艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

『メッセージのゆらぎ』と体験的「博士課程・博士論文」のこと ―その2 博士課程大学院生生活から論文執筆へ(改訂版)

*4月28日にアップした以下の記事において、その後東京藝術大学附属図書館のHPから「東京芸術大学美術博士論文」(http://www.lib.geidai.ac.jp/APHD/ARTPHD.html)のサイトを確認したところ、いくつかの年度の間違い等を発見したので修正した。また前稿では人物名はすべて仮名としたが、上記サイト等においてすべて公開されていることもあり、一部をのぞいて実名表記に変えた。(2019.5.1)

 

 1983年、28歳でまたしても学生を継続することになったわけだが、一応女房持ちとなったからには、やはり生活とか収入を得るということが、それまで以上に重い現実となってくる。それまでのように、「生活なんぞ召使にやらせておけ」などと非現実的なことは言っておれない。

 女房も結婚と引き換えに(?)私から引き継いだ割の良いバイト(幼稚園での絵画教室)を週一日やるほかは、自分の制作(当時は七宝焼き、その後金属造形をへて今は陶芸)以外は、どんなに貧乏でも仕事を増やそうとはしない。したがって私としては、いくつかのアルバイトを掛け持ちして少しずつ稼ぐしかないのである。

 

 話は前後するが、27歳で結婚した時、埼玉県入間市の元米軍ハウスに引っ越した。すべて板の間で比較的広く、8畳ほどのアトリエスペースも確保できた。古いボロ屋ではあったが、だいぶ手を入れ、それなりに気に入っていたのだが、数カ月もしないうちに突然実家の父が家を買ってやると言い出した。実家の農地の一部がたまたま新しい水道局の建設用地として買い上げられたのである。将来を考えてみると、代替の農地を入手するよりも、学生結婚後も喜んでボロ屋に住んでいる息子夫婦の将来を危ぶんで、援助の手を差しのべてくれたということなのだろう。大正生まれの農家の長男だった父は、一切私には相談や説明などはしなかったが。

 西所沢の中古の小さな一戸建てを購入し、転居。以後、家賃不要となり、おおいに助かった。その後も比較的少ない収入、アルバイト量で生活できたのは、そのおかげである。

 

 授業料の免除申請をしたかどうか、その結果がどうだったか、覚えていない。ひょっとしたら半額ぐらい免除だったかもしれない。

 奨学金の方は、生まれて初めて申請をしてみたら、初年度前期は見事に落とされた。当然のようにもらえると思っていたのだが、結婚している=扶養家族(女房)がいるという事実だけではもらえないのだ。「博士課程の人は皆さん結婚してますよ」だと。

 これをきっかけに「書類(=申請理由)」における「作文技術」の重要性を知ったのであった。

 ともあれ、後期からようやくもらえるようになった、確か当時月額で8万円の奨学金、それがわが家の最大の収入源だった。というか、その額を基準にして、あとは足りない分だけをあちこちで少しずつ稼いでくるというやり方だった。(その大いにお世話になった奨学金2年と半年分、トータル240万円は、無利子ではあったが、その後18年だったかにわたって、かなり苦しい思いをしながら完済した。)

 

 大学生活も8年目ともなると、さすがに勉強(および制作)することの大切さ(?)とそれを日々継続することの重要性を知るようになり、かなりまじめに大学アトリエに行くようになった。

 博士課程の学生となってそれまでと変わったのは、より広いアトリエが使えるようになったことと、そのアトリエが夜8時まで使えるようになったことである。今はだいぶ様子が違うようで、また当時でも大学によって違ったようだが、私の頃の芸大油画は学部、修士、研究生のいずれもアトリエが使えるのは夕方5時まで。5時になると助手がアトリエの鍵を閉めに回ってきた。やはり博士課程は別格なのである。

