艸砦庵だより

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46年目の達成 霧の秘密尾から馬糞ヶ岳へ(2017.11.8)

 前稿に続き「ふるさとの山 その2」なのであるが、46年前の高校生の頃、故郷防府からは旧鹿野町(現:周南市)や錦町(現:岩国市)は遠いところだった。したがって同じ山口県ではあっても、寂地山や馬糞ヶ岳を「ふるさとの山」とよぶには、少々違和感がある。私にとって「ふるさとの山」と呼べるのは、やはり佐波川の流れる防府平野を囲繞する山々であろう。

 

 それはそれとして、高校2年生だった1971年12月25~26日に、長野山から縦走して馬糞ヶ岳を目指したことがある。当時としてはそれなりに意欲的な計画だったが、その時は時間切れで結局、馬糞ヶ岳手前のドウギレ峠から西の秘密尾という名の集落に降りた。目的の山頂に登れなかったという残念さとともに、秘密尾といういわくありげで魅力的な地名が深く記憶に刻みつけられたのである。馬糞ヶ岳という全国でここだけという珍しい山名も同様であるが。私は今でも地名というものに大いに惹かれるところがあるのだが、思えばこれが最初のきっかけだったのかもしれない。

 今回の帰省登山=秋山合宿(?)では、当初の心づもりでは山麓二泊程度の九州か四国の山と考えていたのだが、諸般の情勢から県内日帰り山行×2となった。その方がこちらとしては有難い=楽というのも正直なところではある。したがって馬糞ヶ岳の名が出た時、何の異存もなかった。

 調べてみると秘密尾周辺の林道工事が進んでいることがわかり、急に興味が薄れ、まだしも歩行距離の長くとれる東側の谷合いの高木屋(地形図には谷あいと尾根上に二カ所記載されている)から北北東の尾根上の高木屋に降りるコースを提案した。しかし、前稿に記したように、当初晴天の6日に登るはずだったのを8日に替えたことによって、天気予報は雨後晴れと変わり、短時間で頂上を踏める秘密尾からのコースに決定した。結果としては、これはこれで正解でもあった。

 

11月7日

 山口県立美術館で「奈良 西大寺展 叡尊と一門の名宝」と「雪舟発見!展 発見!幻の雪舟」を見、N法律事務所を訪れる(気まぐれ)。その後、毛利博物館で「特別展 国宝 雪舟筆『四季山水図(山水長巻)特別公開』」を見、KJ氏とS氏に会う。S氏とは偶然。夜、高校同期数名で飲み会。

 

11月8日水曜 曇り・霧

 前夜の飲み会の名残りの、多少酒の気の残る頭で7:50、K宅を発。富海でS嬢をピックアップ。一路登山口の秘密尾を目指す。例によって土地勘のない私は、どこをどう走っているのかさっぱりわからない。曇天、霧模様の川沿いの道は、すでにそれだけでどこか神秘的で、これから目指す秘密尾の名にいかにもふさわしく思われる。

 近づくにつれて山あいの道路はせばまり、ほとんど人家も見えず、車も通らない。そんな中、向こうからやってきた白いタクシーとすれ違った。こんなところにタクシー? 駅からは相当な距離がある。乗客は乗っていない、と言っていたら、Kが「おばあさんが一人乗っていた」と言う。K以外の三人にはそんなものは見えなかった。別にオカルト話に興味はないが、まあそんな雰囲気はあった。

 

 終点の秘密尾・氷見神社入り口で周防大島と周南から参加のF嬢、W嬢と合流。車をデポする。

 

 ↓ 舗装された林道を歩き始めたあたり。常緑樹の中に点在する紅葉。

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 舗装道路はそのまま奥にも延びているようだが、右の札ヶ峠方面に延びる林道を進む。雨は降っていないものの、あたりは霧の世界。左から入ってくるはずの古い山道を探しながらゆくと、30分ほどで幅の広い荒れた道があった。山道というよりも林道の法面の工事用のブル道かとも思われたが、とりあえず入って見る。しばらく行くと幅も狭くなり、山路らしくなる。

 

 ↓ 舗装林道からブル道を登り、古い山道になったあたり。

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 ↓ 薄暗い植林帯

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薄暗い植林帯を過ぎると、突然広大な伐採地に出た。縦横無尽といってよいほど伐採用の車道が走り、無惨な明るさが広がる。本来の山道は見出しようもないが、何とか見当をつけて進むとどうやら今現在の、林道から直接登ってくるらしいルートと合流した。そのすぐ右手の尾根が昔からの山道=登山道であった。

