「なぜウズベキスタンなのか―過去の海外の旅を概観してみる」のその3である。
文章は大体のところは、とっくに書きあげている。短い文章だから、考察やその検証性については、あまり深入りせず、印象が中心である。そのため、たいした労力は必要としないのだ。
だが、挿入する写真の選択やら、圧縮処理やら、コメントの挿入といった作業が、わずらわしく、私にはえらく時間がかかる。
しかし思えば、私自身にとっても、自分の旅を振り返るまたとない機会だ。何としてでもやり上げてしまおう…。
*国名(都市名)の記載順は必ずしも行った通りの順番とは限らない。同行者名については実名にした場合もあり仮名の場合もある。( )内の立場は当時のもの。
⑮2013. 3.2~19 (18日間)
インド(デリー・ヴァラナシ・アグラ・ジャイプール・ムンバイ・アウランガーバード・エローラ・アジャンタ)
同行:I T T(全員東京藝術大学油画1年生)
前年、母校の藝大で、同級生I君の遺作展が開催された。同じ同級生で現在同大学教授のOが声をかけて、その展示作業等を手伝ってくれた学部1年生たちを交えて、オープニングパーティーで飲んだ。その席上で初対面の彼らに、海外に行けと、例によってけしかけたらしい。しばらくして彼らの一人から電話がかかってきた。一緒に行きたいという。
↓ 若者たちと。大学1年生、18歳…。アジャンタにて。
まさかと思ったが、どうやら本気らしい。とはいえ全員大学1年生。うち二人は現役入学なので18歳という。何度か会っていろいろ目的地等を検討し、途中メンバーの交代も一人あったが、結局つい先日まで見ず知らずだった若者たちと一緒に、いきなりインドに行くことになった。しかも国内便と夜行列車を予約(これだけは年長者特権で従ってもらった)する以外は、すべて現地でやるという若者旅である。
われながら不安になった。不安ではあるが、近来にないときめきも感じた。還暦近くなってインドを若者旅で旅するというのは、どう考えてもハードである。しかし、楽しそうだ。こんな機会は二度とあるまい。そう思えば、つい気合が入る。
↓ 夜、ガンガーのほとりでロシアのお姉ちゃんが瞑想に耽りつつ、絵を描いていた。
↓ ちょっと面白い絵だったので、3点買ったら感激していた。
↓ その2 共にタイトルは未詳
還暦近い年齢ゆえのこれまでの経験を、彼らの若さと協働させて、結果としては実に面白い旅ができた。エピソードには事欠かない。例えばベナレスのガンジス川では頭まで水没の沐浴もした。若者たちは、財布は落とす、ケータイはなくす、迷子にはなる、等々、腹は壊す、その他色々と、やってくれる。
↓ ガンガー(ガンジス川)での沐浴。近くには火葬場やら、全裸の行者やら、牛やら、犬やら、観光客やらの混沌(カオス)。
↓ 聖なるガンジスのほとりを感慨にふけりながら歩いていて、目にとまったのがこれ。国辱もの(?)だと思い、帰国後その話を絵描き仲間、麻雀仲間、飲み仲間のM君にしたら、なんと、それは彼が〇〇年前に、泊まった宿の人に頼まれて書いたものだとか! その後何度か上書きされているが、初めて書いたことは間違いないとのこと。呆れもしたが、まさかガンジスのほとりで彼の過去の行状に出くわすとは思いもしなかった。世界の狭さを感じた。ちなみにそのM君は、現在某大学の教授である。
かくて、人および人以外のあらゆるものから諸宗教までもが多様にかもしだす混沌(カオス)を、充分に堪能した。
また、食事面はほぼ過去最悪と言えるものだったが、私以外の三人が次々とダウンしていく中で、なんとか一人踏み止まれたのも、経験の力と気合のおかげだと思う。
↓ 移動途中のドライブインのようなところで。三種のカレーだから、割と豪華な定食。不味いとは言わないが、完食は無理。左のコップの「ラッシー(ヨーグルト系飲料)」にどれだけ救われたことか。
↓ 幅広い国道の路肩で、丸く練り広げられ、貼り付けられた牛糞(燃料用)とともに、無数の洗濯物が(写真ではわかりにくいが)広大な面積で干されている。洗濯をするカーストの存在に思い至り、また、インドは色彩の国でもあると知る。
美術にかぎらず、インド全体(食事を除く)が私には魅力的だった。インド美術全般の中でも、とりわけミニアチュールの素晴らしさは格別だった。
↓ いろんな種類があるミニアチュールの一つ。作品は素晴らしいが、展示状態、保存状態は悪いところが多い。
