艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

小ペン画ギャラリー‐19 「仏教系」

 石仏に関心をもって以来、後追い勉強の日々。石仏関係のみならず、この際だからその根底にある、仏教、神道修験道民間信仰からヒンドゥー教、宗教史全般、民俗学、等々。きりがない。

 関係ないけど時おり、エホバの証人の方が冊子を置いていく。たまに幸福の科学の冊子もポストインされる。それらもたまに読んでみる。ほとんど読み通せないけれども。

 そうした勉強をするほどに、私の信仰心が増したかといえば、否。むしろ、宗教というものを否定する気持ちの方が強くなった。

 ただし否定したいのは、宗教の現実態としての制度性と論理性の部分である。人々の「祈り」を否定するものではない。宗教に限らず、思想上のあらゆる理想主義は、現実態としては時間の中で劣化し、堕落する。人類の歴史の中で、例えば戦争・紛争に宗教が直接、間接に関与した割合と役割を思い起こせば、それは自明の事であろう。近くはパレスチナユーゴスラビアアフガニスタンのそれ。

 私は無神論者だと宣言するほどの度胸はないが、無宗教者だと宣言するのには、ためらいはない。それでも、多くの人々が抱く「祈り」や「願い」に対しては、無視も否定もしない。そもそも、絵を描くこと(芸術)は、何ものか(あるいは虚無?)に向けた供養であり、荘厳(しょうごん)のいとなみなのだと、昔から思っている。

 

 宗教、政治、性、などについては、話題にしにくいというのが、良くも悪くも一般常識。絵においても、似たような縛りがある。だが、それはそれ。それは他人が引いた一線だ。

 石仏から始まって、その後の仏教や民間信仰等の勉強を通じて、考え、感じたことを絵にすることもある。むろん、その教義や理念を現わそうなどと大それたことは考えていない。村上華岳や入江波光、ルオー、ウィリアム・ブレークらのスタンスとも違う。観念やイメージの、私なりの解釈や変奏なのである。「見えるモノを写す」ことに比べて、それはとても面白い「芸術的」作業だ。だから、それらの絵が仏教的なものに由来するとは思われなくても差し支えない。

 これまでにも、そうした傾向のものをFBに上げたことはあるが、今回あえて「仏教系」とタイトルを掲げたことで、あるいは生真面目な仏教徒からひんしゅくを買うかもしれないが、それはやむをえない。縁の問題だ。

 とにかく、石仏から始まって、勉強して、その結果何点もの、私にとって新しい作品を描くことができたということは事実だ。それは石仏≒仏教から恩恵を受けた≒イメージの源泉を得たということである。それは、私なりに、まじめに(石)仏に接したことによってもたらされた、功徳というか御利益と言えるかもしれない。

 

 

 ↓ 1. 419 「犀の角のように一人力強く歩む人」

 2020.12.10-13 12.4×9㎝ 和紙に膠、ペン・インク

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 手始めに『ブッダのことば スッタニパータ』(中村元訳 岩波文庫)を手に取った。後年の解釈ではなく、根源の釈迦その人のことばを知りたいと思ったからである。その初めのあたりでぶっ飛んだ。

 「~~子を欲するなかれ。いわんや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。」

 「交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。」

 以下、

 「~~~、犀の角のようにただ独り歩め。」

 「~~~、犀の角のようにただ独り歩め。」

 「~~~、犀の角のようにただ独り歩め。」と、41篇が続くのだ。すごい。感動した というか、あっけにとられたというか、呆然とした。

 

 

 ↓ 2. 420 「犀の角のようにそれぞれ佇む五人」

 2020.12.10-13 水彩紙にサイジング、ペン・インク・水彩

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 同前。それぞれにただ独り歩もうと、迷い、悩み、呆然とする者たち。

 

 

 ↓ 3. 449 「Jizou」

 2021.4.16-20 2021.4.16-20 15.4×11.9㎝ 木炭紙にペン・インク

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 「地蔵」を描こうとしたのではない。描いて見たら「地蔵」的だったのだ。ゆえに「地蔵」ではなく「Jizou」。地蔵は最もポピュラーで庶民に近い仏。石仏の数でも断トツ。仏ではあるが、出自はヒンドゥーの土俗神、一説には女神とも言われ、また日本で受容される過程で、基層信仰であるところの金精信仰≒道祖神などとも習合した複雑さも持っている。それゆえに人々のあらゆる願いに対応してくれる万能の仏。

