艸砦庵だより

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『メッセージのゆらぎ』と体験的「博士課程・博士論文」のこと ―その5 小笠原逃避行

 前稿では製本論文と印刷公表のことを軸に書いた。ここで話は多少前後する。

 

 32歳、1987年3月学位取得。5月製本論文『メッセージのゆらぎ』を提出。10月『論文+作品集 メッセージのゆらぎ』を自費出版。11月個展(紀伊國屋画廊)。

その間の3月の末で、それまで三年勤めた美術予備校を辞めた。

 

 論文執筆に専念(?)した一年間の疲労とストレスが限界に達したのである。そして、その時点ではまだめどの立っていなかった、製本論文と印刷公表の問題に直面していた。また、11月の個展のために、制作しなければならないという焦りもあった。

 私は本当に疲れきったのだ。このままでは危険だと思った。休息が、それも思いきった休息が必要だと感じた。4月以降もそれまでと同じように週四日の予備校勤務(油絵科主任)を続けたら身が持たない、それ以上に心がもたないという予感がした。甘えと言われるかもしれないが、少なくとも主観的には、間違いなく危機的精神状態だったのである。当時はウツという言葉はあまり日常的には使われていなかったが、まあ、今で言えばウツか、その一歩手前だったのだろう。

 

 女房に、今家にいくら貯金があるかと聞いた。

 あれやこれやかき集めれば、仕事を辞めても、女房の収入だけでも、倹約すれば一年間間ならギリギリ何とかなりそうだ。仕事を辞めて一年間無職になると宣言した。 

 この一年の情況を見ていた女房は、渋々ながら、結果として了承してくれた。納得も了解もしはしなかっただろうが、理解はしてくれたというか、ほかにどうしようもなかったのだろう。

 乳飲み子を持つ親のとるべき行動ではないが、最低限の計算はした上でのこと。そのタイミングでクールダウンしなければ、その先に行けそうになかったのである。前稿で「無理を承知でジャンプしなければならない時がある」と書いた。今回はポジティブな「チャレンジ」ではないが、ネガティブな逃避ではあっても、これも一つの「ジャンプ」だったのである。

 人間、「疲れたら休め」(安野光雅さんの言葉)、「しんどくなったら逃げればよい。逃げることも時には大切な技術だ。」(私の言葉)。

 その一年間にやらなければならないことのおおよそは見えていたが、その前にまずは休みたかった。仕事を辞めたからと言って暇になるわけではない。とりあえず、少しの間でいいから家庭や家や日常から離れ、旅にでも出たかった。しかし前述したような、まず倹約といった情況だから、そこまで勝手はできない。

 

 私の2学年下にI君という後輩がいた。壁画研修室だったからふつうならあまり縁は無いはずなのだが、幸か不幸か、学生時代最後の頃のニ三年、麻雀仲間だった。彼は大学院修了後、どういうわけか小笠原に渡って、漁師に弟子入りしていたのである。釣りが好きで、魚が好きで、魚の絵ばかり描いていたやつだったが、漁師に弟子入りするというのも芸大大学院修了者としては珍しい選択をするものだなと思っていた。

 小笠原に移住してしばらくたった頃、同地の村営住宅に住めるようになったとかで、どんな成り行きからだったのか覚えていないが、「小笠原に遊びに来てください」などと言っていたのを思い出した。

 

 二浪の時の大学入試最後の三次試験(学科試験)で、寝坊して遅刻したときのことを思い出した。

 遅刻といっても、試験会場に着いたら、三科目(英語・国語・世界史)のうちの午前中の二科目が終わる寸前という論外破格の大遅刻。仕方なく(?)学食で味のわからぬ飯を食べていたら、試験が終わった受験生がぞろぞろとやってくる。顔見知り、友人も多い。「何やってんだよ~、今ごろ来て」などと言われても答えようがない。言う方も言われる方も顔がひきつっている。午後の世界史だけ受けてみたところでどうしようもない。実技試験の成績は良く、倍率二倍の学科試験には絶対の自信があっただけに、99%手中にしていた合格をフイにしたのだ。

 さすがにいたたまれない。どう日を過ごしていいかわからない。アパートの自分の部屋にいたくない。東京にいたくない。友人に会いたくない。何も考えたくない。

 その時、思いついて発作的に、京都在住の高校時代の同級生Yの下宿に転がり込んだのである。一浪後、立命館大学の一回生であった彼とは、特別親しいというほどの間柄でもなかったのだが、私としては東京から、自分のアパートから逃げ出せればどこでもよかったのだ。

