艸砦庵だより

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石仏探訪-20 「人頭杖-その1 地蔵堂廃寺跡を確認しに時坂峠へ」

 石仏に興味がなかった頃に浅間嶺時坂峠で撮った不思議な一枚の写真が、手元に残っていた。頭だけが二つ並んだ石仏。

 

 ↓ 時坂峠の「道祖神」?人頭杖? 

 2014年10月9日撮影。ガラケーで撮った、夕暮れ時の逆光の写真なので、見づらい。刻字等は見当たらない。

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 ↓ 同上。

 地蔵(宝珠錫杖 浮彫立像 舟形光背 刻字があるようにも見えるが風化激しく読めず)と、右の御堂の一部が写っている。

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 だいぶたってから思い出し、調べてみると、『檜原の石仏 第二集』(昭和48年 檜原村教育委員会)には道祖神とあった。道祖神といえば、自然石から双体像まで様々な形と、多様な信仰形態をもっている。だが、この双頭像が道祖神とは思えない。

 その後読み終えた『日本石仏事典 第二版』の最後の方の一頁に、それと酷似した像が出ていた。「人頭杖(じんとうじょう)、または檀拏幢(だんだとう)ともいう」とある。さらに隣のページに出ていた「倶生神(くしょうじん)との混同」、これでビンゴ!だ。

 詳しくは別稿に譲るとして、要は人頭杖とは、閻魔大王の関連アイテム。閻魔堂などでは閻魔やその本地としての地蔵が主役。以下、十王、司命・司録、奪衣婆等といった脇役があり、さらに倶生神、人頭杖、浄玻璃鏡、業の秤などの周辺アイテムとでワンセットである。したがって、人頭杖が単独で造られ、祀られることはない。

 つまり、この双頭像が人頭杖なら、他の脇役主役等も在ったはずで、少なくともその痕跡ぐらいは残っているのではないか。この像のある時坂峠あたりを地蔵堂廃寺跡と記した資料も見た覚えがある。「地蔵」堂なら閻魔関連もありうる。この人頭杖を写した写真には、小さな石仏(地蔵?)と御堂の一部も写っている。その御堂が地蔵堂廃寺跡なのだろうか。とにかく、もう一度現地を確認しなければ、確かなことは書けない。

 ということで、少し前(5月26日)になるが、思い立って現地確認に再々訪してみた。五日市駅前からバス30分で登り口の払沢の滝前。案外近い。峠は標高530m圏だから、標高差は300m、せいぜい1時間程度。ニ三度歩いたことのある道だが、古道の方をゆっくり観察しながら歩く。二ヶ所ほどの石仏群などを見出す。立派な裏山歩きだ。

 

 

 ↓ 古道の途中で、「落し文」を見つけた。オトシブミという甲虫が中に卵を産み付けた、食料兼用のゆりかごである。

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 ↓ 古道途中の石仏群5基。左から月待塔(二十三夜塔)万延元年/1860、庚申塔馬頭観音(文字塔)、馬頭観音(像塔)、馬頭観音(上半身のみの残欠像塔)。

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 ↓ 峠近くの民家脇の寒念仏塔と聖徳太子塔(文字塔)。

 聖徳太子は日本に仏教を導入したが、それと共に仏像建立や寺院の造立に欠かせない先端的な技術や道具も朝鮮半島から導入した。聖徳太子塔は、山仕事にかかわる職人の多かったであろう地域に多い塔である。

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 ↓ 古道の途中にあった建物。

 あるいはこれが地蔵堂廃寺跡か閻魔堂かとも思ったが、正体は不明。たぶん違う。軒下の墨書には「時坂道路改修工事寄付者名~」とあった。

*後日、消防器具類の倉庫だと判明しました。

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 ↓ 峠直下から見下ろす。右奥の遠くに小さく見えているのが檜原村で現在唯一の小中一貫教育校、檜原学園=檜原村立檜原中学校のあるあたり。かつては村全体で九つの小学校と三つの中学校があったが、現在は合わせて一校だけ。

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 時坂峠には以前と同様に、双頭像と地蔵があった。その傍らの御堂は、なんと神社だった(神社名不明)。明治の廃仏毀釈地蔵堂(仏教)から神社になったのか?

