左、4体の石仏。1体は小さ過ぎて、ここからでは見えない。
だが、資料に載っていないということは、調査が行われて以降の、ここ30数年以内のものなのだろうか。
しかし、背景がなあ~。あいかわらず下色だけのF100号。少し良い布でも買ってくるか。
敷いてあるのは八幡平で入手した地熱染め。
三日前の話。千代田アーツ3331に勢藤明紗子さんの展示を見に行った。
秋葉原から歩いたが、途中にはロリータというのか、メイドファッションの女の子たちが何人も立ち並び、ビラ配りやら呼び込みの営業中。ふつうのことなのだろうが、私はそうした光景を見たことがなかったので、驚くというか、少し感動して道々観察させていただいた。
みなそれなりに若く美しい。現代のアイコン。最近の石仏探訪のせいか、私には、彼女たちが、路傍の観音様や如来、あるいは道祖神であるように見えてきた。幻想というよりも、ほぼ妄想であろう。だが観音は三十三の姿(すなわち無限)に変身して現れるというから、十八身:優婆夷身(うばいしん/髪の長い女性の姿、からだは白肉色。)、二十一身:婦女身(ぶにょしん/天女の姿。愛嬌があり、からだは白肉色。)、二十三身:童女身(どうにょしん/少女の姿で、顔は珂雪色〔乳白色〕)のいずれかであっても不思議ではない。そうした考察(妄想)によって、自分の作品世界に一つ新たな枠組みを得たと思った。
閑話休題。
勢藤明紗子さんは、昨年一度だけお会いした、私の昔の教え子の「つれあい」。その時、スマホで見せていただいた作品に興味を惹かれたのだが、京都在住ということもあり、実見する機会がなかった。今回は千代田アーツの中のex-chamber museumでの企画グループ展に出品されていた。
出品されていたのは思ったより小さな作品ばかりだったが、やはり興味深かった。手描きのレース編みのような、一種の超絶技巧の趣き。京都市立芸大陶磁器専攻出身ということにも関連するのだろう。その中でも規則性・繰返しの強い作品よりも、そうでない作品の方が世界性を立ち上げそうで、私の好みであった。そうしたタイプのもう少し大きなサイズの作品を見たいと思った。ともあれ、どうにも心惹かれる。いつか、彼女の作品の影響が、私の作品にも出てくるような予感がする。
↓ 勢藤明紗子 「drawing20150719」(部分)
260×260mm 紙にインク 2015年
今回展示されていたものではありません。会場では撮影できなかったのと、またとても写真では伝わりそうもなかったので、作者の許可を得てネット上から比較的はっきりとわかる画像を拾って載せました。
↓ 武部翔子 「影をうつす」展 会場風景
数寄和のHPの画像を拝借。
本日最大のミッションを果たし、夕方からの西荻窪での所用までの時間で、つまりは都心の石仏探訪その2として、湯島から本郷、小石川へ歩く。初めて歩くところばかり。
訪れたのは、霊雲寺、櫻木神社、源覚寺、善光寺、慈眼院、沢蔵司稲荷。それらの中でちょっと面白く感じたものをいくつか紹介する。
↓ 湯島2丁目 霊雲寺 お百度石
主尊は地蔵菩薩丸彫半跏像で良いと思いますが、正確には今のところわかりません。
お百度石は願掛けのためのものでしょうが、詳しいことはわかりません。
↓ 小石川2丁目 源覚寺 これも違ったタイプのお百度石。
手前の小石で回数を数えた。
↓ 小石川2丁目 源覚寺 塩地蔵
塩地蔵というのはあちこちにあるようだが、詳しいことは知りません。
それにしてももはや地蔵本体は見えない。これも信仰?それとも迷信?
