艸砦庵だより

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「ふるさとの山―番外編+路上のアート」 これはアウトサイダーアートなのか?~山里に群れなす怪獣たち

 先日(2017.11.8)、山口県鹿野町(現周南市)にある馬糞ヶ岳に登りに行った。その途中で不思議なものを見た。

 最初は徳山から北上して登山口である秘密尾を目指して車で走行中、とある交差点(?場所不明)で何か、黒い大きなフィギュアのようなものが置かれているのを一瞬見たような気がした。しかし、その時は、??気のせいか??というぐらいで、確認する間もなく通りすぎた。そして登山口に近づいたあたりで、今度ははっきりと、道路わきにいくつも群れなしているのを見た。「何だ?あれは?!」同行の一人が知っているらしく、「この辺では結構有名らしいですよ」という声。下山後にあらためて確認すことにして、その時はとりあえず通過した。

 登山が終わって帰りがけに一風呂浴びようと温泉に向かう途中、再度の遭遇。今度は車から降りてゆっくり鑑賞、観察する。

 

 ↓ 人家の前の畑の恐竜・怪獣群

 

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 ↓ 整列行進の恐竜・怪獣群

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 第一印象は、こんなところに素晴らしいアウトサイダー・アートがあった!というものだった。

 なかなかのモノである。恐竜、怪獣たちが群をなしている。道路わきの人家の前の畑の中、整然と隊列をなして車道のほうに向かっている。迫力がある。近づいてみると、思ったより大きい。最大のもので7、8mぐらいか。全部で10体以上ある。小さいものや、人家の庭先の止まり木の上の鳥のようなものまで入れれば20体、いや30体以上ある。ほとんどのパーツがゴムタイヤを切り刻んだもので作られている。細工は細かく、細部までよく工夫され、同じデザインのものは一つもないようだ。

 

 ↓ 一つ一つ顔が違う

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 ↓ 鳥もいる 後ろのが作者の家か?

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 ↓ 前の二人は誰?

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 見れば見るほど、良くできている。言い換えれば、創造的であり、作品的であり、アウラが感じられるのである。つまり、よくありそうではありながら、「ありがち」ではない、ように思われる。

 そこのところの見極めが難しい。つまりオリジナリティあふれる「アート」なのか、それとも「ありがちな造形物」なのかが、今一つ確信を持てないのである。わが鑑賞眼も未だしだなと思う。(「現代美術」にもそういうところがあるが)

 こうした造形物というのは、全国あちこちにけっこう存在する。中にはオッ!と思わせるものもないではないが、たいていはまあ、言わずもがな、といったものだ。その程度のものを私は「アート」と呼ぶ気はない。

 

 今日、「アート」という言葉は安くなった。それは「芸術」や「美術」という言葉の相対的インフレの進行と照応する現象である。「ハイアート」の衰退と「ローアート」の躍進・蔓延。それは必ずしも悪いことばかりとは言いきれない。しかし、そこには功罪が相半ばする。芸術の領域拡大による美の可能性の増大ということもできるし、感性や価値観の低下といった現象もそうである。もちろんそのことは、情報化社会の進行、SNSの普及などといった事態に支えられたものでもある。

 芸術はある文化に属するものであるから、その時代や社会、風土、歴史性といったものによって定義付けられるのは当然のことである。しかしまた、どんな芸術もいずれ外部の要素を取り入れることによって更新されることを必然とする存在である。19世紀末のフランスアカデミズムに対する印象派の勃興において果たした浮世絵の役割など、その典型であると言えよう。20世紀以降の美術における「アウトサイダーアート」の意義もまた同様である。

 

 ここにある造形物群は「ありがちな造形物」なのか、「アウトサイダーアート」なのか。実を言えば、作者さえわかればその区別は簡単なのである。

 「アウトサイダーアート」というのは、その語が使われだした当初は、主に「知的ないし精神的障害をもった人が作ったユニークな作品」といった程度のシンプルな意味合いだったのだが、その魅力と可能性が認められるに従って、領域と意味をを拡大していった。今ここでそのことについて詳述する気はない。別のカテゴリーで、そのことにふれた拙稿「表現のはじまりとしてのアウトサイダーアート -美術と教育の基層として-」〈『平成16年度「広域科学研究経費」に係わる報告書「アートセラピーの現状調査とアートセラピスト要請プログラムの開発」』(pp.50-60 東京学芸大学大学院教育学研究科芸術系教育講座 東京学芸大学美術・書道講座 2005年)〉をあげておくので、そちらを参照されたい。

