艸砦庵だより

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『国会議事堂・四季山水画壁画』の謎 

 某月某日、安保法制施行の日、国会議事堂を見学に行った。私と国会議事堂-われながら似合わない組み合わせだとは思うが。

 外側の正門前では多くの人が抗議行動を行っている。私の居るべき場所はあちら側ではないのか。

 

 ここ数年、高校時代の同期で月に一度飲食を楽しむ集まりに、義理堅く出席している。そのメンバーの一人の勤務先が、国会議事堂だか衆議院だかなのだ。彼女Sさんもこの三月いっぱいで一応定年退職との由(ただし再任用とかで、勤務日数を減らしてもう少し現在の仕事を続けられるらしい)。お疲れ様でした。まずはめでたいことである。そしてそのあと、誰しもが20年前後の残された、人としての年月を生きることになるのだ。しかしそれはまあ、また別の話。

 その話題になった時、ふと、彼女がまだ勤めている間に一度見学に行こうではないかという話になった。平日にもかかわらず、賛同者が数名いた。物好きというか、好奇心旺盛なことである。

 国会議事堂には行ったことがない。東京タワーもスカイツリーもディズニーランドも行ったことはない。それらに行くことはおそらく一生ないと思うが、別に差し支えはない。国会議事堂も皇居も同様である、と思っていたが、昨年、国会前のデモに初めて参加して国会議事堂に対峙した時、その国会議事堂という建造物が妙に抽象的な迫力をもって見えたのである。国会議事堂とは一個の具体的建築であるにとどまらぬ、国家や歴史や民族などといった様々な意味においての、制度性そのものの実体化であることは言うまでもない。デモの側に立ち、シュプレヒコールをあげながら眼差すその先に、それは強固な幻影のように「きたなくしろく澱」んで建っていた。

   ↓ 昨2015年9月14日 戦争法反対のデモに参加している武蔵美有志の会の幟。芸大有志の会もこの日、幟を立てて参加していたようだが、場所が違ったせいか確認できず。

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  ↓ 眼差す先に「きたなくしろく澱むもの」。建築史的にはドイツのノイエザッハリッヒカイト(新即物主義)やナチス建築との関連が気になる。

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 当日11時に衆議院会館前で待ち合わせ。警官が異様に多く、煙草もすえない。案内は、これも奇遇だが高校同期のN君。議員秘書という立場である。県民性といったことは、私はあまり信用していないのだが、思いおこせば、私の高校の同期同窓には自衛隊防衛庁関係やら自民党関係やらの人間がけっこう多い。

 合流後、なぜかとりあえず敷地内の吉野家で全員、店舗限定とやらの牛重のランチ(味は可もなく不可もなし)をとってから見学に出発。

 内部のことについては、個々の感想はあるが、まあ、おおむね省略。一言だけ言えば、思っていたより質素というか、簡素な印象だった。1918年大正7年)にデザインが公募され、翌に選ばれた宮内省技手の案を参考にしつつデザインを大幅に変更して、大蔵省臨時議院建築局が実際の設計を行ったとのこと。途中いろいろあったようだが、着工から17年後の1936年(昭和11年)完成したとのことである(内容はウィキペディア等に拠る)。ほぼ100年前のデザイン・設計思想だから、現代の目からすれば質素簡素に見えるのも当然と言えば当然かもしれない。

 

 私が取り上げたいのは、議事堂内の絵、中でも中央広間の上部壁面にある4点の壁画についてである。

 ちなみに「壁画」というと「=フレスコ」と思う人がいるが、「フレスコ」とは、生乾き(=フレッシュ=フレスコ)の漆喰壁に水溶きした顔料で直接描いたものを言う。一般の絵画と異なり、「絵具」に固着剤は含まれず、顔料が漆喰壁に直接沁み込み、壁と一体化することで発色する。ヨーロッパの古い教会等の壁画は=フレスコでほぼ間違いないとしても、現代では、まして気候風土の異なる日本ではほとんど建築の壁面に施されることはない。あくまで「壁画=(フレスコ以外の技法で)壁に描かれた絵」か、「壁画=壁面いっぱいに設置されたキャンバス絵画」、ということである。議事堂のそれは遠望ながら、一見して油絵である。つまりおそらくは変形のキャンバスに描いたものを完成後、壁に設置したのだろう。

