艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

小ペン画ギャラリー 5-「蝶」

 「蝶」を描いた小ペン画、5点。

 

 あらゆる動物、植物、鉱物といった自然の存在が不思議で美しいように、蝶もまた不思議で美しい存在である。

 ギリシャ神話では魂の象徴とされた。中国には荘子の「胡蝶の夢」がある。日本においても「極楽浄土に魂を運んでくれる神聖な生き物」として(?)、また「『不死・不滅』の象徴として武士に好まれ」(?)、武具の装飾に使われたり、家紋になったりした。平清盛の家紋は「丸に揚羽蝶」。

 

 デザインではよく取り上げられるが、絵では脇役以外では、案外少ない。私の大学時代の師田口安男先生はよく取り上げられていた。それに影響を受けたことは確かだ。開き直ってしまえば、あらためて先生の蝶の翅の造形的美しさ、面白さがすなおにわかる。

 そして人は、卵から毛虫・芋虫~蛹あるいは繭へ、そして蝶へと形態を変容し、空に舞うことの不思議さが意味するものを、読み解こうとする。

 

  ↓ 田口安男 「眼の島」 1977年 F150

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 坂崎乙郎は「私は、淡い色あいでまとめられたこの絵を一番好む。」と『田口安男作品集』(1977年東京セントラル美術館個展図録)に書いている。

 

 

 ↓ T43.「他所にて」

 1983年 S40+M40 自製キャンバスに樹脂テンペラ・油彩

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 大学院の頃の作品。一言で言ってしまえば、異界志向。この作品以外にも蝶の翅はしばしば登場する。田口安男の影響大である。

 

 

  D.20 「語られる前の言葉-4 李蝶」

 1988年 31×22㎝ 和紙に鉛筆・色鉛筆・水彩

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 李朝の民画の中の蝶の図を引用したもの。李蝶は李朝のごろ合わせ。参考までに。

 

 

 ↓ 75 「真后の嫦娥

 2019.10.11  10.7×9.3㎝ 水彩紙?にペン・インク・水彩

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 嫦娥とは中国の伝説では、元仙女だったが、下界に下りて結婚した後に不老不死の薬を盗んで飲み、月に逃げてヒキガエルになったとか。また道教では月の神とされる。近年の中国の月面探査機にその名がつけられている。蝶と嫦娥の関係は、はて?

 

 

 ↓ 203 「それでも彼は旅を続ける」

 2020.2.1-3   18.2×15.3㎝ インド紙にペン・インク・水彩・顔彩

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 これを描いたのは、コロナウィルス騒動が日本で本格化する少し前だが、中国ではすでにたいへんなことになっていた。上海経由でのミャンマー旅行を予定していた私たちにも、その影響が出始めていた。「こんな時に本当に行くの?」という周りからの危惧・非難に答える(?)作品。読みようによっては、空を飛び自由に彷徨うべき蝶の翅を持っていながら、自分の足で着実に、朗らかに歩くのだという意志の表明、というのはむろん後付けの解釈である。

 

 

  214 「蝶を食(は)む」

 2020.2.12  12.8×9.6㎝ アジア紙?に ペン・インク・水彩

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 朔太郎の詩に「蝶を食む」といったタイトルの作品があったような気がしていたが、調べてみると「蝶を夢む」という作品だった。私の記憶違いだが、「食む」もまた、良いような気がした。

 

 

 ↓ 215 「蝶を吐く」

 2020.2.13  13.1×9㎝ 雑紙にペン・インク・水彩

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 口の中に蝶が入ってゆく「蝶を食(は)む」を描いた翌日に、逆に口から蝶が出てくる「蝶を吐く」を発想。

 「もはや若くはない歌手が場末の酒場で、蝶=昔の夢を苦い思いと共に吐き出す。その時の彼女は、やはり昔日の美しさをとどめていた。」というのはむろん今でっち上げた後付けのストーリーである。

 

 

  221 「肩に蝶の翅」

 2020.3.5-6   10×7.9㎝ ペン・インク・色鉛筆・水彩

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 蝶の翅は造形的要請として召喚されただけで、特に何のストーリーもありません。結い上げた髪から別の作品が出てくるのだが、それはまた別の機会に。

 

(記:2020.6.22)

石仏探訪-1 「松岩寺・明光寺・中平庚申堂+砂沼谷戸(あきる野市伊奈)」

 ここのところ痛みを増していた右足小指の治療に行ってきた。古傷の骨折―変形自然癒着によるものかと自己診断していたら、皮膚科の医者の診断は、(爪の水虫の進行と関連しているかもしれないが、)要はややこしい位置にできた「魚の目」とのこと。通院三回目にして、痛みがなくなってきた。釈然としないが、結果良ければ、とりあえずはすべて良し。

 天気も良いし、自転車でもあるし、帰りはついでに遠回りして、ここのところハマっている石仏探訪をした。

 

 実は石仏には30年前後前に一度ハマったというか、関心を持ったことがある。当時、山登りをけっこうまじめにやっていて、その関連で、山岳書蒐集にハマり、その一分野として、民俗学にもハマったというか、民俗学関連の本もずいぶん買った。その中に山の神や石仏関係の本も結構あったのである。

