以下、前稿の続きである。
*国名(都市名)の記載順は必ずしも行った通りの順番とは限らない。同行者名については実名にした場合もあり仮名の場合もある。( )内の立場は当時のもの。
⑧2009. 9.13~9.27(15日間)
トルコ(イスタンブール・アンカラ・サフランボル・カッパドキア)
同行:KH嬢(東京学芸大4年:指導学生) KR嬢(同) K(高校時代の同級生:会社員/後半合流) 河村森(息子:会社員/後半合流)
この頃になると海外の旅もだいぶ慣れ、また、できれば年に一度くらいは興味のある、未だ行ったことのない地域に行きたくなってきた。学生にもそんな話をよくしていたが、二人の指導学生から行きたいという申し出があった。渡りに船と言いたいところだが、女子大生二人を連れてというのも気が重い。あれこれ男の同行者を探したが、見つからない。やむなく(?)、全日程は無理だが後半一週間なら可能という旅好きの会社員のK(高校山岳部の同級生)と、すでに就職していた息子に乗ってもらうことにした。
↓ アヤソフィアだったか?
これまでヨーロッパ、東アジアと見てくると、やはりイスラム文化圏が気になる。文化・風土性、ともに、日本と対極的と言っていいくらい違ったものがあるはずだと思われた。トルコは言うまでもなくイスラム圏であるが、独立の英雄アタチュルク以来政教分離=世俗主義を国是としてきたことから、近年はEUにも加盟しようかというくらいヨーロッパ的近代化を進めていた。ここ最近になって混迷する中東情勢の影響を受けて、イスラム色もやや濃くなってきているようで、きな臭い面も出てきているが、吾々が旅した頃までは安全で、旅しやすい国という定評があった。
↓ トプカピ宮殿の軍楽隊のパフォーマンスというか、ショー。けっこう面白く、前後二回も見に行った。
↓ ハーレムの内部 見どころ多し。
↓ ミニアチュール(装飾細密画)の宝庫。
↓ トルコ式マーブリングの実演。
何よりもオスマントルコの首都であり、イスラム美術の宝庫、そしてアナトリアとカッパドキアの魅力あふれる風土性は、私を惹きつけてやまない。
↓ アンカラからカッパドキアまで、金色に耀くアナトリア地方をバスで長距離移動。
この予想はおおむね当たり、楽しめた旅となった。モスクやイスラムミニアチュールは、予想通り素晴らしかった。カッパドキアの摩訶不思議な面白さもアナトリアの金色に耀く草原の美しさも、言語に絶するものだった。
↓ カッパドキアその1
↓ カッパドキアその2
↓ カッパドキアその3 映画「スターウォーズ」でも使われたとか。
↓ ところどころに残るかつての信仰の証。すべては滅びゆく。
↓ カッパドキアに遊ぶ。
↓ なぜここでクライミング? 当時の人々の生活を知るためです。
↓ 高橋克彦の『竜の柩』の舞台となった地下都市
しかしまた、西欧的美術史観に慣れた目でそれらを見たとき、「絵とは何か」「なぜ絵を描くのか」という根源的・普遍的問題が自分の事として湧きおこってくるのを感じた。水煙草を吸いながら、旋回舞踊を見ながら、そんなことを考えた。
↓ 水煙草を吸いながらそんなことを考えた。
↓ ベリーダンスを見ながらあんなことも考えた。このタトゥー入りのお姉さんは国外からの出稼ぎだそうです。
⑨2010. 3.5~15(11日間)
スリランカ(コロンボ・シーギリヤ・ミヒンタレー・ボロンナルワ・ランブッダ・キャンディ・ナラタニヤ・スリーパーダ・ヌワラエリヤ・ワールズ・エンド)
同行:T嬢(東京学芸大学4年生:洋画) I嬢(同/指導学生) F君(東京学芸大学4年生:他専攻)
前回の旅から4か月。前回と同学年の学生の「卒業旅行」に同行することになった。東アジア~東南アジア―~西アジアとくると、次は南アジアを知りたくなってくる。しかし海外旅行が初めての、気は好いがあまり使えない女子大生二人(その内の一人は奇遇にも私の母校の後輩!)と一緒に、いきなり南アジア=インドというのも気が重い。
そこでもう少しソフトなイメージのある、南アジア=スリランカに決定。イスラム圏からヒンドゥー圏をとばして、仏教圏へと転進(?)である。
幸い他専攻ではあるが、彼女たちの友人である旅慣れているF君(冒険探検部)の同行も得られた。考えた末に、全行程ガイド・ドライバー付きの行動にしたおかげで、比較的楽な旅となったが、ちょっと拾い物といった感じの、印象の良い旅になった。
↓ スリランカ!