 写真を撮ることはできなかったので、帰宅後ネットで検索したらすぐに見つかった。さっそくこの欄に載せようとしてよく見たら下段に「著作権について」とあり、「ホームページに掲載している写真等の画像については、無断で転載・複製することはできません。写真等の画像を使用したい場合は、webmaster@sangiin.go.jpへお問い合わせください。」とある。なんだかなあ~、である。法的なことはわからない。かつて必要あって著作権に関する本を一冊読んだことがあり、今回もざっと調べては見たが、要するにわからない。だが、何となく得心がいかない。勝手に載せようかとも思ったが、しかしまあ、お上を相手に何かあっても分が悪いのは明らか。画像自体は「国会議事堂案内 写真集」

 http://www.sangiin.go.jp/japanese/taiken/gijidou/ph/ph23.html で簡単に見れるからまずはぜひそちらで見ていただきたい。しかし、何だかなあ゛あ゛あ゛~~。

 

 それはさておき、絵柄としては「壁面四隅に日本の春夏秋冬を描いた4枚の油絵の絵画がある。それぞれ、春の吉野山、夏の十和田湖、秋の奥日光、冬の日本アルプスをイメージして描いたもの(ウィキペディア)」である。そして「いずれも高名な画家によるものではなく、画学生の作品である」と続く。

 まずネットの画像を見ていただきたい。なんせここに画像は載せられないのである(現地でもらった『国会 衆議院へようこそ』というパンフレットの5ページ目にちらっとその一部が出ているが、小さすぎて参考にならない)。はたして日本の風景に見えるだろうか。私にはどう見ても堂々としたヨーロッパの、フランス、イタリアあたりのそれにしか見えない。アリバイとして日本の各地に取材しながら、それを透して描いているのはヨーロッパの風景、といった趣。画風としてはヨーロッパ世紀末絵画あるいは象徴派風といった感じである。だがそれはそれとして、何よりも意外だったのは、それらがけっこうしっかりした良い絵だったことである。

 

 日本における世紀末絵画あるいは象徴派絵画、そしてそれらと同時期のアールヌーボー等の受容移入については、ヨーロッパのそれとほぼ並行して行われるも、作品として一定の成果を見たのは主としてグラフィックの分野であった。

 絵画においては藤島武二(1867-1943)、青木繁(1982-1911)、小杉未醒(放庵 1881-1964)等に見られるような影響はあったものの、主流とはならなかった。したがってこの壁画に見られるような、堂々とした象徴派風絵画作品を、あまり目にすることはないのである。恥ずかしながら、私は今回実見するまでこの絵の存在を知らなかった。また不勉強のため、これに触れた文献も知らない。

   ↓ 藤島武二 左:「天平の面影」 右:「蝶」

  *掲載図版は本稿の内容と必ずしも合致するものとは限りません

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   ↓ 青木繁武二 左:「天平時代」 右:「わだつみのいろこの宮」

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   ↓ 小杉未醒 左:「一本杉」 右:「水郷」

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 ともあれ問題は、「いずれも高名な画家によるものではなく、画学生の作品である」の一文である。国会議事堂という、まさに国を代表する建築物に描かれた壁画の作者について、単にこれだけの記述しかなされていないというのは、異様である。「画学生の作品である」というが、画風、画格からすれば明らかに力量ある「高名な画家」の構想・指導によるものであり、それは一種の工房制作だと言うこともできる。そうした場合、その工房の主宰者の名を出すのは当然のことである。ルーベンスであれ、ボッティチェルリであれ、そう扱われている。したがって、ここでその画家の名を出さないこと自体が異例なのである。そして「画学生の作品」という言葉から推測すれば、おそらく「高名な画家」の指導・監督のもとに、その指導下にあった複数の「画学生」に実際の制作を担わせたという構図がすぐに思い浮かぶ。

 

 ではその「高名な画家」は誰かと言えば、これは簡単で、1918年のデザイン公募から1936年の完成までの間、ずっと東京美術学校で指導に当たっていた黒田清輝-藤島武二のライン以外には考えられない。藤島は黒田清輝(1866-1924)とともに1896年(明治29年)の西洋画科創設以来、昭和18年の死に至るまで指導に当たっていた。黒田は1924年(大正13年)に死去している。壁画がどの段階で依頼されたのかわからないが、東京美術学校(現東京藝術大学)は西洋画を教える当時の日本で唯一の官学であった。

