少し前、西東京市の西武柳沢駅前の画廊に知人(予備校時代の教え子)の個展を見に行った。なかなか良い作品があり、一点購入させてもらった。
話は変わる。実は、その西武新宿線の駅に降りるのは、初めてだった。東京で暮らしていると、移動はほとんど電車だが、考えてみれば、一度も降りたことがないという駅の方が圧倒的に多い。ある目的や用事があってある駅に降りるわけだが、それが初めて降りる駅ならば、ついでにその近辺を歩いて見るというのも、悪くない。
ということで、ついでに西武池袋線ひばりが丘駅まで、石仏探訪に歩いた。事前に『新多摩石仏散歩』(多摩石仏の会 1993年 たましん地域文化財団)に目を通しておく。実際に歩く際には、いつもの国土地理院の2.5万図は必携。
30年近く前の記述のせいか、現地で見つけられなかったものもあったが、だいたいは効率よく見ることができた。なかなか良いものがあった。
実は40年以上前、20歳前後の一年半ほど、ひばりが丘の隣の保谷市(現西東京市)泉町に住んでいたことがあり、何となく雰囲気は知っているつもりだった。だが、少なくとも今回歩いた範囲では、記憶を呼び覚ますものは何も無かった。
一帯は、一言で言えば「郊外」。ごく普通の住宅地が続き、特に面白いものはない。社会学者の宮台真司がひと頃さかんに「郊外」について語っていたが、あれは多摩ニュータウンあたりをイメージしていたのだろうか。地方の農村出身者としては、歩いていて、あまり面白くもなく、縁もなさそうだが、それはまあ別の話。
今回歩いたのは、紹介されていたコースの半分。残りの保谷駅から、かつて住んでいたアパートのあたりまでも、また歩いて見ようか。あのアパートはまだ在るのだろうか。それとも、まだ降りたことのない別の駅をめざそうか。私が好きなのは山村であることははっきりしているが、こうした郊外にもそれなりの面白さを見出すこともあるのだろうか。
(なお、『保谷市の石仏と石塔(保谷市史別冊)』という資料があるのだが、私は未見。今回のコメントは他の資料とネットからの情報に拠った。)
↓ 1. 庚申堂 保谷町4丁目
↑ ごちゃごちゃと小さな店が連なる、見ようによっては懐かしく、感じようによってはうっとうしい商店街のはずれの五叉路にある。三叉路四叉路はともかく、古い五叉路六叉路ともなれば、何か、少なくとも痕跡がある。ここにあったのは、右、宝永6年/1709年の庚申塔と、左、享保5年/1720年の廻国巡拝塔。地元の人にも大事にされているようだ。
廻国巡拝塔には阿弥陀三尊の梵字種子と「奉納大乗妙典六十六部日本廻國所」の刻字。実際に300年前に日本全国六十六ヵ国すべてを回り、大乗妙典経を納め歩いたとは考えにくい。少なくともそれに代わる何か簡易版のシステムがあったのだろうか。
↓ 2. 三面庚申塔 同前
青面金剛立像 三面六手 日月 邪鬼 三猿 浮彫立像 笠付角柱。
↑ 最初、三面像だとは気づかなかった。ズームして見て、三角帽子の下に左右の顔があることに気づいた。三面のものは比較的少ない。左側の顔はまだわずかに表情が残っており、それが愛らしい。
↓ 3. 榎庚申堂 泉町2丁目
庚申塔 青面金剛立像 一面六手 日月 邪鬼 二鶏 三猿 丸彫立像(右手一左手二欠)。
↑ 丸彫りの青面金剛庚申塔は数が少なく、貴重。手が三本欠けているのは、昭和20年のアメリカ空襲により失われたためとか。立川、八王子、所沢方面の軍事・軍需施設を爆撃した帰路、帰還速度を速めるために、余った爆弾を途中で投げ捨てたという話はあちこちの資料に残されている。
↓ 4. 弁財天 泉町2丁目 宝樹院
↑ 小さな池のそばに置かれた、丸彫りの弁財天。頭部の鳥居でそれとわかる。造立年等、不明。
↓ 5. 庚申塔 如意輪寺 泉町2丁目
青面金剛立像 一面六手 日月 邪鬼 三猿 浮彫立像 笠付角柱。宝暦4年/1754年。
↑ 旧所在地は西東京市泉町2-16(上保谷村字大門)。冠の形と、邪鬼の表情が面白い。なぜか右下に新約聖書が置かれている。ちょっと心ない所業である。
↓ 6. 石仏群 如意輪寺
↑ 左、道標を兼ねた廻国巡拝塔(地蔵菩薩 宝珠錫杖 蓮台 浮彫立像 山形四角柱 寛政4年/1792年)。
中央、道標を兼ねた庚申塔(青面金剛立像 一面六手 日月 邪鬼 三猿 浮彫立像 笠付角柱 元禄14年//1701年)。