↓ ジャイプールでミニアチュール制作者の店で研究中。当たり前といえば当たり前だが、洋の東西を問わず、技術や材料・道具は共通するものが多い。やや古い作品を1点と、紙(ライズペーパー)、筆などを買う。
↓ これはミニアチュールではない。どこかの美術館にあった、何だったのか覚えていないが、精巧緻密なもの。こうなると、ヒンドゥーだか仏教だか、両方の要素があるものだか、よくわからない。
タージマハルおよびその他のイスラム建築(とその装飾)の華麗さは言うまでもない。ヒンドゥー寺院の過剰きわまりない美は、めまいがするほど魅力的ではあったが、私の中には入りようがない。
↓ タージマハル遠望。完璧な美。
↓ イティマド・ウッダウラー廟だったか、マターブ・バーグだったか。
↓ イスラム建築とは言えないが、ジャイプールにあるジャンタル・マンタル。数多くの巨大な天体観測装置群や日時計がある。なんとも不思議で、超現実的で、美しい建造物・構築物群。
↓ どこかの壁面装飾の一例。美しいです。
中央の天秤秤は、死後に生前の善悪の軽重を調べるもの。イスラム教もキリスト教でも仏教も、発想は同じ。比較宗教学的には、おそらく相互にその教理を取り入れたものであろう。
よくインドに行った人は、二度と行きたくないという人と、その魅力にハマってしまう人と、二様に分かれると言われるが、それは年齢にもよるだろう。若い時に行ってみたかった気もするが、この歳で行ってちょうど良かったのだとも思う。今の私としては、カシミール方面か、南インドならば、もう一度行って見たいと思っている。
↓ アジャンタの窟院。保護のために照明は暗く、一部のものは修復中だったりして、一番有名なアジャンタ美人は見えずじまい。
↓ 少し明るい窟の手前などには見やすいものもある。
↓ 本命の人物群でなくても、このような素晴らしい装飾部分もある。
↓ ふと気づけば、目立たないこんなところにも!
↓ これはエローラの石窟。欠けてこそ匂いたつエロティシズム。
このブログの読者に一つだけ言い添えておくと、インドに行くなら、ムンバイ(他にもあると思うが)のスラム街ツアーだけは体験してみるべきだ。内部の撮影は禁止なので、画像を上げることはできないが、インド的混沌の極がある。それを通して、環境問題や国際的資源リサイクルの実相が見えてくる。
↓ ムンバイのスラム遠望。
なお、この時同行した三名の芸大1年生たちのその後の動向を記しておけば、I君はレオナルド・ディカプリオ基金による環境チャリティーオークションに最年少で参加したことをきっかけに、あれよあれよという間に、海外で売れっ子アーティスト(?)として活躍している。一番おとなしかった方のT君はその後ほどなく、「芸大は自分のいるべき場所ではない」といって大学を去った。もう一人の最も知的だったT君については、特に消息を聞かないが、元気でやっていることだろうと思う。
う~ん、青春である。
↓ エレファント島の小さな波止場で偶然行きあったドイツの青年。同じ絵柄のTシャツに注目。同じ時に同じメキシコでそれぞれに買ったものが、地球の裏側で再会するとは。世界の狭さを実感。
⑯2013. 7.10~15 (6日間)
同行:K(高校山岳部の同期:会社員)
海外の旅にも脂がのってきたという感じで、8月からのペルーが決まっているにも関わらず、Kと共に短期・近場のバリ島に行った。しょせん吾々二人はリゾート地とは無縁。目的は二つ。一つはキンタマーニでのバトゥール山(1717m)登山と熱帯雨林の棚田巡りという自然ツアー。もう一つ、こちらが本命だが、ヴァルター・シュピースの作ったバリ島芸術を見ることである。
↓ バトゥール山(1717m)遠望
↓ バトゥール山の火口壁。あちこちで小さな噴煙が上がっており、ところどころの岩や地面が熱い。
↓ 頂上稜線、火口を一周縦走する。よく踏まれているが、ロープ、手すり、階段等はない。つい最近も転落事故もあったそうだ。
↓ 世界遺産の棚田ではなかったが、熱帯農業の視察。癒される…。
↓ 無数の気根を降ろす熱帯雨林の樹霊に、魂を吸い取られている。
↓ このヒンドゥー寺院では腰に腰巻のような布をまとい、沐浴しなければ、域内に入ることができなかった。
↓ ヒンドゥー寺院の造形。ここは大した観光地ではなかったせいか、腰巻は着けなかったような。