 ちなみに、西洋画を教える私学として最初の女子美術学校が創立されたのが明治33年、武蔵野美術大学の前身、帝国美術学校が創立されたのが昭和4年であるが、前者は女子のみであり、また後者の昭和4年創立というのは時代的にも、また共に私学であるという性格からも、本作とのかかわりは考えにくい。何よりも官立の美術家養成機関としての東京美術学校と国家や宮中との結びつきの強さに代表される、その存在理由からして、それ以外は考えられないのである。

   ↓ 黒田清輝 「智・感・情」

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 ちなみにこの小論を書くに際して、美術とは関係のない二三の友人に話をしたところ、当然のように「東京美術学校東京藝術大学は国民の税金で運営されているのだから、国の仕事をする、国に奉仕する芸術家を養成するのが当然ではないか」といった反応が返ってきて、驚いた。戦前ならばともかくの、あるいは大学や学問の自主性・独立性といった観点をすっ飛ばして今に生きる「芸大=国立お抱え芸術家養成機関」という認識が一般社会の中で今なお健在であることを知り、めまいを覚えたのである。他の分野であれば、いかに国立大学とは言え、そうした反応はありえないだろう。しかし昨今の東京オリンピック新エンブレム選定に際し、東京藝術大学学長から文化庁長官に転じた宮田元学長の言説等を聞くと、そうした体質がいっこうに変わることなく、脈々と、むしろ誇り高く受け継がれていることを知り、暗澹たる気持ちになるのである。

 

 関連して、東京美術学校は官学だから当然アカデミックであろうと思われがちだが、その場合のアカデミズムはあくまで日本的アカデミズムと言うべきものである。

 黒田・藤島=東京美術学校系譜の前に1876年(明治9年)創立の工部美術学校が存在し、イタリアのフォンタネージ(画家としては黒田の師事したラファエル・コラン同様、純粋なアカデミストとは言えないが)によるヨーロッパアカデミズムの移入の試みがあったが、わずか15年後の1883年に廃校となるにおよび、日本における西洋アカデミズムの移入は中断された。その後、工部美術学校出身者を中心に組織された明治美術会が「旧派・脂(やに)派≒ヨーロッパアカデミズム」と呼ばれ、後の黒田らの白馬会の「新派・外光派・紫派≒日本的アカデミズム」に取って代わられたのは必然である。そもそも、日本におけるアカデミズムは時間差を伴う二重構造を成して出発したということなのだ。

 黒田がフランスで師事したラファエル・コランの画風は、印象派象徴主義の影響を受けた外光派とよばれるフランスアカデミズムとの折衷主義とされる。本国では半ば忘れられた画家であり、作品に確かに甘いところはあるが、私は嫌いではない。黒田とは一歳違いであっても留学は18年後の藤島武二の師フェルナン・コルモンやカロリス・デュランについて、私の知るところは極めて少ないが、フェルナン・コルモンはアカデミストではあっても新しい動向に対して寛容であったとのことである。何よりも20世紀を迎え「反官展を旗じるしにして創設されたサロン・ドートンヌに拠るフォーヴィストたち、マティスブラマンクらの活発な動きにも無関心ではなかった(『日本の美術10 明治の洋画』至文堂p.74)」のである。

 つまり日本的アカデミズムとは、その出発点において、黒田・藤島の留学体験に裏打ちされることによって、ヨーロッパ古典主義(フランスアカデミズム)と象徴主義印象派およびそれ以降の新しい動向との折衷として始まったのである。したがって、黒田と藤島の帰国後にもそうした折々の新しい動向との親和性は担保されており、その延長上に藤島や青木繁の浪漫主義も存在する。そして黒田や藤島が長くリードした日本の美術界においては、以後の様々な海外の新しい動向も意外なほどにスムーズに受容され続ける体質が形成されたのである。 

