艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

裏山歩きか石仏探訪か―天竺山・石山の池、大悲願寺、その他(2020.6.23)

 梅雨入りした。一年で最も苦手な季節だ。

 裏山歩きはこの時期、最も辛い。藪は繁茂し、風は通らず、蒸し暑い。おまけに蜘蛛の巣だらけ。ヤブ蚊もいるし、ダニもいる(らしい)。しかし、運動はしなければならぬ。ウォーキングではもの足りない。裏山でもよいから、山を歩きたい。もっと高い山に行けばよいのだが、諸般の事情(主に生活習慣の問題)から、そうもいかない。ということで、不快指数90%の裏山歩き+石仏探訪。

 

 自宅から歩いて、20分で三内神社。そこに至るまでの、いつも歩いている路傍に、庚申塔を2基(再)発見。次いで小さな木の祠も見るが、併設された石祠と共に、正体はわからず。と、かくのごとく、それまで気づかなかった、あるいは無視してきたいろいろなものを見出すが、先を急ぐ。

 

 ↓ 三内川を見下ろす。ほとんど知られていない、今はほとんど使われていない鉄の橋が架かっている。

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 線路を渡り、御岳神社の小祠を右に見て、石段を登れば、三内神社。ここはやや迫力のある狛犬二体のほかはさほど見るべきものはない。

 

  ↓ 三内神社

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 裏に回れば、2基の石祠が稲荷社。かたわらに「□(読めず)石稲荷大神」と刻まれた石碑。これは『あきる野市の石造物』には出ていない。そのすぐ上の木の祠は金毘羅宮

 

   ↓ 三内神社の裏奥の稲荷社にある石碑 最初の一字が私には読めない。

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 山道(表参道)を辿り、尾根に出て、一部崩れかけた趣のある伊奈石の階段を登れば、天竺山山頂(三角点なし310m圏)で、三内神社本社がある。山頂はまた少し伐採され、その材を使った椅子やテーブルが設置されていた。

 

   ↓ 伊奈石で作られた石段。崩れかけが良い味を出している。

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   ↓ 天竺山山頂=三内神社本社

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   ↓ 一応、天竺山山頂。あきる野市から梅雨空の都心方面をのぞむ。

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 そこから今日の課題の一つである、石山の池に向かう。室町時代ごろから採掘されていたという伊奈石の採掘場跡が、すり鉢状の底にわずかな水をたたえている。ここはいつ来ても大体こんな陰気なふんい気だ。一見浅い窪みのように見えるが、周囲の崖を見ると、そうとう深く掘り下げられたことがわかる(註1)

 

    ↓ 石山の池。いつも陰気です。

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    ↓ 石山の池に残る矢穴(楔打ち込み用)。以前に風化剥離防止措置を施したことがあるそうだ。

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 側壁の一部には割り出す時の矢穴(楔を打ち込むための穴)が残っている。この遺跡や伊奈石全般については、地元に「伊奈石の会」というのがあり、長く研究調査保存活動等をされておられるが、この矢穴跡にも風化剥離防止剤を塗布するなどの保護に努められているそうだ。最近、そこの会誌を三冊ほど入手し、面白く読んでいる。

 彫り出された石材は、需要に応じて、この地でおおよその形に整形された。池の前後には、整形後の石屑によって、小広いスペースが形成されている。その一角に「山の神」が置かれている。

 

    ↓ 山神社 彫の鋭い良い味。

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 荒く整形した細長いかけらに単純に「山神社」とだけ鋭く刻み込まれている。年記等もなく、いつ頃建立されたものかわからない。だがそれがあるだけで、かつてここで働いていた人々や、それによって作られた様々なもの、人々の暮らしなどが一挙に現実的なものとして思い浮かべられるような気がする。ちょっと傾いていたのを直しておく。

 (註1):「『新編武蔵風土記稿』には「信濃國伊那郡より石工多く移り住みて専ら業を廣くせし故に村名となせり、天正十八年(*1590年)御入国の後、江戸城石垣等の御用をつとむと云えり」とあるが、すでに12世紀には伊那から来住・開発し、伊奈石は多摩地域に流通していたとの神社の記録もある。伊奈石は硬質粗粒砂岩。加工しやすく、石碑、石仏、五輪塔、また石臼などとして利用された。」(コース NO.42横沢入から横沢丘陵、武蔵五日市駅 多摩百山/公益社団法人 日本山岳会東京多摩支部  http://www.jac-tama.or.jp/tama100.jac-tama.or.jp/course/course_42.html より)