 振り返ってみれば、学部の頃、私が大学に行くのはいつも昼過ぎだった。三年間のハードな浪人生活の後遺症があったのだろう。

 いわゆる学科の授業は午前中だけなので、当然ながら出席を取る授業は、単位が取れない。必修でなおかつ出席をとる語学(私は英語のみ)と保健体育(当時は必修だった)だけは2年がかりでようやく取ったが、あとは試験またはレポート提出だけで済む授業を、4年間かけて必要最小限しか取らなかった(取れなかった)。教職科目はすべて出席を取る。それが、教員免許を取れなかった最大の理由である。

 午後は実技だが、出席はとらない。学部3年からは、課題もないので、制作内容は自由。先生もこちらから言わない限り、まず教えには来ない。大学に行くも行かないも自由。行けば行ったで、手ぐすね引いて待ちかまえていた悪友たちに拉致されて雀荘へ。

 基本的にひたすら「自分で制作」なのである。修士課程、研究生でも、学科こそないが(申請はしたが事実上放棄していたので)、アルバイトの割合が増えた分、ほぼ同様のパターン。

 したがって博士課程になって、アルバイトのある日でもバイトを終えて夕方大学に行き、大急ぎで学食で飯をかきこんで、それから2時間程度でも制作ができるというのは、実にありがたかった。

 アルバイトのない日はゆっくり昼過ぎに行く。当時はまだ週休二日制は導入されておらず、月曜から土曜までこのパターン。一般学生の夏休み期間でも、藝術祭(大学祭)の日でも、アトリエで制作ができた。真夏でも天井でけだるく回転する扇風機以外に一切冷房のないアトリエは気が遠くなりそうに暑い。その中でショートパンツ一枚で(Cさんがいるときは仕方なくTシャツを着る)汗だくで大作を描き続ける。終われば汗を流すシャワーもなく、汗まみれで再びの空腹を抱えて女房の待つ自宅に帰る。充実といえば確かに充実した学生生活だったと言えるかもしれない。

 そんな日々を送りながら、制作するさいの画家としての身体性といったものを、ようやく感得し始めたような気がする。

 

  そんな生活ではあったが、やはりそれなりに余裕も出てきたのだろう。入間市のとある小さな山岳会に入会し、学部2年生の頃以来の本格的な沢登りや冬山を再開し、楽しむこともあった。

 

   ↓ 1984.9.4~5 奥秩父入川本流~真ノ沢下部。今は亡き旧友Mとの釣行。初めてのテンカラ釣りを楽しんだが、釣りには深入りはしなかった。

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  ↓ 1984.12.31~1985.1.3 豊山の会、冬山合宿 八ヶ岳縦走(天狗岳権現岳

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 博士課程在学中の三年間で、1983年博士1年の5月に銀座スルガ台画廊で初めての個展。同年10月に新宿の紀伊國屋画廊で二度目の個展。1985年には再び銀座スルガ台画廊で、翌1986年には初めて故郷の山口県のパレット画廊で個展。ほかに、比較的規模の大きいグループ展が4回。その他いくつかのコンクールにも応募したが、すべて落選。

 

  ↓ (画廊での)第二回個展 紀伊國屋画廊個展案内状 1983.11.17~22 二つ折りの表側 *一回目個展のスルガ台画廊の案内状には図版がないので、こちらを掲載 

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  ↓ 紀伊國屋画廊会場展示風景 後ろは2点ともF300号

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  ↓ 紀伊國屋画廊個展案内状 二つ折りの内側 左に坂崎乙郎の推薦文

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  ↓ 秋元雄二との二人展「黄金調和線上の蕩児たち-新たな象徴へ」 1984.6.18~24  田村画廊

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 そのように画家として何とか一歩を踏み出し始めていた1985年博士課程3年目の8月、女房の妊娠が判明した。結婚後女房は赤とグリーンの250ccのバイクを乗り回していた。何を思ったか、急に一週間だか十日だかの予定で、東北一周の単独ツーリングに出かけ、その途中での体調不良からもしや?と思いあたり、急きょ帰宅後訪れた産婦人科で「おめでとうございます」と言われたのだ。

 

