艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

個展「耀ふ静謐」レポート ―1

個展「耀ふ静謐」レポート ―1

 

 今回の出品作を何回かに分けて、すこしずつ紹介してみます。

 遠隔地で見に来られない方もいますし。

 

 ↓ SALIOT入口 周辺はビジネス街。道行く人はビジネスマンとキャリアウーマンばかり。

SALIOT=ショールーム=ビジネス・商談の場なので、普段は一般の通りすがりの人は直接には入れません。

f:id:sosaian:20190516164431j:plain

 

 ↓ 入り口を入るとこんな感じ 

 左、作品749「モロッコのバラ」(22.4×27.2㎝ 2017~2018年 シナベニヤパネル/彩墨・アクリル・アッサブラージュ)

f:id:sosaian:20190516164648j:plain

 


 SALIOTは全体が4つの大きな金色の造形物ごとに、4つのコーナーに分かれています。STUDIO RETAIL DINING そしてGALLERY。
 まず今回はRETAILのコーナーから。

 ここはそこに入るのに、これぞ迷宮的、メディナ(旧市街)的といった狭い通路の奥に、ブティックをイメージした空間があります。今回は普段そこに置かれているマネキンや洋服をそのまま置いてあります。

 *この入り口を見つけられずに、見落とされた人もいますので、要注意。

 

 ↓ RETAILへの迷宮=メディナ的入り口

f:id:sosaian:20190516165036j:plain

 

 ↓ RETAILへの迷宮=メディナ的通路 

f:id:sosaian:20190516164104j:plain

 

 ↓ RETAILの内部

f:id:sosaian:20190516165340j:plain

 

 そこに私の作品をどう置くか、さて。

 

 ↓ RETAILの内部 その2

f:id:sosaian:20190516165445j:plain

 

 画廊・美術館的ホワイトキューブではない空間ということが前提の展示なので、なるべく元の雰囲気をとどめようということで、多少のグッズは残置。

 商品棚に作品を置いてみる。

 

 ↓ こうした陳列棚が2か所あります。普段はブティックの商品をイメージしたグッズが置かれていますが、そこに私の作品を設置。元の商品も少しお借りしたりして。
左は作品696「装飾(ひびきと光)」(71.3×52㎝ 2016年 台紙に薄和紙/鉛筆・セピア・アクリル)、下手前は作品700「憧憬と記憶」(34.5×47.9㎝ 2016~2017年 水彩紙に和紙/鉛筆・彩墨・アクリル・セピア・コラージュ)。

f:id:sosaian:20190516170351j:plain

 

 ↓ もう一つの棚。
左奥590「黒曜石の宇宙儀-2(水晶の森)」(20.4×20.4×2.5㎝ 2011年 桐箱/アクリル・コラージュ・アッサンブラージュ・蜜蝋)、手前755「瓔珞のをみなたち-1(霧の滴)」(25×18㎝ 2017年 パーティクルボードに麻布/樹脂テンペラ・油彩)、右上578「三月の蝶」(16.9×23.4×4㎝ 2011年 木・段ボール箱/アクリル・油彩・樹脂テンペラ・コラージュ・アッサンブラージュ *周りの白い部分は昔初めて買ったケータイ電話の入っていた箱)。

f:id:sosaian:20190516170520j:plain

 

 

以下、作品の一部を紹介。

 

 ↓ 作品687「世界函-青(山繭などが形成される夜)」

2014~2018年 25.8×16.9×3.2㎝ 木箱(桐)/アクリル・アッサンブラージュ)。
〇左上段の桝は、展覧会チラシに載っていた有名な写真家の作品の一部。その後ろのロシアイコンの印刷物はサンクトペテルブルクの教会で買ったもの。

〇左下段の桝、左はヨセミテで拾った地衣類と骨董市で買った目薬(?)の小瓶。

〇中央上段はどこかの海岸で拾った巻貝と丸善かどこかのミネラルフェアで買った小さな蛍石

〇中央中段の繭は近所の裏山歩きで拾ってきた天蚕とウスタビガの繭。

中央下段の桝は茨城県利根町で表面採取した縄文土器断片と40年ぐらい前に甲府市で買ったブラジル産アズライトボール。他の桝にあるのも同じアズライトボール。

〇右上段の桝はインドかスリランカで買った型物のミニ仏像。

〇右下段の桝は裏山歩きで拾った蛾(種類不明)の繭とチュニジアで拾った植物の種子と猟銃の薬莢。昔の山仲間からもらったもの。

〇各桝のある白いものは蜜蝋(+パラフィン等+油絵具)。箱は佃煮の入っていた桐の箱にアクリルで着彩、蜜蝋拭き込み仕上げ。

f:id:sosaian:20190516170600j:plain

 

 ↓ 作品752「逃げる女」

  (25×18㎝ 2017~2018年 パーティクルボード/樹脂テンペラ・油彩)

f:id:sosaian:20190516172607j:plain

 ( ↑ 何処から逃げるのか?、何から逃げるのか?)

 

 ↓ 作品753「胡旋舞 -あるいは絶望のダンス」 

  (25×18㎝ 2017~2019年 パーティクルボード/樹脂テンペラ・油彩)

f:id:sosaian:20190516172807j:plain

 ( ↑ 何に絶望しているのか?)

