艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

犇めく観客!!「縄文―1万年の美の鼓動」展(東京国立博物館平成館)を見に行った。

 8月28日、「縄文」展を見に行ってきた。

 

 ↓ 東博HPより

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 観測史上最高という猛暑の続く8月。会期終了まで1週間足らずとなり、その暑さもわずかに和らいだかと思われる28日、この日行かねば行く日はないという思いで、決死の覚悟(?)で見に行った。暑いのは仕方がない。電車の中や会場に入れば、冷房は効いているはずだ。

 

 問題は、大好評であるがために、8月17日で入場者数が20万人を超えたという混雑ぶりである(註1)。平均1日5000人弱。今日まで25万人以上か。20万という数字の大きさは実感がわかないが、私は美術館であれラーメン屋であれ、基本的に順番待ちの行列に並ぶことはしない。嫌いだからである。行列してまで見たのは2003年ワタリウム美術館か2007年の原美術館だったかの「ヘンリー・ダーガー展」のいずれかぐらいであろうか。この時は、作品劣化を防ぐために、海外でまとまった展覧会をするのは最後だとかいった触れ込みだった(註2)ので、予期せぬ行列を見たときには一瞬帰りかけたのだが、グッと我慢して行列に並んだ。

 2016年の東京都美術館の「若冲」展の時は多少の予想はしていたものの、文字通り長蛇の列を見て、1~2時間待ちと聞いて、あっさりあきらめた。しょせん縁が無かったのだ。ちなみにこの時の入場者数は31日間で44万6000人だったとか(註3)。

 

 今回並ぶかもしれないというのは、あらかじめある程度は予想していた。それを少しでも避けるために、平日のあえて一番暑い時間帯に行ったのである。今回はやはりどうしても見たかったのだ。見なかったら、必ず後悔することはわかっていた。

 一瞬の躊躇の後、チケット売り場の列の最後尾に並んだ。幸い、待ち時間は20分足らずで済んだ。その間にも続々と後続は増えるばかり。この日の入場者は5000人では済まなかったのではないか。

 誘導係の人から会場での入場制限があるかもしれないと言われていたが、それはなかった。しかし、その分、一挙に大勢が展示物の前に集まるのである。初めのあたりは、現物の前になかなか立てない。ひたすら忍の一字。どうしても展示の最初のコーナーから順次人が溜まっているようなので、コーナーによってはショートカットする。会場内での係員もそのように誘導していたのにはちょっと驚いた。後で若干後悔したが、最後に見に戻る気力はもう残っていなかった。

 

 縄文式土器自体は、全国あちこちの博物館やら郷土資料館やらに無数にあり、見る機会は多い。私自身、縄文式土器のかけらや断片はいくつも持っている。とある工事前の試掘で出てきたものをもらったり、ある時期住んでいた土地の近くで自分で表面採集したものなど。

 しかし、どんなものにも出来の良し悪しということは当然あり、また照明やキャプション等の見せ方、コンセプト・展示方法によって、見え方はまるで違ってくる。そうした意味で、国宝6点が展示されるということはさておいても、今回の展覧会が良いものであろうということは想像できた。そこはなんといっても、「東博」なのである。

 前回まとまって「縄文」を見たのは、2001年のやはり東京国立博物館での「土器の造形 縄文の動・弥生の静」展であり、それが実質初めての縄文体験であった。その時に初めて見た火焔式土器や初期の土偶に、強烈な印象を受けた。今、あらためてその時の図録を見てみると、今回と同じものもだいぶ出品されているが、17年も時間がたつと、多少印象は違う。

 

 ともあれ、展示物そのものはともかく、あまりに人が多いのである。押し合いへし合いというほどの混乱はないが、汗牛充棟(うん?意味が違うか)というか、犇めくという文字が思い出されるほどではあった。

 必ずしも時間に余裕のある年金生活のシニアクラスばかりではない。老若男女万遍なし。夏休みのせいもあり、子供連れも多い。美術愛好家だけではなく、歴史好きの人、とりあえず評判になっているものは何でも見たいという人も多いだろう。まあ、どんな人にも美術館に行く権利はあり、むろん多くの人が見ることは良いことだ。しかし、やはりここまでくると、入場制限をした方が良いのではないだろうかと思ってしまう。

 私自身は、先に述べたように行列するのが嫌いなこともあり、日本の美術館で入場制限といったことは、経験したことはない。ただし、海外ではある。二度目の、イタリアのパドヴァにある、修復が終わった壁画のあるスクロヴェーニ礼拝堂だったか。最初は入場制限と聞いて多少憤慨した(それが初めての体験だったので)が、30分程度待たされた後に入場してみれば、作品保護のための空調のありように納得し、2,30人ずつで本当にゆったりと落ち着いて見られることに納得した。したがってこの場合の入場制限とは、多すぎる観客のコントロールとは意味合いが異なるだろうが。

 まあ、そんな風にして「縄文展」を見たのである。ほとんど喘ぎながらといった態の鑑賞だったが、やむをえない。一休みしたいと思っても腰を降ろす休憩用の椅子は満員。ここまで人が多いと鑑賞のマナー云々と行って見たところで、意味はない。ここは、博物館・美術館の入場者数至上主義を批判するよりも、むしろそれに呼応して群集する日本人の美術好きのエネルギーをほめたたえるべきであろう。せいぜい図録を買って、帰ってからゆっくり見ようと思った。

 

 ↓ 図録 表紙

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 ↓ 図録 裏表紙 ある人から、私はこの遮光器土偶に似ていると言われたのだが…??

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 それはそれとして、今回一つ気になったのは、この暑さのせいであろうが、犇めきあっている人の匂い、汗が冷えた後の体臭である。体を密着させるようにして見ざるをえないところでは、特にそれがひどい。館内の冷房は効いているはずだが、人いきれのせいで、また体が密着されることで、いったん汗の引いた体が再び汗ばんでくるのである。有体に言って、汗臭い。私は匂いに対してさほど敏感な方だとは思っていないが、その私が臭いと感じるのだから、多くの人が感じたのではなかろうか。残念ながら高齢者のほうが匂いの強い方が多かったようである。むろん汗かきの私も臭かったのだろう。

 だからといって、どうすべきだとは言いようもないのである。せいぜい「これは縄文人の体臭だろう」などと、つまらぬ空想をしてみても、やはり臭いものは臭いのである。

 

 展示内容については、まずは、素晴らしかったと言える。しかもその素晴らしさが、前後左右の美術史の文脈と孤絶していることにあらためて驚くとともに、そのよってきたるところというか、あまりの独自性をまだ飲み込めないでいるというのが、現状である。それはこれから図録でも眺めながら、またゆっくりと味わい、考察するとしよう。

 

 ↓ 展覧会のチラシ この6点がすべて国宝!

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 今回は私が体験した、過去最高に混雑した展覧会の印象を書きとどめてみたまでである。

 それにしても、美術館に行くのに適季といったものは特にはないと思っていたが、やはり夏は不適というべきであろうか。それとも自宅を出て駅までの20分を歩きだすのに大きな勇気を必要とする、今年の暑さが異常と言うべきなのだろうか。美術館に行くのは、半ばは仕事であり、勉強であり、修行であると思っているが、それが辛くなってきたというのも、歳ということなのだろうか。

 

(註1)朝日新聞DIGITAL 2018.8.18

(註2)この触れ込みは2011年ラフォーレミュージアム原宿での「ヘンリー・ダーガー アメリカン・イノセンス。純真なる妄想が導く『非現実の王国へ』」展だったかもしれない。

(註3)日本經濟新聞デジタル版2016.5.24

                              (記;2018.8.28)