もうこうなったら、半分意地(?しかもまだあと二つある)。信州石仏探訪・その4。
今回取り上げるのはすべて文字が刻まれただけの塔、文字塔である。地味である。パッと一目見てわかる像の美しさや、キャラクター的面白さ、彫刻美といったものはない。抽象、あるいは表現の極北としての、「モノ=それ自体」としての、自然石の形を味わうか。
しかしそこには、文字=観念が刻み込まれている。刻まれた文字を読み、その意味を解し、刻過去に遡り、いにしえの人々の暮らしや信仰に思いをはせ、愛でるべき塔、つまりは玄人好み(?)の塔なのだ。
仏教、神道、民間信仰の基礎知識がある程度ないと、その意味を理解するには多少ハードルが高いかもしれない。
なに、私だって最初はちっともわかりはしなかった。かまいはしない。
なるべく簡単(?)なコメントを付すから、そういうものかと思っていただければ、それで良い。あるいは、それぞれの体験や、身体の奥に眠っているかもしれない、かすかな古層の記憶がよみがえるならば、そしてそれを通して父祖の、血脈の、歴史性といったものを感じ取っていただければ、それで良い。
1. 山岳塔/「富士山」 茅野市塚原 惣寺院
私は(元)山男だから、山の名前が刻まれたいわゆる山岳塔と言われるものは、一通りは見てみたいのである。
これは各地の山を信仰する山岳信仰の講(信仰集団)の一つ、富士講の塔。天文年間(1532-54)に長崎で始まり、享保期(1716-35)に江戸を中心とした庶民層に広まり、江戸八百八講と呼ばれるほど増えた。仏教・神道・修験道に独自の思想を盛り込んだ。もちろんレクリエーション的要素もたっぷりと。
それぞれの講のアピールや、登った回数をアピールするものが多いが、これはシンプルに「富士山」とだけあるのが潔い。全体の形も富士山形。造立年等、詳細不明。
2. 山岳塔/「妙義大権現」 茅野市塚原 惣寺院
群馬県の妙義山を祀ったもの。妙義山は全山火山性のごつごつした岩山の山群だが、表妙義の白雲山(相馬岳)・金洞山・金鶏山の三峰が信仰の中心となっている。金洞山が中峰で武尊権現が祀られ、白雲山には妙義大権現が祀られている。
左右に刻字があるようにも思われるが、読めず。造立年等、詳細不明。
3. 山岳塔/「白雲山権現」 諏訪市岡村町 正願寺 嘉永3/1850年
妙義山の塔はわりとよく見るが、「白雲山」とあるのは少ないようだ。初めて見た。
白雲山の名は、現在では妙義山の中の相馬岳と天狗岳を総称した形で地形図には記されているが、もともと妙義山全体が白雲山と総称されていた。
明徳5/1394年、花山院長親が、南朝の勢力が低下したことを嘆いて出家し、妙喜(妙魏)と称し当地に住んだことから妙義山というようになったという説もある。したがって「白雲山権現」と記されていても、「妙義大権現」と同じとして良いのではないかと思う。『日本石仏図典』等には「白雲山大権現」としては取り上げられていない。
「嘉永三■午八月」とあり、干支が合わない?のが気になるが、読み違いか。
なお白雲山(相馬岳+天狗岳)その他には登ったことがあるが、他の二つは登っていない。いつか登りたい。
4. 諸神/霊神碑 宮田村 木曽駒ヶ岳乗越浄土 明治期
「霊神」とは一般的な意味としては、「霊験あらたかな神。御利益の著しい神」ということだが、石仏・石造物の世界では大別して、①木曽御嶽講(後に御嶽協会)の講徒が死後の霊魂の安住の地を御嶽山中に求め建てた碑(≒墓碑)に記される○○霊神と、②一般の神道の信徒の墓碑に記されるものと、二種類ある。ほぼ仏教の戒名と同じものだが、②の場合は山岳講とは関係がない。
①の習俗は他の山、山岳講にも広まった。また、特に功績のあった行者・先達を霊神として祀る風習が出てきて、その風習も同様に他の山、山岳講に広まったようだ。
写真の霊神碑は木曽駒ケ岳の乗越浄土にあったもの。判読しづらいが、裏面に「明治二?十 □~~彦平 ~~」、「當國伊奈郡宮田村 俗名 田中権三郎」、「~~明~~ ~~」とあり、明治のもの。