 

 ↓ 作品735「月の窓(晶夜)」

(2016~2017年 29.7×21㎝ シナベニヤパネルに和紙/アクリル)
左右で支えているのはふだんここに置かれているものを借用しました。 

f:id:sosaian:20190516173951j:plain

 

 

トークショー(トークバトル?)のお知らせ

トークショートークバトル?)のお知らせ

 

5月24日金曜日17時より会場SALIOTにて秋元雄二氏(東京藝術大学美術館館長)との対談(トークショートークバトル?)を行います。

 

これは13日のオープニングレセプションの席でのやり取りが発展して、急きょ実施することになったものです。


予想外の展開に少々戸惑いもありますが、私の人生訓「積極的に流される」にのっとって、その場に臨んでみようと思います。

 

急な話ではありますが、お時間ございましたら聴きにきてください。

 

 

 ↓ 秋元雄史氏のFBより

 いま個展開催している河村正之さんとトークショウやります! ぜひ来てください!

日時: 5月24日 (金) 17:00〜18:30

場所: SALIOT (サリオ)ギャラリー
〒108-0073 東京区三田3-12-14

展覧会の会期は、
5/13-5/25 11:00-19:00

  

 ↓ こんな感じでトークショーの話が急きょ決まりました。 f:id:sosaian:20190516163105j:plain



 

個展が始まりました

 つい一週間ほど前からフェイスブックを始めました。

 始めたいきさつはまあ多少あるのですが、それはひとまず置いておいて、とりあえずはFBの速報性と広がりに今さらながら驚いています。

 それと同時に、FBのリテラシーやルールを学習しつつ、ブログとFBの棲み分けなどについても考えながら試運転中。

 じっくり書くという意味では軸足はブログだと思っています。

 ただしその分どうしても速報性には欠けるという点は否めません。

 FBはやっていてもブログは見ないという人、その逆の人もいます。

 そうしたバランスを勘案しながら、とりあえず、ブログ版で個展開始後の第一報です。

 

以下本題

 

 昨日個展が始まりました。
 オープニングレセプションには多くの人に来ていただき、感謝です。
 会場の様子もアップしたいのですが、その時間、余裕が持てず、とりあえず女房が自分のFBにあげたものをシェアさせてもらいます。

 オープニングレセプション当夜は飲みすぎて、終電に乗り損ねたようなアンバイでして・・・。

 

 

以下、女房のFBより

 

「河村正之個展始まりましたー」

 

おかげさまでオープニングパーティーも盛況のうちに無事終了しました。ありがたや〜*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*

最後は芸大美術館館長の秋元さんとギャラリートークの様な感じとなりみんなの興味に火が付きかけたところで時間切れとなったので、再度ギャラリートークバトルが開催されるようです。

 

  ↓ こんな感じから後日のトークショーに発展?

f:id:sosaian:20190516161754j:plain

 

実は私もこのSALIOTギャラリー初めて行ったんですのよ。
かなり広い!金色の迷宮が入り組んで各小部屋に誘われるような感じ。その不思議空間に小品から300号までの作品が50点展示されています。

 

 

f:id:sosaian:20190516161833j:plain

 

 こちらを運営しているミネビアミツミという会社、創業者は戦争中B29の部品を拾い、コレは売れると確信して戦後アメリカに渡りその会社に入り勉強しというとこからスタート。今ではその会社を買収し、年商1兆円、全世界で従業員10万人の会社に育ったんですって(°▽°) 22ミリベアリングでは世界シェア70パーセントだそうです。ヒョエ〜全然知らなかった💦

で、3年前からその技術力を生かして照明部門を設立。東京国立博物館に採用されるなど着実にシェアを広げているようです。
アートとのコラボをもっと広げて行きたいそう。
そんな最先端の照明で照らされて作品達は、輝きを増しています。25日までやっています。

 

  ↓ 例によって女房手作りのおもてなし(?)パーティー料理 あとは主にホカ弁(笑) 

f:id:sosaian:20190516162027j:plain



 

 

 

 

 

 

 

 

『美術の窓』5月号に記事が出ました。

 雑誌『美術の窓』5月号に「PREVIEW」として個展が紹介されています。

 

 4月20日に発売されていましたが、このブログにもFBにも、何となく紹介するのを忘れていたというか、怠っていました。

 何か宣伝するみたいで、といっても宣伝しているというか、宣伝しなければ意味がないのですが。
 なんにしても美術雑誌に載るのは実に久しぶり…。

  

 同誌には井田幸昌君が「新世代のアーティストが語る」として、同じく秋元雄史君が「評論家・学芸員が選ぶ注目の新人14」として出ています。野見山先生の「アトリエ日記」も連載中。

 なんだか、世間は狭い。

 

 ともあれ、いよいよ明日から始まります・・・。

 

5月13日(月)―25日(土)日曜日休み
SALIOT 港区三田3-12-14ニッテン三田ビル1階

 

 

  ↓ カラー見開き2頁。図版4枚。けっこう豪華だ。

f:id:sosaian:20190512215104j:plain

 

 

   ↓ 『美術の窓』生活の友社発行

f:id:sosaian:20190512215138j:plain

 

 

     ↓ 記事部分

f:id:sosaian:20190512215202j:plain



 

 

個展「耀(かがよ)ふ静謐」 展示作業終了 間もなく始まります。

個展「耀(かがよ)ふ静謐」(SALIOT 5月13~25日)の搬入と展示作業が二日間かけてようやく終わりました。(アライ君、タドコロ君には深謝)

 

 ↓ 想定外の二段掛けを提案された。やはり私のことを良く知っている有能な助っ人がいるということは、大きい。彼の提案で自分を更新する。

f:id:sosaian:20190510170346j:plain

 

 

 ↓ 大作は外部の専門家とスタッフで作業。

f:id:sosaian:20190510170417j:plain

 

 今日10日はコラボの一環として、SALIOTスタッフによる照明設定作業が進行中。私はオフです。

 

 三日かけての展示準備。おおよそは予定通りに進みましたが、巨きな、金色の迷宮空間に置かれた私の作品がどのように機能するのか、まだ冷静には見えてきません。

 