 ただし、いわゆる山村民俗関係のものは、越後や会津方面での山登りの実践を通じて、身近なものとして面白く実感できたけれども、石仏となると、なかなか手が回らなかったというのが、正直なところ。美学的な面から言っても、当時の私には、そうとうに爺臭い趣味という感を免れなかった。つまりは、石仏関係の本に関しては、買ったはいいが、あまり読まなかったというか、実践とはさほど結びつかないまま休眠したというところである。

 

 それがここにきて、ふ~っという感じで、復活してきた。コロナ自粛とは無関係だと言いたいが、上述の足指の痛みなどから、だいぶ長いあいだ山登りに行っていない。せいぜいがんばっての裏山歩きの途中で見かける石仏が、意識のどこかからか浮上してきたということなのだろう。

 その気になれば、私の住んでいる一帯は石仏の宝庫なのだ。30年前からの基盤も資料もある。かつて爺臭いという感が多くを占めていた鑑賞面においても、年齢なりの味わい方ができるようになってきたということもあるのだろう。

 手元には、ここ十年ほどの、あちこち登った山行写真にも、必ずといってよいくらい石仏を撮っている。かくて、気がつけば最近は、裏山歩きや散歩のたびに石仏を探している。

 

 一口に石仏と言っても実は多くの種類がある。もっともポピュラーなものはお地蔵さんだが、馬頭観音庚申塔、念仏塔、廻国記念塔、二十三夜塔、道祖神といった、濃淡はあれど仏教・宗教に関連したものから、道標、記念碑・顕彰碑、その他、あれこれ。むしろまずは石造物というカテゴリーでとらえた方が把握しやすい。

 また、それが何なのか、いつ誰によってどういう趣旨によって建てられたのかといったことを知りたく思っても、刻まれた文字も読もうにも風化して読めなかったり、意味がわからないことの方が多い。そうなると、やはりその地域の文献資料が欲しくなる。石仏は一面、文化財でもあるから、ほぼ必ずその地域の教育委員会等で調査研究し、報告書が出されているはずである。

 

 私の住んでいるあきる野市でも、合併前の五日市町でも出していた。『あきる野市の石造物 -市内石造物調査報告書-』(あきる野市教育委員会 2012年)、『五日市の石仏 ふるさとの精神風土を探る』(五日市町郷土館 1987年)。共に今の私にとっては実に興味深い本だ。しかし、両者共に絶版。「日本の古本屋」で探してみるが、どこにもない。図書館で借りることはできるが、一般図書と違って、資料扱いなので、一週間しか借り出せない。

 そもそもそうしたレファレンスブックというものは、手元に置いておかないとだめなのだ。欲しいけれども入手できないのだから、時々図書館から借りだすことで、今はがまんせざるをえない。私は、欲しい本はいずれ手に入るという信念を持っている。気長に待つしかない。余談だが、「日本の古本屋」に両者はなかったが、代わりに(?)『檜原村の石仏 第一~三集』(檜原村文化財保護調査委員会 1973~1977年)と『伊奈石の会会誌 伊奈石 4号、4号別冊、5号』(伊奈石の会 2000~2001年)を思いがけず入手できた。これはこれで、けっこううれしい。

 

 ともあれ今日回ったのは、伊奈の松岩寺と明光寺と中平庚申堂、そしてちょっと別口だが砂沼というところの「○○(失念)の森」という谷戸。松岩寺とその奥にある「芙蓉山半僧房大権現御堂」は初めてだが、他は一度は行ったことがある。

 

 ↓ 松岩寺

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 松岩寺は小さな寺で、墓地の入り口に地蔵が一つあるぐらいで、石仏はあまりない。その奥の権現堂は神仏習合の頃のなごりなのだろうが、外壁の上部に置いてあったいくつかの古い絵馬に少し心惹かれた。

 

 ↓ 松岩寺・権現堂の絵馬 その1 剥げかかった胡粉。組板なのは珍しいように思うが…。

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 ↓ 松岩寺・権現堂の絵馬 その2 面白い絵柄だが同様の絵柄は中平庚申堂にもあり、専門の画工がいたのだろうか。

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 そのすぐ近くの砂沼という名の谷戸は、少し先の横沢入りと同じように、かつて稲作をしたところ。美しい湿地帯となっている。今回見てみると「○○の森」と名付けられて、蛍が見られるように遊歩道やベンチなどが新たに整備されていた。

 

 ↓ 砂沼の「○○(失念)の森」 小規模だが気持ちの良い湿地帯

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 ↓ 「○○の森」入口のにあったホタルブクロの群落

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周回路の路傍に小さな五輪塔や墓石らしきものがあったが、個人の墓地のように思われる。またこの谷戸周辺には横沢入りと同様に、戦争末期にいくつかの地下壕が掘られたとのことだが、その内の一つを、崩壊してはいるものの、確認することができた。

 

 ↓ 砂沼の谷戸沿いには8ヵ所の地下壕があったそうだが、今回確認できたのはこれ一つ。

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 明光寺は広く、新しくきれいにしつらえられた庭を持つ寺。入り口近くにはそれなりに古く趣きのある地蔵や如意輪観音、萬霊塔などが集められていた。

 

 ↓ 明光寺入口の石仏群。

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  ↓ 奥にあって見えづらいが、小首かしげた如意輪観音

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 ↓ 境内の墓地にあった古い墓石だが、よほど音楽関係の人なのか、笛、三味線のバチ、鼓、太鼓が浮き彫りされているのが珍しい。

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  中平庚申堂は現在でも地元の暮らしと結びついているらしい集会所的な御堂。

