艸砦庵だより

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山行記-6 地下足袋をはいて登った奈良倉山+おまけの大白沢(中間部のみ) (2015.7.21)

 

 

 小菅村に行こうということになった。

大学時代の教え子H夫婦とその生後9カ月の娘と一緒に。初めての子育て、まあ何かと大変で、気晴らしもしたいのだろう。

 小菅にはH君の先輩にあたる、正確には私の教え子とは言えないまでもそれに準じた縁のあった(?)K君が以前から移り住んでいる。数年前に結婚して、昨年、家を新築したとのことで、その新築祝いも兼ねてとの由。まあ、それも良かろう。では、新緑の頃にでも私は一人で三頭山に登って、その後小菅に下山し、現地で合流するか。そんな話をしたのがたしか3月頃。そして今は7月下旬。新緑どころではない。暑い。しかも朝、車で自宅まで迎えにくるという。だいぶ様相が違ってきた。

 さらにその7月21、22日と日程が決まったあとに、それとはまったく別の、古い予備校時代関係の友人四人で22、23日に津久井湖畔で一晩語り明かそうという話が進行した。四人の平均年齢はほぼ60歳。それぞれ会うのが20年ぶりとか、30年ぶりとかいう再会である。

 なんだか少し話がややこしくなってきた。だが、まあこれも何かの縁、何とかなるだろう。

 

 当日朝、自宅まで迎えに来てもらい、奥多摩周遊道路経由で小菅に着いたのが昼前。小菅在のK君と落合い、いったん小菅の湯の近くの彼のログハウスに落ち着いた後、車で鶴峠まで送ってもらうことになった。

 車から荷を下ろそうとすると、ザックが一つない。つごう三日分の荷を初日の行動用デイパックと中型ザックに分けておいたのであるが、その中型ザックが見当たらない。自宅玄関先に置き忘れてきたようだ。着替えとかはともかく、今日これから履いて登る靴がない。一瞬、目の前が暗くなる。登山に来て靴がないとは…。しかしそこは良くしたもので、K君の普段の仕事というか、小菅住まいの暮らしゆえの、地下足袋があった。サイズもぴったり。それにしても沢登り用の渓流足袋は長年履いてきたが、農耕用の地下足袋をはくのはいつ以来だろう。大学1年の頃、まだ渓流足袋どころか、秀山荘からウェーデイングシューズが発売される以前に何回かワラジとの組み合わせで履いて以来、約四十年振りというところか。それはそれで感慨深い。いまどき地下足袋をはいて山登りをする人も極めて少ないだろう。(このザックはその後連絡のついた女房が宅急便で送ってくれ、翌日の午前中にK君宅に届いた。)

  ↓ これが噂の地下足袋 昔欧米ではデビルフッドなどと呼ばれ、ごく一部の若者に受けていた~らしい。

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 ともあれその地下足袋を借りてバス亭のある鶴峠に立ったのが12:00。

 最近の私の山行はほとんど単独行である。息子以外の人と登るのは、国内では3年振り。H君とは7年前の2008年3月に、まだ私が大学在職中、一時顧問をしていたサークル関係の当時の若者たち三人と、小菅大菩薩道から牛の寝通りを歩いたのが、一緒に行った唯一の山行である。やはりその時も今回と同様K君の世話になった。H君とは気心は知れているが、歩きはじめのペースにはかすかな戸惑いもある。しかし、すぐに慣れた。彼も山を歩くのは5年ぶりとか。おまけにこの暑さだ。無理はすまい。

 

 奥多摩や大菩薩にかぎらないが、ある山域をある程度歩くと、その隣の山域との間に赤線の途切れる部分が出てくる。山自体は尾根や水系でつながっているわけだが、ガイドブックの記載情況(≒人気度)や交通機関の利便性などによって生じる、一種の空白地帯である。登山密度は少ないが、それは言い換えれば魅力もまた少ないという可能性が高いということでもある。だが魅力とは主観性の強いもの。行ってみなければわからない。

 大菩薩峠・嶺は百名山だということもあり、言うまでもなく人気(登山密度)が非常に高い。今やオーバーユースと言ってもいいだろう。しかし大菩薩峠からさらに小菅大菩薩道や牛の寝通りに足を延ばす人はそう多くはない。ましてその先、権現山へとつながる稜線を訪れる人はさらに少ない。今回の奈良倉山周辺も、そういう山域であるがゆえに多少心ひかれつつも、足を踏み入れる機会のないまま、今日まできた。