 ↓ 黄金迷宮の一画

f:id:sosaian:20190510170608j:plain

 

 

 13日月曜日オープンの日に、あらためて相まみえるのが、楽しみなようでもあり、こわいようでもあり。

 「画家は作品の背後に身をひそめる」などと、言い逃れるわけにもいかない、個展オープニング…は間もなくです。

 

 御高覧、よろしくお願いします。   

 

 ↓ ここはDININGのコーナー 曲面の壁に平面作品を設置。

f:id:sosaian:20190510170648j:plain

 

                            (2019.5.10)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『メッセージのゆらぎ』と体験的「博士課程・博士論文」のこと ―その5 小笠原逃避行

 前稿では製本論文と印刷公表のことを軸に書いた。ここで話は多少前後する。

 

 32歳、1987年3月学位取得。5月製本論文『メッセージのゆらぎ』を提出。10月『論文+作品集 メッセージのゆらぎ』を自費出版。11月個展(紀伊國屋画廊)。

その間の3月の末で、それまで三年勤めた美術予備校を辞めた。

 

 論文執筆に専念(?)した一年間の疲労とストレスが限界に達したのである。そして、その時点ではまだめどの立っていなかった、製本論文と印刷公表の問題に直面していた。また、11月の個展のために、制作しなければならないという焦りもあった。

 私は本当に疲れきったのだ。このままでは危険だと思った。休息が、それも思いきった休息が必要だと感じた。4月以降もそれまでと同じように週四日の予備校勤務(油絵科主任)を続けたら身が持たない、それ以上に心がもたないという予感がした。甘えと言われるかもしれないが、少なくとも主観的には、間違いなく危機的精神状態だったのである。当時はウツという言葉はあまり日常的には使われていなかったが、まあ、今で言えばウツか、その一歩手前だったのだろう。

 

 女房に、今家にいくら貯金があるかと聞いた。

 あれやこれやかき集めれば、仕事を辞めても、女房の収入だけでも、倹約すれば一年間間ならギリギリ何とかなりそうだ。仕事を辞めて一年間無職になると宣言した。 

 この一年の情況を見ていた女房は、渋々ながら、結果として了承してくれた。納得も了解もしはしなかっただろうが、理解はしてくれたというか、ほかにどうしようもなかったのだろう。

 乳飲み子を持つ親のとるべき行動ではないが、最低限の計算はした上でのこと。そのタイミングでクールダウンしなければ、その先に行けそうになかったのである。前稿で「無理を承知でジャンプしなければならない時がある」と書いた。今回はポジティブな「チャレンジ」ではないが、ネガティブな逃避ではあっても、これも一つの「ジャンプ」だったのである。

 人間、「疲れたら休め」(安野光雅さんの言葉)、「しんどくなったら逃げればよい。逃げることも時には大切な技術だ。」(私の言葉)。

 その一年間にやらなければならないことのおおよそは見えていたが、その前にまずは休みたかった。仕事を辞めたからと言って暇になるわけではない。とりあえず、少しの間でいいから家庭や家や日常から離れ、旅にでも出たかった。しかし前述したような、まず倹約といった情況だから、そこまで勝手はできない。

 

 私の2学年下にI君という後輩がいた。壁画研修室だったからふつうならあまり縁は無いはずなのだが、幸か不幸か、学生時代最後の頃のニ三年、麻雀仲間だった。彼は大学院修了後、どういうわけか小笠原に渡って、漁師に弟子入りしていたのである。釣りが好きで、魚が好きで、魚の絵ばかり描いていたやつだったが、漁師に弟子入りするというのも芸大大学院修了者としては珍しい選択をするものだなと思っていた。

 小笠原に移住してしばらくたった頃、同地の村営住宅に住めるようになったとかで、どんな成り行きからだったのか覚えていないが、「小笠原に遊びに来てください」などと言っていたのを思い出した。

 

 二浪の時の大学入試最後の三次試験(学科試験)で、寝坊して遅刻したときのことを思い出した。

 遅刻といっても、試験会場に着いたら、三科目(英語・国語・世界史)のうちの午前中の二科目が終わる寸前という論外破格の大遅刻。仕方なく(?)学食で味のわからぬ飯を食べていたら、試験が終わった受験生がぞろぞろとやってくる。顔見知り、友人も多い。「何やってんだよ~、今ごろ来て」などと言われても答えようがない。言う方も言われる方も顔がひきつっている。午後の世界史だけ受けてみたところでどうしようもない。実技試験の成績は良く、倍率二倍の学科試験には絶対の自信があっただけに、99%手中にしていた合格をフイにしたのだ。

 さすがにいたたまれない。どう日を過ごしていいかわからない。アパートの自分の部屋にいたくない。東京にいたくない。友人に会いたくない。何も考えたくない。

 その時、思いついて発作的に、京都在住の高校時代の同級生Yの下宿に転がり込んだのである。一浪後、立命館大学の一回生であった彼とは、特別親しいというほどの間柄でもなかったのだが、私としては東京から、自分のアパートから逃げ出せればどこでもよかったのだ。

 何一つやるべきことのない、魂の抜けたような不景気な顔で、悶々と、ゴロゴロしているだけの私を、快く(?)受け入れて、気をつかってくれつつも持て余したであろうYには、今思ってもただ感謝するのみである。

 そこに転がり込んでいた一週間ほどで、何一つ解決したというわけではなかったが、まあ、落ち着いたのであろう。東京に戻って三浪目を迎える覚悟をするぐらいには恢復したというか、再生したのである。その一週間滞在したYの下宿は、私にとってのアジール(避難場所)だったのである。

 

