艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

小ペン画ギャラリー-24 「世界・社会・歴史関連」

 ウクライナミャンマー、シリア、イエメン、等々の現在進行形の事態。

 物心ついたときにはベトナム戦争。以後、カンボジアパレスチナ中南米ソ連のアフガン侵攻、ユーゴスラヴィア内戦、湾岸戦争…。戦争、紛争、内戦の火の途絶えた年はなかった。時代のせいか、多くは対岸の火事としてしか捉えられなかったにせよ。

 国内、自然界においては、阪神淡路大震災や3.11、そしてコロナ禍。それらに芸術家はどう向き合うか、などといった言説が飛びかった。

 現在進行形の世界・社会の事象に、芸術家はどう向き合うか。

 私は、それらを直接描こうとは思わない。「紅旗征戎吾がことに非ず」ということではない。大きすぎて描けないのである。だから、そうした事象をも作品化したブリューゲルボッシュゴヤなどには、驚嘆し、畏敬の念を抱く。

 第二次世界大戦時のドイツのオットー・ディックスやゲオルグ・グロッス等についても、ほぼ同様。

 私は、芸術を「夏炉冬扇・無用の用」とする思想を否定しない。それでいながら、事象の深部に潜む本質に迫る大きな仕事を、時間をかけてやりたいとも、ぼんやりと夢想する。

 

 それとは別に、小ペン画というごく小さな場では、日々の暮らしの背景としての、そうした今現在、あるいは過去の世界・社会の事象が、ある程度率直に影を落とすことがあることを知っている。割合としては多くないが、今回紹介するのは、そうした作品の一部。

 「描きとどめておくこと」は大切だ。「私の世界」は「私の外の世界」と無縁ではない。「私=世界」「現在=過去」という鳥瞰的視座(=世界観)は、芸術家にとって絶対に必要なものだ。現れたものが理解されにくいものであっても、かまわない。世界・社会の事象自体がわかりにくいのだから。文脈によって絵が描かれるのではなく、描かれることによって意味が発現する。

 

 

 ↓ 60「嵐」

 2019.9.30-10.19  15.2×12.6㎝ 和紙に膠引き、ペン・インク

 

 欧米タイプ(?)の原発の図。スリーマイル島の事故はいつのことだったか。チェルノブイリの二日後に私の息子は生まれた。

 原発放射能汚染のリスクと、化石燃料使用による温暖化のリスクを考えると、どうあるべきかがわからない。太陽光発電里山のあちこちに乱立し、耐用年限後の発電パネルの無毒化さえできず廃棄され埋め立てられている現状を知ると、信頼できない。あれやこれやと、悩ましい限りである。 

 

 

 ↓ 140「抗議する花の子(グレタ)」

 2019.12.5  8.8×8.3㎝ 和紙・膠引き、ペン・インク・色鉛筆

 

 気候変動等に異議申し立てをしたグレタさんを、初めてテレビのニュースで初めて見、その理念を聞いた時、驚愕した。その3秒ぐらいの印象で描いたもの。似せようという気もない。

 彼女、そして影響を受けた若者たちが、SDGsの観点から、確実に世界を変えようとしている。偉そうなたしなめ顔から、あきらめ顔に変わる大人たち。問われる「無責任の罪」。 

 

 

 ↓ 408「黒蘭」

 2020.11.29-12.10  14.8×10.4㎝ 水彩紙にペン・インク・ガンボージ・水彩

 

 関東軍主導で樹立した満州国(1932-1945年)。国際連盟は承認せず、日本の傀儡国家というのが世界の定説である。隣接する蒙疆と言われた地域を旅したことがある。

 現在でもトルコしか承認していない北キプロスアルメニアがらみのナゴルノ・カラバフ共和国のほか、今回のウクライナ侵攻で派生的に注目を浴びている沿ドニエストルや、ジョージアとの国境のアブハジア南オセチアといったロシアがらみの国(地域)を傀儡国家とは言わないのか?よくわからない。ともあれ、「五族共和・王道楽土」と同様の口当たりの良いスローガンは、何度も繰り返されるということだけは確かなようだ。

 芥川龍之介の江南・上海旅行を扱ったテレビ番組でチラッと見た場面がきっかけだったように思うが、よく覚えてはいない。画中背景には満州の国旗、左胸の蘭は満州国の国章。

 昔の植民地-コロニアル趣味には、たしかにある種のエキゾチシズムを感ずるのだが、その美しさは危ないということを、自覚しなければならない。

 

 

 ↓ 487 「辺境の村の少女への危険な誘い」

 2021.7.23-30  16.8×12.4㎝ 木炭紙に水彩・ペン・インク

 

 「あいトリ/表現の不自由展」以前の中学高校生時代から、植民地朝鮮支配時の強制連行等については、間接的ながらも見聞きし、読んでいた(私が朝鮮半島に近い山口県出身だということもあったのだろう)。出稼ぎや、経済的困窮からの自由意思による渡航もあっただろう。だが並行して、戦時下の従軍慰安婦問題が存在したことは事実だ。

 描くには重いテーマだが、イメージが降りてきたからには、描かないわけにはいかない。何の図像資料を見たわけでもないから、チマチョゴリに見えなくても構わない。

 

 

 ↓ 498「 隘勇線にはばまれて」

 2021.8.3-8  21×15㎝ 和紙(?)に油彩転写・水彩・ペン・インク

 

 日本がかつて植民地としていた頃の台湾。生蕃(後に高砂族と呼称)と呼んでいたアミ族等の先住民対策に手を焼き、総延長470㎞の柵と砦を構築し、それを次第に狭め、順次高地山岳に追い上げ、餓死に追いやるという施策。それを「隘勇線」と言う。