  ↓ まあ一頃はこんなだったんです。

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 その少し前から話し合って避妊しなくなっていたので、予期しないではなかったが、予想以上に早かった。さすがにそれまでの人生では経験したことのない重みを感じた。(それはそれとして、私の息子は妊娠初期の大事な時期に、母胎の中で何日もバイクに揺られていたのだ…。すまんことである。)

 

 学生生活も残り少なくなり、来年の出産をひかえ、これからの人生にぼんやりと思いをめぐらせていた12月、例によって、T先生から呼び出し。心の準備は一切なし。

「君、博士論文を書きなさい」

 「はぁ~????」それまでで最大の「はぁ~????」である。残すところ約1カ月で、一月に「博士後期課程研究発表展」をやって、それで長かりし学生生活も終わるはず。

 ちなみに博士課程の場合、論文を書いて合格した学位取得者以外はすべて「中退」、最終学歴は「大学院修士課程修了」なのである。しかしまあそれでは履歴書を書く上でも、経歴としても、あんまりだということで「博士課程 単位取得満期退学」と記載してよいという慣例?不文律?となったようである。

 そもそも入学試験の際「博士論文を書こうなどと言い出さないでくれよ」とか言っていたではないか。むろん私にはその気はみじんもないし、書けるとも思えない。当然、準備もしていない。とにもかくにも、あと一か月で何ができるというのだろうか。

 「とりあえず論文要旨を提出しなさい」「論文ヨーシ?それ何ですか?」「要旨だよ。レジュメだよ」「レジュメ?それ何ですか?」「論文を要約した結論を書くんだよ!!

 書いてもいない論文を要約する、結論から書く、その結論からテーマを考えろ、ということらしい。ほぼ驚天動地である。T先生の眼光はいつにもまして厳しい。しかしこちらも負けていられない。私にも生活が、家庭があり、おまけに来年には子供が生まれるのである。個展もグループ展も予定している。論文もクソもないでしょうが。

 そんな私の気合を察したのか、先生の眼光はさらに険しさの度を加え、ほとんど不動明王のような殺気を感じた。

 かくて精一杯の抵抗にもかかわらず、結局、やはり今回も「流れ」(というか眼光に)に負けたのであった。

 とはいえ、最終的に書くと決めたのは私である。にもかかわらず、その時の自分自身の心理の推移は、今思ってもよく思い出せないのである。その後の経緯を含めたあまりのしんどさに、記憶することを身体が拒否したのであろうか—この現象はそれから1年間、何度も体験することになるのであるが…。

 

 この先生の突然の仰せは、単なる先生個人の思い付きではなく、その背後に油画教官(註)全体の方針変更、路線転換における合意があったと思われる。

 (註:国立大学は2010年から独立行政法人化し、以後国立大学の教官は「みなし公務員」とされ、「官」の言い方が廃されて以後「教員」と呼ばれるようになった。本稿で扱われる時代はそれ以前であるため、「教官」の言い方を使用する。)

 そして、私自身はあずかり知らない、油画教官全体の方針変更、路線転換の背景には、文部省からの相当な圧力が存在したと推測される。

 1977年に芸大に博士課程が設置されて、その年の1985年まで8年がたっている。設置後6年目の1983年に社会人経験、国際経験に富んだ年長の学生たちが自ら重い扉をこじ開け始めた。1984年に建築の奥山健二さんがようやく博美第1号(註)の学位取得者となった。

 (註:「博美第〇号」とは「美術研究科の博士の何人目」の省略形である。学位記にそのように記載されているが、わずらわしいので以後は略し、単に第〇号とのみ記す)

 翌1985年にバングラデシュからの国費留学生、油画のカジ・ギャスディンさんが「学位を取らないと国に帰れない」と驚異的な粘りを見せ、またT先生を含めた多方面からの支援を受けて、第2号を取得。翌1986年にはデザインの中嶋猛夫さんが第3号となった。