 小笠原のI君の「遊びに来てください」は、再びのアジールへのいざないだった。

 とりあえず電話してみる。「遊び」ではなく逃避行なのだが、まあ同じようなものか。前述したように倹約体制なのだから宿に泊まるような金はない。I君のすむ村民住宅に転がり込むしかないわけである。I君は戸惑いつつも、「いいですよ」と言ってくれた。行き先ができた。

 5月11日、製本論文『メッセージのゆらぎ』を提出。それからしばらくして竹芝桟橋から週に一便の小笠原父島行の舟に乗った。

 父島までは約24時間。途中、ベヨネーズ列岩だか須美寿島だか孀婦岩だかわからないが、絶海の孤島としてそそり立つ岩峰を見る。一人旅の孤愁。

 父島から小さな船に乗り換えて、母島まではさらに4~5時間。現在の母島の人口は470人ほどとのことだが、当時はもっと少なかったようだ。

 

 I君の家に転がり込んだはいいが、彼は早朝というか未明から親方の舟に乗り込んで漁に出る。一人のんびり起きだした私に、特にやることはない。目的など持っていないのだから。

 とりあえず彼の竿を借りて、リールを買って(彼のリールは壊れていた)、適当な磯に立つ。釣りは海釣りでも川釣りでも、さほど本気ではないが、ガキのころからやっているので、勝手はわかる。

 余談だが、地元でとれたわずかな野菜や魚以外は、島の店で売っているほとんどの食料品は本土から父島経由で運んでくるので、高い。餌の冷凍の鯵も食用なので高く、釣餌にするのはもったいないような気もするが、それが当地の流儀だとか。

 投げればすぐに食いついてくる。さほど大きくもない濃色の魚が、入れ食いというほどでもないが、いくらでも釣れる。しかし、そもそも数を釣ってみても仕方がないのだ。運悪くI君宅の冷蔵庫は壊れていて、釣った魚はその日か翌朝には食わなければならないのだから。

 

 ↓ 基本、いくらでも釣れます。クーラーボックスもないのですでに干からびかけている。

f:id:sosaian:20190506003209j:plain

 

 山葵がないから刺身は醤油だけ。あとは一番簡単なムニエルばかり。そもそも南の海の魚なので大味で、臭みもあり、美味くはない。毎日自分で作ったそればかり食べているとさすがに飽きてくる。他の食材は高い上に、父島からの船はちょっと海が荒れれば欠航となるので、入荷するとあっという間に売り切れてしまうとのこと。魚に飽きて、そこいらじゅうを這い回っている、戦前に食用として養殖され、野生化したアフリカ原産の大きなカタツムリを食べてみようと思ったが、I君に断固として断られて断念。

 暇つぶしの楽しみだったはずの釣りではちっとも暇がつぶれない。

 

 東京から持参した鬱々とした気分も、美しい母島にいるだけで少しずつ癒されてゆく。

 島の南端に近い南浜にも行ってみた。倹約しなければならないはずなのにシュノーケルや水中眼鏡なんぞ買い込んで。当然人っ子ひとりいない。浅瀬で30分もバシャバシャやっていれば飽きる。すぐ沖合の、海の色が変わる潮目から先は黒潮。あそこまで泳げばあっという間にハワイまで行けるらしい。少しなら泳げるが、幸か不幸かそこまでは行けそうもない。

 

 ↓ 南浜 遠くの黒ずんだところが黒潮

f:id:sosaian:20190506003353j:plain

 

 母島最高峰の乳房山463mにも登った。それまで経験したことのない亜熱帯雨林。ところどころに洞窟陣地(?)や塹壕などの戦争遺跡が残っていた。尾根続きの剣先山(だったと思う)の頂上には対空機銃座の跡が残っていた。

 

  ↓ 左の一番高いところが乳房山 右手前が剣先山(だと思う)

f:id:sosaian:20190506003510j:plain

 

 

 そんな私を少々みかねたのか、休みの日に穴ダコ漁に誘ってくれた。潮が引いて露出した岩場に無数にある、珊瑚礁ゆえの天然の穴を一つ一つ、先を曲げて尖らせた太い針金(?)を差し込んで探ってみる。時々反応があり、引きずり出してみると、小さなタコが獲れる。そうした漁のできる貴重な場所は限られており、権利を持つ人が決まっていて、勝手に獲ることはできないとのことだ。

 

 ↓ ちょっと見づらいですがタコが。しかしそのVサインは何だ?

f:id:sosaian:20190506003706j:plain

 

 

 別の日には彼の師匠の船の漁に誘ってくれた。目的は金目鯛。魚の種類は多くても、本土への輸送料からすると、採算がとれるのは高級魚の金目鯛など、ごく限られるとのこと。その日はあまり成績が上がらなかったからなのか、次いでイセエビ漁に行った。と言っても沈めてある籠を上げるだけなのだが。

 

 ↓ イセエビ漁の現場 海はあくまで碧い。

f:id:sosaian:20190506003843j:plain

 

 

 ちょうど昼飯時とあって、船上で上げたばかりのイセエビを錆びた出刃包丁でぶつ切りにして刺身。後にも先にも、その時食べたイセエビほど美味いイセエビを食べたことはない。頭は海に捨てる。あ~、もったいない。

 それ以外にも、近くで獲って解体したばかりの鯨の「オノミ(尾の身?)」(最も美味い部位で地元消費のみだとか)や、海亀のモツの煮込み、パッションフルーツなどといった美味珍味の初体験尽くしもした。

 

 そのころはほとんどまったくと言っていいほど酒は飲まなかった。酒など飲まなくてもストレスは次第に解消されていった。亜熱帯の母島の大いなる自然の治癒力と言うべきであろう。

 

 船便は週に一回(あるいは10日に一回だったか?)。一便逃せば次は1週間後(あるいは10日後)。そろそろ帰るべき時だ。居候的にも限界だろう。帰って、無職ではあれど、やるべきことに復帰しなければならない。論文の印刷公表、個展に向けての制作、家庭生活。

