いつものように昼近く起きてみれば、天気予報は外れて、久しぶりの青空。なんだか心が躍る。今日の予定はあるにはあるが、それは必ずしも今日でなくてもよいことだ。
急きょ石仏探訪と、ちょっと久しぶりの裏山歩きならぬ里山歩きに行きたくなった。石仏探訪はつい最近も行ったばかりだし、どうかとも思うが、時季と天候のせいで、里山(裏山)歩きは間が空いている。運動のためという名目も立つ。
たまたま前夜、ネットであれこれ探していた時に偶然見つけた「天合峰」。地形図にはその名は記載されておらず、知らなかったのだが、以前から気になっていた里山の一つだった。その近辺は以前から何度も車で通ったことがある。新緑の頃は、思いがけぬ美しさだった。周辺の里山にはある程度足を運んでおり、自宅近くとしては数少ない残された領域の一つでもあった。
↓ 一番上の神社マークが熊野神社。300.2が天合峰。本当は左側の破線を下りるはずだった。
天合峰という少し変わった山名は、以前は「天狗峰」だったようだ(三角点名としては「天狗峰」だとの事)。以前、圏央道の建設に際して、高尾山の天狗なども原告となった「高尾天狗裁判」というのがあり、多少評判になった。当時、私自身はあまりピンと来なくて、何のかかわりも持たなかったのだが、その後天狗の本場、奈良県天川村在住の若い画家A君と知り合い、高尾山に一緒に登り、その影響もあって、淡い興味を抱くようになった。元々、五日市と八王子は古くから高尾山と深いかかわりがあったということは知っていた。皮肉なことに、その圏央道は天合峰の真下を通っている。
それにしても時季が悪い。標高の低い里山歩きは晩秋からせいぜい五月までぐらいのもの。前夜天合峰の名を知った前夜は、10月ごろにでも思ったのだが、今日の思いがけない青空を見ると、無性に行きたくなってしまった。
ブランチ後、14時過ぎに自宅を出る。自転車で小峰トンネルを越え、前回の石仏探訪の終了地点近い熊野神社から探訪スタート。鳥居には「熊野神社 八雲神社」と併記されている。神社そのものにはあまり興味がないが、この地に熊野信仰、修験道、天狗信仰等の普及ということがあったことは想像できる。
社そのものは新しいコンクリート製で、味気ないが、鳥居の近くにはいくつかの神社名などを刻んだ角柱や地蔵が置かれており、もう少し由緒等を知りたいと思う。
次いで、その上の三光院という寺に行く。ここも新しく再建された立派な寺で、整えられすぎていて興味を持てない。どういうわけか古い石仏類は一切見られなかった。
早々に辞去し、川口川沿いに下流に向かい、再び山裾の道に入る。やはり感じが良い。ほどなく辻堂があり、いくつかの石仏がある。
↓ 辻堂。いい感じだ。
四面に地蔵の彫られた供養塔。ちょっと珍しい。基礎に「願主 釜沢村女人 講中」とあり、当時の女性たちのそれなりの在りようがうかがわれる。
↓ 四面に地蔵が彫られているが、基礎の文字を見ると念佛供養塔。
ほかの地蔵、如意輪観音、灯篭と見ていると、二つに折れた角柱に目がいく。うっすらと猿の姿。四角柱の三面に三猿を彫ってあるから庚申塔だ。その上に、青面金剛は摩滅したのか、見当たらないが、各面に三猿を彫った形式のものは、私は初めて見た。
↓ これは珍しい(?)三猿の庚申塔。上部は摩滅していて見えず。読めず。
ついでにすぐ傍らの稲荷神社ものぞいて見る。石祠が一つあるだけだが、傍らには最近のものと思われる素人?アーティスト?の作った女性像が置かれていた。まあ、それなりの味…、妙な味ではあるが。
↓ う~ん…。
道なりに進んだ圏央道の下のスペースには、近辺から集められてきた石仏群が置かれていた。
↓ 圏央道下の石仏群。ここのネットに自転車をデポ。
庚申塔、地蔵、正体不明のいくつか、石造物の残欠。表面の風化剥落の激しい青面金剛に比べ、剥落しきった後の三猿が妙に生々しい。
近所の方が供花に水をやられていた。ここに自転車をデポする。
金毘羅山入口の手前の路傍には、植木の陰に隠れていた、ごく小さな如意輪観音。愛らしい。
↓ 小さな如意輪観音。小さくて見落としそう。左右に「信」の字が読める?