↓ 小石川3丁目 慈眼院 庚申塔
彫りのしっかりした、よくできた聖観音舟形光背だが、刻字には「奉供養庚申講」とある。
元和3年/1683年。
↓ 同じく慈眼院の聖観音の丸彫立像。宝暦8年/1758年(?)。
聖観音の石造の丸彫りは比較的少ない。たっぷりとして良い感じ。
↓ 同じく慈眼寺。ヒンドゥー色が強いが、不動明王で良いのだろうか。然るべき文献で確 認していないので、よくわかりません。
ここの寺のものは石質が良いせいか、風化剥落度合いが少ない。
↓ 同じく慈眼寺。謎である。
ネット上では庚申年と書いているものがあったが、刻字の寛文9年/1669年は己酉。庚申塔ではない。
江戸後期の白隠などの禅画などならわからなくもないが、350年前のこの表現はスゴイ。
胴体は地蔵菩薩宝珠錫杖のようだが、結局今のところ正体不明。デフォルメされた顔といい、穴の開いた光背の意味といい、ああ、正体が知りたいものだ。
↓ 慈眼院に附属したというか、むしろこちらの方が有名な沢蔵司稲荷。
「おあな」と称するかつて狐の巣穴があったという窪地の磐座一帯が聖域とされている。
↓ 沢蔵司稲荷は狭い面積だが、そこら中に石彫りの狐がいる。いずれもかなり力の籠ったもので、造形的にも面白いが、きりがないので、とりあえず一つだけあげておく。石祠には丸石が。
薄暗くなってきたところで、本日の石仏探訪は終わり。西荻窪の数寄和で開催中の武部翔子さんの個展を見に行く。
京都市立芸大日本画出身の、故郷北海道の自然をモチーフとした、静謐な世界。その禁欲性(?)に何か可能性を感じる。その後、作家も交え、軽く楽しくアルコールのひと時を過ごした。
それにしても、つくづく都心は石仏の宝庫だなと思う。ただし、歩くという点に関して、そして途上の風景は、やはりあまり好きにはなれないが。
やらねばならぬ事は多々あるのだが、あれやこれやと、物憂い。不要不急のマイブーム、石仏探訪に(半分は運動のためでもあるが)逃避する。
曇天だが、雨は降らないものとして、自転車で小峰トンネルを越えて隣の八王子市上川町へ。今倉神社はパスし、正福寺から川口川沿いに下流へ。福寿寺→大仙寺→戸沢馬頭観音堂→田安神社、そして網代トンネルをくぐり抜けてあきる野市に戻り、禅昌寺とその近辺、というルート。八王子市に関しての資料は一切持っていない。2.5万図に記載された寺社記号だけが頼り。
一つ一つは小さな寺だが、濃密な緑の里山の裾に点在する濃厚な東アジア的風情。途上では予期せぬ路傍の石仏もいくつか発見した。
資料・参考文献がないのは、かえって気が楽だが、素人単独の身としては現場での観察・研究にも限りがあり、今回はすなおな鑑賞が中心。そんな3時間半ほどの行程で印象に残った、取り上げやすいものを、いくつか紹介する。
↓ 1 山百合。途中でいくつも見かけた。濃厚で妖艶な匂い。一株にたくさんの大きな花をつけ、このように支えをしてやらないとたいていは自らの重みで倒れてしまう。
↓ 2 上川町・正福寺
最初に行った小さなお寺。このあたりでは旧盆でやるせいか、多少は人が来ていた。
↓ 3 正福寺の本堂の左右の脇に掲げられていた絵馬。眼病に御利益があるのか、「め」の絵馬が多かった。迷信?信仰?しかし、味があるなぁ~。
↓ 4 正福寺の入り口にあった地蔵菩薩立像、宝珠錫杖舟形光背の御尊顔。全体は割と大型で、中央で二つに割れ、また一部欠損もあるが、比較的見やすい。地蔵であれ、顔の表情を味わえるものは、案外少ない。地元のそこらへんにおられそうな顔。
↓ 5 小さな地蔵立像舟形光背。風化が激しくよくわからないが、合掌形だと思う。左にかすかに「童女」と読める。墓石だったのが、今は無縁仏。種々のしがらみを脱した可愛らしさ。
↓ 6 今熊神社への道標。右面に「今熊山大権現」左面に「従之三十六丁」とある。写真左には別の花崗岩製の道標(昭和六年)も写っている。ここに至るまでに同様のものが二つほどあった。なぜか、石の道標には心惹かれる。
↓ 7 大仙寺の裏口(?)近くの石仏群。三界萬霊塔、如意輪観音、地蔵などのほかに、損傷が激しく正体の良くわからないものもある。左奥には木下闇に石祠。雨季のアジア。
↓ 8 大仙寺の石仏群の一つ。如意輪観音半跏思惟像。苔を下半身にまとい、何を思惟されておられるのやら。
↓ 9 同じく石仏群の一つ。こうなると全く正体不明。頭部は素人の後補だとわかるが、全体像は何だかわからない。まあ、これはこれで良いか。
↓ 10 大仙寺境内にあった五輪塔二基。右のは火・風輪が欠。無時間的な、良い感じだ。これぐらいのもの、一つ欲しいなぁ。