 

 ↓ 皆伐地帯 縦横に車道が走っている

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 ↓ 一応ここが今現在の正規ルート

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 辿り着いた尾根のすぐ先が札ヶ峠。弘化三年と記された道しるべが建っていた。私は道しるべというものが好きだ。それが古ければ古いほど、なぜか暖かい気持ちになる。おそらく昔の人たちの生活というか、人生を少しだけ垣間見れるような気がするからだろう。

 一つの面には「右 すま 左 ひろせ」、別の一面には「右 ひみつを 左 すま」と刻まれている。弘化三年は1846年、180年前のもの。ちなみにその面には「世話人 谷屋完左衛門 石工 藤左衛門」とも記されている。世話人はともかく、石工の名前まで彫られているのはちょっと珍しいように思う。少しほほえましい。

 

 ↓ 札ヶ峠の道しるべ 味わいのある筆跡                        (なぜか二つの写真の間にスペースがとれない。誰か教えてくれ。)

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 ↓ 藤佐衛門さんの仕事です

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 工事用の道から解放されて尾根上の道を辿る。右が自然林、左が伐採地だが、霧が幸いして皆伐された伐採地も見えず、気にならない。むしろ凄絶というか、夢幻の境を行く思いで味わいが深い。

 30分ほどで傾斜の落ちた笹原に出た。ここから尾根は右に曲がるが、前方にも延びているようで、薄いながらも踏み跡があるように思われた。そのためこの地点を910m圏の長野山への分岐だと誤認してしまった。何せ霧のため遠望がきかないのだ。そのためその後の山行中何か釈然としない思いに付きまとわれたのだが、帰宅後よく地形図をみてきたらそこは860m圏だったようだ。霧のなせるわざか、単なる読図力不足か。

 

  ↓ 霧の中の登高 凄絶というべきか 夢幻というべきか

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  ↓ 霧の中 夢幻

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  ↓ 黄葉の楓 これは夢幻というべきであろう

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 傾斜の落ちた幅広い尾根を進む。楢を主とする落葉広葉樹帯から背丈ほどの笹原へと続くルートは、不思議な霧の世界。葉は色づいているが、みな黄色のものばかり。これから赤くなるのか、それともそういう種類なのか。霧の中、ときおりいくつかの巨岩が現れる。

 

  ↓ 馬糞 横皺あり

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  ↓ 背を没する夢幻の笹

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 地図を読み違えていたせいで、どうも頂上が遠すぎるなと不安を覚えてきた頃、新たな分岐に出た。先ほどすでに長野山への分岐は通りすぎたと思い込んでいたため、現在地がわからない。とりあえず男子が二手に分かれて偵察してみる。私が進んだ左の路はしばらく行くと高木屋への標識があった。それでますますわからなくなった時、右の路に行ったKから「こっちだよ」のコール。分岐に戻って合流し、右手の路をしばらく進みほんの一登りであっけなく、ぽっかりと開けた馬糞ヶ岳985.3mの頂上に着いた(12:25)。

 

  ↓ 山頂にて 46年後の元高校生たち

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 やれやれ、何はともあれ、良かった。一等三角点の山でもあり、展望は良いはずなのだが、霧のせいで何も見えない。しかし46年ぶりの目標達成というか、久恋の山頂なのだ。Kや昨年から山行を共にするようになったF・W・S嬢はともかく、Tと山に登るのは彼が高校1年の時の新人歓迎山行以来である。うれしくないはずはない。そんな感慨にふける私をよそに、さっさと昼食が始まる。

 

 1時間後、下山開始。天気が良ければ長野山方面に進み、46年前の中退ルートに選んだ、途中のドウギレ峠から秘密尾に下るという選択肢もないではなかったが、当時でも荒れていた(記憶がある)路はあてにできないし、何よりもこの霧である。おとなしく往路を戻ることにする。

  先ほど迷った分岐で、下に落ちていた頂上の方向を示す標識を発見した。これを見つけていれば迷わなくても済んだのに…。再び現れる巨岩を見ていると、これが馬糞の名の元なのではないかと思い当たった。それらしい横皺もよっているし。山名考証としては、平家の落人の騎馬武者三百騎が云々という伝説や、遠くから見た形態説もあるらしいが。

 

