艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

小ペン画ギャラリー 8 「常夜燈-浄夜燈」

 「小ペン画ギャラリー」は、ここのところ人物を描いたものが続いた。いや、蝶も蝸牛も登場はしているが、画面上の主役はやはり人物である。少しそれに飽きたというわけでもないのだが、なんだか少し私らしくもないような気もして、今回は人物の登場しない絵にした。自分でも少し驚いたのだが、ここ一年の小ペン画では圧倒的に人物の割合が多く、人物が描かれていない絵をさがす方が難しい。

 

  ↓ 238 「ビルマ浄夜燈」

  2020.3.17-19  13.6×11.9㎝ 和紙にドーサ、ペン・インク・アクリル

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 それはそれとして、お盆である。私の田舎ではお盆は月遅れの8月だったが、現在住んでいるあきる野市では多くは旧暦7月でやっているようだ。まあどちらでも構わないが、最近は何となくまわりに合わせて旧暦でやることが多い。といっても迎え火と送り火を焚いて、3日間だけ仏壇にお供えをするぐらいのもの。

 もともと、私は宗教行事や祭事、季節の行事などにはあまり関心がないのだが、一応本家の長男ということで、祭祀関係の最低限(?)のことはやっているということだ。

 

 話は変わるが、ここのところ石仏探訪にハマっている。それには2月にミャンマーに行ったことが多少影響しているのかもしれない。

 ミャンマーでは、地域的なこともあり、多くの寺院とその廃墟を見た。そして多少は予期していたことではあるが、そこでの、若い人も含めた信仰心の篤さには、やはり少し驚いた。同様なことはモンゴル仏教圏やイスラム圏やヒンドゥー圏でもあったが、特に今回は日本語の話せるミャンマー人が同行してくれたおかげで、事情もわかり、仏教についても多少ではあるが、いろいろな話ができた。

 

  ↓ 2月22日 バガンの某寺院 おそらくここの一画に下記の常夜燈があった。

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 その仏教とは、われわれの慣れ親しんだいわゆる大乗仏教(=北伝仏教≒改良的)とは違う、小乗仏教(現在はこの言い方は不適切との理由で、上座部仏教と呼ぶ=南伝仏教≒原理的)であった。同じ仏教と言いながら、その違いから、かえって私たちが当たり前だと思っている身近な仏教(大乗仏教)とは何かを省みる良い機会になった。

 今さらあえて強調することでもないが、私自身は無宗教者である。しかし画家である以上、絵画や芸術の成り立ちからしても、宗教や信仰といったことを無視するわけにはいかない。つまり、宗教を求める、必要とする人間の心のありようについて。

 ミャンマーから少し時間を置いて再び持ち始めた石仏に対する興味も、同根であろう。

 

 今回紹介するのは、直接仏教や信仰にかかわるものではない。ミャンマーのとある有名な寺院で見た、小さな常夜燈にインスパイアされた作品である。

 

 

 

 ↓ 239 「浄夜

  2020.3.17-19 14×12.3㎝  和紙にドーサ、ペン・インク・アクリル

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 ↓ 240 「浄火」

  2020.3.18-19 18.3×15.3 インド紙にドーサ、ペン・インク・鉛筆・アクリル・顔料

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 一応、常夜燈と書いたが、仏像の置かれた本堂の前に置かれた小さな火を灯す装置である。常夜燈は日本の寺社にもあり、灯篭ともかなりの部分で重なり合うものだが、要は一晩中火を絶やさないようにするもので、ミャンマーのそれも意味としては同じだろうと思う。

 

 ↓ あきる野市岩走神社の常夜 天明2年(1782年)

 「風雨以時 國豊武安」「天下和順 日月清明」等と刻まれている。

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 ↓ あきる野市金毘羅山山頂 金毘羅神社の常夜灯 寛政6年(1794年)

 宝珠・火袋欠 「願主 常州茨城郡 中郡郷士 萩原衛守」等と刻まれている。なぜ茨城の住人が奉納したのだろうか。「この形のものはあまりない」とのこと。

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 単なる蝋燭立てもあるが、私が興味を引かれたのは、火袋がそのままごく小さな御堂とされたようなものであった。御堂全体と同様に白い塗料を分厚く塗り重ねられた、おそらく鉄製の透かし彫りの扉部分がなんとも魅力的だったのだ。遺憾なことにそこにだけ興味を惹かれ、全体を写真に撮り忘れてしまったので、はっきりしたことは言えないが、どうも他ではあまり見かけなかったように思う。

 見た瞬間に美しいと思い、そのままで絵になると思った。実際、ほぼ忠実な写生である。別にネタばらしというわけでもないが、実物の写真もあげておく。

 

 ↓ 上述のバガンの寺院にあった常夜燈の火袋。なんとも言えず美しい。

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 常夜燈、ジョウヤトウと何回か口にしてみると、ジョウヤ―浄夜という文字に変換された。浄らかな夜、浄められるべき夜。常夜と浄夜、あながち無関係とも思えない。そして浄夜から浄火への飛躍。これらの変換によって、このモチーフが作品として成立する骨組みができたように思えた。

 

 現在、田舎には法事の時にしか帰らないし、毎年盆前に行われる墓地組合(わが家の墓地は寺にはなく、宗派とは関係ない墓地組合の管理する共同墓地にある)による墓掃除も、不参加料を払ってお願いしている。その法事も今年はコロナのせいで近くに住む姉に頼み、墓掃除も中止となった。

(記:2020.8.13)

石仏探訪-5「あるがままのアート ―人知れず表現し続ける者たち-」展と谷中石仏探訪

 7月30日、東京芸大美術館の「あるがままのアート ―人知れず表現し続ける者たち―」展を見に行った。完全予約制というハードルを何回か飛び越えそこねて、結局息子の手を借りるという、お粗末なIT弱者ぶりはさておく。

    

  ↓ 展覧会チラシ

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  二人をのぞいて、他の作家の作品は撮影OKということであったが、それらの画像をFBにあげて良いものかどうかわからないので、これは差し支えないだろうというのを一点だけあげておく。

 

   ↓ 会場入口

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 展覧会としては、コンパクトにまとまっていて見やすく、良い作品も多かった。多くの作品の質も高かったと言ってよい。

 しかし1993年の世田谷美術館での「20世紀美術とアウトサイダー・アート パラレル・ビジョン」展以来、東京及び近県の美術館でのアウトサイダー・アートエイブル・アートの文脈で開催されたほぼ全ての展覧会を見てきたと自負する私にとっては、やはり不満の残るものでもあった。それは、これまでの展覧会以上に、美術と医学と福祉の三つの要素が交錯する関係性が見えくいということである。それを見せないことによって「広く社会に受け入れられて」いるというあらかじめ用意された結論に誘導する、NHK的、また行政的枠組みというか、回路のようなものが透けて見え、そこに「大学」「美術館」が加担しているように見えるということだ。

 結論として「広く社会に受け入れられて」ということでも良いのだが、私が最も知りたいのは、20世紀初頭のドイツで「発見された」そうした「精神病患者」の絵にある、それ以前からのオリエンタリズムやプリミティブアートなどといった異文化の発見とも通底する、何か別の美の原則といったものを、せめてそこに至る学術的なベクトルの可能性を提示して欲しいということなのだ。