↓ 11 戸沢馬頭観音堂(左奥にチラッとのぞいている)の石仏群。地蔵二体と右の角柱は道標(これも結構面白い)。左の自然石の二つは、文字が彫られているようにも見えるが読めず、正体不明。戸沢馬頭観音自体は珍しい木造のものだが、この堂の本尊だとして、簡単には見れないらしい。近くには「鎌倉古道」の新しい碑もあった。
↓ 12 石仏群のすぐそばにあったが、草に埋もれて見落としかけた「蚕神」。蚕神は初めて見た。やはり、かつて養蚕が盛んだった所なのだ。右下には桑の葉が彫られている。やや素人くさいように思う。石の形が陽石にも見えるのは、考え過ぎか。
↓ 13 これは福寿寺の下(後ろの擁壁の上が境内)の辻にあった、一応地蔵。一応というのは、基盤は何か別のもの、その上に五輪塔の水輪(?)、胴は涎掛けで見えないが何かやはり別のものの一部、頭部は丸石、といったように、四つの別々の素材を重ね合わせているように見えるからである。寺自体は再建された新しいものだが、境内には古い損傷したものも置かれていることからすると、これは地蔵として寺に認められなかったものなのだろうか。それとも辻に在るからには、もともと地蔵として在ったのだろうか。いずれにしても帽子と涎掛けを着せる地元の人の信仰心によって、今現在でも地蔵として認知され機能していると言わざるをえないのだろうか。そう見れば、多少汚れてはいるものの、可愛いと言えなくもない。
ファイルをパラパラとめくっているうちに、「風景の中の人物」という視点を思いついた。「風景を背景とした人物」ではなく、「ある風景の中にいる」人物。
小画面で描くということは、ややもすると、閉じた絵画的空間とならざるをえないところがある。だから、風景という自然な広がりのある空間を扱うのは難しいと思っていた。描いているうちに、その閉ざされがちな絵画的空間に、少々息苦しさも覚えるようになっていった。その息苦しさに飽きて、とりあえず風景を描いてみると、そう無理なことでもないように思えた。
今回取り上げた作品の「風景」は6点中の3点は完全に想像である。2点はテレビの映像にインスパイアされたもの。ビデオを制止させて描くわけではないから、内容とはあまり関係ないものになっているが。もう1点はネットで拾った画像から。
かつては写真や、ましてやテレビの映像を見て描くなどということはありえなかった。邪道だと思っていたし、今でもある程度はそう思っている。だが、古典的な感情的なところをのぞけば、そういうのも現代ではありかなとも思う。現場での一回性としての写生が絶対的な優越性を持っていると断言する理由はない。写真やバーチャルということもまた一つの現実、素材でありうるのだから。
もともとテレビはあまり見ないのだが、最近はときどき自然系、旅系のドキュメンタリーなどを見ながら、そこに映し出された光景に心を奪われ、気がつくと鉛筆を走らせていることがある。それは例えば、海外の旅を重ねた自分自身の体験に裏打ちされた、照応というかシンクロできることが多くなってきたということがあるからだと思う。
旅の写真-1 2015.2 モロッコ・フェズのメディナ(旧市街)
迷ってすぐ近所のはずのホテルになかなか戻れず、1時間ほどさまよった。
旅の写真-2 20116.9
グルジアから国境を越えてアルメニアへ。ホテルの前から谷を隔てての景観。
画家としての古典的な倫理的敷居を少しゆるめてしまえば、作品世界は少し広がる。そもそも、見たことのない風景までもイメージ=発明しなければならないというのは、確かに頑なに過ぎるだろう。
以下、作品篇。
48 「風景の中のをみな」
2019.9.25 7.6×11.7㎝ 和紙に膠引き、ペン・インク
小ペン画を描き出したはじめの頃のもので、風景を扱った最初の作品。
小画面ゆえのいやおうなしの絵画空間性に少々息苦しさを感じだしていた頃で、反発するように、明確な構想もなく、風景を描き出した。まとめ切る自信もなく、われながら無謀なことをするなあと思いながら。人物を入れる予定はなかったが、途中から勝手にミニスカートのお姉さんがあらわれ、手前の茂みに腰を降ろしたら、絵がまとまった。
136 「南島の星の巫女」
2019.11.27-28 15.3×12.3㎝ 和紙に膠引き、ペン・インク・修正白
背景の山はどこかの火山島の風景。手前の女性もネット上で拾ってきたもの。何であれ、参考資料になりそうなものは、時おり拾っておく(こともある)。そうした、だいぶ前にイメージ資料として拾っておいた無縁な両者が、ある日、何かの縁で邂逅する。イメージのコラージュと言えば、そう言えるかもしれない。
(行ったこともない)南方の島の別荘の廃墟のような、神殿跡のような、そんな場所にたたずむ巫女、といったイメージ(何のことやらわかりませんが)。
271 「辺境の温泉」