右、廻国巡拝塔(文字塔 縁取 山形角柱 宝暦3年/1753年)。さらにその右にそれぞれの元の所在地を記した解説板がある。
↓ 7. 如意輪観音/墓標仏 如意輪寺 元禄15年/1702年
↑ 以下、3点、墓標仏。墓地手前の無縁仏をまとめた一画にある。ここの墓標仏群は比較的古いものが多く、質が高い。文字塔のものはあまり見ていないが、像塔の方は元禄年間(1688~1704年)のものからある。仏像を刻んだ墓標を一般庶民が建て始めたのが、元禄年間あたりだと読んだ記憶がある。江戸の中心から外れた、この武蔵野でもそうだったのかと、少し意外に思う。
この像はあごを右手の上に載せており、頬にあてる一般的なポーズと少し違っているところが面白い。表情のある良い彫り。
↓ 8. 如意輪観音/墓標仏 如意輪寺 明和9年/1772年
↑ 如意輪寺は境内が広いせいか、無縁仏は前後左右に窮屈に並べられている。積み重ねられた無縁塔ではないだけマシかもしれないが、このように斜め上から覗き込むしかないのが少々残念。整った顔立ち。
↓ 9. 聖観音/墓標仏 如意輪寺 元禄11年/1698年
↑ これは列の端に置かれているためにほぼ全容が見える。石質も良いのだろうが、彫りも良く、すっきりとしたフォルム。手にしているのは未敷蓮華ではなく、悟りを開いた証とされる開敷蓮華なのが、少し珍しい。
↑ 如意輪寺観音堂の前にある。台座には大きく「弘法大師」とあった。
上半身と下半身のバランスがちょっとおかしいが、それはそれとして、迫力はある。火炎光背の扱いが工夫されている。
↓ 11. 尉殿神社 拝殿 住吉町1丁目
↑ 以下は帰宅後に調べて知ったこと。
旧社号は尉殿権現。古くから上保谷村の総鎮守社。元々は水の神ジョードノ(=尉殿 この名については不詳)であったが、江戸時代の本地は水の守護神倶利迦羅不動明王(現在は旧別当寺の寳晃院に安置)とされ、垂迹=権現の神としては級長津彦命と級長戸辺命(しなとべのみこと)の男女二座があてられた。この二座は同じものとされたり、姉弟神だとか、夫婦神だとか、さまざまな説もあり、よくわからないが、それはまた別の話。
いずれにしても記紀に記載された神であり、民間信仰の風神とは意味合いが違うだろうが、風の又三郎をふくめて、風の神には心ひかれる私としては、風神を祭神とする神社に参ったのは初めてなので、後から知ったとはいえ、うれしかった。
水の神や、風の神という自然神を鎮守社として祀っているところに、「水に乏しく、秋から冬にかけて風が吹き荒れた保谷の風土にふさわしい神が祭られていたと考えられる。(Wikipedia)」。なるほど!
↑ 左右とも子持ち。狛犬にはあまり興味がなく、特にコメントもないのだが、何となく味があって面白い。
↓ 13. 又六地蔵堂 全景 住吉町3丁目
↑ 六叉路の一画にある。石幢を中心に元禄と寛政の庚申塔、明治の地蔵2基がある。良い堂と解説板がしつらえてあるのだが、残念ながら窮屈な空間となっており、また賽銭箱が大きすぎるなど、石仏そのものが見辛いのが惜しまれる。
↓ 14. 石幢 又六地蔵堂 安永5年/1776年
↑ 石幢とは石造の幢幡の意。幢幡とは、寺の本尊の真上の天蓋のまわりに吊り下げられている長い平板な、あるいは四角柱状、六角柱状などの美しく飾られた帛(≒旗)のこと。一種の荘厳(しょうごん)具である。
これは笠付の六角柱に大きく六地蔵が彫られており、堂々としたものである。「奉造立 庚申塔 天下泰平 国家安全」「武州新座郡上保谷村 講中十七人」などと彫られているのは確認できたが、見えない部分も多い。
青面金剛 一面六手 三猿 浮彫立像 板碑型 板碑型。
↑ 「上保谷で最も古い(庚申塔)」、「地蔵信仰と庚申信仰が重なり合っていたことを示す実例」とのこと。
庚申塔といえば、主尊は荒々しい青面金剛と決まっているように思われるが、古くは必ずしも青面金剛ではなく、いろいろな仏があてられていた。これも像自体は冠をつけた六手の青面金剛であるが、合掌の手以外の四手は線彫りで目立たなくしており、全体の雰囲気も地蔵のイメージと重ね合わせられているように思われる。いずれにしても、静かなたたずまいの、好ましい像である。下部に見えているのは未敷蓮華。
(2021.9.19探訪 2021.9.30FB投稿)