艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

法事と山と美術館

 七月に法事で帰郷することになった。10年近く前に実家を手放し、近年は法事以外で故郷に帰ることもない。せっかくだからと、いつものように高校山岳部同期でここ何年かの旅と山の友、Kに連絡する。さっそく、近場の山登り、美術館、飲み会などがセッティングされる。ありがたいことである。

 

 

 7月21日

 夕方、新幹線で下松市の長姉宅へ。ついで神奈川から次姉も到着。夜、あれこれの話を交わしながら義兄と飲む。義兄は緑内障が進み、だいぶ不便になってきたとの由、痛ましいことである。

 

 

 7月22日

 時おりの梅雨末期特有の激しい雨の中、山口市徳地野谷(旧徳地町)という山あいにある徳祥寺に向かい、祖母の三十三回忌。といっても参会者は、長姉夫妻と次姉と88歳の叔母(祖母の末子)と私の五人だけ。あっさりしたものである。

 終わってしばし住職と話す。前から気になっていた本堂の荘厳具の一つが幢幡(どうばん)という名だということを初めて知った。そのうち私の作品に出てくるかもしれない。そういえば、来年は母の十三回忌だ。

 

 ↓ 幢幡 「飾られた竿柱に長方形の帛(はく)をたれ下げた仏堂に飾る旗の総称」とのこと

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 法事の後、車で20分ほど離れた、佐波川の岸辺に建つ川魚料理の「月鳴亭 多かはし」で精進落とし。90年前からやっている店とのこと。以前は対岸にあったそうだ。前回もここだったが、今回は前回不漁だったとかで食べられなかった鮎尽くしのフルコース。鮎の背ごし(輪切りにした刺身)は初めて食べた。

 

 ↓ 鮎尽くしの一部 右の容器の中身はウルカ(鮎の内蔵の塩辛)

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 ↓ 鮎尽くしの一部 その2 鮎の瀬越 まあ、ブツ切りです。

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 部屋の窓から見る佐波川の流れは、増水が著しい。

 実家近くにある墓に参ったのち、長姉宅に戻った。

 

 

 7月23日(火)

 9:55防府駅でKと合流。右田ヶ岳近くのスーパーで高校山岳部の後輩F、S、Wの三人と合流。元気なFとはつい先日も北海道の山に一緒に行ったばかりだが、S、Wとは約2年ぶり。それぞれなにがしかの身体の不調をかかえているらしいが、今回程度の山であれば問題ないとのこと。当時もう一人いた女子部員のMさんは、現在は膝の調子が悪く、山登りはできないとのことで、山登りは不参加。まあ、人生いろいろということだ。

 

 右田ヶ岳は標高こそ高くない(426m)ものの、山口県で最も広い防府平野の北に、山口盆地に抜ける勝坂峠を挟んで、西隣の西目山と並んで、堂々とそして優美に根を張った美しい姿の山である。平野部からでは、どこからでも見える。

 花崗岩の岩場や、それに彫られた摩崖仏などの見どころも多いにしても、かつては、しょせんたかが田舎の低山だという認識でしかなかったが、最近はかなり全国的にも知られるようになり、県外から登りに来る人も結構多いらしい。最近では山口県で最も登られている山だとのことには、少々驚いた。山の人気の推移、流行というのは確かにあるにしても。

 むろん私も昔から何度も登ったことはある。と言っても、それは親と一緒に正月のしめ飾り用の羊歯や柏餅に使うサルトリイバラの葉を採りに行ったり(生活圏としての里山)、ボーイスカウトの清掃登山であったり、あるいは悪友と気まぐれに登りに行ったりと、つまり正式(?)な「登山」と思って登ったことはなかった。少なくとも記録としては残していない。にもかかわらず、私の好きな山であり続け、またいつか再登したいと思っているうちに、何十年か経ってしまったのだ。

 

 私の希望で勝坂コースから登ることになり、車一台を右田小学校脇の駐車場にデポ。もう一台で勝坂登山口まで行き、その近くに車を止める。

 かつて登ったのはすべて天徳寺から。というよりも、当時はそれしかルートがなかったように思う。いや、勝坂からのルートはあったような記憶もうっすらあるが、定かではない。いずれにしても情報が少なかったのである。帰宅後の事後学習で調べて見ると、あるは、あるは。天徳寺コース、勝坂コースのほかにも塚原コース、塔之岡コース、片山コース等々ある、ある。おそれいった。参考までにその課程でみつけた「かずの里山ハイク」(https://blog.goo.ne.jp/kazuyama_001/e/eec363fc5734b1951395df5a2354f1de)の画像を上げさせていただく。

 

 ↓ 参考図

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 しかし、人里近くのこの標高でこれだけのバリエーションがあるということは、つまりそれだけこの右田ヶ岳の魅力が評価され、愛されているということなのだろう。

