前回の山行からまた中一ヶ月以上空いた。不老山からの帰途自覚したとおり、B型インフルエンザに罹っていたのである。合わせて、これまで経験したことのない、やや重めの花粉症の症状を呈してきた。以前は無縁だったが、ここ2,3年はごく軽い症状が出るようになってはいたのだが。B型インフルのせいで、免疫力が落ちてきたせいなのだろうか。さらに遅ればせながらといった感じで案の定、気管支炎を発症した。例年、一度ぐらいは風邪をひく。三日ほど寝込んで、気管支炎までいって、治るまで2週間というのがお決まりのパターンなのだが、今回は上記三つの症状がもつれあって、ほぼ一ヶ月間、ダメダメの状態。ついでながらというわけでもないが、やはり前回の山行後も左の股関節の具合が芳しくない。変形性股関節症?という疑いが頭をかすめる。
そんな時に若いアーティストのA君から連絡があった。良い作品を描いている、将来を期待したい作家である。都内で開かれるあるアートフェアの出品作家に選出されて東京に出てくるので、その最終日に搬出が終わってから泊めて欲しい、ついでに翌日一緒に高尾山に登りませんかと言う。
彼とは歳は25歳も違うが、彼の大学時代の師が私の友人だったことから、3、4年前から付き合いが始まった。現在、奈良県天川村在住で、実家のご両親が経営している稲村ヶ岳の山小屋と麓の民宿の跡継ぎである。昨年春には彼のところに行き、八経ヶ岳と稲村ヶ岳を目指したのだが、悪天と例年にない残雪の多さで観音峯山に転進という、不本意な結果に終わった。そんな環境だから自然と修験道あたりに興味を持ち、その関係で研究(?)と取材を兼ねて、高尾山に登りたいということだ。
高尾陣馬山周辺では北高尾山稜、南高尾山稜、矢ノ音~陣馬山などには登ったがメインの高尾山~景信山には行ったことがない。というか、高尾山には一生行かないつもりでいた。有名な観光地で、登山の領域ではないと思うからである。いうまでもなく、人の多いところは嫌いなのだ。
しかしまあ、縁というか、思いもかけぬ外部からの誘いに乗るというのも悪くはない、と思うぐらいの智恵は、最近ついてきた。話に乗ることにした。体調の方は、一応は回復気味。あとは、まあ、出たとこ勝負である。
前夜遅く作品を積んだ車でA君、わが家に到着。だいぶ疲れているようだが、まずは一献。飲みつつ明日のルートなどを検討。ゆっくりと出発し、京王高尾山口駅からケーブルカーなどを使わず登り、尾根上はなるべくメインルートを行き、寺社等を見て、修験道の名残りを観察する。最低でも小仏峠まで、できれば景信山までと、ざっくり決める。
明日があるから自重しようと言いつつ、話が美術芸術の方面になるといつしか杯が重なる。本当に明日行くの?などと言う会話になり始めると、雲行きが怪しくなる。前回もそうして結局登らず終いだったのだ。未明3時頃、就寝。
調子にのって飲みすぎた報い(私だけだろうが)で、武蔵五日市発10:36の電車に乗った時には明らかに軽めの二日酔いというか、酒が抜けていない。息が酒臭い。
初めて下りた京王線高尾山口駅前には大きな案内板がある。案内図を見て、2.5万図を確認して、いきなり逆方向に歩き始めるていたらく。本当は、私は方向音痴なのだ。われわれもそうなのだが、こんな時間なのに、これから登り始める人も多い。
ケーブルカー駅を右に見て沢沿いの道を行き、大きな病院の敷地を抜けた先に道標がある。そこからがいわゆる登山道となる。
↓ 登り始め
↓ こんな感じ 岩混じり木の根交じりだが歩きやすい
すぐに峠状のところから右に尾根上を行くようになる。このあたり、岩混じり木の根交じりだが、道幅は広く、多くの人が歩いているようで、快適である。周囲も案に相違して自然林であり、気分は良い。案外これは期待できるかと思った。上から下りてくる人も多い。明らかに観光客風の人の割合も多い。
↓ 振り返り見る。この時、カメラのどこかのボタンを知らないうちに押してしまったらしく、いろんな画質の写真が何枚か映っていた。ちょっとおもしろかったので、そのうちの二点を載せてみる。
↓ その2 モノクロハイトーン
↓ その3 絵画調
しかしこの気持の良い尾根も30分ほどで主尾根に上がると、そこはもう世俗まみれの観光地。外人さんも多い。予想通りだからしかたがない。いろんな楽しみ方があるのだから。「絶景」の看板のある展望台に行ってみるが、春霞に煙る都心方面にも気は惹かれない。
↓ 十一丁目茶屋(?) 奥が展望台
↓ 参道杉並木の「たこ杉」 見えにくいが右下の根のコブが「たこ」? 立派なものだ
戻って主尾根上の1号路というメインルートを辿る。高尾山全体に1~6号路と他にいくつか○○コースというのが設定されており、整備されているようだ。1号路の前半は舗装道路。多くの観光客に交じっていくつもの寺社、御堂をのぞきながらゆく。
↓ 戦没者慰霊碑かと思ったら「林野庁 殉職慰霊碑」だった。ちょっと珍しい存在?
