年末になると、自分の各種の記録の集計や整理をして、その一年間を概観し直すのが近年の習慣となっている。「美術館探訪録」というのもそのコンテンツの一つ。まあこの1年間に見た美術館等での展覧会をあげてゆくというか、個人的なコメントと共に羅列してゆくわけだが、その際、参考としてというか、私という個人性と世間一般とのちょっとした対照性を確認するために、朝日新聞の「回顧201× 美術」での北澤憲昭、高階秀爾、山下裕二の「私の3点」をあげるのが恒例となっている。
さて今年もと思って待っていたが、なぜかそれが出てこないうちに年が明けた。あるいは見落としたのかなと思って、年が明けてからネットで調べてみたが、「文芸回顧2018」や「論壇回顧2018」の「私の3点」は出てくるのに、美術の記載はない。音楽や演劇も無いようだ。本当に無くなったのか、私の見落としなのか今でもわからないままだが、まあそれはそれでしょうがないか。
かわりと言っては何だが、WEB RONZAで[2018年 展覧会ベスト5 新たな時代の流れ](https://webronza.asahi.com/culture/articles/2018122500013.html) というのを見つけた。『論座』というのは確か以前に朝日新聞社から出していた雑誌。その後身ということか。
とにかくそこでは[2018年 展覧会ベスト5 新たな時代の流れ]として以下が挙げられている。選定者は、古賀太(日本大学芸術学部映画学科教授 映画史、映像/アートマネージメント)という人。知らない。しかしなぜ映画専攻の教授なのか。
1 「内藤礼―明るい地上には あなたの姿が見える」展(水戸芸術館)
2 「1968年 激動の時代の芸術」展(千葉市美術館)
3 「縄文 1万年の美の鼓動」展(東京国立博物館)
4 「アジアにめざめたら アートが変わる、世界が変わる 1960―1990年代」展(東京国立近代美術館)
5 「ルーベンス展――バロックの誕生」(国立西洋美術館)
↓ 「1968年 激動の時代の芸術」展 これについては小熊英二の『1968 若者たちの叛乱とその背景』等を読み込んでいるので、見に行く必要を感じなかった。
次点として、「ピエール・ボナール展」(国立新美術館)、「ルドン 秘密の花園」展(三菱一号館美術館)、「没後50年 藤田嗣治展」(東京都美術館)、「ムンク展―共鳴する魂の叫び」(東京都美術館)、「生誕150年 横山大観展」(東京国立近代美術館)、および別枠として「フェルメール展」(上野の森美術館ほか巡回)の六つをあげている。
う~ん。この中で私が見たのは次点もふくめて「縄文 1万年の美の鼓動」展と「ピエール・ボナール展」、「ルドン 秘密の花園」展の三つだけである。それでも例年に比べると確率は良いか。
ついでに『美術手帖』のサイトも見つけた。ここでは2018年展覧会ベスト3 として6名の有識者(?)+1名の選が出ていた。「数多く開催された2018年の展覧会のなかから、6名の有識者にそれぞれもっとも印象に残った、あるいは重要だと思う展覧会を3つ選んでもらった。」という趣旨だそうだ。これも読みようによってはちょっと面白いので、参考までにあげておく。
ちなみにそれらの中で私が見たものは一つもない。地方での展覧会が多く取り上げられているにしても、ちょっと困ったものである(のか?)。
①清水穣(美術評論家) https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19050
ゴードン・マッタ=クラーク展
(東京国立近代美術館、2018年6月19日〜9月17日)
秋山陽 —はじめに土ありき—
(京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA、2018年11月10日〜25日)
松江泰治 地名事典|gazetteer
(広島市現代美術館、2018年12月8日~2019年2月24日)
↓ ゴードン・マッタ=クラーク展 複数の人が選んでいるので。見に行っても良かったのだが、その気にならなかった。
②中村史子(愛知県美術館学芸員) https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19061