 

 ↓ 中平庚申堂。左に石仏群。自転車はわが愛車ビアンキ製。

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 入口の戸は開け放たれている。中には、大きな、古拙な青面金剛立像のほかに、奉納された数枚の絵馬と、穴の開いた石と、鉄のわらじ。それらの意味を昔読んだような気もするが、今はもう忘れてしまった。また調べてみるか。

 

 ↓ 本尊の庚申塔青面金剛立像だが、長く露天にあったため、近くで採れる伊奈石製の特徴である風化・剥落が激しく、図像がよく見えない。彩色は近年のもの。

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 ↓ 奉納された、右はサルノコシカケ、中央は穴のあいた石。

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 ↓ 奉納された鉄の草鞋。

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 御堂の外には集められた地蔵、馬頭観音如意輪観音などの残欠群。カラっとした明るい滅びの風情が好ましい。

 

 ↓ 外側の石仏(残欠)群。

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   ↓ 辛うじて残され補修された馬頭観音。馬の造作ははっきりしている。はねあがった衣の裾が可愛い。

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 寄り道にしては、収穫は多かったというべきであろう。

 

 ところで、石仏探訪の意義は、現場での鑑賞以外に、帰宅後に撮った写真を見ながら、(本来であれば)資料と付け合わせて、種類や年代や時代背景等々を調べ、そこから何事かを知り、考察することにあると思う。なぜならば、石仏の多くは単に宗教的対象物であるにとどまらず、庶民の生活や思想や歴史性をも反映しているからである。しかし、上述のような資料が手元にない限り、考察は宙吊りにならざるをえないのである。

 

 二月に行ったミャンマーで見た、今現在の生き生きした信仰対象である仏像と信者(国民の大多数である一般市民)とのかかわり。生きた信仰の対象であるから、像は年々歳々美しく豪華に塗り替えられる。光背にはピカピカと色変わりに点滅するネオンを採用する。人々は日々当たり前のように参拝し、貢物を奉納し、ひたすら来世の幸福を祈り、現世の悩みを癒され、幸せになる。そうした彼我のかかわり方の違いを見ると、とても同じ仏教とは思えない。

 かつて見てきた中国のモンゴル仏教・チベット仏教圏においても、ラオスカンボジアスリランカなどにおいてもそうした違いはあった。またイスラム教圏、ヒンドゥー教圏も同様である。さらにキリスト教のローマカトリック教圏とプロテスタント教圏は言うに及ばず、ギリシャ正教圏、アルメニア正教圏、グルジア正教圏、ロシア正教圏においてもまたしかり。

 要するに宗教とは何か、宗教を求め必要とする人間の心のありようとは何かという実に大きな命題が立ち現れるのだ。その地点において、無宗教者である私が絵を描くということと、絵とは何かという命題と、つながるのである。悟りは日常の中にあり、制作の中にある。

                             (記:2020.6.17 )

小ペン画ギャラリー・4 「建物」

 今回は少し趣きをかえて「建物」。「建築」ではない。

 建築というと、どうも公共建築とか、ビルディングというか、大きなもの、夜になると人の住んでいない、政治や資本の論理に裏打ちされたもの、といった胡散臭いイメージがあって、好きではない。だから丹下健三ル・コルビジェも、安藤忠雄もみな嫌いなのである。

 大きいということでは教会や寺院、モスクなどもそうだが、これはまた別の文脈があるので、自分の中では一応別扱いである。

 それに対して建物/タテモノというと、住宅とかせいぜい三階建てぐらいの、どこか人の体温や体臭といった生活感があり、安心感がある。

 

 以上はむろん個人的偏見、趣味であるが、そうなのである。したがって私が描くのは、「建築」ではなく「建物」。木造か一部石作りの、つまり自然な素材のもの。ちなみに「小屋」はもっと好きだが、たぶんそれとして描いたことはない。

 

 それにしても、そもそもなぜ私は建物を描くのだろう。うまく説明できない。説明できなければ説明できないままでもよいのだが、せっかくだから、こうした機会に少し考えてみようと思う。

 

 遊牧民とか流浪の民といったことがある。日本のジプシー=山窩というのもあった。非定住、一所不住ということだ。人にもよるだろうが、画家はというか、私自身は精神的、本質的にはそうした存在なのだとも思うが、実際には、家族と生活があり、アトリエということがあり、なかなかそうはいかない。

 その代償ということでもないだろうが、毎年のように出かける旅の中で、北欧をはじめとするいくつかの国で、古い民俗的な建物を集めた野外博物館を訪れたことがある。

 

  ↓ ノルウェー民族博物館 木造の教会。屋根瓦も木製。このタイプの教会はノルウェーにまだいくつかあるとのこと。2006年10月2日 

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  ↓ ノルウェー ヴォス近郊にある建物。倉庫か住居か、現在も使われているもの。2006年10月2日 

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 最近は日本でも古民家ブームだが、ブームとは別に各地に古い民家などが保存されている。海外であれ、日本であれ、そうした所を訪ねるのは面白い。私などは、年齢と体験に根差した、あるいは体験から帰納しうる懐かしさを覚える。それらは共に全く異なる風土と歴史でありながら、なぜか妙に共通して、懐かしい。

 私の絵の中の建物には、そんな気分が反映されているようだ。

 