2020.429-5.1 9.1×12.9 雑紙にペン・インク・水彩
BSで見た北欧(アイスランド?)の情景が引き金だった。行ったことのあるスカンジナビア三国とは多少違うが、風土的共通性はある。
まさか露天風呂の絵を描くことがあるとは思ったこともなかったが。妙なテイストだ。
284 「遊牧する母」
2020.5.19-20 11.9×8.3㎝ ファブリアーノ紙?にペン・インク・水彩
これもBSで見たイランの羊飼いの一家を取材したドキュメンタリーから。イランには行ったことがないが、青海省やウズベキスタンやトルコなどの体験から、シンパシーを感じた。
314 「花盛りの樹の上で」
2020.7.4-6 12.8×9.5㎝ 水彩紙にペン・インク・水彩
すっかり忘れていて、今思い出したが、これもBSの中米(行ったことはないが)あたりの旅系ドキュメンタリーが引き金となったのかもしれない。ただし、テレビを見ながら描いたのではない。何となく残っているシチュエーションの記憶に基づいて、といった程度。
359 「旧市街の蕾卵売り」
2020.9.27-10.1 15.9×11.8㎝ ファブリアーノ紙?にペン・インク・水彩
これは全くの想像というか、いくつもの主に中東の旅の体験の記憶が、発酵し変容し融解した街並み。色を着けるかどうか迷って、部分彩色としたが、まあ一応の効果はあったように思う。蕾卵は私の造語。
ああ、エルサレムとかイエメンとかキルギスとか、行きたいなあ~。
(記:2020.10.18)
石仏探訪にハマって約4カ月。長梅雨、猛暑にもかかわらず6月からの四カ月で45回だから尋常ではない。爺臭い趣味のように趣味のように思われるかもしれないが、まあ、それはどうでも良い。なぜ石仏なるものにハマったのかは、未だ自分の中でも十分には説明できない。
だが、絵のモチーフとしてでないことは確かだ。石仏そのものを描いても、民芸風の、あるいは情緒的なものにしかならないように思われるし、そうではない作品というものは未だ見たことがない。
石仏が信仰の対象であることからしても、その意味的な面を無視してモチーフとすることは、ふつうはありえないだろう。だが、石仏というものに籠められた意味合いと言ってみたところで、石仏には数多くの種類があり、儀軌的な面、信仰史的な面、民俗学的な面のいずれをとっても、実際のところは錯綜を極めており、妙な手前勝手な誤解に陥ることは避けがたいのである。
そもそも私は、世界の事象のあらゆるものを参考にはするが、描くべき対象としての固定した、いわゆる具体的現実的なモチーフというものを、基本的には持たない。
私が無宗教者あるいは無神論者であるということは、何度も公言している。そして無宗教者であるがゆえに、そうした視座から、宗教および宗教心というものに対して関心を持っているということも。したがって、石仏への興味は、私自身の宗教的共感の現れとしてではない。だから私が石仏を描くということはありえないと思っていた。
「宗教的対象」(偶像)であるはずの石仏を見ていると、制度化された宗教のもう一つ基層に在る、民間信仰とでもいうべき存在を認識せざるをえない。民間信仰、民俗や習俗や時に迷信と呼ばれるそれは何であるのか。
それは体系化され政治化された、完成された制度・装置としての寺社宗教以上に、人々の生活実感の深部に根差したものであるがゆえに、人々の個人的な欲望や願望をあからさまに照らし返している。それらは、とりあえずは「二世安楽」の語に代表されるだろう。
換言すれば、民衆の求めるものによって、信仰の対象物すなわち石仏は、その意味合いを変える。仏教であれ、キリスト教であれ、その初期において偶像を造ることを厳しく禁じたというのも、その点で故あることである。
私は人々の欲望や願望を否定する者ではない。それこそが結局は世界を動かすものだと思っている。人々が宗教という制度の中で、仏であれ神であれ、とりあえず尊いとされるイコンを供養することによって、自分と社会の日々の暮らしの折り合いをつけるのは、正しい生活習慣であると言えよう。
そうした観点を持つと、石仏の中に、それを造立し供養する人々のそうした欲望や願望、あるいは悲しみや希望までもが次第に見て取れるように思われてきた。であるならば、私はそれを読み取ってみようと思う。
かくして気がつけば、石仏にインスパイアされた作品を描くようになっていた。それは石仏に籠められた、信仰や民俗的要素の現代的再解釈、あるいは翻案であるとも言えよう。そこには、そうした人々への多少の皮肉もこめられているかもしれないが、哀惜と共感の気持ちもまた在るのである。
