艸砦庵だより

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石仏探訪-23 「発地~軽井沢~追分」(記・FB投稿:2021.9.11)

 9月12日までグループ展開催中の熊本行きを断念した数日後、友人のSから電話がきた。安曇野市豊科近代美術館で開催中の「シンビズム-4」を見に行かないかと。即答、「行く!」

 「シンビズム-4」には、ずいぶん昔、ごく淡い縁のあった小松良和さん(故人)や、松澤宥、根岸芳郎、藤森昭信など、ちょっと気をひかれる顔ぶれ。というのは口実で、要するに旅に出たかったのだ。

 コロナ下とはいえ、弾丸日帰りというのはさすがに、距離的にハード過ぎる。結局、双方女房連れの4人で車一台、宿泊は会員制貸別荘という、ほぼバブル方式の一泊二日。となれば、余裕がある。ルートを聞き、簡単な資料を調べ、あわよくば、途中の発地、追分、修那羅峠など(の石仏)をと、目星をつけておく。

 結果、上記のほかにも旧軽井沢、借宿、その他路傍の何か所かと、石仏探訪を堪能できた(8月31日~9月1日)。特に修那羅峠のそれは、異質異次元のトンデモワールドだった。

 以後今日まで、数百枚撮った石仏写真の分類・整理・研究に追われた(むろん日々の制作の合間にだが)。ようやくある程度のめどが立ったので、3回ぐらいに分けて投稿する。

 

 今回は初日の発地、旧軽井沢、借宿、追分の分。ふだん慣れ親しんでいる東京多摩地区のそれらとは、やはり、多少なりとも違った雰囲気、表情がある。中山道(あるいはその裏街道)という、土地柄、風土、それらは今なお県外車の蝟集するブルジョワ観光地軽井沢の背景をなす歴史と、かつての人々の暮らしを垣間見せてくれた。

 (なお今回投稿の分は、現時点で手元に参考資料がなく、記述の多くは私なりの判断でしかないことをお断りしておく。)

(追記:それにしても記念写真を一枚も撮っていないことに、我ながら感心)

 

1. 上信越道、碓氷軽井沢ICを出て軽井沢ヘの途中にある、発地石仏群の全景。

 この向かい側にも発地地蔵尊という石仏群がある。この一帯は関所のある公式道路「中山道」の裏街道にあたり、下仁田などに抜ける「女道」が通っていたところ。そのためか道中の安全を祈願する石仏が数多く建てられ、昭和41年にこの向かい合う二ヶ所にまとめられたとのこと。

 巨大な文字馬頭観音や、道標を兼ねた名号塔、その他大小各種の石仏がある。

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2. 旧軽井沢、神宮寺の石仏群。

 軽井沢銀座通りを一歩入った神宮寺にはこれ以外にもいくつもの石仏がある。庚申塔不動明王など、味わい深いものが多いが、次の「牛頭観音」をのぞいて割愛。ここに限らないが、神宮寺であるということは神仏習合の名残があるということだ。

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3-1. 牛頭観音 浮彫立像 舟形 寛延4年/1751年 

 牛頭観音はたいへん珍しい。上部の梵字種子は「サ」のように思われる。馬頭観音なら「カン」でなければならない。「サ」は聖観音ほか楊柳、葉衣、水月の各観音を表す。正式な観音ではない牛頭観音だから、あえて異なる、観音に比較的共通性の高い「サ」を使ったのではないか。全体の像容は観音というよりも、合掌する地蔵のよう。

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3-2. 牛頭観音の顔のアップ。

 やや風化しているものの、三頭身の合掌地蔵風の童子顔の上にあるのは、確かに馬というよりは牛のように見える。牛もまた荷物運搬をはじめてとして、人々の暮らしになくてはならない仲間だったということだ。

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4. 馬頭観音 三面六手 丸彫立像 嘉永6年/1853年