  ↓ 岩手県花巻市 旧伊藤家住宅の前庭にある馬小屋。 2016年7月15日 

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  ↓ エストニア エストニア野外博物館 これは住居なのか蔵(?)なのか、中に入れなかったのでわからない。 2011年9月29日

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 作品中の建物を眺めていると、作品世界という異界の旅の途上で立ち寄りたくなった建物、そんな感じに思える。実在しない、夢の中の建物。実在しないものへの希求というか、懐かしさととらえれば、それは確かに私らしい発想だ。

 

 以下、作品紹介。

 

  

145 異国風の建物

 2019.12.9-10 12.5×9.5㎝ 洋紙に和紙・古紙貼り・ドーサ・裏面ジェッソ、ペン・インク・セピア

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 どういう心境でこの作品を描き出したのか、覚えていない。だが、「はじめにこの用紙ありき」だったことは確かだ。それでなくても小さな台紙に、さらにこまごまと虫食い穴のある古い和紙の断片などを貼ってある。それ自体がコラージュといったタイプの用紙を、ある時、何点も作った。その時点ではどんな絵を描くのかは未定。以前からそうした仕事は好きで、時々そうしたタイプの作品も作っている。

 絵を描く前にすでに用紙にある程度の物質感が施されているのだから、そこにあらためて絵を描こうとすると、けっこう難しい。コラージュの要素を生かさなければ意味がない、とすれば。少々扱いかねていたことは確かだ。描き出したのは虫食い穴がきっかけだったかもしれない。

 内容的には上述した通り。異郷から異界への懐かしさ。

 

 

147 とつ国の水晶塔

 2019.12.10-11  12.5×9.3㎝ 厚紙(青灰色)に古紙貼り、ペン・インク・セピア

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 145とほぼ同じ。テント、波、瞑想者、水晶、梯子、山・・・、イメージがイメージを引き寄せ、形が次の形を呼び寄せる。解釈は見る人にゆだねられる。

 

 

172 特別な建物

2020.1.5  14.8×19.9㎝(大サイズ) 和紙(徳地)、ペン・インク・セピア

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 タテモノというよりも大きな祠。中にいくつかの繭がある。隠されている。結界が張られている。それで「特別な」建物。

右にはその建物を大きく迂回して通過する旅人。テーマとしてはむしろ「旅」ということかもしれない。

柳の木の本歌は竹久夢二の作品。それをさらに桝岡良(版画家 1905-?)が模倣(?)したもの(『浪漫荘蔵書票集』 1947年)。

 小ペン画としては初めての大きなサイズ。以後、時おりこうした大きめの作品も描くようになった。

 

 

174 しじま-北方の町

 2020.1.5-7 12.8×15.8㎝(中サイズ) 和紙に膠、ペン・インク・セピア

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 純粋に建物だけを描いたのは、いまのところこれ一点。北欧の古い木造の教会や民家や街並みといったイメージ。木造ではないし、北欧とも言えないが、40年以上前に行ったベルギーの『死都ブリュージュ』(著者ローデンバック タイトルのみ印象に深いが、読んではいない)の記憶もあるようだ。

 この作品に限らないが、小ペン画では、基本的に定規は使わない。すべてフリーハンド。

 

 

208 風信子の家

 2020.2.6-8 12.5×9.3㎝ ボール紙に古着色紙貼り・裏面ジェッソ、ペン・インク・水彩

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 風信子とはヒヤシンスのこと。「風信子の家=ヒアシンスハウス」は、東大建築科卒の詩人、立原道造が設計した自分のためのごく小さな別荘である。没後65年の2004年、本人の希望通り、さいたま市別所沼公園に建設された。

 私は立原をはじめとする四季派の詩人たちの、どうもブルジョアジーの子弟の都会的趣味の匂いが好きになれないのだが、このヒアシンスハウスだけは心惹かれる。それもまた私の壺中天趣味であろう。

 タイトルとしては完成後につけた。実際のヒアシンスハウスとは似ても似つかぬものだが、言ってみればこれが私のヒアシンスハウスである。

 ちなみに冒頭の建築家丹下健三は大学建築科の一学年下。二人は全然違う時代の人かと思っていたが、こんな近い人だったとは、今回初めて知った。

 

 最近はこうした建物のイメージが湧いてこないというか、さっぱり訪れない。そういうたぐいのモチーフ・テーマというものもある。

 

 以下、蔵出しの参考画像。

 

スェーデン スカンセン(野外博物館)

何の用途なのか不明。  2006年9月25日

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スェーデン スカンセン(野外博物館) 

屋根の形からするとごく小さな天文台かとも思われるが、不明。まわりの地面には天体を思わせるような大小の球体が置かれてあった。 2006年9月25日

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エストニア エストニア野外博物館 

風車だが、木造だとかえって異様な迫力があった。 2011年9月29日 

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エストニア エストニア野外博物館 

これは石造り。北方の住居は冬の寒さ対策なのだろうが意外と小さく低い。入り口も窓も小さく、内部の熱を逃さない構造になっている。 2011年9月29日

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(記:2020.5.22)

「ちょっとミニワイルドでミニハードだった今日の裏山歩き―金剛の滝」(2020.5.17)

 

(*最初に:本稿は山行記録というほどのものでもなく、またあまり多くの人に訪れてほしくないので、地図・ルート図は掲げません。わかる人が読めばわかると思いますので、興味のある方は、自分で地形図等を見て探して下さい。)