 ただし、当時の日本社会においては、そうした世紀末絵画や象徴主義の本格的な作品が生み出される土壌も必然性も余裕もなく、それ自体としては、いくつかの個人的な佳作をのぞいて短命に終わらざるをえなかった。ただし、そこで播かれた種子は、ほぼ同時に移入されたアールヌーボーを橋口五葉(1881-1921)などがグラフィックの分野において消化することを経て、竹久夢二(1884-1934)等による矮小ではあるが、日本的な開花を見せ、以後第二次大戦に至るまでの短い期間、独自の展開と結実を見せるのである。

  ↓ 橋口五葉

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  ↓ 竹久夢二

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 話を戻す。

 壁画制作の依頼が国からいつ来たのかわからないが、デザインが完成した1919年(大正8年)の時点で組み込まれていたとすれば、黒田はまだ存命中である。むしろ黒田が最初の依頼を受け、その死後、藤島がそれを引き継いだという可能性は高い。黒田と藤島は同郷、一歳違いのほぼ親分子分あるいは同志といってよい間柄である。フランス留学という経歴も共通している。画家としての同時代的困難も共通のものであったろう。それゆえに帰国後の風土歴史の異なる日本においては充分には開花しきれなかった彼らの若き日の象徴派的世界の実現を、壁画制作の依頼によって共有して夢見たのではなかろうか。

 藤島は晩年に宮内庁から昭和天皇即位を祝い学問所を飾る油彩画制作と、宮中花蔭亭を飾る壁面添付作品の制作の2つを依嘱されていた。それをきっかけに日本各地に取材し、風景画への関心が深まったとされることも傍証となるだろうが、何よりも本作に見られるある種のロマンチシズムは、藤島のそれとかなり共通したものを持っているのである。そこにはまた、黒田がかの地で体験したであろう象徴派との類似も、見てとることができる。

 これらの点から本作を構想し、主導したのは黒田清輝―藤島武二のラインであり、わけても黒田の死の時期を考えれば、実質的には藤島武二であったと結論付けることができよう。

 

 次の問題、「画学生」とは誰か。

 画学生とあるからには、本作の制作当時美術学校に在籍していた、つまり昭和11年以前の卒業生であると仮定してみる。「画学生」としか記されていないから、一人と読むこともできるが、この場合やはり複数いたと考えるのが自然だろう。

 試みに手元にある『杜 杜の会 会員名簿 平成16年版』(東京藝術大学美術学部同窓会 発行)を見てみる。いわゆる同窓会名簿、卒業生名簿である。

 さて、私はその名簿から何を読み取れば良いのか。毎年40名前後記された当時の卒業生たちの氏名を漠然と眺めてみる。意外にというべきか、当然というべきか、知っている名前、つまり、後年画家として名を残こした人の、数の少なさに愕然とするのである。

 とりあえず、該当すると思われる年次の、私が画家として多少なりとも知っている人の名を以下に書き出してみる。

 昭和7年卒 石川滋彦

 昭和8年卒 角浩

 昭和9年卒 西村計雄 川端実 山川勇一郎 佐々木孔

 昭和10年卒 井出宣通 

 昭和11年卒 香月泰男 寺田春弌 

 昭和12年卒 松田正平    

 他は、さっぱり知らない人ばかり。全て故人である。死屍累々の点鬼簿といおうか。まあ、美校卒、芸大卒だからといって後世に名を残す画家になれるのはほんの一握りなどということは、とっくに承知のことだから、どうと言うことはないが。

 

 いずれにしても本作にたずさわった「画学生」の探索は、卒業生名簿をひもといてみても何もわからないということだ。仮に上に挙げた人の誰かが本作にかかわったとしても、後にそれぞれ画家として確立した画風は、そのおりおりでの現代風のもので、世紀末風、象徴派風とは無縁である。むろん、上記以外の学生がかかわった可能性はある。むしろ高い。

 東京藝大はその性格からして、従来から迎賓館をはじめ、あちこちの修復事業にかかわっており、私の知っているだけでも、何人かの知り合いが学生時代に体験したことがあると言う。学生にとってはアルバイトの要素もあろうが、何よりもその技術がなければ声もかからぬのであるから、やりがいもあるかもしれない。しかしそうした経歴と、画家として大成する、あるいは画業を継続するということは、直接は関係のない話である。またそうした修復事業の場合は、一職人一技術者としての学生の名はどこにも記されないのが普通かもしれない。だが、本作は性格が大きく違う。当然その名が残されてしかるべき創作的事業である。『芸大100年史』とでもいったものがあって(おそらくあるとは思うが)、それでも見れば記載されているかもしれないが、遺憾ながら私は見たことがない。