 それを今の日本の大学や美術館に求めるのは、無理なのだろうか。しかし、そのベクトルを持たぬ限り、「アウトサイダー・アート」であろうと「エイブル・アート」であろうと、「アール・ブリュット」であろうと、つまりは「広く社会に受け入れら」る=消費される対象にしかならない。それらの持つ豊かな可能性の水脈は、単なる画風や作法の差異として、(「なぜそうなのか」は決して問われない)あたりまえの消費コンテンツとして存在することになる。芸術は消費コンテンツではないし、心地よい娯楽でもない。その点においてこそ、アウトサイダー・アートであれ、ハイ・アートであれ、同列なのだ。

 いささか難しすぎる地点に入りすぎたようだ。だが、大学や美術館が大型スーパーマーケットと違うのは、そうした容易には消費できない、飲み下せないけれども確実に在る美の意味を、社会に向けて提起できる場であるということなのではないか。

 そのことを含めて、今回は図録が発行されないのが残念である。展覧会の性質や予算の事とかあるのだろうとは思うが、やはり研究報告として、記録・資料としての図録は「大学」「美術館」としては必須だと思う。

 

 結果としては案外楽しめた展覧会だったが、予定外に速く見終わってしまった。

 外はどうせまた雨、と思っていたら意外にも降っていない。銀座で見たい展覧会もないし、コロナウィルスの蔓延する都心もできれば歩きたくない。そこで、出がけに、ひょっとしたらと思っていた谷中界隈の石仏探訪を、帰りがてらすることにした。

 スマホの地図を拡大してみると、今さらながらこのあたりは寺が多い。そのくせ学生時代から付近の寺など、行ったことがない。谷中の墓地を抜けて日暮里駅まで歩いたことも十回あるかないか。むろんただ通過するだけ。奈良京都の古美術研究の対象となる歴史的寺院は別として、そこいらに存在している普通の寺社には全く興味がなかったのだ。つい先日までは。

 

 とりあえず日暮里駅方向を目指す。計画も資料も何もない。犬棒方式である。芸大から数分で大雄寺、ついで感應寺。共に日蓮宗のお寺で、この宗派の寺には題目塔があるぐらいで、石仏は少ないようだ。

 次の自性院(真言宗 別名?愛染寺)には入口のところに石仏群がある。多くは菩薩を刻んだ墓石だが、味わい深いものがある。そういえば、アルメニアのちょっと田舎の教会の片隅にも同様にハチュカル(墓標等に使われた装飾的な十字架を刻んだ石板)の残欠がいくつも集められていることがあった。似たような発想なのだろう。

 

   ↓ 自性院石仏群

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    ↓ アルメニアのとある教会の片隅にあったハチュカル群。使用済み(?)無縁仏(?)の墓石、墓標の扱いに苦慮するのは洋の東西を問わず、同様であるらしい。

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 少し奥に入ってみると、見慣れないものがある。上は如意輪観音半跏思惟像でよいと思うのだが、その乗っている無縁塔と刻まれたものが何なのかがわからない。

 

    ↓ 全体としては「無縁塔」という名の供養塔で良いと思うのだが、下部の輪転部について知りたい。どなたかご存知の方はご一報を。

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 似たようなものは昔どこかで見た記憶があり、一度調べたこともあるはずなのだが、忘れた。中に挟み込まれた六角形の地獄・畜生・修羅といった六道名が刻まれた回転する輪。これは初めてだ。マニ車、輪転蔵とは趣旨が違うようだし、さて?

 

    ↓ 輪転部をズーム。左、地獄・餓鬼。右、修羅・人道。

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 次いで訪れたのは大行寺。ここも小さなお寺。すぐに上部をマメヅタでおおわれた庚申塔がある。

 

    ↓ 青面金剛一面六手。刻字等はツタで見えず。

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 笠付角柱に彫られた青面金剛一面六手。足元には邪鬼、その下に三猿ではなく、一猿というのが珍しい。なお見ると左手に見慣れぬものを持っている。両手を合掌する子供?と見える「ショケラ」である。

 

    ↓ 拡大図。帷子を着て合掌する女性の髪の毛をつかんでぶら下げている。青面金剛の胸元には髑髏の首飾り。どう見ても女性を迫害しているようにしか見えないが、その本当の意味は…。

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 実は最近このショケラなるものに興味を抱き、いろいろ調べ、ついにはたまたまヤフオクで出ていた護符というのか、それが描かれている古い刷り物を入手したばかりなのだ。

 

  ↓ ヤフオクで落札した刷り物。惜しいことに寺社名が記されていない。左図は中:青面金剛、右:不動明王だが、左の座像が今ちょっとわからない。

右図はその拡大図。腰巻だけの女性が髪をつかんでぶら下げられている。

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 ショケラについてはその正体が判明したのは比較的最近のようで、私の持っているやや古い資料には以下のように記載されている。

 

 「青面金剛の手に蛇や女を提げさせるのは、本格的でこそないが、種々の付会の説に適合せしめるために、このような形に作ったものと見える。(中略)蛇が女に化けて庚申の夜に諸方の家をうかがい、また立聞きなどをしたのを、~」(武田久吉 『路傍の石仏』 昭和46年初版 昭和50年3版 第一法規

 「ところで、最後までわからないのは、裸の赤ン坊をつりさげていることと~」「赤ン坊をつりさげていること、これもわたしには学問的にもわからないし、はっきり自信をもって言えないですが、ともあれこの庚申の晩には女人を避くべし、つまり女と交わってはいけない。」若杉慧 (『石佛巡礼』 昭和35年初版 昭和36年四刷 現代教養文庫

 「~それにショウケラ(半裸の夫人像)の髪をつかんでぶら下げている。」(檀上重光 『野ざらしの芸術 ―文化財への手引き』 昭和41年 角川新書)

 

 裸の赤ん坊や半裸の夫人像と見られていたショケラの正体については、今現在も私自身が楽しみながら研究していることでもあり、(ネットで検索すれば一応はすぐわかることではあるし)ここでは明かさない。何にしても一度は見てみたいと思っていたそれに出会うことができて、ラッキーだった。

 

 ついで金嶺寺、宝蔵院を見るが、興味を引くものはない。

 大泉寺では三猿のみの庚申塔。「二世安泰?」と記されている。現世と来世の二世ともに安泰を願うという現実的な庶民の願い。

 

 ↓ 三猿のみの庚申塔。「二世安泰(?)」

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 長久院では司命と司録を従えた丸彫の閻魔像。造形的にはさほど興味も惹かれないが、「笑いえんま」と呼ばれているようで、そう見れば多少可愛くなくもない。いつの頃からか、閻魔は地蔵の化身という解釈がされるようになったことだし。ただし、その辺の日本仏教における教義の変遷というものには、ついていけないものを感じるのではあるが。

 享保11年というから1726年。300年前に諸国放浪の六十六部聖の光誉円心という人物が造立したとの由。それも少し味わい深い。 

 

   ↓ 長久院の閻魔。台東区有形文化財

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  長久院の閻魔。少し、可愛い、か?