 

 前回の裏山歩き(これはブログにもFBにも投稿せず)から10日目。明日からまた天気が悪くなる。さほどモチベーションは上がらぬが、行かねばならぬ。ほんの少しの制作と、家事雑事を済ませて、15時頃家を出る。

 秋川丘陵を越えて金剛の滝を往復後、日向峰から沢戸橋、というのが漠然とした計画。とりあえず登り口はどこからにしようかと歩いていたら、昨秋の台風でやられた小和田グランド付近の河川改修工事をやっていた。大掛かりなものだな、などと漫然と思ったのだが、同じ台風のもたらした被害に後ほど出くわすとは、この時点では思いもしなかった。

 

 ↓ 小和田グランド付近の改修工事。右岸の屈曲部には以前は武田信玄由来の臥牛という水勢をやわらげる一種の蛇篭が設置されていたが、無力だったということなのだろう。

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 ↓ 御岳神社登り口付近の黄菖蒲

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 小和田の御岳神社に登る。御岳山の御岳神社の分社で、地元の人がよく手入れされている気持ちの良い小さな神社。

 

 ↓ 御岳神社境内

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 御岳神社だけあって、狛犬ではなく、大神(狼)のはずなのだが、耳は垂れているし、どう見ても犬にしか見えない。台座には昭和四十九年とある。

 

 ↓ 狛犬ではなく大神(狼)

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 ↓ 同じくその2 昭和49年

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 その脇にある小さな摂社のオオカミの方は、こちらの方がもっと古そうで、やはり耳は垂れているが、社殿前のそれよりも野性的というか、より山犬っぽい。ニホンオオカミはいわゆる狼とは異なって、山犬あるいは、より犬に近い種類という説も聞いたことがあるから、これはこれで間違いとは言えないのだろう。あちこちつぎはぎ修復だらけだが、なんだか可愛らしくて、私は好きだ。

 

 ↓ 摂社二基

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 ↓ 摂社の狛犬≒狼≒山犬。よく見るとこちらは阿吽の形になっており、これは口を開けた阿形。

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 ↓ 同じくその2 補修だらけのぬいぐるみのようだ。

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 手前の鳥居のところまでいったん戻って、順路である尾根上の部分的に簡易舗装された道ではなく、左の山腹に続く細い踏跡を辿る。はっきりとは覚えていないが、ニ三回は歩いたことがあり、いずれ主尾根に合流するはず。まもなく踏跡は二つに分かれ、下に下りそうなしっかりした左ではなく、上に向かうかすかな踏み跡の右を選ぶ。

 次第に踏み跡は薄くなり、やがて獣道と変わらない状態になる。途中に新しい痕跡の残るヌタ場があった。

 

 ↓ イノシシのヌタ場

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 藪漕ぎというほどのこともなく、歩きやすいところを選んで登れば、不安をおぼえる前にまた踏み跡はしっかりしてきて、やがて一般道に合流。予想していたところとは少しずれていたが。

 

 ほどなく金剛の滝への分岐。数年前に補修された木の階段を降りる。降り立った堰堤が滝からの沢との合流点。完全に伏流している。この一帯は私のお気に入りの場所。前にここでホラ貝の練習をしていた修験道マニアの人と会ったことがある。

 少し先で水流が現れるはずだが、そのまま河原が続き、なんと下の滝の滝壺のところまで砂利に埋もれている。

 

 ↓ 金剛の滝への沢すじ。このあたりは以前でも伏流している。

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 ↓ 滝の手前も伏流している。以前はこのあたりには水が流れていた。

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 この滝壺は小さいけれども、それなりに深さもあり、いつも岩魚が数匹泳いでいたのだが、その片鱗は全くない。毎年必ず何度かは訪れているが、こんな小さな滝壺は初めてだ。

 

 ↓ 金剛の滝下段の滝・岩魚の泳いでいた滝壺の片鱗はない。右の穴の階段から上の滝へ。

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 右側の岩壁に穿たれた、胎内くぐりといった感じの穴の階段を上る。上にあるのが金剛の滝だが、ここの滝壺もごく小さく浅い水たまりのようになっていて、驚く。

 

 ↓ 金剛の滝への階段

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 ↓ 金剛の滝全景。この滝壺も埋まっている。

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 周辺にはそれほど土砂崩れなどの様子も見えないのだが、とにかく沢筋は大量の土砂で埋まってしまったということなのだろう。

 沢や滝が土砂で埋没し浅くなるということは見たことも聞いたこともあるが、前後の状況の変化を目の当たりにするのは初めてか。浅くなるのは簡単だが、以前のような深い滝壺や水流に戻るにはまた長い期間が必要なのだろうか。それを思えば、少々痛ましい感じがする。

 周辺にあるイワタバコの花を期待していたのだが、まだ早かったのか、見えない。

 

 帰りはいったん尾根に登り返して日向峰まで行くのが、めんどうになり、そのまま沢(逆川)沿いの道で楽をしたくなった。のんびり歩いていくと、ところどころに倒木や小規模な土砂の押出がある。

 細い山道から、未舗装の林道になってほどなく、いきなり道が無くなっていた。右岸からの山抜け(土砂崩れ)で左岸の林道の擁壁が流され、道が無くなっているのだ。昨秋の台風の爪痕はこんなところにも残っていたのだと驚く。

 

