか、「社会」や「世界」を意識し始めたとき、常に背景にあったベトナム戦争という現象の、その後の姿を確認することも目的の一つだった。

 

 ↓ ハノイ近郊山岳地方のミーソン ここはベトナム戦争当時、激戦地だった。

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 ↓ 奈良の大仏の開眼供養の時、このミーソンからも僧が出席したとのことである。

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 ベトナム=中国およびフランスの旧植民地=辺境ということのありよう、そこから導き出されるコロニアルアートとも言うべき美術のありよう、そして日本もまたそうであるところの、漢字文化圏=東アジアという風土性、等々を考えさせられることになった旅だった。 

 

  ↓ ホーチミン市サイゴン)の美術館にあったベトナム戦争当時の絵。技術はアカデミック。

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④2004. 9.22~30 (9日間)

中国(内蒙古/フホホト・パオトウ・オルドス)

同行:荒井経(東京学芸大教授:日本画)夫妻 S君(東京学芸大大学院生 中国留学生/モンゴル族日本画

 

 当時同じ学芸大日本画を教えていた荒井君に誘われて、彼の指導学生S君の故郷内蒙古に行った。初めての中国だがモンゴル文化圏。

 

  ↓ パオでの歓迎セレモニー 強烈な馬乳酒を一気に飲み干さねばならない。

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  ↓ 舗装はされていないが、ここはまだ道があるからいい。やがてなくなった。ホテルに戻ったのは深夜3時。

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  ↓ フホホト東方 万部華厳経

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 旅程等はS君におまかせだったが、例えば五當召だったかに行くのに、深夜の道なき道を命がけでといった趣きの、文字通りハードなもの。異文化体験としては大きなものだった。また、歓迎の席ですすめられる酒の強さには参った。

 

  ↓ どこだったか? 新しく作られたチンギスハン記念館(?)の壁画

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  ↓ 同上 美人です。上手です。

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 風土的には面白い旅だったが、モンゴルの仏教美術は私の中には入って来なかった。

 

  ↓ 休館中の内蒙古美術館 内部では地元の美術系大学を卒業した若い画家がこのように新造の施設用の大壁画を共同製作中。彼らの未来は…。

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⑤2005.8.14~28 (15日間)

中国(甘粛省敦煌・阿克塞~青海省/烏蘭・青海湖・西寧・同仁・互助)

同行:M君(東京学芸大大学院生 中国留学生/モンゴル族:指導学生:油画) D君(東京学芸大大学院生 中国留学生/モンゴル族:油画) 河村森(息子/大学生)

 

 前年に引き続き中国人留学生(モンゴル族)二人の故郷に錦を飾る旅に、憧れの敦煌を加えた旅。チベットも加えたかったのだが、ちょっと欲張りすぎということで青海省までとした(ただし現在の青海省西蔵自治区とともにいわゆる昔からのチベットの範疇に含まれる)。ほぼ全行程車チャーターの長距離移動の旅。

 

  ↓ 敦煌莫高窟遠望

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  ↓ 敦煌付近 果てしなく続く砂漠というか土漠。

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 初めて息子も連れていった。息子と一緒というのはやはりどこか面はゆいものではあるが、それはそれとして、ある種の体験のきっかけを提供することはできたと思う。歓迎の酒宴対策の面もあったが、その点ではたいして役に立たなかった。

 

  ↓ 蒙古族自治県粛北 結婚したばかりのM君(中央右)の奥さんの実家で歓迎される。 

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  ↓ 今回の最高地点、青山坪山4412mを越えて青海省へ。茫漠たる荒野が続く。

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  ↓ D君の故郷近くの仏教寺院内部

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  ↓ D君の親族一同が近くの草原のパオに集合して歓迎してくれた。

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  ↓ 朝、散歩していたらわらわらと集まってきて、記念写真。

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 風土・風物のすばらしさは言うまでもない。だが、敦煌莫高窟については、前評判というかイメージが大きすぎて、美術としてはやや物足りなかった。やはり私は、有名すぎるところには、なにがしかのアレルギーが発動するようだ。昨年に引き続き、モンゴル族をはじめとする少数民族の領域での異文化体験。

 

  ↓ お茶を飲みに立ち寄ったチベット族の遊牧のテントの中では羊を解体して、ソーセージ造りの最中だった。

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  ↓ 黄河(?)源流域の絶景の中、旅は続く。

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  ↓ 耕して天に至るとはこのことか? 旅は続く。

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  ↓ 地元のタンカ(仏画)制作工房を訪れて勉強する。左の彼が主催者の画家。