闇に刻む光 アジアの木版画運動 1930s-2010s(福岡アジア美術館、2018年11月23日〜2019年01月20日)
麥生田兵吾「Artificial S 5 / 心臓よりゆく矢は月のほうへ 」(Gallery PARC、2018年9月7日〜2018年9月23日)
カオス*ラウンジ新芸術祭2017 市街劇「百五〇年の孤独」(福島県泉駅周辺の複数会場、2017年12月28日~2018年1月28日)
③服部浩之(キュレーター) https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19060
1964 証言—現代国際陶芸展の衝撃
(岐阜県現代陶芸美術館、2017年11月3日〜2018年1月28日)
ゴードン・マッタ=クラーク展
(東京国立近代美術館、2018年6月19日〜9月17日)
メディアアートの輪廻転生
(山口情報芸術センター[YCAM]、2018年7月21日〜10月28日)
④蔵屋美香(東京国立近代美術館企画課長) https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19095
会田誠展「GROUND NO PLAN」(青山クリスタルビル、2018年2月10日〜29日)
ゴードン・マッタ=クラーク展(東京国立近代美術館、2018年6月19日〜9月17日)
第12回 光州ビエンナーレ「Imagined Borders」(ビエンナーレ展示ホールほか、2018年9月7日〜11月11日)
さて、ここで私見をはさむ。
本稿では参考のために展覧会の項目だけ引用して、コメントについては引用しないつもりであった。その選定や内容は評者の判断だから、異をとなえることはできないし、そもそも一つも見ていないのだから。したがって一切批評するつもりはなかったのだが、会田誠展「GROUND NO PLAN」のコメントの一部についてだけは一言記しておく。そのコメントの中で、「圧倒的な画力」「ほかの作家が泣いてうらやむ高い画力」という文言を用いていることが気になったのである。
筆者の言う「画力」というのが、正確には何を示しているのかよくわからないが、もしそれがいわゆる「描写力」や「再現的、写実的に描く力量」、あるいは「高い表現性をもたらす作画時における画家の優れた身体・技術性」といったことを意味するのだとすれば、それは誤解というか認識不足というものである。
会田誠の、抑揚のない均質な描線に囲まれたどちらかと言えば平面的な塗りによって作られた画面世界を、造形的角度から見れば、それが大友克洋以降的描線であったり、アニメーションのセル画的特性に影響を受けたものであろうが、それはそれで構わない。そのことは実際に筆をもって描く実作者であれば、比較的容易に見て取れることである。一面で言えば、天賦の「画力」が足りないから、そうした外在的手法を採用したのであろう。それをいまさら方法としてアンフェアだという気はない。
ともあれ、それはそれとして、そうした要素は彼独自の発明ではないにしても、彼自身の画風としてすでに成立している。しかしそれは「画力」という言葉からイメージされる、身体性に裏打ちされた、つまり作家の個性に由来するものとは言えない。そこにはある種の「うまさ」はあっても「豊かさ」を感じとることはできない。これは決して批判、非難ではない。しかし、まともな画家であれば、会田誠程度の画力を誰もうらやみはしない。ある作家が自身の個性や力量や思想から、どのような方法・画風を選び決定するかは、その作家自身が決めることでしかないからである。
だがそれゆえに、評者はここで「画力」という普遍性・根源性に根差す批評性を持った言葉を使うべきではない。会田誠の作品は「画力」によって成立しているのではない。にもかかわらず彼の作品に「画力」を幻視し、それを彼の作品世界の大きな要素として称揚しているということは、評者の鑑賞能力の低さ、分析力の曖昧さを露呈させるものだ。ゆえに美術館のキュレーター等に対して実作者である画家が基本的に持ちやすい、「この人(キュレーター)は本当に絵がわかる、見えるのだろうか?いわゆる文脈だけで絵を理解しているのではないだろうか?」という不信感がここで立ち上がってくるコメントであることは確かなのだ。眼の効かないキュレーターなのではないか?この人の目は暗闇か(クラヤミカ)?