 トランプのメキシコ国境の壁、パレスチナガザ地区エルサレムユダヤ人入植地の壁、遡ればユダヤ人自身が追い込まれていたゲットーと同根のもの。ほとんどの日本人はこうした過去を知らない。台湾にも私の教え子がいる。 

 日本の台湾植民地経営のことについて淡い興味はあったものの、「隘勇線」の言葉は最近まで知らなかった。何かの拍子にそれについて少しばかり調べたことが、この作品を生み出した。画面やタイトルを見ても、その意味内容はわからないだろう。だが、とりあえず、描きとどめておくこと。

 

 

 ↓  480 「出口」

 2021.7.17-27  21.7×16.5㎝ 和紙にドーサ、油彩転写・水彩・ペン・インク

 

 「アラブの春」の最悪の結果(現在進行中)、シリア。対ISだか、アサド政権対反政府勢力だか、わからないが、人々が人間の盾として行き場のない情況を、報道番組で見る。「出口なし」という普遍性。 

 

 

 ↓ 450「三指の旗を掲げて歩く人」

 2021.4.21-29  16.×12.4㎝ 木炭紙にペン・インク・水彩・ガンボージ

 

 縁あって訪れたミャンマー。その1年後に起きたクーデター。

 現地の大学でレクチャーをしたことでFB友達になった若い学生たちから、リアルな投稿が続々と届いた。彼らの非暴力・不服従を旨とした、SNSを駆使した世界への発信は、地政学的な情況からか、残念ながら世界からは注目されること少なく、今日まで膠着状態(-貧しい戦争)が続いている。

 ささやかな寄付をすること以外に有効な支援の方法を見出せず、不服従のシンボル「三本の指」を入れてこの絵も描いてはみたものの、現実の事象から描くことの難しさを痛感しただけであった。

 

 

 ↓ 566「主張する男」

 2022.3.2-4  15.7×12.2㎝ 手漉き洋紙に膠、水彩・ペン・インク

 

 ロシアのウクライナ侵攻こそは驚愕だった。理性的、合理的にはありえない話。

 ごく初期の報道番組で演説するプーチンを見ながら、覚えず手が動いていた。手元など見はしない。その間、数秒。見ればプーチンにわずかに似ていた。

決して「プーチンという人物」を描こうとしたのではない。「事実」と「真実」のせめぎ合い。描きたかったのは、冷徹な男が冷徹に「真実」を主張し、実行する、その普遍性なのだと思い至る。

 しばらくたって、次のクレーの作品と、少しばかり重なるところを見出した。

 

 

 ↓ クレー 「プロパガンダの寓話」1939年 詳細不明

 

 

 ひと頃クレーの作品画像を集めていた。膨大な数の同じ画像が出てくる中で、この画像だけはただ一度出てきただけ。初めて見た作品。

 「退廃芸術家」と規定され、危機のうちに生まれ故郷のスイスに亡命するも、容易には市民権を獲得できず、病気に苦しみ亡くなる前年の作品。

 ヒトラーを描いたものであることは間違いないが、タイトルも「プロパガンダの寓話」とあるだけで、多くは語っていないように見える。

 現実そのままに描くことはなかったクレーだが、当然ながら世界や社会の事象は時空を越えて、彼の作品世界に独特の影を落としている。

 

(記・FB投稿:2022.4.9)

石仏探訪-37 「石仏の顔(地蔵篇)」  

(記・FB投稿:2022.4.7)

 石仏(石造物)との接し方には、大きく分けて三種類の観点・態度がある。

 一つは、学術的というか、歴史的な観点からの接し方であり、民俗学や宗教史の観点も含む、いわば知的態度。

 二番目には、美術として見る、味わう接し方。つまり感性的態度。

 三番目は宗教的な接し方、つまり信仰対象として接する態度である。自身の抱えているあれこれとの直接的感応こそが本義であり、したがって、その像の本来の趣旨や歴史的由来等はさほど重要視しない。時には馬頭観音大日如来をお地蔵様と言っても、あまり差し支えはない。信仰的(≒精神的)態度。

 

 三つの見方、態度は、実際にはいくらかの部分を共有することが多い。そうした中で、像の刻まれたものに対しては、文字だけの塔よりも、視覚的要素のゆえに、特に二番目の美術的な観点が強まることは当然であろう。私にとっても、それが最大の要因である。表情、風情、味わい、美しさ…。そうした要素から鑑賞という美術的過程をへて、個人との対応が発生する。

 その当否を問うても、あまり意味はないだろう。石仏を仏教美術という領域概念でくくることに、私は反対ではない。その上で私が気になるのは、実際にその像を作った作者である石工の作家性や表現性といったものである。

 もとより彼らの多くは無名の職人であり、普段は石臼、石段などといった生活に関わるものを作ることも多かったのではないか。おのずからにじみ出る手癖、個人性は別にして、果たして現代にも通ずる造形性といった意識はあったのか。言葉はともかく、皆無ではなかったと思う。

 大学時代以来学んで(?)きた美術・芸術としての仏像の、費用的・経済的序列からしても、金銅仏―乾漆仏―木彫仏といったヒエラルキーの末端に位置する石仏であるからこそ、庶民の日常で、見られ、手を合わされ、花を手向けられ、佇ち続けてきたそれら。

 少なくとも、他の要素を抜きにして、その表情が集約される顔だけに意識を向けてみるということは、必ずしも無意味なことではないように思う。半眼の沈黙のかすかな微笑。美術という意識なくして美術たりうるもの。

 とりあえず石仏の中でも最も多い地蔵菩薩から選んでみた。選択に特に基準はない。むろんその表情に心惹かれたものではあるが、ほぼ順不同。

 