 しかし、そうしたかつての空白地帯も、最近では積極的な中高年登山者の増加や自家用車の普及、行政側の努力(?)等によって少しずつ様変わりしているようだ。行ってみればかつての空白地帯のヤブ山も案外整備されていることも多い。奈良倉山周辺は地図で見るかぎり、松姫峠のバス便の開通をはじめとして林道が多く、そのため魅力をあまり感じさせない。だから今回はかえって良い機会だ。限られた時間とあまり適切とは言えない季節(できれば春か晩秋の頃がベストだろう)の中で、いわば消極的に選択された計画である。

 

 ともあれ出発。すぐに地図には記載されていない、林道とも言えないが妙に幅の広い最近造られたような道が現れる。なるべくそこを歩かないように、縫うようにして続く本来の路を登る。樹林帯に入ればそう暑くもない。出発前にいくつかの年代の違う地図を照らし合わせて見ると新旧の山路がかなり錯綜しているようだったが、実際に歩いてみれば特に悩むようなこともなく、あっけなく奈良倉山山頂1348.9mに13:18着。

  ↓ 写真をクリックして山名表示板を確認して下さい。

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 おおむね植林帯の、特になんということもない山頂。「秀麗富嶽十二景 五番山頂」と記された標識がある。南方が少し刈り払われているが、あいにく富士山の中腹に雲がかかり、全体は見えない。鈍重な夏富士が見えないからといって、特に残念でもなんでもないのだが、それにしても最近この手の「何とか○○名山」式の表示が多い。古くからの自然発生的なものならばそれなりに尊重もするが、いかにも観光行政的背景が透けて見えて、あまり良い気はしない。

 帰宅後、一応調べてみたら正式には平成4年に大月市がふるさと創生事業として選定、公布した「秀麗富嶽十二景」というものらしい。だから本当は「大月市が選定した大月市から見える 秀麗富嶽十二景」と記すべきであろう。誤解を招く表記だ。まあ別に私には関係も共感もないが。ただ、おかしいというか不思議なのは、「十二景」といいながら「1番山頂」として雁ヶ腹摺山と姥子山、以下「12番山頂」本社ヶ丸と清八山のように二つの山名が記載されているものがあり、合計19山となっている。意味がわからない。ならば「秀麗富嶽十九景」とすればよい。12という数にこだわるならば12に絞り込むべきだ。その方が審美性の面からも希少価値が高まるだろうに。そうしなかったところに、一種の地域エゴのようなものの存在が想像されなくもない。そもそも十二座(19山)を選定するために必要な、その何倍かの富士山が見える大月市の山に全て登った大月市の担当職員はいたのだろうか。要するに、企画全体のデザインがうまくないということだ。

 いずれにしても、富士山だけではないが、ここ最近の一連の世界遺産騒動にはウンザリである。文化性を大前提とするべき世界遺産の理念を、行政と経済の論理が侵しているとしか思えない。

 イチャモンついでにもう一つ。「1番」「2番」という表記は優秀さ(=秀麗さ)の順位なのであろうか。だとすればそれはどのような基準で決めたのだろうか。それとも札所めぐりのような順路という意味なのか。大月市のHPには記載されていない。何事であれ、良さとか美しさは本来、まずは個々人が発見し、感じるものだ。それが歴史をへて定着された時、古典となる。「選定、撮影の中心となった」のは「大月市出身の山岳写真家白簱史朗氏」とある。なるほど・・・、ふ~ん。行政も経済性も必要かつ重要なことではあるが、何かなあ~。

 

 閑話休題

 

 奈良倉山からも尾根上や山腹を林道や山路が二本三本と並行しているが、なるべく林道を歩かぬようにして選ぶと意外と快適なコースである。尾根は太く、樹林帯もそれなりに心地よい。多少暑いのをのぞけば、快適である。バス亭やトイレのある松姫峠から先は林道もなくなり、橅の割合が増え、さらに快適なのんびりとした道だ。「牛も寝るし、鶴も寝るところですからねえ」とはH君の名言。

  ↓ こんな感じ。

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  ↓ こんな感じ-2

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  ↓ こんな感じ-3 松姫峠から先は橅の割合が増えてくる。

