艸砦庵だより

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石仏探訪‐32 「荷渡地蔵尊‐神仏その他習合のタイムカプセル(山形便り-補遺2)」

 山形の石仏探訪から三カ月たったが、未提出の宿題がいくつかある。「見た」というだけで済ましても構わないのだが、それでは研究・考察好きの私としては面白くない。「これだけは河村に見せたい」と連れて行かれた東根市の「荷渡地蔵尊」もその一つ。

 そこは、かつて存在した、最上川の「藻が湖」と呼ばれた大きな沼地に沿った山際の、集落同士の中間地点=交通の要衝、つまり境(=関)であったところ。

 「荷渡地蔵尊」と刻まれた寺社号塔と鳥居。すでにこの段階で当たり前のように神仏習合である。解説板ではごく一部しかわからない。奥には三つの小堂が並ぶ。

 

 ↓ 入口。「地蔵尊」+「鳥居」=神仏習合

 後ろは山、反対側は道路を隔てて昔「藻が湖」、今は圃場整備済みの水田が広がる。

 正面が荷渡地蔵尊。写っていないが、左に二つ御堂がある。右の建物は詰所。

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 ↓ 解説板

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 正面の小堂の外壁には、奉納され結ばれた無数の穴開き石。中に入れば、布地が着せられて像容がよくわからないが、あちこちが欠けた丸彫り地蔵菩薩と見えなくもない像が祀られている。これが「荷渡地蔵」だろう。奥には「幸神社」の札が添えられた小祠。猿田彦を祀るという。それらの置かれたこの御堂が荷渡地蔵尊のメイン。つまりここには猿田彦地蔵菩薩の、本来異なる系統の二つの神仏が併存しているのだ。

 

 

 ↓ 荷渡地蔵尊。注連縄もあるし、見た目は神社。

 外壁には奉塞物の無数の穴開き石。下にもたくさん落ちている。穴開き石を奉納するのは女性だろう。

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 ↓ 赤いべべ着た荷渡地蔵。

 首の欠けた地蔵に見えなくもないが、旅人の身としては、おべべを外して確認するわけにもいかない。毎月24日が「お地蔵の日」とされているそうなので地元の人が集まるのかもしれない。その時に確認させてもらえればよいのだが。

 奥の「幸神社」の祠の中は何が入っているのか。

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 「幸神社」は「さちがみしゃ」と読むのだろうか。「幸」の本来の音は「さい・さえ」で、「塞(さい・さえ)の神」に幸の字を当てたもの。「道祖‐土(さい‐ど)」となる場合もある。私の住む隣町にも幸神神社があり、幸神(さちがみ)という地名がある。現状がどうであれ、神仏分離令以前の本来の祭神・御神体は、塞の神であるところの自然石その他(何もない場合もある)である。

 

 左の葺屋には「山神」と刻まれた大きな自然石。文久元年/1861年。明治に近く、荷渡地蔵より新しい。「塞の神道祖神」という、民間の素朴な習合変容と、その次の幕末の国学者神道家主導による「道祖神猿田彦→山神」という「神の書き換え・重ね合わせ」の流れからすれば、猿田彦はこちらかと思うが、詳しい名称推移の経緯はわからない。少なくともここには二つの「塞の神‐幸神社‐道祖神猿田彦=山神」があるということだ。

 手前には木彫り石彫りの大小の男根がいくつか奉納されている。最初の御堂の外壁には、束ねられた無数の穴開き石。むろんそれらは、山の神‐男根=金精に対応する、穴開き石=姫石=陰石=女性性器のシンボルであり、基層信仰としての子孫繁栄、子宝授かりを願う性信仰の現れである。

 

 

 ↓ 鉄板とベニヤ板と黄色のペンキで造られた山神社。これはこれで。

 基礎には「■■■ 太■■ 三久良 庄市 市助」とあるが、手前のものが邪魔してよく読み取れない。他に刻字があるかどうか、確認できない。

 左右にあるのは大きな陽根一対。言いうまでもなく陽根信仰は世界中で、基層的であり普遍的な信仰である。

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 ↓ 左下の奉塞物。

 木製、石製の陽根が五本。

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 ↓ 荷渡地蔵尊の外壁に吊るされた無数の穴開き石。

 穴開き石や丸石などを奉納するという風習は全国どこにでもあるが、ここまで数が多いと、自然に穴の開いた石を拾ってくるというよりも、人工的に穴を開けたのではないかと思われる。奉納するのは女性だと思うが、どうだろう。