 旧軽井沢、銀座通りの中心の緑地帯にある。「三面地蔵」とも呼ばれていたが、堂々たる馬頭観音三面六手の丸彫立像。状態も良い。

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5. 同上、顔のアップ。

 「伊奈郡中坪村石工酒井□左衛門」作。

 元、二手橋近くにあり、後野沢家により離山集落におかれ、2017年に現地に移設。

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6. 軽井沢から追分宿の中間にある借宿の遠近宮境内の石仏群。

 広く、趣のある境内。由緒等もなかなかのものである。借宿にはこの遠近宮を中心として二ヶ所、石仏群があった。

 左、双体道祖神、渋い。右の三つの文字塔は「三笠山大神」、「御嶽神社」、「八海山大神」。右の小祠は不明。このあたりが修験道山岳信仰神仏習合の色が濃かったことを物語る。建立年等は調べきれず、資料も手元になく、不明。いずれ調べたいと思う。

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7. 馬頭観音 浮彫立像 舟形

 遠近宮近く、143号線に面した辻にも13体の石仏群があった。その一つがこの大型の馬頭観音。右の建立年の方の刻字は読めず。なかなか感じの良い像である。

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8. 追分 泉洞寺の山門脇の石仏群。

 左から、如意輪観音半跏思惟座像、馬頭観音庚申塔馬頭観音。いずれも造立年等、未調査。大型の庚申塔は一面六手、日月・二鶏・三猿像。左手第三手に持っているのは蛇だろう。

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9. 同上、顔のアップ。

 う~ん、良い味。石材はこのあたりで焼石とよばれる安山岩ではないかと思う。やや風化が進んでいる。

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10. 同じく泉洞寺の山門脇の不動明王浮彫立像。

 火炎光背に剣と羂索を持つ像自体は不動明王で間違いないが、基礎に「淺間山」とある。浅間山神とも考えられるが、浅間山の祭神は岩長姫であり、今の段階では詳しいことはわからない。

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11. 同じく泉洞寺の山門脇の像。

 やはり不動明王だと思うのだが、火炎光背がない。また左手に持つのは羂索ではなく巻き付いた蛇のように見えるのだが、どうだろう。

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12. 同上、顔のアップ。

 なかなかの顔である。着色された痕跡がある。

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13. 如意輪観音 丸彫座像 

 今回の石仏探訪において、実はこれを見ることが最大の目的だった。堀辰雄が「樹下」という随筆に書いていることで有名な像(ただし私は未読)。石仏写真としてそれを広めたのは若杉慧(『石佛の運命』 1973年 木耳社)だが、彼はこうした半跏思惟座像をほとんどの場合弥勒としているが、これはやはり如意輪観音で良いのではないだろうか。地元では「歯痛地蔵」と呼ばれていたとか。石仏≒地蔵とするのはよくあること。確かに単に素朴美とか稚拙美、古拙美などと一口に言えない何かがあるように思われるが、まだ私にはそれを明快に表現することはできない。

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14. 馬頭観音 丸彫立像

 追分宿中山道と北国街道の分岐、分去にもいくつかの石仏群がある。いずれも貴重なものだが、その最後にあるのが全高250㎝のこの像。安永3年/1774年。

 前記若杉慧はこの像を「俗にマリア観音とも呼ばれる」と紹介しているが、それはその手前にある小さな勢至観音浮彫立像(主旨は日待・月待塔?)と混同しているようだ。残念なことに、見たのは曇天の夕暮れ時でしかも逆光、像容はよく見えなかった。

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15. 同上 顔のアップ。

 辛うじて雰囲気は伝わるか? 確かに類を見ない像容で、しかも美しい。異教的なふんいきと言えなくもない。だが実質は、台座に「牛馬千匹飼」とあり、「佐々木~、片山~、若林~~」と当時の馬持ちたちの名前が記されていることから、ここでも馬頭観音としておく。当時の中山道の牛馬飼たちは、よほど勢力と財力があったのだろう。いずれにしても、ユニークで美しい像であることは間違いない。 

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(記・FB投稿:2021.9.11)