艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

「なぜウズベキスタンなのか―過去の海外の旅を概観してみる―完結篇」 (モロッコ+チュニジア・アメリカ・トランスコーカシア三国・ウズベキスタン 篇)

⑲2015.2.1~18 (18日間)

ロッコカサブランカマラケシュ・ザゴラ・トドラ・メルズーガ・フェズ・メクネス)~チュニジアチュニスカルタゴ

同行:河村森(息子:無職) S嬢(姪:無職)

 

 この旅については以前「モロッコチュニジアの旅 1-10」(カテゴリー:海外の旅)として途中まで書いて、挫折した(興味ある人はそちらの方も御高覧下さい)。

 なぜ挫折したのか、直接の理由は今となってははっきりとは思い出せないが、少なくとも紀行に関しての自分の表現スタイル/思想を確立していないまま書き出してしまったことが、大本の理由である。

 

 

 ヨーロッパ(西欧・北欧・南欧)、アジア(東アジア・東南アジア・南アジア)、中南米と巡ってくると、次はやはり、アフリカに行きたくなってくる。アフリカ美術・アラブ美術については国内外の美術館である程度は見ている。しかし、できればその風土の中で、全体性として見てみたい。

 アフリカらしいアフリカとなればやはりサハラ以南か東アフリカということになろうが、美術を期待できそうで、なおかつある程度安全快適に旅できる国となると、なかなか見当たらない。東アフリカの自然や野生動物には、二次的以上の興味はない。まあ、こちらとしても初アフリカなのだからということで、ここは敷居の低そうな北アフリカから手をつけることにした。思い起こせば15年前にもモロッコを計画したことがあったのだ(「なぜウズベキスタンなのか その1」 ②)。

 

 北アフリカ、モロッコチュニジアといえば、アフリカ大陸ではあってもアラブ・イスラム圏の印象が強い。先に行ったトルコとインドの一部でのイスラム美術体験は、なお新鮮かつ未消化なままであった。

 公務員試験に落ちまくって、結局春から別のIT企業に就職を決めた息子の最後の無職期間を活用するため、二月という時期になった。偶然だが、同様に転職前の無職期間であった姪も同行することになった。いわば親族旅行となったのであるが、それはそれで今までとは違った責任もあるような…。

 

 ↓ モロッコ料理。確か、タジンとか言ってたような? おいしいが、連日これでは・・・~。

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 結果としてはイスラム的要素とアラブ的要素、そして古代地中海世界的要素の混在した異文化・美術・自然を大いに味わい、楽しむことができた。予断をもって訪れたマラケシュのイブ・サン・ローラン・ギャラリーでは、かえって、美術という文脈ならではの、西欧とオリエントという異文化同士の幸福な結合に出会えた。

 

 ↓ イブ・サン・ローラン・ギャラリーの庭園。外部の眼/エキゾチシズムを通して見ることで、かえってその固有性が明確に立ち上がってくることがある。詳しくは「モロッコチュニジアの旅 7」(カテゴリー:海外の旅 参照)。

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 そして、マラケシュやフェズのメディナ(旧市街)と、メドレセ(神学校)などの装飾アラベスクに通底する、めまいのするような迷宮感覚。

 

 ↓ ベン・ユーセフ・マドラサにて。

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 ↓ メディナ(旧市街)=迷宮 マラケシュにて。

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 ↓ 昼間のメディナもまた迷宮である。フェズにて。

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 ↓ 迷宮の一角に、ふとこんなモロッコ的色彩が立ちあらわれる。

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 ↓ 異文化どうしの迷宮の出会い。

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 ↓ 装飾とは畢竟、迷宮のことなのか。絨毯。

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 アトラス山脈越えの雪と思いがけぬ寒さ。砂漠での一夜、二夜。

 