 

 ↓ あきる野市乙津上軍道の光明山への登山道の脇にあった。地蔵だと思うが、資料には無記載で詳細不明。

 小さな石仏で、生真面目な合掌形が、どうしても童子のそれに見えてしまう。

 

 

 ↓ 八王子市上川町 長福寺の無縁仏群の中の一つ。墓標仏だが、詳細不明。

 特にどうということのない、つまり仏の尊顔というよりも、ごく普通の人の、ごく普通の表情のように思われる。「あの人」。それもまた墓標に地蔵を刻むことの意味かもしれない。

 

 

 

 ↓ 東村山市諏訪町徳蔵寺の六地蔵のうちの一つ。

 お寺の入り口や、墓地の入り口に置かれることの多い六地蔵。元文元年/1736年。「奉納大乗妙典」とあり、経典供養塔を兼ねている。

 六地蔵ではあるが、顔がそのまま残っているのはこれと次の2体だけで、他は破壊されたり、他のもの(?)で代用されて原型をとどめておらず、ある種の痛ましさがあった。

 地蔵にはこのように帽子や前垂れが被せられ、全容が見えないことが多いが、この場合はかえってそれが顔に意識を集中させることになった。鼻先は少し欠けているが、浅いが心地よい緊張感のある彫りで、半眼と言うよりもほとんど閉じた目で、愛らしくも厳しい瞑想ぶり。

 

 

 ↓ 同じく徳蔵寺の六地蔵の一つ。同じく元文元年/1736年。三界万霊塔を兼ねている。

 同じ石工の手になるものだろうが、ふっくらとやさしい別の表情も見せているようだ。

 

 

 ↓ あきる野市星竹光寺の六地蔵。慶応元年/1865年。

 顔面には地衣類なのか黴なのか、斑状に白くなっているが、それがかえって独特の表情をかもし出している。もっさりと鈍重で大型だが、頼りがいがありそう。これは六道のうち、どこに赴かれる地蔵だろう。



 ↓ 瑞穂町箱根ヶ崎円福寺六地蔵

 データを確認してあらためて驚いたのだが、平成3/1991年と新しいもの。屋外に置かれ、苔もつき、もう少し古いものかと思っていた。全体として見た時にはそれほど良いものとは思わなかったが、顔だけ取り上げてみると堂々としたものである。信用(?)できそう。



 ↓ 八王子市上川町正福寺の墓地入口の六地蔵

 比較的小ぶりの舟形浮彫の六地蔵の一つ。江戸後期のもの。六地蔵は一つ一つ持ち物が違うが、これは香炉だろうか。風化、剥落、さらには蘚苔類におかされつつも、なにか楽観的というか、明るい表情。これも石仏の表情の一つの在り様なのだろう。

 

 

 ↓ あきる野市雨間のM家の墓地の地蔵。

 広いM家の墓地には立派な丸彫りの墓標仏が数多くあるが、資料には未記載で詳細は不明。これも立派な宝珠錫杖姿の半跏像。首がコンクリートで継いである。年記は確認できなかったが、他との関係から延享から宝暦年間(1716~1762年)のものと推定される。

 他の像の造作も共通性があり、同一あるいは同系の石工によるものと思われ、石材の質が良い。注文主からの依頼があったのだろうか、石仏墓標仏にしては稀なほどに表情が豊かで、近代的な造形性を感じさせる。

 

 

 ↓ 八王子市加住町の寶印寺にある地蔵。

 昭和5/1930年と、古いものではない。仏像という超越性のアイコンであるにもかかわらず、これまで見てきた中でも、最も人間臭い表情のもの。N氏という個人による造立で、何となくそれなりのストーリーがあるようにも思われるが、詳細は不明。

 仏像は古代インド人の姿形だから、耳たぶには大きな耳飾りをしていたせいで、大きく長いものだが、それにしても大きい。何となく幸薄そうと言いたいような表情の、肖像彫刻っぽいお地蔵様だが、ついほだされて(?)しまいそうだ。

 

 

 ↓ 八王子市川口町長福寺近くの路傍石仏群の一つ。

 路傍に古い地蔵丸彫立像が整理されず8体置かれていた。これは他の六地蔵の中の中尊だったのではないかと思うが、詳細は不明。これ以外のものは頭部が丸石だったり、下半が欠損したりしていてあまり顧みられていないようだ。これも首が一度は折れたようだが、本来の頭部のままではないかと思う。そうした変遷を経ているためか、ある種の無常観というか、諦観という言葉を思い浮かべる表情。

 

 

 ↓ 檜原村小沢宝蔵寺の墓地の一画にまとめられているものの一つ。

 宝珠を持った地蔵だろうと思うが、それにしても小さく愛らしい。三等身足らずだから、子供というよりも赤子の体形で、もはや顔をクローズアップする必要もない。墓標仏だかどうだか不明だが、これを造立した親(?)の心情が思いやられる。もはや無縁仏となり、蘚苔類によって荘厳されるままだが、表情はいよいよ愛くるしい。


(記・FB投稿:2022.4.7)

「山本作兵衛展」と石仏探訪-36「旦木御嶽神社の焼け仏」

(記・FB投稿:20223.14)

 会期終了間際に知って、3月11日、何とか東京富士美術館に「山本作兵衛展(ユネスコ「世界の記憶」登録10周年記念)」を見に行った(13日で終了)。

 閑散としているだろうと予想していたが、やけにお年寄りの客が多い。メイン展示は「上村松園・松篁・敦之 三代展」だった。なるほど。

 

 