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 その鶴寝山では名前のせいでもなかろうが、しばし山頂のベンチでうたた寝。そのせいばかりでもないが、時間のことが少々気になりだした。この先の山沢入りのヌタという峠から先をどうするかである。この汗をかく時期、やはり下山後には温泉に入りたい。なんせ温泉に下山するのだから。しかし受け付けは18時までとのこと。この先の大マテイ山に登るとなると時間的に微妙になってくる。頂上を踏まぬルートにあるという大栃の巨樹というのも気にならぬではないが、山屋としてはやはり山頂である。気持、ペースを速める。トラバース道から大マテイ山山頂に上がる分岐もしっかり標識があり、スムーズに1409.2mの山頂に着いた(15:45)。一応、今回の最高地点である。

 ここも展望も特徴もない山頂。ここから北に延びる尾根には昔は山道があったはず。うっすらと踏跡が見える。時間節約のためにこれを辿る。すぐに踏跡はなくなったが、うるさいヤブもなく、順調に尾根筋を下降し、20分ほどで正規の登山道に出た。そのすぐ先が尾根道と沢沿いの道との分岐。沢沿いの道の植林帯に入れば風は死に、にわかに蒸し暑い。汗が噴き出す。ほどなく路はワサビ田のある沢を横切る。冷たい水で顔を洗い、生き返った。時間的にも余裕である。あとはのんびり下るだけ。

 かくして予定外の時期の予定外の山は予想外に快適に終了した。思いがけぬ展開ではあったが、おかげで奈良倉山、鶴寝山、大マテイ山と、かなりの確率で一生来なかったかもしれない山を登ることができた。誰とも会わぬ静かな山旅だった。

 ちなみに40年振りにはいた地下足袋は、少し厚手の靴下をはいて使用したが、山道を歩く分には全く問題はなく、どちらかといえば快適であった。ただし未舗装の砂利の林道や舗装道路では、底が薄いせいか、多少なりとも足裏が痛かったのはやむをえないところだろう。

 温泉で汗を流した後のK君宅でのヤマメ、ニジマス、鹿肉、etcの宴会が楽しかったことは言うまでもない。

 

コースタイム】鶴峠12:00-奈良倉山13:18-松姫峠14:05-鶴寝山14:40-大マテイ山15:45-北面登山道14:10-17:30小菅の湯

 

 

おまけの大白沢(中間部のみ)

 

 今回、上記の計画を立てる際に、実は別に沢登りというプランもあったのである。

 私にも、夏と言えば当然沢登りオンリーという時代がかつてあった。H君はもともと沢登りをメインの活動としたサークルの部員だった。

 しかし私が沢登りらしい沢登りをしなくなってから20年近い。3年ほど前にかつての山仲間が立ちあげた会に数ヶ月復帰・所属してみたが、そこで何回か遡った沢は、かつてのそれとは内容も意味合いも異なるものだった。しかし何よりも、当然のことながら、自分自身の遡行能力の救いがたいほどの衰えという厳しい現実に直面したのである。遡行の際に必要な、それこそが最も楽しいはずの、不確定要素としての自然と自分自身の身体性とのぎりぎりのところで発生するはずのかろやかな対話がもはや成立しないのである。それだけが理由ではないが、もはやそれ以上その会にとどまる理由が見いだせなかった。結局、私は単なるビビリになり果てたということだ。体重も増えた。減量して何回かやっていればそのうち感覚を取り戻すかもしれないとかそういうことではなく、もはや沢登りから完全に足を洗うべき時期がとっくに来ているのだと認めざるをえないのである。事実上そうして20年近くたっている。しかし私の心の中にはどうやらいまだに「その気になれば、まだある程度までは復帰できるのではないか」という愚かしい甘えと幻想が潜んでおり、それが最終的に「沢登り廃業宣言」をあいまいに先送りさせているということなのだろう。

 最近になって時々ネット上で他人の沢登りの記録、写真や動画を見ることがある。その際、他者のそれを疑似体験すること自体に軽い恐怖をおぼえるようになってきた。ザイルを使っての草付の高巻き。懸垂下降。そうした場面の動画や画像を見ていて身体的に恐怖を感じるのである。いまさらながら沢登り廃業宣言をすべきだと思う。

 