 ↓ 左側が林道の通っていたところ。中ほどのラインが歪んだ擁壁。

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 ↓ 右岸からの土砂崩れ

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 ↓ 手前が林道のあった部分と堰堤の一部だった石組み。その先は擁壁のみ残って中身の一部は流出している。

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 慎重に倒木を乗り越えていけば特に問題ないが、あまり気持ちの良いものではない。あとは何の問題もなく、沢戸橋から50分ほど歩いて帰宅した。

 

 2時間半ほどの裏山歩きにしては、獣道ルート、道の消失等、けっこうミニワイルドかつミニハードな内容だったか。

(2020.5.17)

小ペン画ギャラリー―3 「踊り―その1」

 「ダンス」を訳せば「踊り」。

だが日本語の「踊り」には「舞踏」と「舞踊」とがある。もともと日本語として「舞踏」と訳されていたのを、1904年の『新楽劇論』において、坪内逍遥福地桜痴が新たに造語した「舞踊」を訳語として当てたとのこと。

 私は「舞踏」とは踏すなわち下半身、足を踏みならすリズミカルなもの、「舞踊」は上半身を中心としてゆらゆらさせるもの、といった感じで理解していた。西洋舞踏と日本舞踊、つまり西洋的と日本的ということで良いのかと思っていたのだが、あらためて調べてみると、どうもそうではなく、本質的には似たようなものというか、その違いがよくわからない。どうも現在では、歴史的あるいは意味強調的な文脈において使い分けられるらしい。

 その歴史的背景からダンスは「諸芸術の母」と言われることもあるようだが、音楽も詩もそうした言い方をされることはあり、まあ、人間の表現文化の上で古いものであることは確かだ。

 

 何にしても、私はダンスなどというものとは、一生縁が無いと思っていた。ディスコやクラブに行ったこともなければ、行きたいと思ったこともない。盆踊りもほぼ同様。暗黒舞踏だけは一度は見てみたいと思っているが、縁がない。ずいぶん昔に田中泯と霜田誠二だけはチラッと見たことがある。

 正直に言うと、私はダンスに対してけっこう偏見を持っていた。つまりダンスとは、音楽や演劇などもそうなのだが、限定された時間と場においてのみ存在する時間芸術であり、非時間芸術である絵画とは相容れぬ関係にある、別の言い方をすれば、とてもかなわない、と認識していたのである。微妙なコンプレックスと言ってもよい。

 それなのに、最近このように「ダンス/踊り」を画題・モチーフとして描いているのは、いったいどうしたことなんだろう。

 

 そうなる上で、いくつかの前段階があった。だいぶ前からだが、「ダンス/踊り」ではなく、パフォーマンス=身体表現ということには、限定的ではあるが、多少の興味を持っていたこと。マタハリ等における、エキゾチシズムの眼差しに興味を持ったこと。中でも海外に行って、観光客向けではあるが、各地の伝統的なダンスショーを数見る機会があったことは大きい。多様な地域で何の先入観もなく初めて見る、多様な文化に根差したダンスは、実に面白く、感動したといってよい。

 

 ↓ 参考:2003年 キューバ・トリニダーで見たストリートダンス。これだけは観光客向けではない。貧しいキューバの田舎の貴重な楽しみ。電力不足の暗い路上に人々は集う。 

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 ↓ 参考:2009年 トルコで見たベリーダンス ダンサーは外国からの出稼ぎだとか

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 また近年はテレビやインターネットなどで、アイドルグループなどのダンスパフォーマンスを目にする機会がいやおうなしに増えたこともあるだろうし、その延長(?)でつい高校ダンス選手権なるものまでネット上で見てしまったこともある。今や、例えばYouTubeでベビーメタルを見て、歌よりも、そのダンスに感動したりしている。

 そうしたいくつかの要因をへて、気がつけば、ダンスというものに対して持っていた偏見はだいぶなくなり、面白がることができるようになった。そうなれば「諸芸術の母」と言われるゆえんも理解できるようになってきたし、自分自身を、気分的にはではあるが、身体的に同調させることもできるようになった。

 

 ダンスとは動きが本質であり、(多くの場合は音楽との連関がある)時間を軸とする表現だから、ふつうは絵で描くのは難しいと言える。ロダンクロッキードガの踊り子はやはり神技というべきだろう。

 パフォーマンスの現場では、その瞬間瞬間を体感し、味わうしかない。それとは別に日常生活の中で、ビデオやユーチューブなどでダンスを見る。それを一時停止にして静止画像で見ると、動きや流れとはまた別種の美しさが稀にあらわれることがある。それは絵の対象として実に魅力的だ。

 だがそれはそれとして、ダンスとは動きが本質である以上、目に映る数秒の印象、記憶をもとに描く、表現するべきであろうとも思う。

要はそのあたりの葛藤と緊張感がもたらすものが、絵画としてのダンスの美を可能にするのではないか、と思う。何も見ずに記憶やイメージだけで描くときは問題ないが、いわゆる写真のような「切り取られた瞬間」を絵にする気はないのだ。静止画面を見過ぎるべきではない。

 むろんダンスを描くということは、瞬間の人体の形の美を描くということではない。そもそもの原初のダンスがおそらくは神とのコレスポンダンスであったような、意味以前の意味や、儀礼化様式化以前のメッセージといったものに成っていかないとつまらないと思うのである。私の作品がそうしたところに行っているかどうかは、はなはだ自信がないが。