 かくて小笠原母島というアジールへの逃避行は終わった。そのセンチメンタルジャーニーによって、かろうじて私は恢復できたのだった。

 帰宅後程なくして、その時のI君と船頭さんから大きなトロ箱が送られてきた。中には大量のイセエビ、その他。感謝感激、再度の美味三昧である。

 ちなみに世話になったI君はその後漁師になったかというと、現在は関西のK大学文芸学部芸術学科教授として、また画家として活躍されているのだから、人生いろいろである。

 

 帰宅してからは11月に個展(紀伊國屋画廊)をやったぐらいで、大きな出来事はない。

 

 ↓ 個展案内状 宛名面

f:id:sosaian:20190506004023j:plain

 

 ↓ 個展案内状 

f:id:sosaian:20190506004124j:plain

 

 

 翌春以降に向けて仕事先を見つけなければならなかったが、これもやはり同じ研究室の後輩のYHに頼んで、彼の勤めていたT美術学院に勤めさせてもらうことが決まった。

 700部も作ってしまった印刷公表『メッセージのゆらぎ』は、その半分ほどは各大学、美術館、画廊、美術評論家、雑誌社といった関係各方面に献呈したが、反響はほとんどなかった。残る半分のほとんどは友人知人教え子などに、タダであげてしまったように思う。

 今現在手元に残っているのは10冊もない。在庫を抱え込んでいても仕方がないが、そうしておそらくは献呈したものの一冊が今回ヤフオクに出品されたのだろう。そのことについては特に何の思いもない。たまたま目にし、今日現在もなお出品され続けていることによって、この長いブログ記事を書く気になったというか、この一稿が産み落とされたのだから、それはそれで成果を上げたというべきか。

 高い費用をかけて自費出版し、それ自体は当初もその後もほとんど具体的成果をもたらさなかったと言ってもよいのだが、後悔はない。その作品集を欲したのは私自身だったからであり、本という形になったものは、結局どこかで残っていくものだからである。『メッセージのゆらぎ』は私の作品であり、その制作過程にまつわる苦闘は私の表現行為だったのである。

 

 つい懐かしさにかられてダラダラと書き連ねてしまったが、読み返してみるとセンチメンタルジャーニー回想といった感もある。まあ、それはそれで、たまには寄り道もいいか。忘れていたこともずいぶん思い出したし。

 博士(号・論文・家庭)については、私自身の取得体験とは少し違った観点からもう少し書くべきことが残っているような気もする。ただ、今現在(5月5日)は個展直前なので、しばらく間をおくしかない。せめてもう一篇だけは書き継いでみたいと思っているが、さて?

                              (記:2019.5.5)

 

 以下、その6に続くかも?しれません。

『メッセージのゆらぎ』と体験的「博士課程・博士論文」のこと ―その4 印刷公表とルサンチマン

 

 学位授与式(1987年3月)は済んだものの、手続きはまだ途上である。

 

 審査会と前後して「製本論文(提出論文?論文提出?)」とか「印刷公表」ということが、次の課題として上がってきていた。

 「製本論文」と「提出論文」とか「論文提出」の正式な言い方は今でもよくわからずじまいだが、とにかく博士論文として認められた論文を製本し、文部省と大学図書館に納める義務のこと。一応、何となくは常識として知っていた。

 製本に際しては特に決まりはないようであるが、慣例に従うことにする。まわりからアドバイスを受けて、それなりの少し厚手の用紙を買ってくる。少し厚手の用紙は全体の束(つか=本の厚み)を出すためと、書籍としての実用性および格式(?)のために必要なのだ。

 作品篇28頁と論攷篇104頁、その他合わせて全139頁の全てを手差しコピー。これは大学のコピーを、ふつうは有料なのだが、無料で使わせてくれたのは助かった。

 コピーし終わった頁を製本業者のところに持っていき、製本してもらう。あまり選択肢も多くはなく、黒いクロス風の表紙のハードカバー、表紙と背表紙にはタイトルと河村正之の名を金箔押し、簡易箱付き。箱に貼る題箋は和紙にコピーしたものを自作。縦26.4㎝×横31㎝、厚さ3㎝、全139頁。

 

 ↓ 外観 右は簡易函

f:id:sosaian:20190503234339j:plain

 

 そうして製本し終わったものに、作品篇の頁に28点分の焼増した写真を一枚ずつ貼り込む。それらの写真は四の五のフィルムから六つ切りとかに焼増ししたもの。それだけでもけっこう費用がかかる。とにかくそれで「製本論文」が完成である。

 内容は以下の通り。

 

 

 学位論文『メッセージのゆらぎ』

 昭和62年3月 

 東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程油画研究領域 58-903 河村正之

 

 はじめに

  目次 

 第Ⅰ部 作品篇 

 (28点の作品タイトルを記載)

  作品リスト及びデータ

 

 第Ⅱ部 論攷篇 メッセージのゆらぎ

  序論 目的と方法 

  第1章 森をめぐる 

   §1 個性のゆらぎ 

   §2 方法のゆらぎ 

  第2章 《水の無い谷間》 

  第3章 技法をめぐって 

  結語 

  註 

  参考図版 

  あとがき 

  年譜 

  展覧会歴 

  参考文献

 

 ↓ 作品篇 右は写真貼り込みのため光っている

f:id:sosaian:20190506011218j:plain

 

 

 ↓ 論攷篇頁

f:id:sosaian:20190503234531j:plain

 

 納本用には二冊あれば十分なのだが、別に自分用に二冊と、まあ親孝行(?)のために実家用として一冊と、最低でも五冊は作った。別に油画研究室への寄贈用と、指導教官のT先生に献呈するためにもう二冊ぐらい作ったかもしれない。あるいはT先生はその後の「印刷公表」した分をもらえばいいと言ってくれて、献呈はしなかったかもしれない。計、六~七冊。

 以上、当然、すべて自腹である。正確には覚えていないが、一冊につき1万円前後かかったように思う。

 1987年5月、二冊を大学に提出する。以上でこの件は落着。

 ここまでは良い。というか、仕方がない。「次は印刷公表だ」。

 

 「『印刷公表』? それ、何ですか???

