艸砦庵だより

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石仏探訪-15 「美しき聖観音と世界の墓地 – 2」

 少し前に八王子市恩方方面に石仏探訪に行った。自転車やバスで行くとなるとかなり不便な地域だが、女房の車で行くと30分足らず。

 恩方と言えば、和田峠に抜ける案下川沿いの陣馬街道と「夕焼け小焼けの里」。だが私が最初に目指したのは、その上流の支流の醍醐川流域。バス便もなく、より不便なところだ。手持ちの資料はない。

 まず地図上の最奥の卍記号龍泉寺に行く。境内に雰囲気の良い石仏群はあるが、小規模でさほど興味を引くものはない。引き返して本命の陣馬街道に戻るかと思っていたら、女房が何やら地元の人と話をしている。ウォーキング途中の、けっこう石仏に興味をお持ちの方。この先に何か所かあり、ウォーキングのついでに案内してあげましょうと言われる。

 資料のないところで石仏を探すのは、難しい。在るのか無いのかさえわからないのだから。地元の人に聞くのが一番だが、地元の人でも、興味のない人は全く知らないということが多い。その方の先導で何か所か見せていただいたが、なるほど、これは知らなければまず見つけられないだろうというところが多かった。実に感謝感謝である。

 

 醍醐川自体はまだ奥まで伸びているが、その人のウォーキングコースの折り返し地点(最奥の集落?)に福寿草の群落と共に、素晴らしい観音像があった。聖観音、開敷(かいふ)蓮華持ち。浮彫立像舟形光背。蕾の未敷(みほう、またはみふ)蓮華を持つものは多いが、開いた蓮華を持つのは比較的珍しい。蕾のままの蓮華はまだ悟りに至らぬ人々を、開いた蓮華は悟りを開いた段階の人々を表す。ちなみに聖観音とは、三十三通りに変化するという観音のスタンダードな姿。だから正観音ともいう。

 

 ↓ 聖観音と三つほどの自然石の文字塔墓石。全体が小さな屋敷墓だったと見るべきか。

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 左右に年記があり、二人分の供養塔と思われる。端正な彫りで、無理のない自然なフォルムと自然な表情。素晴らしい造形である。私が見た中で最も美しいものの一つ。

 端正な彫りで、ゆったりとした自然なフォルムと、飾り気のない自然な表情が素晴らしい。これまで見てきた聖観音の中でも最も美しいものの一つ。

 光背の左右に「天保十亥九月吉日 一應貞□信女」、「 天保十亥七月〔 ]」と刻まれているから、二人の女性、あるいは夫婦つまり両親かの供養塔であろう。天保十年は1839年

 

  ↓  聖観音菩薩 浮彫立像舟形光背。

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 すぐそばには、福寿草の群落と共に、「~早世~」と読める自然石の墓標(残欠?)や、「延宝?□~」「~(読めず)~」といった刻字の認められる自然石の墓標(残欠?)があったから、ここは規模のごく小さな屋敷墓(というべきかどうか、よくわからないのだが)だったのかもしれない。「延宝」年間だとすると、1673~81年だから、相当古い。

 

 そのすぐ近くには、青みがかった自然石に線刻された地蔵菩薩宝珠錫杖があった。正徳2年/1712年。「施主 五人」とある。彫りは素人臭いが、かえって朴訥な味わいの面白いもの。帰宅後確認したら『八王子石仏百景』(植松森一 1993年 揺籃社)に「通称:疣地蔵、勝負地蔵。この年恩方で疫病が流行し子供が死亡したことと関係あるかもしれない。」とあった。

 

 ↓ 地蔵菩薩宝珠錫杖 線刻(下部少し埋没)。正徳2年/1712年。

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 案内していただいた中には、他にも、やはり立派な彫りの寒念仏塔を兼ねた庚申塔を中心とする石仏群やら、それとよく似た彫りの庚申塔と二十三夜塔、一面二手としては珍しい憤怒相の馬頭観音やら、「日蓮上人菩薩祈願所」と彫られた道標やら、珍しい、面白いものが多くあったのは意外であった。今でこそ寒村といった趣きの裏街道沿いの小さな集落の連なりだが、和田峠によって甲斐の国とをつなぐ要衝でもあったのだろうから、往時はそれなりの人通りや経済活動があったのだろう。

 

 

 ↓ 途中の車道から少し入った旧道山道にあった石仏群。寒念仏塔を兼ねた立派な笠付角柱の庚申塔。基礎の三猿は見えにくいが、珍しい、面白いポーズのもの。

隣の地蔵菩薩丸彫立像は新しいもの。ほかにすべて頭部を破壊された六地蔵(?)と同様な地蔵の念仏塔がある。

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  ↓  馬頭観音 一面二手 憤怒相 浮彫立像 角柱。文化11年/1814年。

馬頭観音は本来三面の憤怒相だが、石仏では一面二手慈悲相が一般的。一面二手の憤怒相は珍しい。憤怒相ではあるが、大きな冠(?)の上にチョコンと乗っている馬頭を含めた全体のプロポーションは、むしろ可愛らしさを感じる。

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 いずれにしても、ただ車から見るだけでは、見落としそうなものばかりである。石仏の所在を熟知しておられる地元の方と出会えて、本当に幸運だった。

 

