艸砦庵だより

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中止された「表現の不自由展・その後」と「表現の不自由展 消されたものたち」

 あいちトリエンナーレ2019が大変なことになっている。

「情の時代」と題された「あいトリ」、その主要部分である国際現代美術展の中の一展示「表現の不自由展・その後」が、テロ予告を含めた苦情や、政治家の圧力等によって中止に追い込まれたというものだ。それは憲法21条によって保障された表現の自由を踏みにじるものである。炎上は日々激しくなっている。

 そのことについてはだいぶ大きく報道されているから、情報量としてはそれなりに多いものの、全体の構造は必ずしもわかりやすくはない。「表現の自由」ということと、「美術・芸術の問題」と、「政治的アポリア(解決不可能な難題)」といった要素が、ぐちゃぐちゃになって現出しているからだ。

 「表現の自由」ということと「美術・芸術の問題」だけならば、実際の解決可能性はともかく、たいていの場合は、問題の本質はそれほど複雑ではない。しかし、それに昨今の政治的情勢(従軍慰安婦嫌韓問題、天皇制の問題、憲法の問題、この三者は同根)が絡むと、にわかに「アポリア」の様相を呈するのだ。

 

 それらの政治的情勢が、戦後処理の倫理性を欠いた不徹底さに起因するのは、公正な歴史的観点に立てば明らかなのだが、現状はすでにそのような認識を共有することすら難しい。日本と同じ敗戦国のドイツの戦後のありようと大きな違いである。

 ワイツゼッカー元ドイツ大統領は1985年5月の議会演説で「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目になる」と訴え、ナチス・ドイツによる犯罪を「ドイツ人全員が負う責任」だと強調した。歴史を直視するよう国民に促した言葉は、90年の東西ドイツ統一後もドイツの戦争責任を語る際の規範となった。日本(政府および国民)はこうした規範を結局もちえないまま、今日に至っている。

 そのワイツゼッカーの演説にある公正感や歴史観が、今の日本でどれだけ受け入れられるだろうか。それを話題にするだけでも、ある程度の危険を覚悟せざるをえないのが現状であり、その具体的な例証が今回の炎上である。

 

 正直、私もこの件にはあまりコミットしたくないというのが、卑怯ながら、本音だ。

 だが、何人かの知り合いがこの件でFBに投稿している。それを見て気になったことの一つが、「見たかったのに、見れなくて残念だ」と書かれている事である。

 

 私は「表現の不自由展・その後」の前提となった、2015年1月にギャラリー古藤(東京都練馬区)で開催された「表現の不自由展 消されたものたち」(主催:表現の不自由展実行委員会)を見た。手元には、その時の薄い図録が在る。

 

 ↓ 図録 表紙

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 ↓ 図録 裏表紙

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 その時に出品されていた内容と今回の「その後」の内容が同一であるかは、今回のを見ていないし、ネットで調べてもよくわからないので、正確なことは言えないが、少なくともいくつかは今回も出品されている。キム・ソギョン+キム・ウンソンの「平和の少女像」や大浦信行の「遠近を抱えて」などである。

 

 ↓ 9頁 キム・ソギョン+キム・ウンソンの「平和の少女像」

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 ↓ 7頁 大浦信行 「遠近を抱えて」

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 美術館等の公共の場で展示拒否や中止といった事例は、過去数多くある。政治的な理由によるものが多いのだが、芸術の存在理由の一つとして社会批判・体制批判という機能・役割がある以上、当然のことながら、それは無理からぬことだ。公的な場においては、ある程度の軋轢が生じる確率は避けられないのである。美しく楽しい作品だけが芸術ではない。そして表現の自由ということは、理念としては確立していても、常に公益という文脈を挟んで、行政と「世間」によって、それはいともたやすく否定されてしまうのである。

 そうした事例に対して以前から興味を持っていた私は、それらの「展示を拒否された」、つまり普通では見ることのできない(例えば政治的な思想を内包した)作品を見る良い機会だと思って、ある意味で「勉強」のつもりで見に行ったのである。

 

 会場のギャラリーには私よりもやや年長の、関係者、おそらく実行委員会の何人かの方たちが、私を硬い表情で見ていたことを思い出す。私としてはこうした展覧会を企画した人たちに敬意を払っているつもりなのだが、それはうまく伝わらなかったらしい。

 それはそれとして、ある程度は予想していたことだが、それなりに良い作品もあったが、表現と表出が弁別されていない、生硬な思想だけがむき出しで投げ出されている作品もあった。そのため、全体としての質は決して高くない展覧会だと評価せざるをえなかった。

 作家がどんなテーマ・思想を持って作品を作っても、それはかまわない。それこそ表現の自由である。しかし美術・芸術作品として発表するからには、おのずからその質は問われるべきであろう。したがって印象としては、期待外れというか、あまり記憶に残る作品、展覧会とは言えなかった。

