先月(2015年4月)に読んだ本は以下の通り。
①「女」 山本容子
中公文庫 2001.4.25 【美術】
中公文庫 1999.7.18 【美術】
③「花篝 小説日本女流画人伝」 澤田ふじ子 △
中公文庫 1989.5.10 【美術・小説】
④「山の彼方の」 山本太郎
1980.7.25 山と渓谷社 【山岳・詩歌】
2015.2.10 岩波新書 【歴史】
⑥「木島日記 乞丐相」 大塚英志
2004.3.25 角川文庫 【小説】
⑦「桧原 ふるさとの覚書き 村の暮しと民俗」 小泉輝三朗
1980.11.20一刷1981.2.10二刷 武蔵野郷土史刊行会 【民俗】
⑧「ARTのパワースポット」 横尾忠則
2001.2.7 ちくま文庫 【美術】
評価は6段階 あくまで筆者の主観的判断です。
◎=おもしろい、傑作 ○=なかなか良い △少しおもしろい 無印=可もなく不可もな
し、普通 ▲う~ん、どうなんだ ×=ダメです
以上8冊。少ない。少ないけれども日々の読書量が少なかったというわけではない。読み上げた冊数が少なかったのである。
私はほぼ毎日本を読むが、一冊の本を通して一気に読むということは少なく(エンターテイメント系の小説などではよくやるが)、毎日何冊かの本を何頁かずつ読むというスタイルを続けている。
自宅で本を読み始めるのはだいたい仕事=制作を終えて筆を洗ったり、入浴を済ませたりしてからの午前2時前後から。それから酒を飲みながら読みはじめる。酒はだいたい焼酎。つまみは夕食の残り物。場所は居間兼食堂のテーブル。元々は畳に胡坐のスタイルだったのだが、御多聞にもれず腰痛をわずらうようになってから数年前に椅子とテーブルのスタイルにかえた。そのテーブルの左端には通常十冊前後の本が積み重ねられている。右手を伸ばしたところの棚には二十冊前後の本が並んでいる。これらがつまり読みかけの本である。前日に読みかけのものを手にとってしばらく読んだのち、今度は左右の読みかけのものの中からその日の気分に合ったものを適当に手に取り、何頁か読むということを二三冊繰り返す。そうこうしている内に二三杯の焼酎の酔いがまわり、ゆらゆらと寝室に行きベッドにもぐりこむのである。
四月はそうして読み進める中に内容の重い本が三冊あった。二冊はまだ読み終えていない。読んでいて辛い。酔いがまわるにつれて中身が頭に入らなくなる。ついほかの読みやすい本、軽い本に交替する。そんなわけで四月の読書は妙に拡散し、結果、読み上げた冊数が少なかったということだ。
その重かった一冊が⑤「朝鮮と日本に生きる 済州島から猪飼野へ」。今日、世界遺産(自然遺産)の島として観光やゴルフで有名な済州島で、1948年4月3日から1954年9月にかけて何が起こったかを知る人は少ないだろう。私もまた、事件とも蜂起とも共産暴動とも呼ばれ、今なお韓国(朝鮮)最大のタブーとされるこの出来事について、ほとんど知るところはなかった。それには戦前の日本の植民地政策が深くかかわっていた。この一冊でその歴史的経緯や意味がすべて理解されうるわけではないが、そこにそういう問題があった(今もある)ということを気づくことはできる。
最近、日本の右傾化が言われるが、私もまたそのように実感する。南京大虐殺、従軍慰安婦問題、強制連行、それらを自虐史観の言葉のもとに「なかった」こととする言説、立場を私は強く否定する。「真実」という言葉がある事柄=「事実」に対して、それがどういう意味であるか、どう解釈すべきかという立場をとる限り、一つの「事実」に対して無数の「真実」がありうる。すなわち「なかった」こととする言説、立場とは、歴史感覚の欠如であり、その前段階として自分に都合の良い角度からの事実のみを引いてくるというような、知性や教養の放棄・喪失ということであり、それを実行させるに至るモラルの欠如ということである。
あえて言えば「自虐史観」とは、むしろ、人間がとるべき最良のモラルの一規範であると、私は思う。私が実見した被害者側のサイゴンの戦争証跡博物館や重慶の戦争博物館についてはここではおく。加害者側であるドイツ、ベルリン郊外のザクセンハウゼン収容所を見てそう思うのである。同じく加害者側(どれほど少なく見積もっても、少なくとも中国や朝鮮にとっては)である日本にはそうした加害者としての視点に立つ博物館は無い。それどころか、最近では公立の大阪国際平和センターや埼玉県平和資料館などから加害側に立つ展示が消されつつある(「平和博物館 消えた加害」朝日新聞2015年5月13日 註:この二施設については私は実見していない)。広島平和記念資料館も、その主旨からすればやむをえないだろうが、然り。靖国神社の遊就館に至ってはその「英霊のまごころや英霊のご事跡を知ること・・・」とあるように、加害者としての視点ははなから排除されている。それについては、私自身の伯父が祀られていることからも、私にはそれを批判する権利がある。ドイツの戦後責任のとりかた、そして今日の国際社会での信頼のされ方が、日本のそれと比べてひときわ際立つゆえんである。
難しい問題である。あまり正面切って向かい合いたくない問題というものがある。私にも気にはなっていてもあまり向かい合ったことのないテーマがある。水俣病について(「苦界浄土」)、従軍慰安婦の問題、オウム真理教(「A3」)、原発の問題、その他。しかし少しずつでもそれらについて向かい合うようにしなければならない。アンナ・ハーレントの言う「悪の凡庸さ」「思考の欠如」に陥らないためにも。
思いがけず「朝鮮と日本に生きる 済州島から猪飼野へ」についてのコメントが長く、重くなった。しかし、大事な問題である。
ほかのものもそれなりに面白かったが、一冊だけあげるとすれば、③「花篝 小説日本女流画人伝」 澤田ふじ子)。短編集ということと、歴史小説ゆえの限界はあるものの、日本の女流画家というやや珍しいテーマと、端正な文章に好感が持てた。 (2015.5.23)