 

 

 ↓ 4. 349 「地涌」 

 2020.9.10-12 12.5×9.5㎝ 和紙風ハガキにドーサ、ペン・インク (発表済み)

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 「地涌(じゆ)」とは法華経の中に書かれている(らしい)説で、末法の世にあって(弥勒菩薩が救いに現れるのは五十六億七千万年後!)人々を救うのは 異世界からやってくる(迹化の)菩薩ではなく、この世(娑婆)の大地から湧き出てくる無数の(地涌の)菩薩だということである。これだけでは何の事だかわからないが、まあそういうことになっている。

 その地涌の菩薩イコール地蔵というわけではなさそうだが、地涌‐地蔵の連想は自然だろう。半ば土に埋もれかけた地蔵や、摩崖仏などを見ると、地涌の言葉もそれなりに自然なイメージかとも思われる。

 

 

 ↓ 5. 394 「魚涌」 

 2020.11.8-10 14.8×12.5㎝ 洋紙にペン・インク

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 地から湧く菩薩があれば、海からでも、魚の腹の中からで湧いてきてもおかしくはあるまいという、イメージの変奏。旧約聖書の「ヨナ書」にある、魚に飲み込まれ三日後に再び吐き出されるという物語を描いた絵は、西洋古典美術では時おり見かける。その連想がなくもない。ボッシュブリューゲルの絵もまた無縁ではない。

 

 

 ↓ 6. 447 「音を観る」 

 2021.4.1-04 19×12.7㎝ 洋紙にペン・インク

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 観音菩薩というのは、人々の苦しみや悩みの声を聞くばかりでなく、その具体的内容を観られることから「観音」というのだそうである。

 女性像(風)に描いているのは、以前から石仏に限らずいろいろな観音像を見ていて、多くが女性的に表現されていることに妙に納得できなかったのだが、『救いの信仰女神観音 庶民信仰の流れのなかに』(小島隆司 2021年 青蛾書房)を読んで、インドでの観音発生の当初あるいは直後から、また中国経由の過程で、明確に女性像=女神としてとらえられていったのだと知って、納得したからである。

 

 

 ↓ 7. 448 「Kwannon」 

 2021.4.16-20 2021.4.16-20 17×12.4㎝ 水彩紙にペン・インク

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 「かんのん」の語は、本来の正確な発音表記では「クワンノン」。三十三通り(=無限)に変化する中には、馬頭観音のような三面のものもある。だからというわけでもないが、これも三面。

 

 

 ↓ 8. 371 「かくの如く来たれる者」 

 2020.10.11-12 14.8×10.5㎝ 水彩紙にペン・インク (既発表済)

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 如来は菩薩の上位に位置する存在。自身はすでに悟りを開き、現在は浄土という異世界におられる。「如来」を直訳すれば「かくの如く来たれる者」。つまり、まだ(我々を救いには)来られていない、だいぶ先に現れるであろうという存在。

 テレビでヒマラヤに雲が湧き上がる映像を見ていたら、ふと「如来」という言葉‐イメージが浮かび上がってきた。

 

 

 ↓ 9. 多羅菩薩・観音/緑/女性の尊格 ネット画像

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 先に観音菩薩≒女神説を引いたが、その典型としての「多羅菩薩/観音」というのをネットで見つけた。三十三化身の一つ(三十三観音札所の24番)で、女性身=女性の尊格ということだが、私はまだ像としては意識して見たことはない。このネット画像は中国のもののようで、なんともすばらしく艶めかしく描かれているが、まあ、こうした解釈もあると、ご参考までに。

 

 

 ↓ 10. 同じくネット画像。

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 インドの画家の手になるネット画像。こうした感じの、愛し合う二人というか、性愛をも暗示するといったイメージのシリーズ。これが仏教系のものなのか、ヒンドゥー系のものなのか、私にはわからないが、仏教はヒンドゥー教の一部と考えられている立場からすれば、どちらでもよいのかもしれない。私はこれも観音の一解釈だと思っている。

(記・FB投稿:2021.10.28)