艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

石仏探訪-21 「人頭杖-その2 増殖するアイテム」(FB投稿:2020.6.25 加筆・再構成2021.9.18)

 前回「人頭杖‐その1」として、浅間嶺時坂峠の双頭の石仏と、地蔵堂廃寺跡探索について書いた。

 

 

 ↓ 再掲載。本稿のきっかけとなった2014年撮影の写真。檜原村時坂峠。年代不明。

 檜原村の石仏 第二集』では道祖神と記載されているが、既述したように、人頭杖と判断した。

f:id:sosaian:20210925154519j:plain

 

 

 資料『檜原の石仏』の記載のように道祖神とは思えず、その後、『日本石仏事典 第二版』に、「人頭杖(じんとうじょう)、または檀拏幢(だんだとう)」と「倶生神(くしょうじん)」の記述を見出し、その混合形と判断したのは、前稿に書いた通り。

 

 

 ↓ 道祖神(?) 日の出町谷戸

 双頭像と道祖神との混同は、日の出町谷戸にある双体像においても同様である。『日の出町史 文化財編』(日の出町史編さん委員会 1989年 日の出町)では道祖神とされており、現地でもそのように祀られている。年月とともに、その意味合いが変化するということは、よくあることだ。

 だが、光背(?)上部の切り詰められた形状等からして、石祠に納められていた祠内仏ではないかと、私は考える。石祠に納めない墓標仏としての双体像も割合は多くはないが、ある。いずれにしても両親もしくは複数の身内の者を供養したものだということを、一応ここで指摘しておきたい。年代不明、刻字等は無さそうだ。僧形の男と、俗形の女。

f:id:sosaian:20210925155153j:plain

 

 

 ↓ あきる野市大悲願寺墓地の無縁塔にまとめられているものの一つ。

 祠内仏ではなさそうだが、無縁塔にあることからして、もともと墓地にあった墓標であったことは間違いない。刻字等は読み取れないが、双体像=双体道祖神とは言えないことの傍証。年代等不明。2021年5月3日撮影。

f:id:sosaian:20210925155219j:plain

 

 

 ↓ あきる野市養沢の養沢寺跡墓地にあった双体像。

 ちょっと可愛らしい。自然石を舟形光背に彫り下げて浮彫しており、形状的に明らかに祠内仏ではない。左右に刻字があるが、読めない。資料には無記載、年代等不明。いずれにしても墓標仏としての双体像である。 2020年12月3日撮影。

f:id:sosaian:20210925155243j:plain

 

 

 ↓ 甲府市北方の深草観音に至る途中にいくつもあった双体道祖神の一つ。

 双体道祖神のない東京多摩地区に比べ、山梨県にはこうした形の双体道祖神は多い。一つの地方的特色である。年代等不明。2016年12月20日撮影。参考:『山梨県道祖神』(中沢厚 有峰書店 1973年)

f:id:sosaian:20210925155300j:plain

 

 

 で、「人頭杖」である。私はそれについて何も知らなかった。

 

 

 ↓ 「人頭杖」

 『日本石仏事典 第二版』(庚申懇話会編 第一版初刷1975年第二版初刷1980年十刷1994年 雄山閣 全434頁)p.349 

f:id:sosaian:20210925154616j:plain

 

 

 ↓ 「倶生神」「人頭杖」「浄玻璃の鏡

 同前 p.348-349 

f:id:sosaian:20210925154639j:plain

 

 

 『日本石仏事典』の記述を手掛かりにネットで調べてみた。すると、あるは、あるは、というほどではないが、確かにある。描かれている。しかも月岡芳年河鍋暁斎といった大御所。いずれの作品も私にとって未知のもの。つまりは知っている人は知っている、というか、さすが商売上手な大御所たちである。キャラクターの生かし方が上手い。

 

 

 ↓ 檀拏幢(だんだとう)/人頭杖 鎌倉国宝館

 ネットで見つけた画像。

f:id:sosaian:20210925155657j:plain

 