両者ともに目的を達成したというか、満足できるものであった。バリ島芸術=伝統的風土的と見える要素形態が、実はヴァルター・シュピースというヨーロッパ人(ロシア生まれのドイツ人)の異国趣味(エキゾチシズム)の目を通して1920年代以降に作り上げられたものという、作られた伝統、いわばねじれた構造が定着しているということ。その双方向的に外部性が挑発・発動しあう面白さ。
人物画を描くことが基本的に宗教で禁じられている、世界最大の人口を持つイスラム国家インドネシアの中で、例外的なヒンドゥー教徒の島、バリ。そこでのみ開花しえた、エキゾチシズム=異文化交流の結果としての、実は新しい伝統としてのバリ島芸術の、怪しき美しさ…。
↓ ヴァルター・シュピースの作品。ただしこれは複製。実物はほとんど無かった。
↓ バリ島絵画。これは大作の一部分。比較的新しいもの。
↓ バリ島絵画 その2。同じく新しいもの。古いものより、新しいものの方が、より面白い、
↓ バリ島絵画 その3。新しく、ゆるいテイストのもの。
↓ 現代美術もある。若い作家のインスタレーション。
そしてそのシュピースが第二次大戦末期に日本軍の飛行機の機銃掃射で殺されたということにも、なにがしかの因縁というか、慨嘆を禁じえないのであった。ただし残念ながら、シュピース自身の作品は、現地ではほとんど見ることができなかった。
↓ ふと森の中に足を踏み入れると、シュピース的世界。
↓ ダンスや演劇、シュピースの(再)創造したケチャ、人形劇等、いろいろなバリ芸能を観た。
↓ 最後に訪れた海岸で見かけた光景。何を思い、海を見つめているのか…。
⑰2013. 8.23~9.5(14日間)
同行:K氏(国立音大教授)
この年3回目の海外。K氏は現在国立音大の優秀な音楽学の先生であるが、その前は東京学芸大で学長補佐の身でありながら、同僚としても同じ授業を何年か一緒にやっていたこともある間柄。その後私は早期退職し、彼は大学を移り、縁は切れたかと思っていたが、なぜか一緒に海外に行こうということになった。とりあえず南米ペルーということで一致。
↓ リマの教会群の一つ。どこも異様に(先住民から収奪した)金をかけた、豪華絢爛な装飾でおおわれている。もう一歩でウルトラバロック。
リマ・クスコという都市はともかくとして、ナスカ・マチュピチュ・チチカカ湖もという、かなり欲張った計画ではあったが、結果として中身の濃い、充実した旅になった。
↓ 夕暮れ近いナスカに、ただ一か所小高い丘。ここから彼方に一直線に伸びる直線(地上絵)が見える。
↓ ナスカ上空の遊覧飛行。下を見ても、意外と地上絵はわかりにくい、というか、そうは鮮明には見えない。アクロバティックな旋回飛行のせいで酔った、前の座席のお姉さんのゲロのとばっちりを食らった…。
↓ ナスカの地上絵の最初期の研究者マリア・ライヒの元研究所が、現在は博物館となっている。奥の人形が彼女。詳しくは楠田枝里子『ナスカ 砂の王国』を読んで下さい。
↓ インカの遺跡の上に建てられたクスコの街並み。すぐ近くにあの有名な12角の石がある。リマから飛行機で標高3400m以上あるクスコに入ったため、初日高山病でちょっと苦しんだ。
↓ 多様な色、デザインのアルパカ製品が大量に並び、面白かった。思わず、柄にもなく、セーターやマフラーを買いこみ、今でも愛用しています。
↓ マチュピチュの画像はありすぎるので、この1点のみ。
↓ マチュピチュから見る、周囲の素晴らしい山々の景観。
↓ クスコからアンデスの分水嶺を越えて、チチカカ湖までの長い長いバスの旅。この長い旅がまた、味わい深かった。そういえば、このあたりの草原・湿地帯がアマゾンの源流なのだ。
↓ チチカカ湖クルーズ。空は死ぬほど青い。
↓ 葦の浮島の上の生活。ある程度は観光客相手かもしれないが、基本、変わっていないと思われる。
初めての南米の風土性・異文化の面白さ、自然景観の多様な素晴らしさは言うまでもない。それに加えて、特に宗教画における文字通りのコロニアルアート/植民地芸術ということのバロック的面白さは、インカ文明等の先住民文化のそれらが時間軸を越えて共時的に併存しているという環境の中で、さらに複雑で摩訶不思議な味わいを見せてくれたのであった。
↓ コロニアルアート その1 イエスはスカートというか、腰巻をはかせられています。
↓ コロニアルアート その2 ここまでの味は本国スペインでもなかなか見ることができない。
↓ 一般的なインカのイメージの陶器。副葬品として作られたため、保存状態の良いものが多い。
↓ 画像では見にくいが、陶器ではなく、木製品に彩色されたもの。他ではあまり見ることのない類のもので、お気に入り。
