艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

『メッセージのゆらぎ』と体験的「博士課程・博士論文」のこと ―その1 博士課程入学まで

 あまり認めたくはないのだが、私はヤフオクの、まあヘビーユーザーに近いだろう。波はあるが、ここ10数年、外国切手、マッチラベルから外国紙幣、蔵書票など、さまざまな紙物コンテンツの蒐集にハマり続けているのである。だが、今ここで言おうとしているのはそのことではない。

 そうしたオークションを重ねる過程で、何回か自分の作品や出版物が出品されるということを体験したのである。

 

 ヤフオクにはアラートという機能がある。自分の興味の対象である単語を登録しておくと、その単語を含んだコンテンツが出品されると、通知してくれるというものだ。範囲を絞り込んで使うと、探す手間が省けて、それなりに便利な機能である。

 ある日、ふと思いついて自分の名前「河村正之」と登録してみた。するとたまにではあるが、「河村正之」の語を含む商品が出品されると、通知が来るようになった。私の作品が出品されていたと知ったのは登録以前のこと。幸いなことにというべきか、登録以降は、作品の出品はされていないようだ。出品されるのはたいていは『山書散策』(2001年 東京新聞出版局)だが、ごくまれに、『メッセージのゆらぎ』が出る。二か月ほど前にもそれが出た。

 

 ↓ ある日のヤフオクの画面

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 ↓ 下段にはていねいに内容の画像まで出ています。

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 入札する人がいるかどうかはわからないが、ブログのネタになるかなと思って、今回は一応画面を撮影しておいた。日付の部分は写っていないが、二月の末頃だった。落札されないにしても、それならそれで、いずれすぐ出品されなくなってしまうだろう思っていたら、案に相違して、二か月たった今も三日ごとに、おそらく自動的に、再出品され続けている。途中で一度値下げされた。

 

↓ この時点では1180円 今日4月25日(まだ出てる!)では1000円

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 そうなると私としても、精神的に少々苦痛というか、苛立ちのような、モヤモヤとしたものを感じないでもない。その感じが発酵して、とでも言おうか、同書を発行するに至った経緯や、その母体となった博士課程、博士論文といったことについて、そしてそれを巡るこの30余年にわたっての、若干のモヤモヤしたもののあれこれについて、ちょっと記してみたくなったのである。

 余談だが、それについては、つい先日読んだ『最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常』(二宮敦人 2019年 新潮文庫)の影響がなくもない。同書は東京芸大彫刻科在学中の女性と結婚したエンタメ系の小説家が、妻のユニークな言動に驚き、その土壌(?)である芸大に興味を持って取材した、エンタメ聞き書きノンフィクションとでもいうべきもの。私が在学していた頃とはだいぶ時代も違うが、そうした差異はともかく、エンタメノンフィクションとしては楽しめた。(まあ、正直に言えば、そこに微妙な苦みというか、嫌みもあるのだが)

 

 当事者にとっては特に面白くもない、ふつうで当たり前で、振り返って見てもしんどいだけだと思っていたことが、少し視点が変わるだけで、興味深い、不思議なものに見えてくるということは、よくあることだ。博士号とか、博士課程とか、博士論文とかいった「博士」の世界にも、そうした要素があると思われる。

 しかし当事者にとっては、そうしたことを語るのは、かなり鬱陶しいところがある。一種の懐古的自虐的自慢話になる可能性も高い。したがって、書かずに済ますことの方が多いのだが、その結果、後年の第三者の目からすると、「あれはいったい何だったのか」とか「いつから、なぜそうなったのだろう」といった歴史の小さなブラックボックスが発生する。

 歴史は正史のみが歴史なのではない。取るに足らないような、一見つまらないと思われる話題、現象にも、それらが正史と縒り合わさって俯瞰されるとき、初めて歴史的実相が現れてくるものなのだ。稗史や俚史の存在意義は言うまでもない。正史ですら改竄される昨今である(註:言うまでもないが、財務省モリカケ問題や統計不正のことである。例えばこの註がなければ、数年後にはこの一行もやや意味不明瞭なものになるだろう)。

 ともあれ、そうした「鬱陶しさ」もモチベーションの一つとして書くからには、これから書くことの半ばは、いわば「駄文」や「愚痴られた回顧」となるであろうことは、予想できる。しかし、まあそれでも「博士」という「秘境」に、少しだけでも光を当ててみようということなのだ。

 前提としての、博士課程に進学するまでの経緯についてもある程度書かないと、情況が見えてこない。なるべく懐古的自虐的自慢話にならないように努めたいが、さてどうなるか?