とりあえず今回は石仏の中でもポピュラーなものである如意輪観音、道祖神、月待塔(二十三夜塔)、五輪塔、庚申塔に対応するものを一つずつ上げてみる。
● 如意輪観音
↓ 如意輪観音半跏思惟座像舟形光背(墓標仏) あきる野市玉林寺
まず初めは如意輪観音。石仏の中でも観音は地蔵に次いで多い。現世利益を旨とする観音菩薩には多くの種類(33の変化身)があるが、石仏としては、女性の墓標仏とされることが多いせいで、如意輪観音が最も多く、次いで聖観音が多い。また、かつての生活に欠かせなかった馬の供養や、そこから発展しての運送や交通安全の目的で、馬頭観音も多い。十一面観音や千手観音等も多少はあるが、他の観音はあまりない。
↓ 310 「如意輪のをみな-メランコリア(右)」
2020.6.25-27 和紙にドーサ ペン・インク
要は「半跏思惟座像」というポーズ自体に、官能性というか強い魅力を感じたのである。本来はインド風の衣をつけているわけだが、現代のイメージでとらえ直してみれば、レオタード風のものがイメージされたのである。
如意輪観音は、堂内仏などでは一面六臂が多い。右足を立てて、宝珠・法輪・念珠・蓮華を持ち、一手を頬に当てた半跏思惟座像。石仏では省略して二臂のものが多い。
代表作としては、密教の最盛期平安中期の観心寺の如意輪観音が有名。長く秘仏とされていたため、彩色等も極めて良い。その妖しいまでの官能的な美しさのかなりの部分は、いかにも女性的な半跏思惟座像という、アンニュイなポーズのゆえであろう。そのためか、江戸中期以降の庶民の女性の間で大人気を博し、墓標仏とすることが流行した。
ちなみに尼寺である中宮寺の国宝の菩薩半跏思惟像は、伝如意輪観音とされている。本来は広隆寺のそれと同様、弥勒菩薩であったが、その後の如意輪観音人気の中で如意輪観音であると寺が喧伝するようになったとのことでる。神仏の素性さえ容易に変更されうるのも、東アジア的宗教性か。
● 道祖神
道祖神についてはここで詳述する余裕はないが、記紀以前や以後の神道や民間信仰、また中国の道教系の由来やら、相当に複雑な出自の要素を合わせ持つ。古くは村への厄災の侵入を防ぐ賽の神(遮る神)としての、未加工の自然石や丸石であったが、時代と共に文字塔へ、さらに子孫繁栄や夫婦円満など様々な祈願の対象としての二体像・夫婦像へ、特に信州や北関東に多く見られる神像的男女双体像へと、形態的にも意味的にも多様な変遷をとげていった。
また農民や庶民の日常生活と深く結びついたために、その過程で遮る神とは別系統の、潜在していた性信仰・金精信仰・子安信仰などとも結びついた、よりリアルな形態のものも現れた。
↓ 316 「道祖神」
2020.7.9-12 和紙に膠 ペン・インク
本作は信州の神像的男女双体像の中の、女(神)が瓢箪や銚子などを持って男(神)に酒を注ぐタイプのものを直接のイメージの源としている。ただしそうしたタイプのものは東京には少なく、石仏に興味を持ち出してからは信州に行っておらず、まだ納得のゆくものを実見する機会を持てずにいる。本作のもとになったのは、書物に掲載された図版からのもの。夫婦和合、子孫繁栄、二世安楽といった願望の端的な表現。
↓ 参考:信州の双体道祖神
画中手前の球は、日本の仏教的であると神道的であるとを問わず、かなりの割合で宗教的な場に見ることのできる奉塞物としての丸石。最も単純な形での日本的宗教性の心情的シンボル、原型。
● 月待塔・二十三夜塔
石仏の中でも日待・月待信仰のものは、一般的にはあまり知られていないだろう。古くから日本各地広く行き渡っている民間信仰だが、その由来はあまり明確ではない。
日待ちという、一定の日に決まった場所に集まって夜を徹して日の出を待つという行事が基本にあったようだが、月待も同様に特定の月齢の夜に集まり、念仏等の行事を行うものである。そうした形式としては、後述の庚申待・庚申塔も同様の性格を持っている。
二十三夜塔が最も多いが、他にも十三夜、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、等々、いくつもある。石仏としては刻字だけを自然石に刻んだ文字塔が多い。
↓ 廿三(二十三)夜塔 あきる野市横沢 路傍
主尊は月天子やその本地仏である勢至菩薩、神道系では月読命(月夜見命)など、あるいは如意輪観音、聖観音、子安観音などもあるが、そうした作例はそうは多くないし、一見して月待塔とはわかりにくいだろう。
私が見たもののほとんどは文字塔であり、シンプルな「二十三夜塔」とだけ刻まれた文字に魅せられた。ただしそれ自体としては絵にならないので、「廿三(二十三)夜」とか「十九夜」とだけ刻まれた自然石を観想して、勝手にイメージしたものでる。
