艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

石仏探訪-46 「信州石仏探訪・その4 地味ながら侮れない塔たち」

 もうこうなったら、半分意地(?しかもまだあと二つある)。信州石仏探訪・その4。

 今回取り上げるのはすべて文字が刻まれただけの塔、文字塔である。地味である。パッと一目見てわかる像の美しさや、キャラクター的面白さ、彫刻美といったものはない。抽象、あるいは表現の極北としての、「モノ=それ自体」としての、自然石の形を味わうか。

 しかしそこには、文字=観念が刻み込まれている。刻まれた文字を読み、その意味を解し、刻過去に遡り、いにしえの人々の暮らしや信仰に思いをはせ、愛でるべき塔、つまりは玄人好み(?)の塔なのだ。

 仏教、神道民間信仰の基礎知識がある程度ないと、その意味を理解するには多少ハードルが高いかもしれない。

 なに、私だって最初はちっともわかりはしなかった。かまいはしない。

 なるべく簡単(?)なコメントを付すから、そういうものかと思っていただければ、それで良い。あるいは、それぞれの体験や、身体の奥に眠っているかもしれない、かすかな古層の記憶がよみがえるならば、そしてそれを通して父祖の、血脈の、歴史性といったものを感じ取っていただければ、それで良い。

 

 

1. 山岳塔/「富士山」 茅野市塚原 惣寺院

 私は(元)山男だから、山の名前が刻まれたいわゆる山岳塔と言われるものは、一通りは見てみたいのである。

 これは各地の山を信仰する山岳信仰の講(信仰集団)の一つ、富士講の塔。天文年間(1532-54)に長崎で始まり、享保期(1716-35)に江戸を中心とした庶民層に広まり、江戸八百八講と呼ばれるほど増えた。仏教・神道修験道に独自の思想を盛り込んだ。もちろんレクリエーション的要素もたっぷりと。

 それぞれの講のアピールや、登った回数をアピールするものが多いが、これはシンプルに「富士山」とだけあるのが潔い。全体の形も富士山形。造立年等、詳細不明。

 

 

2. 山岳塔/「妙義大権現」 茅野市塚原 惣寺院

 群馬県妙義山を祀ったもの。妙義山は全山火山性のごつごつした岩山の山群だが、表妙義の白雲山(相馬岳)・金洞山・金鶏山の三峰が信仰の中心となっている。金洞山が中峰で武尊権現が祀られ、白雲山には妙義大権現が祀られている。

 左右に刻字があるようにも思われるが、読めず。造立年等、詳細不明。

 

 

3. 山岳塔/「白雲山権現」 諏訪市岡村町 正願寺 嘉永3/1850年

 妙義山の塔はわりとよく見るが、「白雲山」とあるのは少ないようだ。初めて見た。

 白雲山の名は、現在では妙義山の中の相馬岳と天狗岳を総称した形で地形図には記されているが、もともと妙義山全体が白雲山と総称されていた。

 明徳5/1394年、花山院長親が、南朝の勢力が低下したことを嘆いて出家し、妙喜(妙魏)と称し当地に住んだことから妙義山というようになったという説もある。したがって「白雲山権現」と記されていても、「妙義大権現」と同じとして良いのではないかと思う。『日本石仏図典』等には「白雲山大権現」としては取り上げられていない。

 「嘉永三■午八月」とあり、干支が合わない?のが気になるが、読み違いか。

なお白雲山(相馬岳+天狗岳)その他には登ったことがあるが、他の二つは登っていない。いつか登りたい。

 

 

4. 諸神/霊神碑 宮田村 木曽駒ヶ岳乗越浄土 明治期

 「霊神」とは一般的な意味としては、「霊験あらたかな神。御利益の著しい神」ということだが、石仏・石造物の世界では大別して、①木曽御嶽講(後に御嶽協会)の講徒が死後の霊魂の安住の地を御嶽山中に求め建てた碑(≒墓碑)に記される○○霊神と、②一般の神道の信徒の墓碑に記されるものと、二種類ある。ほぼ仏教の戒名と同じものだが、②の場合は山岳講とは関係がない。

 ①の習俗は他の山、山岳講にも広まった。また、特に功績のあった行者・先達を霊神として祀る風習が出てきて、その風習も同様に他の山、山岳講に広まったようだ。

 写真の霊神碑は木曽駒ケ岳の乗越浄土にあったもの。判読しづらいが、裏面に「明治二?十 □~~彦平 ~~」、「當國伊奈郡宮田村 俗名 田中権三郎」、「~~明~~ ~~」とあり、明治のもの。

 この時は伊奈側のロープウェイで登ったので、ここ以外では見かけなかったが、昔の木曽側からの登山道(表参道)沿いには多くの霊神碑があるようだ。

 

 

5. 諸神/「天之御中主神」 宮田村 木曽駒ヶ岳山頂 木曽駒ヶ岳神社

 木曽駒ヶ岳山頂には、木曽駒ヶ岳神社奥宮と伊奈駒ケ岳神社奥宮の二つがある。前者の祭神は、かつては天照大御神、現在は宇賀御魂命。後者の祭神は八千矛神大国主命)・手間大神・倉稲魂神・月夜見命。神社が木曽側と伊奈側の二つあるのは、昔の水利権(?)の名残だとか。

 共通する祭神の宇賀御魂命(=倉稲魂神 ウカノミタマノミコト)が、ウカ/ウケ(穀物霊)→穀物神・保食神であり、その農業の源である水源に関わることから、今に至るも山を隔てた二つの地域の神社が併存しているということが、古い信仰のあり方をそのままとどめているわけで、おもしろい。

 写真の「天御中主神 高皇産霊神 神皇産霊神」は、上記の神名とは異なり、古事記に登場する天地開闢の際の造化三神。宇賀御魂命などの上位に位置する神々だが、上記の諸神を統括する神道教義上の配慮(?)によって建てられたものではないかと推測する。したがって、年記は確認できなかったが、幕末から明治以降のものではないかと思う。さて?

 なお、木曽駒ヶ岳信仰が、開山当初から木曽御嶽信仰の影響を受けていたのかどうかは未解明とのこと。また、木曽駒ヶ岳手前の中岳には(木曽)御嶽神社が祀られているとのことだが、気づかなかった。

 

 

6. 諸神/「大國主大神」/道標 諏訪市上諏訪 手長神社

 手長神社の拝殿の脇には多くの弊社、石仏があった。これもその一つ。

 大国主命は日本神話に登場する代表的な国津神天津神天孫神が降臨する以前から日本に土着していた先住神)。その国津神の主宰神であり、日本国を創った神とされる。「大己貴命(おおなむちのみこと)」、「大物主神(おおものぬしのみこと」、「大国魂神(おおくにたまのみこと)」、「三諸神(みもろのかみ)」、ほか、多くの別称がある。

 また大国主命は、ヒンドゥー教シヴァ神の化身であった戦闘神の摩訶迦羅(マハーカーラ)が仏教に取り入れられ、寺院の守護神、厨房の神と変わった大黒天と、音韻上の相似から習合した。日本固有の神・大国(主命)=ヒンドゥー教の戦闘神・大黒(天)と合体したのである。