 ↓  「上村松園・松篁・敦之 三代展」チラシ

 京都四条派、美人画という系譜も、松園という画家も、私にはほとんど縁はないが、「上手さ」という無視できない魅力もまた感じる。

松園は京都府画学校時代以来の師、鈴木松年との間に松篁を生む。不倫であり、今だったら大セクハラということになるのであろうが、多くを語っていない。その松篁の二本の椿を描いた「春園鳥語」が実に良かった。

 

 

 山本作兵衛は30年ほど前に読んだ、上野英信の『追われゆく坑夫たち』(岩波新書)など、一連の社会派の読書体験を通じて知った。『筑豊炭鉱絵巻(上 ヤマの仕事・下 ヤマの暮らし)』(1977年 ぱぴるす書房)、『画文集 炭鉱に生きる 地の底の人生記録』(1967年 講談社文庫)などに掲載されていたその絵が、高校時代に手にしたもののすぐに挫折したマルクスの『資本論』中の19世紀イギリスの炭鉱における児童労働の記述と重なるものがあったことが、妙に印象深かった。関連して、菊畑茂久馬や桜井孝実ら「九州派」の画家たちや、中村宏の「ルポタージュ絵画」に対する関心なども、ほぼ同じ経緯から発している。

 それにしても、「世界記憶遺産」に登録された時には驚いた。

 これまで絵の現物を見る機会はなかった。それがなぜ今この美術館で?という感はあるが、それはまあよい。見れる時に見るまでのこと。彼の作品は、しいて分類するならば、専門的教育を受けていない点で、大きくはアウトサイダーアートとして括ることもできようが、「記録」という明確な目的を持っていることなどからすると、据わりはあまりよくないが、ナイーブアート(素朴派)というあたりが妥当かと思う。

 作品の選択にもよるのだろうが、私が抱いていたある種のおどろおどろしさや、情念性といった色合いは今回の展示では薄かった。それはそれでやむをえない。

 

 

 ↓ 「山本作兵衛展」チラシ

 後述の「九州派」の桜井孝実はその後半生、パリに移住したが、日本に帰国時のアトリエとして、あきる野市盆堀にあるギャラリー・ネオエポックと深いかかわりを持った。私の女房はギャラリー・ネオエポックに作品を常陳しており、私も時々行く。つまりごくごく間接的ながら、淡い縁があるということ。

 

 

 ともあれ、目指す「山本作兵衛展」に辿り着くまでには、「西洋絵画 ルネサンスから20世紀まで」の展示室を通過しなければならない。あればつい見てしまう。山本作兵衛を見た後も、せっかくだからと、上村松園もついつい見てしまう。見れば、良いものもある。

 

 ↓ ブーシェの「田舎の気晴らし」1743年。

 山本作兵衛に辿り着くまでの最初の常設コーナーでは、ジョバンニ・ベリーニからピーター・ブリューゲル(子)、ルーベンスフラゴナールルノアール、等々、泰西名画の主に二級品が80点ほどのてんこ盛り。二級品ではあるが、クリーニング・修復の状態は一級で、下手に現地の美術館で状態の悪いものを見るよりもはるかにきれいで見やすく、勉強になる。しかし食い合わせという点では...。

 

 

 中華料理を食べに行ったのに、フランス料理の前菜を出され、シメが懐石料理だったというような、妙な食い合わせの満腹感というか複雑な飽食感をいだいて美術館を後にした。

 

 

 ↓ せっかくだから(?)もう少し。エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ(1755-1842)の「マリーアントワネットの肖像」。

 「ルブランの作品による」ということは、模写ということか?全く未知の女性画家だが、ヨーロッパ絵画のスタンダードがわかる。



 

 ↓ ピーター・ブリューゲル(子)「雪中の狩人」

 ブリューゲル一族というのは、たしか150年ぐらいに渡って、何十人もの画家がいる。フランドルの狩野派みたいなもので、同様に粉本、縮図の類を活用して、注文に応じて同じ構図の作品を何点も制作した。これもその一点で、ウィーンの美術史美術館にある大作とは似ても似つかぬ小品だが、同構図。これはこれで。

 海外の大美術館に行き、膨大なコレクションの中のほんの一握りの有名な傑作を見るのも結構だが、こうした大事にされている二級品コレクションを、じっくり自分の目で見る方が、あんがい得るものが多いのではないかとも思った次第である。

 

 

 ついでに、せっかくだからと、いつものおまけの石仏探訪。

 丹木御嶽神社金蔵寺、龍源寺など、6ヵ所を回る。石仏はそれほど面白いものはなかったが、御嶽神社(旧御嶽蔵王権現社)の倉庫?にある焼け仏(?)群は興味深かかった。

 

 

 ↓ 丹木町の御嶽神社

 集落の裏、小高い丘陵上にある。これは何鳥居というのだろうか?手前には安永3/1774年の寒念仏灯篭(?)が一対あった。

 御嶽神社は、元は近くの滝山城跡の山頂にあった蔵王堂が、滝山城築城の際に現地に移され、御嶽蔵王権現社として鎮守・村社になった。つまり、修験であり、後述の麓にある金蔵寺はその別当(神仏習時代に神社を管理するための寺)だった。興味深い経歴。

 

 ↓ 御嶽神社の内部。

 手前が何もない拝殿。奥にある古い社殿が本殿。

 

 ↓ 本殿の右奥にあった倉庫(?)をのぞいてみると、箒や雑多ながらくた類の奥に、焼け仏らしき木製の仏像が十数体見えた。格子戸から暗い中を覗き込んでも、肉眼ではほとんど見えない。スマホのカメラで写してみて、やっと確認できた。

 見ようにもよるが、これはこれで実に味わい深いもの。

 これらは、解説の石碑にあった「蔵王権現立像、十一面観音、菩薩形立像(藤原末期 昭和23年重要美術品認定)」なのだろうか。経緯はさておき、また歴史的、美術的観点からしても、もう少しちゃんとした保存が図られたいものである。

