読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

風(邪)とともに九州・四国・中国の山旅(黒岳・高縄山・文殊山~源明山) その-2

11月24日(火)晴れ時々曇り

 本日の予定として、私は臼杵から八幡浜経由、松山に夕方着くために昼頃には日向に行かなければならない。K澤夫妻は夜7時過ぎの飛行機。午前中、高千穂峡に行くことにした。ちなみに私は高千穂峡というから当然高千穂の峰があるところだと思っていたら、全然方角が違っていた。いかに何も調べずに来たかということだ。

 出勤前のT辺君に大規模林道入口まで、お見送りを受ける。途中のビューポイントで諸塚村を見下ろす。「日本のマチュピチュ」という言われ方もあるそうだが、高所集落という意味では、マチュピチュの標高は2430mだが、多少は言えている。それはそれとして、なんともしみじみと胸に沁み込むような景観である。日本だ…。

  ↓ 日本のマチュピチュ諸塚村

f:id:sosaian:20151202013541j:plain

 国道なみの大規模林道をはじめとする数多くの林道は山中、山上を縦横に走っており、それを快適に利用させてもらっていると、なんとも複雑な気持ちになる。正直に言えば、私のこれまでの林道観を、多少は修正する必要も感じたところもある。

 

 高千穂峡は言うまでもない有名観光地。連休明けとは言え、それなりの人出。お約束通りボートに乗る。K澤はカヌーはやったことがあるが手漕ぎボートは初めてとかで、オールを逆に漕ごうとする。こんな人は初めて見た。見かねて漕ぎ手交替。狭いトロ場は多くのボートで混雑しており、少々苦労した。ともあれ景観は素晴らしい。つい二カ月前グランドキャニオンとヨセミテ渓谷を見てきた身ではあるが、比較するのは野暮というもの。日本的な小ぢんまりとした、繊細で美しいゴルジュだった。玄武岩の柱状節理の間を穿って続くゴルジュはかつて八代ドッペル登高会がゴムボートなどを使って完全遡行したところというおぼろげな記憶があるが、はたしてここであったか、別の沢だったか、自信はない。

  ↓ 高千穂峡入口のトロ

f:id:sosaian:20151202013738j:plain

  ↓ 橋の上から

f:id:sosaian:20151202013930j:plain

 その後、高千穂峡沿いの遊歩道を高千穂神社まで少し歩く。規模は小さくなるがゴルジュは続いている。ゴルジュの底をザイルに引かれながら遡行したら楽しいだろうなと、ふと昔を思い出す。

  ↓ 上流部

f:id:sosaian:20151202014023j:plain

 その後、日向駅まで送ってもらい、以後、臼杵からフェリーで八幡浜港、JRで松山と向かった。松山駅で迎えに来てくれた従兄弟Sと48年振りに再会。Sは母方の実家の長男で私と同い年。誕生日も一日違い。小学校以来である。久闊を叙し、一夜一献、その後のそれぞれの人生等を語り合い、話は尽きなかった。

  ↓ 曇天の内海

f:id:sosaian:20151202014308j:plain

 

11月25日(水)曇り

 朝9時にSにホテルに迎えに来てもらう。昨夜久しぶりの邂逅をはたし、今日は一人で近くの山を登るか、美術館にでも行こうかと思っていたのだが、一日休みをとって付き合ってくれるとの由。ありがたいことである。しかもSはその職業がら(元陸上自衛隊)もあって、ひところはよく山登りをしていたとのこと。夕方のフェリーの時間もあるので、そう時間はとれない。彼の自宅の近くの高縄山986mに登ることにした。

 前夜高縄山の資料を渡しておいたのだが、それを読んでか読まずか、横谷から林道に入る。一般には北条側の院内かまたは松山側の幸次ヶ峠から登るようだが、地元在住、しかも何回か登っている(ただし十数年前)とのことで、何の心配もしていなかった。高縄山についても場所と時間などから決めただけで、私としては特に何のイメージも持っていなかった。

 503m地点の近くに車をデポ(10:05)。そばで電線の工事をしている。すぐ先にある甲森塚の標識の所から山道に入る。高縄山の西に延びる尾根を辿ることになるが、地図に破線は記されていない。あまり歩かれていないようだが、それなりに道形は残っている。しばらく歩くとまた電線の工事をしている。聞けばこの先頂上までの尾根上でずっと送電線の工事をしているとのこと。なんだかなあと思うが、まあ仕方がない。

  ↓ こんな感じ

f:id:sosaian:20151202014423j:plain

 展望のほとんど無い植林帯にところどころに雑木が混じるといった尾根上の道形は次第に怪しくなり、途中古い林道を横切ったあたりからはほぼ廃道化していた。しかし基本的には尾根を辿ればよいだけで、藪こぎというほどのこともなく、なんとか進める。要所要所に先の電線工事の現場がある。良い(?)道しるべともなり、工事の人達の踏み跡にも助けられた観もある。