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  ↓ 路上の国際交流。私が一局勝った後、息子に交代。

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⑥2006.9.22~10.6(15日間)

スウェーデンストックホルム・ヨテボリ・ゴットランド島)~ノルウェーオスロソグネフィヨルド・ヴォス)

同行:S嬢(東京学芸大大学院生:洋画・指導学生) M君(東京学芸大4年生:芸術学) I君(東京学芸大大学院生:デザイン スェーデンに留学中)

 

 指導学生のS嬢から、「北欧に一緒に行ってくれませんか」と言われた。聞けば彼女の恋仲の君がスウェーデンに留学中で、その彼に会いに行きたいのだと言う。つまりはお目付け役ということか。きっかけはどうであれ、北欧は昔から行ってみたかったところ。ただし美術ではムンク以外は知らない。

 

  ↓ ゴットランド島にて、たぶん火薬塔。S嬢と共に。

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  ↓ ゴットランド島のヴィスビー廃墟群(セント・カタリナ教会)

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  ↓ ルーン文字の刻まれた石碑(レプリカかもしれない)。赤い色は近年の補彩。

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 S嬢、M君という現・元指導学生と異なり、専攻分野も違い、またそれまでの接し方も違ったためか、旅行中君との関係に微妙なところもあったが、まあそれは仕方がない。二人はその後めでたく結婚し、幸せに暮らしているようだ。

 

 西洋美術史(≒ファインアート)の文脈にあっては、北欧もスカンジナビアあたりまでいくと、やはり田舎(≒辺境)だということを認識した。そうした場所における近代から現代の美術のありようを見てゆく中で「ローカル・アート」ということを考え始めた。むろん辺境=日本におけるそれと重ね合わせてである。

 それとは別に、工芸=フォークアートの豊かさには目をみはらされた。それらに対する人々の愛情と、保存・展示方法などについても。

 

  ↓ アイアンアート 門扉

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 ↓ アイアンアート 門扉その2

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 ↓ 刺繍 その1

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 ↓ 刺繍 その2

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 フィヨルドをはじめとする自然の景観も興味深く味わった。

 

  ↓ ノルウェー ソグネフィヨルド

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⑦2007.9.20~10.4(15日間)

中国(貴州省/貴陽・凱里・南花村・榕江・従江・岊沙・黎平・隆里・錦屏・鎮遠・台江・四川省重慶

同行:R嬢(東京学芸大大学院生 中国留学生/漢族:指導学生:油画) U嬢(東京学芸大学1年生:友人の娘) Y氏(R嬢の夫・大学教員/苗族 現地在住)

 

 三回目の中国だが、またしても辺境、少数民族の地である。結局今に至るまで、北京や上海といった漢民族中心の近代的大都市には行かずじまいである。まあ、望むところではあるが。

 指導学生のR嬢の修了論文(苗族の刺繍について)の指導の過程で、必要とされる現地調査に同行したのである。現地に在住する彼女の夫のY氏がすべて立案・手配してくれた。

 その話を古くからの知り合いのUさんとその娘と飲んでいるときに話をしたことから、その娘の学芸大1年生のU嬢も同行することになった。その展開には、自分が言い出したこととはいえ、少々面食らったが、まあそれも良かろうと。

 

   ↓ 気の遠くなりそうな棚田。そういえば日本の稲作のルーツは苗族だと聞いたことがある。f:id:sosaian:20180615013128j:plain

 

  ↓ 苗族だったか?土族だったか?何族だったか?

   とある少数民族の集落に入る際のセレモニー。むろん飲まされるのは超強い酒。f:id:sosaian:20180615013202j:plain

 

  ↓ 何族だったか? とある少数民族の集落での、めちゃくちゃ激しい民族ショー。男性の吹くのは笙。面白かったです。

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 これまでの中国旅行と同様に、やはりとても個人では回れない地域・内容であったが、私にとっては面白い旅であった。しかし、後日知った事だが、この旅は、夫婦関係がうまくいかなくなっていたR嬢とY氏の関係修復を試みる最後の機会でもあったとのこと。残念ながらその試みは成功しなかったようだ。

 