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 さらにその左の御堂には「荷渡地蔵尊御詠歌」の額を挟んで、左に依り代?御神体?風の鏡の前に、自然石か風化剥落した地蔵か見極めのつかない塊が官女風の着物を着せられている。最初は自然石のように見え、直感的には自然石道祖神かと思ったが、今見るとたぶん違う。正体不明。右隣には稲荷社が並んでいる。

 この御堂については扁額もなく、解説板でも触れられておらず、正体はわからないが、弊社的な存在だろう。

 

 

 ↓ 名前不詳の御堂をシェアしている二つの御社。

 右は稲荷だが、左は荷渡地蔵尊と共通する地蔵尊の残欠(?)。その官女風のおべべの下にはどんな形の像(?)があるのか。

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 以下、少し違う観点から記してみる。

全国的に川や湖沼のほとり、湧水地などに、水神としての水分(みまくり)神社が見られる。東北地方には、同系統の御渡・三渡・見渡(みわたり)神社、二渡・荷渡・庭渡(にわたり)神社がある。山形県の内陸部では荷渡と書くのが多く、「にわたり様」「おにわたり様」とも呼ぶこともあり、そのため「鬼渡」となっているところもある。

 そうしたほとんどの神社が、本来の水神として以外に、「咳の神」「百日咳を防ぐ神」として流行神としての信仰を集めた時代がある。百日咳の音が「とりしわぶき(しわぶきとは咳のこと)」と呼ばれ、鶏の鳴き声に似ているということから来たそうだ。また「にわとり」と「にわたり」の音の近しさからであろう、「にわとり権現」と呼ばれるところもあるそうだ。

 そしてその「咳(せき)」は、古くからの防ぎ(ふせぎ)=塞(ふせぎ=さえぎ・せぎ/さい・さえ)の神との関係をベースに、村境を意味する「関(せき)」と容易に結びつく。つまり、水に関わる場所性の上に存在した水神としての「みまくり」は、「みわたり」→「にわたり」と音律変化し、「にわとり」をへて、新たな意味(御利益)を、「咳(せき)」⇔「咳・関・防ぎ・塞ぎ(せき/せぎ)」という音の連鎖の上に一時的に確立したのである。

 塞の神は後にふせぎの神という性格に加え、道祖神として道の神・交通の神という性格をつけ加えていったが、古くから持っていた子孫繁栄をもたらす性神=金精=性器崇拝の性格も、変わらず保ち続けた。その意味の一部は、宝珠錫杖姿の地蔵菩薩丸彫立像(延命地蔵)の屹立する形態に受け継がれていった。それゆえに「荷渡‐地蔵」はそれらの全ての意味合い、要素を引き受け、山の神、塞の神といった先行する信仰と共存し、その意味を共有しつつ、今日に至っているのである。

 

 この東根の荷渡地蔵尊という場の三つの御堂の併存には、上述した全ての要素、「塞ノ神=幸神=道祖神」⇒「山の神・地蔵」へと変換された、あるいは重ね合わせられていったプロセスが、並列・共存している。つまり、変容するものとしての民間信仰のありようが、変容それ自体をそのまま体現しつつ保存された、タイムカプセルのような場となっているのである。そして、それは今現在も、生きた信仰の場として機能している。

 

 結論1:「荷渡地蔵尊」は現在「にわたし地蔵尊」と読まれているようで、「荷物を受け渡し運搬の安全を祈った」と説明されているが、それは後代の解釈である。既述したように水神として発生した神が、塞の神道祖神・地蔵等と習合した複合的信仰態なのである。

 

結論2:要するに、民間信仰の当事者である庶民にとっては、仏教であろうが、神道であろうが、民間信仰であろうが、そんなものは様式にしかすぎないのである。

大事なのは、子宝に恵まれ、子孫繁栄することであり、疫病が流行らず、百日咳に罹らないことであり、「天地清明・風雨和順・天下泰平・二世安楽」なのである。仏教も神道も器にしかすぎない。御利益があれば、幸せになれるのであれば、一切合切こき交ぜて手を合わすのである。

(記・2022.1.13 FB投稿:2022.1.22)