 ここまでが博士号取得の、言ってみれば前史というか、原始時代である。この1985年あたりで文部省の圧力が強まったと思われる。

 設置後8年目にして、学位取得者がようやく二人。9年目で三人目(音楽については知らないが)。いかにも効率が悪い。当然ながら博士課程設置には大きな国家予算が充てられている。研究費も多く出ているし、担当教官には手当も出ているはず。そうした莫大な経費に見合った成果=学位取得者数ではないということなのだ。怠慢と言われて当然である。当然ながら教官の努力も問われただろう。むろんほとんどの教官は努力などしていない。そもそも絵描きや芸術家に博士号など要らないという言説も、しばしば耳にした。それはそれで一理はある。ともあれ、経費、研究費、手当はもらっていても、芸術家の先生方は自由に発言するのである。

 

 1985年にカジ・ギャスディンさんが油画初の学位取得者となったことに刺激を受けたのか、油画の私の一学年上の有吉徹さんが手を挙げたことによって、次の時代が動き始めたらしい。油画の教官たちも、お上からの圧力もあり、どうやらこれはさすがに何とかしないマズいと思い始めたようだ。博士号取得における原始時代から弥生時代への移行といったところか。

 その有吉さんは、私と同じT先生の研究室。T先生はそうした動向にはまじめに取り組むタイプである。有吉さんは某有名小説家の甥であり、文章力もあり、実務的能力にも秀でた秀才。この二人が組んで(?)なるべく負担が少ないように、極力短く、タイトな論文を書くという実験を試み、それは日本人の油画専攻生としては初めての、第4号として結実した。

 それに気を良くしたのか、次の論文執筆者を出そうという機運が教官室内で生じたのであろう。それでなくとも文部省からの圧力は、もはや無視できないくらい強くなってきていることだし。

 その時点で、先の有吉さんと同時期に論文執筆に取り掛かったものの、完成できずさらに一年提出猶予願い(?)を出している三宅康朗さんと、私と同期の韓国の留学生陳順善さんの二人が論文執筆希望者としていたらしい。三宅さんは修士課程修了後、助手を3年やり、その後博士課程に入学した、ほとんど大学依存症ではないかと思わせられた(人のことは言えないが…)現代美術の人。陳さんは超まじめだが、外国人ゆえに日本文執筆能力にやや難がある。翻訳機能のあるパソコンや電子辞書のない時代だったのだ。無理もない。

 

 「そういえば先の有吉君を首尾よく指導しえたT先生のところには、幸いなことに来春修了予定の河村がいるではないか、いつも理屈っぽいことばかり言っているから、ひょっとしたら書けるのではないか。先の二人だけでは心もとない。絵も描いていることだし、一つあいつにもやらせてみよう」、てなことに話がなっていったのではないか。以上はすべて私の想像だが、当たらずとも遠からじといったところではないかと思う。

 先の有吉さんでコリゴリしたはずのT先生も、対文部省ほかの全体状況を鑑み、またカジ・ギャスディンさん、有吉さんと続いた論文指導を通じて知的教官魂(?)を刺激されたのか、論文指導の面白さに目覚めたのか、はたまた使命感に燃えたのか、再度続けてやる気になられたらしい。前回の「極力短く、タイトに」という戦略から一転して、今度は正反対の「(気のすむまで)長く書かせる(それを後で切り詰める)」「(なるべく哲学用語を使わないで)肉声で語らせる」という方針に転換されたようだ。博士号取得、弥生時代から古墳時代を志向、といったところ。

 しかしそれらの事情、諸情況はあくまで芸大教官サイドの事。私のあずかり知らぬところだ。ともあれ、私の意志とは関係なく、賽は投げられた。その賽はどこへ転がっていくのか、その時点では見当もつかなかった。

 

 年が明けた1月20日に実技審査があった。その記憶はほとんどない。しかし結果として、「博士論文提出猶予願い(?)」を提出し、博士論文を書くことが認められた。

 とにかく急いで「博士論文提出猶予願い(?)」といった感じの申請書を出さねばならなくなった。それに添付するというか、むしろこちらの方が重要な「要旨(?)」を書かなければならない。おそらくその「要旨(?)」の内容によって、実際に書かせるかどうか、教官全体として最終的に判断されるのだろう。

