艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

小ペン画ギャラリー‐20 「民間信仰系」

 12月は何だかあれこれ妙に気忙しく、なかなかFBに投稿する余裕がなかった。

 一か月で10日以上、病院その他に行った。私の健康診断とインプラント手術、女房の白内障の二度の手術とその前後の検査等の付き添い。手術は朝8:15から。6時には起きなければいけない。それを機に、長く続けてきた、朝方4~5時就寝、昼11~12時起床という生活パターンから、(普通の)早寝早起き生活スタイルへと方針変更し、現在はその過渡期。

 とはいえ、石仏探訪に3回、(それとかぶるところもあるが)美術館・博物館に5回、飲み会3回、マッサージ2回などと出かけているのだから、単純に忙しかったからというわけでもない。投稿したいコンテンツ、投稿すべきコンテンツはいくつもあるのだが、それを最低限熟成させる余裕が持てなかったというだけの話。

 あまり間が開くのも何となく落ち着かないので、除夜の鐘をききながら、今年最後の投稿をしよう。

 

 10~11月の二カ月、小ペン画は全く描かなかった。タブローを描いていたから。小ペン画とタブローを並行しての制作は、案外と両立できないものなのである。

 「小ペン画ギャラリー」の投稿も2か月以上空いてしまった。空いても別に問題はないのだが、これは私自身が「振り返り」と「気づき」を兼ねて、結構楽しみでやっているところもあるので、間が開くと少しさびしい。

 前回「仏教系」という括りで出すのは、けっこう勇気が要ったのだが、投稿してみたら何か少し頭がすっきりした。今回はその余勢をかって「民間信仰系」。民間信仰とくくったが、神道的要素や民俗学的な要素も含む。絵のイメージというのは、現実の事物もさることながら、さまざまな方向から訪れるものなのである。

 

 

 ↓ 479 「山水礼拝」

 2021.7.17-21 20.6×14.9㎝ 木炭紙に油彩転写・水彩・ペン・インク

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 神道というと即天照大神という反応があるが、それは大和朝廷を成立させた朝鮮半島から渡ってきた一団一族が持参した、彼ら固有の祖霊信仰(皇祖信仰)である。それ以前の縄文時代、あるいはそれ以前に起点を持つ自然(崇拝)信仰(≒アニミズム)や、多種多様の「神道」がある。

 それらの中で最も古い形の自然信仰とは、山や川や海といった自然そのものに対する畏れと崇敬の念であろう。無宗教者を自負する私でも、それらに対しては、おのずから畏敬の念を持つというか、頭が下がるのである。そんな感情を描いてみた。

 今さらながら、自然を大切にしたいものだ。

 

 

 ↓ 360 「祖霊は故郷を見守る」

 2020.9.27-10.1 17.3×13.4㎝ インド紙にペン・インク・水彩

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 絵柄としては来迎図の一種「山越阿弥陀図」のイメージが前段にある。来迎図というのは、臨終の際の念仏に反応して、阿弥陀如来が極楽に迎えに来るというイメージ。

 本作は、阿弥陀ではなく、女性像の「祖霊」であり、臨終時ではなく、散歩したりしている日常風景(?)である。そもそも迎えに来ているのではなく、産土の鎮守が「故郷を見守る」という構図。本来、鎮守に祀られているのは、明治維新後どんな祭神とされていても、祖霊(その土地のご先祖様たちの集合体)なのである。つまり仏教的要素と祖霊信仰的要素のフュージョン(習合イメージ)。

 

 

 ↓ 404 「山際に現れた巨人」

 2020.11.25-29 16.9×11㎝ 台紙にミャンマー紙・ドーサ、ペン・インク・グアッシュ

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 巨人伝説というのは世界中にある。おそらく人類に共通する根源的な記憶に由来するものだろう。日本ではダイダラボッチ(だいだら法師、ほか)という名の巨人伝説と、ゆかりの地名(丹波天平/たんばでんでいろ、など)が全国あちこちに残っている。なぜなのかは、私は知らない。

 また、山神、山人というイメージには、柳田国男の挫折放棄した山人論に見られるような濃厚なロマンチシズムがある。それはまた洋の東西を問わずある「零落した神」のイメージとも通底する。そしてそれらは今日、多くはファンタジーの世界で生き延びている。

 

 ↓ 409 「山に帰る孤独な巨人」

 2020.11.29-12.2 15×10.3㎝ 和紙(杉皮紙)にドーサ、ペン・インク・水彩・顔彩 

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 前作のバリエーション。

蛇もまた山の神の一つであり、また農耕とかかわる水神である。

 山の神は春に里に降りて田の神になり、冬にはまた山に帰り山の神となるとされる地域もある。

 

 

 ↓ 446 「前鬼」

 2021.2.25-3.4 17.9×13.1㎝ 和紙に膠、ペン・インク・水彩

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 修験道の祖とされる役行者が実在したかどうかは定かではないが、修験道が果たした役割は単に宗教上のことや山岳関係の技術に限らず、全国の、特に地方の農山漁村において文化全般に渡って重要な役割を果たした。

 その祖とされる役行者の手下として使役された前鬼・後鬼という夫婦の鬼がいた。夫婦であれば子もいただろう。その子孫の娘を想像して。図像的には手足の指が一本少ないという。

 

 ↓ 463 「シナド」

 2021.6.10-16 18×21㎝ 和紙に膠、油彩転写・水彩・ペン・インク

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 シナド(シナツヒコ志那都比古神、シナトベ/級長戸命・・・)とは日本書紀に出てくる風の神。また、中部から北日本にかけて「風の(又)三郎」という風神もおり、会津にはその名を冠した山(風の三郎が祀られた祠がある)もある。

 意図して風の神を描こうとしたわけではなく、線の自律的な展開のままに描いていって、出来上がった絵から思いついたタイトル。絵としては描き過ぎだと思っていたが、タイトルを「シナド」としてみると、まあこれはこれでといったところか。

 

 

 ↓ 465 「追われるシナド」

 2021.6.14-16 16.8×12.8㎝ 和紙にサイジング、水彩・ペン・インク

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 前作を描き進めるうちに、「風の(又)三郎」的な風の神を描いてみたくなった。必ずしも宮沢賢治の(完成形)「風の又三郎」をイメージしたわけではないが、その先駆形(?)のもう一つの「異稿風の又三郎」を思い出した。

 なんとなく、少し気に入っている作品である。

 

 

 ↓ 488 「道筋と一対の門‐民俗学的絵画」

 2021.7.24-28 21×15㎝ 水彩紙に水彩・ペン・インク 

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 「民俗学的絵画」とは絵のタイトルらしからぬ副題だが、直前に読んだ『土葬の村』(高橋繁行 20 21年 講談社現代新書)の内容にけっこうインスパイアされたというか、参照している。もちろん自由な解釈によってだが、そもそも葬送儀礼を絵のモチーフにするというのも、絵としては珍しいだろう。ちなみに同書は、私が読んだ今年のベスト3に入る興味深い内容。

 

(記・2021.12.21 FB投稿:2021.12.31)