昨年末、朝日新聞では恒例の「回顧2017 美術」で、北澤憲昭、高階秀爾、山下裕二の「私の3点」をあげている。内容は以下の通り。
北澤憲昭
「パロディ 二重の声」(東京ステーションギャラリー)
「日本の家」(東京国立近代美術館)
「最古の石器とハンドアックス」(東京大学総合研究博物館)
「絵巻マニア列伝」(サントリー美術館)
「皇室の彩」(東京芸術大学大学美術館)
「不染鉄」(東京ステーションギャラリー)
「海北友松」(京都国立博物館)
「運慶」(東京国立博物館)
以下にあげる、私が2017年に見た展覧会の中で、上記の9点と重なるのは、「不染鉄」のみ。もう一つ、これはその前年に北澤憲昭があげた「ラスコー展」が年度を越えて入っているが、それでも2/9。割合としては例年こんなものである。
そもそも恒例行事である朝日新聞の「回顧 201X 美術」には、特に選定の基準や主旨といったものは記されていない。また3名の選者も近年は固定されているようだ。その結果、当然のことながら、選者の専門なり好みがそのまま反映されてはいるが、それを通してある種の客観的評価といったものがうかがわれるといったほどの、重みのようなものは感じられない。例えば入場者総数といったような客観的数字にさほど意味があるとも思えないが(それでは漫画・アニメ関係の展示が圧倒的上位を占めるのは目に見えている)、それでも一応の目安として併記するぐらいの度量というか、新聞文化欄としての客観性というか権威のようなものが示されてもよいと思うのだが、どうであろう。
上記三者が現在の日本の美術(評論)界に占める位置、存在感、役割の大きさからすれば、三者の私的好みの提示とのみ思われかねない「私の3点」に終わっているのは、もったいないというか、無責任な気がするのであるが…。
ともあれ以下に私が2017年に見た展覧会(等)の一覧をあげる。例によって、美術館だけではなく、寺社、遺跡、庭園等も含む場合もあるが、MUSEUMの範疇をなるべく広くとって考える。また、一般的な街の画廊等は含まない。
凡例:上段「 」内は展覧会の正式名称。その右の( )内は展覧会のサブタイトル。下段は美術館名と見た日。[ ]はざっくりとしたジャンル。●以下は簡単なコメント-印象記。少しややこしいものについては、別稿として次のブログでアップする。
1.「ラスコー展」(クロマニョン人が残した洞窟壁画)
国立科学博物館 1月13日 [歴史・原始]
●前年度の「私の3点」ということで、年が明けて見に行った。博物館の考古的・歴史的展示なども多少好きなので、海外ではわりとよく見る。北澤憲昭は「絵画の起源へとレプリカでいざなう美術館を出し抜く発想において」取り上げたとのこと。しかし例えば最近芸大がさかんに提唱している「クローン文化財」の発想にはいささか虚を突かれたというか、なるほどと思わせられるところもあるが、本展に関してはピンとこなかった。学校教育、社会教育の一つとしては有効かもしれないが。
2.「岩佐又兵衛 源氏絵」(〈古典〉への挑戦)
●辻惟雄の『奇想の系譜』以来気になっていた画家だったが、ピンとこなかった。通俗的という印象。
3.「ガラス絵」(幻惑の200年史)
府中市立美術館 2月25日 [ガラス絵]
↓ 展覧会のチラシ
●マイナーアートの魅力?数年前のはけの森美術館での「ガラス絵」(浜松市美術館の名品)展も面白かったが、これもなかなか面白かったです。
3-2 「常設展」(絵画の庭 小特集 府中の風景)
府中市立美術館 2月25日 [洋画]
●上記展のついでに。特になし
4.「第41回 从展」
東京都美術館 3月4日 [洋画等]
●いわゆる団体展は見に行かないのだが、たまたま今回のみ本展に関係した友人に頼まれ、招待券をもらったのでやむなくというか、まあたまには、といったぐらいの気持ちで見に行った。
ところで、この団体展はアンデパンダン(無鑑査)なのだろうか?表現と表出の差異が弁別されていない作品が多い。
5.「シャセリオー」(19世紀フランス・ロマン主義の異才)
国立西洋美術館 3月15日 [洋画]
↓ 展覧会のチラシ
●考えてみればシャセリオーの単独展を欧米以外でやるというのは、相当すごいことなのではないだろうか。ということで、久しぶりにヨーロッパアカデミズムの勉強をしに行ってみた。来た作品の多くはひ弱なものだったが、ある程度以上の力量はあるのだろう。だが線は細い。新古典主義とロマン主義のはざまで若死にした(37歳)から、仕方がないのか。