 2時間ほど登ったあたりで急に良い登山道に出た。院内からのルートに合流したようだ。落葉した広葉樹の自然林の気持の良い路である。

  ↓ こんな感じ

f:id:sosaian:20151202014900j:plain

 しかしそれも15分ほどで、あっという間に舗装された林道の通る峠に着いた。そこからは完全に舗装された道を辿ればすぐに頂上である(11:40)。しかし頂上とは言ってもそこには巨大な通信施設がそびえ立っており、しかもヴォ~ンという大きな音を出し続けている。その脇に申し訳なさそうに神社がある。かたわらにある展望台に上がってみるが、今にも降り出しそうな空模様で、あまり展望も効かない。残念ながら今までに登った山頂の中でもほぼ最悪の山頂である。どこかのサイトで「愛媛の名峰」とかあったが、さすがにこれでは名峰とは言えないだろう。しかしまあ、これが私にとって初めての四国の山、しかも48年振りに再会した従兄弟とともに登った山とあれば、若干の感慨は禁じえない。

 時間のこともあり、早々に山頂を去る。舗装された林道を歩き、13:30に車デポに着いた。

  ↓ 右後方が巨大送信施設

f:id:sosaian:20151202014658j:plain

  その後、三津浜港まで送ってもらい、フェリーにで周防大島に向かう。美しき内海の多島海。是非晴れた日に見たかったが、残念ながら曇天。またこの航路をゆくことがあるだろうか。Sと共に彼の、同時に私の母の実家でもあったあの懐かしい山里の家にもう一度行ってみることがあるだろうか。缶ビール片手に僅かな旅情にひたる。

 その夜は周防大島のD荘別館なる宿に泊まる。ここがまた笑ってしまうくらいなかなかな宿だった。一つだけ記せば本館にある風呂に入ったのだが、その名が何と「演歌の湯」。文字通りコテコテの演歌が流れ続けていた。演歌の作詞家として有名な星野哲郎の出身地だからだろうが、演歌が流れ続ける温泉というのはさすがに初めてだ。何にしてもこれを最後にしたいものだと心底思った。

 

11月26日(木)曇りのち晴れ

 宿近くの東瀬戸バス停から乗り、すぐ先の三蒲バス亭で降りる(8:05)。文殊山とおぼしき方角へ車道を進む。

 ↓ 文殊山方面。いかにも西日本的景観。

 

f:id:sosaian:20151202015059j:plain

 棚田、蜜柑畑、点在する民家をゆっくりと愛でながら一時間少々で文殊堂に着く(9:30)。日本三大文殊の一つとあっても何のことやら良くわからないが、黄葉した銀杏の傍らに佇む堂宇の姿は好ましい。

 ↓ 文殊堂。左には海が見える。右の道を行く。

f:id:sosaian:20151202015253j:plain

 右側に延びる道を入ったすぐ先に登山道が合流する。やはり生まれ育った西日本南日本風の林相は懐かしい。歩きやすい山道を辿れば一時間足らずであっけなく文殊山山頂662mに着いた(10:20)。

 周防大島(正式名は屋代島)は「日本のハワイ」、その文殊山や嘉納山、源明山などの山々は「瀬戸内アルプス」と言われているというのを今回初めて知った。前者はここの温暖な風土と、かつてこの地からハワイに多くの移民が行ったという事実に拠るものでまあ納得できなくもないが、後者となると少々首をひねらざるをえない。しかし、気持としてはわからなくもない。昔は聞いた事がないから最近の観光上の命名ではあろうが。記紀源氏物語にもここのことに触れた記述が記されているというから、本当はずいぶん由緒ある島なのである。

 山頂は360度の大展望。傍らにまた立派な展望台が建っているが、無意味、有害でしかない。無い方がよっぽど良いのに。

↓ 文殊山山頂。360度の大展望。

f:id:sosaian:20151202015829j:plain

 ↓ 海峡と大島大橋。対岸の左のピークは琴石山。何年か前に登った。

f:id:sosaian:20151202015511j:plain

 休んでいると風が冷たく、強い。年配の夫婦が登って来た。この日会った唯一の登山者である。文殊堂まで車で来て、源明山まで往復するとのこと。元気なものである。

 嘉納山684.9mへの道は初め林道状のところを行ったりするが、すぐに山道となる。植林帯と照葉樹林を主とする自然林が交互する道は歩きやすく、気持が良い。ところどころ海を見ることのできるところがある。天候も次第に回復しつつあり、多くの島が点在する内海の風情は何とも言えない味わいがある。低い容易な山ばかりだが、九州~四国~中国と続いた山旅の旅情めいたものを感じる。