↓ シーギリヤ! あの岩山の上に狂気の王の引き籠った王宮があった。
↓ 山上の王宮跡に登る途中の壁画
↓ 素晴らしい壁画だが、実はかつてこれを修復したノルウェー人(だったか?)に、原画とは異なった印象で、かなり創作的に描き直されたという話もある。実際はどうなのか? 現在は撮影禁止だとか?
↓ シーギリヤ・ロックの山頂=王宮跡から下界=領土を望む。
↓ ダンブッラ石窟寺院 この奥に壁画に彩られた巨大な仏教空間があった。
↓ 予定が遅れて飛ばしすぎてスピード違反で捕まった。郷に入っては郷に従えということで、ガイドさんに言われるまま、日本の煙草をそっと差し出す。左の警官が持っているのがそれ。おかげでフレンドリーな対応で、おとがめなし。
日本のそれとはやはり相当に趣きの異なる仏教文化・仏教美術ではあったが、それなりに親しみと美しさを感じられた。
↓ ボロンナルワだったか、どこだったか。あちこち回ったもんで…。裸足で拝観。
↓ 遺跡にて。旅の形。
↓ さらに濃すぎるその内部。
↓ 深夜1時に起きてスリー・パーダ(アダムスピーク)に登る。この山は仏教・ヒンドゥー教・イスラム教・キリスト教のそれぞれ聖地とされている。標高2238mだが上までずっと(登りにくい)階段がつけられている。
↓ 御来光時の「影スリー・パーダ」。
夜明け前について日の出を待っていたら、熱帯だと思ってあなどっていたせいか、死ぬほど寒かった。本当に寒いと筋肉が痛む。見えているあの山にこそ登ってみたい!
↓ 高原のホートン・プレインズ国立公園。遠くに前日登ったスリー・パーダが遠望される。
↓ 高原の一角、ワールズ・エンドにて。左は断崖絶壁。
⑩2010. 9.25~10.3(9日間)
同行:A氏(東京学芸大学教授:デザイン) 中国人留学生5名(東京学芸大大学院生:デザイン) 台湾人留学生1名(東京学芸大大学院生:デザイン)
海外旅行好きの同僚A先生とその指導学生6名の旅に誘われて参加。面白かったのが、この二か国6名の留学生が、四つか五つの民族に分かれていたということである。今はよく知らないが、当時は彼らの中華人民共和国のパスポートや身分証明書には民族名が記されており、また、その民族の違いゆえの様々な問題や志向・思想、可能性等の違いがあることを知り始めた頃だったのである。
そもそも中国とは限らず、世界には実に多くの多民族国家があり、それがどういうことなのかということを、旅を通じての体験の中で実感し始めた頃だった。
↓ ちょいとピンボケ。私も入れて三か国、5~6民族。民族って、何?