 

 今回取り上げるのは以下の4点。すべて男の踊りだが、男を描いたものはこれで全部。ほぼ同時期に描いている。「踊り」を描いた作品はほかにもいくつかあるが、それらはすべて女性。女性を描いたものについては、また別の要素も加わっているようであり、それらについてはまた別の機会に紹介したい。

 ともあれ、以下に作品を紹介する。

  

  「世界の不安を踊る」

 2020.1.20-21 12.4×9.6㎝ 画用紙に薄和紙・古紙貼り、ペン・インク・水彩 

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↑ これを描いたのは、コロナウィルス騒動が今のように世界的になる前であったことは確かだが、その不安を反映している。だがそれはそれとして、やはり漠然とした「世界の不安」で良いのだろう。かなりデスペレートな、ペシミスティックな情感、そしてそのことで結果として醸し出されるユーモア、といった感じを描きたかった。絶望の踊りでもある。女房には「タコ踊り」と言われた。

 

 

  227.「辺境の風神の踊り」 

 2020.3.11-12 12.5×9.1㎝ 和紙風はがきにドーサ、ペン・インク・水彩

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 ↑ BS放送で見たネパールの奥地(ドルポ地方)のドキュメンタリーで、相当に過酷な自然と文化状況の中で生きている人々を見た。そこで営まれるしごくまっとうな生活と宗教と踊り。番組を見ながらの一瞬の走り描きが元なので、その映像と比較されても、似ても似つかぬものになっていると思う。関係ないが、石井鶴三の木版画でちょっと似たような作品(『山精』だったか?)を思い出した。

 

 

    228.「辺境の陽神の踊り」

 2020.3.11-12 12.7×9.4㎝ アジア紙にマルチサイジング、ペン・インク・水彩

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  ↑ 同じくネパールの奥地のドキュメンタリーが元。描き終えて二つを見比べて「風神」「雷神」としようかと思ったのだが、一ひねりして「陽神」とした。造語である。

 

 

251.「新しいダンスは可能か」 

 2020.329-4.11 11.5×9.4㎝ 和紙にドーサ、ペン・インク・水彩・アクリル

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↑ 元は何もない。こうした激しい動きの、土俗的とでもいうような動きには心惹かれる。背景(?)には苦労し、小ペン画にしては珍しく10日以上かかった。(部分的な)白以外のアクリル絵具で彩色したのは初めてだが、構成もふくめて、それなりに納得している。

 

 ↓ 参考:2009年 トルコで見たフォークダンスショー

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 ↓ 参考:2013年 バリ島で見たトラディショナルダンス

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(記:2020.5.9)

裏山歩き 横沢入り東側~北側尾根 2020.5.2

 ゴールデンウイークに北アルプスや奥利根、あるいは下田・川内、南会津の残雪の山々に血道を上げたのは、もうはるか昔のこと。最近では、あきる野市の自宅周辺やその奥の檜原村にも観光客が押し寄せ、道路は渋滞し、私は自宅で息をひそめ、静かに時を過ごすという習慣になっている。

 もともと、人が行く山には行かない、人が登るルートは登らないというのが、昔からの私の流儀。さらにリタイア以降は、人が行く時期には行かない、人が行く時間には行かないという原則が加わった。時差登山である。むろんそれは早寝早起きが苦手な私のひねり出した、屁理屈ではあるが。

 だがコロナ自粛の日々、その自粛の意味を問うのも煩わしいが、ともかく車も人もいない。自宅周辺のウォーキングや散歩はむしろ推奨されているようだが。

 

 県外からの登山客云々というのが問題になっているし、登山口の駐車場が使用禁止となっているという話もあちこちで聞く。同じ都道府県の中であれば良いのか、普段からあまり登山者のいない山であれば差し支えないのか、などというやり取りは、今は不毛な話のようだ。

 

 ただ一つ、「登山禁止」と「登山自粛要請」というのは全く次元の異なる話なのだということは肝に銘じておきたい。感染者の移動ということはわかるにしても、「禁止」というのは本質的に個人の自由にかかわることだからだ。

 すなわち憲法に保障された自由が「緊急事態」だからといってないがしろにされるというのであれば、次には「非常事態」という言葉を持ち出して、国家権力はやすやすと個人の自由を制限する改憲憲法解釈の変更を可能にするだろう。自衛隊の海外派遣やら、憲法改正問題、モリカケ問題、あいトリ問題、等々。そしてそれらにかかわる立憲主義法治主義を無視し続ける、公文書偽造、法解釈の捻じ曲げ等。そして様々な新法策定や法改正を見ていると、そうした予定路線が深く刻まれていると思わざるをえない。それらを黙々と受け入れる多くの「国民」。

 昨今の情況は、どこか、戦時末期の登山者の取り締まりといった話を、うっすらと思い出す。私が言いたいのは、「登山自粛要請」は受け入れられても、「登山禁止」は受け入れがたいということだ。

 話はだいぶ大げさになったが、たかが裏山歩きであっても、やはり何となく人の少ないであろうルートを選んでしまっている今の自分がいる。そのことに忸怩たらざるをえない。

 

 今回歩いたのは、横沢入り東側尾根から北側尾根。横沢入り自体は、ふだん訪れる人、家族連れ、子供連れも多いが、それを取り囲む尾根を歩く人は、表参道からの天竺山以外は少ないようだ。私がいつも裏山歩きをする四つのエリアの中ではおそらく歩く人が最も少ない尾根だと思う。