 それはそれとして、この碑の面白いところは、左右に「當所ヨリ 出雲大社 百九十二里 金比羅山 百五十里 伊勢御神 百八十八里 西京(?) 八十四里」と記され、一種の道標となっていることである。一番遠い出雲大社まで754.56㎞だから実用的ではないが、「旅への誘い」にはなっている。こうした趣旨のものはときどきあるが、こんな広範囲のものは初めて見た。

 

 

7. 「ア・バ・ラ・カ・キャ(キャ・カ・ラ・バ・ア)塔」/五輪塔 上田市別所温泉 常楽寺参道

 古来インドには宇宙の成立元素を、火・水・地の三輪、地・水・火・風とする四輪とする思想があり、大乗仏教の般若思想によって空を加えて五輪とした。さらに密教では識を加え、六大となった(輪と大は同義)。ギリシャ哲学の四大も同根である。

 その思想を立体形象化した地・水・火・風・空の五輪塔は日本独自のもの。写真の塔はこの五大を梵字種子「(下から)ア・バ・ラ・カ・キャ」で表したもの(上から「キャ・カ・ラ・バ・ア」と読むこともあるが、この場合どちらが正しいのかわからない)。立方体や球体といった立体化はされていないが、文字による五輪塔だと言えよう。したがって、それは大日如来真言であり、すなわち大日如来そのものと考えられる。

 日本中に五輪塔は無数にあるが、このような梵字種子のみを一つの自然石に刻んだものは初めて見た。上部には円相が彫られている。他の刻字は見当たらず、詳細不明。また資料にも見当たらず、最初はこれが何なのか全くわからなかった。

 昼食の蕎麦屋に行く途中で見かけ、ずいぶん長く待たされた待ち時間に一人で見に行った。同行者は興味を示さず、寸暇を惜しんで見に行って本当に良かった。

 

 

8. 念仏塔/「四十八夜供養塔」 諏訪市岡村町 法光寺

 十三夜から二十九夜までのほとんどの各夜の月待塔があるが、「四十八夜供養塔」は、そうしたいわゆる月待塔ではない。念仏塔の一種である夜(行)念仏塔の一種である。山形の立石寺では現在も行者を中心に(寺は無関与で)夜念仏を行っているそうだ。

 月待講も念仏講その他も、念仏を唱えるという点では共通だが、四十八夜念仏の行事内容は詳しくはわからないそうだが、弥陀の四十八願に基づき、四十八夜連続で集まって念仏を唱えるという、やや特別な行を記念して建立したもののようだ。

 「夜念仏」塔には山形、岐阜、愛知の各県に集中しているが、「四十八夜」のそれは例が少ないようだ。比較的珍しいものである。初めて見た。

 宝暦4/1754年。梵字種子:キリーク/阿弥陀の下に「四十八夜供養塔 天下和順 日月清明」、左面に「願主 一蓮? 深蓮?社諦誉全海□ 老若男女四萬八千人」とある。48.000人というのはどういうことなのだろうか。

 

 

9. (参考)夜念仏供養塔 山形県天童市山元 若松観音旧参道入口

 「夜念仏」塔は山形でいくつか見たが、詳しいことはわからない。これは文化4/1807年のもの。

 若松観音には本堂近くまで道路が通じたので、他にも興味深い石仏群がある表参道は、今はほとんど歩かれていないようだ。

 

 

10. 馬頭観音群 茅野市米沢居平 瀬神社

 暑かったこともあり、何だか必死の姿。

 信州に限らず馬頭観音は全国どこに行ってもある。生活との関係や、教義の身近さ、造塔の容易さなどから、自ずと似たような造形になる。一つ一つ子細に見れば個性も立ち現れてくるだろうが、旅の途上、他の珍しい興味深いものが次々に出てくるので、なかなかゆっくりとは見ていられない。

 瀬神社の一画には、35基ほどの馬頭観音が集められていた。馬を飼う生活が遠ざかり、道が拡張改修されていく時代の変化の中で、本来はゆかりのある場所に置かれていたものが、各所からここに集められて来たのだ。それはそれで悪いことではないのだろう。

 全部を確認してはいないが、安永7/1778年から明治30/1897年のものがあった。

 

 

11. 馬頭観音 茅野市米沢居平 瀬神社

 その馬頭観音群の中で、気になったのがこの文字塔。

 基本的に像塔よりも文字塔の方が造るのが容易で、費用も安い。さらに一つの塔に二頭まとめて供養すれば、より安く上がる。「馬頭觀世音」の文字を二つ並べ、風化して読みにくいが「七月 四月」、「九□□ 辰蔵」と二人の名前がある。

 4月と7月に死んだ二頭の馬の供養のために、あまり裕福ではない、九□□と辰蔵の二人が共同で建てたものかと想像される。それはそれでいじらしいというか、けなげさを感じるというか。なんとなく、しみじみとした気持ちにさせられる。慶應(?)元/1865年。

 

 

12. 「富蔵山(とくらさん)」 茅野市米沢北大塩 

 大清水(湧水地)の手前にある石仏群にこの大きな文字塔があった。最初に見た時、「富」と「山」は読めたが、「蔵」が読めなかった。崩し文字としてはよく見る字なのだが、「富蔵山」では意味がわからなかったから。どうみても「富士山」ではない。

 しばらくたってから『続日本石仏図典』で、この塔を発見した。富蔵山は、長野県本条村西条の小仁熊ダムの西の、標高750mにある馬頭観音を祀った観音寺のこと(地図に卍記号あり。ハイキングに良さそうな里山)。そこに参って、笹の葉をいただき、馬に食べさせて健康を祈ったとのこと。つまり、馬の守護神だったのである。「富蔵山」≒馬頭観音

 近代中期には長野、群馬を中心に500以上の講があったという。ローカルな信仰である。謎が解けた。しかし「富蔵山」とだけ見ても、馬頭観音とほぼ同義の馬の守護神の(講の)塔とは、知らない人にはわからないだろう。

 基礎には「大門道 山道」とあるから、道標も兼ねていたようだ。

 

 

13. 諸神/「水神」 諏訪市岡村町 金山の清水

 岡村町の金山稲荷の近くにあり、「金山の清水」という名で地元の人には古くから親しまれていたそうだ。現在は井戸になって、上には蓋がしてあるから利用できないようだが、そのかたわらにこの文字塔があり、大切にされていたことがわかる。

 神道以前の、生活に密着した、こうした素朴な自然崇拝の形を見ると、やはりどこか静かな感動を覚え、良いものだなと思う。

(記・FB投稿:2022.10.12)

小ペン画ギャラリー-28 「2年前の9月」

 「小ペン画ギャラリー」の投稿は、二ヶ月以上空いた。

 先日の信州の石仏探訪の際の、8~900点ほどの写真の分類・整理がようやく終わった。投稿としては、そちらを早く出したいのだが、まだ原稿書き~分析・考察にまでは至っていない。

 それでなくても、ここのところ、旅系・石仏系の投稿が続いている。そろそろ作品・小ペン画や、美術系の投稿をしなければならない。

 