5-2 「スケーエン デンマークの芸術家村」
国立西洋美術館 3月15日 [洋画]
↓ 展覧会のチラシ
●「シャセリオー」を思いがけず早く見終わったので、サブ企画(?)でやっていたのをついでに見た。まったく知らなかった作品群。きれいで誠実な作品群だが、ローカル。そこまでの話。抽象へと移行する時代の動きに反して、袋小路へと向かった誠実さである。
6.「ミュシャ展」
国立新美術館 3月31日 [洋画]
●別稿
7.「伊勢神宮 内宮・外宮」
伊勢神宮 4月8日 [寺社]
●高校同期の友人たちと観光旅行で行った。特にコメントはなし。本当は書くべきことが多いのだろうが、やはり美術の文脈だけでは語れない。
↓ 外宮の次に遷宮されるべき場所。現在は空き地。今建っている社殿は撮影禁止、だったような。美術の文脈だけでは語れない。
●旅の一環、偶然、行った。ブログ「伊勢・大峰・大和への旅(観音峰山・三輪山) その2」に既述。45年前に東京で見ていたのだった。
9.「喜多美術館 常設展」
●友人のFが関係していることからアドバイスを頼まれて、旅の一環として訪問。個人コレクションとしての質は良いが、保存状態・展示方等、不可。これをきっかけとしてG大学のK氏、A氏の協力で修復、保存方法の見直し等、再生の方向に向かうことになった。
9-2.「金屋の石仏」
●喜多美術館に隣接していたのでのぞいてみた。特になし。
奈良県葛城市 4月13日
●同じ旅の一環。学生時代に一度見たはずだが、特に記憶なし。今回も特にコメントなし。
11.「アドルフ・ヴェルフリ」(二萬五千頁の王国)
東京ステーションギャラリー 5月1日 [アウトサイダーアート]
●正統派かつ古典的アウトサイダーアート。由緒正しきお手本(?)である。こうした展覧会を見ることができて、私は幸福である。
しかしそれにしても、なぜアウトサイダーアーティストたちはそれぞれの王国を、歴史を、建設しようとするのか。むろん、それがここではない外側に在るからである。
展覧会のチラシは 旧論再録 「表現のはじまりとしてのアウトサイダーアート」 に載せているので、省略。
12.「小貫政之助」(生きた時代の証言) [洋画]
たましん歴史・美術館 6月7日
↓ 展覧会のチラシ
●未知の作家。まあ、見たという感じ。「生きた時代の証言」というサブタイトルからして、結局、ある種の通俗性のうちに終始したような気がする。その時代と共に消えゆくべき作家か。それはそれとして、自由美術にはこういったある種の「絵肌/テクスチャー」の系譜があるような気がしたが、さて?
13.「佐藤直樹個展」(秘境の東京、そこで生えている)
アーツ千代田3331 6月7日 [洋画]
●別稿
15.「浅野竹二の木版世界」(生きる、笑う、自由に!)
府中市立美術館 6月21日 [版画]
↓ 展覧会のチラシ
↓ 前半の創作版画から新版画へと移行した時代の作品
●創作版画の作家、未知の作家だったがゆえに見にというか、確認しに行った。前後半生の作品の違いが、私的には面白かった。はじけ具合にセンスあり。残念なのは、借りだされた個人蔵のものならまだしも(?)、出品されていた館蔵品にすらいくつかのものにカビ(!)が生えていたことである。最近こうして例が増えているような気がするのは、私の目が意地悪になっているせいなのか、それとも学芸員の怠慢、あるいは予算不足なのか。それにしても・・・。
15-2.「常設展」(「ゆかいな作品たち」)
府中市立美術館 6月21日 [版画]
●浅野竹二を見た後だったので、ついでに視野も広がり、多少面白かった。
16.「不染鉄」(没後40年 幻の画家)
東京ステーションギャラリー 8月25日 [日本画]
↓ 展覧会のチラシ
↓ 「思出之記」1927年
●迷ったが、未知の作家ゆえに見に行った。私の不勉強ゆえの未知かと思ったら、東京では初めての回顧展とか。あながち私のせいばかりではなかった。
不思議な魅力がある。近代京都画壇、国画創作協会の時代あたりの、華岳、波光、あるいはさらに岡本神草、稲垣仲静あたりと通底する空気。そしてそれはその後の時代を通しても、決してメジャーにはなりえぬもの。未だよくわからぬ、消化しきれぬ作家である。
17.「藤島武二展」(生誕150年記念)
練馬区立美術館 8月29日 [洋画]