金毘羅山へ向かって進むと、青面金剛の庚申塔と、基礎に「念佛供養塔」とある地蔵丸彫立像。庚申塔の青面金剛は足元に鬼を踏みつけている。三猿だけではなく、鬼が彫られているのを見るのは初めてだ。
↓ 青面金剛一面六手が鬼を踏みつけている。写真では写っていないが、その下には三猿。上の二手には何も持っていない。
集落のはずれ、左に「厄除稲荷大明神」を見て、右に墓地を見ると、いよいよ沢沿いの山路となる。路は鉄板敷の立派なもの。湿度は高く、無風で、薄暗い。
左のは明治29年/1896年のものとのこと。まわりの雰囲気と相まって、以前訪れたバリ島のそれを思い出した。ヒンドゥー教の島ではあるが、倶利伽羅不動明王の明王はヒンドゥー由来のものであるから、水神信仰としての蛇(龍はその理想形)の相似は、当然と言えば当然。似たような趣向となる。
↓ これはバリ島で見たもの。観光客向けの新しいものと思うが、趣旨は同様。ただし龍ではなく、大トカゲ。
↓ 同上。趣旨は知りませんが、まあ水神ということだろう。
少し登れば赤い鳥居。ここから金刀比羅神社の神域。頂上には新しい社があるだけで、山名表示板ほか何もない。
↓ ここから先は神域。金刀比羅神社の鳥居も赤いのか?
社の裏から山道を辿ると左に金網の張られた水道施設があり、目の前には広大な伐採地が広がる。その向こうにはニュータウン、宝生寺団地。
↓ 向こうは宝生寺団地。
この天合峰の南面に巨大な物流センター建設の話があるとネットで見たが、現時点ではどうなのかわからない。北側の雑木林と南側の伐採地の際を縫うように進む。特に問題はなく、歩きやすい。ところどころに住宅整備公団や「動植物調査のため」といった立ち入り禁止の看板がある。
↓ 密生した辞林タイト伐採地の際を歩く(振り返り撮影)。
ふと物音に目を向ければ、牝鹿が一頭走り去っていった。こんなところに鹿がと思うが、狸や猪らしい糞も散見していたから、鹿がいても不思議ではないのかもしれない。
思ったよりは簡単に 天合峰頂上に到着。桜の木には300.2m、下の石には299.9mと記されている。四捨五入すればぴったり300m。以前、こうしたぴったり標高や1234mとか2222mとか、数字の語呂合わせというか、カウントマニア的な標高の山に興味を持ったこともあったが、世の中、物好きな人はいて、資料として公表されてみると興味を失った。
↓ 天合峰山頂。三角点と奉賽物?
そんなことよりも、頂上には意味ありげな、不思議な石積みがいくつもある。ケルンのような単なる石積みということでもよいのだが、それらの多くは山頂にはあまりふさわしくない丸い平べったい、河原石。つまり下から持ち上げてきたように思われる。中でも写真右奥の長円形のそれは陽石のようにも見える。天合峰=天狗峰ということからも、昔は何らかの祠か何かがあったのではないかと思われる。これらの丸石はその祠への奉賽物だったのではないだろうかというのが私の推測。そうした例はこれまでに何度も見たことがある。
↓ 元は奉賽物かと推測した石積。
↓ 右奥のこれは陽石?
案外感じの良かった頂上を後にして、尾根筋を辿る。伐採地とは離れ、密生した樹林帯の中を行く。足元はしっかりしているものの、手入れはされていない。倒木が多く、蜘蛛の巣が多く、かなり鬱陶しい路が続く。
↓ 実際はこの写真以上に鬱陶しいです。
これまでも含めて全行程、道標の類は一切ない。視界はきかず、現地確認が難しい。地形図とコンパスをこまめに確認しつつ、慎重に進むが、一度間違え、軌道修正。その後も何か所か分岐があり、そのこれが最後だろうという分岐を一つ早く読み間違えてしまい、三光院に下るはずの尾根よりも一つ手前の枝尾根に入ってしまった。
最初はそれなりの踏み跡もテープもあったが、次第に怪しくなり、ついに踏み跡も消滅。その尾根を下りきったところの沢の二俣は、下まではいくらもないはずだ。その少し下流には途中まで破線が来ているが、あてにはできない。実際それらしきものは最後まで見つけられなかった。沢筋を下るが、薮はだんだんひどくなっていき、とうとう密薮と言ってよいほどになってきた。さすがに鬱陶しい。悪戦苦闘30分ほど、左に建物らしきものを見つけて登れば、そこは三光院の裏の墓地だった。やれやれである。この時期の低山の藪漕ぎは最悪だ。自分のせいだから文句も言えないが、里山であっても読図の難しいルートだった。
自転車で通った道を辿り直し、圏央道下の自転車デポに到着。前回と同様に網代トンネルを抜けて帰宅。
普通であれば1時間半ほどの行程だろうが、久しぶりの山歩きだったり、石仏観察に時間を取られたり、藪漕ぎがあったりと、倍以上の時間がかかった。今更ながらこの時期の整備されていない里山歩きは、不快な要素が多いと言うしかない。したがって達成感というようなものもないが、まあそれでも、行かないよりは行ってみて良かったというところか。自分にとっては初めての石仏を見ることができたのは、やはり少しうれしい。
(記:2020.7.20)
↓ 圏央道下の石仏群の一つ。いくつもの残欠が今もこうして祀られて(?)いる。