 

 

 私が東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻)に入学したのは、1976年、三浪したから21歳の時。

 学部4年間、1980年3月、25歳で卒業だが、当然のように就職は一切考えていない。ちなみに私の油画専攻同期55名のうち、学部卒業時点で就職したのはたった1名。西武美術館、おお、すごい!と思っていたら、どうも非常勤だったようだ(正確にはわからないが)。

 他の大学のことはよく知らないが、芸大は学部生に対して、大学院生(修士課程)の割合が高い。学部油画専攻は一学年55人で、留年した者もいるが、上から落ちてきた(留年してきた)者もほぼ同数。その学部卒業約55人に対して、大学院の定員は油画・技法材料・版画・壁画の計12研究室に平均して3人ほどで計30数名、つまり半数以上は大学院に進学可能なのである。

 学部4年間といっても、焦りつつも自堕落に日々を過ごしていればあっという間で、卒業制作あたりでようやく作家としての自分の方向性がおぼろげに見えかけてきたかなといった感じである。

 学部の2年生から小さな予備校で非常勤講師のアルバイトはしていたが、進学するとなれば、当然親からの仕送りも、引き続きある程度は期待せざるをえない。大学院進学といっても何のことやらよくわからなかっただろう親も、まあ「進学」だということで承諾してくれた。

 なお大学院には12の研究室に12人の指導教官がいるが、おのずと人気の高下というものがある。学生が勝手にやれば、志望する研究室によって疎密が生じる。そのため、学生間で秘かに人数調整も行われたようであるが、私の場合は志望するT先生以外のところに行く気はなく、第一志望から第三志望まで、T先生以外の名前は書かなかった。

 

 25~26歳の大学院修士課程では、学部の頃に比べれば多少はまじめに通い、制作し、それなりに充実した日々を過ごしたが、なんせ2年間。あっという間である。学部の終わりごろから先輩に誘われて小さなグループ展など経験したものの、個展はまだやったことがなかった。修士2年目の夏頃、修了制作に取り組みつつ、「来年はどうしよう」などと、ぼんやり考えている自分がいた。

 

 ↓ 修士課程2年め あまり広くないアトリエに4人がいた。右下の金箔地テンペラは結局未完のまま、後年廃棄。 「来年はどうしよう…」 

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 おまけにそのころ、五年間交際している彼女(現在の女房)がいた。五年間も付き合っていると、男女の仲としては、もはや結婚するか別れるかしかなくなるという、分岐点というか、煮詰まった段階となっていた。歳も頃合い。結婚を決意して、相手の親に申し込みに行った。「来年は何をしているのですか?」と聞かれ、絶句。答えられない、というか、何も考えていなかった自分がいた。

 

 大学院修士課程修了後の(輝かしい?)進路としては、当時二つの可能性があった。①研究室の助手になる、②留学する、である。

 ごく少数の就職する者③(3~4名が専任または非常勤の中学高校の美術教師になったような記憶がある)をのぞいては、予備校講師その他のアルバイトをしながら制作活動をする④ということになる。むろん作品の売り上げで食えるやつは一人もいない。制作からフェードアウトする者が出てくるのもこの頃から。

 ①の助手は任期3年なので、単純な可能性としては3年に一回。私の場合はその巡りあわせの年ではなかった。また助手というのは非常勤ではあるが、一応仕事なので、人物評価の割合も大きかっただろうと推測される。その点でも自信はなかった。

 ②の留学はと言えば、当時はほとんどが、授業料も生活費のかなりの部分もいずれかの国が支給してくれる国費留学、給費制留学のこと。私費留学というのはふつうではありえなかった。それを秘かに目指していた優秀(?)な者は、学部の頃から準備おさおさ抜かりなく、授業もちゃんと出て良い成績をとり、語学の勉強もしていた。

 その後もふくめて、同級生でフランス、ドイツ、イタリア等に行った者も数いたが、私自身としては、海外に行ってまた勉強するという必然性は見いだせなかった(博士課程進学後二度ほど、ちょっとだけ模索したことがあったが、これはほぼ現実逃避に近い、また別の話)。