 とはいえ、ここのところ小ペン画制作は、ほぼお休み中。ということで(?)、ちょうど2年前の9月、小ペン画を制作し始めて3ヶ月ほどたって、本格化し始めた頃の作品を何点か。この頃はまだ小ペン画の制作を継続するつもりはなかったので、作品左下に通し番号は記していない。「こんなこと、いつまでやるんだろう」ぐらいに思っていた。

 その頃から2年しか経っていないのだが、作風や方法等、多少なりとも変わったように思う。ごく小さな紙の作品とはいえ、時には一日に3点も描いたりしていたのだから、あの頃はやはり何かに取り憑かれていたかのようだ。

 

 

35 結晶に聴く

 2019.9.19 13.5×8.9㎝ 和紙に膠、ペン・インク・色鉛筆 発表済

 う~ん。こんな感じ。コメントは無し。

 

 

37 まどろみ

 2019.9.19  13.3×8.8㎝ 和紙に膠、ペン・インク・鉛筆

 一日に2点も3点も描いた日もある。ペンの使い方に新しい要素が加わってきた、上手くなってきたなと思った。

 

 

38 「繭の中でまどろむ二人」

 2019.9.20  13.5×8.9㎝ 和紙に膠、ペン・インク・鉛筆 発表済

 卵形≒繭→内界、水晶柱→外界といった解釈は成り立つだろうか…?

 

 

45 「浮遊する舞踏(世界夫人)」

 2019.9.24  15×10.2㎝ 和紙にペン・インク・顔彩

 「世界夫人」とは日本のロックバンド頭脳警察が歌った「さようなら世界夫人よ」の元になった、ヘルマン・ヘッセの同名の詩に由来する。ヘッセのその詩はナチスドイツの時代に発表され、その難解さと解釈をめぐって後世のアーティストに影響を与えた。

絵柄とその詩のタイトルとは直接の関係はない、詩的結合。元になった画像は確か歴史的に有名なダンサーだったと思うが、その名前を思い出せない

 この作品を描いて、少し世界が拡張されたような気がした。それまでの小サイズのものより一回り大きい中サイズの一点目。以後、サイズは総じて大きくなっていく。同趣向のものを、もう2点描いた。

 

 

49  「迷宮の中での待機と休息」

 2019.9.25 10.9×8.9㎝ 雑紙にペン・インク

 これもまた一日に3点も描いた(描き出した)内の一つ。一日に3点も描くと、他のことはやれない。

 

 

51 「花・壺・おみな」

 2019.9.26-27 11.7×8㎝ ファブリアーノクラシコ?に膠、ペン・インク・鉛筆・コラージュ 発表済

 画面上部は自作の印刷物の一部をコラージュしたもの。

 瓶や壺や繭といったものに共通するイメージ。胎内回帰願望?壺中天?ホメオスタシス

 

 

53 「或る婦人」

 2019.9.28 12×10.6㎝ 雑紙にペン・インク・色鉛筆

 一瞬に訪れたイメージ。ネタも元もないが、エッシャーのある作品に共通するものもあるかと気づくが、それは結果論。サディズムやBDSMとも無関係。

(記・FB投稿:2022.9.27)

 

 

3 石仏探訪-45 「信州探訪その3 少し渋めの双体道祖神とその発生」

 信州の石仏と言えば、道祖神、中でも宮廷衣装や神官装束姿の男女の神像が仲睦まじく寄り添ったタイプの双体道祖神が有名だ。だが、有名なものは見たがらないという私の趣味(悪癖)もあり、今回まわった諏訪市茅野市ではほとんど見かけなかった。同行のCちゃんが配慮してくれたようだ。その結果、今回は渋いものが多い。学術的内容(?)は濃いが、一般受けはしなさそう。

 道祖神という古くからの、複雑な内容を含む石塔類の難しさについては、これまでも記してきた。だがある見方からすると、信州の双体道祖神は、多様な民間信仰とその現れとしての石仏類の中でも、ユニークな、独自の進化を遂げた形態だと言えるのではないかとも思う。

 今回見た道祖神の数はそう多くはない。有名なのは1点だけ(「接吻道祖神」)で、他はやや古い時代(?)の素朴な形態の、状態のあまり良くないものが多かった。

 状態が良くないというのは、全国的にみられる風習としての、塞ノ神祭・どんど焼きといった祭の際に、子どもたちによって縄をかけて部落中を引きずり回されたり、火中に投げ込まれたりして、欠けたり破損したりすることが多かったということが理由なのかもしれない。また、他の部落のものを盗んできたり、盗まれたりといった風習もあり、相当荒っぽく扱われるのが普通というか、そうした愛され方をしていたようである。

 そうした中で今回の収穫は、以前からの課題である、双体道祖神の発生における双体像の意味について2件ほどのヒントを得たことと、全く知らなかった2体の小型の双体像を見たことである。

 まあ、アマチュアの一好事家にすぎない私の直観と考察だから、たいして信用もできないが、そうしたことに思いを巡らすのは楽しい。

 

 

 ↓ 双体道祖神 茅野市米沢北大塩 接吻道祖神石仏群

 

 通称「接吻道祖神」と呼ばれるものはいくつかあるが、これもその一つ。他と比べて卑猥さという点ではまあセーフかもしれない。

ブランクーシの「接吻」を思わせなくもない素朴古拙な表現のように見えるが、男のむき出しになった脛や乱れた着物の裾を見ると、もう少し庶民的な卑猥さも見てとれる。言い換えれば性神信仰を内包しているということだ。

 なお、これを含めて以下に取り上げた道祖神は、すべて造立年等、詳細不明。

 

 

 ↓ 双体道祖神 茅野市 米沢北大塩 接吻道祖神石仏群

 

 接吻道祖神の右にあったもの。下部は一部埋没しており、風化剥落激しく、直立した(?)二体ということ以外、ほとんど像容がわからない。二つに折れており、相当手荒く扱われていたのだろうか。

 

 

 ↓ (参考)ネット上でひろった安曇野市穂高の彩色双体道祖神

 

 この左にやはり彩色された恵比須と大黒の像がある。右の年紀は安政(?)五年午年/1858年だから幕末のもの。当時から彩色されていたのだろうか。彩色されているということは今なお、「上手」部落(「村」)の信仰対象として生きているということだろう。

 私の趣味としては、こうしたタイプのものは、尊重はするが、あまり好まないので、結局見ずに済んだのは幸いだったかもしれない。むろん個人的な好みの問題である。

 

 

 ↓ 双体道祖神 茅野市豊平南大塩 心光寺

 

 だいぶ状態は悪いが、手前の二つは装束の雰囲気や手を取り合っている(?)らしい様子や、盃に酒を注ぐ様子(?)などが見て取れる。

 状態の悪さは前述の手荒い扱いによるものか、自然な風化剥落によるものかは不明。たぶん両方。基礎に「氏子中」とあるが、ある時期にこれら3体を一つの礎石にまとめたのだろうか。

 

 

 ↓ 双体道祖神 茅野市米沢北大 路傍石仏群

 

 路傍のいくつかの石仏類がまとめられた中にあった一つ。これも風化が激しいが、盃に酒を注いでいるポーズではないかと思われ、少しほほえましい。上部の窪みは、子供たちが叩いて遊んで窪ませた跡?