 恩方、陣馬街道にはいずれ近いうちに再訪するつもり。だが、今回の主旨は「世界の墓地 - 2」なのだ。

 世界の墓地・墓標、その2として、グルジア正教アルメニア正教、ユダヤ教イスラム教、そして、古代トルコとローマ帝国のものを少々紹介してみる。

 

 

 ↓ 東西世界のはざまトランスコーカシア地方の一つ、グルジアジョージア)のアルメニア国教近くにあるUbisa教会の古い墓地。2016年9月。

 グルジアはたしかアルメニアに次いで二番目か三番目にキリスト教を国教と定めた国。石棺風と墓塔らしきものと両方が見える。

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 ↓ グルジアトビリシ近郊ムツヘタの教会の床。他の古いキリスト教会で見られるのと同様に石棺の蓋(?)がそのまま床にはめ込まれている。刻まれているのはグルジア文字。

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 ↓ 同じ教会のもの。前のと同じグルジア文字の、違うタイプの装飾的な書体だと思うが、正確にはわからない。少し新しいもののように思う。

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 ↓ 2016年9月。アルメニア、サナヒンのサナヒン修道院かセヴァン修道院のどちらかにあったハチュカル。無縁仏風にまとめて大量に置かれていた。だいぶ古いもののように思われる。

 ハチュカルはアルメニア教会を象徴する石造の十字架。墓標に使われるが、複雑多様な美しいデザインが施され、見ていて飽きない。

 東西世界のはざまトランスコーカシア地方のもう一つの国アルメニアは、世界で初めてキリスト教を国教とした(301年)国。グルジアと同様に歴史的に常に紛争の舞台となる国で、つい最近も隣のアゼルバイジャンとの間でナゴルノカラバフ紛争を再燃させ、ほぼ負けに等しい停戦協定を結んだばかりで、何かときな臭い。

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 ↓ 同じくアルメニア、ハフバットのハフバット修道院の建物に組み込まれていたハチュカル。洗練されたデザイン。周囲にいろいろ文字が刻まれている。

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 ↓ アルメニア、エレヴァンのリプシマ教会かエチミアジン大聖堂かズヴァルトノツ大聖堂の広場に並べられていたものの一つ。大型。

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 ↓ 2018年5月。イスラム圏のウズベキスタンサマルカンドの郊外で見たユダヤ教徒の墓地。周囲には壁が張り巡らされている。石棺方式(?)と墓塔形式と混在。シンプルなものが多い。このあたりの一神教ユダヤ教イスラム教)は、規模や形から見て、現在でも、最後の審判の日に備えてまだ土葬であるようだ。

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 ↓ 2009年9月、トルコ、イスタンブールのシュレイマニエ・ジャミイというモスク附属の墓地。この時が初めてのイスラム圏への旅で、イスラム教の墓地を見るのはたぶん初めて。一部植物文様もあるが、文字が主で、塔のスタイルもいろいろあり、その造形性に驚いた。円柱状のものは日本の無縫塔と言われる多く僧侶の墓石と似ているなと思った。それを機に、少しずつ海外の墓地というものを意識するようになった。

 期せずしてこうしたイスラム墓地を見て、異文化を感じたというか、同時に日本の墓地との共通性も感じた。しょせん人間の考えることには共通性があるということだ。

 よく見ると埋葬部分の中ほどに穴が開いており、そこに植物が植えられている。

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 ↓ おなじくシュレイマニエ・ジャミイの墓地の中の墓標の一例。文字だけを刻んだものもあれば、このように植物由来の装飾文様を刻んだものもある。

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 ↓ これまではほぼ現代のものだったが、ここからは博物館等にあった古代のもの。

2009年9月、トルコ、イスタンブール古代オリエント博物館のもの。正確にはわからないが、個人の墓標だと思われる。いずれも大理石製のためか、長い年月をへて、美術品というかフォークアート的な素朴な美しさに至っている。

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 ↓ 同じくトルコ歴史博物館。両親を供養したものだろうか。日本の双体仏と服装が違うだけで、同じ発想。

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 ↓ 同じくトルコ歴史博物館。これは墓標ではなく、石棺の一部ではないかと思う。

こうなるとほぼ完全にアートである。私はマッシモ・カンピリMassimo CAMPIGLI(1895~1971)の作品を連想した。 

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 ↓ 参考:「メダルのためのレリーフ下絵」マッシモ・カンピリ 1962年

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 ↓ 石棺の一部を上げたので、ついでに堂々たる石棺の全体をあげてみる。同じくトルコ歴史博物館。正確な時代はわからないが、ローマ帝国支配時代の司令官クラス(?)のもののように思われる。 

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 ↓ 同じくローマ帝国支配の石棺の部分復元。見てわかるように、白い大理石材は、本来は着色されていた。いわゆるギリシャ・ローマ彫刻やパルテノン神殿なども、基本的にはすべて着色されていたのである。「真っ白な大理石のギリシャ彫刻」というイメージは基本的には間違いなのだ。着色されていたという点においては、日本の木彫や乾漆の仏像においても同様である。むろん、色がなくなった立体としての像そのものを、時間の経過を含めて愛でることは、それはそれでかまわないが。

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 しかし、世界の墓地や墓標に興味を持つ人はそう多くはないだろう。歴史的、民俗的、美術的な観点からは、面白い対象なのだが。そう思えば、ヒンドゥー教徒の墓地とか、見ていないもの、見てみたいものはまだいくらでもある。そういえば、そんなコンテンツをまとめた本は見たことがないなあ。

 (記:2021.3.4)