 ↓ アトラス山脈は予想だにしなかった雪の世界。そこを越えれば、サハラ。

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 ↓ トドラ渓谷。絶景です。

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 ↓ しばしの旅の仲間、スペインの大学生たち。砂漠の一夜を共にした。焚火を囲み、スぺインのロックバンド「Mago De Oz」の歌を一緒に歌った。

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 ↓ 砂漠の舟。

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 ↓ 砂漠のテント泊、二泊目。寒い。

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 ↓ 砂漠の夜明け。寒い。

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 沿岸部カルタゴ古代ローマ帝国文化の残照、モザイク。濃いコーヒーとオリーブの美味さ。等々。

 

 ↓ カルタゴ遺跡。遠くには地中海。だとすると、左遠くにうっすらと見えるのはスペインか?

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 ↓ 古代ローマ彫刻。技術の極み。

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 余談になるが、砂漠地帯での長距離バスの乗り継ぎに失敗して、まったく予定外のところで降ろされたときは途方に暮れたが、同時に旅の醍醐味を味わった瞬間でもあった。

 

  ↓ チュニス旧市街の街角の門扉。このバリエーションが実に面白い!

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  そしてその一か月後、私も大いに楽しませてもらったチュニジアのあのル・バルドー博物館が、日本人観光客も巻き込まれたテロの舞台となったのである。

 

  ↓ ラ・バルドー博物館にて。素晴らしいモザイク群。

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  ↓ 同上。それにしてもアフリカで、ダウンジャケットに山用パーカーを重ね着するとは思わなかった。

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  ↓ チュニスの街角でいきなり女子大生の群に囲まれて、一緒に写真を撮らされた。決して私から声をかけたのではありません。世俗主義万歳!

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⑳2015. 9.15~28(15日間)

アメリカ(ニューヨーク・グランドキャニオン・ヨセミテ・ロサンゼルス)

同行:K(無職)

 

 この旅についても、以前「アメリカの旅 1-2」(カテゴリー:海外の旅)として途中まで書いて、「モロッコチュニジアの旅」と同様に挫折した(興味ある人はそちらの方も御高覧下さい)。なぜ挫折したのかというと、やはり同様に、まず紀行に関する表現スタイルを確立していなかったということがある。

 次いで、アメリカについては、一般的にも自分自身としても、他の国よりどうしても手持ちの知識や情報が多いため、考察や検証において最初から深く突っ込むことが可能であり、その分、より厳密精確な検証性・典拠性が問われるからである。つまり、漠然とした感想ではすまないハードルの高さがあるのだ。考察に対する検証性・典拠性については、本来はどこに対しても同様なはずだが、ハードルの高さに関しては、現実的には、おのずと高低の差が存在する。そして書き始めてみると、そのハードルの高さは予想以上だった。

 私は考察の存在しない紀行/文章を書こうとは思わない。そして、検証に耐えられない、当人の感性だけが表出された紀行文というものは、もっと書きたくない。それゆえにそのハードルの高さを前にして、ひるみ、挫折したのである。

 以下、本論。

 

 

 アメリカに行くことは一生ないと思っていた。アメリカという国家に対して、私は子供の頃から良いイメージを持っていない。心情的反米帝主義者としての少年~青春時代を送り、今日に至っているのである。

 

 ↓ エンパイアステートビルからの夕暮れのマンハッタン

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 ↓ 9.11の跡地に作られたグランド・0。そこに刻まれた犠牲者の名前。あれから世界が大きく変わった。

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 ↓ ホイットニー美術館だったか、NY近代美術館だったかにあった9.11をダイレクトに描いた絵。日本の美術館では現実の社会との関係性は、どうなのだろう?

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 ↓ 同じくホイットニー美術館だったか、NY近代美術館だったかにあった、反体制的、反戦的、反政府的作品群を集めたコーナー。日本の美術館にこうした発想が可能か?