 

 

 ↓ 双体座像道祖神 諏訪市岡村町 阿夫利神社

 

 阿夫利神社の狭い境内には、大きな秋葉大権現庚申塔と共に、この双体道祖神があった。大岩を浅く小さく穿った中に、二体の座像(?)を掘り出している。座像の双体像は極めて少ないとのこと。

 周りの岩肌の状態からすると、座像の部分だけを削った(?)かのような、不自然な摩滅具合だ。廃仏毀釈時に破壊されたのか。これはこれで悪くはないにしても。

 

 

 ↓ 阿夫利神社の拝殿の内部

 

 相模の大山の阿夫利神社を勧請した神社だから、祭神は大山祇命。よく手入れされた、きれいな堂内。

 中には三つの本殿がある。中央は大山阿夫利神社、右は諏訪大社、左は不明。右二つには本社の御札が置かれているが、「道祖大神御守」はどこのものなのか。「道祖大神」とは大山祇命のことを表しているのか。大山阿夫利神社には行ったことがないからわからない。「道祖神大山祇命=山の神」なのか。聞いたことがあるような、ないような。気になる。

 さらに右の本殿内とその手前左の小さな双体像が気になる。また中央の本殿内に布で覆われているが、やはり双体像があるようにも思われる。いろいろと気になることが多い阿夫利神社の内部である。

 

 

 ↓ 右、諏訪大社本殿内の双体像。

 

 諏訪大社本殿内にある黒く煤けた木製(?)の双体像と、左に置かれた小型の握手する双体像。右の木製双体像は神棚に祀られる恵比寿大黒像などとの関連がうかがえるが、左の石造についてはとりあえず不明。

 だが、後掲の籃塔内双体像などと合わせて、田中英雄が「祠内仏は道祖神の原型か」(『東国里山の石神・石仏系譜』(2014年 青蛾書房 pp.203-225)に詳述し、また『諏訪の石仏』(1985年 諏訪教育会)で今井廣亀が「籃塔内におさめられる像が、すこし大形につくられ、外の塔が略されると双体地蔵ということになり、蓮弁光背(舟形光背)を背負って立つ像になる。」「寺や墓地や個人の蒐集品の中に、20㎝程度の地蔵像や道祖神かと思われるような単位または双立の像のあるのを不思議に思っていたが、それは籃塔から迷い出たものと気付く~」(pp.123-124)といった記述と関連するものだと思われる。

 すなわち双体道祖神の原型としての、籃塔(石祠型の墓標‐後述)祠内仏だったのではないか。

 

 

 ↓ 籃塔 茅野市米沢塩沢 塩沢寺墓地 

 

 籃塔というのは、石祠型(家型)の墓標の、この地方特有の言い方。一般には家形塔・屋形塔と言う。

 戦国末期、諏訪頼重の先室お大方様と侍女の墓という解説板が立っていた。天正10/1582年以後、ほどない時期のもの。1988年放映のNHK大河ドラマ武田信玄』がきっかけで正体がわかり、法要が営まれたとのこと。

 中をのぞくと双体像がある。籃塔自体は数多く残っているが、中に単体であれ双体であれ、像が残っているものは少ない。つまりそうしたものが、前述の「寺や墓地や個人の蒐集品の中に、20㎝程度の地蔵像や道祖神かと思われるような単位または双立の像のあるのを不思議に思っていたが、それは籃塔から迷い出たものと気付く~」に該当するのではないか。

 

 

 ↓ 石祠内双体像

 

 ややわかりにくいが、右が僧形の、左が髪を結い上げた、一続きに掘り出された像。女性なのに僧形なのは、一部にあった納棺前の湯灌の時に剃髪するという風習によるものか、または成仏を示すものであり、左の少し背の低い俗形の結い上げた髪は、侍女を示すのではないか。

 

 

 ↓ 双体像 茅野市豊平南大塩 心光寺

 

 境内の一画にあった墓標石仏。一つの基礎に2基、単体と双体の像塔がある。一般に双体像は両親の供養塔であることが多い。これは同一の基礎だから、家族の、例えば一人の子と両親を供養する墓塔ではないかと思われる。

 ただし、全国的に見れば、双体像=両親の供養塔とは限らない。例えば山形県では「地蔵尊を造立の当初から、二体一対にして祀る場合があり、向かい地蔵、迎え地蔵と呼ばれている」。また越後や佐渡では、ふたり地蔵とか同朋地蔵という。「~一人幼児をあの世に送るにしのびず、地蔵尊がつねに幼児の傍にあることを願った造形と思われ、通常は右側が背が高く、左側を小柄に造形している。」とか、「子供の供養塔には通称『いもこ地蔵』『双子地蔵』が造立された。(『越後・佐渡 石仏の里を歩く』)」等の記述もある。

 いずれにしても、写真のものは共に舟形光背なので、構造上、石祠に納められたものではない。

 以上、双体道祖神の原型として、墓標石祠内の双体像と、より(費用的にも)簡略化された形としての、もともと石祠内には納められなかった双体像の二系統がある。また、双体の意味は、両親を表す場合と、同伴者(?)としての地蔵との二体という場合がある。特に小型の石祠内双体像においては刻字スペースがなく、由来不明となるケースが多いということである。この両者が地域的時代的差異はともかく、双体道祖神の源流の一つだと考えられ、それに道祖神自体が古くから持っている性神信仰が、ある時期に習合したものであると考えられる。

 

 

 ↓ 上田市別所温泉 将軍塚 文字塔道祖神

 

 以上、今回は双体道祖神を中心にアップしたが、むろんシンプルな文字塔もある。これは堂々と屹立する自然石に「道祖神」とのみ彫られている。深かった彫りもいつしか風化が進み、判読しづらくなっている。私はこういうのを見ると、ホッとする。

 

 

 ↓ 東京都西多摩 某寺(特に名を秘す)

 

 余談になるが、信州の双体道祖神が有名になったことから、現代でも例えばこうした盃と徳利を持った祝言タイプの道祖神が作られ、各地の寺社に置かれることがある。

 そもそも道祖神に彫られているものは仏ではなく、神。また本来は、その意味から言っても、路傍や辻にあるべきもので、寺院の境内に置かれるべきものではない。現在古い道祖神が寺社に置かれているのは、過去の道路拡張等のやむをえない事情のために、一種のパブリックスペースとしての寺社が避難場所、移転設置場所を提供したに過ぎないのだ。

 その「夫婦和合」「子宝授かり」「縁結び」といった、歴史的経緯と切断された現生御利益的側面ばかりが目的化(?)され、あるいは単なるエクステリアとして、客寄せ(?)のために、何の歴史性も信仰母体も持たぬ現代の商品「かわいい道祖神」が寺社に置かれるというのは、やはり宗教的退廃だと思うのは、言い過ぎだろうか。

 ちなみにこの某寺は地域の文化への貢献など、良くやっている立派な寺院なのだが、同じ境内にどこだったか有名な阿弥陀三尊浮彫の石仏のレプリカ(?)も置かれている。これなどは説明でもないと、誤解を招く。なくもがなである。