●藤島のいくつかの作品は色々な機会を通じて見ているが、単独での展覧会を見るのは初めて。二三の魅力的な作品をのぞいては今一つといった印象。既述ブログ「国会議事堂の壁画の謎」につながるヒントでも見出せないかと思っていたが、それは見いだせなかった。
18.「山下清 とその仲間たちの作品展」(踏むな 育てよ 水そそげ 石川謙二 沼祐一 野田重博)
川崎市民ミュージアム 9月13日 [アウトサイダーアート]
●別稿
19.「ハイチアート展」(川崎市民ミュージアム)
川崎市民ミュージアム 9月13日 [エスニックアート]
●別稿
20.「浅井忠の京都遺産」(京都工芸繊維大学美術工芸コレクション)
泉屋博古館 分館 10月11日 [洋画・工芸]
↓ 展覧会のチラシ
●浅井忠は工部美術学校中退、明治美術会設立等ののち、いったんは東京美術学校教授となるが、2年後にフランスに留学。その2年後に帰国したが、そのまま新設の京都高等工芸学校教授になる。以後油絵=西洋画ではなく図案・デザインの教育にあたる。油絵=西洋画については聖護印洋画研究所(のち関西美術院)という私塾(?)でおこなった。そのあたりの経緯がよくわからない。あるいは左遷のニュアンスがあるのか。
ともあれ、浅井の京都以降のアールヌーヴォー風の仕事に興味があったのだが、その手のものはほとんど出品されておらず、ウ~ン・・・、残念。黙語は黙したままだった。*(黙語は浅井の号)
21.「林敬二展」(品川区民芸術祭2017)
O美術館 10月25日 [洋画]
↓ 展覧会のチラシ
●新しく館長になったTさんから招待状が来たので、表敬訪問に行った。私は公募団体展には行かないことにしているので、美術雑誌等でたまに見るぐらいしか知らない作家だったが、まとまって見ると案外悪くない。ある種の誠実さを感じる。なお、団体展を見に行かないということは、当然その日本的特殊性を否定しているわけで、そうしたことについても考えざるをえないのだが、それはまた別の話。
●同時期開催の「雪舟発見!展」を見に行ったのだが、美術館的にはこちらがメイン企画。しかし今の私には縁がなかったというか・・・。東大寺関係ではけっこう好きなものが多いのだが。
↓ 展覧会のチラシ
●これも実はその後の毛利博物館での雪舟筆「四季山水図(山水長巻)」特別公開と、セットの企画だった。なるほど、そうですか、という感じ。
新(再)発見を含めた6点の倣古図が出ていた。倣古図というと、まあ模写である。岡山県立美術館所蔵のものだけ伝雪舟とあるが、やはりその一点だけ格が下がる。模写のそのまた模写といったところであろう。
24.「特別展 国宝」(雪舟筆「四季山水図(山水長巻)」特別公開) [日本画]
毛利邸+毛利博物館 11月7日 [日本画]
↓ 展覧会のチラシ
●私のふるさと山口県防府市にある毛利博物館。国宝の雪舟筆「四季山水図(山水長巻)」を有している。そこに、文化・美術に関して一応の見識を持っている旧友が、昨年から理事となって勤務し始めた。彼とのやり取りの中で、アドバイザー的発言(?)を求められ、他の用件と合わせて見に行った。
ずいぶん前に一度は見たことがあるはずだが、ほとんど記憶がない(あるいは公開していない期間だったのかもしれない)。雪舟自体についても、知っているつもりで、実はこれまでほとんどちゃんと向かい合ったことはなかったのである。今回、必ずしもそれを見たいという気が熟してのタイミングではなかったので、受容の仕方が難しい面もあったが、やはり良いものは良い。正直に白状すれば、前記の「倣古図」と合わせて、『雪舟はどう語られてきたか』(2002年 山下裕二 平凡社ライブラリー)を出発前に読み始めるという泥縄的事前学習をしつつ赴いたのである。同書の「わかりやすいもの 雪舟筆『山水長巻』」(橋本治)によって蒙を開かれたというか、鑑賞を助けられた感はある。
それにしても今回は全16mのそれが全巻広げられているのを、ガラス越しではあるが、間近で、ゆっくりと見ることができた。全巻広げられるのは年に一度、40日程度だとの事。同行のK以外は、客が一組二人ほど来て去って行っただけ。Kもしばらく見てほかへ移り、長時間一人だけで見た。思えば相当に贅沢な時間であった。昨年10月の京都国立博物館での「国宝展」には他の多数の国宝と共に、本作の一部が出品されたが、長蛇の列だったとの由。そうしたことからもこの博物館での、同作の扱い方、取り扱い方において、今日的な目からはいくつも問題、改善すべき点を指摘することができる。文化財を経済的資源としか見ない、最近の政府発言は論外としても、その時代なりの見せ方、活用の仕方において、それぞれに工夫する必要はあるだろう。
