今日、荷が届いた。昨年暮れに買った植木智佳子さんの「作品」である。
暮れも押しつまった29日、所用があって都心に出た。そのついでに昔の教え子の植木智佳子さんの個展「物の伏線」の最終日に行った。教え子とはいっても、彼女は日本画研究室だったので、指導教員と指導学生という間柄ではない。たしか大学院修了後、東京都の先生になったように記憶しているが、はっきりとは知らない。まあ、その程度の間柄なのである。ともかく、(たぶん)教員業のかたわら、それなりにコンスタントに制作と発表を続けている。
会場は茅場町にある「古道具と創作 MAREBITO」という名の、あまりスタンダードとは言えないが、まあ雑貨屋風骨董屋。最近は骨董と現代作家という組み合わせは流行っている。そういうことか。入って見ると、面白そうなモノ(骨董・古道具・ガラクタ)があれこれと置いてあるが、肝心の作品らしきものが見えない。
ちょっと困っていると、作者の植木さんが、「ここに書(描)いてあるんです」と言って指さす。うん?目を近づけてみると、その器やら古道具やらのどこかしらに、何やら小さな文字で文章らしきものや小さな絵が書(描)かれている。これが今回の彼女の作品だとのこと。
つまり、彼女の感性で選んだ古道具・モノに直接、おそらくそのモノと照応した彼女の詩的断章が、金泥でかそやかに書(描)きしるされているのだ。それが今回の彼女の表現であり、作品なのだ。なるほど。
正直言って、その記された断章よりも、モノそのものの表情・魅力の方が見える。しかし、それは当たり前で、モノそのものに、かすかに彼女の想いを目立たないように添わせるというのが、眼目なのだろうから。そう思い至れば納得できる。それが成功しているかどうかは難しい。しかし、それも含めて彼女の表現なのだろうから、こちらはむしろモノそのものの表情・魅力を味わい楽しめば良いのだ。
そうして見ているといくつも気になるものがある。
そして買ってしまった。しかも二つ。
彼女の作品を買ったのか、骨董=モノを買ったのか、自分でも判然としない。いや、正直に言えば、3:7で骨董=モノを買ったのである。
作者曰く「どちらでも良いんですよ。書(描)いたものなんか消してもらって、モノだけ見てもらっても構わないし」。モノだけ見ても、それが彼女の感性を通して選んだものである以上、それは作家の感性≒表現を買ったのと同等であるということらしい。それは考えてみれば、相当な自信の現れであるとも言えるし、相当な能天気であるとも言えようが、ちょっと煙に巻かれたような、「一本取られちゃったな」みたいな、妙に爽快なやり取りであった。
一つは、見た瞬間圧倒された(?)のであるが、水筒。素材は豚の膀胱。おそらく中国あたりの物ではないかと思う。ボロボロだが、コルクの栓も付いている。フォルムが素晴らしい。半透明の物質感もおもしろい。
↓ 豚の膀胱で作られた水筒。わずかな半透明感。
革製の水筒は世界中どこでもあるから、豚の膀胱のそれがあっても不思議ではないが、初めて見た。いや似たようなものはトルコの博物館あたりで見たことがあったか。そういえば19世紀半ばに金属製のチューブができるまで、油絵具等は豚の膀胱で作った小袋に入れて使用していたのだった。
肩には「蜂蜜を舌で転がす含まれたそれは喉の奥へゆっくりと落ちてゆく」と金泥で記されている。
↓ 横には植木さんの詩文(?)
もう一つはちろり。「ちろり」と言っても知らない人も多いだろうが、要は酒を温めるための銅や真鍮製の筒型の容器である。これもやはりフォルムが美しいが、特に取っ手の繊細なデザインがおもしろい。
脇に「こんばんはと天井の遥か上からのジェット音をきく」と、やはり金泥で記されている。
↓ ちろり。正面に金泥の詩文。
↓ 反対側。取っ手と蓋のつまみの造形が美しい。
共にどことなくモランディの絵を思わせるところがある。自ずから在る静謐。
二つの文章は非定型短歌のようにも思われるが、おそらく作者はそんな面倒くさいことはどうでも良いのだろう。こちらも短歌であれ、何であれ、感性の断章として読むことにしよう。
値段は忘れた。むろん私が買えるのだから高くはない。骨董類の場合、買える値段であれば、それがいくらかはあまり問題ではなく、したがって値段もあまり覚えていないのである。二つで3万円台程度だったような気はするが、作品として考えれば安い。
ともあれ、面白い買い物をしたものだ。
(記:2020.1.21)