 ↓ 檀拏幢(だんだとう)/人頭杖。作者不明。

 同じくネットで見つけた画像。右の何やらうれしそうな顔が閻魔大王

f:id:sosaian:20210925155716j:plain

 


 ↓ 河鍋暁斎。ネット画像。

 「杖」の上には見えないが、初めから部分図なので、全体の形状は不明。

f:id:sosaian:20210925155733j:plain

 

 

 ↓ 月岡芳年平清盛炎焼病之図」(明治16年 部分)。ネット画像。

 閻魔大王を中心に書記官の司命・司録と奪衣婆・懸衣翁(角が生えていて鬼のように見えるが、左の髪型等から奪衣婆と見る)、後ろに二本の杖に分かれた人頭杖が描かれている。本来は一本の杖に双頭だが、逆に石造物から影響された解釈か。f:id:sosaian:20210925155759j:plain

 

 

 彼らについてある程度は知っているつもりはあったが、むろん知らないものの方が多い。いずれにしても、絵画のモチーフとしてはハイアート(?)としての堂内仏(金銅仏、脱乾漆仏、木彫仏)や絵画(仏画、浮世絵)レベルでは、マイナーではあっても、ある程度は普及してようだ。だが、これらの作品をもし見たことがあったとしても、専門の研究者でない限り、絵の一部を成す妙な小道具ぐらいの認識しか持たないだろう。

 

 ともあれ、人頭杖とは、「焔羅王(閻魔天)を象徴し、〔人頭幢〕とも檀拏幢(だんだとう)とも言う」。また、「閻魔王が持つ杖。杖の上には通称〔見る目〕〔嗅ぐ鼻〕と呼ばれる2つの頭部が乗っており、これらは閻魔王が冥府で亡者を裁く際に善悪を感知するという」云々。つまり一本の杖の上に二つの頭が載っているということである。

 そして倶生神とはインド神話由来の、人の一生の善悪を記録し、死後閻魔王に提出する二柱一組の神。なお「倶生」とは「倶生起」の略語であり、「煩悩が体の生ずると同時に起こること」を示す言葉である。人頭杖とほぼ同じ役割。男女神とも、そうではないともされる。また閻魔の腹心の書記官、司命・司録としばしば混同される。二体一組だが別体の神。そして両者の関係はと言えば、「石造の場合は、単頭ではなく双頭に造られることが多い。これは人頭杖と倶生神二神説とを混同したものと言われる」。

 きりがないのでこれぐらいにしておくが、それらについての情報はネットでいくらでも調べられる。要はインドで発生した仏教が、チベットや中国・朝鮮を経由して日本に辿り着く過程で、その所所の基層信仰や新解釈・新発明を取り入れ習合した形で日本に来たということだ。さらに日本でも独自の基層の要素と混淆・発酵し、そうした形が1500年続いたということである。

 

 私がこれまで実見した閻魔関係の石仏は二ヶ所。閻魔単独と、閻魔と司命・司録のセット。別に、荒れ果てた十王堂と言うべき堂内に10基ほどの木彫の十王等が半ば壊れ、乱雑に放置されているのを偶然発見したが、それについてふれた資料は見つけられず、詳細不明。数もそろっており、詳しく調べればかなり貴重なものなのではないかと思うのだが。

 

 

 ↓ 八王子市美山町松木地蔵堂一画に、コンクリートブロックと鉄格子の、御堂というには少々気の毒な中に置かれていた閻魔。2020年9月28日撮影。

 1993年発行の『八王子石仏百景』(植松森一 揺籃社)では正体のよくわからない他の二体と共に屋外に置かれていたが、現在は閻魔像と小さな地蔵菩薩立像舟形が置かれているのみ。残念ながら、同書の写真と比べても、風化剥落が激しく進行している。

f:id:sosaian:20210925155925j:plain

 

 

 ↓ 閻魔と司命・司録

 台東区谷中6丁目長久院。享保11年/1726年。「笑いエンマ」と呼ばれている。2020年7月30日撮影。

f:id:sosaian:20210925155855j:plain

 