 

 

 ↓  金蔵寺全景。

 右に広い敷地が広がり、てっきり廃寺跡だと思った。近くにいた地元の方に聞いたら、無住で住職は他の寺と兼任だが、今でも寺はあると言われる。右奥のシャッターが下りた倉庫風の建物の軒下に、確かに「金蔵寺」の扁額がかかっていた。

 廃仏毀釈時の破壊から逃れるため、宝物は近くの御岳神社や仏閣に移転されたと伝えられ、また以前に火災に遭って焼け残った仏像類が御嶽神社にあるとも話されていた。また、いつごろか不明だが、大風害によって本堂が倒壊したが、御嶽神社別当寺だったために檀家を持たず(?)、以後、本堂再建に至ることなく今日に至っているようだ。

 いくつかの要素が混じり合っていて、正確なところはよくわからないが、御嶽神社の倉庫の焼け仏群は、本来この寺に由来するものではないかと思われる。

 

 ↓ 加住町の龍源寺にあった「滝山城攻防戦戦没及び受難者供養塔」。

 滝山城攻防戦とは、先に投稿した八王子城と同時期の、豊臣秀吉前田利家真田幸村らによる小田原征伐の一環の戦い。龍源寺との関係は知らないが、その時の戦死者供養塔が今はこの寺の墓地の一画にひっそりとまとめられている。五輪塔如意輪観音、地蔵、文字塔と30基ほどあるが、詳細は不明。

 

 

 適当なところで切り上げてバスで帰ろうとしたら、バス路線を読み間違えて、あるはずのバス停・バス便を見つけられず、結局2時間かけて秋川駅まで歩いた。おかげで、また股関節通の悲哀を味わうこととなった。完全にオーバーワークの一日。

 

(記・FB投稿:20223.14)

山歩記「緑に染まる樹林の山旅 雨呼山(あまよばりやま)」(2022.5.18)

 昨年10月に続いて山形への旅。旧友I宅滞在、美術談義、石仏探訪、etc。その一日、天童市の雨呼山905.5mに登った。

 

 天童駅から晶林寺までタクシー。晶林寺の石仏を少し見て、奈良沢不動尊へ。

 

 ↓ 奈良沢不動尊の拝殿(?)と、左が峰越の滝。

 

 

 奈良沢不動尊からは峰越の滝のそばを登り、三石コースに乗る。峰越の滝を流れ落ちる水流は、尾根の向こう側の沢から人工的な水路によって、尾根を乗越して奈良沢方面に引かれているようだ。何か、そういう歴史があるらしい。

 

 ↓ 三石コースは楢の木の樹林帯の尾根。

 

 

 三石コースは、ゆるやかで快適な登り。新緑というにはやや濃いが、全ルートを通して全身が緑に染まりそうな樹林帯。展望はほとんど効かない。変化には乏しいが、こうした味わいもたまには捨てがたい。

 

 ↓ 途中で見かけた「連理木」。隣り合った枝同士、あるいは隣り合った別種の木が風に揺られるなどして、癒着接合しこういう状態になったものを時々見ることがある。縁結び、夫婦和合の象徴として吉兆と見なされ、信仰の対象とされることもある。

 

 

 ↓ 振り返る見る残雪豊富な月山。9合目までは行ったことがあるが、頂上にはまだ立ったことがない。「雲の峰いくつ崩れて月の山」

 

 ↓ 頂上近くの林相。楢類に山毛欅が混じりはじめる。緑で心身が染まる。

 

 ↓ 頂上近くの龍神の池。単なる二三の窪地で、今回はほとんど水がなかった。左奥に水神か龍神の石祠があった。

 

 

 竜神の池を見て、左から尾根を合わせた少し先の広い台地状を過ぎた先が、雨呼山山頂。橅林の一画。単独行者が一人来て、珍しく山頂での記念写真を撮ってもらった。

 

 ↓ 雨呼山山頂905.5m。山毛欅林。展望ゼロ。静寂。

 

 ↓ 人っ子一人いない山頂だったが、単独行者がやってきて、写真をとってくれた。今回唯一の記念写真。そのお腹、もうちょい引っ込みませんか。

 

 

 少憩後、山頂近くにある謎の凹地「ジャガラモガラ」に下る。その上端を通過しただけで、全容を見たとは言えないが、麓の奈良沢「不動尊」、頂上近くの「龍神の池」、山名の「雨呼山」、「ジャガラモガラ」にある「村雲の池」と、要するにここはワンセットで雨乞いの山なのだ。丹沢の阿夫利山(大山)や各地にある雨乞山と同じ機能を担っていたのだ。「雨呼山(あまよばりやま)」という山名は素直だ。

 

 ↓ ジャガラモガラの上部。二輪草の群落。緑と光。

 

 ↓ ジャガラモガラの上部にある村雲の池。やはりほとんど水はない。傍らになにやらゆかしそうな石碑があった。解読はこれから。

 

 

 ジャガラモガラについては、20年以上前に新聞で知った。標高の高い所から冷気が入り込み、低地で吹き出すため、温度や植物の巣直分布が逆転する不思議な場所だとして知られていたという。その語源には諸説あるが、地元の龍神伝説のサンスクリット語の「シャガラ竜王」由来説とか、姥捨て伝説由来など、なかなか興味深い。

 

 藪っぽく、ルート不明瞭とされていた鵜沢山730.6m、三角山634mをへて若松観音へのルートに行くかどうかは、時間のこともあり少し迷ったが、未舗装の林道が現れたところで、右への道標のあるしっかりした路をみつけ、それを辿ることにした。特に問題はなかった。

