艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

『メッセージのゆらぎ』と体験的「博士課程・博士論文」のこと ―その3 論文執筆専念の日々

 そういえばここまで書いて思い出したが、博士課程を出るその前の年に、出てからの事を考えて、西所沢の自宅の二階を改増築して20畳ほどのアトリエを作ることに決めたのだった。だがしかし、それに要する300万円という資金はなかった。よって、親に「いずれ稼いで返すから、とりあえず金を出してくれ」という二度目の「一生のお願い」をした。

 三月頃に完成。壁面の一番高いところで3m少々。作品収蔵用の小ロフト付き。そこに立て籠って背水の陣という構えである。

 

 ちなみに最初の「一生のお願い」は、学部2年の時に一か月半ほどのヨーロッパ旅行に行った時。自分でもある程度アルバイトして金をためて、足りない分を借りる、もしくは出してもらうというつもりでいたのだが、実際には全く貯めることができず、75万円のほぼ全額を出してもらった。大変な額ではある。しかし、飛行機代を除けば一日1万円以下でイタリアを中心に7ヵ国を回ったのだから、決して贅沢な旅をしたわけではない。もちろん現地で見た、ソ連崩壊のはるか以前の東欧諸国からやってきた若者たちのハングリーな旅には、およびもつかなかったが。

 1ドル=200円少々という時代であったからそんな金額になったのだ。今だったらその半分で済む。そしてその初めてのヨーロッパ美術めぐりの旅は、以後の私の制作の確実なベースになったのだから、充分元は取ったと言える。

 その二回の「一生のお願い」は、後述する三回目の「一生のお願い」と共に、結局全く返すことのないままに、両親ともに逝ってしまったのである。申し訳なくも、ありがたいことであった。

 以上、少々余談である。

 

 これもまた余談というべきであろうが、3月には三回目の推薦で「第29回安井賞展」に初入選。何となく皮肉なというか、あだ花的な時期ではあったが。(その後も安井賞に関しては、何回かの推薦を受けたがすべて落選。落選を繰り返すうちに、推薦の内実や応募規定などに関して思うところがあり、ある時からは推薦されても辞退するようになった。)

 

 ↓ 「砦」 (M200号 1985年 自製キャンバスに樹脂テンペラ、油彩) 

 二つの✖型は金属板に油彩で彩色し仮縁に釘打ちしたもの。安井賞展に出品した時には規定上この✖型はとり外した。

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 話を戻す。1986年4月、論文執筆専念の日々が始まったわけだ。いや、そのはずだった。しかし現実的には、それまでのわが家で最大の収入源であった奨学金がなくなり、子供も生まれ、仕事量を増やさざるをえなかった。

 それまで週二日程度非常勤講師として勤めていた予備校で、その年から専任講師、油絵科主任となり、出勤日数が週四日となった。給料も増えたが責任も増えた。女房の方もしばらくして、出産前後しばらくの間代理を頼んでいた幼稚園の絵画教室に復帰したので、週に一日は全面的に子供のめんどうを見なければならない。翌年には個展も予定していたから、制作もしなければならない。つまり、予備校での仕事と子供の世話以外の時間での論文執筆専念の日々である。制作に費やせる時間はほとんどなかった。

その論文執筆にどれほどエネルギーと頭を使ったことか。

 

 前稿で記したように、苦しまぎれに書き上げた肉声的「エピソード 第一稿 1986」を仮の指針として、急きょ入手した『論文の書き方(?)』等によって泥縄的に身に付けた必要最低限の知識でもって、その内容をもう一度ていねいになぞることから始めた。

 

 「博士」という語には「新発見」や「新発明」といったイメージが付きまとう。それは自然科学の分野ではいまなおある程度の妥当性はあるだろうが、人文科学や芸術の領域でではどうだろう。近年東京藝大にも保存修復や新しい専攻の博士課程が設置され、多少情況は変わったようだが、少なくとも実技系の美術分野に「新発見」や「新発明」といったイメージはそぐわない。一つの作品を百人の人が見れば百通りの解釈がありうるのだ。いや、一人の見方の中にさえ複数の感じ方・とらえ方がありうる。自然科学系でいうところの検証可能性などといった概念とはなじみにくい。