↓ 324 「月待の碑」
2020.7.26-27 11.9×8㎝ ファブリアーノ? ペン・インク・水彩
ほとんで文字塔しか見たことがないので、かなり自由に解釈(?)して、庚申塔の要素など、さまざまな要素を盛り込んだ。
●庚申塔
青面金剛を主尊とする庚申塔は、その構成要素の多様さと面白さ、そして本来路傍に多く親しまれてきたということもあり、石仏の中でも最も興味を持たれ愛好されているのではないか。
↓ 庚申塔 青面金剛一面六手ショケラ持ち 邪鬼 三猿笠付角柱 八王子市美山町 路傍
いつかはもう一度見たいと思っていたショケラ持ちだったが、わが家から二山越えた八王子市美山町でこの日は二つも出会うことができた。
庚申待という行事については、中国の民間信仰に由来する道教の三尸説が源流とされ、平安貴族の間で流行した。
三尸説というのは、人体に棲んでいる三尸という三匹の虫が、60日ごとに巡ってくる庚申の夜に体内から抜け出して、天帝(帝釈天とも閻魔とも言う)のもとにその人の60日間の行状を報告し、天帝はその度合いによって、その人物の寿命を縮めたり、死後に地獄・餓鬼・畜生の山悪道に堕とすという。したがってその夜は三尸が身体から抜け出さないように、眠らないようにしなければならない。その長い夜を眠らずにやり過ごすために、念仏を唱えたりするのだが、次第に飲食などを楽しむなど娯楽的要素が増していった。そうした年6回の庚申待を三年続けた記念に、または60年に一度の庚申の年に庚申塔を建てたという。
時代とともに仏教やその一部の源流であるヒンドゥー教や、神道とも習合し、多様な要素を取り込み、江戸時代半ば以降、青面金剛が主尊とされるように至って、庶民階級へと広まり、レクリエーション的要素を強めていった庚申講と相まって、最盛期を迎えた。
青面金剛はもともと仏教にも神道にも存在しない。古くインドの夜叉=疫病を流行らせる悪鬼であったが、のちに改心して病魔を駆除する善神になったという。
基本的図像としては上部に日・月天、一面六手憤怒相の青面金剛、二羽の鶏、足元に邪鬼を踏み、下に見ざる言わざる聞かざるの三猿である。二羽の鶏は省略されることも多いが、全体として要素が多く、視覚的にも楽しめる。
青面金剛の各手には剣や宝珠、羂索など様々なものを持つ。その中で、作例の割合としてはそれほど多くはないが、ショケラ(商羯羅)というものがある。この半裸の、多くの場合女性とわかる長い髪をつかまれて哀願するように合掌しているショケラの正体が長いあいだ不明とされてきた。
このショケラの起源と意味については、「ショケラについて---『青面金剛オリジンを探る』追補 『日本の石仏No75(1995秋号)』 (大畠洋一 『青面金剛進化論』 (「CD版 石仏ライブラリ」)
( http://koktok.web.fc2.com/hom_page/sekibutu/libr_index.htm )に詳しい。
要約すれば、青面金剛の起源は、仏敵から仏教を守るための護法尊としての、ヒンドゥー教の最強神であるシヴァ神の化身であるマハーカーラ(大黒天)だということ。当初の仏敵はヒンドゥー教であり、その最強神はシヴァ神である。したがって護法尊(大黒天=マハーカーラ)がシヴァ(大自在天)を屈服させるということは、つまり結果として、自分が自分自身を退治するという論理になる。このあたりが仏教・ヒンドゥー教・道教・神道と無節操に集合させる民間信仰のおおらかというか、いいかげんなところではある。
そしてこの退治された証に髪の毛をつかんで吊るされた半裸の哀願する女人が、仏敵=ヒンドゥー教=シヴァ神=ショケラ(商羯羅天)=三尸虫、ということなのである。
かつての初期の石仏研究家であった武田久吉や若杉慧をして「ところで、最後までわからないのは、裸の赤ン坊をつりさげていること」と悩ませたショケラの正体は以上である。
↓ 330 「商羯羅もち」
2020.8.4-6 15.1×10.7㎝ 水彩紙にペン・インク・水彩
私はその髪をつかまれ哀願する半裸の女人というサディスティックな図容に、インスピレーションを受けたのである。私にとって、その半裸で哀願する女人像とその意味をどう翻案し、イメージ化するかが問題だった。必ずしも成功しているとは言えないかもしれないが、少なくとも自分自身からは出てきようのない発想で絵を描くというのはスリリングな経験であった。
↓ 322 「商羯羅(ショケラ)」
2020.7.22-23 15.3×9.4㎝ インド紙に膠、ペン・インク・水彩
●五輪塔