    ↓ 友人やら、親戚やら、知り合いやらとの食事。基本、シェアです。取り皿はありません。

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  ↓ 同上。この時はかなり人里から離れた小さな集落に夜中に着いて、地面に埋めた甕から取り出した「魚の漬物(なれ鮨)」とか「カメムシの唐揚げ」とか、結構なものをいただいた。ちなみに「魚の漬物」は塩辛いが美味かった。

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   ↓ こういう中国山水画的風景もあります。

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 ↓ 偶然行き会った俳優の〇〇。Y氏の知り合い(?)だとか。名刺交換までしたのに名前が思い出せない。張芸謀監督の作品にもよく出ている、日本でいえば高倉健レベルの有名俳優だとか。何かこの時は鼻のガン(?)で治療中とか言っていたような。

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  ↓ こんなのも見た。超派手で、豪華絢爛な、民族音楽舞踏その他のショー。面白かったです。

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 現地で出会った美術では染織、中でも刺繍が最大のもの。前回の北欧旅行の際のそれとも共振して、以後染織・刺繍関係に対する興味が強まった。

 

   ↓ 貴陽の青空市。ほとんど骨董市で、ずいぶん面白いものがあった。

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   ↓ 上とは別に、紹介されて骨董屋の倉庫にも行き、いくつか買った。これはそのうちの一つ。現在我が家に展示してある。

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 以下、その2 その3 と続く(かな?)。      (記:2018.6.14)

 

四国の山旅―その3 三嶺 (2018.4.27)

4月27日(金)晴時々曇り

 

 朝食後、通いなれた(?)道を名頃の登山口の駐車場へ。数台の車が停まっている。8:25カカシ達に見送られて登り始める。

 

 ↓ お見送りのカカシ(?)たち

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 剣山からの往復に比べれば、この尾根から三嶺に登る人は少ないようで、その分いっそう足の裏にしっとりとくる快適な登山道である。芽吹きからようやく新緑へといった感じの、なだらかで明るい樹林の尾根筋。下草はほとんどなく、時期がまだ早いのかと思う。熊の爪痕や、ところどころの木の幹や根に鹿の齧った跡があった。

 

 ↓ 芽吹きの尾根を行く

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 しかし下山後に宿に備え付けてあった『シカと日本の森林』(依光良三 築地書館)をパラパラと見たり、宿の人の話を聞いてみると、下草がないのはどうも鹿の食害によるものらしい。今回五日間のうち三日、四回鹿を見かけているから、鹿の生息密度はやはりそうとうに高い。それが人工林密度の高い徳島県でわずかに残っている剣山・三嶺周辺の自然林に集中しているらしい。キレンゲショウマどころか、トリカブト以外の下草をほとんど見かけなかったのも、そういうことなのか。考えてみれば、悩ましいことである。

 

 ↓ 少し尾根の狭まるところもあった

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 尾根を横切っている林道を越えると(9:05)、そこにだけ何本かのミツバツツジ(?)があでやかな花をつけている。

 

 ↓ ミツバツツジ(たぶん)

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 ↓ ダケモミの丘手前の針葉樹林帯

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 その上の針葉樹林帯を少し登れば1517mのダケモミの丘(10:08)。さらに少しばかりの急登とゆるやかな登りの後、頂上直下の急登になる。

 

 ↓ 笹原の中のガレ場の登高

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 笹の中のガレ場を登れば、頭上に頂稜の岩壁帯がのしかかってくる。

 

 ↓ 頂稜直下の岩壁帯

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 ↓ 岩壁帯基部のトラバース

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 その基部をトラバースして最後の急登を登り切れば、池の脇にポンと飛び出た。池の名前は知らなかったが、帰宅後調べてみると「龍神さんの池」というらしい。悪くもないが、もう少しふさわしい名前がありそうな気もするが…。

 

 ↓ 龍神さんの池に飛び出した

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 ともあれ、気持ちの良い一帯である。生えているのは、ミヤマクマザサ以外はコメツツジだけ。ただし花も蕾もまだ早く、今のところは味気ないだけだ。

 

 ↓ 三嶺山頂へ

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 頂上はそこから一投足だった(11:35)。比較的狭い三嶺山頂は、ここも360度の展望。昨日の剣山はおろか遠く石鎚山系まで見える。西に延びる縦走路が魅力的だ。後から何人かの人が登ってきたが、しばらくは我々だけの静かな山頂で展望を堪能する。

 