 ③の就職をする気は、ハナから無い。教員になろうにも、親とのかたい約束であった「教員免許」を取得する努力もせず、6年かかっても取れずじまい。したがって④のアルバイトしつつ制作活動しかないのである。

  

 そこにきて彼女(現女房)の親から言われた「来年は何をしているのですか?」の一言。これは効いた。効きすぎて、しばらくぼんやりしていた。

 それからしばらくたった秋ごろだっただろうか、突然T先生から呼び出され、言われた。「河村君、研究生を受けなさい」。

 研究生?何ですか?それ?というのが、偽らざるところ。研究生という何かよくわからない存在?領域?があるらしいというのは、何となくは知っていたが、実体は知らなかった。

 T先生というのは基本的に怖い先生なのである。その目で見すくめられると、抵抗できないのである。

 しかし、その瞬間ひらめいた。「来年の身分がある!」。「来年は何をしているのですか?」という彼女(現女房)の親父に申し開きができる。「来年は研究生です」。

 以上が研究生になった理由である。つまり結婚するために研究生になったようなものだ。

 研究生になるにあたって試験のようなものがあったかどうか、記憶にない。記憶がないぐらいだから、おそらく書類提出だけだったのだろう。かくて研究生になった五月、「現在は東京藝術大学の研究生です」と紹介されつつ、めでたく女房と結婚式をあげることができたのである。

 余談だが、その年に結婚した男性の平均年齢が27歳だと後で知ったのだが、軽いショックを受けた。まるで「普通」ではないか。

 

 さて27歳で新婚生活に入ったのは良いが、あいかわらずのバイトと大学での制作の日々。加えて家庭生活もあるわけで、忙しくはあった。研究生というのは特に年限はないと思うが、芸大の場合、ふつうは1年間である。したがって、落ち着くとすぐに「来年はどうしよう」と不安が頭をもたげてくる。

 そもそも研究生というのは「~生」と付くくせに、また高くはなかったが、授業料(?)も払っていた(ような気がする)くせに、身分としては学生ではなく、簡単に言えば単なる「大学で研究しているおっさん」にしかすぎない。したがって学割もきかない。そのかわりに何の拘束もない。しかし、そんな何となく不安定な立場であったからこそかもしれないが、ようやく自分の目指す方向も見え始め、比較的まじめに制作に励んでいた(バイトの合間にではあるが)。

 

 そんな夏が過ぎ、秋も終わるころ、T先生から呼び出しを受けた。「君、来年博士課程を受けたまえ」。

 博士課程?そういえばそんなモノもあったっけ。確か吾々が入学後少ししてできたらしい(1977年設置)。

 油画専攻でも一学年上にニ三人博士課程在籍者がいたようだが、それ以外はバングラデシュからの国費留学生KGさんと長年のドイツ留学から帰ってきたS先輩というだいぶ年長の学生と、もう一人二人いただけのようだった。このS先輩は翌年だかには技法材料研究室の専任教官になったから、人事上の緊急避難措置(?)だったらしい。

 何にしても、イメージとしても、私の選択肢に博士課程というのはなかった。3年の予備校を入れれば、学部4年に修士の2年、計9年も学生をやれば十分であろうというのが、本音。

 したがってT先生の言葉は、ほぼ晴天の霹靂であった。

 「僕、結婚しているんです。働くこともしなければならないんです」。先生、「博士課程に行けば奨学金もあるよ」。

 かくて、言われるがままに、というか、自分でも少しは考えてもみたが、実生活上での具体的な将来展望があるわけでもなく、結局、受けてみることにした。

 この頃から「積極的に流される」という人生哲学を身に着けたようである。

 

 ところで、ここまで簡単に「博士課程」と書いてきたが、正確に言うと「東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程美術専攻油画研究領域」という実に長い名称なのだ。あまりに長すぎて、その何年後かに数多くの履歴書やら略歴やら書類やらを書く必要が出てくるまで、覚えきれなかった。

 成り行き上、ここで簡単に大学制度というものを説明する。

 大学には4年生大学(ユニヴァーシティ)と2年制の短期大学(カレッジ)がある。学部があるのは4年制大学(医学部の6年制は例外)。4年制大学は、いわゆる最高学府などと呼ばれていたが、大学院は学部の上に位置づけられた、一般的に修行年限2年の(修士)課程である。

