艸砦庵だより

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『メッセージのゆらぎ』と体験的「博士課程・博士論文」のこと ―その4 印刷公表とルサンチマン

 

 学位授与式(1987年3月)は済んだものの、手続きはまだ途上である。

 

 審査会と前後して「製本論文(提出論文?論文提出?)」とか「印刷公表」ということが、次の課題として上がってきていた。

 「製本論文」と「提出論文」とか「論文提出」の正式な言い方は今でもよくわからずじまいだが、とにかく博士論文として認められた論文を製本し、文部省と大学図書館に納める義務のこと。一応、何となくは常識として知っていた。

 製本に際しては特に決まりはないようであるが、慣例に従うことにする。まわりからアドバイスを受けて、それなりの少し厚手の用紙を買ってくる。少し厚手の用紙は全体の束(つか=本の厚み)を出すためと、書籍としての実用性および格式(?)のために必要なのだ。

 作品篇28頁と論攷篇104頁、その他合わせて全139頁の全てを手差しコピー。これは大学のコピーを、ふつうは有料なのだが、無料で使わせてくれたのは助かった。

 コピーし終わった頁を製本業者のところに持っていき、製本してもらう。あまり選択肢も多くはなく、黒いクロス風の表紙のハードカバー、表紙と背表紙にはタイトルと河村正之の名を金箔押し、簡易箱付き。箱に貼る題箋は和紙にコピーしたものを自作。縦26.4㎝×横31㎝、厚さ3㎝、全139頁。

 

 ↓ 外観 右は簡易函

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 そうして製本し終わったものに、作品篇の頁に28点分の焼増した写真を一枚ずつ貼り込む。それらの写真は四の五のフィルムから六つ切りとかに焼増ししたもの。それだけでもけっこう費用がかかる。とにかくそれで「製本論文」が完成である。

 内容は以下の通り。

 

 

 学位論文『メッセージのゆらぎ』

 昭和62年3月 

 東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程油画研究領域 58-903 河村正之

 

 はじめに

  目次 

 第Ⅰ部 作品篇 

 (28点の作品タイトルを記載)

  作品リスト及びデータ

 

 第Ⅱ部 論攷篇 メッセージのゆらぎ

  序論 目的と方法 

  第1章 森をめぐる 

   §1 個性のゆらぎ 

   §2 方法のゆらぎ 

  第2章 《水の無い谷間》 

  第3章 技法をめぐって 

  結語 

  註 

  参考図版 

  あとがき 

  年譜 

  展覧会歴 

  参考文献

 

 ↓ 作品篇 右は写真貼り込みのため光っている

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 ↓ 論攷篇頁

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 納本用には二冊あれば十分なのだが、別に自分用に二冊と、まあ親孝行(?)のために実家用として一冊と、最低でも五冊は作った。別に油画研究室への寄贈用と、指導教官のT先生に献呈するためにもう二冊ぐらい作ったかもしれない。あるいはT先生はその後の「印刷公表」した分をもらえばいいと言ってくれて、献呈はしなかったかもしれない。計、六~七冊。

 以上、当然、すべて自腹である。正確には覚えていないが、一冊につき1万円前後かかったように思う。

 1987年5月、二冊を大学に提出する。以上でこの件は落着。

 ここまでは良い。というか、仕方がない。「次は印刷公表だ」。

 

 「『印刷公表』? それ、何ですか???