 以上、素朴な信仰心とは別の次元の話である。

(FB投稿:2022.10.7)

 

石仏探訪-44 「信州探訪・その2 女神系」

 神仏に男女の区別があるかどうかということになると、神道系・民間信仰系では男神女神の区別が比較的はっきりしているようだ。だが、山の神や道祖神あたりになると、地域によって諸説がある。性を問わない、持たない神も存在する。

 キリスト教だと、確か天使は中性のはず。

 仏教の経典レベル、仏性レベルでは、そもそも男女性についてはあまりはっきりとはさせていないようだ。例えば観音菩薩は三十三通り(=無限)に変化し、時に応じて老若男女の姿を示すとされる。

 だが民衆レベルでは、それでは納得しない。地蔵は男で観音は女性であるという認識はアジア圏では古くから強くある。

 しかし、地蔵はもともとインドの土俗女神だった(という説もある)。摩利支天も天女姿とされながら、どう見ても憤怒相の武人(男)にしか見えない。すなわち、民衆は自分たちの欲望に合わせて神仏を造形し、改編するのだ。

 ちなみに狩野芳崖の「悲母観音」にははっきりと髭が描き込まれている。

 

 (参考)狩野芳崖 『悲母観音』(部分)

 1888(明治21)年作、芳崖の絶筆。完成直前に死去したため、落款等はない。図柄としては三十三観音の一つ、楊柳観音

 昔からこの有名な絵を見て不思議だった。女性であるはずの観音様になぜ髭が生えているのだろうかと。やや長じて、仏さまには男女の区別はないのだと教えられて(?)、何だか釈然としなかった気持ちをおぼえている。大学でも、読書でも、そうした素朴な疑問には結局答えてくれなかった。

 

 神仏を突き詰めた、ヒンドゥー教のブラーフマン、ゾロアスター教アフラ・マズダ、仏教の大日如来などは、宇宙の根源、絶対神という性格からして男女性を超越した、もっと言えば人格性を持たぬ抽象的存在ということになる。当たり前かもしれないが、神は人ではないということだ。だが、民衆の思いの多くはそういうところにはないだろう。

 すがれるもの、信じられるものは、誰しもがイメージできる姿形、それも慈悲相をもった美しくありがたい姿形であって欲しいと願う。宗教が人間の発明創作したものである以上、それは人間の欲望を忠実に反映する鏡となる。

 そんなわけで、今回は信濃の国で出会ったやさしい女神系の神仏を何点か紹介してみる。

 

 

 ↓ 蚕神 茅野市米沢北大塩 大清水不動堂

 

 現地でこの像を見つけた時、何の予備知識もなかったので、驚き、感動した。帰宅後、ネットで検索したら、天照大御神と出ていた。一応納得したが、写真を拡大して基礎の文字を読むと「蠶玉神社」とあった。蠶=蚕、すなわち蚕神。

 像容だけ見ると、天照大御神とも蚕神ともコノハナサクヤヒメとも言えそうだ。また部分に注目すると、後述するような弁財天と見える要素もある。蚕神なら必須の桑の葉を持っておらず、両手で持っているのは宝珠(?)なのが、混乱の原因なのだが、あらためて見直して見ると、袖の模様があるいは桑の葉を表しているのかもしれないと気づいた。

 何にしても、たっぷりとした大らかな良い像である。造立年等、詳細不明。

 

 

 ↓ 同上

 

 感激して興奮しながら調べまくっている私を、同行のCちゃんが撮影していた。蚕神と同じく、私の顔もほころんでいる。(なんじゃ~!? そのTシャツのメキシコ髑髏は!)

 蚕神=蚕玉神の女性単独像は「インド渡来の金色姫が死んで蚕になったという伝承に由来する」とのこと。女性単独像以外にもいろいろなバリエーションがあるようだ。先の投稿で木曽駒ヶ岳山頂の馬に乗った蚕神を紹介したが、それは「馬娘婚姻譚」に由来するもので、系統が違うとのこと。へえ~。いろいろあるんだ。

それにしても下ぶくれの良いお顔。

 

 

 ↓ 蚕神? 諏訪市四賀普門寺 足長神社近く 児玉神社?

 

 ちなみに蚕神の塔の多くはこうした文字塔。これは足長神社近くの駐車スペース(廃寺跡か?)にあった社の前にあったもの。後ろの社が何神社なのかわからないが、とりあえず「〇玉大神」を「児玉大神」と読んで、児(蚕)玉神社だとみた。

 「〇」は「蚕」の旧字異体字の「蠶」や「䗝」「䘉」などが複雑すぎて象形文字的に繭を連想させる「〇」で代用したのではないかと思う。まさか「金」ではあるまい。

 

 

 ↓ 弁財天 諏訪市小和田 教念寺

 

 境内の小堂内にあった、木彫彩色、裸形の弁財天。格子の隙間からのぞく。近年のものだろうが、詳細不明。

傍らの解説によれば「当山勧請の弁財天は、平成九年夏、不思議な法縁によって、東京都文京区智香寺から奉迎された尊像で、琵琶を弾く二臂裸形の座像である。」とのことで、何のことやらさっぱりわからない。「不思議な法縁」って、何だ?どんないきさつがあったのか、知りたい。

ともあれ、ドキッとする胡粉(たぶん)仕上げの艶めかしさ。

 

 ↓ 同上

 

 弁財天はインドにおける発生当初から女神とされており、それゆえに信仰とは別の性的眼差しも入り込みやすい。その結果、いわゆる「裸弁天」は各地にあるようだ。江の島のそれが有名だが、私はまだ見ていない。

この像はありていにいって、エロチックで美しく、私の好きな像だ。だが、それを仏様として信仰の対象足りうるかと問われれば、ウ~ンと、唸るしかない。「天」であるから「仏」であることは間違いないが、つまりは発展変化形としての民間信仰の地平だと考える。

 

 ↓ 弁財天 諏訪市小和田 甲立寺

 

 こちらは甲立寺にあった石造の弁財天。甲立寺はもと八劔神社別当寺で、真言宗であるせいか、いくつもの興味深い興味深い石仏があるが、これもその一つ。

 一面八臂。頭部に鳥居や宇賀神はないようだ。彫りは薄いが、複雑な絵柄をうまく彫り込んである。石質のせいかもしれないが、高遠石工守屋貞治の系統のようにも見えるが、さて?