 

 とりあえず、簡単なアウトサイダーアートの定義の一例として、以下をあげておく。

 

 (1)背景:過去に芸術家としての訓練を受けていないこと。

 (2)創作動機:芸術家としての名声を得ることでなく、あくまでも

    自発的であること。(他者への公開を目的としなければ、さらに

    望ましい) 

 (3)創作手法:創作の過程で、過去や現在における芸術のモードに影

    響を受けていないこと。

  http://outsiderart.ld.infoseek.co.jp./preface.html アウトサイダーアートとはなにか/

   アウトサイダーアートの世界 より引用)

 

 要するに上記三点を満たしている人が作ったものであれば、この造形物はアウトサイダーアートだと言えるのである。

 

 しかし、今日ではアウトサイダーアートの概念は拡大されている。アール・ブリュットという語も一般的になったが、主に知的、精神的障害をもつ人の行為・作品を示すエイブル・アート(able art)以外に、ナイーブ・アート(naïve art)やプリミティブ・アート(primitive art)、エスニック・アート(ethnic art)、マージナル・アート(marginal art)、さらには子供の絵も含めることすら可能なのである。

 もしこの造形物群の作者が上記(1)~(3)の条件を満たしているとしても、ナイーブ・アート≒素朴派といったあたりに位置づけるのが適当かもしれない。

 

 意識されて配列されたと思われる設置状況からして、作者はこの畑の所有者である奥の人家の住人ではないかと想像される。「すみません。ちょっとお聞きしたいのですが」と言って、聞いてみればすぐにわかるだろう。単なるモノ作りの好きな人、工作好きの人かもしれない。しかし、単なるモノ作り好き、工作好きというだけなら、ここまではやらないだろうというか、ここまでのクオリティには到達しないだろうと思う。だから、少し怖いような気がする。でもせっかくだから、聞いてみるべきかとは思うのだが、気の弱い私にはなかなかその決断が下せない。同行のメンバーは、最初は面白がっていたものの、とっくに飽きているというか、あまり深入りしないように距離をおいている、という感じだ。これからの予定もある。ああ、俺はフィールドワークに弱い男だと思いつつ、予定の温泉に向かわざるをえないのであった。

 

 ↓ とっくに飽きている他のメンバー

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 ↓ 布製のパーツは少数派

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 作品は写真を見てわかるように、一見して恐竜あるいは怪獣と見えるものである。しかし恐竜や、既成の怪獣のイメージともちょっと違う。たまたまその直前に立ち寄った氷見神社との関連から、祭神の闇於加美神(くらおかみのかみ)=水の神・龍神=龍を模したものではないかと言う説も出されたが、イメージのくくりとしては恐竜も怪獣も龍も同じこと。

 

 何にしても大した迫力である。ゴムタイヤの色、質感をうまく利用している。

 明らかに鳥を造形したとわかるものはさほどでもないが、ところどころに置かれている人物像はよく見ると案外恐い。作者は必ずしも恐がらせようとしたのではないかも知れないが、結果としては少し怖い。怖いけれども、味はある。可愛いと言えなくもない。

 

 ↓ 恐可愛い二人

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 これを見た多くの人は、結果として何と物好きな!と思うかもしれない。確かに物好きの結果ではあろう。しかし、その物好きの度合いとクオリティによっては、それはアートと言うべきなのもしれないのである。私は、これはアート=芸術だと思う。ただし、少し自信がないのである。ああ、わが鑑識眼、未だし…。

 真価が認められるのに時間がかかることもあるのだ。価値を見出されるまでに時間がかかり過ぎて、作品が消滅してしまうことは、もっと多い。

 ちなみに、こうした素人の物好きが延々と作り続けた結果、今や完全にアートとして認められ、国の文化財として認定された例を紹介しておこう。「ワッツタワー」(アメリカ)と「郵便配達夫シュヴァルの理想宮」(フランス)である。

 