 それが現代的な種々の要請により、さらに高度な研究、教育が必要とされるようになり、研究者養成、高等教育者養成(大学教員の養成も含む)等々の要請から、いくつかの大学で修士課程の上にさらに3年の博士課程が新たに設置されるようになってきた。

 博士という学位は、従来は長年にわたっての超高度な研究成果に対して授与される、最高度の(一種の)名誉称号的なものとして位置づけられてきた。したがってそのハードルはきわめて高く、めったに授与されるものではなかった。

 しかし、近年の欧米の基準からするとそうした考えは、時代遅れの、現実世界に対応できぬ古臭いものとなり、遅ればせながら日本政府も対抗上、博士号の学位取得者を増やす必要が出てきた。そのためにはまず博士課程を、それも旧来とは異なる新たなニーズを理解して、その対応として学位取得者を多く出す気のある新設の博士課程を増やさなければならなくなったのである。

 ふつう修行年限3年のその課程で一定の単位を取得したのち、博士論文を提出し、それが認められれば晴れて「博士」となる。そうして取得した場合「課程博士」という言い方をされ、従来のような長年の研究の成果の論文を大学に提出し認められた場合は「論文博士」という言い方をされる。制度上は、両者に優劣の差はつけられていないはずである。むろん前者の方が容易に取得できる。

 この博士課程が大学の教育組織の頂点となり、その下に修士課程、その下に学部が位置づけられる。それに関連してか、大学院大学というものも出てきた。また今日多くの大学の先生の肩書が「○○大学教授」ではなく「○○大学院教授」となったのはその関係もあるのだろうが、そのあたりについては、私は詳しくは知らない。

 以上からして、言い方としては、これまで言ってきた「博士課程」は「大学院博士後期課程」となる。とすると、従来の「修士課程」は「大学院博士前期課程」となるのだろうか。大学によっても言い方が異なるようだが、詳しいことはちょっとわからない。

 

 ともあれ一応入試なのだから、年が明ければ試験がある。準備もクソもないのであるが。

 まず作品提出は当然あっただろうが、覚えていない。しかしこれは毎日制作していたので、手持ちのものを出せばよい。あらためてそのために制作したことはない。

 語学、英語もある。高校卒業以来まともに英語の勉強などしたことがなかったので、100点満点中30何点かしか取れなかったが、なんとそれが油画の中では一番高得点だったと、後で聞いた。芸大生の(油画専攻の一般的)学力、おそるべし。

 そして小論文提出。事前にお題が出されていたように思うが、そのお題は覚えていない。だが提出したもののコピーが、奇蹟的に今、手元にある。「絵画の正当性を巡って」と題された、原稿用紙21枚。超観念的な論考だが、要はダダ以降という観点から絵画の可能性を考察したもの。思えば、それが人に読まれることを前提にして書いた、初めての小「論文」、実態はエッセイであった。恥ずかしながら、苦労して読み返して見ると、言葉は硬いが、内容は本質的には今とあまり変わっていない。人間成長しないものだなと思うべきか、20代後半ともなれば、基本的な芸術思想は確立されていたのだなとみるべきか、さて。

 一応、面接というか、口頭試問もあったような気もする。「博士論文を書くなどと言い出さないでくれよ」などと念を押されたような気もするが、定かではない。むろんそんな気は全く無かった。妙な言い方になるが、私は自分から受けたくて受けているのではない、「受けたまえ」と言われたから受けているのだという、実に生意気な自負を持っていたのである。

 受験した学生の学年も研究生経由か、修士課程からの受験かなどによって前後多少の違いはあったが、10数名ほどが受験したように思う。結果は4人が合格。韓国からの国費留学生のCさん(女性:具象絵画)と1学年下の現代美術の二人(男性)である。

 以後、また28歳から30歳にかけての、3年間の学生生活が始まったのである。

 

 以下、続く。(「2018年に見た展覧会・国内篇 その2」の続きもまだ書いていないのだが…)

 

 ↓ 博士論文+作品集『メッセージのゆらぎ』表紙 内容等については次回で

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(2019.5.6 一部改訂)