 

 

 ↓ 蚕神 前掲

 

 先に紹介した像だが、拡大して見た時に頭部のこれがとぐろを巻いた蛇=宇賀神のように見えた。今見てもとぐろをまいた蛇のようにも見えるし、宝珠のようにも見える。首飾りや髪飾りも単純な球体の連続ではなく、勾玉のような形、もっと言えば蚕の幼虫のように見えるものが散見される。目と唇に彩色の跡が残るように見えるのは、錯覚か。

 設置場所の不動堂のすぐ下が北大塩の大清水(湧水地/そこにも弁財天の文字塔があった)だったということもあり、基礎の「蠶玉神社」の文字に気づくまで、人頭蛇身の宇賀神を頭部に戴く弁財天かもしれないと思っていた。

 

 

 ↓ 宇賀神 茅野市北山 横谷観音

 

 その宇賀神の像がこれ。このようなとぐろを巻いていないタイプの造形は初めて見た。

 宇賀神の出自は不明だが、古事記では宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)、日本書紀では倉稲魂命とされる。「ウカ」は「ウケ(食)」の音変化で食物を表し、ことに稲の実(魂)に結び付けられ、穀霊神から福徳神へと拡張された。また、その過程で稲作=水との関係から水神・竜神ともみなされ、やはり水の神である弁財天と習合し、合体したようだ。

 人頭蛇身の人頭は女性であったり、老翁であったりするが、これは僧形(坊主頭)。解説板によると、「よく見ると頭のまわりにうっすらと光背があり、神仏一体で地蔵信仰とも習合している。」とある。「うっすらと光背」はかすかに赤く残っている彩色跡のことか。う~ん、地蔵の頭の蛇。そうですか。まあ、何でも連想の力によって習合するもんだ。

 以前は少し離れた場所にあったが、盗難をおそれ平成7年に現在地に遷されたとのこと。何にしても珍しく面白い、不思議な像である。こういうのを見るとドキドキする。

造立年等、詳細不明なのが惜しまれる。尻尾の先のふくらみ(?)が気になる。

 

 

 ↓ 二十三夜塔/勢至菩薩 茅野市豊平南大塩 心光寺

 

 礼拝本尊の合掌する勢至菩薩を主尊とした二十三夜塔。享保2/1717年。上部に日月天と梵字種子:サク/勢至菩薩があり、左に「廿三夜供羪」とある。

 女性のみで構成されることが多かった二十三夜講の記念として建てられたもの。月待講の中では最も多い二十三夜塔だが文字塔が多く、このような像塔は少い。上の一部が欠けているが、全体にスマートで、微妙に左右非対称の、繊細なバランスの美しい塔である。

 石仏を見ていると、女性だけの講や女性たちだけで建てた塔が案外多くあることに気づく。基本的には男性中心の江戸時代ではあっても、やはり一定以上の割合で女性の力は強かったというか、認められていたようだ。そう思えば、これがいかにも女性らしい繊細な美しさを持った塔のように見えるのも、無理はないかもしれない。

 

 

 ↓ 八重垣姫 諏訪市小和田 八剱神社

 

 石仏ではないが、ぜひとも紹介したくなった、八剱神社の舞屋(神楽殿?)に展示されていたインスタレーション(?)。

 解説によると、「奪われた諏訪法性の兜を取り戻そうとして上杉館に忍び込んだ箕作(実は武田勝頼)を救うために、八重垣姫が御神渡り以前の諏訪湖を渡って知らせようとして、諏訪明神とその眷属である八百八狐の導きの助けを借りて云々」という伝承?お話?を再現したものらしい。

 八剱神社が諏訪湖御神渡りを見定める「御渡り拝観」という神事に関与していることに由来するのだろう。詳しいことはわからないが、何だか面白い。かわいい。よく出来ている。御神渡り諏訪湖の情景もよく出ている。

 

 ↓ 八重垣姫 諏訪市小和田 八剱神社

 

 角度を変えて。う~ん、ファンタジーだ。八重垣姫もナイスなお姉ちゃんだ。がんばれ箕作!

周りに浮かんでいるホオズキのようなものは、いわゆる狐火なのだろうか。

 

(記:2022.9.28 FB投稿:10.3)

石仏探訪-43 「信州石仏探訪その1 とりあえず、珍しい、面白い石仏」

 先日の信州の7日間の旅のうち、石仏探訪に専念したのは二日半だが、それ以外の日も途中途中で数多くの石仏を目にした。写真に撮ったのはそれらのうちのほんの一部でしかないが、さすが石仏王国。初めて見る像、面白い像も多く、驚きと感激の連続だった。圧倒的なその数と多様性。特有の風土性と歴史性を感じることができた。

 今回はとりあえずその中から、私にとって珍しく面白く感じられたものの中からいくつをピックアップしてみる。

 山登りや移動の最中、なるべくそのペースを乱さないように心がけはしたものの、ある程度は付き合ってくれた山仲間、後半の一日半、車を出して案内してくれた古い友人のCちゃん、共に感謝です。また機会を作って再訪しますので、よろしくお願いします。

 

 1. 諸仏/「摩利支天」 茅野市塚原 惣寺院

 

 摩利支天は陽炎を神格化したものと言われる。木曽御嶽山信仰と関連して造像されたようだから、神仏習合修験道系と見るべきであろう。多くはこのように、三面六臂ないし八臂で、猪に乗る憤怒像として造形されるが、儀軌によれば本来は天女形!のはずである。

 長野県が中心だが、群馬、東京、神奈川にも存在する。造形の複雑さのためか、文字塔が多い。火炎光背は不動明王のそれを借りたものだろう。

 像塔は以前に修那羅峠で一体だけ見たことがあるが、惣寺院のこれは大きさといい、彫りといい、素晴らしいものである。全体に彩色されている。造立年等、詳細は不明。

 

 

 1-2 同上

 この像は有名でNET上でも多く見られる。迫力ある細部を見るために、それらの中から一点を転載してみる。う~ん、すごい!

 

 

 2. 諸仏/「摩利支天・不動明王歓喜天」 茅野市米沢北大塩 大清水不動堂

 

 明治23/1890年。「摩利支天・不動明王歓喜天」と三つ並べた、初めて見る文字塔だが、これも三尊形式というのだろうか。不動三尊なら普通は制多迦(セイタカ)童子と矜羯羅(コンガラ)童子梵字種子はタとタラ)だが。

 専門的になるが、梵字種子はそれぞれマ(摩利支天)、カンマーン(重字 不動明王)、ギャク(歓喜天)だが、この塔に刻まれているのはギャクではなく、阿弥陀如来如意輪観音大威徳明王などを表すキリークのように見える。あるいはギャクの異体なのか。

 何にしても文字塔とはいえ、歓喜天を見たのも初めて。摩利支天・不動明王歓喜天と三つ並べた意味合いも知りたいものだ。

裏には和歌(道歌?)のようなものが彫ってあるが、達筆すぎて読めず。読み下したい。

 

 

 3. 諸仏/「摩利支天大菩薩」 茅野市米沢北大塩 大清水不動堂

 

 こちらも摩利支天だが、シンプルな文字塔。「摩利支天大菩(薩)」とあり、まさに神仏習合というか、修験道ならでは。ヒエラルキーの異なる「天」と「菩薩」を何のためらいもなく接続させている。まあ、ありがたいもの、御利益のありそうな神仏には「~~大菩薩」とつけるわけだ。

 

 

 4. 諸仏/牛頭天王 茅野市米沢塩沢辻 牛頭天王石仏群

 

 牛頭天王の像塔を見るのも初めて。座像だが、90×95㎝という数値以上の大きさを感じさせる堂々たる作である。造立年、その他詳細不明。

以前の投稿にも書いたが、もとはインドの祇園精舎の守護神で、薬師如来垂迹であり、素戔嗚尊スサノオノミコト)でもあり、蘇民将来ゆかりの武塔天王の太子でもあるとされている。

 仏教の経典には記載が無く、当然信頼できる儀軌もないため、自由に造形せざるをえない。その結果の一つがこれ。牛角はないが、頭部に小さな牛の頭部が彫られていることで、その個性とアイデンティティー(?)を主張している。肩にしているのはマサカリか?