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 瑞輪寺では庖丁塚なるものを見た。「鳥供養 庖丁塚」「日本全鳥調理師司処 日本全鳥割烹調理師連盟」とある。筆塚、箸塚、櫛塚など、モノの墓まで作る日本文化、日本人の心性。

 

 ↓ 庖丁塚

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 次の安産飯匙(しゃもじ)の祖師では玉垣に刻まれた「東京柳橋組合」「浅草三業会」などの文字に目を引かれた。場所柄もあるのだろう。三業とは「 料理屋・待合・芸者屋の三種の営業」のことで、今風に言えば接待を伴う夜の街のこと。日蓮上人が難産に苦しむ女性に飯匙に御本尊を描いて与え、安産に至らしめたということで、しゃもじから飲食業、三業関係の信仰を集めたということか。

 

 ↓ 他にも寿司屋だとか、飲食関係の寄進者がいっぱい。

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 ようやく谷中墓地に入る。ここを通ったことは過去何度もあるが、単なる通行路に過ぎなかった。墓地自体に興味を持ったことはない。かたわらに毒婦悪女として知られている高橋お伝の墓があった。毒婦悪女というのは魅力的な女と決まっている。ファムファタルである。

 

 ↓ 明治12年、「斬首となった最後の日本女性」高橋お伝の墓。ただし骨は遺骨は小塚原回向院にあるが、墓参すると三味線が上達すると言われ、今でも墓参する人がいるそうだ。

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 誘われたわけではないが、そこを機に、初めて少し墓域に入ってみる。露伴の小説で有名な天王寺五重塔の跡があった。広い霊園は予想と違って何だか雑然としている。きれいに規格が統一されたお行儀のよい最近の霊園とは違って、荒廃した公園のようだ。アジア的ゴシックロマン?墓石もいろいろな種類、規模があり、何か目から鱗が少し落ちたような気がする。掃苔趣味ということは知ってはいたが、谷中墓地ぐらいの規模だったら晴れた日の墓地散策も案外悪くないかなと思った。

 

 ↓ 谷中墓地の景。アジア的ゴシックロマン。

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 ↓ 参考:ウズベキスタンにあったユダヤ人墓地。乾燥地帯の個人墓(土葬)だから、雰囲気は違う。

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 日暮里駅近くには天王寺がある。一応というぐらいの心づもりで入ってみると、いきなり大きく立っていたのが學童守護地蔵。石ではなく、銅像のようだ。基礎の部分を見てギョッとした。制帽制服姿の子供たちの群像が浮彫されているのだが、表面の酸化被膜(錆)や汚れのせい、そして表現そのものによって、なんとも表現主義的というか、恐ろし気に見えたのである。私はてっきり、これは東京大空襲で犠牲になった子供たちへの慰霊碑に違いないと思った。帰宅後調べたところでは、昭和10年に「不慮の事故で亡くなった二人の息子を悼んで」建てられたそうで、時代状況とは関係ないことがわかった。

 

 ↓ 天王寺 學童守護地蔵

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 ↓ 同下部のレリーフ

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 もう一つ大きな釈迦如来銅像にはあまり興味を持てなかったが、別に一基の少々不思議な図容の小さな石仏を見出した。何となく見覚えがある。『野ざらしの歴史』(若杉慧 昭和41年 佼成出版社)に54.「龍佛塔」として紹介されているもの。著者は右の刻字を「薬師瑠璃光佛」と読んだが、今はとても読めない。とにかく類例がなく、詳しいことはわからないとのこと。むろん、私も見たことがない。帰宅後、同書図版と比較して見たが、当時(50年以上前)に比べても風化の度合いが進んでいる。参考のため、同図を揚げておく。

 

 ↓ 類例少なく、正体不明。刻字は読みがたい。

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 ↓ 参考:『野ざらしの歴史』より。下は般若心経らしいとのこと。上図と比較すると風化の度合いがわかる。

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 さてようやくこれで終わりかと出ようとした門の近くに、8基の庚申塔群があった。いささか疲れてはいたが、今日最後の見ものが好きな庚申塔だというのはうれしい。青面金剛が2基と三猿のみが5基、そして基礎に蓮華を浮き彫りにした、塔身は文字のみのものが1基。いずれもなかなか良い。中でも何だかふくれっ面をしているような顔のものが、印象的だった。その右下に持っているのは蛇だろう。

 

 ↓ 庚申塔群。

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 ↓ 青面金剛一面六手、三猿。なぜ、ふくれっ面?

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 かくて谷中石仏探訪は終了した。都心の寺社廻りをしたのは初めてである。だが石仏探訪のフィールドとしては、東京都心はその数、種類、質のどれをとっても宝庫なのだと、つい最近知った。さすが当時世界最大の都市、江戸。これからもまたあちこちに、ごく軽い気持ちで訪れて見てもいいなと思う。

 だがそれにしても、おそるべし谷中、台東区の寺社の数。この調子でいったらいったいどれぐらいの寺や神社が東京中にはあるのだろうと、気が遠くなりそうだ。そしてそれらを支え、必要とした人々とは、何なのだろうと思う。

「小ペン画ギャラリー-7 蝸牛」

 梅雨がなかなか明けない。東南アジアやアフリカの雨期・乾期のそれとは違うにせよ、言い換えればまあ日本の雨季である。雨季には雨季なりの風情があることは認めるにしても、心身は不調気味。

 

 路上や擁壁や樹々に蝸牛が這い出る。蝸牛のフォルムを見るのは好きだ。

 

  ↓ 近所で見かけたカタツムリ

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 そういえば、蝸牛を絵の中に描いた作品があった。2月から3月にかけて描いたものだから、梅雨とは直接は関係ないが、まあこの季節にふさわしい季題みたいなもの(?)。

 前段として、すでに「小ペン画ギャラリー-5 蝶」で紹介済みの221.「肩に蝶の翅」がある。

 

  ↓ 221.「肩に蝶の翅」 

  2020.3.5-6  10×7.9㎝ ミャンマー紙にペン・インク・色鉛筆・水彩

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 この作品の人物の髪型に、なんとなく巻貝のフォルムが見て取れてしまう。無意識にだが、ピエロ・デラ・フランチェスカの有名な「ウルビーノ公夫妻の肖像(ウフィツィ美術館)」が下敷きにあるのだろう。

 

   ↓ ピエロ・デラ・フランチェスカウルビーノ公夫妻の肖像(ウフィツィ美術館)」

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 昔から不思議な髪型だとは思っていた。巻貝のように見えるならばアンモナイトにしてしまえ、いやいっそのこと身を伸ばした蝸牛にしてみたらどうだろう。そうして描いたのが222.「装い(蝸牛を装う)」。

 

   ↓ 222.「装い(蝸牛を装う) 」 

  2020.3.6-8  10.5×7.5㎝ 雑紙にペン・インク

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 グロテスクなエロチシズムというべきか。現れたシンボリズム。バッドテイスト?これはこれで、好きな世界。

 

  勢いに乗って223.「愛の装い」と224.「 愛」を続けて描いた。

 

 ↓ 223.「愛の装い」

 2020.3.7-8  17.3×10.9㎝ ミャンマー紙にペン・インク・顔彩

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  224.「 愛」

 2020.3.10  10.5×7.5㎝ 雑紙にペン・インク

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  さらにすでにひと月ほど前に完成としていた216.「家庭教師」に蝸牛を描き加えた。

 