 鵜沢山も三角山もさほど魅力あるものではなかったが、それはまあ、しかたがない。唯一度見えた分水嶺奥羽山脈の山々が魅力的だ。1か所、新しいものではないが、大きな熊の糞があった。

 

 ↓ 下山途中に珍しく展望のきくところがあった。奥羽山脈の黒伏山1226.8mと、東北を代表する岩壁であるその南壁。その左のピークは白森1263mと長谷山1127.1mか。

 

 

 辿り着いた若松観音堂をはじめ、その旧参道入口や、集落ごとに点在する石仏や小堂、寺社などに気を惹かれながらも、時間的余裕はなく、最後は急ぎ足で、なんとか数少ない電車に間に合った。

 

 

 ↓ 若松観音堂旧参道入口の近くの山神社。「山神社」碑の裏に「昭和二年十月敷地取得 發願主 氏家俊田 建設者 若松區民」とある。

 

 

 ↓ 山神社の御神体。朽ち果てかけつつある仏(あるいは神)像、あるいは単なる変わった形の木の瘤のようにも見えるが…。傍らの札には「明治二十五年 奉再建山神■~」とある。

 

 

 ↓ 山元 若松集落の「地蔵大菩薩」と記された小堂。手前には十八夜塔、正観音、出羽三山供養塔のいずれも自然石の文字塔がある。

 

 ↓ 地蔵堂にあった本尊の、朽ち果てつつある地蔵。

 頭部は失われているが、よく見れば宝珠錫杖姿の丸彫立像だったということが見てとれる。御堂そのものや、他の石仏なども置かれた現状を見ると、今なお人々の信仰対象として生きている様子が、ゆかしく想像された。

 

 

 雨呼山は山寺・立石寺からの修験の道だという。それはその先、どういうルートで、どこへ通じていたのか。気になるところだ。

 今回の標高差は855m。この程度の山であれば、まだしばらくは登れそうだ。さて、次はどの山に登ろうか。

 

【コースタイム】晶林寺9:35~奈良沢不動尊~三石コース~展望コースとの分岐11:15~ジャガラモガラ分岐12:02~雨呼山山頂12:55/13:20~ジャガラモガラ~林道右の尾根への分岐14:20~鵜沢山15:03~三角山15:40~若松寺16:15/25~天童駅18:00

(記:2022.5.23 6.17)

もう一つの表現の不自由「アートビューイング西多摩2021」青梅市立美術館  (記・FB投稿:2022.1.3)

 正月早々、あまり愉快ならざる投稿。

 昨年11月20日からこの1月16日まで青梅市立美術館で開催中の「アートビューイング西多摩2021 開花するアート」展において、以下のような「もう一つの表現の不自由」な展示が発生し、進行し、解決(?)し、現存している。

 

 

 ↓ 「アートビューイング西多摩2021 開花するアート」展フライヤー 表面

 

 

 ↓ 西多摩の地域紙「西の風」。この問題を初めて取り上げたメディア。

 

 

 複数の作家の作品が展示公開され、ほどなくブルーシートをかけられて非公開、あるいは撤去や差し替えとなり、現在はようやく当初の展示のままの公開となったようだ。推移については、投稿した記事を見てもらうとして、要はその経緯の決定における責任や当事者性の不在・不透明性ということである。当事者である公立美術館=行政と、主体であるはずの実行委員会、参加を要請された作家自身、その三者の役割や責任性が構造化・共有されないまま推移するという、まさに現代日本の美術界の一端が露呈する事態となった。

 

 

 ↓ 展示開始後二三日して、鹿野裕介さんの作品はこのような形でブルーシートで覆い隠された。

 

 

 ↓ 同じく作家自身のFB画面を転載。

 

 

 この「アートビューイング西多摩~」には私も過去何回か参加させてもらって、おおよその空気は知っているつもりだ。今回の出品作の多くは現代美術であり、私自身のあまり好むところではなく、まだ見に行っていないが、それは個人的な話。

 ここで、「あいちトリエンナーレ」でも起きた、一見正論に聞こえる「作品の質」を問うといった言説は、的外れである以上に、問題の本質を見失わせ、結局、世間世俗多数派の同調圧力に芸術が屈することになるだけだ。

 

 ↓ 朝日新聞12月24日(以降?)の報道。

 

 

 

 話は変わる。縁あって、アーティゾン美術館の森村泰昌の「M式『海の幸』 ワタシガタリの神話」を見に行った。非常に良い展覧会だった。恥ずかしながら森村泰昌について、私は今日まで食わず嫌いで、不当に低く評価していたと認めざるをえない。

 

 ↓ 「M式『海の幸』 ワタシガタリの神話」フライヤー

 

 

 その展示は青木繁の「海の幸」を起点として、日本の近代―現代を批評的・批判的に通観するという、まさに「現代美術」の担うべき一つの役割を全うするものであった。

その「批評・批判」は鋭く、相当な毒を含んでいる。だが、その毒は巧妙な芸術的手わざによって、見える人にしか見えないように仕組まれており、凡庸な世間の人々は気づかぬまま「よくわからない」けど「おもしろかった」といった結論を持ち帰ることになる。

 

 

 ↓ 「M式『海の幸』 ワタシガタリの神話」フライヤー

 

 本当だったら「あいトリ」以上の物議をかもしてもおかしくない内容なのだが、それが展覧会そのもののクオリティ、すなわち作家自身の戦略、思考と作品そのものの質と、それらをふまえた美術館の理解・覚悟・支援の度合いの違いだと言えよう。朝日新聞2021年12月21日の「私の3点」で山下裕二が「現代作家、美術史家として真摯に青木繁に向かい合った周到なコラボ。」として選んだのも、当然とはいえ、慧眼である。

