艸砦庵だより

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石仏探訪-10 「首無地蔵・丸石地蔵と廃仏毀釈」(2021.1.25) 

  石仏探訪をしていると色々と不思議なことに気づくことがある。その一つが「首無し地蔵」「丸石地蔵」だ。

 

↓ 首無地蔵 地蔵菩薩宝珠錫杖 丸彫立像 あきる野市高尾大光寺

わが家から歩1分のところに立っている。それなりに立派な像塔だが、なぜか資料には記載がなく、詳細不明。基礎正面の刻字も見ただけでは読めず。

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↓ 丸石地蔵 地蔵菩薩宝珠錫杖 丸彫立像 八王子市高月路傍

念仏塔?としての地蔵。宝暦年間(1751~64)?。

地蔵の頭部に据える丸石については、道祖神や、屋敷神や稲荷等の御神体としての丸石と同様の、基層信仰としての丸石信仰があるのだろう。

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 仏像、中でも石仏と言われるものの中で、最も多いのが地蔵菩薩である。

 仏教伝来以来、国家鎮護の制度性として取り入れられた仏教は、貴族支配者階級の独占物から、次第に定着し民衆化していく中で、独自の日本化を進展させていった。その過程における様々な教説の輸入と定着、そして新しい教説の創出と宗派の成立等の過程で、信仰の対象として支持(=人気)を集めた仏(像)は、飛鳥白鳳時代の釈迦如来から、薬師如来阿弥陀如来大日如来観音菩薩地蔵菩薩へと遷り変わる。

 特に仏教が民衆の日常生活に深く根を下ろした江戸期以降は、地蔵菩薩はその二世(この世とあの世)御利益の趣旨もあって、最も身近な仏として愛されていた。さらに経済的にも安定してきた民衆自身によって、形態的にも加工しやすく、比較的容易に造立することのできる石仏という形をとることによって、路傍に、寺院に、また墓標仏として無数の地蔵菩薩像が造立された。

 これまで見てきた石仏の中で、墓標仏も含めた像塔でいえば、その八割以上が地蔵ではないかというのが実感である。今日新たに石仏が建てられることは少ないが、地蔵だけは別である。今なおいろいろな形で、あちこちで新しい地蔵が建てられている。

 そんな、人気のある地蔵ではあるが、そうした数多い地蔵の中で、墓標仏は別にして、寺院や路傍にある丸彫立像に関して言えば、その九割以上が、首がないか、あるいは継がれていたり、丸石に置き換えられていたり、新たに造られた頭部が載せられている。首が折れ、あるいは紛失した地蔵。それがあまりに多すぎる。それはいったいどういうことなのか。

 

↓ 丸石地蔵群 地蔵菩薩丸彫立像 八王子市美山町路傍

元は墓標仏としての地蔵だろうか。どれも小さいもの。すべて丸い自然石が乗っている。詳細不明。

こうして並んでいると、これはこれである種の可愛らしさも感じられるが。

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↓ 頭部新造地蔵 地蔵菩薩合掌? 丸彫立像 八王子市美山町路傍

詳細不明。頭部は近年の補修。自然石を置くだけでは忍びないと思ったのか、近所の素人による作だろう。供養造仏は心の問題だからその巧拙は問題にしないということになっているが、いかがなものだろう。しかしこれはまだましな方である。

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↓ 頭部新造地蔵 右:地蔵菩薩宝珠錫杖丸彫立像 中:地蔵菩薩丸彫座像 日の出町谷ノ入祥雲寺

右は念仏供養塔として建てられた地蔵。正徳2年/1712。中の座像の地蔵は詳細不明

平成元年発行の資料の図版では頭部は欠損のままであったから、それ以降の補修。ここでもその巧拙は問うべきではないかもしれないが、正直言ってやはり見苦しいと言わざるをえない。罰当たりだが、つい「ウルトラ地蔵」と言ってみたくなる。しかしやはり、これでもまだましな方である。

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 明治維新における廃仏毀釈ということは、一応知識としては知っていた。だが、長くその地域で愛されてきた地蔵だけが、民衆自身の手によってことごとく破壊されるということは、人情(?)としても無いだろうと、漠然と思っていた。割合としては多くはないが、庚申塔馬頭観音、特に像の刻まれていない文字塔などは、折れたり壊れている割合は比較的少ないのだ。

 地蔵菩薩像立像の多くは、宝珠と錫杖を持った僧形の丸彫立像である。丸彫立像であるから、プロポーション的には細長く、つまり倒れやすい。倒れれば、足元を起点としての遠心力によって、頭部は容易に破損しやすいだろうということは想像できる。

 私は首無地蔵のある程度は、そのようにして、自然に倒れた際に破損したのではないかと思っていた。だが考えてみれば、それでは割合が多すぎる。冷ややかに見てみれば、形状、構造・力学的に、地蔵の立像は棒切れ一本で容易に頭を打ち飛ばすことができる。