 しかし、そこを逆に言えば、百人の作家にそれぞれ固有の見方・表現がありうるということは、百人の作家に百通りの「新しい固有の表現≒新発明」がありうるということにもなる。「新しい表現」とは「新発明」と(ほぼ)同等ではないか。そう考えることは、コペルニクス的な発想の転換ではないかと思い当たった。

 

 特に近代以降の、それぞれの画家の、それぞれの個性的な作品・作風について、それらがなぜ、どのようにして、描かれたのかと問い、その意味を解釈するということが、美術批評の主要部分を占めている。そうした美術批評は哲学的な観点からであれ、美術史的観点からであれ、ほとんどが第三者、つまり、美術評論家や美術史家、哲学者から為され、当の画家自身から発語されることは稀である。画家は制作する者であり、自身の作品について解説することはあっても、解釈はしないものとされているようだった。

 しかし、近代から現代、そして現在に至る過程の中で、はたしてそうした「制作・作品」と「解釈・評論」の関係が従来のままで良いのだろうかという苛立ち・もどかしさといったような感覚は、すでにわれわれ自身の中で、常態といってよいものである。

 実作者が自身で自分の制作と作品について語ること、それも「自分自身」という単一の観点からだけではなく、なにがしかの複数の客観的座標軸に位置づけつつ、自身と世界との距離と関係を測り、その意味を問い、さらにそこから新しい表現の可能性を探り導き出すというその過程を、記述し文章化し論理化することは、実は大きな意義を持つものであると思い当たった。

 

 李禹煥や宇佐見圭司、あるいはパウル・クレーなどにその先駆例を見出すことができる。しかし彼らの場合は、博士課程という枠組みが存在していなかった時代に、作家として自身を確立し、表現者として公認されて以降の営為であり、自身の表現世界と密接に結びついた行為であった。そうした行為を、今、課程博士の論文という枠組みの中で試みることは、無理のあることだろうか。

 否。無理はない。むしろ、作家が作品制作と並行してやるべき表現軸の一つとして意義あることであり、ある程度の経験を積んだ博士課程の段階においてこそ試みられるべき、望ましくも新しいコンテンツなのだと思い至った。それは、いわば「第一テーゼ」の発見であった。私がやろうとしていることには、意義があるのだ!

 むろんそうした意識は、30年以上経った今だからこそ確信的に言えることではあるが、その時点で、おぼろげにではあっても、自分が自分と自分の制作・作品について語り記述することの正当性を確信できたことは大きかった。それまでのぼんやりとした手の届かぬ「博士」「論文」といった神秘的秘境を踏破する、自信と覚悟のようなものが持てたのである。

 

 とはいえ、実際の執筆作業は苦闘の連続であった。

 自分自身の具体的な体験と作品をふまえて、その意味するところを論理的思考上のイメージに変換し、さらにそれにふさわしい言葉を選びあてはめ、文章化する。主語の要不要を確認し、「てにおは」を確認し、句読点のバランスを確認する。複文・重文のバランスに目をこらし、長すぎる場合にはいくつかに分解する。つまり読みやすくする。音読の有効性も知った。

 そうして書いた一行から次の一行へと連ねていきながら、それらどうしの前後の、そして全体の整合性を確認する。それらどうしの語るとことに矛盾があってはならない。齟齬をきたしてはならない。

 また、それらが自分自身の考えではあっても、独りよがりなものであってはならない。自身の個人的な体験をベースとする個人的な言葉、個人的な思想のイメージが、ある種の普遍性、もしくは普遍性への可能性を含んでいなければ、他者には通じない。ある事実性に基づく記述であれば、その根拠を示さなければならない。他者の言葉を引用するのであれば、その典拠を明示しなければいけない。引用文献からであれば、まずその文献の妥当性を確認しなければいけない。自分自身の言葉、自分がオリジナルに考え出したはずの思考が、実はそれ以前に影響を受けた他者、他の作家のものであるということは、しばしば起りうるものである。

 

 以上のような執筆上の技術を、模索の過程を通じて認識し、多少なりとも身につけたと言えるようになったのは、だいぶたってからのことである。当初はせいぜい前後の文章で矛盾がないかどうかを確認するぐらいが精一杯だった。自分の考えていること、イメージしていることを正確に言葉に置き換えるということは、実は難しいことなのである。「わかっているのにうまく言葉にならない」というのは、実は「わかっていない」ということなのだ。読み直せば読み直すほど、解は遠のき、自分が何を言いたかったのかすら曖昧になってくるという体験を繰り返す。