 ↓ 216.「家庭教師」 

 2020.2.13 3.11  9.6×6㎝ 和紙にドーサ、ペン・インク・水彩

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 それでほぼ蝸牛の憑き物は落ちたようである。

 

 ↓ 2013年 バリ島の蝸牛

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 次いで言えば、私は他の貝類と同様に、蝸牛を食べるのも好きだ。フランス(だけとは限らないが)料理店のエスカルゴ。美味しいことは美味しいのだが、あれは養殖した蝸牛の身だけを缶詰にし、それを調理して別の殻に入れて出すということらしい。

 小笠原母島に滞在していた時には、昔食用に輸入し、野生化したという大きな蝸牛がそこいら中に這い回っていた。食べようと提案したが、居候先のI氏に断固として拒否され、食わずじまい。田螺(タニシ)も長く食っていない。

 数年間に行ったモロッコのフェズのバザールの端っこで、ターメリックとレモン風味で塩ゆでにしたのを売っているのを見つけて食べてみた。悪くはないが、それほど美味いものでもなかった。まあ、蝸牛は陸上に棲む巻貝なのだから、基本的にはサザエやツブ貝と同じようなものだ。

 

 ↓ ロッコ、フェズのバザールで 

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 ↓ こんな感じで。ターメリック+レモン+塩。

 → 日本で食べるのと同様に爪楊枝で。

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                          (記:2020.7.25)

石仏探訪-4 「里山・天合峰と石仏探訪(八王子市上川町)」(2020.7.19)

 いつものように昼近く起きてみれば、天気予報は外れて、久しぶりの青空。なんだか心が躍る。今日の予定はあるにはあるが、それは必ずしも今日でなくてもよいことだ。

 急きょ石仏探訪と、ちょっと久しぶりの裏山歩きならぬ里山歩きに行きたくなった。石仏探訪はつい最近も行ったばかりだし、どうかとも思うが、時季と天候のせいで、里山(裏山)歩きは間が空いている。運動のためという名目も立つ。

 

 たまたま前夜、ネットであれこれ探していた時に偶然見つけた「天合峰」。地形図にはその名は記載されておらず、知らなかったのだが、以前から気になっていた里山の一つだった。その近辺は以前から何度も車で通ったことがある。新緑の頃は、思いがけぬ美しさだった。周辺の里山にはある程度足を運んでおり、自宅近くとしては数少ない残された領域の一つでもあった。

 

  ↓ 一番上の神社マークが熊野神社。300.2が天合峰。本当は左側の破線を下りるはずだった。

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 天合峰という少し変わった山名は、以前は「天狗峰」だったようだ(三角点名としては「天狗峰」だとの事)。以前、圏央道の建設に際して、高尾山の天狗なども原告となった「高尾天狗裁判」というのがあり、多少評判になった。当時、私自身はあまりピンと来なくて、何のかかわりも持たなかったのだが、その後天狗の本場、奈良県天川村在住の若い画家A君と知り合い、高尾山に一緒に登り、その影響もあって、淡い興味を抱くようになった。元々、五日市と八王子は古くから高尾山と深いかかわりがあったということは知っていた。皮肉なことに、その圏央道は天合峰の真下を通っている。

 それにしても時季が悪い。標高の低い里山歩きは晩秋からせいぜい五月までぐらいのもの。前夜天合峰の名を知った前夜は、10月ごろにでも思ったのだが、今日の思いがけない青空を見ると、無性に行きたくなってしまった。

 

 ブランチ後、14時過ぎに自宅を出る。自転車で小峰トンネルを越え、前回の石仏探訪の終了地点近い熊野神社から探訪スタート。鳥居には「熊野神社 八雲神社」と併記されている。神社そのものにはあまり興味がないが、この地に熊野信仰、修験道、天狗信仰等の普及ということがあったことは想像できる。

 

  ↓ 熊野神社八雲神社

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 社そのものは新しいコンクリート製で、味気ないが、鳥居の近くにはいくつかの神社名などを刻んだ角柱や地蔵が置かれており、もう少し由緒等を知りたいと思う。

 次いで、その上の三光院という寺に行く。ここも新しく再建された立派な寺で、整えられすぎていて興味を持てない。どういうわけか古い石仏類は一切見られなかった。

 早々に辞去し、川口川沿いに下流に向かい、再び山裾の道に入る。やはり感じが良い。ほどなく辻堂があり、いくつかの石仏がある。

 

 ↓ 辻堂。いい感じだ。

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 四面に地蔵の彫られた供養塔。ちょっと珍しい。基礎に「願主 釜沢村女人 講中」とあり、当時の女性たちのそれなりの在りようがうかがわれる。

 

 ↓ 四面に地蔵が彫られているが、基礎の文字を見ると念佛供養塔。

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 ほかの地蔵、如意輪観音、灯篭と見ていると、二つに折れた角柱に目がいく。うっすらと猿の姿。四角柱の三面に三猿を彫ってあるから庚申塔だ。その上に、青面金剛は摩滅したのか、見当たらないが、各面に三猿を彫った形式のものは、私は初めて見た。

 

 ↓ これは珍しい(?)三猿の庚申塔。上部は摩滅していて見えず。読めず。

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 ついでにすぐ傍らの稲荷神社ものぞいて見る。石祠が一つあるだけだが、傍らには最近のものと思われる素人?アーティスト?の作った女性像が置かれていた。まあ、それなりの味…、妙な味ではあるが。

 

 ↓ う~ん…。

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 道なりに進んだ圏央道の下のスペースには、近辺から集められてきた石仏群が置かれていた。

 

 ↓ 圏央道下の石仏群。ここのネットに自転車をデポ。

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 庚申塔、地蔵、正体不明のいくつか、石造物の残欠。表面の風化剥落の激しい青面金剛に比べ、剥落しきった後の三猿が妙に生々しい。

 

 ↓ 庚申塔青面金剛と三猿。

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 近所の方が供花に水をやられていた。ここに自転車をデポする。

 金毘羅山入口の手前の路傍には、植木の陰に隠れていた、ごく小さな如意輪観音。愛らしい。

 

↓ 小さな如意輪観音。小さくて見落としそう。左右に「信」の字が読める?

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 金毘羅山へ向かって進むと、青面金剛庚申塔と、基礎に「念佛供養塔」とある地蔵丸彫立像。庚申塔青面金剛は足元に鬼を踏みつけている。三猿だけではなく、鬼が彫られているのを見るのは初めてだ。

 

 ↓ 青面金剛一面六手が鬼を踏みつけている。写真では写っていないが、その下には三猿。上の二手には何も持っていない。 

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 集落のはずれ、左に「厄除稲荷大明神」を見て、右に墓地を見ると、いよいよ沢沿いの山路となる。路は鉄板敷の立派なもの。湿度は高く、無風で、薄暗い。

 ほどなく、二体の倶利伽羅不動尊竜王の姿で現れた。

 

 ↓ 倶利伽羅不動尊二基。龍王はその変化形。

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 左のは明治29年/1896年のものとのこと。まわりの雰囲気と相まって、以前訪れたバリ島のそれを思い出した。ヒンドゥー教の島ではあるが、倶利伽羅不動明王明王ヒンドゥー由来のものであるから、水神信仰としての蛇(龍はその理想形)の相似は、当然と言えば当然。似たような趣向となる。

 

 ↓ これはバリ島で見たもの。観光客向けの新しいものと思うが、趣旨は同様。ただし龍ではなく、大トカゲ。

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 ↓ 同上。趣旨は知りませんが、まあ水神ということだろう。

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 少し登れば赤い鳥居。ここから金刀比羅神社の神域。頂上には新しい社があるだけで、山名表示板ほか何もない。

 

 ↓ ここから先は神域。金刀比羅神社の鳥居も赤いのか?