 

 

 5. 諸仏/第六天 諏訪市湯の脇 兒玉石神社

 

 第六天を祀ったことに由来する「第六天」の地名は各地に残っているが(あきる野市にもある)、像塔は稀で、私は初めて見た。長野、山梨のほか、関東と一部東北地方に分布する。

 「仏教では地化自在天を第六天とする。この天は欲界六天の最上位にあって、~~仏堂のさまたげをするので魔王といわれる。」~「魔力による願望達成を期待して、魔王を福神、守護神に転化させることによって成立したと思われる。」悪魔崇拝とも言える。

 要するに御利益のためなら魔王でも何でも祀り、拝むという、日本人の何とも融通無碍な宗教心の現れの一つと言えよう。

 像としては、魔王の名に似合わない、笏を持ったおだやかな神官(?)姿。江戸時代だろうが、造立年、その他詳細不明。

 

 

 6. 勝軍地蔵 茅野市米沢塩沢辻 牛頭天王石仏群

 

 勝軍地蔵は室町時代に創作(!)された、甲冑をまとった地蔵。足利尊氏が帰依したことから、武将たちに崇拝された。また、勝軍が将軍に通じることから、騎馬像も作られている。つまり戦う地蔵!

 また火伏・防火の神・愛宕明神の本地として、「愛宕勝軍地蔵」の名で知られる。宝珠錫杖を持って頭に帽子のような兜をかぶっているので、わかりやすい。これまでいくつか見たことがあるが、これはそのお手本のような姿。脛当てをした足もむき出しで、フットワークが軽そうだ。

 

 

 7. 勝軍地蔵 茅野市米沢北大塩 接吻道祖神石仏群

 

 こちらも勝軍地蔵だが、頭の兜以外はふつうの地蔵(延命地蔵)と変わらない。顔面等に風化が見られるが、全体としては堂々とした像である。

 なお前掲の勝軍地蔵もそうだが、それらは、現在は石仏群として一か所に集められていても、元々は他の場所に建てられていた可能性が高い。

 つまり寺の外にある場合は、勝軍地蔵の垂迹である愛宕様が、塞ノ神・境の神としての性格を備えていたために、都の西北に当たる愛宕山に鎮座し平安系鎮護の神とされたのと同様に、集落の境や辻などに建てられて塞ノ神としての役割を担っていたと考えられる。一般的な「村のはずれ(境)のお地蔵様(多くは延命地蔵)」もまた同様である。

 

 

 8. 御神体/黒曜石 茅野市北山 大瀧神社

 

 この神社ができたのは比較的新しい。流造平入の石祠に見立てるように重ねられた御神体の二つの黒曜石は、昭和16年茅野市の鷹野原喜平という人が冷山(現在地の西、渋の湯の北)から運んできたもの。南を流れる横谷渓谷の滝にちなんで大瀧神社と名付け、祭神を建御名方命とし、風の神、水の神、鍛冶の神、農耕・狩猟・開拓の神といった幅広い神格を付与した。その後、平成25年に社殿が建てられ、御柱も建てられた。すべて後付けの個人的解釈というべきだろう。

以上の内容が記された傍に建てられていた解説を読むと、古来と同様の、日本における神や神社のあり方、創出過程が、読み取れる。

 巨大な黒曜石の原石に神性を感じとるあたりには縄文以来の固有の土着的感性を感じるが、それに縄文とは無縁の記紀神話を重ね、さらに多様な神格=属性=御利益を結び付けるというあたりが、庶民のしたたかさなのだろう。

以上は批判ではない。仏教であれ、神道であれ、民間信仰であれ、日本人の宗教性の原形(現生利益・二世安楽)が、この神社の創出過程に見て取れるということなのだ。そういった意味で、これは石仏ではないが、宗教史的観点からしても、実に興味深い石造物である。

(記:2022.9.28 FB投稿:9.30)

閑話「日本で一番小さな花火大会」+石仏探訪‐41「戸倉白山神社と乙津大戸里神社」

 8月13日は近所の小和田地区の花火大会。台風接近でどうなるかと思われたが、奇蹟的に雨はやみ、30分ほど遅れて開始。

 

 ↓ スマホのオートで撮ればこんなものか。でも昔のガラケーとは段違い。

    

 

 

 「日本で一番小さな花火大会」と銘打った、地元自治会主催のもの。大きな尺玉には地元企業のスポンサーがつくが、全体としてはスポンサーを付けず、「おじいちゃんの米寿の祝い」とか「孫の誕生記念」とか地元の「○○中学校何年卒業生有志」とか、一発ごとに地元の方の協賛金で成り立っているほのぼの感が良い。

 

 ↓ ま、こんなもの。以下、略。

 

 以前より少し大掛かりになったのか、会場の川原まで行かずとも、わが家の庭先からでも結構よく見える。一瞬の光の芸術。人間、いろんなことを考えつくもんだ。

 

 話は変わって先日、運動不足解消を兼ねて、自転車で4、50分ほどのあたりを石仏探訪。何度も近くを通っているのに見つけられない戸倉の白山神社。久しぶりに体験する目のくらむような暑さと、滝のような汗で判断力低下。それらしき平坦地を見付けて、てっきり廃社となったかと思った。

 

 ↓ 一回目の戸倉白山神社探索で見つけられず、代わりにこんなものを見つけた。写真の奥に秋川の本流からの水の引き込み口があり、そこから延びる導管。以前は近くに水力発電所があったようだが、今は無いはず。戸倉には貯水場があったりするから、そこに引いているのだろうか。ちょっと不思議な水の道。

 

 帰宅後、やはり納得できず、三日後の暑い昨日再訪。今度は旧道の奥にめでたく発見できた。少し興味深い石造物、いくつかあり。やれやれ。

 

 ↓ 二度目の探索で見つけた戸倉白山神社

 文政3/1820年と、弘化3/1846年の灯篭、弘化4/1847年の手洗石、その他。文政3年の灯篭の「奉日本神佛」の銘文に、神仏習合の姿がうかがえる。写真を撮っていると、蚊に喰われまくる。

 

 ↓ 「山之主大神」と刻まれた自然石碑。

 資料にも載っておらず、詳細不明。山の神だろうと思うが、「山之主大神」と記したのは初めて見た。

 

 

 ついでにもう少し足を伸ばし、乙津の大戸里神社近くにあるはずの春日明神社を探すが、やはり今回もわからない。たぶんあそこだろうと見当はついているのだが、人の家の敷地を通らざるを得ないようで、今回も断念。

 

 ↓ 乙津の春日明神社の探索をあきらめて、ついでに寄った大戸里神社の庚申塔

 青面金剛、二鶏二猿の浮彫立像。二鶏は線が浅く、わかりづらい。

 三猿ではなく二猿で、しかもそのポーズが面白い。右の未敷蓮華(悟りきれないことの象徴)は当然として、左のそれを男根としている資料もあるが、どうだろうか。また古い写真を見ると、二猿ではなく、間に風化しているが、もう一匹うずくまっているようにも見える。さて、どうだろうか。また青面金剛の右三手には、はっきりと蛇を持っている。正徳元年/1711年と、なかなか古い。