そしてそのことは、すなわちそうした程度の鑑賞力によって選んだ「展覧会ベスト3 」自体が信用できないものとなるということだ。
⑤黒瀬陽平(美術家、美術批評家) https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19081
「山のような 100ものがたり」
(東北芸術工科大学キャンパス、2018年9月1日~24日)
スペース・プラン記録展−鳥取の前衛芸術家集団1968-1977−
(ギャラリー鳥たちのいえ、2018年12月7日〜19日)
鴻池朋子 ハンターギャザラー
(秋田県立近代美術館、2018年9月15日~11月25日)
ここでも展覧会の項目だけ引用して、コメントについては引用しないつもりであったが、「ベスト」だけではなく「ワースト」をもあげていることが面白く、またその「ワースト」たるコメントの方が力を感じるというか、面白かったので、少々長すぎるが、あえて引用しておく。
美術についての批評は一般にほめる・評価するというのが普通で、はなはだしくは提灯持ち的なものも多いが、批評というからには当然批判する・否定するということもあって然るべきである。むろん、その内実が重要なことは言うまでもないが、そもそも否定的な場合は黙殺するのが普通であって、「ワースト」的言説を、少なくとも私は、見る機会が少ないので、その勇気に敬意を表して(?)あえて引用する次第である。
趣旨の性格上、挑発的なのはかまわない(そのせいでちょっと小気味よい)が、量的制約のせいか、残念なことに若干文章に品がないことが惜しまれる(微妙ではあるが)。日本人(とは限らないかもしれないが)はどうも批判となると、感情的前傾姿勢となって、品に欠ける場合が多いようである。
内容については見ていない、見に行く必要はないと事前に判断したのだから、コメントのしようもない。
なお、アンダーラインは私河村が共感というか、引っかかったところである。
以下引用
例年のように、ワーストも挙げておく。 残念ながら今年は、ワースト候補が非常に多かった。「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」(水戸芸術館)や「五木田智央 PEEKABOO」(東京オペラシティ アートギャラリー)、「建築の日本展:その遺伝子のもたらすもの」(森美術館)、「カタストロフと美術のちから展」(森美術館)などはワースト上位に食い込むラインアップだが、すでに著者はレビューなどで触れており、ある程度議論もしているので、そちらを参照していただきたい。
ワースト3位は「民藝 MINGEI -Another Kind of Art」(21_21 DESIGN SIGHT)。「クールジャパン」でオタク文化が喰い荒らされた後、次なるオリエンタリズムの生贄として「民藝」が担ぎ出されるのは時間の問題だと思ってはいたが、今年に入ってすでにその兆候が見え始めている。 民藝とは、良くも悪くもイデオロギーとして人工的につくられた概念であり、そのことに対する再検討抜きで称揚すべきものでは決してない。しかし本展は、日本民藝館の館長である深澤直人の無内容な「ポエム」とともに、ひたすら民藝をフェティッシュとして愛でるという、目を疑うような内容だった。
ワースト2位は、「起点としての80年代」(金沢21世紀美術館)。1980年代の日本現代美術に対して、サブカルチャーの影響をいっさい認めないという強い意思を持った展覧会。明確な仮想敵として、椹木野衣によって提唱された90年代の「ネオ・ポップ」が名指しされている。80年代の現代美術が、オタク文化を中心とするサブカルチャーとの影響関係で語られる「ネオポップ」の前史として扱われるがよっぽど嫌なのだろう。 しかし、本展で取り上げられている作家の半数以上が、サブカルチャーから明らかな影響を受けていたり、あまつさえサブカルチャー出身だったりすることについて、どう説明するのだろうか。