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 しかし実際問題として、世界的に見て、その圧倒的な影響力は否定しようもない。美術においてもまたしかり。アメリカ美術そのものは、日本においても見る機会が多い。ついわかっているような気がしてくる。だが美術の世界においてアメリカが圧倒的な力を発揮するようになったのは、戦後のこと。それ以前はヨーロッパに対する大いなる辺境にすぎなかったのだ。日本にいては、そのあたりのことが正確にはわからない。

 

 ↓ 巨大なメトロポリタン美術館。一日かけても、とても見切れない。しかし、あえて言えば、そこにあったルネサンス印象派以前のヨーロッパ美術のコレクションは、ヨーロッパのそれに比べれば、1.5流以下のものがほとんどである。アメリカの購買力が増した時に買えた一流のものは、主として同時代の印象派以降のものだということ。(ただし非ヨーロッパの、例えば日本のものなどは、超一流のものを持っている)

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 ↓ 巨大すぎるMOMA=ニューヨーク近代美術館。こちらはとにかく閉館までになんとか見切ったと思ったら、最後の大規模なピカソの彫刻展をそっくり見落としていたことに気づいて、がっくり…。

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 ↓ ホイットニー美術館だったかMOMAだったか、とにかく巨大すぎる展示スペース。世界中のあらゆる美術を蒐めようという、その執念と金力には脱帽。

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 ↓ 巨大な壁、巨大な作品。余裕ある展示空間。

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 私も20回も美術を巡る海外の旅をしてくると、たいていの「〇〇美術」「△△絵画」は見てきたという気がしてくる。しかし、考えてみれば「アメリカ現代美術」や「抽象表現主義」・「ポップアート」ではなく、「アメリカにおける美術」を、その全体性を見たことはない。これでは画竜点睛を欠く(?)というものではないか、と思い至った。

 

 ↓ これはフランス古典主義のアングルの作品。完璧な作品である。この作品におけるような、ヨーロッパ文化に対するコンプレックスが、両大戦を通じて経済力を持ったアメリカの、蒐集欲の源泉である。

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 ↓ ⑰「ペルー」でも触れたコロニアルアート。これはロサンジェルスの美術館にあったものだが、出来が良いので、再度取り上げる。

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 ↓ これもロサンゼルスカウンティ美術館(?)だったかの日本コーナーにあった須田剋太の書。司馬遼太郎の『街道をゆく』の挿絵で知られ、書も良くするとは聞いていたが…。

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 そのアメリカに長く駐在し、今でもアメリカ大好き男であるいつもの旅と山の仲間Kが、ようやくめでたく正式に完全退職することになった。帰郷するに前に、2週間の有給休暇を消化する必要があると言う。

 私はアメリカという国家に対しては良いイメージを持っていないと書いたが、その自然に対しては、逆に昔から大いに心惹かれてきた。グランドキャニオンやヨセミテには昔から行ってみたかったのだと、ふと思いだした。

 一生アメリカに行かないということは、一生グランドキャニオンやヨセミテに行けないということである。2週間あればその二か所だけではお釣りがくる。ここはやはり長い間の怨讐(?)を忘れて「アメリカ美術」を見に行かねばなるまい、となった次第である。「アメリカにおける美術」と「アメリカの自然=ヨセミテとグランドキャニオン」を結び付けることに、さほどの必然性があるわけではないが、必ずしも、無理のあるものとも言えまい。私としては、旅程として合理的・効率的(?)であると思った。

  なにせアメリカに慣れたKとレンタカーを駆使しての旅である。快適でないはずがない。

 

 ↓ 広大なアメリカのフリーウェーを行く。広大な空の広大な夕焼雲。

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 結果として大いに味わえ、大いに勉強できた。訪れた、あらゆる美術を包含した美術館の規模はでかく、まさに肉体労働的鑑賞の明け暮れではあった。ただし、スタンダードなものを見るだけで、手一杯だったため、課題の一つであった、アメリカにおける初期の美術の「ハドソンリヴァー派」や、アウトサイダーアートをも含む「アメリカン・フォークアート」については、あまり見れなかったのは残念だった。