 

 

 ↓ 現在の時坂峠。

 以前と変わりないが、御堂は神社だった。三社がまとめられているが、神社名等は不明。

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 そのすぐそばの小さな平地には、石灰岩の百番供養塔と、徹底的に破壊された地蔵等の残骸があった。

 

 

 ↓ そのすぐ近くにあった石仏群。このあたりが地蔵堂廃寺跡なのだろうか。

安永3年/1774年の石灰岩の百番供養塔以外はすべて破壊されている。場所や状況から比較的最近の人為的破壊。何がどうしたんだろう。

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 『檜原村の石仏 第三集』には青面金剛立像の庚申塔1基と地蔵7体の存在も記載されているから、昭和48年以降の人為的な破壊である。痛ましいことだ。

 ともあれ、地蔵堂のあったのは(破壊された)地蔵7体の存在などからして、この峠で良いとしても、現在の神社との関係はわからない。周辺にも閻魔関係のものと思われる破片のようなものは見出せなかった。現状ではこれ以上の考察は無理だ。地元の人に話を聞いてみたかったが、かつて上から下まで9戸ほどあったはずの時坂集落では、結局人一人も見いだせなかった。

 

 観察考察を終え、往路を戻る。そのまま歩いて本宿、上元郷、下元郷の寺社、路傍の石仏群などに寄り道しながら、下元郷からバスに乗り帰宅。

 

 

 ↓ 本宿の春日神

 のぞいてみるとと、中の古い本殿まで全部見えた。なんともあけっぴろげで、風通しが良い。上がり込んで近くで見たい気もするが、通りすがりの身としては、これ以上は遠慮せずばなるまい。

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 ↓ 北秋川と南秋川に分かれる橘橋近くにあった石仏群。大きな三界万霊塔に隠れているのも含めて7基の石仏がある。

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 ↓ その石仏群の真ん中に、木祠の中に納められている。資料に記載なく、説明板等もないが、石棒(=陽根)として、金精様とか道祖神として扱われているように思われる。だが、物そのものは宝篋印塔の一番上、相輪の部分なのではないかと思うが、さてどうか。これも一言地元の人に聞けばわかると思うのだが…。

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 ↓ 吉祥寺の本堂

 檜原村全体で最も大きく、由緒あるお寺。石仏も結構ある。たまたま来合わせてご住職と少し話をしたが、三年前に京都の方から派遣されてきたので、何もわからないとのこと。残念。

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 ↓ 境内にある十六羅漢

 そう古いものではない。出来も悪くはないのだが、石仏はやはりある程度の古さがつかないと、何か落ち着かないというか、俗な感じが抜けないものだ。

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 ↓ 名号塔

 「南無阿彌陀佛」と彫られただが、実際には檜原の経済の生命線である木炭価格の交渉に江戸に行き、獄死(?あるいは処刑された?)した二名を義民として供養したもの(住職談)。郷土史関係の本でも読んだことがある。文久2年/1862年のものだが、差しさわり=お上への配慮があったのか、年記の部分が削られている。当時の檜原村の人々の生活実感のようなものが感じられる。この塔の周辺に10基ほどの石仏がまとめられている。

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 人頭杖についての考察も、派生的にずいぶん前に書き出しているのだが、長くなるので、それはまた次の稿で。

 

 

 ↓ 上元郷の日枝神社

 日枝神社と言えば山王、そして猿(神使)。左手前に共に自然石の文字塔、道祖神猿田彦安政7年とあるが万延元年/1860年)と寒念仏塔(安永2年/1773年)。道祖神猿田彦としたのは神道勢力が力を増した幕末以降のこと。奥にもう1基角柱文字塔があるが、剥落崩壊激しく、千部供養塔か「奉納山王大権現」か、判別できず。

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 ↓ むき出しの社殿には、小ぶりだが良い味の彫刻が施された古い本殿があった。この日枝神社はちょっと拾い物の感じ。

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 ↓ あてもなく対岸に渡り歩いていると、何となく気を惹かれる脇道がトンネルをくぐって伸びていいた。ふらふらとそれを辿る。

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 ↓ その小道はすぐにこの吊橋に辿り着く。ちょっと良い感じ。秋川本流の清流を見て対岸に渡れば、下元郷バス停の手前に出る。ちょっとした道草。

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 ↓ 下元郷バス停手前にも、やや乱雑に置かれた10基ほどの石仏群と葺屋があった。それらから少しだけ離れて小沢のそばに置かれていたのが、この小さな聖観音。下半は欠けているのか、無理に岩にはめ込まれているようにも思えるが、何となく心惹かれる。刻字もあり、墓標仏のようだが、風化激しく読めず。資料にも記載なし。

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(*フェイスブックに6月23日投稿済み)