 

 家から歩いて10分少々で、登り口。いきなりの植林帯の中の急登という記憶があって、あまり登らないルートだが、実際にはすぐに勾配はゆるむ。キリスト教墓地に沿った気持ちの良い広葉樹林帯。とことどころに山ツツジの朱い花。

 

 ↓ キリスト教墓地を右手に見ながら登る。

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 ↓ フデリンドウ/筆竜胆

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 ふと足元を見ればフデリンドウ。記憶では数本が固まって咲いているはずなのだが、一つだけ。まわりをよく見たら蕾の状態のものがいくつかある。もうニ三日したらそのようになるのだろう。いずれにしてもこの尾根でフデリンドウを見たのは初めて。また以後のルート上では見かけなかった。日当たりの良い、やや乾いたところを好むからだろう。

 帰宅後、その話を女房にしたら、すぐ近所の公園にもあったよねと言う。そういえば、見た記憶がある。最近見ていないが、どうなんだろう。

 

 ↓ 気持ちの良い尾根。ところどころに朱い山ツツジ

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 ↓ 同じく

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 新緑というには、そろそろ力強くなり過ぎてきた色彩の森の中を進んでゆくと、右前方に日の出団地が現れる。かつては横沢入りと同様の谷戸であったが、ニュータウンとして大規模開発されたもの。知り合いもニ三人住んでいたが、現在では住民の高齢化による空家が増えたという。

 

 ↓ 日の出団地。正面のピークはこのあたりでは一番高いが、そこには向かわずこの先で左折する。

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 ルートはその団地の際の道路に接するほど近づいたあと、再び森の中へ入っていき、主尾根は左折する。ここから北側尾根となる。

 ここまでも、そしてこれ以降も左右に数多くの小道やら踏み跡を分けていくが、そのほとんど全てをこれまで歩いてみた。道によっては途中や最後で地獄の藪漕ぎを体験させられたものもある。ともあれ、それだけ踏み跡=仕事道が多かったということは、つまりここが典型的な里山=生活の場だったことを物語るものである。

 

 途中にちょっとした窪地がある。少し離れた天竺山の近くには江戸時代以来、伊奈石を生活用材として掘り出していたという石切り場の跡がある。あるいはこの窪地も石切り場の一つだったのではないだろうか。

 

 ↓ 写真ではわかりにくいが、少し不自然な凹地となっている。伊奈石の石切り場跡か?

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 そこを過ぎればすぐに三角点と落葉松山307.6mの標識。本日の最高地点。何の変哲もないただの一地点。腰を下ろし、一服。

 

 ↓ 落葉松山山頂。

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 北側尾根に入ってから、北側はすべて植林帯。北麓の羽生家という山林地主の旧家の持山だそうだ。

 植林帯と常緑広葉樹林に挟まれた展望のない尾根を進む。この盆地状の横沢入りを四方で囲む尾根筋は、遠目よりも小さな急な登下降が続き、案外体力を使うし、時間もかかる。全部を忠実に辿ったら、3~4時間かかりそうだ。だからいつもは、いくつもある支尾根のどれかを選んで主尾根に出て、その半分か、三分の一ぐらいを歩く。

 そのまま尾根通しに進めば林道の通る峠をへて天竺山に至るのだが、今日はその少し手前の支尾根から下ることにした。途中で、今も使われているらしい獣の巣穴らしきものを発見した。狸だろうか。

 

 ↓ 意外と奥行きがあり、今も使っているように思うが、さて?

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 林道に下りてからほどなく横沢入りの中央湿地。

 

 ↓ 掌状にいくつかある沢/谷戸の一つ。ここではもう米作りはしていない。沢沿いに尾根に上がるのは、上部は藪漕ぎになる。

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 ↓ 横沢入り中央湿地。

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 いくつかある戦時中の防空壕(?)などの戦争遺跡を確認しながら帰る。この戦争遺跡についてはまた別の機会に紹介したい。

 

 ↓ 戦争末期に立川の基地から物資を移すために掘られた地下壕の一つ。ほかにも何か所かある。

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 ↓ いわゆる「洗車橋」と呼ばれているもの。ほかにも何か所かある。

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(記:2020.5.3)

柊人とのコラボMVがYouTubeにUPされました。

ラッパー柊人とのコラボMVがYouTubeにUPされました。


柊人 - Be You feat. Emoh Les | SMOKE TREE Music

 

背景は私の作品「そらのはな」(2009年 F150号)。

 

ジャンルで言えばラップで良いのかな?

あんがいおとなしめの使われ方ですが、きれいな歌声と重なり、シンクロして、作者の意図とはまた別の新しい解釈、新しい世界観が立ち上がってくるように思います。

こうした使われ方、一種の二次的創造は、大歓迎。

 

ぜひ一度ご覧になって下さい。

 

 ↓ 525.「そらのはな」

 2008-2009年 F150 自製キャンバス(麻布にエマルジョン地)、樹脂テンペラ、油彩、蜜蝋

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なお、以下は最初、YouTubeの貼り付け方がわからなかった時点で、苦肉の策としてカメラで撮影したパソコン画面を貼ったもの。せっかく貼ったのにもったいないので、これはこれとして、そのままにしておきます。味もあるし。(;^_^A)。

 

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2020.5.4