艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

再録:塚田尊明「NHK・BSグレートトラバース撮影隊に呼ばれるまで・そしてそれから」

 本は増える一方である。いや、一方であった。最近は購読量も減り、読書量も減ってきてはいるというものの、蔵書の総量は減っていない。微増を続けている。2万冊はないにしても、毎年の記録からして1万冊はある。機を見て人にあげたり、「これは君が読むべき本だ」などと、酔った勢いで押し付けたりするように心がけてはいるものの、しょせんは焼け石に水である。どこにどの本があるか覚えていられるのは1万冊までだという説を読んで、まったく同感である。

 断捨離という言葉も考え方も好きではないが、一理はあると思う(ただし一理にしかすぎない)。何にしても、多少は考えざるをえない。

 ともあれ少し蔵書を減らそう=処分しようと決めて、いよいよ年内にある古本屋に持っていくことにして、段ボール箱に詰め始めた。詰め始めて気が付いたというか、思い出したのだが、数年前に一度処分を決意してまとめはじめ、中断した段ボール箱が、数箱そのままになっていたのだ。書棚に入りきらなくなった山岳書、山岳雑誌。

 かつて記録の無い、あるいは記録の少ないルートを登ることを目標として山に登り続けていた頃、当時所属していた山岳会とは別に、日本山書の会というマイナーな趣味の研究団体に所属したこともあり、資料収集・研究の一環として、古い山岳書や雑誌・会報などを営々として集めていた。とても読み切れない。本は必ずしも読まなくともかまわない、しかしそれを持っているということが大事なのだ、という面もある。しかしそれも自分が現役の山登りをしていればこそである。今のように記録性云々とは無縁の尾根歩きを細々とするだけになってみれば、そうした資料類の多くはもはや自分には必要のないものだと気づかざるをえない。そうした情熱はなくなったのである。

 

 私の蔵書は専門の美術関係を第一として、山岳、文学、民俗学、ノンフィクション等々と、比較的多岐にわたる。私は本は読むべきものと思っているから、初版本や豪華本、限定版といったことには基本的には執着しない。文庫本で読めれば十分である。しかし文庫本はごく一部のもの以外は金にならない。いや、私の持っている本全般がそうだ。ある程度高く売れそうな山の本は、とっくに売り払っている。

 自分でヤフオクにでもコツコツと出品すれば、うまくすればそこそこの金にはなるだろう。しかしその手間暇を考えれば、そんなことにエネルギーを使いたくない。集めるのに費やした金額を考えれば多少の冷や汗も出るが、処分と考えれば二束三文で充分である。それらを所有していた年月だけで、充分楽しんだ、元はとったのだから。

 

 そんなことを考えていたある日、例の立川会の忘年会で現役のクライマー塚田さん(本ブログの「レジェンドたちと登った西上州・鍬柄山 2018.11.3」ではTさんとしている)と話していたら、山の本が好きだ、欲しいと言われる。山屋でも山の本を読まない人は多いが、塚田さんは別格で、異常に反応が良い。私が死蔵するより、この人のもとにあった方が本が生きる。これが縁だと、さっそく貰ってもらうことにした。

 忘年会からしばらくたって、その時の話の流れから元岳人編集部の山本さん、俳句をよくされる元山岳救助隊の金さん、指揮者のT島さん、山渓編集部を退職されたばかりの山書収集家でもあるKさんらが拙宅に来られ、本の話を中心とした清談のひと時をすごした。

 当日出席予定だった肝心の塚田さんは前日から都岳連の山岳救助隊のお勤めが入っており、来られなかったのだが、二日後にアルバイトでガイドをされている山岳ツアー会社のAさんと一緒にやって来られた。その夜はツアーの下見に両神山に行かなければならないとかで、運転役の塚田さんは飲めなかったが、Aさんと私は楽しく飲みつつ、山の話、本の話その他で楽しい時を過ごした。

 とりあえず段ボール箱9箱分の山書を引き取っていただいて、何やら肩の荷が少し軽くなったような気がしたものである。

 