 願わくば、人気のあまり、オーバーユースとならぬよう、そして風のうわさで聞いた「山頂カフェ」などといった、下界の感覚を持ち込んだ一部の人たちの占有的行為のなからんことを願うばかりである。山には山の作法があるのだ。

 

 話を戻す。

 国道わきの登山道に入る。すぐに江戸末期に築かれた勝坂砲台跡関連と思しき石組がいくつか出てくる。

 

 ↓ 勝坂砲台関連の石積み

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 そもそも右田ヶ岳山頂には、鎌倉末期以来の右田ヶ岳城の石組みが残っているのだから、古くから政治や軍事と縁の深い、言ってみれば人臭い山だったのだ。

 風化花崗岩質のよく整備された路はよく踏まれており登りやすい。前日までの雨の影響もほとんどない。しかし、梅雨明け以前の薄暗い樹林帯は、サウナのように暑い。まるで熱帯雨林の登山だ。

 しばらく登ると路は「尾根コース」と「本コース」に分かれる。どちらも未知なので、とりあえずといった感じで「本コース」に歩を進める。急に傾斜が増し、岩場となる。ロープは設置されているが、あえて使うほどのこともない。

 

 ↓ 岩場 その1 撮影:K

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 ↓ 岩場 その2

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 ↓ 岩場 その3

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 左前方にはクライミングの対象となっている「右田ヶ岳の岩場」の全景が見える。なかなかのものである。

 

 ↓ 右田ヶ岳の岩場全景

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 そこから一投足でちょっとしたコルに出て、一休み。何気なくすぐ傍らの岩場を回り込んでみると、そこは先ほど見えていた「右田ヶ岳の岩場」のてっぺんであり、素晴らしい絶景ポイントとなっていた。

 

 ↓ 防府ヨセミテ 二つのピナクルの間の奥の小さな三角形は楞厳寺山

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 ↓ 奥:西目山 左奥に瀬戸内海が見える 撮影:K

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 眼前には西目山がそれなりの存在感でそびえ、さらにその先に楞厳寺山ほかの佐波川右岸の山々が海まで続いている。素晴らしい景観をしばし楽しむ。怪しかった天気もすっかり回復し、気分が良い。

 そこから西の峰をへて、小さな峠で天徳寺コースを合わせれば、一登りで頂上だった。

 いつもは多くの人が来ていて、例の「山頂カフェ」をやっているそうだが、前日の雨のせいか、今日は一人先行者がいただけだったのは幸運だった。うまく岩の配置された気持ちの良い山頂で、360度の展望を堪能しつつ、楽しいひと時を過ごした。

 

 ↓ 至福の一服

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 ↓ あいかわらず豪華な昼食

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 さて、これは言わずもがなを承知で、あえて以下を書く。

 山頂の私設の国旗掲揚柱と、それに結びつけられた国旗の入っている袋の存在はいただけない。

 幸い当日は国旗を掲揚する人が登ってきていなかったから、それを見なくて済んだが、普段はほぼ毎日山頂に国旗を掲揚するとのこと。祝祭日ならばそこに公的意義を認めることも可能だが、なぜ祝祭日以外の日にも山頂に一個人が(もしくは一団体が)国旗を掲揚するための施設を、勝手に設置させておいて良いのか。国旗が掲揚されていれば、それを降ろせとは誰しも言いにくい。差しさわりが生じる。言うまでもなく国旗は政治的存在であり、登山者はプライベートな存在であり、山は基本的に公共の場(アジール)である。ゆえに祝祭日以外の日の山頂での国旗掲揚は、コモンセンスの欠如した行為であると言わざるをえない。私はこれまで、国旗が掲揚されている山頂を見たことはない。人々の生活圏内の里山ならいざ知らず、登山の対象とされている山で国旗掲揚のための柱が設置されているのも見たことがない。

 

 ↓ 左に見えるのが問題の国旗掲揚柱とそれに結びつけられた国旗の入った袋

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 「国旗及び国歌に関する法律」が1999年に制定されて以来、その法案作成者ですら想定しなかった、その後の教育現場での数多くの教員処分という悲惨な現実と通底する感覚なのである。「悪気はない」、むしろ「良いことをしているつもり」の無惨なのだ。祝祭日の掲揚はある程度やむをえないかもしれないし、プライベートな空間での掲揚であれば問題はない。私は私の好きな、天然自然の山に、日の丸がはためくのを見たくないのである。

 もう一つ付け加えておけば、頂上の傍らのちょっとしたスペースに、連絡帳やら掲示物やら、雑多で不要な私的設置物が多すぎる。サービスのつもりかもしれないが見苦しい限りだ。山頂には(あれば)三角点と大きすぎない山名標識と、あとは必要に応じた小さなルート標識だけがあればよい。古くからのものであれば、小さな祠があるのも良いだろう。それ以外の物は不要だ。