この時は伊奈側のロープウェイで登ったので、ここ以外では見かけなかったが、昔の木曽側からの登山道(表参道)沿いには多くの霊神碑があるようだ。
5. 諸神/「天之御中主神」 宮田村 木曽駒ヶ岳山頂 木曽駒ヶ岳神社
木曽駒ヶ岳山頂には、木曽駒ヶ岳神社奥宮と伊奈駒ケ岳神社奥宮の二つがある。前者の祭神は、かつては天照大御神、現在は宇賀御魂命。後者の祭神は八千矛神(大国主命)・手間大神・倉稲魂神・月夜見命。神社が木曽側と伊奈側の二つあるのは、昔の水利権(?)の名残だとか。
共通する祭神の宇賀御魂命(=倉稲魂神 ウカノミタマノミコト)が、ウカ/ウケ(穀物霊)→穀物神・保食神であり、その農業の源である水源に関わることから、今に至るも山を隔てた二つの地域の神社が併存しているということが、古い信仰のあり方をそのままとどめているわけで、おもしろい。
写真の「天御中主神 高皇産霊神 神皇産霊神」は、上記の神名とは異なり、古事記に登場する天地開闢の際の造化三神。宇賀御魂命などの上位に位置する神々だが、上記の諸神を統括する神道教義上の配慮(?)によって建てられたものではないかと推測する。したがって、年記は確認できなかったが、幕末から明治以降のものではないかと思う。さて?
なお、木曽駒ヶ岳信仰が、開山当初から木曽御嶽信仰の影響を受けていたのかどうかは未解明とのこと。また、木曽駒ヶ岳手前の中岳には(木曽)御嶽神社が祀られているとのことだが、気づかなかった。
手長神社の拝殿の脇には多くの弊社、石仏があった。これもその一つ。
大国主命は日本神話に登場する代表的な国津神(天津神/天孫神が降臨する以前から日本に土着していた先住神)。その国津神の主宰神であり、日本国を創った神とされる。「大己貴命(おおなむちのみこと)」、「大物主神(おおものぬしのみこと」、「大国魂神(おおくにたまのみこと)」、「三諸神(みもろのかみ)」、ほか、多くの別称がある。
また大国主命は、ヒンドゥー教のシヴァ神の化身であった戦闘神の摩訶迦羅(マハーカーラ)が仏教に取り入れられ、寺院の守護神、厨房の神と変わった大黒天と、音韻上の相似から習合した。日本固有の神・大国(主命)=ヒンドゥー教の戦闘神・大黒(天)と合体したのである。
それはそれとして、この碑の面白いところは、左右に「當所ヨリ 出雲大社 百九十二里 金比羅山 百五十里 伊勢御神 百八十八里 西京(?) 八十四里」と記され、一種の道標となっていることである。一番遠い出雲大社まで754.56㎞だから実用的ではないが、「旅への誘い」にはなっている。こうした趣旨のものはときどきあるが、こんな広範囲のものは初めて見た。
7. 「ア・バ・ラ・カ・キャ(キャ・カ・ラ・バ・ア)塔」/五輪塔 上田市別所温泉 常楽寺参道
古来インドには宇宙の成立元素を、火・水・地の三輪、地・水・火・風とする四輪とする思想があり、大乗仏教の般若思想によって空を加えて五輪とした。さらに密教では識を加え、六大となった(輪と大は同義)。ギリシャ哲学の四大も同根である。
その思想を立体形象化した地・水・火・風・空の五輪塔は日本独自のもの。写真の塔はこの五大を梵字種子「(下から)ア・バ・ラ・カ・キャ」で表したもの(上から「キャ・カ・ラ・バ・ア」と読むこともあるが、この場合どちらが正しいのかわからない)。立方体や球体といった立体化はされていないが、文字による五輪塔だと言えよう。したがって、それは大日如来の真言であり、すなわち大日如来そのものと考えられる。
日本中に五輪塔は無数にあるが、このような梵字種子のみを一つの自然石に刻んだものは初めて見た。上部には円相が彫られている。他の刻字は見当たらず、詳細不明。また資料にも見当たらず、最初はこれが何なのか全くわからなかった。
昼食の蕎麦屋に行く途中で見かけ、ずいぶん長く待たされた待ち時間に一人で見に行った。同行者は興味を示さず、寸暇を惜しんで見に行って本当に良かった。
8. 念仏塔/「四十八夜供養塔」 諏訪市岡村町 法光寺