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 社の裏から山道を辿ると左に金網の張られた水道施設があり、目の前には広大な伐採地が広がる。その向こうにはニュータウン、宝生寺団地。

 

 ↓ 向こうは宝生寺団地。

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 この天合峰の南面に巨大な物流センター建設の話があるとネットで見たが、現時点ではどうなのかわからない。北側の雑木林と南側の伐採地の際を縫うように進む。特に問題はなく、歩きやすい。ところどころに住宅整備公団や「動植物調査のため」といった立ち入り禁止の看板がある。

 

 ↓ 密生した辞林タイト伐採地の際を歩く(振り返り撮影)。

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 ふと物音に目を向ければ、牝鹿が一頭走り去っていった。こんなところに鹿がと思うが、狸や猪らしい糞も散見していたから、鹿がいても不思議ではないのかもしれない。

 

 思ったよりは簡単に 天合峰頂上に到着。桜の木には300.2m、下の石には299.9mと記されている。四捨五入すればぴったり300m。以前、こうしたぴったり標高や1234mとか2222mとか、数字の語呂合わせというか、カウントマニア的な標高の山に興味を持ったこともあったが、世の中、物好きな人はいて、資料として公表されてみると興味を失った。

 

 ↓ 天合峰山頂。三角点と奉賽物?

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 そんなことよりも、頂上には意味ありげな、不思議な石積みがいくつもある。ケルンのような単なる石積みということでもよいのだが、それらの多くは山頂にはあまりふさわしくない丸い平べったい、河原石。つまり下から持ち上げてきたように思われる。中でも写真右奥の長円形のそれは陽石のようにも見える。天合峰=天狗峰ということからも、昔は何らかの祠か何かがあったのではないかと思われる。これらの丸石はその祠への奉賽物だったのではないだろうかというのが私の推測。そうした例はこれまでに何度も見たことがある。

 

 ↓ 元は奉賽物かと推測した石積。

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 ↓ 右奥のこれは陽石?

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 案外感じの良かった頂上を後にして、尾根筋を辿る。伐採地とは離れ、密生した樹林帯の中を行く。足元はしっかりしているものの、手入れはされていない。倒木が多く、蜘蛛の巣が多く、かなり鬱陶しい路が続く。

 

 ↓ 実際はこの写真以上に鬱陶しいです。

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 これまでも含めて全行程、道標の類は一切ない。視界はきかず、現地確認が難しい。地形図とコンパスをこまめに確認しつつ、慎重に進むが、一度間違え、軌道修正。その後も何か所か分岐があり、そのこれが最後だろうという分岐を一つ早く読み間違えてしまい、三光院に下るはずの尾根よりも一つ手前の枝尾根に入ってしまった。

 最初はそれなりの踏み跡もテープもあったが、次第に怪しくなり、ついに踏み跡も消滅。その尾根を下りきったところの沢の二俣は、下まではいくらもないはずだ。その少し下流には途中まで破線が来ているが、あてにはできない。実際それらしきものは最後まで見つけられなかった。沢筋を下るが、薮はだんだんひどくなっていき、とうとう密薮と言ってよいほどになってきた。さすがに鬱陶しい。悪戦苦闘30分ほど、左に建物らしきものを見つけて登れば、そこは三光院の裏の墓地だった。やれやれである。この時期の低山の藪漕ぎは最悪だ。自分のせいだから文句も言えないが、里山であっても読図の難しいルートだった。

 自転車で通った道を辿り直し、圏央道下の自転車デポに到着。前回と同様に網代トンネルを抜けて帰宅。

 

 普通であれば1時間半ほどの行程だろうが、久しぶりの山歩きだったり、石仏観察に時間を取られたり、藪漕ぎがあったりと、倍以上の時間がかかった。今更ながらこの時期の整備されていない里山歩きは、不快な要素が多いと言うしかない。したがって達成感というようなものもないが、まあそれでも、行かないよりは行ってみて良かったというところか。自分にとっては初めての石仏を見ることができたのは、やはり少しうれしい。

(記:2020.7.20)

 

 ↓ 圏央道下の石仏群の一つ。いくつもの残欠が今もこうして祀られて(?)いる。

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「小ペン画ギャラリー―6 家族」

 家族、つまり自分の妻や息子を、また両親や姉たちを、作品として描いたことはこれまでない。そう思うと、ちょっと情の薄い男なのかなとも、思う。

 若いころは、自画像を描くのが好きだった。と言っても、予備校での課題の油絵数枚にすぎないが。別に、日々の修練としての自主的なデッサン(クロッキー)でも自画像はずいぶん描いた。だが、それも「作品を制作」するようになってからは、描いていない。

 画中にモチーフとしての人物を入れることはあっても、そもそも「人物画」を描くという意識を持ったことがない。そうした志向の結果として、気がつくと、家族を描いた作品が一点もないということになる。要は長く「人間」を描く気になれなかったのだ。その理由の深いところは、今は措く。

 

 具象的な作風であれば、家族や恋人を描く画家はけっこう多い。それはそれで当然のことであって、むしろ描かない方がおかしいというか、なぜ描かないのかと、つい尋ねたくもなる。むろん、それは下世話で、余計なお世話というものである。

 

 小ペン画を描くようになってから、人物を描く割合が飛躍的に増えた。そのほとんどがモデルのいない想像上の人物ではあるが。

 それは10センチ前後の小画面という制約から生まれた現象である。私にとっては「小ペン画」=作品である。つまり意味としての習作ではないので、世界として完結しなければならない。完結性ということからすると、なにがしかのモチーフ(姿・形)がないと、まことに絵になりづらいのである。そして人物という形と意味は、実に優れたモチーフなのだと、あらためて思い至る。

 

 ほんのちょっとした、新聞や雑誌に掲載された写真や、モニターに流れる画像を参考にすることがないではないが、それをモデルと言えるのかどうか。私の場合、写せばたいてい絵としては硬くなる。したがって基本的には写さない。

 だがプロセスはどうであれ、結果として人物を多く描くようになってから、実際の人物を見る眼が少し変わってきたようにも思う。

 

 今回掲載した内の二点は、女房の日常のふとした仕草を、美しいと感じたというか、絵として見えたのである。冷蔵庫を開けてヨーグルトを飲んでいる瞬間。晴れた日に田舎道を歩く後ろ姿。そんなところからでも絵が生まれる。

 

 

 ↓ 262 「ヨーグルトを飲む」

 2020.4.17-20 12.9×9.4㎝ 洋紙にドーサ、ペン・インク・水彩

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 起き抜けにパジャマのまま、冷蔵庫を開けてヨーグルトを飲む妻。

 若いころとは違った丸みをおびた体形だが、何か幸せそうなフォルムと動き。

 

 