 弱り切っていた私にT先生がアドバイスしてくれたのが、要は、今自分が絵を描いているということに関する「エピソード」でも書いてみたら、ということだった。かなりお気楽なアドバイスのようにも思えるが、実は深いところで核心をついたアドバイスだったのだと、今ではわかる。ただし、その時の先生に本当にそのような深い意図があったのかどうか、いささか疑問ではあるが。

 1月20日の実技審査との前後関係は覚えていないのだが、提出まで一週間もあったのか、一か月あったのか。あれこれ考えている余裕はない。手持ちのカードはないのだ。開き直って、自分が絵を描きだしてからその時(30歳当時)までの事を思いつくままに書いてみた。その内容はほとんど覚えていない、と思って一応ファイルを探して見たら「エピソード 第一稿 1986」と手書きで題したB5、10ページのワープロ文書のコピーが出てきた。あちこち推敲訂正の書き込みだらけで、「第一稿」とあるから最終的に提出したものではないが、第一稿=原型なのだろう。いや~、書いた文章は何でもとっておくものだ!

 一つ不思議なのは、その当時私はまだワープロを持っておらず、にもかかわらずワープロ文書だということ。ひょっとしたら助手の誰かが、私の汚い手書き原稿をワープロで清書してくれたのかもしれない。いずれにしても、それは大した問題ではない。

 時間がなく、また元々書くべきテーマや、論文そのものに対する基本的な知識常識、そうした準備一切を持ち合わせていなかった大あわて状態だったからこそ、T先生の意図した「肉声」的なものがおのずと出たのだろう。人間追いつめられれば自然体になるものだ。結果的に博士論文の最終稿にも生かすことのできたいくつかの文言を含めて、ある程度読める内容になっていたのは意外だった。三年前の博士入試の時の小論文「絵画の正当性を巡って」とは大違いである。

 ともあれ、その「博士論文提出猶予願い(?)」は受理され、私は正式には来春博士課程を単位取得満期退学するが、一年後に博士論文を提出する権利を確保したということになった。それは言い換えれば、一年後(正確には十か月後ぐらい?)には何が何でも博士論文を提出しなければならなくなったということでもあった。

 

 さて、ここまで単に「論文(博士論文)」と書いてときたが、少し正確にいうと、実技系大学である東京藝術大学では「博士論文」は「作品篇」と「論攷篇」の二つがセットになったものである。確かに作品がダメなら博士もクソもない。といって、作品だけで博士というのも、世間的にはありえない。そのための折衷案が「論文=作品+論攷」となったのであろう(註)。したがって博士論文を書くことを認められた時点で、少なくとも作品については基本的に認められたものと考えても差し支えないだろう。

(註:上記「東京芸術大学美術博士論文」のサイトで確認してみたら、実技系の油画・日本画・彫刻・工芸等では論文+作品となっているが、デザインでは初期では論文のみだが途中から+(作品)となっている。理論系の芸術学・美術教育・美学・美術解剖学・保存科学等では論文のみである。)

 

 言うまでもないが、いわゆる理論系の芸術学を除いては、実技系の学部・修士課程では卒業・修了制作のみで、論文は課されない(建築あたりはどうか不明)。したがって実技系学生は、授業のレポート等を除けば、在学中には制度として論文を書く機会はない。

 大学教官は、自分の指導学生が博士論文を書くとなれば、当然その指導教官になる。指導教官だから論文指導をしなければならない。そしてその場合の論文とは、上記のとおり「作品+論攷」のことなのである。問題は果たしてどれだけの先生が「論攷=文章」を指導できるかということだ。もっと言えば、日本語の基本的な「てにをは」を正確に指導できるかどうかが、まず問われる。

 実際にはその先生が主指導教官として「論文指導」の全体の進行を主導する。同じ実技専攻の何人かの先生と、西洋美術史とか日本美術史とかの理論系の先生を交えた数名で指導を進行させるという形をとる。先生方の組み合わせは必ずしも固定的ではなく、ゲスト的メンバーの入れ替わりもあった。私の場合はそういう形をとった。