↓ キープ。「結縄(けつじょう)」といい、文字を持たなかったインカで、結び目の位置などで数などを表わしたもの。こうして見るとすでにアートである。
オマケではあるが、思いがけずワイナピチュ山(2720m)とマチュ・ピチュ山(3082m)(共にマチュピチュ遺跡の前後のピーク)に登れたのもうれしかった。
↓ 左のピークがワイナピチュ山。明暗の境目のリッジを直登する。
↓ ワイナピチュ山山頂2720mにて。写真の二人は現地で知り合って一緒に登ることになったお姉さん。登りの傾斜はきついが、ロープ等は設置されているので、慎重に登れば問題ない。一日の人数制限はされているが、結局は数珠つなぎ。狭い頂上では外人さんたちは決して場所を譲らず、大混雑。下山はほとんどの人は同じルートを下るが、私一人、反対側の「月の宮殿」を経由するコースで降りた。時間は少しかかったが、おかげで人がほとんどおらず、楽しめた。
↓ マチュピチュの後方にそびえる、ワイナピチュ山と対峙するマチュピチュ山。山頂は一番高く見えるピークのさらに向こう側。登る人は少なく、むしろこちらの方がおすすめ。手前は「インカの道」。相棒のK先生は登山はもうコリゴリとかで、ゆっくり一人で楽しんだ。三日連続でマチュピチュを歩いたことになる。
↓ マチュピチュ山の狭い山頂。360度の大展望。
↓ 氷雪のアンデスを遠望する。
なお、これに気をよくしてK氏とは翌年もウズベキスタンに行こうと約束していたのであるが、不運にもその後、彼に親の介護の問題が出てきて、以後永く延期となったのである。
↓ とある美術館の中庭で見た景。南米的でもあり、スペイン的でもあり…。
⑱2014. 12.10~17(7日間)
同行:K(高校山岳部の同期:会社員) 河村森(息子:無職)
例によってKとの短期・近場の東南アジアシリーズ。もともとラオスに積極的興味はなく、また、そこにどんな美術があるのか全く知らなかったが、人気の高い(=観光客の多い)タイを避けて消去法的にラオスとなった。Kは勤務の都合で5日間。ならばと、当時公務員試験を目指して試験勉強中=無職だった息子も気晴らしも兼ねて誘い、7日とした(帰国は8日目)。
↓ とりあえずホテルの前のメコン川岸の屋台で夕食。
ラオスの旅自体はほぼ観光旅行状態で、美しい自然と穏やかさを楽しめた。
↓ どこの寺であったか。静かなたたずまい。
↓ どこの寺であったか。こんな感じです。
↓ とある寺院の外壁装飾。
↓ どこの寺であったか。内部はこんな感じ。仏像が金ぴかなのをのぞけば、日本のそれとあまり変わりはありません。
↓ どこの寺であったか。仏像はゆらりと背筋を伸ばし、指先が異様に長いのが特徴。より多くの衆勢を救おうとしてとのこと。
↓ ルアンパバーンのプーシーの丘にて。
↓ 美しい風景の傍らには、対空機銃座の残骸が残っている。ラオス内戦時のものだろう。
↓ 早朝のメコン川を遡り、パークウー洞窟へ。その後、焼酎作りの村(バーンサーイハイ)、紙漉きの村、タート・クアンシーの滝などを訪れる。
↓ パークウー洞窟入り口。
↓ 広い内部は仏教遺跡。数多くの仏像や、かすかに残った壁画がある。
↓ タート・クアンシーの滝の手前の渓流。
↓ 払暁の路地を僧たちが托鉢の列をなす。
↓ 双方無言のまま、布施を施す。いや、施させていただく。
しかし驚いたことに、絵のある美術館が一つもなかったのである。歴史的あるいは政治的文物を見せる博物館はあったが、「美術」を見せる美術館が一国の首都に無かったのである。こんな国は初めてだ。私の「美術を軸とする旅」という原則が勝手に外側から崩れてしまったではないか。
↓ メコン川沿いの紙漉の村で。素材の木の皮(楮?)を搗くやり方は、私が子供の頃自宅で使っていた足踏み式のそれと同じもの。
↓ 紙を漉く時のやり方は、ちょっとだけ違う。少々、荒っぽい。
唯一見たのがブッダパーク。
↓ ブッダパーク その1 楽しい!
↓ ブッダパーク その2 制作の動機はまじめなもの、らしい。
決して「トンデモ的」なキワモノではないが、結果としては、どちらかといえばアウトサイダーアート的なもの。これはこれで充分楽しめたが、せめて今現在の作家が描いた絵が見たかった。
↓ 街角の朝市にて。リスやらコウモリ(?)、その他生きたカエルや、竹籠に詰め込まれた生きた猪などが、食材として売られていた。
↓ 暮れなずむメコン川で投網を打つ。今夜の夕食ななおか、明日の市場に売りに行くのか。