ギリシャは、一度は行かねばならない所だとは思っていた。美術とは限らず、西欧文明の根底にあるのがギリシャ文明だということは、いまさら言うまでもないこと。にもかかわらず、私はそれを避けてきたというか、自分には縁が無いように思っていた。ギリシャ美術に、美としての実感を、感じなかったからである。
↓ ギリシャ以前のミケーネ文明(たぶん)。そう言えば、よく見たら「ギリシャ彫刻」の写真を一枚も撮っていない…。
今回の旅でそれが埋まったかというと、そうでもないのである。そもそも、モザイク以外に当時の絵は残っていないのだ。むろんそのモザイクは素晴らしかった。パルテノン神殿の壮大きわまりない美しさにも感動せざるをえなかった。
↓ パルテノン遠望。
↓ パルテノン神殿
↓ アテネ市内 民族衣装の衛兵交替のパフォーマンス。
そしてそれ以上に面白かったのが、できたばかりで、何の予備知識もなく入ったビザンティン美術館のイコン群だった。
↓ ビザンティン美術の優品の数々。
↓ これは珍しい ビザンティンイコンの下絵。
しかし、何よりも素晴らしかったのは、結局、サントリーニ島の景観、風物であった。
↓ リゾートしている私。
↓ こんな感じ。
↓ 新先史期博物館か考古学博物館か、どっちかの博物館にあった、たぶんミケーネあたりの壺。美しいフォルム。
⑪2011. 3.1~15(15日間)
キューバ(ハバナ・トリニダー・サンタクララ・サリーナ島・ビニャーレス渓谷)~メキシコ(メキシコシティー・テオティワカン)
同行:M嬢(東京学芸大大学院生:洋画) I君(東京学芸大教務補助?:デザイン) G君(筑波大学大学院生:M嬢の友人)
なんとなく学生を連れての旅に慣れ、自信を持つようになっていた。その自信(過信)から自分の指導学生ではない三名と旅したのだが、それが失敗の原因だった。
M嬢は指導学生ではないが、別の大学からから学芸大洋画研究室に来た大学院生。I君とは5年前に北欧の旅を共にし、大学入学以来だから、付き合いはそれなりに長い。しかし、今回の旅には、間際になっての押しかけ気味での参加。G君とは初対面だが、以前にキューバに留学しており、今回の旅の牽引車。彼がいなかったらこの旅は成立しなかった。
いつもなら事前のミーティングを重ねて意識統一をはかるのだが、今回はみな「多忙」とかで、それが不十分なままの出発となった。
今でも明確な理由が思い当たらないのであるが、しょせん寄り合い所帯だったせいか、意識統一の不足からか、旅の半ばから人間関係がうまくいかなくなり、おそらく全員が不愉快な思いをした。結局のところ、責任は年長者である私の不徳のいたすところ、とするしかない。われ未だし、である。
↓ カバーニャ要塞から見る首都ハバナ。電力供給不足のため、ビルにともる灯はきわめて少ない。
↓ トリニダーへ向かう。
しかしそれ以上にこの旅のトータルな印象を暗いものにしたのは、旅先で東北大震災を知ったことである。当初は情報不足のせいでそれほど大したことはあるまいと思われたが、次第にそうでないことがわかってきた。時差の関係もあるが、そのニュースと、私の誕生日のサプライズセレモニー(?)と、上記の不和が一緒くたに発生し、参った。しかし、最年長者、旅のリーダーとしては、個人的感情でメゲたり、不貞腐れたりするわけにはいかない。パーティーを、旅を、投げ出すわけにはいかないのだ。何とか取り繕いながら、以後のスケジュールをこなしていったのである。
メキシコ・キューバそのものは良かった。初めてのアメリカ大陸、中米、カリブ海。キューバという特異な国の魅力ある明と暗の双方を知ることができた。まばゆい陽光と社会主義ゆえ(?)の遍在する貧しさ。
入植したスペイン人が先住民を殺戮し尽くし、その後の革命の末に達成された「世界で一番人種差別が少ない国」。ゲバラとカストロと、あの時代の神話性。
↓ 停電は定期的。そのためか断水も日常的。首都ハバナでも給水車が走るが、これはトリニダーでの光景。
↓ 視察に訪れた国立芸術大学の教授であっても、給料が安過ぎて食っていけず、このように内職に励まざるをえない。見せているのはハバナ葉巻の貴重なラベルコレクション。当然いくつか買いました。
↓ 貧しかろうとも人々は歌い踊る。トリニダーの路上で。
↓ ビニャーレス渓谷。ここにあるインディヘナ洞窟にごく少数の先住民だけが隠れ住み、虐殺を逃れた。
↓ インディヘナ洞窟の出口。中の美しい鍾乳洞をボートで下った。
↓ 煙草の火を貸してあげて、路上の国際交流。トリニダーで。
メキシコのテオティワカンも、母が生前に訪れた地ということもあって、味わい深かった。人類学博物館も実に面白かった。
↓ テオティワカン 太陽のピラミッド。かつて私の母もあの上まで登った。
↓ 人類学博物館にあった巨大な絵(部分)。細部を見ると司修の絵にそっくり。というか、司修がパクったんだろうな~。
↓ 人類学博物館。中身はかなり面白いが、量があって見るのが大変。これは確か棺桶だったと思う。
↓ 人類学博物館 現代の工芸品。
しかし、マヤ文明の美術方面では、面白さは感じたものの、私自身の深部に降りてくるところもは少なかった。フリーダ・カーロやリベラなどの現代画家については多少感ずるところがあった。
↓ ディエゴ・リベラのアトリエ。素敵!