 

↓ 地蔵菩薩宝珠錫杖丸彫立像と寒念仏供養塔 日の出町新井 新井倶楽部

左の地蔵は廃仏毀釈の際、五片に分断され埋められていたが、昭和62年に発掘され復元したとの事。約120年間埋もれて忘れられていた。五片に分断されて埋められていたのだから、周到で意図的な破壊である。所在地の新井倶楽部は、廃仏毀釈によって廃寺となった妙楽寺の跡地である。つまりこの地蔵は寺の境内に立っていたということだ。現在は「妙楽地蔵」と名付けられている。

右の石灰岩の寒念仏塔は享和元年/1801年。こちらは破壊されず、ずっとすぐ近くに在り続けたようだ。ちなみに穴の開いたその形状から「姫石(陰石=女陰石)」とも考えられる。宝珠錫杖の地蔵立像はその形状から古くから陽石(男根)と見立てられることがあったが、据え付けられ直され並立している現状の配置は、そうした昔からの性信仰が今なお尾を引いているとも言えるだろう。

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 廃仏毀釈(=神道の国教化)という(上からの)宗教運動で、頭部や顔が破壊される、それはわかる。顔や頭部の破壊は、手っ取り早いシンボルの破壊だからだ。2001年のタリバーンによるバーミヤンの大仏の破壊はその典型的なものである。キリスト教会の壁画や仏教遺跡の仏像の顔が破壊されているのは、主にアジア圏・中近東の幅広い地域で数多く見てきた。

 

↓ 頭部は馬頭観音丸彫。基礎は別の塔の基礎。あきる野市小川慈眼寺。詳細不明。

頭部の欠けた像塔は多いが、頭部だけ残っているという場合も時にはある。以下、いくつか紹介してみる。

この頭部は馬頭観音だが、丸彫の馬頭観音はきわめて珍しい。惜しいことだ。基礎このあたりに観音霊場があったことを示す「第二十九番」と刻まれている。

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↓ 頭部は地蔵菩薩丸彫。下にあるのは馬頭観音浮彫立像舟形。あきる野市星竹普光寺。詳細不明。

たまたま残った地蔵の頭部を、頭部の欠けた馬頭観音にただ乗せただけのもの。意味はないだろうが、気持ちはわからなくもない。ちょっと面白い造形になっている。

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↓ おそらく念仏供養の浮彫舟形に別の地蔵(?)の頭部をくっつけたもの。その趣旨は不明。八王子市上川町大仙寺。詳細不明。

これは正直いって、異様な印象である。舟形光背の中央には別の像が彫られていて、その像の部分が欠落し、たまたま残っていた別の頭部だけをくっつけたということなのだろうか。しかし、補修?にしてもなんとも不思議な補修である。

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 私が見てきただけでも多すぎる首無・丸石地蔵は、果たしてどの程度が明治維新廃仏毀釈によるものなのか、あるいは他の要因があるのか。それを知りたいと思った。

 

 さて明治維新廃仏毀釈である。それを知るためには、その前提としての神仏分離を要請されるに至った状態、つまり神仏習合について知らねばならない。それについてもある程度は知っているつもりでいたが、実のところほとんど知っていないのだと認めざるをえない。さらに神仏習合を知るためには、そもそもの日本の基層信仰としての神道や、修験道を含めた宗教史全体を知らなければならないと思い至った。

 う~ん、困った。しかし乗りかけた舟である。この際、ある程度体系的に学び直したい。そういう時は岩波新書である。三冊(二冊を購入。一冊はだいぶ前に購入したまま未読)を積み上げて読み始めた。

 

 『日本宗教史』(末木文美士 2006.4.20第1刷 2012.7.5第8冊)

 『神仏習合』(義江章夫 1996.7.22第1刷)

 『神々の明治維新 ―神仏分離廃仏毀釈―』(安丸良夫 1979.11.20第1刷 2007.11.26第13刷)

 

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 なるほど。さすが岩波新書。必ずしもこれらが最良の書であるかどうかはわからないが、また当然ながら、取っ付きにくいある種の学術臭もあるが、とにかく久しぶりに濃厚なお勉強的読書体験を堪能できた。今更ながら、自分の知の体系のずさんさを思い知る。

 ともあれ、日本の基層(古層)信仰としての神社/神道と、普遍宗教/外来の先端的文化としての寺院/仏教と、「完全に開かれた系での複合体」という形で、現実的な相互作用として機能・展開したということを知った。それはヨーロッパにおける先行するドルイド教やゲルマン信仰とキリスト教の関係、中国の道教、南米のインカの信仰とキリスト教の関係等々、つまり先行する基層信仰と新しい普遍宗教との出会いの様相と相似する。