 

 「印刷公表」とは、博士号を取得した者はその後一年以内(?)にその博士論文を印刷して公表しなければならない、というものである。「しなければならない」というからには義務なのだろう。私はそのことを知らなかった。ひょっとしたらその前に聞いていたのかもしれないが、その意味するところを、正確には認識していなかった。あるいはその前段階の「製本論文(論文提出?)」と混同していたのかもしれない。例によって、知らないことばかりである。

 

 ここで少し言い訳をしておくが、これまで見てきたように、当時の東京芸大においては、博士論文にかかわる制度上の諸規定、運用上・実務上の諸規定は、あまり明確ではなかったというか、成文化されていないことが多かったようだ。最初期の第1号第2号のあたりでは、学生自らがあちこち(の大学)で「博士号の取得のしかた」と「博士号の取らせ方」を学んできて、それを指導教官や事務官に教授することから始まったと聞いたことがあるぐらいだ。原始時代と呼びたくなるゆえんである。

 博士課程の長い歴史のある旧帝大系等の大学はいざ知らず、実技系芸術系大学として初めての博士課程を設置した新興(?)の東京芸大では、マニュアルが整備されていなかったのである。のんびりしていたのである。参考にすべき前例はなく、その時々の学生たちの自由勝手な希望主張に対応協議しつつ、そのつど作り上げるしかなかったようだ。

 したがって、ここまで書いてきたように、私がその局面局面でいろいろなことを知らなかったのは事実だが、それはあながちすべて私のせいだとは言えないのである。しかもパソコンもネットも未だ存在していないのだから、知る・調べるのは、きわめて困難だったのだ。

 

 さて「印刷公表」である。この「印刷公表」は「出版」と言い換えても良いだろう。広く一般に向けてということなのだろうから、「公表」の趣旨はわかる。そのために「印刷」しなければならないのもわかる。ところで、その「印刷」は誰がするのだろう。「出版」は誰がしてくれるのだろう。

 

 第1号と第3号の人のそれは現物を見たことがないのでわからないが、第2号の油画のカジ・ギャスディンさんは1986年に『ベンガルの魂 カジ・ギャスディン画集』(日本放送出版協会)という立派な本を出版されていた。博士論文の印刷公表のはずではあるが、ちゃんと定価が付けられ書店で売られる本、あくまで一般的な画集の体裁、つまり商業出版としてのそれである。「カジ・ギャスディン画集」と副題されていることに、彼自身の意志もうかがえる。現物を持っていないので確認はできないが、画像で見る限り函には「博士学位論文」等の文言は記載されていない。

 

 ↓ カジ・ギャスディン著『ベンガルの魂 カジ・ギャスディン画集』函

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 当然、NHKをはじめとするどこからかの後援とか、そうしたものがあって実現した出版であることは間違いない。

 第4号の有吉徹さんの『身体なきイコン』は、論文執筆時からの一貫したコンセプト「タイトに」が、そのまま印刷公表にも持ち込まれている。コピーなのか、簡易印刷という方式なのかわからないが、当時の洗練されていないワープロ文字のままで、シンプルに製本されている。図版15点、全67頁。一見、研究紀要といった感じで、タイトである。潔く、奥付には「1000部自費出版」と記載されている。費用的な面でも、これなら自費出版でもそれほどの負担にはなるまいと推測される。

 

 

  ↓ 有吉徹 『身体なきイコン』

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  このカジ・ギャスディンさんと有吉さんのそれとを目の前において、見比べて、考え込んだ。

 二冊の本を並べ、見比べてみれば、その格差というか違いは一目瞭然である。「製本論文」の段階までは、「博士論文」の本質が作品であり、論攷であり、その内容・質であるということを共通理解として事態が進行してきた。だが印刷公表の段階で「本」の形を成してくると、制度・義務としての「論文」の意味よりも、「物質/書物/本」としての存在感、美しさの方が優位性を主張し始めるのは、否定しようがない。

 前提として、私の論文+作品集を出版してくれるところが、あるはずもない。知り合いの画廊等に名義を借りてというやりかたも、そこまでの付き合いのある画廊はない。できない可能性を探ってもしかたがない。何よりも有吉さんの「1000部自費出版」が潔い。というか、現実的には自費出版しかないのだ。

 

 「印刷公表しなければいけない」と言われ、その意味を理解した時、私は本当に激怒し、次いで途方に暮れた。今だからこうして冷静にそのことについて書けるのだが、段階ごとに課題を順次出され、その一つ一つをクリアするたびに、さらに次のより難しい課題を課され、しかも後になればなるほど費用がかかる。しかも、それらは当然の制度として持ち出される。