十三夜から二十九夜までのほとんどの各夜の月待塔があるが、「四十八夜供養塔」は、そうしたいわゆる月待塔ではない。念仏塔の一種である夜(行)念仏塔の一種である。山形の立石寺では現在も行者を中心に(寺は無関与で)夜念仏を行っているそうだ。
月待講も念仏講その他も、念仏を唱えるという点では共通だが、四十八夜念仏の行事内容は詳しくはわからないそうだが、弥陀の四十八願に基づき、四十八夜連続で集まって念仏を唱えるという、やや特別な行を記念して建立したもののようだ。
「夜念仏」塔には山形、岐阜、愛知の各県に集中しているが、「四十八夜」のそれは例が少ないようだ。比較的珍しいものである。初めて見た。
宝暦4/1754年。梵字種子:キリーク/阿弥陀の下に「四十八夜供養塔 天下和順 日月清明」、左面に「願主 一蓮? 深蓮?社諦誉全海□ 老若男女四萬八千人」とある。48.000人というのはどういうことなのだろうか。
9. (参考)夜念仏供養塔 山形県天童市山元 若松観音旧参道入口
「夜念仏」塔は山形でいくつか見たが、詳しいことはわからない。これは文化4/1807年のもの。
若松観音には本堂近くまで道路が通じたので、他にも興味深い石仏群がある表参道は、今はほとんど歩かれていないようだ。
暑かったこともあり、何だか必死の姿。
信州に限らず馬頭観音は全国どこに行ってもある。生活との関係や、教義の身近さ、造塔の容易さなどから、自ずと似たような造形になる。一つ一つ子細に見れば個性も立ち現れてくるだろうが、旅の途上、他の珍しい興味深いものが次々に出てくるので、なかなかゆっくりとは見ていられない。
瀬神社の一画には、35基ほどの馬頭観音が集められていた。馬を飼う生活が遠ざかり、道が拡張改修されていく時代の変化の中で、本来はゆかりのある場所に置かれていたものが、各所からここに集められて来たのだ。それはそれで悪いことではないのだろう。
全部を確認してはいないが、安永7/1778年から明治30/1897年のものがあった。
その馬頭観音群の中で、気になったのがこの文字塔。
基本的に像塔よりも文字塔の方が造るのが容易で、費用も安い。さらに一つの塔に二頭まとめて供養すれば、より安く上がる。「馬頭觀世音」の文字を二つ並べ、風化して読みにくいが「七月 四月」、「九□□ 辰蔵」と二人の名前がある。
4月と7月に死んだ二頭の馬の供養のために、あまり裕福ではない、九□□と辰蔵の二人が共同で建てたものかと想像される。それはそれでいじらしいというか、けなげさを感じるというか。なんとなく、しみじみとした気持ちにさせられる。慶應(?)元/1865年。
12. 「富蔵山(とくらさん)」 茅野市米沢北大塩
大清水(湧水地)の手前にある石仏群にこの大きな文字塔があった。最初に見た時、「富」と「山」は読めたが、「蔵」が読めなかった。崩し文字としてはよく見る字なのだが、「富蔵山」では意味がわからなかったから。どうみても「富士山」ではない。
しばらくたってから『続日本石仏図典』で、この塔を発見した。富蔵山は、長野県本条村西条の小仁熊ダムの西の、標高750mにある馬頭観音を祀った観音寺のこと(地図に卍記号あり。ハイキングに良さそうな里山)。そこに参って、笹の葉をいただき、馬に食べさせて健康を祈ったとのこと。つまり、馬の守護神だったのである。「富蔵山」≒馬頭観音。
近代中期には長野、群馬を中心に500以上の講があったという。ローカルな信仰である。謎が解けた。しかし「富蔵山」とだけ見ても、馬頭観音とほぼ同義の馬の守護神の(講の)塔とは、知らない人にはわからないだろう。
基礎には「大門道 山道」とあるから、道標も兼ねていたようだ。
13. 諸神/「水神」 諏訪市岡村町 金山の清水
岡村町の金山稲荷の近くにあり、「金山の清水」という名で地元の人には古くから親しまれていたそうだ。現在は井戸になって、上には蓋がしてあるから利用できないようだが、そのかたわらにこの文字塔があり、大切にされていたことがわかる。
神道以前の、生活に密着した、こうした素朴な自然崇拝の形を見ると、やはりどこか静かな感動を覚え、良いものだなと思う。
(記・FB投稿:2022.10.12)