 以上、炎上覚悟の余談である。

 まあ、このような苦言を呈さざるをえないような現況なのも、裏返せば、つまりは登りやすく、魅力があって面白い、愛されている山なるがゆえではあろう。地元の(それは私の故郷の、ということなのだが)岳人の再考をうながしたい。

 

 下山は塚原コースをとる。しばらくは尾根伝い、あるいはそれと並行するように山腹を巻く路が続く。それらを適当に選び進むと、ほどなく塔之岡コースとの分岐。そこから右へ下る。時おり小さな岩場も出てくるが、問題はない。振り仰げば数多くの岩を点綴させた山頂付近がいい感じだ。

 

 ↓ 頂上を振り仰ぐ

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 直登コースの分岐を過ぎればほどなく祠(?)、そして墓地と出て、舗装道路に出た。

 今回の山も終わりだ。実質3時間足らずの小さな山だったが、あらためてこの右田ヶ岳の良さを知った。これからも帰郷する回数は少ないだろうが、ルートを変えながら、周辺の山もふくめて、何度も訪れてみたいと思った。

 

 ↓ 帰路より仰ぎ見る。左のピークは石船山。

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 その後、湯野温泉に行き、汗を流す。夜は再び防府に戻り、山に行った5人にK先輩、後輩のMさん、Tの3人が加わり、OB会の楽しい飲み会となった。Tは翌日の夜から北アルプス双六岳から立山剱までの縦走に出かけるとのこと。元気なものである…。

 

【コースタイム】

勝坂コース登山口11:05~右田ヶ岳の岩場上12:10-12:33~右田ヶ岳山頂12:40~13:40~塚原コース~右田小駐車場14:55

 

 

7月24日(水)

 今日でどうやら梅雨が明けたようだ。晴れたのは良いが、暑い。

 山口県立美術館での「香月泰男のシベリア・シリーズ」展を見に行く。膝の不調で山には一緒に行けなかったMさんも同行することになり、彼女をピックアップする途中で桑ノ山107.4mに寄り道してみた。

 桑ノ山は母校の防府高校のすぐ裏にあり、何かにつけ登った、ほんの小さな山。今回は高校とは反対側の頂上直下までの車道を使い、歩き5分で頂上。昨日登った右田ヶ岳を遠望する。やはり良い山だ。

 

 ↓ 桑ノ山より右田ヶ岳遠望

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 ふと見ると、「防府高校登山部」のロゴが入ったユニフォームを着た若者たちが休憩している。水分を補給しながら喘いでいる者もいる。ボッカ訓練の最中の後輩たちのようだ。今年もインターハイに出場することが決まっており、優勝を目指しているのだろう。う~ん、吾々の頃とは大違い。

 

 ↓ 香月泰男展 フライヤー

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 香月泰男三隅町にある香月泰男美術館に行ったこともあるし、「シベリア・シリーズ」に属する作品も何度か見たことがある。しかしシリーズ全点を一度にまとめて見るのは初めてである。

 印象としては、当然ながら、やはり重く、暗い。それは作品の思想自体に由来する当然の重さ、暗さ、なのだから、それもまた美しさの一面として味わうことができる。作品ごとに付されたキャプションの、作者自身の言葉が生きていた。

 また、やはりシベリア抑留体験を持つ宮崎進の作品との対照を思わずにはいられなかった。二人とも山口県出身。私は宮崎さんとは、山口県のある画廊の企画グループ展で何度も一緒に作品を並べたことがあるのだが、縁が薄く、とうとう一度も面識をえることがないまま、また、まとまった回顧展を見ることもないまま、昨年亡くなられた。

 

 作品の絵柄、内容とは別に、香月の絵肌の特徴を成す、地色の黄土色に混入されたと言われる萩焼の陶土、黒に混入された木炭の粉、それらのもたらす発色の経年変化にも興味を引かれた。特に黒の経年的に進行するのではないかと思われる艶引けの問題については、保護ワニスが塗布されていると思うのだが、絵によってバラつきがあるように思われた。

 また今回初めて見たのだが、パリやタヒチに取材した木版画や石版画もそれ自体興味深いというか、それなりに面白く観た。例えば木版画は、彫りはともかく、摺りは自身でやったのだろうか。石版画についても同様だが、彫師や摺師がいたのならそれは表記されるべきではないか。限定部数等についても同様。そうしたデータがないのが気になった(ひょっとしたら私が見落としたのかもしれないが…)。

 

 昼食後、近所の同級生のN弁護士の事務所をアポなしで表敬訪問。私の数少ないコレクターの一人で、事務所のあちこちに私の作品が展示されている。

 

 ついで中原中也記念館に行く。ここはかねてから一度は行ってみたいと思っていたところだが、今回ようやくその思いがかなった。

 