 また、例えば本地垂迹説によって、天照大神大日如来、日天子、観音の垂迹(化身)とみなされたということ。等々を知った。

 結局のところ、宗教とはやはり解釈ないし物語の創作ということなのか、というのが私のいだいた感慨である。

 

 廃仏毀釈ということでは、以前から私の故郷山口県であまり石仏を見ないこと、また石仏関係の資料を探しても、山口県関係のものは妙に少ないということが不思議であった。『山口県の石造美術』(内田伸 1985年 マツノ書店) によると川勝政太郎の1967年発行の『石造美術入門』の「地方別重要古遺品一覧表」には山口県のものは一点も記載がなく、県名すら載っていないということである。私が古本サイトなどで調べた限りでも、市町村単位で発行されているのは、わずかに3点のみ。他と比べて例外的に少ない。

 それに関しては『神々の明治維新 ―神仏分離廃仏毀釈―』によって以下の事を知った。

 明治維新を思想的に準備したのは水戸国学尊王攘夷論であるが、維新前後にその思想を受け継ぎ実践した勢力の中心にいたのは長州藩である。その先駆段階として次のような記述がある。

 「長州藩では天保十三年から翌年にかけて、村田清風(註:幕末の長州藩家老)を指導者とする天保改革の一環として、淫祠の破却が強行された。~(中略)~寺院と村々の小堂宇・小社祠などの全てを淫祠とみて破却し、~(後略)~ 」、「藩の『御根帳』に記載されたいわば公認された社寺堂庵は3376、『御根帳』記載を予定されているもの450、破却されたのは社寺堂庵9666、石仏金仏12510にのぼった。民間信仰的性格のつよい小祠・小堂庵・石仏・金仏などはことごとくは破却され~」

 社寺堂庵だけでも実に7割以上が破却され、膨大な数の路傍の石仏が破却されたということだ。村田清風は明治維新推進の基盤となった経済政策面では今なお高く評価されているが、その反面でこうしたこともしていたのだ。

 石仏探訪に興味を持って以来、コロナ禍もあって帰郷する機会に恵まれていないが、これまでの体験で山口県には石仏が少ないという印象も、そう間違ってはいなかったようだ。

 実は現在私が住んでいるあきる野市でも、養沢地区や盆堀地区では廃仏毀釈が激しく、その結果、寺は廃され、今も住民は基本的には神道だけであるとの事。廃仏毀釈の余波は今なお残存しているのだ。

 明治維新前後における廃仏毀釈の激しかった藩や地方として、津和野藩、隠岐佐渡薩摩藩土佐藩、苗木藩(岐阜県内の小藩)、富山藩、松本藩などがあげられている。その内のいくつかは長州出身の宗教官僚が入り込むことによって、廃仏毀釈が強力に推し進められたということだ。

 

 とはいえ、いかにお上の命令(?)であるとは言っても、人々が慣れ親しんだ習慣であるところの信仰をそう簡単に転向できるとも思えない。したがってたとえ渋々ではあれ、上からの命令・要請に人々が従ったというのには、やはりそれなりの理由があるのだろうと思う。

 その一つに、江戸中期以降、世俗化し、宗門人別改帖や寺請制度などによって権力の一翼と化した寺院仏教への反感というか、ルサンチマンに近いものがあったのではなかろうかと推測される。ただし、そのことについては、私自身まだ納得できる段階には至っていない。 

 

 ともあれ、以上見てきたように、明治維新における廃仏毀釈は、一言で言えば、尊王攘夷運動の理論的進化形である国家神道観(=神道国教化)に基づく、明治維新という近代国家社会確立の過程における、上からの宗教改革であったと言えよう。その本質は復古思想であるがゆえに、一過性の一時的現象でしかなかったが、現実的な一面では昭和20年まで続いた国家神道を完成させたのであり、靖国神社という変形した具体的な形で、今なお存在している。その下に、同時期に実施された神社の様々な再編成(祭神の再編も含む)の推進によって定着した、嬉々として、あるいは粛々と御参りされるべき今日の神社がある。「なにごとのおわしますかはしらねども」

 

 結局のところ、繰り返しになるが、宗教とはやはり創作された物語への帰依でしかなく、それを求める人々の心性が必要とする自己の反映といったもの、ということなのか、というのが私のいだいた感慨である。

 そして廃仏毀釈の実践の最先端で、地蔵の首を叩き折り続けた民衆自身のネルギーの噴出は、「見てきた物や聞いた事 いままで覚えた全部 でたらめだったら面白い そんな気持ち分かるでしょう(「情熱の薔薇」ブルーハーツ)」といった、変革の時代特有の一過性の情念にも由来するのではないかと思うのである。

 あるいは偶像破壊への衝動。それは現代にも通底するものではないだろうか。