 何一つやるべきことのない、魂の抜けたような不景気な顔で、悶々と、ゴロゴロしているだけの私を、快く(?)受け入れて、気をつかってくれつつも持て余したであろうYには、今思ってもただ感謝するのみである。

 そこに転がり込んでいた一週間ほどで、何一つ解決したというわけではなかったが、まあ、落ち着いたのであろう。東京に戻って三浪目を迎える覚悟をするぐらいには恢復したというか、再生したのである。その一週間滞在したYの下宿は、私にとってのアジール(避難場所)だったのである。

 

 小笠原のI君の「遊びに来てください」は、再びのアジールへのいざないだった。

 とりあえず電話してみる。「遊び」ではなく逃避行なのだが、まあ同じようなものか。前述したように倹約体制なのだから宿に泊まるような金はない。I君のすむ村民住宅に転がり込むしかないわけである。I君は戸惑いつつも、「いいですよ」と言ってくれた。行き先ができた。

 5月11日、製本論文『メッセージのゆらぎ』を提出。それからしばらくして竹芝桟橋から週に一便の小笠原父島行の舟に乗った。

 父島までは約24時間。途中、ベヨネーズ列岩だか須美寿島だか孀婦岩だかわからないが、絶海の孤島としてそそり立つ岩峰を見る。一人旅の孤愁。

 父島から小さな船に乗り換えて、母島まではさらに4~5時間。現在の母島の人口は470人ほどとのことだが、当時はもっと少なかったようだ。

 

 I君の家に転がり込んだはいいが、彼は早朝というか未明から親方の舟に乗り込んで漁に出る。一人のんびり起きだした私に、特にやることはない。目的など持っていないのだから。

 とりあえず彼の竿を借りて、リールを買って(彼のリールは壊れていた)、適当な磯に立つ。釣りは海釣りでも川釣りでも、さほど本気ではないが、ガキのころからやっているので、勝手はわかる。

 余談だが、地元でとれたわずかな野菜や魚以外は、島の店で売っているほとんどの食料品は本土から父島経由で運んでくるので、高い。餌の冷凍の鯵も食用なので高く、釣餌にするのはもったいないような気もするが、それが当地の流儀だとか。

 投げればすぐに食いついてくる。さほど大きくもない濃色の魚が、入れ食いというほどでもないが、いくらでも釣れる。しかし、そもそも数を釣ってみても仕方がないのだ。運悪くI君宅の冷蔵庫は壊れていて、釣った魚はその日か翌朝には食わなければならないのだから。

 

 ↓ 基本、いくらでも釣れます。クーラーボックスもないのですでに干からびかけている。

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 山葵がないから刺身は醤油だけ。あとは一番簡単なムニエルばかり。そもそも南の海の魚なので大味で、臭みもあり、美味くはない。毎日自分で作ったそればかり食べているとさすがに飽きてくる。他の食材は高い上に、父島からの船はちょっと海が荒れれば欠航となるので、入荷するとあっという間に売り切れてしまうとのこと。魚に飽きて、そこいらじゅうを這い回っている、戦前に食用として養殖され、野生化したアフリカ原産の大きなカタツムリを食べてみようと思ったが、I君に断固として断られて断念。

 暇つぶしの楽しみだったはずの釣りではちっとも暇がつぶれない。

 

 東京から持参した鬱々とした気分も、美しい母島にいるだけで少しずつ癒されてゆく。

 島の南端に近い南浜にも行ってみた。倹約しなければならないはずなのにシュノーケルや水中眼鏡なんぞ買い込んで。当然人っ子ひとりいない。浅瀬で30分もバシャバシャやっていれば飽きる。すぐ沖合の、海の色が変わる潮目から先は黒潮。あそこまで泳げばあっという間にハワイまで行けるらしい。少しなら泳げるが、幸か不幸かそこまでは行けそうもない。

 

 ↓ 南浜 遠くの黒ずんだところが黒潮

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 母島最高峰の乳房山463mにも登った。それまで経験したことのない亜熱帯雨林。ところどころに洞窟陣地(?)や塹壕などの戦争遺跡が残っていた。尾根続きの剣先山(だったと思う)の頂上には対空機銃座の跡が残っていた。

 

  ↓ 左の一番高いところが乳房山 右手前が剣先山(だと思う)

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 そんな私を少々みかねたのか、休みの日に穴ダコ漁に誘ってくれた。潮が引いて露出した岩場に無数にある、珊瑚礁ゆえの天然の穴を一つ一つ、先を曲げて尖らせた太い針金(?)を差し込んで探ってみる。時々反応があり、引きずり出してみると、小さなタコが獲れる。そうした漁のできる貴重な場所は限られており、権利を持つ人が決まっていて、勝手に獲ることはできないとのことだ。

 

 ↓ ちょっと見づらいですがタコが。しかしそのVサインは何だ?