 

 ↓ 「アメリカン・フォークアート」=ホームレス・アーティストのビル・トレイラー(たぶん)の作品。

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 ↓ 「アメリカン・フォークアート」=(たぶん)エイブル・アーティストの刺繍による作品。これらが他の専門画家の作品と同列に展示されている。

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 それに対して、ヨセミテとグランドキャニオンは純粋に素晴らしかった。

 グランドキャニオンでは、ブライド・エンジェル・トレイルをプラトー・ポイントまで往復した。予防していたつもりでも、あまりの暑さに、軽い脱水症状になった。(これについても別に「山行記-7 グランドキャニオンのブライド・エンジェル・トレイルを歩いた」として「山」のカテゴリーでアップした。興味のある方はそちらも参照していただければ幸いです。)

 

 ↓ ブライド・エンジェル・トレイルをコロラド川河岸段丘のインディアン・プラトー目指して、右の影の中のトレイルをくだる。

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 ↓ 前方の人がいるところがインディアン・プラトー。奥のピーク、右がシヴァ・ピーク、左がブラフマ・ピーク。

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 ヨセミテでは、三日間で三本のトレイルを歩いた。それらのすべては美しく、快適で、大いに楽しめた。

 

 ↓ バス停(グレイシャー・ポイント)でおりるといきなりこの絶景。前方はハーフ・ドーム。

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 ↓ ヨセミテ!である。花崗岩の王国。文句はありませんが、クライミングはともかく、もう少し山登りらしい山登りをしたかったなぁ…。

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 ↓ ハーフ・ドームの裏側を巡るパノラマコースの途中にあるバーナル滝だったかの滝壺に耀く虹。

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 ↓ エル・キャピタンを登攀中のクライマー。精一杯ズーム。

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 ↓ さらば、ヨセミテ、名残は尽きねど。ヨセミテ渓谷の入り口近くにて。

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 そして端的に言えば、それらの整備され(過ぎ)た「トレイル」は、楽に過ぎるコースだったのである。それはそのように設定されたトレイルなのであるが、麓から登り、見通しのきかない樹林帯にあえぎ、しんどい思いをして山頂に至るという、日本的登山に慣れ親しんだ吾々には、その楽しさはどこか違和感、不満足感のあるものでもあった。

 

 そして正直に言えば、それら「アメリカにおける美術・アメリカ美術」にせよ、「グランドキャニオンとヨセミテ」にせよ、すべてのものに、なにがしかの既視感があった。つまり事前に知識・イメージとして了解済みのものばかりで、予期せぬ出会い、未知なる異文化といったものは、なかったのである。半ば予想通りではあるが。

 旅とは難しいものである。

 ともあれ、納得はした。「見た」という気はする。 

 

 

 

 

㉑2016. 9.10~24(15日間)

トランスコーカシア三国 アゼルバイジャン(バクー)~グルジアトビリシ・クタイシ・ツカルトゥボ)~アルメニア(ハフバット・エレヴァン・アルガツ山麓

同行:K(無職)

 

 最近は身を焦がすような思いで「行きたい」「見たい」と思うところがなくなってきた。地域としてはオセアニアが残っているが、なぜかあまり心惹かれない。自然はともかく、美術に関して期待できないからだろう。

 

  ↓ グルジアから陸路国境を越えてアルメニアのハフバットにに入る。ホテルからの夕景。

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  ↓ 山関連で。アルメニア、アラガツォトゥン地方・アラガツ山麓を行く。見えているのは、最高峰アラガツ山4090m(?)。

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 しかしそうはいっても、年に一度ぐらいは未知の国に行きたいという旅心は、まだ健在である。そうなると目的地と目的とを考えるのが、一種「重箱の隅を」探す作業に近くなってくる。しかし「重箱の隅」にもお宝は眠っている。今回のトランスコーカシア三国は、私にとってそういった「とっておきのエリア」だったのである。