 どう考えても釈然としない。博士課程-博士号-学位取得の関係制度性はわかる。その延長上の印刷公表も趣旨理念としては納得できる。しかし、その現実的な制度的拘束性が納得できない。印刷公表に伴う費用負担等についての裏付けやアナウンスは、一切なかったのだ。これまでにさんざん経費はかかっている。やむをえないというか、そのつど渋々ながら納得はしている。

 しかし、もしも博士課程受験の前に、「博士号を取得するにはトータルこれだけの費用がかかります」といったアナウンスがあったなら、どれだけの学生が博士課程受験や学位取得を目指しただろうか。少なくとも私は博士論文を書きはしなかった。私は富裕階級ではない。稼ぐ時間を削ってでも絵を描きたいのだ。

 当時の他の大学、他の分野ではどうだったのだろう。大学研究紀要等への投稿では済まないかもしれないが、論文=論攷中心の分野であれば、経済的負担はさほど重くはなかったかと推測はされるが。

 

 その後、博士論文のWeb上での公開が認められたことによって、印刷公表という制度はなくなったらしく、それに伴う学生の経済的負担もなくなったようだ。吾々の苦労は過渡期のものでしかなかったのかもしれないが、まさにその過渡期であったがゆえに苦労し、過重な出費に苦しみ、激怒し、途方に暮れたのである。

 私の怒りの持っていき場所は、どこにもなかった。

 

 すべての絵描きは、自分の画集・作品集を出したいという夢を持っている。

 画廊での個展の薄い図録はともかく、できればもう少し立派なというか、なるべく多くの点数を載せた「画集」「作品集」といったおもむきのあるものを出したいのだ。

 ITの進化に連れて、出版は容易に、安価になってきた。しかし、その当時はまだ作品集を自費で出すには、かなりの費用を要した。博士号を取らなければ、作品集を出版するなどとハナから考えもしなかっただろうし、事前に費用の事を知っていれば論文=論攷を書きだしはしなかった。だが、その時私の置かれていたのは「一年以内に印刷公表しなければならない」、それも現実的には自費出版で、という追い詰められた情況だったのである。もとより「印刷公表」を拒否するという選択肢はなかった(もし、拒否したら、どうなったのだろう?想像するのもちょっと怖いが…)。

 

 カジ・ギャスディンさんと有吉さんのそれを見比べてみれば、おのずとその中間のものを目指したくなる。有吉さんのタイトな印刷公表でも実質としてはかまわないのだが、どうせ怒りを抱えつつやるからには、カジ・ギャスディンさんのものに及ばぬまでも、同様の画集的意味合い、つまり作品の方を主とするものとしてあらしめたいと思った。少しでも多くの作品を載せたい。私は、私の画家としての夢を実現したくなった、つまり「作品集」を出したくなったのである。怒り疲れるのはウンザリだ。それよりもその逆境を逆手にとって、夢を実現したくなってきたのである。

 求められているのは学位論文の公表であるが、ならばその中に「博士論文(=作品篇+論攷篇)」の全てが掲載されていれば、それに加えて多くの作品図版その他を載せた「論文+作品集」として作るのはさしつかえないはずだ。それは私の自由であり、権利でもあると思った。その後を含めて、他の学位取得者はどう考え、どう実行したのか、知らないが。

 

 怒りは長くは続かない。長くは続かないが、それはルサンチマン(怨念)として沈殿してゆく。それは今に至るも完全には消えていないのだが、それはそれとして、夢の実現を追求することにした。

 

 印刷や出版に関しては素人の私だったが、あちこちに相談しながら、まず印刷会社(廣橋精版)を紹介してもらった。その道のプロと相談すれば話は早い。幸いそれまでの作品のほとんどは、知り合いに依頼して(有償で)ポジフィルムで撮影してあった。そうでなければ、費用的には相当厳しいものになり、かなり質を下げざるをえなかっただろう。未撮影の何点かは、こちらの事情を理解してくれたその印刷会社のカメラマンに格安で撮影してもらうことができた。