 そうした苦しまぎれの結果、「〇〇的」とか「△△性」といった、あいまいな責任逃れの字句が大量に発生する。その点を最初に厳しく指摘されたときには、なんだか少し頭がクリーンになったような気がした。生まれて初めて、文章を書くという勉強をしている気がした。それは意外にも、私にとって小さな喜びであった。

 途中でだったか、T先生に言われた「論文というよりも、素敵なエッセイを書くつもりでやるんだよ」のアドバイスは、目から鱗が落ちる思いだった。そのエッセイとは、日本的伝統に根差した「随筆・随想」という意味ではなく、「ある特定の主題について一貫した論理によって貫かれた試論・小論」ということである。目指すべきスタイルが見えてきたと思った。

 

 一行ずつ書く作業と並行して、全体の構成も考えなければいけない。初期の段階で章立てをする、目次を書いてみるという方法を知ったのは、何年も後のこと。この時はとにかく一章ごとというか、あることについてひと塊ずつ書き切ってみて、そこでようやくそれに一章としてのタイトルを考え、つけるというやり方だった。

 

 ともあれ第一稿として、何とか全体の主要部分は一応書き切ったように思う。しかし本当に書き切ったのか、とりあえず書けるところまで書いたところで、第一回目の論文指導の日が来たのか、正確には覚えていない。その第一稿のコピーは現存しないからである。最終的な学位取得後、しばらくは保存していたような気もするのだが、いつか処分してしまったのだろう。

 いずれにしても第一稿は原稿用紙に手書きである。当時ワープロは持っていない。むろんパソコンは存在していなかった。手書きゆえに、推敲、清書の労力は膨大なものとなった。自分でも意外だったが、しつこく推敲を重ね続けずにはおれない、それまで自分の知らなかった(研究者的)性格資質を掘り当ててしまったようだ。

 

 そうして迎えた第一回目の論文指導の日。それがいつだったか不明。

 その前にT先生単独に原稿を見せて、とりあえずの指導を受けていたような気もするが、これもまた定かではない。

 私は40代半ばころからはだいたい日記をつけているが、それまでは何度か書きはじめたことはあっても長続きせず、せいぜいたまにあちこちに簡単なメモをしておくぐらいのものだった。今回、わずかなそれらを付け合わせながら確認してこの一文を書いているのだが、あちこちで思わぬ間違いや記憶違いを発見する。前述したように、あまりにしんどい情況が続くと、自己防衛本能が発動して、心身がそれを記憶することを拒んだのではないかと思う。しんどかったという全体の記憶はあるのだが、その一つ一つの具体性は飛んでしまったようだ。

 とにかく五月以降、夏前だった。T先生を中心として、油画の先生が二三名と西洋美術史のS先生、東洋美術史のY先生の計五名ほど。

 そういえばここで思い出したが、手元に保存してある博士後期の「成績(単位修得)証明書」には「創作総合研究」とか「造形計画特別演習」とか「研究領域特別研究指導」(この授業のみ単位数は/となっており、成績のみ記載されている)といった授業名が記載されている。いずれも特に「授業」という形で受講したものではない。ただ日々制作していただけで、それ以外は何一つしなかったのだから。そこに単位数としては必要ないのだが、「東洋美術史特別講義」のゴム印が押され、優の成績がついている。

 博士課程に進学した時に、T先生の指示で、東洋美術史のY先生に副指導教官をお願いしたのかもしれないが、よく覚えていない。というか、理解していなかったのだろう。この件に限らず、この頃は本当に制度的、事務的なことには無知無関心だったのだ。

 一応のあいさつに行ったら「気が向いたら、たまには授業(ゼミ?)でも一度のぞきに来てみてください」と言われた。失礼にも結局一度も行かなかったにもかかわらず、成績表には優を付けていただいていたのである。まあインチキと言えばインチキなのだが、ありがたいことであった。

 余談だが、このY先生はだいぶ前にアンデスで遭難死された有名な山岳画家の山川勇一郎画伯の弟である。たまたま私はそのことを知っており、その話をしたら驚かれ、喜ばれた。それも一つの奇縁である。