 年が明けて、一通の封書が届いた。御礼の一筆と共に数枚のコピーが入っていた。それが以下に紹介する彼のエッセイである。一読、面白いと思った。決してプロの物書きの書く文章ではない。天然自然の純朴素朴な、例えれば泥のついたままの自然薯の味わいである。最近しばしばライター志望の若者と知り合うことがあるのだが、そうした職業としての、商品としての文章とは違った滋味に久しぶりに接したような気がした。

 内容的にも面白い。例えば(私自身は興味がないが)、大変人気のある「NHK・BS グレートトラバース」という番組の知られざる側面に期せずして光を当てている。何であれ、裏方話は面白いのだ。

 彼がクライマーとして山屋としてこれからどこへ向かうのか、私にはまだよくわからないのだが、これを私一人で読むのはもったいないと思った。

 その一文を発表したグループ山想というのは、たまにネット上で見かけたことはあるが、「山岳愛好者を横につないだグループ」で、『G山想』という機関紙・文集を出しているらしいが、それ以外のことはよく知らない。いずれにしてもこの一文を紙媒体=機関紙で読んだ人は少ないだろう。せめて私のブログに取り上げて、あらためて少しでも世間に知らしめたいと思いついたのである。

 本人に了解を求めて電話してみると、意外な展開に少しとまどわれたようであるが、すでに発表済みのものである。問題はないはずだ。そのまま再録させてもらえることになった。縦書きが横書きになるのが少し残念であるが、まあ仕方がない。

  

   ↓ 塚田さんから送られてきたコピー

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   ↓ 『G山想』の表紙のコピー

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 それにしても、絵描きのブログにしては絵の記事が少ないと言われる。確かにその通りである。絵は本職本業であるがゆえに難しいのだ。

 それはそれとして、たまにはこうして私以外の人の文章を載せるのも面白いではないかと思うのだが、いかがだろう。少なくとも、私は面白いのである。

 以上、前書きであり、以下本文。

 

 

塚田尊明

NHK BSグレートトラバース撮影隊に呼ばれるまで そしてそれから」

(初出『G山想』2018年通巻第11号 2018年6月10日 グループ山想)

 

 山が好きになったのは中学生のときでした。科学クラブという自然科学を学ぶクラブに入ったことがきっかけです。恥ずかしい話ですが、勘違いでこのクラブに入部したのです。薬品などを扱う実験に興味があったわけですが、化学と科学の文字の意味がわかっていませんでした。入部してすぐ活動内容が違うことに気がつきましたが、自然も好きだったのでそのまま所属することにしました。

 この科学クラブで月に一回、野山に出かけました。運動の苦手な自分でしたが、山は歩いた分だけ、登った分だけ、高いところへ行くことができると感じました。登山は自分に向いていて、そして楽しいと思いました。

 

 高校では迷わず登山部に入りました。個性的な顧問の先生のおかげでますます登山が好きになりました。先生の指示で500円くらいの幕営代をケチり、指定キャンプ地以外でテントを張っているところをレンジャーに見つかってしまいました。先生はレンジジャーに謝り、反省している振りがとてもうまかったのを覚えています。先生は団体装備を何一つ持ちませんでした。それなのに合宿当日は誰よりも大きなザックで現れました。ザックの中身三分の二がお酒でした。「お前ら誰にも言うなよ」と言い、高校生の自分達にもお酒をわけてくれました。このときの秘密の共有はものすごい絆となり、高校在学中は誰にも言いませんでした。その先生もずっと前に定年退職をされました。今となれば時効の話です。

 

 柄にもなく大学へ進みました。登山部か山岳部へ入りたかったのですが、その二つのクラブが無く、山関係としてはワンダーフォーゲル部だけがありました。ワンダーフォーゲル部、ワンゲル、初めて聞く言葉でした。選択肢もないので、この謎のワンゲル部に入部することにしました。しかし今となれば青春の思い出がいっぱい詰まったクラブ活動になりました。ワンゲル部で教えてもらったことは登山ではなく、お酒を飲んで人に迷惑をかけることでした。親の苦労も知らず入れてもらった大学で勉強はしませんでした。大学は自然豊かな田んぼの真ん中にありました。おきまりのあぜ道を毎日走り、タイムを縮めることが楽しみでした。また6階建の校舎の屋上からロープを垂らし、プルージックで登り、懸垂下降をしていました。当然教授に怒られました。