 ↓ 263 「光の中を歩む」

 2020.4.19-20 13.5×9.4㎝ インド紙にドーサ、ペン・インク

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 良く晴れた日の少し遅い午后、近くの田舎道を歩く。満ち溢れる光と植物。

 逆光の中を浮遊するかのように歩く妻の動きとフォルム。どこへ行こうとしているのか。

 

 

 後ろ向きの孫を描いたものは、たくさん送られてくる画像の一つから。これも意味合いとしては同様。

 

 

 ↓ 265 「何処へ」 

  2020.4.20-22 13.2×11.4㎝ 和紙に膠、ペン・インク・水彩

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 初孫。そう高くはない仕切りを越えて何処へ行こうとするのか。

 新しい世界、未知の世界、異世界。自分の世界へ、か。人生はこれからだ。

 

 

 最後の一点(制作順としてはこれが一番早い)は完全な心象の景。二人目(になるはずだった)の孫が早い時期に流産したとの知らせを受けた後に描いた。見ることすら叶わなかったがゆえに、かえって命そのものの存在を感じた。

 

 ↓ 168 「いのち」 

 2020.10.3-4 和紙風はがきにペン・インク・水彩 

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 ゆえあってか、この世界の光を一度も見ることなく、名づけられることもなかったが、確かに存在したいのちがあった。「こんにちは さようなら」

 

 今のところ、家族を描いた作品はこの4点ですべて。今後、描くことがあるかどうか、それはわからない。

「梅雨の合間の漆伐採ボランティア」

 

 梅雨の合間を見計らい、昨日今日と、頼まれて、漆の木の伐採ボランティアに行ってきた。

 場所は都内某所。いわゆる山上集落の一つだが、その中でも道路の通じていない、本来徒歩以外に交通手段のないところ。山道を歩けば三十分ほどだが、現在は村設のモノレールが設置されている。

 

 ↓ 山道の一部はモノレールの軌道と並行している。部分的にはかなりの急勾配のところもある。

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 集落の起源は知らないが、だいぶ古いようで、250年前に分家が一軒増えて、以後はずっと二軒。そのあたりの歴史というか、人々の暮らしを思うと、何か感じ入るものがある。

 限界集落をとっくに終了して、何年間か人が住んでいない時期があったが、3年ほど前に、私の女房の友人Hさん(女性)がそこを買い取って移住した。築250年以上の家だから、そのまま住むのはやはり難しく、現在は敷地の一画に小さな家を建てつつ、一人で暮らしている。熊や猪や鹿や猿や狸が出没するところに、犬と猫と羊と鶏と共に。

 

 ↓ 現在の母屋。昔は茅葺の兜造りだったが、今はトタンで葺いてある。二階?三階はお蚕部屋。左奥の一画に新居を建てている。

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 ↓ 参考図版:正確にはわからないが、20年以上前の写真。まだ住人が元気で畑作をしていた頃のもの。『檜原村賛歌』(石塚岩男 2006年 八朔社発行)より。

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 以前から時おり頼まれて、藪の刈払いやら、家の内外装の手伝いやら、薪つくりやら、スズメバチの巣の駆除やら、体調不良時の緊急食糧ボッカ(歩荷=担ぎ上げ)やらに通っている。今回頼まれたのは、昔の畑だった斜面(今はススキがはびこり、猪のねぐらと化している)に生えている漆の木の伐採と撤去。

 Hさんは基本的には何でも自分でやるたくましい人なのだが、けっこう過敏体質で、とりわけ漆には弱く、それが原因で、救急車で運ばれた実績がある。かくて、やむをえず私にお鉢が回ってきたということだ。

 そういう私はと言えば、つい四カ月前のミャンマーで仏像に金箔を貼る際の漆にかぶれ、そこそこのダメージを負ったばかり。大丈夫なのか。しかし、ミャンマーの漆は日本の漆とは品種が違うと聞いていたし、液体になった漆だったのである。今回扱うのは木そのもので、これまでの経験からして、まあ大丈夫だろうとは思う。多少かぶれても、そう大したことにはなるまいと高をくくる。とにかく頼まれたからには引き受けざるをえない。

 

6月29日 

 武蔵五日市駅発10:30のバスで1時間。そこから山道を登り(途中にある一軒家の廃屋や住居跡などを観察しながら)、体力の衰えを実感しつつ、30分ほどで到着。早速仕事に取り掛かる。

 

 ↓ 途中で見かけた下の方の廃屋。道路はない。いつ頃まで住んでいたのだろうか。

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 作業ズボンに長袖シャツ。頭部は手ぬぐいハチマキに帽子と防虫ネット(これは途中で必要なしと判断し、やめた)。足まわりはスニーカー風地下足袋。手はゴム軍手。得物は、左腰に鉈、右腰に剪定用鋸、右手に鎌といういで立ち。

 

 ↓ 今回も活躍してくれた愛用の鉈。秋田のマタギ用の、剣先鉈というのだったか、槍先にもするという実用品。30年ほど前に知り合いの勧めで秋田の鍛冶屋に特注したもの。

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 密生するススキはともかく、そこかしこにある野茨、木苺、アザミと、棘のある草木が邪魔をする。繁茂する藤蔓や蔓草が鬱陶しい。そんな斜面のあちこちに生えている漆の木を、汗だくになって伐る。

 

 ↓ 昔は畑だった斜面。これは伐採した後の写真なので、漆の木は見えない。手前は自然農法の自給自足の畑の一部。電気柵が張り巡らしてある。

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 漆の木はさくい(脆いというか弱い)木質なので、伐ること自体は難しくない。だが、伐っただけでは済まない。漆に対して異常に弱い彼女のために、それを離れた安全な場所まで引きずり上げ、移動しなければならない。これが結構たいへんで、全身の力を使う。

 ヤワな絵描きである私に何ということを頼むのだろうと思うが、こうした肉体を酷使する作業はそう嫌いでもない。むしろ、淀んだ心身を無理やり浄化してくれる。とは言え、実際問題、疲れる。休み休み、おおよその漆の木を伐り終えたと思われるあたりで、本日の作業は終了。

 新居のシャワーを浴び、着替え、持参(Hさんはアルコールも駄目)のビールを飲み、ものを食べる頃には、慣れぬ早起きと肉体労働ですっかり眠くなり、早々に母屋に引き下がる。いつものように開け放った築250年の広い部屋に一人横たわれば、寝袋に入る間もなく一瞬で寝入ってしまった。

 

 ↓ 写真には写っていないが、左にはぶっとい大黒柱がある。この近辺の古来からの伝統的な間取り。

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6月30日

 翌朝も何とか雨は降っていない。昨日ほぼ全て伐り終えたつもりでいても、異様に漆に対する感度の強いHさんの目はごまかされない。指摘された個所をよく見ると、確かにそれらしき、しかも大木が何本も伐り残されている。ということで、本日の作業は自動的に昨日の続き。またひとしきり大汗をかいて、なんとか今度こそ、すべて伐採、移動完了。

 

 終わったころからぽつぽつと雨が降り始め、以後天候悪化との予報。今回はここまでとし、下山することにした。女房に頼まれた、途中に生えているクロモジの小枝を採るために、今度はモノレールで降ろしてもらう。クロモジはお茶にするためである。