帰国後三月末をもって15年間勤めた東京学芸大学を予定通り早期退職したので、これが最後の大学教員としての旅となった。
いずれにしても、正直言って、その土地や文化そのものの素晴らしさとは対照的に、人間関係ゆえに後味の悪い旅となってしまったのは、今にしても残念である。
↓ キューバ、 NICHO公園渓谷で泳いだ。
↓ キューバ、 サリーナ島海水浴で泳いだ。ブルジョワ的振る舞いのうしろめたさ…。
⑫2011. 9.27~10.8 (12日間)
エストニア(タリン)~ロシア(サンクトペテルスブルグ)~フィンランド(ヘルシンキ・タンペレ)
同行:A氏(東京学芸大学教授:デザイン) S君(名前失念:東京学芸大大学院生/現職教員) O嬢(東京学芸大大学院生)
東北大震災、福島原発事故の余韻も冷めやらぬうちに、A氏に誘われるままに、彼の指導学生との旅に加わった。退職後、時間的余裕だけはあったのだ。
このバルト海沿岸三国の組み合わせは、地理的合理性のある面白い組み合わせである。それぞれに魅力はあるが、地域的になんとなく大きな魅力に欠けるというか、大義名分(?)のようなものがなく、個々にはちょっと行きにくい感じがしていた。しかしこの三つを効率的につなげることによって、こぢんまりとはしていたが、まとまりのある、案外収穫の多い、良い旅となった。
↓ 城壁で囲まれた古都タリンの旧市街。
↓ エストニア野外博物館で。
↓ タリン的夕暮れ。
↓ タリン的夜。
エルミタージュ美術館には確かに世界的名画もあるが、その系統のものはすでにさんざん他所で見尽くしている。その目から見れば、結局のところエルミタージュ美術館の壮大さは、しょせん田舎帝国主義の壮大さに過ぎないように思われる。
ダ・ヴィンチ作ということになっている(ロシア以外では弟子系統の手になるものとするのが一般的なようだが)「ブノワの聖母子」の前では、中国の旅行者が記念撮影の列をなしてやかましく、鑑賞どころではない。
↓ サンクトペテルブルク 夕景。
↓ いざエルミタージュへ。
↓ エルミタージュ 鏡の間
↓ 個人的にはこういったものの方に心惹かれましたけどね。七宝焼き。
↓ 一日がかりのエルミタージュを見終わって。
↓ その夜疲れ果てて入ったレストランでは、こんな色っぽい、諸国巡り風の楽しいショーをやっていた。別の日は人形劇も見た。
私にはそれらよりも、ロシア美術館のフォークアートやロシア正教の教会群、あるいはヘルシンキの国立現代美術館キアズマでの「アフリカ現代美術展」の方が印象に残っている。フィンランド、タンペレのムーミン博物館やその隣にあった鉱物博物館も案外良かった。
↓ サンクトペテルブルク 「血の上の教会」
↓ ヘルシンキ 国立現代美術館キアズマでの「アフリカ現代美術展」より
↓ ロシア美術館のフォークアート これはタンスか食器棚の扉(?)