 

 「印刷公表」とは、博士号を取得した者はその後一年以内(?)にその博士論文を印刷して公表しなければならない、というものである。「しなければならない」というからには義務なのだろう。私はそのことを知らなかった。ひょっとしたらその前に聞いていたのかもしれないが、その意味するところを、正確には認識していなかった。あるいはその前段階の「製本論文(論文提出?)」と混同していたのかもしれない。例によって、知らないことばかりである。

 

 ここで少し言い訳をしておくが、これまで見てきたように、当時の東京芸大においては、博士論文にかかわる制度上の諸規定、運用上・実務上の諸規定は、あまり明確ではなかったというか、成文化されていないことが多かったようだ。最初期の第1号第2号のあたりでは、学生自らがあちこち(の大学)で「博士号の取得のしかた」と「博士号の取らせ方」を学んできて、それを指導教官や事務官に教授することから始まったと聞いたことがあるぐらいだ。原始時代と呼びたくなるゆえんである。

 博士課程の長い歴史のある旧帝大系等の大学はいざ知らず、実技系芸術系大学として初めての博士課程を設置した新興(?)の東京芸大では、マニュアルが整備されていなかったのである。のんびりしていたのである。参考にすべき前例はなく、その時々の学生たちの自由勝手な希望主張に対応協議しつつ、そのつど作り上げるしかなかったようだ。

 したがって、ここまで書いてきたように、私がその局面局面でいろいろなことを知らなかったのは事実だが、それはあながちすべて私のせいだとは言えないのである。しかもパソコンもネットも未だ存在していないのだから、知る・調べるのは、きわめて困難だったのだ。

 

 さて「印刷公表」である。この「印刷公表」は「出版」と言い換えても良いだろう。広く一般に向けてということなのだろうから、「公表」の趣旨はわかる。そのために「印刷」しなければならないのもわかる。ところで、その「印刷」は誰がするのだろう。「出版」は誰がしてくれるのだろう。

 

 第1号と第3号の人のそれは現物を見たことがないのでわからないが、第2号の油画のカジ・ギャスディンさんは1986年に『ベンガルの魂 カジ・ギャスディン画集』(日本放送出版協会)という立派な本を出版されていた。博士論文の印刷公表のはずではあるが、ちゃんと定価が付けられ書店で売られる本、あくまで一般的な画集の体裁、つまり商業出版としてのそれである。「カジ・ギャスディン画集」と副題されていることに、彼自身の意志もうかがえる。現物を持っていないので確認はできないが、画像で見る限り函には「博士学位論文」等の文言は記載されていない。

 

 ↓ カジ・ギャスディン著『ベンガルの魂 カジ・ギャスディン画集』函

f:id:sosaian:20190503234742j:plain

 

 

 当然、NHKをはじめとするどこからかの後援とか、そうしたものがあって実現した出版であることは間違いない。

 第4号の有吉徹さんの『身体なきイコン』は、論文執筆時からの一貫したコンセプト「タイトに」が、そのまま印刷公表にも持ち込まれている。コピーなのか、簡易印刷という方式なのかわからないが、当時の洗練されていないワープロ文字のままで、シンプルに製本されている。図版15点、全67頁。一見、研究紀要といった感じで、タイトである。潔く、奥付には「1000部自費出版」と記載されている。費用的な面でも、これなら自費出版でもそれほどの負担にはなるまいと推測される。

 

 

  ↓ 有吉徹 『身体なきイコン』

f:id:sosaian:20190503235536j:plain

 

 

  このカジ・ギャスディンさんと有吉さんのそれとを目の前において、見比べて、考え込んだ。

 二冊の本を並べ、見比べてみれば、その格差というか違いは一目瞭然である。「製本論文」の段階までは、「博士論文」の本質が作品であり、論攷であり、その内容・質であるということを共通理解として事態が進行してきた。だが印刷公表の段階で「本」の形を成してくると、制度・義務としての「論文」の意味よりも、「物質/書物/本」としての存在感、美しさの方が優位性を主張し始めるのは、否定しようがない。

 前提として、私の論文+作品集を出版してくれるところが、あるはずもない。知り合いの画廊等に名義を借りてというやりかたも、そこまでの付き合いのある画廊はない。できない可能性を探ってもしかたがない。何よりも有吉さんの「1000部自費出版」が潔い。というか、現実的には自費出版しかないのだ。

 

 「印刷公表しなければいけない」と言われ、その意味を理解した時、私は本当に激怒し、次いで途方に暮れた。今だからこうして冷静にそのことについて書けるのだが、段階ごとに課題を順次出され、その一つ一つをクリアするたびに、さらに次のより難しい課題を課され、しかも後になればなるほど費用がかかる。しかも、それらは当然の制度として持ち出される。

 どう考えても釈然としない。博士課程-博士号-学位取得の関係制度性はわかる。その延長上の印刷公表も趣旨理念としては納得できる。しかし、その現実的な制度的拘束性が納得できない。印刷公表に伴う費用負担等についての裏付けやアナウンスは、一切なかったのだ。これまでにさんざん経費はかかっている。やむをえないというか、そのつど渋々ながら納得はしている。