  ↓ 夢幻の中の馬糞

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  ↓ 笹がないと歩みもはかどる

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 濡れて滑りやすくなった下りで尻もちをついたりしながらも、何とか順調に峠まで戻った。途中、平均年齢70歳を超えるかと思われる男女三人パーティーと遭遇。すでに午前中に一山登ってきたとのこと。元気で何よりというよりも、ちょっと頑張りすぎというか、慾をかきすぎではないかとも思うが、まあ、それはむろん余計なお世話というものだろう。

 峠からはすぐ眼下に見える林道に直接下りる。やはりそこが現在の正式の登山口であるらしく、標識が立っていた。あとは舗装道路を歩くだけ。

 

  ↓ 左上は桐の実 手にしているのは用意周到なアケビ採り用の木の枝

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  ↓ 路上のアート 落葉篇

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 常緑樹の中のときおりの紅葉を愛で、アケビ採りにチャレンジし、あれやこれやと駄弁りながらのんびりと車デポ地の氷見神社入り口に辿り着いた。簡単に着替えて、帰りがけの駄賃に、奥社がいまだに女人禁制だという氷見神社にお参りして、山行を終えた。

 

  ↓ 謎の氷見神社若宮 写真には写っていないが神社なのに右手に大きな釣鐘があった。

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 標高差522m、一カ所の読図ミスによる不安はあったものの、ルートそのものは特に問題になるところもなく、霧がかえって幸いし、夢幻的ともいうべき、印象に残る山行となった。

 あとは途中の石船温泉に一浴し、帰るだけである。その途中で「路上のアート」というか、ある種のアウトサイダーアートと言ってよいような面白い造形物群を見つけたのであるが、これについては別のカテゴリーで取り上げてみようと思うので、ここではふれない。

 

 以上で山行記録としては終りのはずだったのだが、帰宅後調べてみると色々と面白いことがわかってきた。ちなみに私は当然ながら、山行前にある程度の研究や調査はするのだが、それは主としてコース・ルートやアクセスなどに関すること。それに対して下山後には、実際に現地で見たものやコース・ルート以外で興味をひかれたもの・事に範囲を拡大して、記録を書きながら、あれこれと事後学習することが多い。やはり実地に見、体験したものから発して、調べ、考えるというのは、個人的体験から普遍化へというほど大げさではないにしても、世界が広がるというか、面白いものである。

 

 さて、神社に関して基本的にあまり興味のない私は、氷見神社についても、そのときは特に何の興味もわかず、入口にあった説明板もロクに読まず、写真にも撮っておかなかった。しかし、帰宅後調べてみたらこの氷見神社というのが実はなかなかたいしたものだということを知った。とりあえずウィキペディアの以下の記述を紹介しておく。

 

 「祭神は、闇於加美神ほか」、「平安時代の歴史書にもその名を残す由緒ある神社で、貞観9年(856年)に須万村秘密尾に創建されたと言われている。~(中略)~「露嶋宮」とも呼ばれ、若宮のほかに、山の中腹に中宮があり、山全体を上宮としている。上宮である奥社は今でも女人禁制である。の行場としても有名で、明治時代には神道家の川面凡児がここに籠り、神道の修行法を編み出したと言われている。現在でも山口県下の神官たちの禊ぎ行場として使われている。~(中略)~伊勢神宮同様、「遷宮祭」も20年ごとに行なわれており、二つの御社地の宮を交互に建て替えている。山口県下で遷宮を行なっているのは氷見神社だけである。」

 

 闇於加美神(くらおかみのかみ)というのは、私は初めて聞く名前だが、基本的には水の神・龍神とみなされているとのこと。「露嶋宮」という名のいわれは何なのだろう。「氷見」との関係は? それにしても何と千年以上前からあんなところにあるとは! あんなところと言うのは失礼かもしれないが、実際、平家の落人伝説はともかくとしても、現在人は住んでいるのだろうか? 限界集落どころではないように思われる。神社周辺に人家は見えなかったように思うが、地理院地図を拡大してみると神社の手前に道路を挟んで2軒の建物記号が記されているが、実際はどうだったのだろう。また46年前に私たちはそこを通過し、石ヶ谷集落の先の中村集落まで歩いたように手持ちの地図には赤線が引かれているが、その時何軒の家があったのかは当然記憶にない。 

 いずれにしても昔も不便であったことは間違いないであろうこの地に、なぜこのような規模の神社が存在し続けてきたのだろう。いや、それ自体は特殊なこと、不思議なことではないのかもしれない。20年ごとの遷宮も単に古式を守っているに過ぎないのかもしれない。