25.「山頭火の句 名筆特選」(~百年目のふるさと~)
山頭火ふるさと館 11月9日 [文学]
↓ 展覧会のチラシ
●わがふるさとの生んだ自由律俳人種田山頭火の人気は近年ますます高く、その文学的評価も定着したと見るべきであるが、地元での受容度は極めて低かったと言わざるをえない。そこには、一つには、彼の一種無頼派とでもいう生き方に対する嫌悪、反発が根強くあるのだろう。それは、作品への評価とは別の、近親憎悪的感情とも思われる。それはいたしかたがないこととも言えるが、いま一つ、わがふるさとが、芸術・文化に対してきわめて冷淡な風土であることに由来するというのが、私自身の実感でもある。
そうした風土でありながら、ここにきてようやく彼の記念館ができた。その最初の展示である。内容や設備構成を見て、ウ~ン・・・大丈夫だろうか、というのが正直なところだ。しかし、できたばかりなのだから、あまり文句を言うのは控えよう。ただ一つ、こうしたMUSEUM=展示施設の主役は収蔵品であり、使命の一つが収集及び研究であるとだけは強調しておきたい。器だけ作って収集購入予算を削減された施設の悲惨さ、さびしさは、全国どこにでも遍在しているのを知っているからである。
26.「ディエゴ・リベラの時代」(メキシコの夢とともに)
埼玉県立近代美術館 11月15日 [洋画]
↓ 展覧会のチラシ
●ディエゴ・リベラとフリーダ・カーロについては、数年前にメキシコである程度見てきた。今回は比較的珍しいラテンアメリカ近代美術(全般)ということで見に行った。代表作、名作といったものはほとんどなかったが、ふだんあまりふれる機会が少ない分野であり、また幅広い目配りのきいた構成によって、その全体感はそれなりに勉強できた感じはある。
- 「銅版画家 清原啓子」(没後30年)
八王子市夢美術館 12月7日 [版画]
↓ 展覧会のチラシ
●若くして逝った未知の作家。私と同年生まれということで、同級生みたいというか、まったく同じような空気を吸って生きていたことが感じられた。幻想的細密画と言ってしまえばおしまいだが、肯定的にせよ、否定的にせよ、それなりの魅力はある。
28.「オットー・ネーベル展」(シャガール カンディンスキー クレーの時代)
↓ 展覧会のチラシ
●チラシを見て、一見どう見てもクレーに似ているが、全く未知の作家であり、気になって見に行った。一流の作家であれば私が知らないはずがない、という自惚れを持っているからである。結果、ウ~ン・・・という印象。つまり、やはりせいぜい1.5流以下の作家だということである。それはそれで仕方がないことであるが。
なお、展示構成等は親切で、また同時出品されていたクレーや他の作家の作品に良いものがあり、楽しめた展覧会ではあった。
- 「野生展」(飼いならされない感覚と思考)
21-21 DESIGN SIGHT 12月18日 [現代美術・民俗]
↓ 展覧会のチラシ
●中沢新一がディレクターだということで、少し期待して見に行った。民俗学的モチーフの巨大な丸石神(本物?なんだろうね?)をいきなりもってくるなど、けれん味たっぷり。しかし冷静に見てみれば、六本木ミッドタウンの21-21 DESIGN SIGHTというあたりからしても、この展覧会自体が飼いならされているようにしか見えない。高度資本主義社会の最先端の安全地帯での、無国籍で都会風でコンテンポラリーなアート(?)。南方熊楠(のレプリカ)はともかく、個々には良い作家、良い作品があったにもかかわらず、結局のところ肝心の「野生」なるものが見えてこない。何を言いたいのかわからない。やはり、しょせん中沢新一という人は、センシティブでかっこいい切り口は示せても、その先の体系というか、思想や情念の塊を紡げない人なのだろうか。
若くスタイリッシュな外人の観客がけっこう来ていたから、外貨獲得には貢献したというか、評判は良かったんだろうな。
なおこれは記事そのものとは関係ない話だが、私はこれまでに美術館等(いわゆる市中の画廊は除く)で見たすべての展覧会を一覧表で記録しているが、本展はそのちょうど1200番目である。実質18歳からの45年間の数字で、まあそれはそれで、ちょっと感慨深い。
以下、●別稿と記したものについては、次回に取り上げる。
(記:2018.1.17)