艸砦庵だより

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「山の彼方の」 

 「山の彼方の」(山本太郎 山と渓谷社 1985.7.25)を読んだ。20年前、山関係の本を集めていたころに買った本。買ってから読むまでに20年以上かかったのは、本書が登山の本としてはあまり面白くなさそうだったからである。そのころは自分が山を登る上である程度参考になるものをもって良しとしていたから、この詩人の書いた回想記風の内容にさほど興味をひかれなかったからであり、いかにも詩人らしくはあるが読みにくい文体がとっつきにくかったからでもある。

 20年以上前に買ったままの本をあらためて読み始めたのは、少し前にモロッコ・チュニジアの旅の最中に読み始めた「サハラ放浪」を読み終えて、淡い興味をもったからだ。そういえばこの作者の本は確かもう一冊もっていたはず。

 読み終わっての感想というか評価としては、「ビミョー」というところ(まあそもそも「評価」とはビミョーなものなのだ)。

 各章ごとに挿入されている詩は、私は好まない。だがそこには少しばかり心惹かれる詩句があり、単純には否定することもできない。それは宮沢賢治っぽくもあり、また相当に知的で、技巧的でもある。本文はケレン味というか、技巧や、芸や、味がありすぎるという印象。

 それはそれとして、うかつにも読み終わって知ったのは、作者が画家山本鼎の息子であり、北原白秋の甥であり、辻まことの友人であったということ。それだけで本書は私にとって読む価値があったと言える。

 回想記であるゆえんは、その底に、今現在は登れない、登らないという心情、事情が横たわっているということである。あまり認めたくはないのだが、その辺のところは今現在の私のそれと同様である。

 

 山に行きたいと思うが、行けない。行かない。行かない、行けないゆえに、さらに山にこがれる、ということだ。

 

 山とは限らない。何事かをなしたいという欲望は、それが充たされぬために、さらにより一層の渇望を強いる。その渇望はついには苦しみとなる。その充たされぬ繰り返しのはてに、その苦しみを強いる渇望の対象は、ついには憎しみの対象となる。

 愛する対象が自分を苦しめる源であること。愛=憎。一致する不一致。相反するものが同時に存在すること。

 それが山であっても、女であっても、世界の中であれよかしと願望するすべての在りようにおいても。こうした二律背反、絶対矛盾が自己の内部で同一存在となる。そこに芸術‐表現の源泉がある。ありえぬがゆえにあらしめたいと願う心。そしてそれが実現しないことへの憧憬をさえ生み出す。

 

 大した理由もなく予定していた山へ行くことを中止したある日、昼過ぎから近所の裏山を歩きながら、そんなことを考えた。

                          (2015.4.16)