 

 ↓ あきる野市盆堀の共同墓地入口近くにあった御堂。外見はさほどでもないが、内部は手入れがされておらず、中までつる草などがはびこっているようで、荒廃している。閻魔、十王を祀ったものは、近辺ではあまり見たことのないものなので、しっかりした調査報告と保存が望ましいのだが…。近くの住人の30代ぐらいの女性に聞いてみたが、存在自体も御存じなかった。資料を探しても見当たらず、このまま朽ち果てていくしかないのだろうか。2020年10月20日撮影。

f:id:sosaian:20210925160023j:plain

 

 

 ↓ 格子戸越しにのぞくと、内部には10体ほどの木彫の閻魔、頭部の取れた地蔵、十王らが、いくつかは破損し、倒れたまま放置されている。惜しいことだ。

f:id:sosaian:20210925160055j:plain

 

 

 ともあれ本来、閻魔は本地地蔵以下、眷属一同と、各種アイテムの、計20基ほどがワンセットで配置されるのが正式のようだ。

 

 

 ↓ 若杉慧の『石佛の運命』に掲げられた信州高遠勝間の薬師堂の十王

  一部を堂から出して撮影したとのこと。

f:id:sosaian:20210925160148j:plain

 

 

 さて、主役の閻魔、本地地蔵はともかく、脇役の十王、司命・司録、奪衣婆・懸衣翁から人頭杖、倶生神、浄玻璃の鏡、業の秤と並ぶと、何やらゲームやアニメの「世界観」を形成する「アイテム」群といった趣きになる。

 

 

 ↓ 奪衣婆

 奪衣婆はあきる野市、日の出町、檜原村にいくつかはあったように思うが、今手元ですぐ確認できたのはこの一点だけ。檜原村小沢の宝蔵寺のもの。恐ろしげな口元としなびて垂れ下がった乳房が特徴。地方では山姥と同一視されたりし、また鬼子母神と見間違えやすい。2020年10月29日撮影。

f:id:sosaian:20210925160208j:plain

 

 

 ↓ ついでに「業の秤」(『日本石仏事典 第二版』p.350)。

 上には浄玻璃の鏡が乗っている。

f:id:sosaian:20210925160248j:plain

 

 

 ↓ ラール・キラー(ムガル帝国時代の城塞レッド・フォート) インド 、デリー。

 関連して思い出したが、生前の善悪の行いを計る秤というのは、イスラム教にもある。当然その母体のキリスト教にもあると思うが、手持ちの写真の中では未確認。2013年3月3日撮影。

f:id:sosaian:20210925160322j:plain

 

 

 いや、古くからこうした「キャラクターやアイテム」が仏教・神道民間信仰世界において、次々に発明・導入されてきた経緯があったからこそ、ゲームやアニメのそれらは、その延長上の土壌に、ごく自然に発生増殖してきたのであろう。共通するのはどちらも「新しい世界観」の創出と、それに伴う説得材料なのだ。つまり「増殖するアイテム」という志向性は、信仰世界におけるDNAなのである。むろんそれは日本のみにとどまるものではなく、ヒンドゥー教でもキリスト教でも道教でも同様(イスラム教においては、不勉強でわからないが)だ。

 キャラクターやアイテムが新たな解釈・御利益の発明・増殖と連動するのは、あらゆる世俗的組織と同様に、宗教・教団の地上的経済活動だからである。生産を旨としない宗教は、御布施・寄附・供養といった経済基盤がなければ存続しえない。システムとしては一種のネズミ講であるが、民衆はそれを歓迎し、必要とする。なぜならば、それらは救済と希望の幻想のアイコンなのだから。

 

 以上、今回の考察はゲームやアニメのキャラクター・アイテムの由来(?)といった妙な地平に辿り着いたわけだが、懸案の課題を自分なりに解釈し終えて、ほっとしている。

(2020.6.25にFBに投稿したものに、一部加筆し、再構成したものです。)