 来るときにも見た、少しずつ離れた場所にある二三軒分の廃屋や屋敷跡、共同作業場の跡などを見ながら、今は杉の植林で覆われている一帯もかつては畑作をしていたなどと、興味深い話を聞いた。

 

 迎えに来てくれた女房の車で、帰途にある石仏をニ三か所、大急ぎで撮影。瀬音の湯で汗を流して帰宅した。

 

 ↓ 帰途の下川乗の路傍にあった石仏群。大小8基の石仏が並んでいる。

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 日々アトリエでの制作が私の人生というか、日常ではあるが、時々は山に身を置きたくなる。ふつうは、それは登山なのだが、こうした肉体労働を伴うHさん宅での一日二日も悪くはない。山上の古民家滞在ということも良いし、またハードな山林作業もたまには良いものだ。絵を描くという形而上学的世界の中に、時おりはこうした肉体労働の要素も入り込まなければ、どこかで何かが嘘になると思うのである。

 

 ↓ 家から少し離れたところにある墓地。代々の墓石の面は長い年月、子孫の住む家を見守っている。

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(記:2020.6.30)

 

 

 

 

石仏探訪-2 「裏山歩きか石仏探訪か―天竺山・石山の池、大悲願寺、その他(あきる野市横沢)」(2020.6.23)

 梅雨入りした。一年で最も苦手な季節だ。

 裏山歩きはこの時期、最も辛い。藪は繁茂し、風は通らず、蒸し暑い。おまけに蜘蛛の巣だらけ。ヤブ蚊もいるし、ダニもいる(らしい)。しかし、運動はしなければならぬ。ウォーキングではもの足りない。裏山でもよいから、山を歩きたい。もっと高い山に行けばよいのだが、諸般の事情(主に生活習慣の問題)から、そうもいかない。ということで、不快指数90%の裏山歩き+石仏探訪。

 

 自宅から歩いて、20分で三内神社。そこに至るまでの、いつも歩いている路傍に、庚申塔を2基(再)発見。次いで小さな木の祠も見るが、併設された石祠と共に、正体はわからず。と、かくのごとく、それまで気づかなかった、あるいは無視してきたいろいろなものを見出すが、先を急ぐ。

 

 ↓ 三内川を見下ろす。ほとんど知られていない、今はほとんど使われていない鉄の橋が架かっている。

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 線路を渡り、御岳神社の小祠を右に見て、石段を登れば、三内神社。ここはやや迫力のある狛犬二体のほかはさほど見るべきものはない。

 

  ↓ 三内神社

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 裏に回れば、2基の石祠が稲荷社。かたわらに「□(読めず)石稲荷大神」と刻まれた石碑。これは『あきる野市の石造物』には出ていない。そのすぐ上の木の祠は金毘羅宮

 

   ↓ 三内神社の裏奥の稲荷社にある石碑 最初の一字が私には読めない。

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 山道(表参道)を辿り、尾根に出て、一部崩れかけた趣のある伊奈石の階段を登れば、天竺山山頂(三角点なし310m圏)で、三内神社本社がある。山頂はまた少し伐採され、その材を使った椅子やテーブルが設置されていた。

 

   ↓ 伊奈石で作られた石段。崩れかけが良い味を出している。

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   ↓ 天竺山山頂=三内神社本社

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   ↓ 一応、天竺山山頂。あきる野市から梅雨空の都心方面をのぞむ。

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 そこから今日の課題の一つである、石山の池に向かう。室町時代ごろから採掘されていたという伊奈石の採掘場跡が、すり鉢状の底にわずかな水をたたえている。ここはいつ来ても大体こんな陰気なふんい気だ。一見浅い窪みのように見えるが、周囲の崖を見ると、そうとう深く掘り下げられたことがわかる(註1)

 

    ↓ 石山の池。いつも陰気です。

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    ↓ 石山の池に残る矢穴(楔打ち込み用)。以前に風化剥離防止措置を施したことがあるそうだ。

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 側壁の一部には割り出す時の矢穴(楔を打ち込むための穴)が残っている。この遺跡や伊奈石全般については、地元に「伊奈石の会」というのがあり、長く研究調査保存活動等をされておられるが、この矢穴跡にも風化剥離防止剤を塗布するなどの保護に努められているそうだ。最近、そこの会誌を三冊ほど入手し、面白く読んでいる。

 彫り出された石材は、需要に応じて、この地でおおよその形に整形された。池の前後には、整形後の石屑によって、小広いスペースが形成されている。その一角に「山の神」が置かれている。

 

    ↓ 山神社 彫の鋭い良い味。

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 荒く整形した細長いかけらに単純に「山神社」とだけ鋭く刻み込まれている。年記等もなく、いつ頃建立されたものかわからない。だがそれがあるだけで、かつてここで働いていた人々や、それによって作られた様々なもの、人々の暮らしなどが一挙に現実的なものとして思い浮かべられるような気がする。ちょっと傾いていたのを直しておく。

 (註1):「『新編武蔵風土記稿』には「信濃國伊那郡より石工多く移り住みて専ら業を廣くせし故に村名となせり、天正十八年(*1590年)御入国の後、江戸城石垣等の御用をつとむと云えり」とあるが、すでに12世紀には伊那から来住・開発し、伊奈石は多摩地域に流通していたとの神社の記録もある。伊奈石は硬質粗粒砂岩。加工しやすく、石碑、石仏、五輪塔、また石臼などとして利用された。」(コース NO.42横沢入から横沢丘陵、武蔵五日市駅 多摩百山/公益社団法人 日本山岳会東京多摩支部  http://www.jac-tama.or.jp/tama100.jac-tama.or.jp/course/course_42.html より)

 

 いったん天竺山まで戻って西側尾根を辿る。

 

    ↓ 天竺山から横沢入西側尾根、そして南側尾根へ。こんな感じで、山歩きの面白みは特にありません。私は嫌いではありませんが。

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 尾根が東に曲がるあたりの小ピーク(270m圏)でうっすらと記憶にあった祠(愛宕神社奥の院)を確認。現在は新しいコンクリート製のものだが、その後ろに古い「石祠」の残欠が放置されている。

 

    ↓ 今はコンクリート製に変わった愛宕神社奥の院

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    ↓ その後ろに放棄された古い伊奈石製の祠の残骸

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    ↓ 塔身に残る(雪中?)筍掘りの浮彫。風化は進む。

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 見ればその塔身(祠)には素晴らしい絵(浮彫)がほどこされている。前回何年か前にはその絵があることに気づかなかったのだろうか。あるいは見落としていたかもしれない。「信州石工森屋市之丞作」との由(註2)

 

    ↓ 同じく「松の木の下で巻物を見る少女(?)」の浮彫。本当に良い味。

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 だが「松の木の下で巻物を見る少女(?)」の絵がわからない。「筍掘り」が「雪中筍」のことだとすれば、「二十四孝」かと思って、ざっと当たってみたが、どうもこの絵に該当する話が見えない。せっかくだから、この絵の意味するところを知りたいものだが…。

(註2):『あきる野市の石造物』(平成24年 株式会社ダイサン:編集 あきる野市教育委員会発行 p.257) なお同書掲載の図版と比べると、今回見たものはさらに風化剥落が進んでいるように思われる。このように完全に新しい祠が再建されて放置されているのだから、この素晴らしい残欠部分だけでも五日市郷土博物館にでも収蔵保存してほしいものだ。)

