艸砦庵だより

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個展「耀ふ静謐」 レポート―7 「をみな」に関連して

 さて「レポート―7」。

 前回に引き続き「をみな」関連の作品。といっても、内容、制作時期等、相互の関連はあまりないのだが、あくまで「をみな」が描かれているということで2点紹介する。

 

 私は時々、過去の他者の作品(のイメージや構図等)を、自分の作品に使うことがある。それを引用といっても参照といっても良いのだが、一種の「本歌取り」といった意識である。日本の和歌などに見られる表現思考だが、マニエリスム等を引き合いに出さずとも、古来から現代にいたるまで、先例に習い取り込むそうしたやり方は、表現における普通の方法だと思っている。むろん、その周辺に在る、模倣や剽窃と言われる場合も、意識性をのぞけば同質である。また、「本歌取り」とは別に、私はコラージュもよく使う。

 いずれにしても、「ネタ」や「パクリ」といった言い方は下品で嫌いだが、以前にちょっと必要を感じて、著作権について少し調べてみた。結局、著作権やそれにかかわる法規は、現在なお発展途上の問題としてあり、明確な基準はわからずじまいだったが、現存作家にかかわることでは盗作等の問題が生じやすいことはわかった。

 例えばマッド・アマノ白川義員フォトモンタージュ「パロディ裁判」(最高裁までいったが第三次控訴中に和解決着)とは異なる次元の話だが、2006年に芸術選奨文部科学大臣賞に選ばれてのち、現存のイタリア人画家の作品との類似が指摘され、史上初めて授賞が取り消された、元名古屋芸術大学教授の和田義彦の場合など、論外というべきであろう。余談だが、たまたまこの事件が報道された時、学部時代に彼に教わったという大学院の指導学生がいて、当時の行状等を聞いたこともあって、印象が強かった。

 なおこれも余談というべきであろうが、その時の芸術選奨の選考審査員には酒井忠康世田谷美術館長)や瀧悌三が加わっていたとのことだが、彼等の責任というのは何か問われたのだろうか。 

 まあそうしたことと直接の関係はないのであるが、私が「本歌取り」をする場合、作者の名がはっきりしていて、引用するという造形的意思が明確な場合には、タイトルの一部として(H.D./ヘンリー・ダーガー)とか、(S.S/曾我蕭白)と言ったように、出典というか、元歌の頭文字を記載する(ことが多い)。本歌取りだから、そこに元歌へのある種の敬意があるわけで、その意味も含んでのことである。すでに自分の中に取り込んだ、自分自身の要素となったと思うものについては、それが似ていようと、記載しない。

 今回紹介する3点はその「本歌取り」の系統に属するものである。

 

 

564「胡姫」

(2010.10~2016.7.9 31.5×23.5㎝ 厚口和紙にアクリルクラッキング地、樹脂テンペラ・油彩・蜜蝋・アッサンブラージュ

 

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 この作品は二、三十年前の朝日新聞に載っていた図版(27.5×21.5㎝)をもとにしたもの。絵柄をほとんどそのまま使用している。図版だけしか切り取らなかったので、おそらくインドミニアチュールであるということ以外は、いつ頃の、誰の、どんなものとも知らないまま、長くスクラップブックに収められたままだった。

 

 

 ↓ 参考図版

 (朝日新聞掲載 掲載年月日不明 インド タージ博物館蔵)

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 それから二十年以上たって、ふとそれをもとに作品にし始めたのである。途中でモチベーションというか、イメージを見失ったような時期があって、完成まで足かけ7年もかかってしまったのだが、その途中2013年にインドに旅した。タージマハルを訪れた時、その附属美術館(タージ博物館)で、思いがけずその現物を発見した。新聞に載っていた図版と違って、実際のそれは思いがけず小さな、せいぜい10数㎝程度の象牙の薄片に描かれたものだった。象牙ゆえの半透明な、なんとも言えぬ上品な半光沢を活かした不思議な色調。(撮影禁止だったので写真はない。絵葉書や図録の類もなかった。)

 その幸運な鑑賞体験にうながされて何とか完成させたのだが、やはり時間がかかりすぎたせいか、作者としては、やや精気に乏しいように思う。しかしまあ、これはこれだ。

 ちなみにタイトルの「胡姫」は、シルクロード時代の中国における紅毛碧眼の胡=イラン系異民族の若くて美しい「をみな」。緑酒と舞踏のイメージとともに記憶されている。

 

 

565「胡姫」

(2010.10.24~2016.7.9 31.4×23.5㎝ 厚口和紙にアクリルクラッキング地、樹脂テンペラ・油彩・蜜蝋・コラージュ・糸)

 

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 参考までに上げておく。

 564と565は上記したように同じ図版をもとにして、サイズと向きを変えて2点制作した。こちらはすでに東京で発表済みなので、今回は不出品。

 

 

700「憧憬と記憶」

(2016.1.25~2017.1.27  34.5×47.9㎝ 水彩紙に和紙・膠地、鉛筆・彩墨・アクリル・セピア・コラージュ)

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 「女」ではあるが「をみな」とは多少位相が違う。元になったのは誰もが知っている有名な女優。だがその女優がヌード写真を撮ったという話は聞いたことがない。ネット上で拾ってきたそれは、おそらく別の女性のヌード写真(全身の三分の二ほどの構図)に、その女優の顔をすげ変えたフェイク写真(アイコラなどと言うそうだ)というべきものでないかと想像される。痛ましいといえばそうなのだが、そうした下劣な写真にも美しさ(と言ってはいけないのかもしれないが)はある。

 少々やましさを覚えながら描いたのだが、思い返してみれば、少年時代に大人たちの見ていたヌード写真をこっそりと垣間見る時には、いつもそんなやましさがあった。そのやましさを透かして見える美しさへのあこがれ。タイトルのゆえんである。

 会場で、ある人(女性)がこの絵を一番好きだと言ったのは、救いであったかどうか。