五輪塔は主に「供養塔・墓として使われる塔の一種。五輪卒塔婆とも呼ばれる(Wikipedia)」。古代インドの地水火風空の五大説を反映し、方形(地輪)、円形(水輪)、三角形(または笠形・屋根形、火輪)、半月形(風輪)、宝珠形または団形(空輪)を積み重ね、それぞれを象徴する梵字種子を刻んだもので、今日でもお寺などで目にする機会は多い。
基本的に像はなく、絵画的要素はないが、彫刻的、形体的魅力が強く、その点で心惹かれるものがある。
↓ 329 「ゆらぐ五大」
2020.8.4-8 13×9.5㎝ 水彩紙?にペン・インク・水彩
五輪塔を描きたいという気はあるのだが、観音やショケラと違って人物像を結びにくい。そこで地水火風空という元素を感覚的に表わしてみたということ。説明的にではなく、象徴的に。
石仏には今回取り上げたもの以外にも、最も数の多い地蔵や、愛すべき像が多い馬頭観音など、その他興味深いものもある。それらに対応した作品もまだあるが、また機会を見て紹介したいと思う。 (記:2020.10.4)
今回は「へんな男」というテーマ(?)。いや、テーマではない。テーマにもなっていない。何となくとらえどころのない、そのくせ何か引っかかる感じのものを選び出して並べてみたら、この言葉が浮かび上がってきたのである。したがって、解説のしようもない。
小ペン画を描きだしてから、人物をモチーフとする割合が多くなった。男とも女ともつかない中性的なものもあるが、女性の割合が圧倒的に多い。それは、女性のフォルムというか姿かたちが、いや正直に言えば、私にとっては、女性という存在そのもの(の不思議さ)が、おのずと何かしらのイメージを紡ぎ出すというか、あるイメージに結びつきやすいからであるように思われる。
それに対して、男性をモチーフとしたものは、どこか具体的なイメージを紡ぎそこねる感じがする。
あらかじめ用意した、結果としての思想やメッセージといったものとは異なった次元で湧き出てきた、そういうイメージというか、妙な気分というか、心境というか。だが案外そんな状態の時に、普段は気づかない何か神秘めいたものを感知することもある。
ああ、やはりうまく言えない。
小ペン画は「小さな世界」なのだ。思想やメッセージ未満の、かたちと彩でとらえた短い詩なのだろう。
無理にカテゴライズすれば、もっと出せるのだが、今回はここまでとしよう。
91 「うつせみ」
2019.10.21 11.7×8㎝ ファブリアーノクラシコ?に膠引き ペン・インク・顔彩・色鉛筆
うつせみとは「蝉の抜け殻」、「この世に現に生きている人。転じて、この世。現世。うつしみ。」というのが一般的な定義だが、私は「魂が抜け去ったさま。気ぬけ。虚脱状態。」という少数派の定義の方を、より重く信じていた。枕詞としては「蝉の抜け殻」からきたと思われる「うつせみ-の」で、「はかないこの世の意の〈よ(世・代)〉にかかるようになった。」とあるから、それはそれで必ずしも間違いではないだろうが。
虚ろな実存の身体を綾なすもの。
183 「窓辺の画家」
2020.1.14 15.3×9.1㎝ インド紙にペン・インク・色鉛筆
画家の像ではあるが、自画像ではない。
あまり私らしくはないが、少し好きな作品。
198 「想い」
2020.1.27-29 10.9×8.9㎝ 和紙にペン・インク・水彩・グアッシュ
「想い」ではあるが、その内実はわからない。私にも、誰にも。
231 「呆然と天をあおぐ」
2020.3.13-14 12.5×9㎝ 洋紙に和紙貼り・ドーサ・裏面ジェッソにペン・インク・セピア
呆然とする、ということは、そう悪いことでもないと思う。
256 「ほほえむ修行僧」
2020.4.10 13.1×8.9㎝ 古雑紙(御朱印帖)にドーサ、ペン・インク・水彩
僧というのはどのような宗教であれ、不可思議な存在で、気にかかる。
この絵に描かれているのは、しいて言えばモンゴル仏教の密教系の禅僧であるように見える。むろん教義的にはそんなものは存在しないのだが。
背景の花などがある薄暗がりが、彼の帰属する宗教の世界か。
269 「君歩めかし 弱ければ」
2020.4.28-5.4 14.8×10㎝ 雑紙(エンボス入り)にペン・インク
弱い者は幸いである。弱いがゆえに、日々誠実に歩み続けなければならない。
最後まで色をつけるかどうか迷った。色をつけた時の在りようはほぼ正確にイメージできるが、今でも迷っていると言えば、迷っている。
(記:2020.9.13)
古アルバム、古写真の整理は遅々としてはかどらない。先日FBに「暑気払い―古い山の写真」として冬山の写真をアップしたが、案外評判が良かった(?)。だが、やはり当初の目論見であった「暑気払い―古い沢登りの写真」を紹介したいという思いは、何となく強くある。