 ボッカ駅伝や登山レースにも出場しました。大会で上位の成績を収めることができました。勉強では結果を出せませんでしたが、好きなことでは結果を出すことができました。そして国体の補欠選手に選ばれました。国体で知り合った方にクライミングを教えてもらいました。その方に「塚田君はどんな登山をしたいのか」と聞かれました。

 自分は長谷川恒夫さんに憧れていたので、冬壁を単独で登りたいと答えました。そしたら「日本登攀クラブに山野井泰史さんという人がいるから、集会を見学させてもらったら」と言われました。日本登攀クラブがどんなクラブなのか、山野井泰史さんがどんな人なのかも知らずに集会へ行くことになりました。

 

 当時の日本登攀クラブの集会は、御茶ノ水駅近くにあった談話室滝沢で行っていました。コーヒー1杯が1000円ぐらいしたと思います。そこに来ている客はみなスーツ姿で、なにか重要な商談でも行っているかのように見えました。そんな中に、普段着やジャージ姿でいる集団がありました。それが日本登攀クラブの人たちでした。

 山野井さんも来ていました。富士山の強力の仕事から帰ってきたばかりと言っていました。ある先輩から、「お前は長男か」と聞かれました。自分は、はいそうですと答えました。その先輩は「じゃあ殺せねぇなあ」と笑いながら言っていました。なんだかとんでもない山岳会に来てしまったような気がしました。しかし他の山岳会を見学したところで、山岳会というものがよくわからないような気がしたので、日本登攀クラブに入会することにしました。

 日本登攀クラブの先輩たちは強かったですが、自分は素質も無く、大した登山もできないまま、卒業後の進路を決めなければならない時期が来ました。普通の学生は就職をしますが、日本登攀クラブの先輩は、「就職と結婚は人生の墓場だ、親の脛をかじってでも山をやり続けろ。」、「30歳までは遊べ」とも言っていました。とてもまともな考え方では無いとそのときは思ってしまい、自分も普通の学生と同様に就職を選んでしまいました。就職と言っても高校の教師になりました。自分は中学、高校時代の素敵な先生たちに憧れ、自分も教員になりたいとずっと思っていました。

 

 なんとかその願いが実現し、私立の工業高校の教員になることができました。しかし理想と現実と学校方針の大きな変革などと、さまざまなことがあり、11年間勤めた学校を辞めることにしました。このとき自分は結婚もして子どももいました。また、ずっと感じていたことは、やっぱり山をやりたいという思いでした。教員時代の休みは週に1日。長い休みなんかはとれませんでした。一緒に着任した同期も時期はバラバラでしたが、辞めて行きました。

 しかし彼らは次の仕事や学校を決めてから辞めて行きました。自分はというと何も決めずに辞めてしまいました。独立して個人事業主として何かやりたいと漠然とですが思っていたからです。学校を辞める直前に車いす整備士の資格を取りました。学校活動の取り組みで、車いす修理のボランティアを着任以来ずっとやってきました。我流で車いすの分解組み立てをしていたので、記念と腕試しにと思い車いす整備士の資格を受けに行ったところ、受かってしまいました。

 この車いすで食べて行けたらと思いましたが、現実はそんなに甘いものではありません。失業保険をもらいながら、ハローワークにたまに行きますが、本気で仕事を探すわけでもありませんでした。失業中、天気の良い日に釣りに行き、数匹のハゼを釣っては家に持ち帰り、大漁だぞと子どもにくだらない冗談を言っていました。何の進展も無い無駄な日々を過ごしていました。

 

 失業保険も切れること、以前から親交のあった山の先輩、堤信夫さんからしばらく仕事を手伝って欲しいと言われました。それから1年ぐらい堤さんに世話になることになりました。仕事内容は住宅の塗装や外壁工事などをしました。堤さんはテレビの裏方の仕事も紹介してくれました。撮影機材を山中で運ぶ歩荷という仕事でした。