 しかし、もしも博士課程受験の前に、「博士号を取得するにはトータルこれだけの費用がかかります」といったアナウンスがあったなら、どれだけの学生が博士課程受験や学位取得を目指しただろうか。少なくとも私は博士論文を書きはしなかった。私は富裕階級ではない。稼ぐ時間を削ってでも絵を描きたいのだ。

 当時の他の大学、他の分野ではどうだったのだろう。大学研究紀要等への投稿では済まないかもしれないが、論文=論攷中心の分野であれば、経済的負担はさほど重くはなかったかと推測はされるが。

 

 その後、博士論文のWeb上での公開が認められたことによって、印刷公表という制度はなくなったらしく、それに伴う学生の経済的負担もなくなったようだ。吾々の苦労は過渡期のものでしかなかったのかもしれないが、まさにその過渡期であったがゆえに苦労し、過重な出費に苦しみ、激怒し、途方に暮れたのである。

 私の怒りの持っていき場所は、どこにもなかった。

 

 すべての絵描きは、自分の画集・作品集を出したいという夢を持っている。

 画廊での個展の薄い図録はともかく、できればもう少し立派なというか、なるべく多くの点数を載せた「画集」「作品集」といったおもむきのあるものを出したいのだ。

 ITの進化に連れて、出版は容易に、安価になってきた。しかし、その当時はまだ作品集を自費で出すには、かなりの費用を要した。博士号を取らなければ、作品集を出版するなどとハナから考えもしなかっただろうし、事前に費用の事を知っていれば論文=論攷を書きだしはしなかった。だが、その時私の置かれていたのは「一年以内に印刷公表しなければならない」、それも現実的には自費出版で、という追い詰められた情況だったのである。もとより「印刷公表」を拒否するという選択肢はなかった(もし、拒否したら、どうなったのだろう?想像するのもちょっと怖いが…)。

 

 カジ・ギャスディンさんと有吉さんのそれを見比べてみれば、おのずとその中間のものを目指したくなる。有吉さんのタイトな印刷公表でも実質としてはかまわないのだが、どうせ怒りを抱えつつやるからには、カジ・ギャスディンさんのものに及ばぬまでも、同様の画集的意味合い、つまり作品の方を主とするものとしてあらしめたいと思った。少しでも多くの作品を載せたい。私は、私の画家としての夢を実現したくなった、つまり「作品集」を出したくなったのである。怒り疲れるのはウンザリだ。それよりもその逆境を逆手にとって、夢を実現したくなってきたのである。

 求められているのは学位論文の公表であるが、ならばその中に「博士論文(=作品篇+論攷篇)」の全てが掲載されていれば、それに加えて多くの作品図版その他を載せた「論文+作品集」として作るのはさしつかえないはずだ。それは私の自由であり、権利でもあると思った。その後を含めて、他の学位取得者はどう考え、どう実行したのか、知らないが。

 

 怒りは長くは続かない。長くは続かないが、それはルサンチマン(怨念)として沈殿してゆく。それは今に至るも完全には消えていないのだが、それはそれとして、夢の実現を追求することにした。

 

 印刷や出版に関しては素人の私だったが、あちこちに相談しながら、まず印刷会社(廣橋精版)を紹介してもらった。その道のプロと相談すれば話は早い。幸いそれまでの作品のほとんどは、知り合いに依頼して(有償で)ポジフィルムで撮影してあった。そうでなければ、費用的には相当厳しいものになり、かなり質を下げざるをえなかっただろう。未撮影の何点かは、こちらの事情を理解してくれたその印刷会社のカメラマンに格安で撮影してもらうことができた。

 サイズは大きすぎず小さすぎずといったところで、A4。書棚に保存されるよりも手にとって見やすいものにしたいということで、また費用の点からも、ソフトカバー(並製本)にした。

 最も重要な図版頁のレイアウトを、デザイナーに依頼する余裕はなかった。それに面倒ではあっても、せっかくだから自分で手がけてみたいという思いも生じた。教えてもらって、レイアウト用紙なるものを買って、生まれて初めてレイアウトなるものに取り組んだ。

 「作品集」であるからには、図版頁をなるべく多くしたい。図版頁を増やせば、当然ながら費用は高くなる。なるべく多くのカラー図版を入れたいが、同様である。当時は展覧会図録でもカラー頁の割合は半分以下だった。

 価格一覧表を横目で見ながら、図版の頁と文章の頁の割合を勘案する。製版の都合上、頁の割り付けには8の倍数という決まりがある。その制約の範囲でしかできないというか、その制約を楽しむしかない。図版頁のカラーとモノクロの割合、組み合わせを考える。制作の時系列、作品サイズ、自分なりの評価、それらの要素を掛け合わせ、ああでもないこうでもないと、掲載する作品の取捨選択に頭を悩ます。パズルのようなものである。

 途中からは腹をすえて、費用のことはあまり考えないようにした。ある程度高くなっても、少しでも良いものを作りたいと思うようになった。

 結局は、カラー図版頁16頁(作品点数23点)、モノクロ図版頁32頁(作品点数53点)、論攷部分が50頁、全111頁という構成に落ち着いた。

 

 ふとしたきっかけで、詩人の宗左近さんから一文をいただいた。他の評者の数編も資料的な意味で掲載することにした。

 

  ↓ 左頁 「反抒情の抒情 河村正之小感」宗左近

f:id:sosaian:20190503235937j:plain

 

 

 表紙デザインも、結果的には自分らしい、案外気に入ったものができた。全体を通し て、それなりに苦労はしたが、意外と楽しい作業でもあった。

 ここまでできれば、以後は業者さんの範疇。校正、色校正も初めての体験だったが、特段の問題もなく進行し、完成の姿が見えてきた。

 