 

      ↓ アゼルバイジャンのバクーのメディナ(旧市街)をさまよう。

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     ↓ アゼルバイジャン、バクーの乙女の塔(世界遺産)で地元の乙女たちが駆け寄ってきた。

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  ↓ 左、グルジアを代表する画家ピロスマニの作品。彼の住む街を訪れた旅回りの女優に恋をし、描いた作品。そのエピソードを加藤登紀子が「百万本のバラ」として歌った。

右は彼が貧困のうちに死んだアトリエ兼住居。奥の右の、今は記念館になっている、階段下のごく狭い部屋(ただし、正確には少し離れた別の場所であるとのこと)。

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  コーカサス以遠はヨーロッパ文明にとって、トルコやモロッコと同様に、一番近いオリエント、すなわち異世界の入り口だった。その意味で東西の十字路であり、歴史・民族・文化の交差点であり、実に魅力的なトポスであるように思われた。むろんアルメニアが「世界で一番美人の多い国」であるといった下世話な評判は、動機としては(あまり)無い。

 

    ↓ アゼルバイジャン、ゴブスタンの岩壁画。先祖は舟でやってきたのか?

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   ↓ アゼルバイジャン、ゴブスタンを歩く。こういうところを自由に歩くのが楽しい。

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 結果として、やはりかなり面白い地域であり、かなり面白い旅となった。

 グルジアアルメニアの、再建もしくは修復された古い教会建築そのものの暗鬱なたたずまいは、実に良かった。

 

  ↓ グルジア、ムツヘタ。要害の地に立つジュバリ聖堂。

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   ↓ アルメニア、アラガツォトゥン地方のとある教会。アルメニアの古い教会等は再建ないし修復されたものが多い。

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   ↓ アルメニア、セヴァン湖畔に二つ並んで立つサナヒン修道院かセヴァン修道院のどちらか。

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 だが、そこには当然ながら、当時の絵画は、ごく一部の壁画の残欠を除いては残っていない。蒙古とトルコに徹底的に破壊されつくされたのである。現在も信仰の対象である教会には、油絵で描かれた素人臭い真新しい小さな聖像画がささやかに置かれているばかり。美術館にもその当時のものは残されていなかった。そうしたことの歴史性に胸が打たれる。

 

  ↓ アラガツォトゥン地方のとある教会を訪れると、若い修道士が鍵を開けにきてくれた。

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  ↓ アルメニア、ゲガルト洞窟修道院内の一隅で、思いがけずポリフォニー(多重唱)の合唱を聴く。味わい深いものだった。

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 別に、ミニアチュールの類に地方色の濃い面白いものがあり、またハチュカルと呼ばれる石造の十字架群がたいへん良かった。

 

  ↓ アルメニアのマテナダタン(古文書館)所蔵のキリスト教のミニアチュール。アルメニアは西暦301年に世界で初めてキリスト教を国教と定めた国。

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   ↓ 同じくアルメニアのマテナダタン(古文書館)所蔵。色使いが独特で、地方色豊か。

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   ↓ ハチュカル。簡単に言えば「十字架石」とでもいうべきもの。主に墓石として用いられたようだ。

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   ↓ これはハチュカルとは言えないのだろうが、同根のもの。アルメニア、ゲガルト洞窟修道院

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  ↓ アゼルバイジャン、バクーの公園にあったもの。ハチュカルとは異なるイスラム的(?)装飾性なのだが、なぜかハチュカルとの親近性を感じる。

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  ↓ グルジアの首都トビリシので街角での路上(壁ですが)のアート。

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  ↓ 最終日、何も知らず、期待もせず、時間潰し(?)に行ったパラジャーノフ博物館。これが素晴らしかった。パラジャーノフは「火の馬」や「ザクロの色」などの作品で知られるグルジア生まれの映画監督。反体制的な言動から投獄され制作禁止の間に以下のような、アッサンブラージュ・コラージュ・ドローンイング等の美術作品を作った。