 

 いったん天竺山まで戻って西側尾根を辿る。

 

    ↓ 天竺山から横沢入西側尾根、そして南側尾根へ。こんな感じで、山歩きの面白みは特にありません。私は嫌いではありませんが。

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 尾根が東に曲がるあたりの小ピーク(270m圏)でうっすらと記憶にあった祠(愛宕神社奥の院)を確認。現在は新しいコンクリート製のものだが、その後ろに古い「石祠」の残欠が放置されている。

 

    ↓ 今はコンクリート製に変わった愛宕神社奥の院

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    ↓ その後ろに放棄された古い伊奈石製の祠の残骸

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    ↓ 塔身に残る(雪中?)筍掘りの浮彫。風化は進む。

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 見ればその塔身(祠)には素晴らしい絵(浮彫)がほどこされている。前回何年か前にはその絵があることに気づかなかったのだろうか。あるいは見落としていたかもしれない。「信州石工森屋市之丞作」との由(註2)

 

    ↓ 同じく「松の木の下で巻物を見る少女(?)」の浮彫。本当に良い味。

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 だが「松の木の下で巻物を見る少女(?)」の絵がわからない。「筍掘り」が「雪中筍」のことだとすれば、「二十四孝」かと思って、ざっと当たってみたが、どうもこの絵に該当する話が見えない。せっかくだから、この絵の意味するところを知りたいものだが…。

(註2):『あきる野市の石造物』(平成24年 株式会社ダイサン:編集 あきる野市教育委員会発行 p.257) なお同書掲載の図版と比べると、今回見たものはさらに風化剥落が進んでいるように思われる。このように完全に新しい祠が再建されて放置されているのだから、この素晴らしい残欠部分だけでも五日市郷土博物館にでも収蔵保存してほしいものだ。)

 

 さらに進み、右手に大悲願寺の墓地への分岐を見送って、もう少し行った先にポツンと小さな石碑を見つけた。

 

   ↓ 「金毘羅神石」の碑。二つに割れていたのを据え付け直して撮影。石碑も壊れ、風化する。滅びないものはない。

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 二つに折れて文字面が見えなくなっていたが、持ち上げて積み直してみれば「金毘羅神石」の文字塔である。何年か前に確か見たことがあるような気がしてここまで足を伸ばしてみたのだが、やはりあった。三内神社の奥にあった金毘羅宮奥の院にしてはいささか意味の分からない場所だが。また「金毘羅神石」という表記もあまり見かけないように思うが、まあ、わからないことはわからないままで良い。

 

 いったん先ほどの分岐まで戻って、大悲願寺の墓地に下りる。そのまま境内の中の古い墓地域と観音堂(無畏閣)の周りをゆっくりと見て歩く。前回はサラッと見て気がつかなかったいくつもの石仏を新たに発見する。「五輪地蔵」も珍しいもののようだが、立派な解説板が設置されている。

 

   ↓ 大悲願寺境内墓地内の五輪地蔵。舟形光背に五輪塔が刻まれている。若くして京都智積院で修行中に早世した愛弟子を悼んで建立した墓石とのこと。寛延元年/1748年建立。

しかし、よだれかけや帽子はなるべく施さないでほしいものだが…。

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 私は石仏には興味があるが、墓石となると、やはりあまり良い気はしないというのが正直なところ。だが、いわゆる「石仏」には、特に「古い形式の墓石」が含まれることがあるのは時代の変遷の中でやむをえないことなのである。場数を重ねてくると、慣れてきて、鑑賞には差し支えなくなってくる。無縁墓石の集合という感じで前回はあまりよく見なかった「無縁塔」をじっくり見てみると、小型の五輪地蔵や如意輪観音馬頭観音などの、良い味のものをいくつも見出すことができる。

 

    ↓ 無縁塔にある如意輪観音3基と右下、聖観音(?)。墓石だったようだ。

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 中に一つ不思議なものを見つけた。四角い一つの石に二体の像が刻まれたものである。一瞬双体道祖神かと思ったが、見慣れたものとは違う。

 

    ↓ 一つだけあった双体像。双体道祖神へとつながる両親を供養した祠内仏だったのか。

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 帰宅後調べていたら田中英雄『東国里山の石神・石仏系譜』(2014年 青蛾書房)の中に、「祠内仏は道祖神の原型か」というのを見つけた。夫婦一体像≒二尊仏⇒双体道祖神という論考で、まだよく理解しきれてはいないのだが、そうした種類のものであるようにも思われる。檜原で別のタイプの双体像(首だけのもの)を見たことはあるが、それをのぞけばこの近くでは見たことがない。これからの研究(?)が楽しみである。