 ↓ 頂上三角点

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 ↓ ハッピーな二人

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 ↓ 昨日登った剣山方面遠望

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 ↓ 西に続く魅力的な縦走路

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 宿の弁当の昼食後、下山にうつる。帰りがけの駄賃に頂上ヒュッテのトイレに寄る。そこから振り返って見れば、笹原の先に三嶺の頂上が、ぽこんと可愛らしい頭を突き出していた。

 

 ↓ 三嶺ヒュッテと池

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 ↓ 三嶺山頂を振り返る

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 下山ルートとしては、登りと同じところを下るのはあまり面白くないというか、できれば違うルートから降りたいもの。今回でいえば登った尾根の右手の沢の対岸の尾根あたりに道があれば好都合だったのだが、ない。車の都合などからも、いかんともしようがないと思い込んでいたので、特に考えることもなくそのまま下った。しかし帰宅後地図を見ると、頂上から北に「いやしの温泉郷」に向かって登山道が記載されていた。実は下山後、ある必要があってその「いやしの温泉郷」に行くことになっていたのだ。「いやしの温泉郷」から名頃の駐車場まで歩いて1時間少々といったところだから、そこを下るという選択肢もありえたのだが、後の祭である。

 まあ同ルートピストンというのも、必ずしも悪いものではない。一度通ったところを視点をかえて落ち着いて観察できるし、安心感もある、といったことをどこかで書いていたのは池内紀だったか。それはその通りで、久しぶりの「同ルート下降」を味わいつつ降りる。

 

 ↓ 久しぶりの「同ルート下降」を味わいつつ降りる

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 途中一頭の鹿に遭遇。いったん走り去ったあと、遠くに立ち止まってこちらを見ている。何とかズームで撮影できたが、見ると腹部に妙な瘤というか、浮き出しがある。寄生虫?かとも思うが、正確にはわからない。

 

 ↓ 腹部の瘤というか浮き出しは何?

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 再びのミツバツツジの美しさを味わい、ほどなく駐車場に到着。

 

 ↓ 再びのミツバツツジ

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 それなりに変化のあるルートと山行内容、好展望を楽しめた充実した山行を終えた。

 

 その後、上述の「いやしの温泉郷」に行く。これは吾々が泊まっていたラフォーレつるぎ山に同宿していたシンガポールからの姉妹が、その前に泊まった「いやしの温泉郷」の部屋の鍵を誤って返却しそこなって困っていたのを、預かって返すためである。むろん温泉に入るのは当初の予定のうち。事前に連絡しておいたせいか、入浴料タダ、お土産付きで感謝され、かえって恐縮してしまう。ラフォーレつるぎ山にも当然風呂(徳島県で一番標高の高いところにあるという風呂)はあり、そちらも申し分のない風呂ではあるが、温泉ではない。必ずしも温泉にこだわるわけではないが、入ってみればやはり格別である。

 

 ラフォーレつるぎ山に戻ると、目の前の夫婦池畔に何頭かの鹿がやってきた。ただ見ている旅行者にとっては可愛い存在だが、地元の人からすれば「悪さばかりしよる」ということなのだろう。悩ましいことである。

 

 ↓ 夫婦沼に降りてきた鹿の群 ラフォーレつるぎ山よりズーム

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 ↓ 途中で見かけたオブジェというか樹肌の形象

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【コースタイム】4月27日(金)晴時々曇り

名頃登山口駐車場8:25~林道9:05~ダケモミの丘10:08~三嶺山頂1893.6m11:35/12:30~ダケモミの丘13:50~名頃登山口駐車場14:53

 

 

4月28日(土)晴

 入山日こそ雨にたたられたが、それ以外は(霧もふくめて)好天に恵まれ、三日で五つの山頂に立つことができた。連休前という選択も正解であった。大いに楽しんだ剣山・三嶺山系を離れ、帰宅の途につく。

 貞光川沿いの細いくねくねした道も、二度目となればさほどの不安はない。下がるほどに輝きと濃密さを増す新緑を愛で、藤の紫を愛でつつ走る。坂出で豪快素朴なうどんを味わい、瀬戸内中央道のパーキングで光あふれる海景を味わう。

 

 ↓ 瀬戸内海と飯野山(讃岐富士)その他

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 昼過ぎ、新倉敷駅でパーティーは解散。それぞれの帰途についた。次は七月の北海道だ。

                              (記:2018.5.2)