 

 ↓ 大戸里神社の裏参道にあたる切り通し、「風の道」。下り方向を見る。

 表参道は急な長い石段であり、それを回避するために大正前後(?)に拓かれたものだろう。「風の道」と名付けられているとか聞いたことがある。実際、地形の関係から、猛暑のこの日もここだけは涼しい風が吹き抜けていた。

 少し下った所の左側に石仏群があったが、最近道路わきの事務所敷地内に移され、見辛くなったのが残念。

 

 ↓ 少し下って振り返り見る。切り通し、峠、鞍部といったもの特有の地形的風情。風も通るが、光も流れる。

 

 

 雨後の増水にもかかわらず、秋川は水遊び客で混んでいた。道路の渋滞は仕方ないが、水難事故のないように、そしてごみを捨てずに持ち帰るようにして欲しいものだ。

(記・FB投稿:2022.8.15)

「信州の山と石仏の旅」

 9月7~13日、信州を旅した。蓼科、別所温泉木曽駒ヶ岳乗鞍岳、そして諏訪市茅野市の石仏探訪。

 

 前半は高校山岳部OB・OG会の仲間と、蓼科の山荘ベースの行動。

 初日は天気が悪く、上田市の戦没画学生慰霊美術館「無言館」や別所温泉周辺のあちこちをまわった。無言館については淡い縁があった。ようやく訪れることができたが、絵描きとしてはそれなりの覚悟が必要だった。

 

 ↓ 戦没画学生慰霊美術館「無言館」の外観。近くに第二展示館「傷ついた画布のドーム」がある。内容は深く重いが、それ以上に、一人一人が見て、考えるべきものである。

 ↑ 無言館の前段の『祈りの画集 戦没画学生の記録』(1977年 日本放送協会)を作った、野見山暁治さんには学生時代に直接教わった。詩人の宗左近さんには、縁あって拙著『メッセージのゆらぎ 博士論文+作品集』の序文を書いていただいた。無言館館長の窪島誠一郎氏には45年ぐらい前、渋谷(だったと思う?)のキッド・アイラック・ギャラリーに靉光展を見に行った時に、少し話をしたことがある。また、直接関係はないが、窪島氏の実父の水上勉の「越前竹人形」の人形は私の予備校時代の友人が作っていた。

 

 二日目、三日目は、木曽駒ヶ岳乗鞍岳登山。局地的に不安定な天候に翻弄された。個人的には予定外の山だったが、結果的には天候に恵まれ、久々の日本アルプスを登った。

 共にバスやロープウェイを使った、登高差300m程度のカンニング的な登山ではあったが、まあそれはそれ。歳相応の登り方かもしれないが、ヨレヨレになった。木曽駒ヶ岳は38年振りの再登、乗鞍岳は久しぶりの50座目の日本百名山

 

 後半は上諏訪を拠点に、諏訪市茅野市の石仏探訪。久しぶりに古い知人と再会し、旧交を温め、その案内で暑い中、あちこちと周る。石仏王国信州ならではの濃くも充実した内容で、やはりヨレヨレになった。

帰宅後、撮りまくった石仏写真の整理・分類・研究に追われることになった。

 一週間の旅だったが、内容が濃すぎて、とりあえず今回は二つの山についての投稿。石仏その他については、また次の機会に。

 

 

 ↓ 9月9日、中央アルプス木曽駒ヶ岳に登る。

 ↑ バス、ロープウェイを乗り継いで千畳敷カールから登り始める。八丁坂の登高差300mでヨレヨレ。いや、私が遅いのではなく、他のメンバーが早すぎるのだ。長い距離ならそうひけを取らないのだが、短時間ではかなわない。

 

 ↓ 八丁坂を上り切った乗越浄土から木曽駒山頂を目指す。右は途中の中岳で、木曽駒山頂はその陰で見えない。

 

 

 ↓ 38年振りの木曽駒ヶ岳山頂、2956.1m。4学年にまたがっているが、山登りを生活のメインにすえている(?)人は強い。私は弱い。



 

 ↓ 木曽駒ヶ岳山頂には三つほど石仏(石造物)があったが、これは蚕神。馬に乗り、桑の葉を持った女神。細部までよく彫られた、美しく面白い像。造立年等は不明だが、そう古いものではないだろう。

 ↑ 養蚕の仏としては馬鳴菩薩があるが、養蚕の盛んだった地域にはそれよりも多く「蚕影山」、「蚕玉神」といった文字塔、あるいはこうした桑の葉を持つ女神や、天敵のネズミを捕る猫や蛇までが蚕神として造形された。蚕の神のルーツには中国東晋の時代の『捜神記』の中に「馬の恋」があるが、そのイメージに通ずる造形である。

 余談だがこの像を紹介している田中英雄の『里山の石仏巡礼』(2006年 山と渓谷社 MY BOOKS)では裏焼きされた(左右逆の)写真が使われている。

 

 

 ↓ 同じく木曽駒ヶ岳山頂にあった、おそらく宝珠を持つ地蔵でないかと思われる像。基礎に「○長(?)○講」とある。造立年等、不明。

 四頭身ほどの可愛らしい像だが、光線の具合か、少しさびしそうに写っているのが残念というか、面白い。



 

 ↓ 登り終えて途中まで同じ道を辿る。中央が中岳、右の三角形が宝剣岳。中岳を右に巻く道を行く。

 

 

 ↓ 下山時のロープウェイから見下ろす中御所谷本谷。ゴンドラの窓ガラスの反射が写り込んでいる。

 手強そうな滝が連続するが、38年前にはあそこを直登していったのだ。当時所属していたY山の会の夏合宿。結婚はしていたが、まだ博士課程の学生だった頃。

 

 

 ↓ 9月10日、バスで北アルプス乗鞍岳へ、写真の畳平2700mまで上がる。

 高い所までバスが登りロープウェイやリフトが架けられ、それを利用して山頂に立つというのは登山者としてはいかがなものかとは思うが、今ここでそれを言ってみても仕方がない。今回の誘いが無ければおそらく一生登らずじまいだったろうとは思うが、登ってしまった。むろん、山そのものは素晴らしい。

 

 

 ↓ 不安定な天気の名残で、時おりガスがかかる。たいした急登ではないが、やはりヨレヨレになる。

 

 

 ↓ とにもかくにも山頂にて。私以外の人は元気。

 

 

 ↓ 頂上近くの権現池。おおらかな山容の乗鞍岳にはいくつもの火山性の支峰や池が点在している。それらをのんびりと巡り歩いたら、さぞ気持ちが良いだろう。

 

 

 ↓ 下山途中。宇宙線研究所観測所への道路にて。先行するKの後姿。もっと絵になる良いシーンもあったのだが…。いつか絵にしてみたい構図。

 

 

 ↓ 天候に、各種の天気予報に振り回された三日間だったが、なんとかその隙間をかいくぐって、快適な山行ができた。青空に感謝。

 

(記・FB投稿:2022.9.14)