 ↓ こんな感じ。針葉樹の植林帯と照葉樹林

f:id:sosaian:20151202020129j:plain

 嘉納山の三角点684.9mは山道の途上にポツンと存在しており、山名表示板もなにも無い。そのすぐ先の691m地点のコンクリート製の遺構の中に685mの山名表示板が立てられていた(11:25)。この八角形のコンクリート製の遺構は旧日本軍の高射砲の台座。実際に使用されたことはあったのだろうか。ここからも海と島が見える。

 ↓ 嘉納山山頂

f:id:sosaian:20151202015949j:plain

 通信施設の脇から源明山に向かう。途中小さな岩場から海と今夜の宿がある安下庄(あげのしょう)が見える。

 ↓ 左は嵩山。右は安下庄。

f:id:sosaian:20151202020318j:plain

 のんびり歩きながら最後のピーク源明山に着いた(12:45)。頂上は小広い草地で気持が良い。そばにある大きな岩の上に立てば来し方が全望できる。意外と歩いたように思える。ここには四境の役(幕末)の碑がある。それは歴史的意味もあり、碑の存在自体はかまわないのだが、総理大臣佐藤栄作の名が記されている。どうしても政治家は自分の名前を残したがるのか。

 ↓ 源明山頂上。右は四境の役の碑。

f:id:sosaian:20151202020608j:plain

 ともあれこれで今回の旅の山はすべて終り。あとは今夜の宿、安下庄へ下るだけだ。これまでよりもさらに気持の良い山道を下ること15分で源明峠(13:20)。

 ↓ 源明峠への山道

f:id:sosaian:20151202020805j:plain

 ここには舗装された林道が上がってきているが、何か素朴な道である。左右どちらでも下れるが左の、源明集落から安下庄に直接下る道を選ぶ。舗装された林道ではあるが、ほとんど車は入っていないようで、落葉に埋もれて舗装面が見えない。ときおり椿の花やムベの実が落ちている。山の中でアケビではなくムベを見たのは初めてだ。新しそうな実を拾って少し食べてみたら完熟した甘みが口中に広がった。人家が近くなるとたわわに実った蜜柑畑も出てくる。

 ↓ 源明峠からの、これでも舗装された林道 

f:id:sosaian:20151202020914j:plain

 探すほどの事もなく予約していたH旅館にたどり着く(14:55)。五部屋(?)ほどの小さな、素朴なたたずまいの旅館だが、呼んでも誰も出てこない。玄関には鍵がかかっている。少し早く着きすぎたかなと思い、近くを少し散歩して戻ってきてもまだ帰っていない。何気なく隣の雑貨屋で聞いてみたところ、「つい最近御主人を亡くされて云々」「しばらく休んでいたけど、もうやっているんかい」という話。「一応予約はしたんですけどねえ」、「ああ、それなら大丈夫でしょう。ちょっと買い物にでも行っているんじゃないの」。再び外に出て散歩するも、なかなか帰ってこない。「つい最近」というのはいつのことだ。ひょっとして私が予約した後のことではないだろうか。もしそうだとしたら宿泊どころではないだろう。などと悪い想像が湧きはじめ不安になりだした頃、ようやく帰って来た。一安心。感じの良い宿であった。

 その夜は高校山岳部時代の女子の後輩と一献。旧交を温めると同時に、お決まりの老後の話やら健康の話になったのは当然のこととはいえ、お互い歳をとったということである。

 

11月27日(金)晴れ

 帰る日。

 海沿いを走るバスからの展望を楽しむ。わざわざ大島大橋手前でバスを降り、橋を歩いて渡る。冬型の気圧配置となり、快晴だが、風が非常に強く、寒い。この橋ができたのは1976年というから、すでに私が東京で暮らしはじめていた頃である。したがって私の周防大島のイメージは、橋のかかっていない頃の、あくまでも「島」であり、「島の山」だった。それゆえのあわい憧れをずっと持ち続けてきたということなのだろう。

 ↓ 大島大橋

f:id:sosaian:20151202021103j:plain

 ↓ ――― 旅の終わりの鷗鳥 浮きつつ遠くなりにけるかも(三好達治

f:id:sosaian:20151202021134j:plain

 大畠駅まで歩き、JRと新幹線を乗り継いで、夕方帰宅。新幹線から見た富士山と愛鷹山が実に美しかった。来年は愛鷹山にぜひ登りたいと思った。

 

 結局、五泊六日、九州、四国、中国地方の山と人を巡る旅は予定通り完遂した。風邪は悪化もしなかったが、良くもならなかった。その点からも、よくも計画の変更やら縮小やらしなかったものだ。我ながら珍しい。今回は行程の半ばは一人旅ではなかったが、こうしたスタイルの山旅に必要で、私の最も苦手とする、社会的技術というものがある。今回の旅ではそのへんのところで、多少なりとも今後に活かせる体験をしたようにも思う。これを機に、国内の一人山旅の幅を広げる試みもしてみたいものである。

 なお帰宅後四日たった今日も、風邪はまだ治っていない。

                          (2015.12.1)