 ワッツタワーの方は、とあるさえないイタリア移民サバトロディアがロサンゼルスのスラム街に33年かけて作り上げたもの。現在は「アメリカ国定歴史建造物」に指定されている。

 

 ↓ ワッツタワーその1

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 ↓ ワッツタワーの下部

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 「郵便配達夫シュヴァルの理想宮」の方は、ある日仕事(郵便配達)の途中でつまづいた石を拾い上げたことがきっかけで、やはり33年かけて作り上げたもの。現在はフランス政府により国の重要建造物に指定されている。

 

 ↓ シュヴァルの理想宮 その2

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 ↓ シュヴァルの理想宮 その1

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 共にたった一人で作り上げたもので、今や共に多くの観光客を呼びあつめている。

 私はまだ見たことがないが、できれば一度ぐらい見てみたい気もする。まあ、見なくても差し支えはないが、そんな事をやった人がいて、そんなものがあると思うだけで、少し暖かい気持になれるのである。

 

 おまけとして、もう一つ紹介しよう。こちらは3年前に見た。ラオスビエンチャン郊外のブッダパークである。こちらは仏教をまじめに広めようとしたあるまじめなお金持ちがまじめに作った(こちらはおそらく職人に作らせた)ものである。しかし、どこかアウトサイダーアート的な感はまぬがれない。私も現地で大いに楽しんだ。

 

 ↓ ブッダパーク その1

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 ↓ ブッダパーク その2

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 ともあれ、思わぬ拾い物をしたような気持ちではある。いまだに自信はないのであるが、ここまで書いてみるともう、アウトサイダー・アートだか、単なる造形物だか、どちらでもいい気が少ししてきた。なにはともあれじゅうぶん楽しませてもらったことは確かだ。

 構造的にはしっかりしているようだからこのままでも長持ちしそうだが、こうしたものの常として、いつまでそこに健在であるかはわからない。私としては、この過疎の山間の集落で、ひっそりと静かに朽ち果てるまで、末永く立ち続けていて欲しいものだと思う。

                       (2017.11.16 記)

 

追記

 その後、同行メンバーの一人Tが、地元の知人を通じて知りえた以下の話を伝えてくれた。

 

 作者は地元の谷川さんと言われる方で、数年前に亡くなられたとのこと。御存命であれば80歳くらい。奥さんがまだ御健在で、その話として、谷川さんは農業のかたわら、林業法人に勤務。そこを退職後、「ゴムタイヤアート」を作り始められたとのこと。きっかけは、「お孫さんを喜ばせようとして」。仕事の経験を活かして、タイヤは木の芯に打ち付けられているそうだ。以前、テレビ等でも取り上げられ、地元では結構人気だったとのことである。

 

 こうして作者のイメージがある程度わかった。そうすると、さて、これはアウトサイダーアートと言えるかどうか。

 前述の三つの定義からすると、おそらく「(1)背景:過去に芸術家としての訓練を受けていないこと。」以外は該当しないと言えよう。しかし、この三項は、狭義のアウトサイダーアート(主としてエイブルアート)について定義されたものである。しかし、別項「旧論再録 表現のはじまりとしてのアウトサイダーアート」で述べたように、より範囲を広げてみれば、「ナイーブアート」には含まれるかもしれない。障害はなく、専門の美術教育を受けていない人によるアートである。素朴派という言い方もある。丸木スマやモーゼスおばさんなどがその例。

 

 まあ、こうして見ると、分類や定義などどうでもよいとは言わぬが、必ずしも本質的な問題ではないとは思えてくる。

 それにしても、やはりこの作品の強度といったものはスゴイと思う。やはりその強度に魅入られたのか、吾々が見た何日かあとで、少し離れた所のある会社の社長が、「ここに置いておくのはもったいない」と言って5体を買われ、持ち帰られたとのことだ。また周辺の何ヶ所か、交差点などに(注意喚起のため?)同様の作品が設置されているらしい。

 「ここに置いておくのはもったいない」かどうかは、微妙だが(私などはそこにまとまってあるから良いのだと思うが…。単体より集合の迫力)、少なくとも私以外にもその魅力に惹かれた人がいることは確かだ。つまりそれだけの強度とアートとしてのアウラを発していたことの証であろう。

 (2017.11.25記)