 いずれにしてもこのY先生と西洋美術史のS先生には、それまでほとんど一面識もなかったにもかかわらず、論文指導の実際面において、本当にお世話になった。

 ちなみにその「成績(単位修得)証明書」は、後にどこかの大学教官公募のために必要で取ったものの、結局そこに応募しないまま、手元に残ったものだと思う。まあ、時効だろうが。

 

 油画の先生はすべてではなかったかもしれないが、ある程度以上、その回ごとに替わったのは、今から思えば来るべき論文審査会へ向けての布石の意味合いもあったのかもしれない。

 事前に全員分、あちこち修正だらけの手書き原稿をコピーして配布してある。全体の指導、意見交換の具体的なことは、やはりほとんど覚えていない。実はあるが、かなり厳しい内容だったことだけは確かだ。その厳しさというのは、内容そのものにかかわる問題指摘と、それを受けての推敲作文の質的学術的厳しさもさることながら、実はそれまでの体験で知っていた、書き直す際の物理的労力のハードさをも意味していた。

 一通り終わって、さて次回はと、日程が決められる。私の都合は一切考慮されない。そういうものなのだろう。かくて、ここにきて覚悟を決めざるをえなかった。ワープロを買うしかない。書き直す際の物理的労力を思えば、本当にそれしか生き延びる道はない、定められた次回に間に合わすすべはない、という悲痛な決断だったのである。

 

 私は昔から図画は好きだったが、工作は好きではなかった。長じて機械、電気製品が苦手である。今なおそうだ。電子機器となればなおさらだ。したがってワープロなんぞ、手も触れたくないというのが本音。周辺では少しずつワープロを使う人も出てきてはいた。T先生は案外新し物好きで、さかんにワープロ礼賛をされる。うろ覚えだが、当時先生の持っていたものは大きな本体の小さなモニターに確か数行、10行弱ぐらいしか表示されないもの。それで70(?)万円もしたとか。さすがにそれは機種が古すぎるだろうと調べてみたら、シャープの書院というのが24(?)万円だかであった。当時の私の二カ月の収入に近い。だがこれからも続くであろう推敲書き直しを考えれば、なけなしの貯金を崩して買うしかない。デスクトップ式の大きなものだった。

 

 買えば買ったで、使い慣れるまでが大変である。今のパソコンに搭載されているマイクロソフトのワードなどを連想してはいけない。コピペであれ、更新保存であれ、現在のものに比較すれば超原始的としか言いようのないクオリティなのだが、あの時代にあっては仕方がなかったのだ。

 それでも次第に慣れてくれば、原稿用紙に手書きよりははるかに効率が良い。推敲も積極的に繰り返すようになる。印字したものを見れば、手書きのものよりも客観的に見れるようになる。その結果、連続執筆時間も長くなってくる。

 必要に迫られて朝方まで作業をすることもしばしば。何かの拍子に三時間おきの授乳で寝不足の起き抜けのボーっとした女房が、気づかぬまま足元のワープロに接続されたコードにつまずく。その瞬間、それまでの数時間の苦労が無に帰す。

 おそらく更新保存の手続きが今よりも面倒だったこともあって、こまめに更新する習慣がまだ身に付いていなかったのだ。こまめに更新しなかった私が悪い(?)のだが、目の前が真っ白になるとはこのことか。

 怒ったところで失われた文章が回復するわけでもなし。今のようなバックアップ機能は備わっていなかった。記憶だけを頼りに、可能な限り入力し直して復元再現するしかないのだ。時間が来て、一睡もせず出勤。そんなこともニ度や三度はあった。

 

 論文指導の会は何回ぐらいあったのだろうか。初めのニ三回は短い間隔で催され、その都度指摘された部分の書き直しに全力を注いだ。その後、しばらくの間、特に連絡もないまま、放置されていた期間があったように思う。放置されていたからといって、その間書き進めないわけにはいかない。

 T先生の戦略(?)であった「(気のすむまで)長く書かせる(それを後で切り詰める)」に必ずしも則ったわけではないが、放置されていた時間があったせいもあり、ていねいに考察を重ねるほどに論攷は長くなっていった。後にある程度は削ったものの、最終的には予想していたよりもはるかに長くなった。他の人の論文と比較したことはないが、少なくとも初期においてはかなり長文の方であろう。