そもそも、椹木史観が支配的になったのも、70年代以降の日本現代美術史をまともに編纂してこなかった美術館側の責任でもあるはずだ。自分たちの怠惰を棚に上げて、明らかに事実に反する歴史観を恣意的に語るのはいかがなものか。 独自の歴史観を語るのは結構だが、キュレーターのテキストを読んでみると、結局は「関係性の美学」や「オルターモダン」といった「グローバル」に流通する業界用語に沿って説明できるよう、サブカルチャーをノイズとして排除しただけのようだ。業績を積んで国際的な舞台で活躍したいという学芸員の野心のために、歴史が歪められ、作品の文脈が忘れ去られる。彼らはそのうち、90年代にも手を伸ばすことだろう。
ワースト1位は、新しくできたギャラリー「ANOMALY」でのオープニング展のChim↑Pom「グランドオープン」。本展によって、1990年代から続いた現代美術のひとつの流れが、完全に終わってしまった。もはや国内のコマーシャル・ギャラリーにはなんのアイデアもなく、Chim↑Pomもその閉塞状況を打ち破るどころか、コマーシャリズムにだらしなく身を委ねていた。 本展については、年明けに公開されるレビューで詳しく論じたので、そちらを参照してもらいたいが、間違いなく2018年のワースト1位であり、ひとつの時代の終わりを告げる記念碑的事件であったと言えるだろう。
↓ ワースト3位の「民藝 MINGEI -Another Kind of Art」
↓ ワースト1位の Chim↑Pom「グランドオープン」
⑥長谷川新(インディペンデント・キュレーター)
https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19071
「全部見せます!シュールな作品 シュルレアリスムの美術と写真」
(横浜美術館、2017年12月9日~2018年3月4日)
江上茂雄:風景日記
(武蔵野市立吉祥寺美術館、2018年5月26日〜7月8日)
修理完成記念特別展「糸のみほとけ-国宝 綴織當麻曼荼羅と繍仏-」
(奈良国立博物館、2018年7月14日~8月26日)
⑦番外編 岩渕貞哉(『美術手帖』編集長) https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19097
村上友晴―ひかり、降りそそぐ
(目黒区美術館、2018年10月13日~12月6日)
ヒスロム —仮設するヒト—
(せんだいメディアテーク、2018年11月3日~12月28日)
変容する周辺 近郊、団地
(東京都品川区八潮5-6 37号棟集会所、2018年10月21日~11月4日)
他人の「ベスト」やら「ワースト」やら引用やらで、そろそろ力尽きてきた。
しかし、「ベスト」というからには、地域的な制約はある程度やむをえないにしても、2018年の日本全体の美術展を幅広く鳥瞰したうえでの「ベスト」であってほしい。とこう書いて、あらためて見直してみたら、「数多く開催された2018年の展覧会のなかから、6名の有識者にそれぞれもっとも印象に残った、あるいは重要だと思う展覧会を3つ選んでもらった。」とあった。つまり日本限定とは書いていなく、あくまでその6名の個々人の印象ということだったのだ。
つまりはそれぞれの「マイベスト」なのだ。それはそれで悪くはないが、『美術手帖』の「2018年展覧会ベスト3」と書かれると、公的メディアなのだから、やはりある種の客観的視点を期待してしまうのだ。ましてや光州ビエンナーレといった海外の展覧会まで含むとなると、これは全く個人的なものでしかないではないか。というのは、ないものねだりというか、場違いな誤解であろうか。むろん美術の鑑賞というのは、基本的に極めて個人的な営為である。だからこそメディアにおいては「マイベスト」ではない「ベスト」も見てみたかったと思うのである。
またそれぞれのコメントがその展覧会の「文脈」ということに寄りかかりすぎているように思われることも気になった。言うまでもなく、文脈・パラダイムというものは重要なものであるが、文脈でしか語れない批評というものは困ったものである。評者と作品そのものとの力強い体験が文章から感じられなければ、文脈やパラダイムといった狭い入り口を通してしか美術を見ていない、感じていないのではないかと思われるのである。それもまた、ないものねだりであろうか。
ともあれ「2018年に見た展覧会・国内篇」は、今回思いがけず「その1 ある8人の『マイベスト』」として、長い前書きに終わってしまった。引き続き続編というか、本編を書くつもりではいるが、さて…。
(記:2018.2.9)