 

 さらに進み、右手に大悲願寺の墓地への分岐を見送って、もう少し行った先にポツンと小さな石碑を見つけた。

 

   ↓ 「金毘羅神石」の碑。二つに割れていたのを据え付け直して撮影。石碑も壊れ、風化する。滅びないものはない。

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 二つに折れて文字面が見えなくなっていたが、持ち上げて積み直してみれば「金毘羅神石」の文字塔である。何年か前に確か見たことがあるような気がしてここまで足を伸ばしてみたのだが、やはりあった。三内神社の奥にあった金毘羅宮奥の院にしてはいささか意味の分からない場所だが。また「金毘羅神石」という表記もあまり見かけないように思うが、まあ、わからないことはわからないままで良い。

 

 いったん先ほどの分岐まで戻って、大悲願寺の墓地に下りる。そのまま境内の中の古い墓地域と観音堂(無畏閣)の周りをゆっくりと見て歩く。前回はサラッと見て気がつかなかったいくつもの石仏を新たに発見する。「五輪地蔵」も珍しいもののようだが、立派な解説板が設置されている。

 

   ↓ 大悲願寺境内墓地内の五輪地蔵。舟形光背に五輪塔が刻まれている。若くして京都智積院で修行中に早世した愛弟子を悼んで建立した墓石とのこと。寛延元年/1748年建立。

しかし、よだれかけや帽子はなるべく施さないでほしいものだが…。

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 私は石仏には興味があるが、墓石となると、やはりあまり良い気はしないというのが正直なところ。だが、いわゆる「石仏」には、特に「古い形式の墓石」が含まれることがあるのは時代の変遷の中でやむをえないことなのである。場数を重ねてくると、慣れてきて、鑑賞には差し支えなくなってくる。無縁墓石の集合という感じで前回はあまりよく見なかった「無縁塔」をじっくり見てみると、小型の五輪地蔵や如意輪観音馬頭観音などの、良い味のものをいくつも見出すことができる。

 

    ↓ 無縁塔にある如意輪観音3基と右下、聖観音(?)。墓石だったようだ。

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 中に一つ不思議なものを見つけた。四角い一つの石に二体の像が刻まれたものである。一瞬双体道祖神かと思ったが、見慣れたものとは違う。

 

    ↓ 一つだけあった双体像。双体道祖神へとつながる両親を供養した祠内仏だったのか。

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 帰宅後調べていたら田中英雄『東国里山の石神・石仏系譜』(2014年 青蛾書房)の中に、「祠内仏は道祖神の原型か」というのを見つけた。夫婦一体像≒二尊仏⇒双体道祖神という論考で、まだよく理解しきれてはいないのだが、そうした種類のものであるようにも思われる。檜原で別のタイプの双体像(首だけのもの)を見たことはあるが、それをのぞけばこの近くでは見たことがない。これからの研究(?)が楽しみである。

 

一通り石仏系を見たのち、久しぶりに観音堂(無畏閣)の彩色欄間彫刻や、山門の天井画などを見る。

 大悲願寺そのものは源頼朝の命による建久2年(1191)の創建だが、観音堂は1794年の建立で1824年以降に欄間彫刻を追加。共に内部は見たことがない。そういえば本堂やその周辺もまだほとんど見たことがない。そちらはなんだか現在営業中の寺という感じがして、足が向かないのだ。

 ともあれ、2005~2007年の修復工事で観音堂の欄間彫刻も彩色され直された。完成当初はキンキラでいかがなものかと思ったが、すっかり落ち着いてきた。アジア各地域の地獄絵などと比較して見る。

 

     ↓ 観音堂(無畏閣)の彩色欄間彫刻。嘘つきは舌を抜かれ、左で釜ゆでにされる。

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      ↓ 同じく、三途の川の奪衣婆。左は地蔵。

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 その後ろにももう一つ御堂があり、浮彫の施された小堂があったが、正体はわからない。

 

      ↓ 小堂には何の説明もなく、格子戸には南京錠。鳥居と御幣があるからには神道の祠だと思うが。

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      ↓ 同上。側面の浮彫。格子の隙間から苦労してズーム。

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 楼門(仁王門)は1613年に建てられ1669年に再建。格子天井には四季の花が描かれており、少し味がある。作者は幕末の絵師・藤原善信と森田五水とのことだが、詳しくは知らない。 

 

      ↓ 大悲願寺の山門=楼門。

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    ↓ その天井画。納札がべたべたと貼られているのが痛ましい。今でもやる人がいるが、文化財の破壊だ。やめて欲しい。

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     ↓ 一格子ごとに四季の花が描かれている。これは水仙

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 やれやれ、充分満腹した気もするが、帰りがけの駄賃とばかり、近くの愛宕神社に足をのばす。踏切手前を右にということだったが、どう見ても私有地の畑の一画。意を決して進めばすぐ右手にコンクリートの階段があり、未舗装だが立派な車道が通っている。すぐ先に愛宕神社はあった。神社そのものにはあまり見るべきものもないが、入口にある杉の巨木(市指定の保存木)の根元に、小さな石祠2基に挟まれた山の神の碑があった。おそらくどこか別の場所にあったものが移されてきたのではないかと思う。

 

     ↓ 愛宕神社奥の手前。二つの石祠に挟まれて山の神が傾いでいる。右の巨木は指定保存木(?)。

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    ↓ 梵字種子は馬頭観音金剛夜叉明王を表すが…。どの系統だろう。

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 一部に割れと剥落もあるが、「梵字種子(ウーン) 山神 □境」の刻字が読み取れる。うん?山の神に梵字種子?山の神の出自というか分類はだいぶややこしく、種類系統も多いのだが、ざっくり言えば、「神」なのだから神道系である。梵字サンスクリット文字)種子は仏教の如来・菩薩・明王・天に対応するもの。神仏習合時代の名残かとも思うが、それ以上は不勉強でよくわからない。ちなみにこの種子はフォントがないので表記できないが「ウーン」と発音し、馬頭観音金剛夜叉明王を表すものとのことである。

 

 さて、さすがにもういい。と言いつつ、帰路も大悲願寺手前で右に急下降する石段を下りる寄り道をして、淡い記憶の陰に埋もれていた「廿三夜塔」を再発見。さらに帰路にあるいくつかの石仏を再確認しながら、ようやく自宅に帰り着いた。

 

    ↓ 廿三夜塔。元治2年(1865年)建立。廿三=二十三。二十三夜の月の出を待ちながら、念仏を唱える。後世には信心から歓談、会食といった娯楽の場に変容していった。

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 普通なら1時間半程度の行程だが、撮影したり、鑑賞したり、探索したり、考察したりで、その倍の時間がかかった。何度も歩いているはずの途中の行程でも、今まで気づかなかった、目に入らなかった石仏やらあれこれに気付く、発見するところがあり、なんだか、楽しかったような気がする。

 

 しかしそれはそれとして、やはり裏山歩きは秋から春にかけてのもの。石仏探訪もそうだ。だんだん爺くさい趣味にハマっているとは思うが、それそれでまあ、良い。しかし、私の「山登り」はどこに行ってしまったのだ…。 

                             (記:2020.6.24)