 ↓ 中原中也記念館 外観

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 ↓ 「中原中也誕生之地」の石碑 この木は中也誕生の以前から植えられていたとのこと 撮影:K

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 テーマ展示として「四季詩集―中也と巡る春夏秋冬」、企画展示室では「沸騰する精神 詩人・上田敏雄」をやっていた。中也関係の出品物の多くはレプリカであったのは保存上やむをえないことだが、かつてのようないかにも「コピー」といった感じではなく、鑑賞上はほとんど問題ない。

 さほど大きな施設ではないが、その企画や展示状況等、かなり優れたものであると見た。また記念館の建物や敷地全体の構成も、中也の世界とよくマッチしていると思った。やはり詩人中也が地元の方に愛され、大事にされているということなのだろう。うらやましく思った。

 

 夜の飲み会までの時間調整を兼ねて、長沢の池方面に足を伸ばしてみる。淡い興味を持っていた大村益次郎関係の施設ということで、まず訪れたのが彼の誕生の地だが、そこには石碑と、その傍らに関連すると思われる抽象彫刻群があった。作者の田辺武とは面識もなく作品もほとんど知らないのだが、高校の後輩の日本画家の御主人だそうだ。それはそれで淡い奇縁と言うべきであろう。

 

 ↓ 「故兵部大輔大村永敏卿誕生地」の碑のそばにあった、田辺武作の抽象彫刻群

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 ともあれ、どちらかといえば本命であった、大村益次郎記念館に行ってはみたが、入館時間を過ぎており、見ることはできなかった。まあ、長沢の池畔や、のどかな田園風景を見ながらのドライブを楽しめたのでそれなりに楽しかった。

 夜は高校の同期会。

 かくて今回のミッション「法事と山と美術館の旅」は完了したのである。

 

7月25日(木)

 余談といえば、以下はほぼ余談である。

 

 帰京の日。防府駅で切符を買って、電車の時間が来るまで周りを見る。

 駅南側の外壁には高校時代の恩師、藤川章造先生の原画および設計の壁画が設置されている。

 

 ↓ 藤川先生の手になる鋳造壁画、左部分。タイトルをメモするのを忘れ、ネットで調べたが、タイトルはおろか作者の藤川先生の名も見出すことができなかった…。

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 ↓ 同上、左部分。

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 壁画と言ってもそのほとんどは鉄の鋳造で、部分的に他の金属を象嵌したもの。何年も前から指摘していることなのだが、経年及び風雨等による酸化腐食が進行し、赤錆が浮き出し、実に痛々しい状態になっている。早急に修復ないし保全策を講じる必要があるが、相変わらず何も対応されてはいないようだ。

 

 ↓ 部分 赤錆は内部に進行してゆく

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 ↓ 同 部分 本来はどのような状態であったのか、もはや想像しにくい。

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 私は山陽本線の高架に伴う駅舎の改修時にはすでに防府を離れていたが、藤川先生が実に楽しそうにその壁画制作に打ち込んでおられた様子をよく覚えている。むろん、低予算下でのことであり、良いものを作ろうとされた結果、かなり予算をオーバーし、その分は自分で負担されたとも聞いた。いかにも先生らしいとは思ったが、それはそれで仕方がない。

 完成時点で防錆対策をしていたのかどうか、また先生の意図はどうであったのか不明だが、素材のほとんどが鉄である限り、錆が生じるのは避けられない。おそらくその後メンテナンスは一切されていないのではないだろうか。行政(JR?)が求めたのは低予算での単なる装飾であったかもしれないが、藤川先生が作られたのは美術作品であり、あえて言えば芸術作品を志向されたのである。

 作りっぱなし、作らせっぱなしで一切のメンテナンスを講じない行政という構図は、全国どこにでもある話だ。経済的には比較的安定した状態を維持してきたらしいわが故郷ではあるが、その反面「文化の谷間」とささやかれている地方都市であることも事実なのである。

 近くの高架下の壁面には、田中稔之さんのモザイク壁画がある。こちらは今回確認していないが、部分的に剥落や汚れもあるようだ。

 画家で言えば、先日亡くなられた吉村芳生さん、防府出身ではないが桂ゆき、小説家の高樹のぶ子伊集院静、そして山頭火。そうした防府市出身もしくはゆかりのある芸術家たちに対する対応を見れば、中原中也香月泰男に対するそれとは異なった、「文化の谷間」と言われてもしかたがない、わが故郷の風土性・精神性といったものが垣間見えるのである。

 

 ↓ 附録 その1 二晩泊めてもらったK宅の旧居の風呂場 右の棚が美しい「昭和の形」である。

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 ↓ 附録 その2 旧居の縁側=昭和の空間

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↓ 附録 その3 旧居の土壁 昭和のテクスチャー

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