 今回、7月下旬の尾根歩きの暑さを想像しているうちに、ついフラフラと小菅の沢を調べ始め、小菅の大白沢の記録がネット上にあるのを知った。文献では見たことがない。見るとザイルを使うこともなく、容易で気持の良さそうな沢である。それをH君に教えると、彼ももともと沢好きだからつい食指を伸ばしてくる。私は自信がない。だが客観的に見て(?)、これなら登れるだろうと思う。しかしH君は二三日して、やはり尾根歩きにしましょうと言ってきた。5年振りの山、生後9カ月の子と妻を連れての家族旅行とあれば当然すぎる結論である。お互い魔がさしただけなのだ。かくて上記の尾根歩きが実行された。

 しかしK君にその話をすると、彼もまたネットで見てにわかに行きたくなったらしい。彼も元沢男。二日目の午前中は何の予定もない。行こうと言われると断念したはずの沢登りに心がざわめくのを否定しきれない。微妙な心理的攻防しばしの後、ちょっとだけのぞきに行くことになった。渓流足袋はある。ザイル、ハーネスはない。良いのかなと思いつつ、その場の流れに抗しきれない。たぶん事故はこんな時起きるのだろう。

 翌朝、ともかくも大白沢に向かう。大げさのようだが、ぎりぎりのところ、ヤバい時の判断だけは絶対間違わないぞとの思いをかたく心に秘めて。時間短縮のため右岸の林道を軽トラで終点まで行く。廃道とも見えるが、冬場の猟には使うとのこと。そこから沢に入った。

沢の規模は小さい。普段よりは水量が多いはずだが、上記ネット上の記録に「癒し系の沢」とあったように、つまりは穏やかな流れである。癒し系というほどきれいでもないが。途中にはワサビ田の跡がある。

 

  ↓ 本当はもう少しきれいですが、まあ、こんな感じ。

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 結局ちょうど1時間遡行したところで打ち切った。右から2本目の支流が入ってくる標高920mあたり、二俣の一つ手前である。おそらく核心部があるとすればだいたい通過したのではないだろうか。小滝という程度のものが二つ三つあっただけである。

 

  ↓ 引き返し地点 左岸からの支流。

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 それでも水流をずっと行くのは久しぶり。楽しいと言えば楽しい。小滝を直登するのが楽しい。沢足袋越しの足裏の感覚がうれしい。懐かしい感覚だ。ただし今回の無計画ぶりを自覚しているだけに、多少のすっきりしなさ、やましさめいたとことはある。こんな精神状態では楽しさに没入できないのは当然で、やはり危険というべきであろう。

 穏やかな流れとはいっても水線通しに行けば多少は濡れる。早々にカメラをザックに入れたためほとんど写真は撮っていない。また撮るほどの所もあまりない。他の二人もそれぞれに微妙な心理の綾があったようで、初めの楽しさのあとはどこかすっと気持が冷めたようにも見えた。かくして賞味時間1時間の沢登りはごく自然に終了とあいなった。

 下りは往路を戻る。ところどころにある踏跡を利用し、30分ほどで入渓点に戻った。あっけない沢遊びではあったが、とにかく久しぶりの沢とのふれあいは、何とも懐かしい誘惑の綾をかいま見せてくれたのであった。

 

コースタイム】大白沢右岸林道終点/車デポ8:20~左岸2本目の支流(標高920m)9:20~車デポ10:00

 

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           小菅盛夏

 

■付記

 この後、帰宅するH君一家の車で上野原まで送ってもらい、相模湖駅で次のステージであるS氏一行に合流。場を津久井湖畔S氏邸に移し、一泊二日にわたって芸術談義のみに終始する実に濃厚な時間を過ごしたのであった。メンバーは放浪の画家I氏、某美術館館長A氏、国際的図工教諭S氏。このときの内容もどこかでまとめてみたい気がしないでもないが、とてもまとめ切れるものではない。それぞれがまた自身のこととして、それぞれの仕事の中で醸造し、いつの日にか芳醇な美酒を生み出すしかないのだろう。

 ともあれ2ステージ2泊3日にわたってお世話になった、H君ご夫妻、K君ご夫妻、ありがとうございました。古き友、I、A、Sの諸氏、お疲れ様でした。またいつかどこかで会おう。その日まで「別個に進み、共に撃て!」              (2015.7.26記)