 初めてテレビの仕事をしました。NHKのBSで放送されている日本百名山という番組でした。そのとき知り合ったテレビのディレクターの方が後の「日本百名山一筆書きグレートトラバース」を手がけるディレクターでした。そのディレクターと堤さんは知り合いで、以前から山番組を一緒に作ってきたそうです。

 堤さんとの仕事が一段落した自分は派遣会社のアルバイトをするようになりました。そんな中、あのディレクターから電話がかかってきました。明後日から2週間ぐらい歩荷の仕事をして欲しいとのことでした。急なことでしたが仕事をいただけるので、手伝えますと即答しました。

 その仕事こそ、日本百名山を連続踏破する挑戦を追ったドキュメンタリー番組のグレートトラバースでした。グレートトラバースは長期に渡っての挑戦です。自分が関わったのはわずかな期間となります。現場のスタッフ構成はディレクター、アシスタントディレクター、カメラマン3人、車両ドライバー、あと歩荷がそのときの撮影内容によって数人でした。この番組はドキュメンタリー番組なので、その百名山の挑戦者と打ち合わせをしたり、協力をしたりということはしていません。

 挑戦者から行動などの最低限の情報だけを聞き、仲間にならないよう距離を置いて撮影をしました。挑戦者の出発時間や行動予定が急に変わることもよくあります。撮影スタッフはそれに合わせて行動します。また撮影スタッフも強力なメンバーをそろえていました。

 まずディレクター自身が日本、世界で登山経験のあるクライマー、挑戦者に勝るとも劣らないアドベンチャーレーサーのカメラマン、日本トップクラスのクライマーでもあるカメラマン、山岳ドローンカメラマン、歩荷も日本を代表するアドベンチャーレーサー、世界で活躍するクライマー、その土地を熟知した地元の歩荷、エネルギーあふれる大学山岳部の学生歩荷などでした。

 スタッフ一人ひとりに求められている能力は、山中でたとえ一人になっても必ず無事に目的地に到着することでした。自分は南アルプスの南部、光岳の撮影から参加しました。当日呼ばれていた歩荷は3人でしたが、集合時間になっても自分ひとりしか集まっていませんでした。ディレクターとカメラマンの先発隊は挑戦者を追って先に出発しています。歩荷はテントや食糧、予備の撮影機材など、すぐに使わない物を運ぶので挑戦者やカメラマンと一緒に行く必要はありません。しかし、毎日が12時間行程近くあるので、早朝から出発しないと目的地に到着できません。

 ここで起きて欲しくないことが現実となってしまいました。一人の歩荷から来られないと連絡がきたのです。もう一人の歩荷のことも待ちきれません。自分は三人で運ぶ予定だった荷物を二つに分けて、それを背負い出発することにしました。36~37キロと言ったところでしょうか。もう一人の歩荷は2時間遅れぐらいで出発し、無事合流することができました。

 この光岳から出発した撮影は、北岳を越えて広河原までが一つの区切りでした。この間、様々なことがありました。時期は残雪の南アルプス。夏道が出ているところもあれば、雪でまったく道がないところもありました。挑戦者は、アドベンチャーレースで培った経験と勘、そしてGPSを使い縦横無尽に山を駆け回ります。それを追って行く撮影スタッフは大変でした。歩荷以外のスタッフはわりと軽装ですが、歩荷は大荷物を背負っているので道も選ばなくてはなりません。挑戦者やカメラマンは夏道でもない岩稜を駆け抜けていきます。しかし歩荷はそのようにはいかず、雪で隠された夏道と思うところや、とにかく進めそうなところを行きました。ときには滑落したら200~300メートル落ちてしまうようところもありました。

 薮を漕ぎ、スタッフみんながバラバラになるなど、とても過酷でした。配給された行動食も歩荷には少なすぎてシャリバテになりました。飯は朝夕ともにアルファ米とラーメンでした。まだ山小屋は営業していないところがほとんどで、避難小屋を繋げて行く毎日でした。広河原から一度町に降りたスタッフたちはビジネスホテルで1泊し、数日間のたまった垢を落としました。