 

 吾々の行ったのは若宮(まで)である。そこでは20年ごとに遷宮(二ヵ所での交替で移動建て替え)ができるようなスペースはなさそうだから、遷宮されるのはその奥、中腹にあるより小規模と思われる中宮なのだろうか。さらにその奥に女人禁制とされているという上宮(奥社)があるということだ。

 神社の裏手に回ってみたが、確かに踏み跡は奥へと続いている。しかし地理院地図には若宮の所在しか記されていない。ネットで探してみても若宮から上宮までの全体が描かれた地図は見いだせなかった。そもそも「山全体を上宮としている」というが、その山とは具体的にはどの山(ピーク)を、あるいはどの範囲を示すのだろうか。地理院地図を見ると、神社の裏から直接始まっているわけではないが、神社の左手の沢の右岸沿いに928mピークまで道記号が記載されている。それはピーク直下で二分し右はピークをこえて反対側の五万堂谷へ下り、左は南の尾根を下って再び神社近くに降りている。この道が中宮~上宮へと至る路だとすると「山全体を上宮としている」にしても一応この928mピークを奥社あるいはその象徴と見ることができる。山麓にある神社の奥社は、その上の山頂(ピーク)に置かれている場合が多いからである。しかし見方によっては支尾根上の一突起にしかすぎない928mピークよりも、その西北西に位置する、沢筋を北に登りつめた990m圏の幅広くなったあたりの方が奥社にふさわしいようにも思える。

 前回の遷宮が2011年だったということだから、次回は2031年か。生きている可能性は半々か。せめてそれまでにこの神社裏手の踏み跡と、この沢の右岸の道記号を辿って上記の疑問を晴らしに、中宮と上宮を訪れてみたいものである。ともあれ、あれやこれやと興味はつきない。どなたかこのあたりについての良い郷土誌資料でも探し出してくれないものかしら。

  

 山から下りてからの事後学習が面白い、好きだと書いた。その対象の多くは歴史と民俗学的なものである。したがって郷土史・郷土誌的な文献にあたるのは必須だが、やはりそこには興味度の深浅ということがある。縁もなじみもない土地に興味は持ちにくい。私は以前、越後の下田・川内山塊と呼ばれる一帯に入りびたっていた頃、そうしたことに対する面白さを知った。しかし、そこでの沢登りや四季を通しての山行を実践することがなくなった現在では、もはやほとんど興味がなくなったというのが正直なところだ。

 今現在住んでいる東京都あきる野市や隣の檜原村にも、意外なほどにそうした面白さはあるのだが、やはり愛着とまではいかない。にもかかわらず、もはや住むことはない(であろう)山口、防府に対するそうした興味が、あらためて湧き起っているのを感じるのである。かつて住んでいた頃、あるいはいずれ帰るべきところだと思っていた40歳台までは、実地体験する機会がほとんど持てず、また文献等との出会いも少なかった。皮肉なものである。今さら秘密尾やら狗留孫山などに興味と愛着を持ってみたところで、やはり今後とも実地に体験する機会がそう多くあるとは思えない。そう思っているにもかかわらず感じるこの愛着、やはりそれがふるさとというものなのであろうか。「ふるさとは遠くにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」であるか。

 「読み、書き、登る」と記したのは、確か、ヒマラヤ登山のパイオニアの一人ではなかったか。事後学習ということで言えば、ささやかではあっても、私もそのようでありたいと思う。

 

 ↓ 青線が1971年のルート 赤線が今回のルート 例によってうまく地図ソフトが使えず(持っていず?)、見づらくてすみません。

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同行:K(高校同期) F嬢・W嬢・S嬢(高校1学年下) T(高校2学年下) Thanks!

【コースタイム】2017.11.8 霧 

秘密尾・氷見神社入り口車デポ10:00~林道から登山道へ10:40~札ヶ峠:現登山道と合流11:20~長野山分岐~馬糞ヶ岳985.3m山頂12:25/13:25~林道現登山口14:35~氷見神社車デポ15:00~石舟温泉入浴

 

追記

「法師崎の山歩き」(http://www.geocities.jp/houshizaki/bahungatake2.htm)の「馬糞ヶ岳(ばふんがだけ)山口県周南市鹿野」(2011年9月27日)に奥宮(遠望)と中宮の写真が出ているのを見つけた。「ゴムタイヤの恐竜」の写真も出ていた。(2017.11.16)