艸砦庵だより

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「小ペン画ギャラリー―6 家族」

 家族、つまり自分の妻や息子を、また両親や姉たちを、作品として描いたことはこれまでない。そう思うと、ちょっと情の薄い男なのかなとも、思う。

 若いころは、自画像を描くのが好きだった。と言っても、予備校での課題の油絵数枚にすぎないが。別に、日々の修練としての自主的なデッサン(クロッキー)でも自画像はずいぶん描いた。だが、それも「作品を制作」するようになってからは、描いていない。

 画中にモチーフとしての人物を入れることはあっても、そもそも「人物画」を描くという意識を持ったことがない。そうした志向の結果として、気がつくと、家族を描いた作品が一点もないということになる。要は長く「人間」を描く気になれなかったのだ。その理由の深いところは、今は措く。

 

 具象的な作風であれば、家族や恋人を描く画家はけっこう多い。それはそれで当然のことであって、むしろ描かない方がおかしいというか、なぜ描かないのかと、つい尋ねたくもなる。むろん、それは下世話で、余計なお世話というものである。

 

 小ペン画を描くようになってから、人物を描く割合が飛躍的に増えた。そのほとんどがモデルのいない想像上の人物ではあるが。

 それは10センチ前後の小画面という制約から生まれた現象である。私にとっては「小ペン画」=作品である。つまり意味としての習作ではないので、世界として完結しなければならない。完結性ということからすると、なにがしかのモチーフ(姿・形)がないと、まことに絵になりづらいのである。そして人物という形と意味は、実に優れたモチーフなのだと、あらためて思い至る。

 

 ほんのちょっとした、新聞や雑誌に掲載された写真や、モニターに流れる画像を参考にすることがないではないが、それをモデルと言えるのかどうか。私の場合、写せばたいてい絵としては硬くなる。したがって基本的には写さない。

 だがプロセスはどうであれ、結果として人物を多く描くようになってから、実際の人物を見る眼が少し変わってきたようにも思う。

 

 今回掲載した内の二点は、女房の日常のふとした仕草を、美しいと感じたというか、絵として見えたのである。冷蔵庫を開けてヨーグルトを飲んでいる瞬間。晴れた日に田舎道を歩く後ろ姿。そんなところからでも絵が生まれる。

 

 

 ↓ 262 「ヨーグルトを飲む」

 2020.4.17-20 12.9×9.4㎝ 洋紙にドーサ、ペン・インク・水彩

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 起き抜けにパジャマのまま、冷蔵庫を開けてヨーグルトを飲む妻。

 若いころとは違った丸みをおびた体形だが、何か幸せそうなフォルムと動き。

 

 

 ↓ 263 「光の中を歩む」

 2020.4.19-20 13.5×9.4㎝ インド紙にドーサ、ペン・インク

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 良く晴れた日の少し遅い午后、近くの田舎道を歩く。満ち溢れる光と植物。

 逆光の中を浮遊するかのように歩く妻の動きとフォルム。どこへ行こうとしているのか。

 

 

 後ろ向きの孫を描いたものは、たくさん送られてくる画像の一つから。これも意味合いとしては同様。

 

 

 ↓ 265 「何処へ」 

  2020.4.20-22 13.2×11.4㎝ 和紙に膠、ペン・インク・水彩

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 初孫。そう高くはない仕切りを越えて何処へ行こうとするのか。

 新しい世界、未知の世界、異世界。自分の世界へ、か。人生はこれからだ。

 

 

 最後の一点(制作順としてはこれが一番早い)は完全な心象の景。二人目(になるはずだった)の孫が早い時期に流産したとの知らせを受けた後に描いた。見ることすら叶わなかったがゆえに、かえって命そのものの存在を感じた。

 

 ↓ 168 「いのち」 

 2020.10.3-4 和紙風はがきにペン・インク・水彩 

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 ゆえあってか、この世界の光を一度も見ることなく、名づけられることもなかったが、確かに存在したいのちがあった。「こんにちは さようなら」

 

 今のところ、家族を描いた作品はこの4点ですべて。今後、描くことがあるかどうか、それはわからない。