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 ↓ アッサンブラージュ作品

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   ↓ コラージュ作品

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   ↓ ドローイング作品

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 遠望するアルメニア人の心の故郷、アララット山にも感動した。(現在はトルコ領であり、かつてその山麓一帯で100万人規模の民族浄化=虐殺がおこなわれ、今に至るも未解決の民族的政治的アポリア/難題である)。 

 

   ↓ アララット山、遠望。左、小アララット、右、大アララット。

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   ↓ 首都エレバンアルメニア人虐殺博物館にあるモニュメント。

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 蛇足ではあるが、美人はやはり多かった。

 

 

  

 

㉒2018.5.25~6.8

ウズベキスタンタシケントサマルカンド・ブハラ・ボーストン近郊・ヒヴァ)

同行:K(無職)

 

 今回の「ウズベキスタン紀行」を書くために、ここまで書いてきた。長い間、うっちゃっておいたそれらの記録と記憶を、大急ぎで、概要・覚書・感想録としてまとめたのである。その間に私の「紀行」にふさわしいスタイルが見いだせたかというと、そうではない。

 私は紀行とは、基本的に時系列に沿って、客観的な事実の記述を経(たていと)として、感想や考察や検証を緯(よこいと)として編み込むべきものという考えを持っている。しかし、そのやり方は、自分でもあまりに古典的であると思う。時として、独りよがりな冗長さを陥りやすい方法でもある。書物という形をその先に夢見るのならばともかく、何よりもブログというメディアにあっては、長すぎるということは、読者を退屈させかねない。

 そうした点から、①~㉑を前段とした、新たに独立した「ウズベキスタン紀行」を書くのではなく、とりあえず、これまでの延長上に、今現在身に付いているリズムで一気に㉒を書き終えることで、このシリーズを終わらせようと思う。

 

 ↓ 旅の始まり。ウズベキスタンに向かう飛行機の窓から。天山?パミール

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 先回のトランスコーカシアの旅の印象や記憶がなんとなく消化できぬまま、そしてその理由が自分でもうまく解釈できぬまま、1年間旅を休んだ。休んだからといって何か見えてくるかというと、そんなこともないのであるが。

 旅は仕事や義務で行くものではない。しかし、年に一度の習慣として惰性的に消費するのもよろしくない。何よりも感動が薄れる。

 自分なりの「美術を軸とする旅」という方針を貫いてきた結果、身を焦がすような思いで「見に行きたい」と思う対象がなくなってきたのは、自然な成り行きである。かといって単なる世界遺産巡りや、美しい自然を見に行くという「観光旅行」に方向転換するのは、私の望むところではない。

 

 ↓ ブハラの城壁

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 ↓ サマルカンドの裏通り。ウズベキスタン的色彩。

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  ↓ ウズベキスタン的めまい。

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 今回のウズベキスタンは、本音を言えば、中央アジアという風土性が最大の魅力であったことは確かだ。未知を求める旅の軸が、自然に「美術」から、次第に「自然・風土性」に比重を移しつつあることは、そろそろ認めざるをえないのかもしれない。

 だがそれとともに、今回の旅には、トルコ~インド(の一部)~モロッコチュニジアアゼルバイジャンと続いてきた、イスラム圏とその美術の総まとめ(?)という意味合いもあった。そのゆえに、かろうじて「美術を軸とする旅」という目的意識というか、面目(?)は維持できたのである。

 

 ↓ レギスタン広場(圧倒的である)のシェルドル・メドレセ。

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 ↓ レギスタン広場のティラカリ・メドレセ

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  ↓ ティラカリ・メドレセの礼拝所。圧倒的である。

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 結果としてウズベキスタンは想像以上に美しく、快適な旅ができた。人も穏やかで、やさしく、親切だった。食い物も美味く、物価も安く、女性はみな美しかった。日中は猛烈に暑かったが、湿度が低いせいか、日陰に入ると死ぬほど爽やかだった。