 サイズは大きすぎず小さすぎずといったところで、A4。書棚に保存されるよりも手にとって見やすいものにしたいということで、また費用の点からも、ソフトカバー(並製本)にした。

 最も重要な図版頁のレイアウトを、デザイナーに依頼する余裕はなかった。それに面倒ではあっても、せっかくだから自分で手がけてみたいという思いも生じた。教えてもらって、レイアウト用紙なるものを買って、生まれて初めてレイアウトなるものに取り組んだ。

 「作品集」であるからには、図版頁をなるべく多くしたい。図版頁を増やせば、当然ながら費用は高くなる。なるべく多くのカラー図版を入れたいが、同様である。当時は展覧会図録でもカラー頁の割合は半分以下だった。

 価格一覧表を横目で見ながら、図版の頁と文章の頁の割合を勘案する。製版の都合上、頁の割り付けには8の倍数という決まりがある。その制約の範囲でしかできないというか、その制約を楽しむしかない。図版頁のカラーとモノクロの割合、組み合わせを考える。制作の時系列、作品サイズ、自分なりの評価、それらの要素を掛け合わせ、ああでもないこうでもないと、掲載する作品の取捨選択に頭を悩ます。パズルのようなものである。

 途中からは腹をすえて、費用のことはあまり考えないようにした。ある程度高くなっても、少しでも良いものを作りたいと思うようになった。

 結局は、カラー図版頁16頁(作品点数23点)、モノクロ図版頁32頁(作品点数53点)、論攷部分が50頁、全111頁という構成に落ち着いた。

 

 ふとしたきっかけで、詩人の宗左近さんから一文をいただいた。他の評者の数編も資料的な意味で掲載することにした。

 

  ↓ 左頁 「反抒情の抒情 河村正之小感」宗左近

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 表紙デザインも、結果的には自分らしい、案外気に入ったものができた。全体を通し て、それなりに苦労はしたが、意外と楽しい作業でもあった。

 ここまでできれば、以後は業者さんの範疇。校正、色校正も初めての体験だったが、特段の問題もなく進行し、完成の姿が見えてきた。

 

 

  ↓ 表紙

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 内容は以下の通り。

 

『メッセージのゆらぎ 河村正之 1979―1987』

(扉) 論文・作品集 1979―1987

 

 目次 

  「反抒情の抒情」宗左近 6(頁 以下同様)

  評より―抄― 7

  はじめに 8

  作品図版 9

  作品リスト及びデータ 57

  論攷―メッセージのゆらぎ― 61

   序論 63

   第1章 65

   第2章 85

   第3章 91

   結語 97

   註 100

   参考図版 106

   あとがき 108

  略歴 個展 グループ展・その他 参考文献 109

 

1987年9月31日発行 発行者:木村郷子 印刷:廣橋精版

 

 目次では上記のように「論攷―メッセージのゆらぎ―」として項目と頁が記されているだけだが、実際の本文中では論攷部分の序論から第3章は、製本論文と同様に、次のようにタイトルが記されている。

 

 序論 目的と方法 

  第1章 森をめぐる 

   §1 個性のゆらぎ 

   §2 方法のゆらぎ 

  第2章 《水の無い谷間》 

  第3章 技法をめぐって 

 

  ↓ 図版頁 カラー図版

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  ↓ 図版頁 モノクロ図版

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 「印刷公表」ということと、「論文・作品集」の関係を担保するために、「はじめに」において「学位論文の対象作品16点と、論攷篇を補足する12点」に「さらに50点の作品を加えて、作品集としての意味も持たせました」と記した。

 発行者の木村郷子は女房(旧姓)のことである。有吉さんのように「自費出版」と記するほど潔くなかったのである。あるいは、論文執筆の間、苦労をかけた(?)女房にわずかでも感謝したい気持ちもあったのか…。