 

 それにしても、やはり不思議である。一国の象徴たる国会議事堂の正面広場(それは最も晴れがましい場所である)の壁画の、作者名も正式な題名もわからないということが。そんな国がほかにあるだろうか。それともどこかには記録が残されているにもかかわらず、単に求められないから公表されていないという程度の話なのだろうか。

 本作は、質の高さからいっても、かなりの重要性と面白さを持つ作品である。また美術史的観点からも、稀有とは言わぬまでも、かなり珍しい部類の作品であることは間違いない。にもかかわらず、私はこんな良い絵、美術史的にも価値のある作品が、こんなところにあることを、今回まで知らなかった。不勉強と言われればそれまでだが、今まで見た、読んだ本、資料で見たことがないのである。美術史的にはほぼ黙殺されている。それがこの『国会議事堂・四季山水図壁画』なのである。

 

 おそらく主宰者であったと思われる藤島武二の名前が、表に出ない理由とでもいうものが、あるのだろうか。それともそれは、単なる無関心の結果にすぎないのだろうか。だとすればそれは、議事堂を拠点とする日本の政治家たちの文化に対する無関心の現れであり、美術関係者、わけても美術史家の無関心の現れでもあると言えよう。民衆はその力量に見合った政府しか持つ事ができないという論があるが、それに則って言えば、吾々は自国の国会議事堂の壁画にも関心を持たない程度の文化しか持ち合わせていない国民なのであろうか。

 

 ともあれ、壁画の完成を1936年(昭和11年)として、既に80年たっている。制作した当時の画学生も1910年前後の生まれだから、共同制作にしてもほとんどの方が亡くなられているはず。画家の手から離れ美術館に入っている作品でも、著作権は確か制作者にあるはず。国会議事堂が堂々と主張している以上、まさか法的な手落ちがあろうとも思えないが、現物でもHP上でも一般に公開しているものを「画像については、無断で転載・複製することはできません。写真等の画像を使用したい場合は、webmaster@sangiin.go.jpへお問い合わせください。」としているのは文化的な手落ちであると言いたい。今日世界中の美術館の多くですら、写真撮影はOKとなっている。したがって、少なくとも、もっと親切であってよい。なぜならば、国会議事堂にある絵は全ての国民のものだからである。

 本作はもっと広く世に知らしめてよいというか、知らしめるべき作品である。それが図版一つ自由に引用転載できないという現実。こうしたエアポケットのような体験を、誰に八つ当たりすればよいのか。むろん私はイチャモンと承知しつつ書いているのである。

 

 付け加えれば、本作は発色の面から見て、保存状態は良い。比較的最近修復されたのではなかろうかと思われるが、にもかかわらず、「秋の図」には何ヶ所か剥落跡ではないかと思われる複数の白い点が見える。そうだとすれば、緊急の対応が必要と思われる。この点でも問題を提起しておきたい。

  

 蛇足と承知しつつもう一点。『国会議事堂・四季山水図』以外にも議事堂内にはあちこちに現代の作家の作品がかけられている。日本画では大山忠作(日展)、上村淳之(創画会)等、洋画では中山忠彦(←やや記憶が曖昧 日展)、奥谷博(独立)等である。他にもいくつかあったが、その時はさほどの興味も持たずにその前を通過した。通過したのは私が知らない作家、魅力を感じない作品が多かったせいもあるが、それらの多くは節電のためか照明も当てられておらず、照明が当てられているものも、なんとも的をえない当てられ方であったせいでもある。

 絵はかけられているが、しかるべき照明もちゃんと当てられていないということ。この点でも国会議事堂という日本を代表する場において、文化(絵画作品)に対する関心見識のなさを、おのずからさらけ出していると言えるのである。

 

追記

 この一文は実見後、比較的短時間で書いた。論文のつもりではないから、検証性において不十分な点が多いことは自覚している。そのため、内容について、実際には私の無知からくる過ちや誤解が含まれているかもしれないことは予想できる。もし、作者やその経緯等について御存知の方がおられたらぜひ御教示願いたい。

                         (記:2016.4.17)