 

 夏にはある企画グループ展があり、翌年には個展も予定していたから、その制作もしなければいけない。幼稚園の絵画教室に復帰していた女房に代わって、その日は息子の世話をしなければいけない。

 そうした多忙な中で、少々無理をしながらも何回かは山に行った。大げさにいえばそれが当時唯一の、精神状態を安定させる息抜きだったのである。

 

 ↓ 8月11~15日 南アルプス 信濃俣河内を遡行して光岳へ。同行の今は亡きMがゴルジュ入口の瀞で40㎝のサクラマスを釣り上げた。

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 ↓ その上のゴルジュ帯。ここは比較的容易に高巻いた。

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  ↓ 11月15日 奥武蔵伊豆ヶ岳。勤めていた予備校の入試前根性養成ハイキング。むろん、自分が行きたかったからである。中央下のサングラスの左の白い服の娘は、これがきっかけで山が好きになり、美大の山岳部から、大学院修了後、長谷川恒夫事務所をへてガイド資格を取得。『山と渓谷』に連載を持ち、著書もあるHU嬢。人生何が転機になるかわからないものだ。左下は現在某M美大教授のM氏。

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 ともあれ、あいかわらずの多忙でハードな日々が過ぎていった。その間の記憶は断片的である。

 そのようにして何回かの論文指導を重ね、その年の終わりごろには、論文のおおよそができ上がっていった。それなりの手応えというようなものもあった。

 

 1987年、年が明ければ論文要旨の作成。

 正確な日付は覚えていないが、二月頃に論文審査会。

 論文審査会には油画の全教官(だったと思う)が出席する。事前に「論攷篇」を全教官に配布。それは「論文要旨」ではなく、「論攷篇」全部だったとはずだ。でなければ、審査しようがないからである。

 論文審査会とは卒業試験のようなものだが、言い換えれば真剣勝負なのである。十余名の全教官が出席しての口頭試問。会場の正面にポツンと置かれた私のための椅子の背後の壁には、論文の「作品篇」の16点の作品と、それを「補足する」12点の作品が展示されている。

 実は「作品篇」の提出規定には号数(サイズ)の制限があったらしいのだが、それを知ったのは間際になってから。寝耳に水。「そんなことは聞いていない」。当時は200号300号といった大作に最大のエネルギーを注いでいたのだが、それらは規定サイズ外だと言われる。私としては自分が最大のエネルギーを注いでいた大作が、直前まで聞いてもいない「規定サイズ外」だと言われても、納得のできようはずがない。猛烈に反発した結果、「作品篇の16点を補足する12点」という解釈で、一応展示してみることが認められたのである。

 ただしそれはあくまで規定外のことだとして、口頭試問の場で最初に問題にされた。こうなれば腹をくくるしかない。自説を強硬に主張する。結局、あくまで「補足する12点」であり、審査結果には反映しないが、その場での展示は認めるという結論になった。まあ今思えば、杓子定規的には私の規定やぶりということになるのかもしれないが、さすがにそこは譲れなかった。展示さえすれば、こちらのものである。

 次いで頭に来たのが、「僕は読んでないんだけどね。~」とおっしゃりつつ、質問され始める某先生。論文=論攷を課しておいて、その審査の場に来ておいて、「読んでいないんだけど」はないでしょうが!答案を読まずに採点しようと言われるのですか。思わずブチ切れそうになる私をT先生ほかが、必死に目で制される。

 まあ、そんな感じで、審査会は進行し、終わったのである。終わった時には芯から脱力した。

 

 

 1987年3月、正確には学位授与式、一般的には卒業式である。学生生活の終わった昨年は「単位取得満期退学」だったので、関係なかった。

 私は昔から卒業式があまり好きではないというか(特に嫌いというわけでもないのだが)、縁が薄い。小中学校はともかく、高校の卒業式は大学受験のため上京していて、欠席。

 学部の時は普段着のGパン、Gジャン姿で行ったら、少々奇異の目で見られた。まあブレザーを着ていたやつはいたが、スーツ姿のやつはほとんどいなかったと思うが。むろん、Gジャン姿のやつは皆無だった。

