艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

「小ペン画ギャラリー」その1 とりあえずの(女房が選んだ)3点

 フェイスブックの最近の自分の投稿を見直して見ると、なんだか自然愛好的家的なコンテンツが多い。そういう一面があることは間違いないから、それはそれで構わないのだが、やはり釈然としない。

 

 FBやブログとのつき合い方というか、使い方は、人それぞれであると思うが、正直に言って私は、ブログはともかく、FBとの関係性や距離感のようなものが、いまだにつかめていないのである。さすがに具体的な反応があるということはわかるし、それが少しばかりはうれしいと思うこともある。

 基本的に私は、FBやブログを自分の作品とは限らず、文章を含めた表現の発表の場としてとらえている。ブログで9割、FBで7割程度がそうで、残りは宣伝・広報ないしその他的な場。

 昨年のように個展が2回、グループ展が3回もあれば、その過程でさほど無理もなく、FBに自分の作品や思考を、宣伝・広報と共に、ある程度は上げていくことができる。しかし、今年のように、今のところ確定的な個展の予定もないとなると、その流れがちょっと難しい。ましてや昨今のコロナウィルスによる自粛ムードの蔓延する世の中。

 といって、(あくまで私にとっての感覚であるが)割と多くの作家がやっているような、あまり脈絡や必然性を感じさせない作品やコメントの出し方も、好みではない―むろん、人それぞれなのではあるが。元々宣伝も営業もする気はないのだが、やはり絵描きである自分が作品をあまり登場させないのも面白くない。

 

 そんな気分から、前段として先日、「『小ペン画―その小さな世界』について」をブログに投稿した。最近の制作の中心となっている「小ペン画」についての、といってもその周辺についてのあれこれである。その延長というか展開として、これから何回か「小ペン画ギャラリー」とでもいった感じで、何点かずつアップしていこうと思う。もとより確固とした予定や計画があるわけではない。自分で面白がりたいだけである。

 必然性と言いながら、第一回目だけは、作品のセレクトを女房にやってもらった。他者の目で選んでもらうところからスタートしたかったからである。おそらく今回に関しては、作品どうしの関連性といったようなものはないと思う。女房好み、ということだろう。いずれ今後は、多少の関連したテーマやモチーフということになると思う。

 作品はすべて未発表。ひょっとしたら今年の末か来年にはそれらを中心とした個展をするかもしれないが、今のところ未定である。

 

 以下、作品紹介。

 

 

54 「手から花」

 2019.9.28 11.4×9.6㎝ 膠引きの和紙にペン・インク・色鉛筆

 

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 自分でもよくわからない作品。まあ、そういう「わからなさ」も絵を描く面白さの一つであろうとは思っている。絵柄的にはちょっと面白いかとも思うが、女房がこれを選んだ理由はよくわからない。少し不思議だ。

 

 

77 「石売り花売り」 

 2019.10.11 16×12㎝(中サイズ) 雑紙(淡グレーの封筒)にペン・インク・鉛筆

 

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 紙は小ペン画では珍しく、封筒の紙。いわゆる茶封筒を含めて、多少の色(ハーフトーン)がついている封筒の紙は、イメージ・アイデアスケッチ用には使い勝手がよく、よく使うが、作品用としてはコクが足りず、あまり使うことはないのだが。

 適当に切ったら右下に少しはみだしが出た。手漉き紙などの縁を「耳」と言うが、別の場ではこうした予期せぬ裁断ミスのはみ出しを「福耳」と呼ぶ。

 私は、絵とはキャンバスであれ、紙であれ、「物質」の上に描かれた物であるということを、昔から意識、重視しているので、こうした「耳」はなるべく切り落とさないようにしている。「耳」が紙を「平面」としてだけではなく、物質としての意味も主張してくれるからだ。すなわち「耳」も絵の内。それがこの作品にどの程度貢献しているかどうかはわからないが、少なくとも私はそれがもたらす全体の表情は好きである。

 イメージとしては、アジア的物売りを連想させる。別に実景や写真を参考にしたわけではないが、似たような実景はかつての旅で何度も見た。実際に石(結晶・鉱物)と花などを一緒に売り歩いている商人を見たことがあるわけではないが。

 

 

261 「花の木に佇つ」

 2020.4.16-18 12.9×8.8㎝ ドーサ引きの和紙にペン・インク・水彩

 

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 近作。一瞬視界の隅を通り過ぎた映像の、陶器(?)だったか絵画(?)だったかの絵柄(松?梅?―確認する間もなく、忘れた)の残像が始まり。

 それだけでは絵にはなりようもないが、すかさず、そこに立つ/佇つ人物のイメージが発想/幻視(?)された。一瞬走り描きしてみれば、ガラスのマントの風の又三郎か鳥男かとも思う。しかしそれでは付きすぎ、ありがちだ。そして何者でもない人物になった。

 遠くの街並みと山を組み合わせて風景仕立てとする。空に雲を浮かべるのは初めてか。

 

 

264 「私の赤い繭」

 2020.4.19-20 9.4×8.6㎝ ミャンマー紙(ブーゲンビリア漉込)にペン・インク

 

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 これも近作。

 紙はミャンマーで買った手漉き紙のノートを入れてくれた、いわば包装紙。それも同様の手漉き紙だが、いわゆる民芸紙風に色々な種類の花びらや葉っぱなどを漉き込んである。そうしたものには興味がないのだが、ただ捨てるのは少し惜しい。適当に切って、何となく手元において、そのブーゲンビリアの花びらの赤を見ていたら、ふと、描いて見る気になった。

 この「ふと」が大事なのだ。意識して「生かそう」とすると作為的なものになりがち。その赤い形に見合う形、この場合は顔を描いて見れば、それでイメージは完結する。

 紙にドーサ引きやサイジングはしていない。日本の和紙に比べればかなり雑なつくりなので、丸ペンではきわめて描きにくい。でも丸ペンで描いた。ほんの少し力が入りすぎると、けば立って始末に負えない。慎重にごく短時間で描き終えた。

 「繭」としたが卵でも構わない。なるべく単純に完結したイメージは、私にとっても大切なのだ。

 

 

(記:2020.4.20-21)