 今、一つ一つの作品について言及している余裕はないが、それらの中で、例えばキム・ソギョン+キム・ウンソンの「平和の少女像」はやはり、作品自体であるよりも、そのメッセージ性によって成立し、そのキャラクター性というかアイコン的意味によって成功している作品だと評価することはできる。この作品(とそれを母型とした複数の鋳造作品群)ほど現実社会に直接影響を及ぼした=機能した作品が近年あっただろうか。

 そのあまりの影響力からみれば、それはやはりプロバガンダの装置であると言うべきか、それともそのメッセージの発信源としての優秀さゆえにこそ優れた芸術であると言うべきか、あるいはそのいずれでもあると言うべきなのか、今の私には判断できない。

 

 私はもともとビエンナーレとかトリエンナーレといった、行政主導の文化的イベントは基本的に信用していないので、見に行かない。だが新聞等を通じて、ある程度の動向は目に入ってくる。今回の芸術監督が津田大介だと知った時には、ちょっと不思議な気がした。彼について知るところはきわめて少ないのだが、時おり朝日新聞に書いているのを読むくらいだが、あまり言っていることがよくわからないし、美術に関係する人とは思わなかった。まあ、メディアとかIT関係が専門のジャーナリストらしいから、現代美術を中心とする文化イベントには向いているのかなと思ったくらいである。最近は美術の専門からは少し外れる人がキュレーションすることも多いようだし。

 今回の炎上に関連して、珍しくネットで多少見てみたが、彼に対する攻撃をはじめとして、あまりにひどい情況なのには驚いた。まさにヘイトスピーチネトウヨ的言説の洪水だった。

 それにしてもと思う。私自身は美術・芸術作品としてさほど評価できなかった「表現の不自由展」を、なぜ「その後」として取り上げたのだろうか。美術・芸術作品としての質を度外視して、その「不自由」の構造を問いかけるためだったのだろうか。どのようにして。そして誰に向けて?

 だとすればその意図はあまりに不用心というか、炎上するに決まっている企画をあえて無防備に提出するのは、やすやすと行政および世間に「国益の下に表現の自由は制限されてしかるべきだ」という実行力を行使させる機会を与えるだけでしかない。「表現の自由」はかくもやすやすと現実に踏みしだかれるものでしかないということを、実証させる場を提供したということ、権力にまたもや味をしめさせただけだ。悪しき前例だけが着実に積み上げられてゆく。それは企画者としては、あまりに愚かな判断、戦略なのではないだろうか。

 これは余談と言うべきかもしれないが、中止決定後の実行委員会委員長の大村愛知県知事と会長代行の河村名古屋市長とのやりとりも、妙な具合だが、そのよじれ具合が、多少興味深い。河村名古屋市長は「旧日本軍によって~従軍慰安婦にされたことを示す文書は見つかっていない」とワシントン・ポストに意見広告を出したり、中国共産党南京市委員会の訪日代表団に「南京事件はなかった」と発言してきた人物。大村愛知県知事とは盟友というか、同じ穴のムジナと見ていたが、今回の中止の経緯をめぐっては激しく対立している。大村愛知県知事の「税金でやるからこそ表現の自由憲法21条は守られなければならない」とリベラル顔負けの主張には、ちょっと驚いた。

 

 皮肉な言い方をすれば、今回「表現の不自由展・その後」が中止されたことによって、やはり「表現の不自由」が存在するのだということが明示されたことこそが、「表現の不自由展・その後」の完成形であるということもできる。「中止されることによって完成する展覧会」。

 

 ともあれ、「見たかったのに、見れなくて残念だ」という人のために、判断材料の一つとして、「表現の不自由展 消されたものたち」の図録の図版を上げておく。

 

 ↓ 6頁 安世鴻 「中国に残された朝鮮人慰安婦』の女性たち」

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 ↓ 8頁 貝原浩 「鉛筆戯画」

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 ↓ 10頁 中原克久 「時代の肖像」

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 ↓ 11頁 永幡幸司 「福島サウンドスケープ

 

【以前に掲載していた図版は、作者から著作権に触れるとの指摘を受け、削除しました。図録に©の記載がなかったため、引用の許諾を怠っていました。(2019.8.16)】

 

 

 同図録には他にも「いまなにが問われるべきか 『隠蔽と禁止』がおびやかすもの」(論攷:アライ=ヒロユキ)、上映映像作品紹介、トークイベント紹介(ろくでなし子、鹿島拾市、イトー・ターリ、澤地久枝、開発好明)などが載っている。

 

 結局この稿では、私自身の意見というものは、ほとんど言わずじまいである。私にとっても未解決、判断困難なことが多いし、言いたいことを言うためには、力不足だと思わざるをえないからである。

 ただ、卑怯なようだが、あえて記せば、私は絵は思想であると思っているが、同時にイメージ(反思想)でもあると思っている。したがって、何よりも美術・芸術作品としての質、美しさを思想よりも上位に置く者であると。   (2019.8.5)