↓ 高尾核心部の入口の山門
↓ これは不動だろうか、烏天狗だろうか。よく見ていない。
寺社に興味がないわけではないが、仏像を直接に見れないところには、学術的要素以外にさほど興味を持てない。私は、美術という観点をのぞけば、仏教であれ神道であれ、宗教に対しては、否定するものではないが、基本的にその一部に根源的なウサン臭さを感じるのである。ましてや、こうした古くからの観光地としての性格もある場、修験道という土俗信仰との習合的宗教に対してはなおさら。とはいえ、そうした冷めた目で見ても、それなりに面白いものも、なくはない。
↓ 薬王院本堂(だったと思う?)
それはそれとして、行基が開山した薬王院の当初の本尊が薬師如来であり、現在は真言宗の寺院である、というのはわかる。しかし、開山後100余年ほどで、神仏習合や修験道化の果てに本尊が現在の飯縄大権現(白狐に乗った烏天狗:本地は大日如来 なぜ大日が烏天狗?)に変更されたというあたりになるとよくわからなくなる。いや、権現(かりに現れる)だから、それもありなのか。
しかしそれにしても、飯縄(イイヅナ、イズナ)とはイタチの一種のイメージを借りた管狐(クダギツネ)という妖怪(漫画『うしおととら』:藤田和日郎 にもイズナとして出ていた)に変化してゆくものであり、そのあたりも理由の一つなのだろうが、その教義はかつては邪法外法とされたものである。つまり神としては、相当に地方的、土俗的な、もっと言えば下等な位置づけの存在と言わねばならない。さらにそれがオサキ・ミサキ信仰へと変化転化していくあたりも、「真言宗智山派の大本山」にふさわしいのかどうか、もう理解できない。密教の怪しさと言うしかない。その辺が、修験道とは本質的に、中国の道教にも似た、あらゆる要素を併吞してゆく土俗的民俗信仰ということなのであろうかと、不勉強ながら憶測するのである。
↓ こちらは飯縄大権現堂(だったと思う)
ともあれ、薬王院からその上の飯縄大権現、不動堂へとめぐっていく。いずれにも、そうした渾然とした諸神を平気で楽しく(?)信仰した市井の人々の支援のあかし、講というスポンサーの存在があちこちにはっきりと記されているのが、面白いといえば面白い。
↓ 講とは言えないだろうが、スポンサー。しかしさすがにやりすぎではないか。奉納というより宣伝。
↓ 寺社群が終わると高尾山頂に向かって途中まで板敷の道
それら寺社群が終わった少し先が、三角点の設置された頂上広場。ここまでがまあ、観光地エリアであろう。多くの人はここから引き返すようだ。昼食を食べ、一休憩後、先に進む。
↓ 高尾山頂の三角点に立つ大峰からきた赤天狗その1
↓ 同じく赤天狗その2
「ここから先 奥高尾」の表示があり、やっと少し自然の山の雰囲気となる。ちょっと感じの良い茶屋のかたわらを過ぎ、木の階段が設置された幅広いなだらかな山道を歩く。さすがに行き交う人も、観光客ではなく山歩きの人ばかりとなる。ところどころに展望台などがある。悪くもないが、さほど面白みはないルートである。
A君は快適に歩む。私の方は一応歩くにさほど支障はないが、左股関節にはずっと鈍い痛みがある。A君はそれなりに気遣ってくれているようだ。
↓ 「奥高尾」に入る。ほっとする茶屋の風情
↓ 一丁平の東屋の横 白樺数本
何本かの白樺も生えている一丁平で15時近い。展望台からは春霞のせいか、富士は見えない。出発が遅かったせいもあり、そろそろ下山のことも考えなければならない。とりあえず小仏城山まで行く。アンテナ、茶屋、多くのベンチがある城山頂上に着いたのが15:23。
↓ 小仏城山山頂 左の造形物は何? 必要なのか?