 

一通り石仏系を見たのち、久しぶりに観音堂(無畏閣)の彩色欄間彫刻や、山門の天井画などを見る。

 大悲願寺そのものは源頼朝の命による建久2年(1191)の創建だが、観音堂は1794年の建立で1824年以降に欄間彫刻を追加。共に内部は見たことがない。そういえば本堂やその周辺もまだほとんど見たことがない。そちらはなんだか現在営業中の寺という感じがして、足が向かないのだ。

 ともあれ、2005~2007年の修復工事で観音堂の欄間彫刻も彩色され直された。完成当初はキンキラでいかがなものかと思ったが、すっかり落ち着いてきた。アジア各地域の地獄絵などと比較して見る。

 

     ↓ 観音堂(無畏閣)の彩色欄間彫刻。嘘つきは舌を抜かれ、左で釜ゆでにされる。

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      ↓ 同じく、三途の川の奪衣婆。左は地蔵。

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 その後ろにももう一つ御堂があり、浮彫の施された小堂があったが、正体はわからない。

 

      ↓ 小堂には何の説明もなく、格子戸には南京錠。鳥居と御幣があるからには神道の祠だと思うが。

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      ↓ 同上。側面の浮彫。格子の隙間から苦労してズーム。

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 楼門(仁王門)は1613年に建てられ1669年に再建。格子天井には四季の花が描かれており、少し味がある。作者は幕末の絵師・藤原善信と森田五水とのことだが、詳しくは知らない。 

 

      ↓ 大悲願寺の山門=楼門。

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    ↓ その天井画。納札がべたべたと貼られているのが痛ましい。今でもやる人がいるが、文化財の破壊だ。やめて欲しい。

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     ↓ 一格子ごとに四季の花が描かれている。これは水仙

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 やれやれ、充分満腹した気もするが、帰りがけの駄賃とばかり、近くの愛宕神社に足をのばす。踏切手前を右にということだったが、どう見ても私有地の畑の一画。意を決して進めばすぐ右手にコンクリートの階段があり、未舗装だが立派な車道が通っている。すぐ先に愛宕神社はあった。神社そのものにはあまり見るべきものもないが、入口にある杉の巨木(市指定の保存木)の根元に、小さな石祠2基に挟まれた山の神の碑があった。おそらくどこか別の場所にあったものが移されてきたのではないかと思う。

 

     ↓ 愛宕神社奥の手前。二つの石祠に挟まれて山の神が傾いでいる。右の巨木は指定保存木(?)。

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    ↓ 梵字種子は馬頭観音金剛夜叉明王を表すが…。どの系統だろう。

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 一部に割れと剥落もあるが、「梵字種子(ウーン) 山神 □境」の刻字が読み取れる。うん?山の神に梵字種子?山の神の出自というか分類はだいぶややこしく、種類系統も多いのだが、ざっくり言えば、「神」なのだから神道系である。梵字サンスクリット文字)種子は仏教の如来・菩薩・明王・天に対応するもの。神仏習合時代の名残かとも思うが、それ以上は不勉強でよくわからない。ちなみにこの種子はフォントがないので表記できないが「ウーン」と発音し、馬頭観音金剛夜叉明王を表すものとのことである。

 

 さて、さすがにもういい。と言いつつ、帰路も大悲願寺手前で右に急下降する石段を下りる寄り道をして、淡い記憶の陰に埋もれていた「廿三夜塔」を再発見。さらに帰路にあるいくつかの石仏を再確認しながら、ようやく自宅に帰り着いた。

 

    ↓ 廿三夜塔。元治2年(1865年)建立。廿三=二十三。二十三夜の月の出を待ちながら、念仏を唱える。後世には信心から歓談、会食といった娯楽の場に変容していった。

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 普通なら1時間半程度の行程だが、撮影したり、鑑賞したり、探索したり、考察したりで、その倍の時間がかかった。何度も歩いているはずの途中の行程でも、今まで気づかなかった、目に入らなかった石仏やらあれこれに気付く、発見するところがあり、なんだか、楽しかったような気がする。

 

 しかしそれはそれとして、やはり裏山歩きは秋から春にかけてのもの。石仏探訪もそうだ。だんだん爺くさい趣味にハマっているとは思うが、それそれでまあ、良い。しかし、私の「山登り」はどこに行ってしまったのだ…。 

                             (記:2020.6.24)