 

 形は出来上がったが、問題は部数である。いくら刷るべきか、初めてのことでもあり、見当がつかない。製版さえできれば、部数が多いほど一冊当たりの単価は割安になる。先の有吉さんは1000部。1000部は多すぎるだろうが、さて。

 根拠はなかったが、何となくといった感じで700部とした。後に少々後悔したのだが、この数字は多すぎた。

 

 費用、ざっと200万円。これがすなわち三回目の(必死の)「一生のお願い」だった。父にもさすがに言いたいことはあったと思うが、「博士」号が効いたのだろう。やれやれといった感じではあったが、出してくれた。むろん「いずれ、必ず返すから」と言ったはずだ。

 200万円もかけずにできる範囲でやればよいという考えもあるだろう。それはそれで正しい意見だ。

 しかし、人には、というか絵描きには、どこかで無理を承知でジャンプしなければならない時があると思う。その時も、無理をして出して良かったと思った。今でも、そう思っている。私自身、その作品集をどれだけ見返し、論攷を読み返しただろう。欠点はいくらでもある。しかしそこにあるのは、まぎれもなく私の描いた作品であり論文なのだ。

 今見返しても、ささやかな懐かしさとともに、そのつど自分の作品に向かい直さざるをえない、真剣な今現在が立ち上がってくる。

 

 振り返って見れば、T先生から「書きたまえ」と言われてから、出版するまでの二年弱の間で最大のエネルギーを費やしたのは、結局のところ、自費出版しなければならないと認識した怒りから、そのための作業に取りかかり始めるまでの間の、精神のコントロールに対してだったかもしれない。

 

 博士論文初期の私たちの頃から、Web上での公開が認められ印刷公表という制度がなくなるまでの間に、何人の学位取得者が(その中でも特に実技系の学位取得者が)印刷公表したのだろうか。「印刷公表」といいながら、大学図書館にはあるにせよ、そのその後の学位取得者の印刷された論文を手にしたことは、不思議なことにほとんどない。

 同時期に取得した三人だが、印刷公表が完成した時期はバラバラだったために、他の二人のを見た記憶はない。大学に足を向けることもなくなった。

 第5号の三宅さんは、なんと3000万円(?)かけて総漆塗りの桐箱に納めたものを作ったという噂だった。話半分としても凄いが、実物を見ていないので、実際のところはなんとも言えない。だがそれだけの費用とそこから予想される発行部数からすれば、「広く一般に公表する」という趣旨とは正反対のものであると思わざるをえない。

 彼は特殊な例であろうが、それぞれに多大な費用をかけて印刷公表/出版するには、論文執筆もふくめた一連の流れが自分にとっても一つの作品であり、表現行為であるといった、意識の変容ないし変革が少なくとも途中からでも伴わなければ、完遂することは困難だ。費用をかけるのはそれぞれ勝手であるかもしれないが、単なる一連の事務手続きの一つではすまない、つまり作家・表現者特有のモチベーションと成ったのだと言うべきかもしれない。

 それはそれで良いとしても、やはり、ほとんどの場合自費出版の形を取らざるをえないというのは「作品篇=図版頁」が必須とされる実技系学生にとっては、大きな負担である。その負担は、学位取得の流れにおいて、不条理であったと思う。

 

 Web上での公開が認められ以来、その不条理は消滅した。しかし、過渡期にあった私(たち)のルサンチマンは解消しきってはいないのである。

 むろんそのルサンチマンは、直接的間接的に指導していただいた先生方や、関係した方々に向けられるものではない。当時の過渡期としての制度性と、その制度を統括していた文部省から東京藝術大学といった体制や、結局のところ、われわれの生きた時代性そのものに向けられたものである。

 個人としてはそのルサンチマン以上の、「作品集」を編めた喜びをもってしても、それは忘れ去られるべきではないと思う。           (記:2019.5.3)

 

以下、その5に続く