↓ ロシア美術館のフォークアート 鉄製の燭台
↓ タンペレの鉱物博物館 石好き、化石好きにはたまりません。隣はムーミン博物館。
↓ フィンランドの、かつては全島が要塞だったというスオメンリナ島。
⑬2011. 11.11~14 (4日間)
台湾(台北・烏来)
同行:K T M嬢 S嬢(以上高校時代の同級生) 河村森(息子/会社員) *T嬢(元東京学芸大学の教え子/台北在住)
数年来、月に一度集まって飲んでいる、高校の同期会のメンバーによる親睦観光旅行。こうした純粋な観光旅行というのは初めだが、故宮博物院に行くというので参加してみた。
↓ 台湾的裏町
↓ 台湾的お茶の講習
この年3回目の海外旅行となる。さすがに年に3回は多すぎるとも思ったが、メンバーの一人が旅行会社を経営しているおかげで格安だったことも理由である。ただし時間のある身としては、2泊3日ではあまりに短すぎてもったいないので、またしても息子に声をかけ、二人で一日居残ることにした。ついでに学芸大時代の教え子T嬢(前年のギリシャ旅行にも同行)が故郷台湾に帰っているのを思い出し、連絡して現地で一杯飲むことにした。
↓ 台湾的屋台群
↓ T嬢を囲んで (この頃はTもKも太ってたなぁ~)
↓ 民族博物館などもあったが、実質、烏来での唯一の見どころの、ややしょぼい滝。
気楽な旅行であったが、故宮博物院と、夜ふけのうらぶれた屋台で息子と二人で飲んだこと以外は、あまり印象に残っていない。その故宮博物院も何年か前にリニュアールされて以来なのか、実に商売上手というか、展示のクオリティは高いように思った。漠然とさすがに名品が揃っているなと感心した記憶はあるが、撮影禁止だったせいか、個々の作品についてはあまり記憶がない。しかも見たかった北宋画あたりはほとんど展示されておらず、残念だった。
↓ 台北當代芸術館。「當潮 FASHIONISTA 時尚設計展」と「Beyond書法─徐永進當代書藝」という展覧会をやっていた。
↓ 「當潮 FASHIONISTA 時尚設計展」より
↓ 同上
↓ 「Beyond書法─徐永進當代書藝」より
↓ 最後は、どこかで見かけた何となくホッとする作品。
⑭2012.11.22~26 (4日間)
同行:K(高校山岳部の同期:会社員)
この年は特にどこにも行く予定はなかった。だが、例によって旅好きのKと話しているうちに、短期間で近場の東南アジアならということで、急きょカンボジアに行くことにした。むろんアンコールワットは昔から見たかったところだ。
↓ アンコールワット
↓ かつてアンコールワットは密林に飲み込まれようとしていた。
↓ アンコール・トム
↓ プレ・ループ遺跡
それとともに、インドシナ三国といえば避けて通れないのが、ベトナム戦争に伴う歴史と記憶である。
カンボジアにおけるベトナム戦争時およびそれ以降の内戦と、クメール・ルージュによる理想的原始共産主義国家の建設に伴い、70~300万人が虐殺されたジェノサイドの悪夢の記憶の検証というか、その後の確認ということもあった。それは私の二十代前半の事で、それ以前のベトナム戦争における少年の素朴なシンパシーとは相容れぬ、異様な出来事であった。
↓ 地雷によって障害を負った人たちによる民族音楽の演奏。
ごく短時間での旅行者に過ぎない者の目でしかないのだが、おそらく地雷によるものと思われる障害者をしばしば見かけたのは予想通りではあったが、行きかう人々の中に、吾々と同年代以上の人の割合が異様に少ないことに、ふと気づく。子供や若い人はいるが、年寄りは少ないのである。その理由に思い当たり、思わずゾッとした。
その悲劇を生みだしたのは、元の宗主国フランスで学んだ知的エリートの留学生たちである。つまりその悪夢をもたらした理念は、フランス=ヨーロッパから直接的に輸出されたというべきなのである。旅をして見るべきは、美しい風景や文化だけではあるまい。必ずしも見やすくはないにしても、民族性や歴史の負の側面もまた心して見るべきであろう。
↓ 考える私。
アンコールワット自体はむろん良かったが、具体的な目的物がそれだけだったせいで、時間を持て余す。しょーがねぇなぁといった感じで、予備知識もほとんどなく、たいして期待もせず行って見たトレンサップ湖の水上集落が実に面白かった。
↓ 水上集落。この時はは乾期で、水面が低い。
↓ ここに生活がある。
↓ こどもの生活と文化は、フルチンで泳ぐこと。
↓ 少女に導かれてマングローブ林クルーズ。
世界遺産云々とは異なるが、そうした人々の暮らしそのものも、また一つの文化である。生活の香りがプンプンする異文化体験を堪能した。
↓ マーケット。ここに生活がある。
以下、その3に続く(?)。
原稿は書き上げてあるのですが、画像の選択とかアップの手間とかで、ものすごくエネルギーを費やしクタクタです…。