 本来、博士論文指導、博士論文審査においては、博士号をもった教官、もしくはそれと同等の力量を持っていると認定された教官(博士課程担当教官)が当たるという規定がある。博士課程でも修士課程でも、その課程を担当しうると認定されなければ指導・授業は担当できないのである。実際にはその認定の基準はゆるく、助教授、教授であればほぼ自動的に認定され、大学院も担当することが多いと思う。しかし、例えばかつて私の勤務していた東京学芸大学の一部の講座では以前はけっこう厳しい面があり、例えば採用後二年間は無条件で大学院の授業は担当できないという内規が存在し、私もその対象となった。(その後まもなく私のいた講座ではその内規はなくなったが。)

 芸大においても当初は指導メンバーの一人に必ず博士号を持つ先生がいなければならないというので、当時唯一の博士号を所持者であった保険管理センターの医学博士が必ず一員に加わっておられたようだ。医学博士?という気もするが、その先生は美術解剖学などの授業をもっておられたから、あながち美術と無縁ではない。ちなみに医学部の場合はほぼすべて医学博士号を持っているようなイメージがあるが、それは医者という職業上必要な「営業博士号だよ」と言われたことがある。実態はよく知らない。 

 私の時は、「博士号所持者もしくは博士と同等の力量」ということの解釈がゆるくなったのか、博士号を持っている先生は加わっておられなかったと思う。

 

 私は昔から本を読むのは好きで、人一倍、そして幅広く読んでいた自負はある。文章を書くのも、特に嫌いだと思ったことはない。しかし、文章の書き方などといったものを習ったことはない。美術に関する論文的な文章を書いたこともほとんどなかった。そんな機会も必要もなかった。仲間内や一人でほんの少し書いてみたことはあるが、それは自分自身ですら読むに耐えないといった態のものでしかなかった。美術に関する文章を書くのは難しいのだ。いや、それ以前に日本語の文章になっていないと思わざるをえなかったのである。それが当時の実力であった。

 

 いよいよ書くと決まって、まず最初にやったのは、『論文の書き方(?)』(すでに処分したので正確な書名は不明 講談社現代新書?)ほか何冊かの「論文の書き方」に関する本や、『術語集』(中村雄二郎 岩波新書)といったとりあえず役に立ちそうな本を買ったこと。それ自体かなり情けない話であるが、それで必要最低限の知識を身に付けた。

 合わせて『眼と精神』(メルロ・ポンティ みすず書房)や『物語の構造分析』(ロラン・バルト みすず書房)ほかの美術や哲学に関係のありそうな難しそうな本を何冊も買い込んだ。結局参考になり、影響も受けたのは『物語の構造分析』一冊だけ。あとはほとんど読まずじまいのまま、多くは処分してしまった。

 私は何かする際に、あるいは興味を持ったことに対しては、その参考文献や関連書を買い込む方ではあるが、それにしてもいかにも泥縄である。

 

 1986年3月、大学院博士後期課程を単位取得満期退学という形で終えた。中退だから卒業式(学位授与式)には出ない。31歳にして、予備校時代を入れれば13年間の学生生活をようやく終えたのである。

 とにかく第一回の論文指導ということで5月ごろだっただろうか、時期を指定された。とにもかくにも、それまでにまずは一回書ききってしまわなければいけない。論文執筆専念の日々がはじまった。以後のほぼ一年間、論文執筆に膨大なエネルギーを費やすことになった。

 

 そんな親の事情とは関係なく、4月25日、出産予定日の一週間前、入院予定日の早朝に女房は自宅で早期破水。その後、あれこれドタバタあって、結局日付の変わった深夜の緊急帝王切開とはなったが、何とか無事に息子が誕生した。

 

  ↓ 1986年4月26日 午前1時59分 体重3120g 抱いているのはヤクザではなく画家です。

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以下、その3に続く。