 そして翌日、食糧の買出をして、すぐまた広河原に戻りました。挑戦者はというと広河原にある避難小屋で休養をとっており、翌日は鳳凰三山に登ります。自分だけが広河原でテントキーパーとなり待機となりました。自分のことを、通行許可を得たディレクターが車でピックアップの予定になっていましたが、大雨が降り夜叉人峠から広河原へむかう林道が通行止めになってしまいました。自分はもう1日広河原に1人でいることになりました。翌日も林道は開通しなく、北沢峠側から山小屋の人に迎えにきてもらいました。その後は中央アルプスへ移動、そこでもさまざまなできごとがありました。そして上高地へとたどり着き、自分の歩荷の仕事が終わりました。

 このグレートトラバースはとても人気の番組となりました。そしてグレートトラバース2の続編も始まり、また歩荷として呼ばれました。このときの撮影も前回同様厳しいものでした。季節は晩秋で、一晩で山が真白くなり3日ほど停滞したときもありました。また、連日のハードな行程に集中力も無くなり、道を間違えてしまいました。気が付いた時にはもう戻っても合流できない状態で、自分の安全を考え下山したことがありました。

 他のスタッフに装備などを届けられず不便な思いをさせてしまいました。あるスタッフからは、「塚田が無事じゃなければ番組が終わってしまう判断は正しかった。」と言われました。反省をしなくてはなりません。しかし、とてもよい経験になりました。

 その後、山関係のテレビの仕事を毎年いただくようになりました。映画の仕事などもありました。角川映画のエヴェレスト神々の頂にも参加をさせていただきました。

 

 日常の仕事は日本登攀クラブの先輩の紹介で清掃業のアルバイトを始めました。フジテレビのガラス清掃などもしました。そんなある日、堤さんから木を伐採する仕事の誘いがきました。その現場には林業や造園業の職人たちも集まりました。

 その中に今現在自分が世話になっている池田功さんがいました。あの衝立岩の雲稜ルートをフリーで登った人です。池田さんは雑誌PEAKSを持ってきていました。南博人さんと対談をしたとのことでした。そのPEAKSに、南さんと池田さんが一ノ倉沢の岩壁群をバックに撮った写真が載っていました。その撮影のときに南さんは、「最近衝立登る人いないのだね」と言っていたそうです。撮影日に誰も衝立岩に取りついていなかったのでそう言われたのかもしれません。確かに衝立岩を登る人は少なくなっていると思います。実は、自分は南さんと池田さんが一ノ倉沢に来る1週間前に衝立岩を登っていました。しかも雲稜ルートでした。登っているところを南さんにも見ていただきたかったです。

 堤さんに呼ばれた伐採の仕事のあとに、自分は池田さんと連絡を取り、造園業の手伝いをさせていただくことになります。その造園の仕事で、長谷川恒夫さんの奥さんの昌美さんが現在所有している八ヶ岳の太陽館へ、庭の手入れにも行きました。

 その他自分の仕事としては、フィールド&マウンテンというツアー会社のガイドとして仕事もするようになり、先に出ていた車いす話ですが、日本福祉用具評価センターから、車いす整備士の講師として呼ばれるようになりました。

 

 振り返ると要所、要所で起きた出来事が繋がって行き、今の現在があります。

 20年前に日本登攀クラブの先輩が言っていた「30歳まで遊べ」もまんざら間違えではないように今は思えます。逆に今は30歳過ぎても遊べと言いたいです。そのとき、そのとき一生懸命やれば何とかなるようですし、よい方向へ行くと言うことがわかりました。

 大学で勉強したことはあまり役に立ってはいませんが、いや正確に言うと大学で学んだことをうまく活かせませんでしたが、大学に行ったからこそ、運命的な山の先輩たちに出会えました。

 自分が好きになった山を通じて、さまざまな形でこれからも社会貢献ができたらよいと思います。

そういえば先日、あのディレクターからグレートトラバース3の誘いが来ました。

今年も挑戦の年が始まります。

 

 

追記

 塚田さん、整理すれば貰っていただきたい本はまだ残っています。またよろしくお願いします。そして今度は山と本の話をしながら、じっくり飲みましょう。