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 別の日には彼の師匠の船の漁に誘ってくれた。目的は金目鯛。魚の種類は多くても、本土への輸送料からすると、採算がとれるのは高級魚の金目鯛など、ごく限られるとのこと。その日はあまり成績が上がらなかったからなのか、次いでイセエビ漁に行った。と言っても沈めてある籠を上げるだけなのだが。

 

 ↓ イセエビ漁の現場 海はあくまで碧い。

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 ちょうど昼飯時とあって、船上で上げたばかりのイセエビを錆びた出刃包丁でぶつ切りにして刺身。後にも先にも、その時食べたイセエビほど美味いイセエビを食べたことはない。頭は海に捨てる。あ~、もったいない。

 それ以外にも、近くで獲って解体したばかりの鯨の「オノミ(尾の身?)」(最も美味い部位で地元消費のみだとか)や、海亀のモツの煮込み、パッションフルーツなどといった美味珍味の初体験尽くしもした。

 

 そのころはほとんどまったくと言っていいほど酒は飲まなかった。酒など飲まなくてもストレスは次第に解消されていった。亜熱帯の母島の大いなる自然の治癒力と言うべきであろう。

 

 船便は週に一回(あるいは10日に一回だったか?)。一便逃せば次は1週間後(あるいは10日後)。そろそろ帰るべき時だ。居候的にも限界だろう。帰って、無職ではあれど、やるべきことに復帰しなければならない。論文の印刷公表、個展に向けての制作、家庭生活。

 かくて小笠原母島というアジールへの逃避行は終わった。そのセンチメンタルジャーニーによって、かろうじて私は恢復できたのだった。

 帰宅後程なくして、その時のI君と船頭さんから大きなトロ箱が送られてきた。中には大量のイセエビ、その他。感謝感激、再度の美味三昧である。

 ちなみに世話になったI君はその後漁師になったかというと、現在は関西のK大学文芸学部芸術学科教授として、また画家として活躍されているのだから、人生いろいろである。

 

 帰宅してからは11月に個展(紀伊國屋画廊)をやったぐらいで、大きな出来事はない。

 

 ↓ 個展案内状 宛名面

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 ↓ 個展案内状 

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 翌春以降に向けて仕事先を見つけなければならなかったが、これもやはり同じ研究室の後輩のYHに頼んで、彼の勤めていたT美術学院に勤めさせてもらうことが決まった。

 700部も作ってしまった印刷公表『メッセージのゆらぎ』は、その半分ほどは各大学、美術館、画廊、美術評論家、雑誌社といった関係各方面に献呈したが、反響はほとんどなかった。残る半分のほとんどは友人知人教え子などに、タダであげてしまったように思う。

 今現在手元に残っているのは10冊もない。在庫を抱え込んでいても仕方がないが、そうしておそらくは献呈したものの一冊が今回ヤフオクに出品されたのだろう。そのことについては特に何の思いもない。たまたま目にし、今日現在もなお出品され続けていることによって、この長いブログ記事を書く気になったというか、この一稿が産み落とされたのだから、それはそれで成果を上げたというべきか。

 高い費用をかけて自費出版し、それ自体は当初もその後もほとんど具体的成果をもたらさなかったと言ってもよいのだが、後悔はない。その作品集を欲したのは私自身だったからであり、本という形になったものは、結局どこかで残っていくものだからである。『メッセージのゆらぎ』は私の作品であり、その制作過程にまつわる苦闘は私の表現行為だったのである。

 

 つい懐かしさにかられてダラダラと書き連ねてしまったが、読み返してみるとセンチメンタルジャーニー回想といった感もある。まあ、それはそれで、たまには寄り道もいいか。忘れていたこともずいぶん思い出したし。

 博士(号・論文・家庭)については、私自身の取得体験とは少し違った観点からもう少し書くべきことが残っているような気もする。ただ、今現在(5月5日)は個展直前なので、しばらく間をおくしかない。せめてもう一篇だけは書き継いでみたいと思っているが、さて?

                              (記:2019.5.5)

 

 以下、その6に続くかも?しれません。