ここは何年か前に小仏峠から南高尾山稜を歩いた時に通過したところだが、ほとんど憶えていない。日は長くなってきたが、夕暮れの気配がし始めてきた。景信山まで行くとちょっと遅くなりそうだ。股関節お試しハイキングとしては充分だ。ということで、この先の小仏峠から下りることにした。
↓ 広い小仏峠
前回、小仏峠には逆方向相模湖方面から登って来たのだが、古くから知られた甲州街道の要衝ということで興味があったせいか、多少の記憶がある。右に良い道を下ればほどなく舗装道路に出た。そこからバス停まではすぐだった。10分ほどの待ち合わせで来たバスに乗ってJR高尾駅へ到着。
↓ 峠の石仏 少し肉厚な彫りが素朴。手前の造花との対照が面白い。
自分からは一生行くことはないと思っていた高尾山に、とうとう登ったわけである。A君の修験道研究の一環に付き合ったわけだが、山登りとしては、最初の登り始めの尾根をのぞいては、あまり面白いものではなかった。しかしまあ、それは予想通りだからよい。
山とは関係ないが、この日は私の誕生日だった。63歳になった。変形性股関節症を疑いながらの体調不完全な中の、慣らし運転、お試しハイキング。帰宅して数日後、思い立って整形外科にいってみた。レントゲン撮影しての診断は「変形性股関節症ではありません。ヘルニアによるものでも、内臓疾患に因るものでもありません。しかし痛いと言うからには軟骨の損傷が少しあるのでしょう。対症療法(痛み止めを飲む)をしながら太股の筋肉や腹筋を強化して下さい。」という予想どおりのもの。最悪ではないが、事態は何も変わらない。これが歳をとるということ、老化ということだろうと自覚するのみ。
帰宅後、たまたま別の興味から、畦地梅太郎の本を読んだ。『山のでべそ』(1966.1.25一刷1971.5.10二刷 創文社)。20年ほど前に買ったまま未読だったもの。文中、自分の事を何度も「老体」と称している。書かれた内容の山行が著者何歳の時のものか調べてはいないが、他の人に遅れ、一人バテたり、頂上に登れなかったりという記述が多い。次いでもう一冊『山の眼玉』(1999.12.15 平凡社ライブラリー)も再読してみたが、こちらにも同様のペーソスがある。『山の眼玉』は20年近く前に一度読んでおり、その時は内容的にも、そうした爺くさい雰囲気も、面白くは読めなかった。しかし今回二冊読んでみて、その自ら「老体」と称するくだりなど、人ごととも思えず、一種の「老人文学」的共感を覚えたのである。
ともあれ、今後この股関節痛などをはじめとする様々な老化現象と、どのように付き合ってゆくことになるのであろうか。それはそれで、淡い興味をおぼえるのである。
【コースタイム】2018.3.12 晴れ 同行A君
高尾山口駅12:00~尾根(1号路)展望台12:40~薬王院13:50~一丁平14:55~小仏城山15:23~小仏峠15:50~バス停16:23
[追記]
翌3月13日。もう一泊することになったA君、都内の美術館にも行く気がしないというので、私のふだんの裏山歩きのコースを共にした。
自宅から歩きはじめ、まず秋川丘陵の御岳神社に登る。御岳神社は奥多摩の御岳山のそれの末社であるが、そこの狛犬は御岳神社のそれとして、一般的な獅子/ライオン由来の形象ではなく、ヤマイヌ/狼由来のもの。その写真を見せたら興味をひかれたらしい。御岳神社は当然修験道とかかわりが深いが、修験道と狛犬=狼とのかかわりがあるのかどうかは聞き洩らした。ちなみに写真のそれは本殿とそのわきに合祀された小さな二つの祠の二カ所二組あるのだが、いずれもかわいらしいと言ってもよい素朴土俗的造形である。共に阿吽の相はとっていない。
↓ あきる野市小和田の御岳神社、左の狛犬。以下、写真は今回のものではなく、数ヶ月前に撮ったもの。
↓ 同右 阿吽はありません。耳は立っていません。
↓ 本殿わきの併社と狛犬
↓ 耳はさらに垂れています。コンクリート造りでだいぶ補修を重ねています。
次いで、金剛の滝に行く。A君の住む天川村は滝の王国と言うべき大峰山系にあるのだから、こんなショボい小滝なんぞ見せてもと思っていたが、案に相違して結構感動している。大峰はあまりに王国すぎて、こんなこじんまりとした滝を間近に見る機会がないようだ。ちなみに、いつもは下段の滝の右の階段状に穿たれたトンネル内を通過するのだが、この日はそこから滔々と水を吹き出している。靴と靴下を脱ぎ、ズボンをまくりあげ、冷たい水流の中を裸足で登った。上の滝(金剛の滝)の釜の縁に堆積した土砂のせいで地形が少し変化して、溢れた水流の一部がそのトンネルの方に流れ込んでいたのだった。
金剛の滝を充分堪能して、下山は広徳寺に下る。ここは私も好きなところなのだが、茅葺の山門、本堂前の二本の大銀杏、本堂のたたずまいなど、気にいってもらえたようだ。特にいくつもの気根が垂れ下がった二本の大銀杏はA君の作品世界と通ずるものがあり、画家の旅嚢を肥やしたということになるのだろう。本堂の裏手にまわり、東京都の天然記念物に指定されているタラヨウと榧の巨木にも満足したらしい。良かった、良かった。A君いわく「昨日の高尾山より今日の方が面白かったです。」
(記2018.3.20)