 

  ↓ 手前、ブロフ(ピラフ)。左上、サラダ。その右、マンティ(饅頭≒餃子)。右端、サマルカンド・ナン

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  ↓ 昼食に寄ったチャイハナ(中央アジア風喫茶店)の店先で。

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  モスクやメドレセ(神学校)といったイスラム建築とそのモザイクタイルの装飾は素晴らしかったが、その内部は、現在はほとんどが工芸品の工房ないし土産物屋となっている。

 

   ↓ 小さな作品を制作中。画材は固形水彩絵具、その奥のチューブはロシア製テンペラ絵具。

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   ↓ シルクロードに流通したサマルカンド・ペーパー。原料は桑。和紙と全く変わらない。帰宅後調べたら、日本でも桑は和紙の原料として使われていたとのこと。そういえば楮も桑科だった。

紙を板の上に乗せ、宝貝で磨く、このやり方はイタリアルネサンスからアジアでも同様で、まさにシルクロード的技法の存在を確認した。

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   ↓ どこかのメドレセ(神学校)か博物館の店で物色中。手にしているのは、絣。

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   ↓ スザニ(刺繍) これは博物館に展示されていたもの。

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   ↓ 路上の土産物屋のスザニのバッグ。見ていると、どれもこれも欲しくなる。

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   ↓ 路上の宣伝用絨毯。

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 ソ連時代の宗教政策とその功罪が垣間見え、複雑な気分になった。人々のありようや、暮らしぶりなどを見てもイスラム色はごく薄い。

 サマルカンドのアフラシャブの丘や、予定にはなかったが現地でいきなり予定変更して行った四か所のカラ(城塞遺跡)巡りなど、いかにも吾々らしい行動も楽しかった。毎日歩きまくった。

 

   ↓ アフラシャブ博物館を目指して、なぜか山道を登る。楽しい。しかし、登りつめたら、そこは広大なユダヤ人墓地だった。

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   ↓  寄り道して行ったアヤズ・カラ。

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   ↓ カラ(都城跡)の城壁の日干し煉瓦の窓から、ステップ(草原地帯)を望む。

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 不思議なことにミニアチュールはほとんど見られなかった。ソ連時代にモスクワにでも持っていかれたのだろうか。

 残念だったのは、ヒヴァのさらに先のヌクスに行けなかった(行かなかった)ことである。出発する間際になってNHKBSで観た番組で、そこの美術館に、スターリン時代に弾圧されたロシア・アヴァンギャルド絵画が秘かに救い出され、膨大なコレクションとして在るということを知ったのだ。あらかじめ知っていればタシケント滞在を一日削って何の問題もなく見に行けたのだが、後の祭り。そんなものである。行けなかった所もふくめて、旅なのである。

 

  ↓ ヒヴァのどこかのメドレセの一隅で見た現代の絵画。何やら宗教への皮肉がユーモラスに仄見えるような…。

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 なお、これは余談というべきであろうが、同行のKは大のスマホ・FB・ライン好き。日々、行動と写真をアップしている。ラインのメッセージの一部は私のスマホにもガンガン入ってくる。旅とは、とりあえずそれまでの日常から断絶され、異土にあって、途方にくれることだと思ってきたが、その空気は今回あっけなく崩壊した。鬱陶しいと思いつつも、そのやりとりを多少なりとも楽しんでいる自分に気づいて、いささか複雑な思いを抱かざるをえないのである。それは私の旅の堕落だろうかと。そして、SNSが遍在することを前提とする世界の中で、自分はどのように振舞うかを考えざるをえないのである。

 

    ↓ 旅の終わり。飛行機から見る朝焼け。

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(2018.6.22 了)