沢登りは山登りの一分野であるが、アルパインクライミングや、(自然の中での)ボルダリング、アイスクライミングなどと同様に、必ずしもその実相は世間一般(例えば私のFBお友達)には理解されていないだろう。登山と言えば百名山とか富士山とか、いきなり飛んでエベレストなどとイメージされることが多いように思う。まあ、絵も似たように「どんな絵を描いているのですか?風景画ですか?人物画ですか?抽象画ですか?」と無邪気に質問されると、返答に窮してしまうというのと、ちょっと似ている。まあ理解されなくても特に困りはしないが。
真冬はさすがにあまり行かなかったけど(全く行かなかったわけではないが)、それ以外はほぼ沢登りが中心だった。奥多摩・奥秩父から関東・東北、たまに信州までわりと幅広く行ったが、特に新潟・福島(と書くよりもやはり越後・会津と言った方がピンとくる)が活動の中心だった。有名なところに行かなかったわけではないが、なるべく人に知られていない、記録の無い沢を探して登っていた。未知への憧憬である。
沢を登りつめても登山道があるとは限らない。別の沢を下降するか、ヤブ漕ぎで尾根を下るか。
30年前の写真を見ていて、もうそのように登ることはとてもできないし、したいとも思わないが、よくやってるなぁ~!!という感はある。ちなみに、当時はもう結婚していて子供もいて、アルバイト生活は苦しく、そのくせ制作・発表とガンガンやっていたのだから、まったく若いというのは素晴らしいものである。
というわけで、沢登り、それも「かつて私がやっていた沢登り」の写真をいくつか紹介する。ちょっと「普通の沢登り」とは違うかもしれないが、多少の暑気払いにはなるだろう。
1.巻機山・米子沢(~上ゴトウジ沢下降~ブサノ裏沢) 1992.7.4~5
こんな感じが標準の遡行スタイル。上半身は当時出始めの新素材ウェア。下半身は作業ズボンとフェルト沢用スパッツ、フェルト足袋。ヘルメット着用。ハーネスは普通はウェストベルトのみ。ジャラ(ハーケンとかハンマーとかカラビナとか)少々。山中泊なので、背には中身完全(?)防水の大型ザック。
米子沢は有名で人気のある沢だが、よくまとまったきれいな沢。源頭の湿原も良い。その後継続した上ゴトウジ沢とブサノ裏沢は雪が多く、ほぼ雪渓歩きに終始した。
2.下田・光来出川・白根沢右俣(~左俣下降) 1988.9.3~4
登っているのはSさん。だいぶ厳しそうだが、この滝は登れたのか、あるいは難しくて結局高巻したのか、覚えていない。ザイルはつけていないようだ。われわれはあまりザイルを使わなかった。でも後続は上からザイルを投げてもらったりする。それをお助け紐と言う。
3.下田・砥沢川(砥沢川本流~中ノ又沢左俣~中ノ又山1070m~吉原沢左俣下降~吉原沢右俣~五兵衛小屋~日本平) 1990.7.28~31
砥沢川本流の下流部のジッピを泳いで突破するAさん。ジッピとはこの地方の方言で、ゴルジュのこと。ゴルジュとはフランス語で喉(のど)のことで、沢の両岸が極端に狭まったところを言う。
トップは空身でザイルを引いて必死で泳ぎ、後続はザックを浮袋代わりに引っ張ってもらいつつ少し泳ぐ。楽ちんである。本流以外はいずれの沢も記録を見なかった沢である。
4.下田・川内 (室谷川本流右俣~金蔵沢下降~神楽沢~中ノ又沢右俣下降~)砥沢川本流下降
同じくゴルジュ、トゾー(砥沢)のジッピの最狭部。3と同じ砥沢川本流だが、これは別の年に下降した時のもの。写っているのはやはりAさん。私ではとても足が届きません。
5.下田・白根沢左俣 1988.9.3~4
写真2の右俣を登って左俣を下降した時のもの。同じゴルジュでも、規模は小さいが、有機的な局面が連続する素晴らしい渓相で、美しい沢、楽しい山行だった。
6.奥利根本流~越後沢中間尾根下降 1991.8.14~16
沢登りの対象としては大関クラスの有名渓谷。中ほどのシッケイガマワシあたりだったか、越後沢出合あたりだったか。雪渓が連続し始める。雪渓から流れ出る水はものすごく冷たい。その中を腰まで、胸まで漬かりながら、時には泳いで遡る。写真は同行のYさん。
7.川内・下田 早出川・今早出沢本流~大川東又沢下降 1991.9.21~23
早出川の今早出沢本流を魚返の大滝を登攀してから詰め上げ、尾根を越えて、大川東又沢を下降した時のもの。鷲ヶ沢出合付近の急流をザックの浮力を頼りに突破する。(良い子のみなさんはまねしてはいけません)
8.下田・光来出川本流 1988.8.18
時にはこんなお遊びも。夏合宿最終日の下山時、白根丸渕でドボンしつつ、泳ぎつつ下る。ドボンしているのが私。右に写っている、背負ったザックにに体重を乗せて浮かび泳ぐのが、「ラッコ泳ぎ」。
(記:2020.8.17)