 

  ↓ 表紙

f:id:sosaian:20190503235718j:plain

 

 内容は以下の通り。

 

『メッセージのゆらぎ 河村正之 1979―1987』

(扉) 論文・作品集 1979―1987

 

 目次 

  「反抒情の抒情」宗左近 6(頁 以下同様)

  評より―抄― 7

  はじめに 8

  作品図版 9

  作品リスト及びデータ 57

  論攷―メッセージのゆらぎ― 61

   序論 63

   第1章 65

   第2章 85

   第3章 91

   結語 97

   註 100

   参考図版 106

   あとがき 108

  略歴 個展 グループ展・その他 参考文献 109

 

1987年9月31日発行 発行者:木村郷子 印刷:廣橋精版

 

 目次では上記のように「論攷―メッセージのゆらぎ―」として項目と頁が記されているだけだが、実際の本文中では論攷部分の序論から第3章は、製本論文と同様に、次のようにタイトルが記されている。

 

 序論 目的と方法 

  第1章 森をめぐる 

   §1 個性のゆらぎ 

   §2 方法のゆらぎ 

  第2章 《水の無い谷間》 

  第3章 技法をめぐって 

 

  ↓ 図版頁 カラー図版

f:id:sosaian:20190503235830j:plain

 

  ↓ 図版頁 モノクロ図版

f:id:sosaian:20190503235851j:plain

 

 

 「印刷公表」ということと、「論文・作品集」の関係を担保するために、「はじめに」において「学位論文の対象作品16点と、論攷篇を補足する12点」に「さらに50点の作品を加えて、作品集としての意味も持たせました」と記した。

 発行者の木村郷子は女房(旧姓)のことである。有吉さんのように「自費出版」と記するほど潔くなかったのである。あるいは、論文執筆の間、苦労をかけた(?)女房にわずかでも感謝したい気持ちもあったのか…。

 

 形は出来上がったが、問題は部数である。いくら刷るべきか、初めてのことでもあり、見当がつかない。製版さえできれば、部数が多いほど一冊当たりの単価は割安になる。先の有吉さんは1000部。1000部は多すぎるだろうが、さて。

 根拠はなかったが、何となくといった感じで700部とした。後に少々後悔したのだが、この数字は多すぎた。

 

 費用、ざっと200万円。これがすなわち三回目の(必死の)「一生のお願い」だった。父にもさすがに言いたいことはあったと思うが、「博士」号が効いたのだろう。やれやれといった感じではあったが、出してくれた。むろん「いずれ、必ず返すから」と言ったはずだ。

 200万円もかけずにできる範囲でやればよいという考えもあるだろう。それはそれで正しい意見だ。

 しかし、人には、というか絵描きには、どこかで無理を承知でジャンプしなければならない時があると思う。その時も、無理をして出して良かったと思った。今でも、そう思っている。私自身、その作品集をどれだけ見返し、論攷を読み返しただろう。欠点はいくらでもある。しかしそこにあるのは、まぎれもなく私の描いた作品であり論文なのだ。

 今見返しても、ささやかな懐かしさとともに、そのつど自分の作品に向かい直さざるをえない、真剣な今現在が立ち上がってくる。

 

 振り返って見れば、T先生から「書きたまえ」と言われてから、出版するまでの二年弱の間で最大のエネルギーを費やしたのは、結局のところ、自費出版しなければならないと認識した怒りから、そのための作業に取りかかり始めるまでの間の、精神のコントロールに対してだったかもしれない。

 

 博士論文初期の私たちの頃から、Web上での公開が認められ印刷公表という制度がなくなるまでの間に、何人の学位取得者が(その中でも特に実技系の学位取得者が)印刷公表したのだろうか。「印刷公表」といいながら、大学図書館にはあるにせよ、そのその後の学位取得者の印刷された論文を手にしたことは、不思議なことにほとんどない。

 同時期に取得した三人だが、印刷公表が完成した時期はバラバラだったために、他の二人のを見た記憶はない。大学に足を向けることもなくなった。

 第5号の三宅さんは、なんと3000万円(?)かけて総漆塗りの桐箱に納めたものを作ったという噂だった。話半分としても凄いが、実物を見ていないので、実際のところはなんとも言えない。だがそれだけの費用とそこから予想される発行部数からすれば、「広く一般に公表する」という趣旨とは正反対のものであると思わざるをえない。

 彼は特殊な例であろうが、それぞれに多大な費用をかけて印刷公表/出版するには、論文執筆もふくめた一連の流れが自分にとっても一つの作品であり、表現行為であるといった、意識の変容ないし変革が少なくとも途中からでも伴わなければ、完遂することは困難だ。費用をかけるのはそれぞれ勝手であるかもしれないが、単なる一連の事務手続きの一つではすまない、つまり作家・表現者特有のモチベーションと成ったのだと言うべきかもしれない。

 それはそれで良いとしても、やはり、ほとんどの場合自費出版の形を取らざるをえないというのは「作品篇=図版頁」が必須とされる実技系学生にとっては、大きな負担である。その負担は、学位取得の流れにおいて、不条理であったと思う。

 

 Web上での公開が認められ以来、その不条理は消滅した。しかし、過渡期にあった私(たち)のルサンチマンは解消しきってはいないのである。

 むろんそのルサンチマンは、直接的間接的に指導していただいた先生方や、関係した方々に向けられるものではない。当時の過渡期としての制度性と、その制度を統括していた文部省から東京藝術大学といった体制や、結局のところ、われわれの生きた時代性そのものに向けられたものである。

 個人としてはそのルサンチマン以上の、「作品集」を編めた喜びをもってしても、それは忘れ去られるべきではないと思う。           (記:2019.5.3)

 

以下、その5に続く