 

 表現者にとって「アートビューイング西多摩2021」展は、またしても重く、鬱陶しい話題であり、踏み絵である。投降するタイミングも難しく、ついスルーしたくなる。だが、そうすることは、私自身の思想信条に反する。何とか会期中に間に合うように、思いペンを持ち上げて投稿することにした。

 

 

 ↓ 「アートビューイング西多摩2021 開花するアート」展フライヤー 裏面

 

(記・FB投稿:2022.1.3)

小ペン画ギャラリー-23 「二人」(記・FB投稿:2022.3.3)

 

 (ロシアのウクライナ侵攻という事態のさなかに、こんな投稿をしてよいものかとも思う。だが、ミャンマー、シリア、アフガニスタンやイエメンと、常にどこかで紛争や戦争が常態なのがこの世界だ。

 「紅旗征戎吾が事に非ず」を、前後の文脈もわきまえず、芸術家の免罪符と錯覚していた馬鹿で若かった頃の私。今は違うと言いたいところだが、無力なのは同じ。やるべきことは、日々の制作と、社会・世界へ向けてささやかに開いた、例えば投稿と言う小さな窓を閉ざさないことだろう。)

 

 

  緊急追加-1 ウクライナの紙幣。

 こうしてみると、常に大国間で翻弄されたウクライナの歴史が透けて見える。

  左上段:1918年 p.6a(その国の紙幣の発行順を示す番号。以下同じ) 50K紙幣

 ロシア革命の影響を受けて、1922年にソ連に加盟するまでの激しい内戦時代=第一次独立時のもの。経緯は複雑すぎてよくわからない。

 右上段:1942年p.51 5K紙幣

 第二次世界大戦、ドイツ占領下のもの。これも詳しくは知らない。

 左中段:1990年 ソ連ウクライナ農場代用紙幣(クーポン?)

 ソ連崩壊が1991年12月25日だが、それ以前に各地の経済が不順になっていたことに対する臨時措置として一地域で使用されていたクーポン券。クーポン券だが、代用紙幣として扱われる場合もある。

 右中段:1991年 p.811K臨時紙幣(?)

 1991年のソ連崩壊=第二次独立時に最初に発行された少額紙幣。臨時紙幣(?)というのは、通貨であることを保証する財務大臣等の署名や通し番号などがなく、あくまで臨時措置としての発行だということ。

 下段:1992(1996)年 p.105c

 独立から少し落ち着いてから発行された、財務大臣等の署名や通し番号などが裏面に印刷された、最初の正式なシリーズ(だと思う)。1992年と印刷されているが、実際に使用されたのは1996年になってから。

 以上、かつてコレクションしていたものの一部だが、現在では海外紙幣に興味を失い、多くのことを忘れ、詳しいことはよくわからない。

 

 

 以下、本題。

 「二人」ということで括ってみた。

 「二人」には恋人、夫婦、友人、親子、兄弟姉妹、男女、老若、友好・敵対、等々、いくつかの組み合わせがある。「自分の中の他者」とか、「ドッペルゲンガー」や「二重人格」も二人か。「アバター」や「シャム双生児」もある。

 一人は「個」。三人は「社会」。では二人はというと、「関係」ということか。「愛」や、なにがしかの複合感情が、その関係の彩合いをなす。

 まあ、そうした考察は別としても、二人というのは造形的な面でも、シンプルだが、描いてみると案外面白いモチーフ、構成要素だ。などと考えていたわけでもないが、振り返れば、いつの間にかけっこう数多くの「二人」を描いている。

 そうした二十点ほどの中から、女房に7点ほど選んでもらった。単なる好みだそうだ。

 どれも、何かある思考や思想を表そうとしたというようなものではない。ほぼ全てイメージにのみ立脚しているので、解説やコメントのしようのないものばかりだが、仕方がない。制作順に並べてみた。

 以下、「小ペン画ギャラリー」

 

 

 ↓ 199. 「不自由」 

 2020.1.27-31 13.6×12㎝ 和紙に膠、ペン・インク・アクリル *発表済

 あいちトリエンナーレによってクローズアップされた「表現の不自由」に触発されたものではないと思うが、経緯は忘れた。おそらく、そのさらに基層にある、普遍的で人間的な関係性の「不自由」を描こうとしたもののように思う。

 

 

 ↓ 206. 「まるやかであろうとして」

 2020.2.4-9 11.7×8.8㎝ インド紙にペン・インク・水彩・色鉛筆 *発表済

 絵柄的には円形の中の二人の人物だから、双体道祖神からの影響もあったのかと思うが、似ても似つかぬものになっているし、意味としては全く無い。

 

 

 ↓ 246. 「ぬばたまの」

 2020.3.26-28 12.3×8.9㎝ 画仙紙にドーサ、ペン・インク・水彩

 「ぬばたま(射干玉)」とは「黒」、「夜」、「髪」、「月」、「夢」などにかかる枕詞。上方で横になって浮いている女性の長い髪から発想したタイトル。タイトルが後だから、作者の意図云々というよりも、見る人の受け取り方にゆだねられた画面世界(男女の関係性)である。

 

 

 ↓ 282. 「顕れた彼女」

 2020.5.15-17 8.5×5.8㎝ 雑紙にペン・インク・水彩

 マジカルな少女? 思春期の少女が持つ魔術性への戸惑い?