 式後に謝恩会があると、確かその時に初めて聞いたのだが、思うところもあり、有志で謝恩会出席を拒否して、そのまま雀荘に向かい、急きょ卒業記念麻雀大会とあいなった。卓が三つか四つできたので、十数名が謝恩会拒否派だったというか、麻雀のできるやつはほとんど全員そちらを選んだのだろう。

 大学院修士課程の時はやはり普段通りの格好で行ったが、何の緊張感もなかったため、つい寝坊してしまい、着いた時にはすでに式は終わっていた。ちょうど同級生がみな正門からゾロゾロと出てきたところ。「何やってんだよ~。今ごろ来て。」で、おそらくそのまま雀荘に行ったのかもしれない。

 これまではそんな感じだったが、今回はなぜか事前に出席の確約を迫られた。拒否する理由もないので、出席しますとは言ったが、特段の意味は感じていなかった。一応比較的まともな恰好、ブレザーぐらい着ていったように思う(もし持っていたとしたらだが)。しかし、やはりさほどの緊張感はなく、何となくといった感じで、少し遅れた。まあ、遅くなったものはしかたがない、どうせセレモニーにすぎないのだし、博士課程だから最後だろうし、なんだったら後で卒業証書(学位記)をもらいに行けばいいだけだと、少しばかりの感慨に耽りながら通いなれた上野公園をのんびり歩む。正門に近づくと、助手やら事務方やらが三四人、前で待ちかまえている。焦り顔で「やっと来た。何やってたんですか、急いでください。」

 ??あれ、まずかったか?? 式場に入れば、全員粛然と整列している。私が遅刻したのだから、私以外は、それはまあそうだろう。最前列に一つ空けられていた席につくと、式が始まった。ようやく知ったのは、学位授与式のセレモニーは高位の博士課程から始まり、そのため出席すると伝えていた私がなかなか到着しないために、開始を遅らせて待っていたのだそうだ。10分だか20分だかはわからないが、何百人だかの博士、修士、学士、教官、職員の全員が待たされていたのだ。さすがに私も青ざめた。後ほどT先生から大目玉を食らうだろうと覚悟していたら、一応雷は落とされたが、他の先生方は笑っておられた。あきれ果てての苦笑いだろうが。

 結局この年の美術の博士号取得者は油画の三名。前年度からの三宅さん(第5号)と同期の陳さん(第7号)である。学術博士 東京藝術大学 博美第6号の私は32歳になっていた。

 

 思い起こせば二浪した年の入試も最終の三次試験(学科)で寝坊、遅刻してしまい、99%手中にしていた合格をフイにしたのだった。一年後に合格はしたもの、思えば遅刻で始まり遅刻で終わった14年間だった。

 

 付記しておけば、学術博士という名称は、「学際的分野の学問を専攻」した者に与えられるもの。芸大なのだから芸術博士とか美術博士の方がふさわしいというか分かりやすいのではないかと思うが、そうはいかないらしい。1975年の学位規則改正によって追加されるまではなかった名称である。東大や京大にない名称を芸大独自に新設するわけにもいかないから、それらしい名称を新設したのだという説もあったが、そうではないらしい。

 学術博士という名称は、その元になったDoctor of Philosophy(ドクター・オブ・フィロソフィー 略してPh.D.またはPhDとも表記される)を直訳すれば「哲学博士」となることから分かるように、基本的にはあくまで、「伝統4学部のうち職業境域系の神学・法学・医学を除いた『哲学部(ないし教養部)』 のリベラル・アーツ系の学位である。(Wikipedia)」。要するに、従来の学問体系に収まらぬ美術や音楽や体育や、その他もろもろの「学際的」領域のものを一切合切「学術」という範疇にまとめるということらしい。学際的な学問とは「複数の領域にまたがっている学問」という意味合いもあるから、まあ妥当な名称だと言えなくもない。いずれにしても「人類が保有する教育機関・体系の中で与えられる学位のうち最高位のものである」ともあったから、恐ろしい。

 しかし「学術博士」はその本来の意味を理解しない限り、なじみにくかったようで、その後「博士(学術)」とか、さらに「博士(美術)」「博士(音楽)」と括弧づけで表記されるようになったが、今現在はどうなっているのか知らない。 (2019.5.2改訂)

  

 以下、4に続く