*モデムとルーターの仕様を更新したことで、しばらくブログを開くことができませんでした。以下、主にFBに投稿したものの後追い再投稿です。若干見苦しい次第ですが、御了解のほどを。
前回の「あっさり」系に対して、今回は「濃くて、くどい、描き過ぎ(かもしれない)」系。(まあ、それほどでもないかもしれませんが…)
「あっさり系」というのは、確かに見るぶんには見やすく、鬱陶しがられず、嫌われない。造形的にも、バランスとか、余白とか、間とか、余韻とか、筆を惜しむとかいった、心地よい種類の緊張感から導き出され、なにがしかの静けさを伴う。世俗的には、(比較的)売れやすい。それはそれで良い。
だが私はもう一方で、濃くて、くどくどしくて、鬱陶しい、描き過ぎの、時に人の眉をひそめさせるような、しつこい画面世界も好きなのだ。例えばボッシュやオットー・ディックスやエルンスト・フックスやアドルフ・ヴェルフリや、甲斐荘楠音とかバリ島絵画とか。
空間恐怖に裏打ちされた、表現性よりも表出性の方が優越しているもの。過剰はわが望むところ。狂気と情念はわが友。やりすぎるぐらいがちょうどいい。
思えば私のタブロー作品は、そうした濃い絵の方が、割合としては多いような気がする。小ペン画はコントロールしやすい。そのようなコントロールされた良さもあるが、要はバランスということか。
だから、これからも濃くてくどい絵も、本能の発露として、制作の基本線として、描き続けていく。
アップした6点のうち、3点ないし4点には石仏探訪に由来する仏教的・宗教的発想が多少なりともかかわっている。ちょうど石仏探訪にハマっていた頃に制作したものだから。
なお、今回は少し寝かせておいた原稿なのですが、今日の散歩、わが家のすぐ近所の公園と秋川川畔で見かけた花を付け合わせてみます。くどい絵をアップしたお詫びというわけでもありませんが。
↓ 259「四月の夜の森の宴」
2020.4.13-18 15×21.2㎝ 水彩紙 ペン・インク・水彩・グアッシュ・修正白
ちょっと、コメントのしようがない…。
酔っ払いたちの宴のようにも見えるが、そういうつもりではない。夜の森では空間が結晶化するといったイメージ。う~ん、理解されなくても仕方ないです。私自身、出てきたイメージに困惑しているのですから。
↓ カタクリ
↓ 319「水と水」
2020.7.18-21 15.1×10.5㎝ 和紙にドーサ ペン・インク
主題は人物ではなく、周囲の複雑な曲線の絡み。水や炎や煙のような流動的で非定型の形、リズムを描こうとする試みは、いつでも魅力的である。色を着けないことで、説明抜きで、それを描きたかったのだが、むろん決して成功しない。だが不動明王の火炎光背のイメージにもたれ掛かることだけはしたくなかった。
女の形も、いわゆるデッサンは狂っている。デッサンなんか狂ってもかまいはしないのだが、結局は良い表情が出ているとは言えない。つまり、あまり評価できない作品なのだが、私はこれを否定しない。こうした試みは今後もやっていきたい。
↓ カタクリ その2
こういうロケーション、梅園に咲いています。
↓ 336「渡し守」
2020.8.15-16 15.3×12.2㎝ 和紙にサイジング ペン・インク・水彩
数多い石仏の地蔵の中に、ごくまれに船に乗った地蔵があり、岩船地蔵などと呼ばれる。近所の石仏探訪でも二つほど見た。
地蔵菩薩は釈迦入滅後、56億7千万年後(!)に弥勒菩薩が現れるまでの無仏時代を、常に六道をめぐって衆生を救うとされているが、閻魔王の本地仏でもあり、そのためか、この世とあの世の境にある三途の川(三途とは餓鬼道・畜生道・地獄道の意味)を舟に乗って、餓鬼・畜生・地獄道に落ちんとする悪人までも救うという教説が生まれたらしい。彼岸への渡川という観念は、オリエント起源の神話からギリシャ神話(カロンの渡し守)にまで広く見られるものと、同様の構造。
ともあれ、最近までそのことを知らなかった私は、岩船地蔵の意味を知って少し驚いた。その少しの驚きがこの絵になった。まあ、普通だったら取り扱わないテーマ・イメージだとは思うが。
↓ キケマン=黄華鬘
ムラサキケマンはどこにでも、わが家の庭にも生えているが、キケマンは貴重。
ちなみに華鬘とは「元々は生花で造られたリング状の環(花環)で、装身具であったものが僧などに対して布施されたものだが、僧は自分の身を飾ることができないことから、仏を祀る仏堂を飾るもの(荘厳具)とした。」とのこと。(Wikipediaより)
↓ 354「たゆたふをみなたち」
2020.9.18-21 18×13.1㎝ 和紙に膠 ペン・インク・水彩・顔彩
エッシャーのように、あるフォルムを数学的幾何学的に組み合わせるという知的なデザインは、苦手だし、あまり好むところではない。だが、ある種の魅力を感じないでもない。
この作品にはそうした数学的操作はないが、フォルムを組み合わせるといったパズル的な要素がなくもない。だが、要は「たゆたふ(揺蕩う)―をみな(女)たち」というイメージ。とりあえず、意味は無い。だが、左上の小窓を何となく描き入れたことで、にわかに全体が石祠の中といった空間に変容したような気がした。う~ん、よくわからない。
↓ ヨゴレネコノメソウ
秋川畔の支沢が流れ込む近くの湿地にネコノメソウ、ヨゴレネコノメソウの群落があった。
若々しいネコノメソウに比べ、臈たけた風情。
↓ 390「六地蔵」
2020.11.2-3 17.1×21.8㎝ ミャンマー紙にドーサ ペン・インク・水彩
地蔵については前の画像でも簡単に説明したが、「地蔵菩薩の起源は、インドのバラモン教の神話に登場する大地の女神プリティヴィ」(Wikipedia)ということを知った時には驚いた。「地蔵=(元)女(神)」!そうした、意味の変容ということは、何においても、どの宗教においてもかなり普遍的に見られることだが、「地蔵=女」説はすごい。
六地蔵は死後に、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道の境涯に転生する衆生をそれぞれに救うための分身であり、そのため寺や墓地の入口に並べて置かれる。6体の丸彫立像が多いが、山梨県を中心とした、一つの絵馬型に六体並べて浮彫されたものもある。わが家のすぐ近所にも一つある。その地蔵を「をみな」に置き換えた作品がこれ。原始仏教=釈迦においては、女性は成仏(解脱、悟ること)できないとされていたのだから、これぐらいの変換は試みられても良い。
↓ ミヤマカタバミ
例年より開花が少し早い。そのせいか、花も葉も例年より小ぶりのようだ。
↓ 417「天文書を読む乙女」
2020.12.6-10 16.4×12.9㎝ 和紙に膠 ペン・インク・水彩
仏教、宗教とは全く関係がない作品。よくあることだが、周りからイメージや構成が固まり出し、それらをまとめるために中央にアンカーとして人物を置く。プロポーションのおかしな、何となくおさまりが悪い人物になってしまって、気に食わないが、仕方がない。タイトルも含めて、これはこれで良しとした。
(記・FB投稿:2021.3.24)