「驚き」ということを描こうとしたのかもしれないが、それ以上は私もわからない。

 

 

 ↓  337 「双身態」

 2020.8.19-22 14.9×9.7㎝ 杉皮紙にドーサ、ペン・インク・水彩

 この絵について、せいぜい言えるのは、心理的・寓意的な絵だということ。

 シャム双生児などの先天性の奇形を、その造形的な面白さなどといった文脈で、安易にモチーフとすべきではないと承知しているが、フォルムとしての魅力は確かにある。この絵はそれを意図したものではないが、結果として似た形になっているので、弁解じみるのを承知で、付記しておく。

 

 

 ↓  357 「汀の二人」

 2020.9.22-24 14.7×10㎝ 和紙風ハガキにドーサ、ペン・インク・水彩

 この場合の「汀(水際)」は冥界の泉のほとりかもしれないし、三途の川やアケローン川の岸辺かもしれない。奪衣婆と懸衣翁ではなく、しめやかに佇む二人の女性の正体を、私は知らない。

 

 

 ↓  512. 「水晶を食べる二人」

 2021.8.19-21 10.5×15㎝ 葉書にペン・インク・水彩

 関係性の不明な男女の晩餐。かたやナイフとフォークを持ち、一方は箸を持ち、盛られた大きな水晶を食べようとしている。夜が少し垂れ下がってきて、侵入し始めている。それ以上の解説は不能

 

 

 ↓ 緊急追加-2

 昨年今ごろにも雛祭りがらみで投稿したと思うが、旧ソ連時代の構成共和国ウクライナの民族衣装のお土産人形。丸木俊のアトリエにも同じものが飾ってあった。正面は色褪せているが、ピンクを基調とした魅力的なお姉さん。心なしか、眼差しが厳しい。

 

(記・FB投稿:2022.3.3)

 

「板垣豊山が『河村先生』の肖像画を描いた」

「板垣豊山が『河村先生の肖像』を描いた」

 

 畏友、板垣豊山が私の肖像画、『河村先生の肖像』を描いた。

 一年ぐらい前に、私を含めて「友人五人(A・S・K・F)の肖像画を今、描いてるんだよ。」と言われ、その後ほどなく最初に完成した私の肖像画の画像が送られてきた。

 それ以前から、彼の近年の仕事について、何か書こうと思っているのだが、書きあぐねること数年。そうこうしているうちに、最近、彼はその五人の肖像画を自分のFBに投稿した。遅ればせながら、この際、シェアさせてもらうことにした(実際には画面構成上、スクショと参考図版を合わせることにした)。

 

 

 ↓ 彼の投稿したFB画面

 『河村先生の肖像』(2021年 油絵 F10号)

 

 

 作品の評価、受け取り方といったものは、人それぞれでよいのだろうが、私自身の、彼のそれについてが、言葉になりにくいのである。この作品についてではない、彼の仕事全体についてである。ある種の(高い)評価はしているのだが、そのおさめるべき座標軸と、それにふさわしい言葉を見出せないのである。

 彼とは古い付き合いだ。年々歳々、そのアウトサイダー的要素を濃くしている。正確に言えば(基準にもよるが)、彼は純然たるアウトサイダーではない。そうでありながら、まぎれもない純正アウトサイダーアート的体質を持っている。表現者(≒芸術家)は多かれ少なかれアウトサイダー的要素を持っているものだが、作品においてそれが顕現するケースは、実際にはきわめて少ない。多くの場合は、作品を構成する表現性と表出性が、ほぼ一目でわかり、瞬時に分析できて、それでおおよそは終わりだ。

 

 彼の持つアウトサイダーアート的要素は、なまじの鑑賞や分析を拒絶する。

鑑賞(力)にもランクがある。初級レベルでの、好き・嫌いや、何が描かれているかとか、あるいは中級レベル(?)での色や形といった造形性を云々するあたりは見る人の自由だが、彼の作品にはそうした初級・中級レベルの鑑賞や批評を跳ね飛ばし、無視する強さというか、屈折力とでも言うべき深度がある。

 いまここで私の肖像画1点を取り上げて云々言っても、ほとんど意味がない。彼の本領は、彼自身が「美人画」と規定(?)した、一連の女性を描いた作品群にある。

 つい数年前までスマホすら持たなかった彼が、この一二年でFBやらTwitterやらインスタグラムにまで数多くの作品を公開しているのだから、興味のある方はそれらを見て自由に判断し、あるいは鑑賞や趣味の壁に突き当たればよい。「板垣豊山」で検索できる。

 繰返しになるが、今の時点で私は自分の直感以外に、彼の作品を評価する座標軸と評価観点の基準を未だに正確には見いだせていない。ただし、その直感の中には、彼の絵には「絵とは何か、絵を描くとはどういうことか」という根源的な問いと、それに由来するある種の「踏絵」的な毒があるということだけは確信している。批評・評価に際して、独自の座標軸を創り出さなければならないという事実がそれを証明している。

 

 

 ↓ 参考:「マスカット」 (2015年 油絵 F8号)

 これと次の1点は、二十年近い空白期間をへて数年前につき合いが復活した時に初めて見た、現在につながる作品群の一つ。

 当時の、ほぼ廃屋としか見えない彼の住居兼アトリエでそれらを見た時の衝撃は、今思い出しても、少し恐怖感をおぼえる。一言で言えば、理解できない作品をダイレクトに見た稀な体験だったからだ。その衝撃のゆえにこの2点を買った。

 本人が昨年の4月にFBにアップしている。



 

 ↓ 参考:「森の姫」 (2014年 F8号)

 同上。

 これも私が所蔵しているものだが、画像はだいぶ前にFBに投稿されたものから。あまり画質は良くない。ワトーやフラゴナールを参照した様子が見てとれる。



 

 ↓ 良く見たらFB画面のスクリーンショットでは絵の下の方が少し切れていることに気づいたので、全体画像を追加。

 

(記:2022.5.6)